Ⅱ_ⅴ
| 朝夕の冷え込みが一段と厳しく感じられる季節を迎えても、霧子に退院の朗報は届かなかった。 国立病院で精密検査を受けた結果、心機能そのものには何ら異常はなく、精神面での影響が大きいとの診断を下された。 そこでまた、薬が変わった。 セラピストによる治療も始まり、快方へ向かう妹を見るのは嬉しい限りだが、自分の不用意な一言がここまで波紋を広げていたのかと、再認識させられる。 家族の協力が必要不可欠です、セラピストは言う。 もちろん、霧子の為なら自分の何を差し置いても全力を尽くすつもりだ。 けれど、霧子の病の原因が、自分にあるとしたら、僕はどうすればいい？ 会わずにいた方が、霧子の為になるとしたら…… 「なあ見神、今日って空いてるか？」 突然の質問に、真物ははっと我に返った。感情の抜けた眼差しで、目の前に立った稲葉を見つめる。 「え…？」 「帰りピーダイ寄ろうぜって誘われたんだけど、今日は人数少ないから一緒にどうかと思ってさ。オレ入れて三人。見神来んなら四人だけど、どうよ？」 背後の男女を親指で示し、稲葉は強制にならないよう注意して聞いた。 何を思いつめているのかは解らないが、気分転換も時には必要だろうと思って声をかけたのだ。 真物は指差す方を見やった。同じクラスの人間だが、ほとんど面識がなかった。名前も浮かんでこない。ただ、よく稲葉とお喋りしているメンバーには、間違いないが。 「……今日は、ごめん」 真物は心底済まなそうに顔を歪ませた。 「いいって。じゃあまた、今度な」 その『今度』もきっと、言葉を濁して断る事になるだろう。潔く立ち去る稲葉の後ろ姿に、心の中で何度も謝罪の言葉を繰り返す。 やりきれない気持ちが心の中でぐるぐると渦巻く…やがて真物は席を立った。 昨日仕上がった六枚目の絵を鞄につめ教室を出る。 今まで持っていったどの絵も、霧子は心から喜んでくれた。一つ一つを丁寧にセロハンで包み、素っ気無い白の壁に飾る。 霧子の優しさは、神取のもたらす恐怖に耐えられるだけの力を与えてくれる。これでもし、霧子に会えなくなってしまったら…… 霧子の本心は分からない。もしかしたら、心のどこかで自分を憎んでいるかもしれない。 ――ああ、また…そこへゆくのか 駅までの道すがら、そればかりを考えていた。 （もし、僕を憎んでいるとしたら…もしそうなら、僕が……） 足を止め、車道に目を向ける。 行き交う車はそう多くない。 向こうの大通りは国道だ。 ひっきりなしに車が行き交う。 あそこなら… 真物の目はしっかり見開かれていた。 現実から逃げてもいない。 本気で、考えていた。 死を。 ――そんな事考えるな。世の中の全てが狂っても、霧子が僕を憎むなんて事にはならない！ （霧子の為を思えば思うほど……どうすればいいのか解らなくなる） 思いとどまり、真物は再び歩き出した。 その時一台の黒い車が、目にとまった。 道路脇に停められた車の傍には、黒い服の男。 一挙一動をも見逃さぬ目付きが、鋭く突き刺さる。 距離はほんの数メートルと離れていない。 何故今まで気付かなかったのか―― 「妹御の見舞いか？」 黒い服の男…神取が、口を開いた。 静かな問いかけに、真物は喉を引き攣らせながら頷いた。目を見ないよう半ば無意識によそへ逸らす。 「そうか。少し時間が出来てね。よければ、私が病院まで送っていこう」 「……ありがとうございます」 真物は目を閉じ…まるで銃を突き付けられた哀れな人質のように怯えきった顔で、言った。 お前になど会いたくなかった…声なき悲痛な叫びを聞き取り、神取は心の中で嘲笑った。 （そうだろうな） 唯一の心の拠り所に会ったその後、会えるからこそ惨めに犯される自分を、今から思い知らされねばならないなんて、意識しなければいけないなんて、さぞ堪え難い事だろう。 『こいつ、まぁだ気付いてねぇんだな。こりゃ気付いた時がみものだな。一体どんな絶望を見せてくれるやら…妹が自分をじゃなくて、自分が妹を憎んでるって解ったらよぉ！』 我慢出来ず笑い転げる「彼」の気狂いじみた声が、頭の奥の方でわんわんと響いた。 霧子の前に立った時、真物はどんな絶望を味わうのだろう。自分と、同じ物だろうか。 （もしそうなら……） 浮かんだ選択肢の片方を打ち消し、神取は病院に向かって車を走らせた。 （私の望みは一つでいい。それ以外に道はない。ありえない） ――霧子の事を一番に考えれば、憎しみが生まれるなんて事にはならないはず…せめて霧子といる時だけは、自分を解放してほしい。何者にも拘束されてはいないと、感じてほしい。 願うのはそれだけ 願うだけ無駄だった。真物は気付いてしまったのだ。よりにもよって、霧子といる時に。彼女を重荷だと感じている、今はまだ微少な本心に。極些細でありながら、目の届かない場所に封じるにはあまりに濃すぎて、とうとう目に触れてしまった。 絶望しないでほしい。 霧子を憎まないでほしい。 何より自分に殺意を向けないでほしい。 どうかこの願いだけでも……叶ってほしい |