妄想02_2

　大分高くなった青空を束の間見上げ、真物は屋上に足を踏み出した。
　昼の休みには幾人かの生徒が、あちこちに散らばり食事をしたりバレーボールをしたりと思い思いに過ごしている。
　真物はいつからか、教室の中にいるよりも、より開放感を味わえる屋上に出るようになった。
　雨の日以外は、ほとんどここで昼食を摂っている。
　ここも決して人の少ない方ではないが、直に風と太陽が感じられて、不思議と安心出来た。

「まだまだ暑いなぁ」

　日向に腰を下ろしてすぐに、稲葉がやってきてそう声をかけた。
　真物は顔を上げて相手の顔を真っ直ぐ捕えると、いらぬ警戒心を解いてかすかに口元を綻ばせた。

「今日は風があるだけ、まだましだけどね」

　それでも、稲葉がやや間を空けて腰を下ろすまで、心のどこかしらが強張っていた。
　彼の被ったニットキャップ、その生き生きとしたひまわりの黄色が目に眩しい。
　唯一残ってくれた彼の、さり気ない優しささえも心の底では疑っている自分が、信じられない。
　一生このままかもしれない。

「かにパン、半分やるよ」

　袋を差し出して、稲葉はにっと笑った。

「あ、うん。ありがとう」

　目を伏せたまま手を伸ばす。これでも、相手に嫌な思いをさせまいと精一杯努力しているのだと、自分自身に言い訳する。
　ひと口かじった後、稲葉は聞いた。

「最近は、どんなの描いてんだ？」

　久しぶりの質問に、真物は正直に答えた。

「昨日…妹に頼まれた海の絵を、少し」

　声の調子が落ちないよう気を付けながら話す。
　以前よりも大分すんなりと言葉が出せるようになったのは、ひとえに稲葉のお陰だ。友人というには少し遠い気がするが。奇妙な対人関係が成り立っていた。
　稲葉としては、相手の口から直接聞かされたわけではないが、真物が、大勢の中で過ごすのを苦痛だと感じているとそれとなく知ってからは、なるべくその状況にならないよう気遣ってきた。
　いろんな人間がいて、いろんな感じ方があるのだから、自分に都合の良いやり方を通すだけの人間にはなりたくないと、常々思っていた。
　今それが充分実行出来ているか怪しいところだが、真物の方から離れていかないところをみると、彼とはまだ接点を持ち続けていけるように思える。
　実のところ真物とは直接の友人関係ではなかったので、深い部分まで知っているとは言い難いが、彼の絵はよく知っていた。時々美術室で見かけていたからだ。
　彼の絵は何というか…自分とよく似ているように思えた。手法や色の使い方などは全く異なるが、表現しようとする世界観とでもいえばいいのだろうか、そこには多くの共通点があるように思うのだ。
　それもあって、常々話がしたいと願っていた。
　機会は、彼の性格ががらりと変わってしまった後に訪れたが、まるで会話が成立しないというわけではないし、こちらが彼のルールを守りさえすれば、周りの人間が好き勝手言ってるような嫌な部分に触れる事はなかった。
　むしろ、見神真物という人間が好きになった。
　一生にそう何度もある出逢いではない、自分でも、それは理解出来た。
　これは凄い事だと思う。

「へえ、海の絵かぁ……」

　余計な事は一切口にせず、自分の描く絵がどんなものか、想像を膨らませ空を見つめる稲葉にちらりと目を向け、真物は、彼の飾らない性格に感謝した。
　けれど、本音を言えば、あまり近付いて欲しくなかった。話をする内にきっと分かってしまうだろう。自分という人間が、どれほど醜くて異常なのかを。

（あんな…顔のない人の群れを描くなんて……）

　稲葉の飾り気のない笑顔や人懐こさに触れると、とても穏やかな気持ちになる。それは事実だ。だからこそ思う。知らなければ、それを失う空虚感も知らずにいられたのに。離れてゆく恐怖も味わわずに済んだのに。
　でももう、自分の方から離れる事は出来なかった。