Ⅱ_ⅲ
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「窓から外を見ているとね、ここが病院だって事忘れちゃうの。リゾートホテルにいるみたいな気持ちっていうのかな」 窓際に立つ霧子の肩越しに外を眺めると、その気持ちが何となく分かるような気がした。 転院して一週間が経つ。 見舞いに訪れた真物は、何か不自由な点はないかと霧子に尋ねた。 特にないよと霧子は答え、続けて、先の言葉を口にした。 リゾートホテルにいるみたいな気持ち 正にその通りかもしれない。病室から海が臨めるのだから。 しばらく窓辺で風に髪を遊ばせていた霧子は、微かな潮風をいっぱいに吸い込んで言葉を続けた。 「看護婦さんもみんな優しいしお喋りとか面白いし、食事も割と豪華なんだよ」 「そう、良かった」 清潔で優しい色をした病室。けれど白。 「それからね、小さいけど本屋さんもあるし、食堂があって、それとは別に喫茶店もあるしね、美容室もあるんだよ！ ちらっと覗いてみたんだけど、すっごくお洒落な感じなの。今度行ってみようかな。いい？」 「ああ、いいよ」 白を気取るくせに、陰湿さを隠し切れない薬品の臭いの染み付いた壁。 「ここなら、病気もすぐ治っちゃうよ。お兄ちゃんの方はどう？ 部屋とか散らかしてない？」 「いやあ…うん。霧子が帰ってきたら、手伝ってもらおうかな……」 「もう、お兄ちゃんはしょうがないなあ」 病人達の苦しさ辛さが塗り込められた天井のぼやけた白。そんな中に置き去りにされた霧子の、屈託のない笑顔は小憎らしいまでに無垢な存在だった。まだ色は失われていない。まだ明るいままだ。 失いたくない。 不必要な色は見せたくない。 ここにいるからって、霧子までが色を失ってほしくない。その為に出来る事を、出来る限りそれ以上しようと思う。 いや、しなくてはいけない。 「海、綺麗だね……」 もう長く伸ばす事はせず、耳がのぞくくらいで不揃いに切ったボブに落ち着いた髪を手ですきながら、霧子はうっとりと目を細めた。 「ああ、本当に」 では、何をすればいい？ 「ねえ、あのねお兄ちゃん……」 不安そうに振り向く霧子の、睫毛の合間から覗く優しい眼差しが、何事か期待したように小刻みに揺れ動いている。 「どうした？」 霧子の視線を優しく受け止め、次の言葉を待つ。 「あの……海の絵を、描いて――欲しいの」 窓の外に手を伸ばし、どこまでも広がる水平線を指の先でなぞる。 少し傾きはじめた太陽の強烈な光を受けて、表層が眩しく輝いている。 多くの命を生み出し、飲み込んだ蒼い海。 応えようとする意志と、停止したがる思考がぶつかり合い、真物は同じ表情のまま凍り付いた。 「忙しい……？」 言葉が途切れたのをそう推測した霧子は、半ば諦めの響きでそう聞いた。 「ううん、大丈夫だよ。気に入るか分からないけど、近い内に描いてくるから」 答えに顔を綻ばせる霧子に、真物はしっかりと頷いた。 忙しいとか、そういう事じゃないんだ。 ずっと描く事をやめていたから、描けるかどうか解らないんだ。 解らないんだ。 霧子の望みを叶えられるかどうか。 |
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帰り道、画材店で買ったスケッチブックを机の上に置き、どさりと椅子に座る。 そして真物は、途方に暮れた顔で仰のいた。 このマンションに移り住む時捨てた物の中に、一切のスケッチブックも含まれていた。それまでは一番の宝物だったのに、何の未練も感じず…捨ててしまった。 幼稚園の頃の落書きや、カレンダーの裏に走り書きした思い付きの風景画、機会があったら描こうと思っていたイメージの箇条書きも、全部取っておいたのに。 （もう二度と、描きたい気持ちになどならないと……） そう思った事をひどく後悔する。 どこか知らない場所で、燃えて灰になってしまった自分の魂の片割れを思うと、たまらなく胸が痛んだ。 ため息を一つつき、袋から取り出した真新しいスケッチブックを開く。 「海の、絵……」 熱を測るように額を押さえ、気だるく目を閉じる。 瞼の裏に暗闇が降り、目を凝らすと、病室の窓から見た蒼い海が広がってゆく。更に目を凝らすと、切り抜かれた一部だった風景が本物の奥行きをともなって見え始めた。 風が吹き付ける。 潮の香りと――太陽の熱。 彼方で溶け合う海の蒼と空の青。 少しずつ少しずつ、描きたい衝動が心に降り積もってゆく。 浮かんだ光景が去ってしまわないよう慎重に目を開け、真物は鉛筆を手にした。 大丈夫、前と同じだ。 いつも描いていたとおり描ける。 これなら――だが。 いつまで経ってもスケッチブックは白のままだった。 線の一本も引かれず真っ白のまま。 描けない。 こんなにはっきり見えているのに、描けない！ 焦りと、怒りが、かわるがわる湧き起こる。 気を落ち着かせる為に、真物は一旦鉛筆を置いた。 今まで毎日のように描いていたのに、ぱったり止めてしまったから感覚が掴めなくなっているだけだ、そう自分に言い聞かせる。 それならと、肩ならしのつもりで手近にあるものを書き写す事にした。 が、唐突に思い浮かんだ日常のワンシーンに気を取られ、半ば無意識にそちらを描き始める。 少し描いて、気分が悪くなった。 昼休み、教室に残った何人かがあちこちでお喋りしている風景。毎日何気なく目にしているありふれた一場面。 なんだこれ、と思う。 向き合い、輪になり、身振り手振りで感情を表しお喋りしている誰も彼も、顔がない、表情がない。 けれど手が止まらない。 机、床、天井、黒板、合間に存在する何人かの生徒。 エルミンの校章を付けて、教室でお喋りしている。 なのに表情が描けない。 鉛筆を寝かせて制服のグレーを軽く塗り潰す。 その中に一人、黒い服を着た大人が混じっている。 こんなのは。 唯一人だけ、真正面を向いた人物。 黒い服。 胸ポケットから垂れる細い鎖。 手が止まらない。 鎖の細かさを忠実に再現し、服の黒を隅々まで塗り潰す。 吐き気がした。 描きたくない 描きたくない 描きたくない―― 「うわああぁぁぁぁ！」 絶叫とともに机の上の物を腕でなぎ払う。 心の片隅で死に掛けていた。 スケッチブックと鉛筆が床に散らばり、後は無音。 ただ…激昂する寸前で踏みとどまっている荒れた息遣いだけが、沈黙の合間を縫ってかすれた音を立てている。 あとは無音。 逃げたい思いで一杯になった。 ばらばらに散らばった、二度と元に戻せない幸いの記憶をかき集め、悲しみに暮れる。 泣いても何も変わらないのに涙を流すなんて愚かな行為だ。気持ちが落ち着くったって一時的なものだし。仮に破壊衝動に任せても、根本的な解決にはならない。 床に散乱するスケッチブックにのろのろと手を伸ばし、真物は途方に暮れた眼差しで白い紙面を眺めた。 生気を失った顔はなお白く、青ざめた唇がいっそ鮮やかに夕闇に浮かび上がる。 何故見えないのだろう。 ほんの少し前まで、ずっと笑顔に囲まれて過ごしていたはずなのに。 遥か昔の話ではないのに。 天を仰ぎ見て、真物は瞼を閉じた。 吐息が沈黙を震わせ、冷たい空気を漂う。 呟いたのは―― ――霧子の為に 真物は、椅子に座りもう一度白紙と向かい合った。 かつてはここに、描きたいものが自然と浮かんで見えた。自分はそれをなぞり、再現させるだけ。 本当に見えたのだ。教会も、古城も、海も山も。 今は……？ 真物は鉛筆を手に取った。 ――怒りは、いらない。全部俺が背負ってやるから、全部俺に寄越せ。そして僕には安らぎを。安らぎだけを。 |