妄想02_2

「お兄ちゃんに見せたいものがあるの。中庭まで連れていって」

　見舞いに訪れるのを待ちかねていたように、真物が現われた途端霧子はそうせがんだ。
　いたずらっ子のように目を輝かせ、笑いたいのを我慢した表情の霧子に困った笑顔で頷き、真物は松葉杖を積んだ車椅子に彼女を乗せると中庭に繰り出した。
　様々な花が咲き乱れる花壇と、小さな噴水を設えた中庭には、五月晴れの空から真っ白な陽光が十二分に降り注ぎ、日光浴を楽しむ患者達にささやかな喜び与えていた。
　つつじの前のベンチ近くで霧子は一旦振り返り、何か言いたいのをぐっと飲み込んだ意味ありげな笑みを零した。
　びっくりするくらい嬉しい事を打ち明ける時、彼女はよくこんな顔をする。
　前に、この笑顔を見たのはいつだったか…思い出せないほど昔のような気がする。
　だから真物は、霧子のこの笑顔が見られただけで充分嬉しかった。

「ここで止めて」

　重い頭で懸命に太陽を振り仰ぐ背の高いひまわりの前で、霧子は言った。
　真物は松葉杖を片手に、霧子の行動を見守った。

「ひまわりと背比べしてみるね」

　そう言って霧子は前屈みになると、両足を踏ん張ってゆっくり立ち上がった。
「霧子……！」
「車椅子押さえてて」

　慌てて手を差し伸べようとする真物にそう頼み、それから霧子は、支えにしていた車椅子からそろそろと手を離した。
　重心が定まらないのか、霧子は両手を広げてバランスを保とうとする。

「………」

　すぐ傍で、真物ははらはらしながら見ていた。

「大丈夫」

　自分自身に言い聞かせ、霧子は一歩足を踏み出した。
　踵から爪先、踵から爪先、
　重心を移動させ、霧子は一歩一歩ひまわりに近付いていった。
　真物はまだ車椅子を、それこそ全身に力を込めて押さえていた。やがてはっと気が付いて、それでも力んだまま、霧子の『見せたいもの』を瞬きもせず見つめていた。
　霧子はようやく花壇の縁石までたどり着いた、が、それからが大変だった。足を乗せようと、何度も躊躇しては足踏みを繰り返した。気持ちばかりが先走ってしまい、だんだん前屈みになっていく。
　何度目かの躊躇の後、霧子は一呼吸置いてそれから足を上げた。
　縁石を踏みしめ、踵から爪先。
　ぐん、とひまわりの太い茎が眼前に迫る。
　すっかり息が弾んでいた。
　呼吸を整えようと胸いっぱいに空気を吸い込んで、霧子は肩を上下させひまわりを見上げた。

「ひまわりの方がおっきいね」

　ひまわりに目を向けたまま肩越しに振り返り、霧子は笑った。
　ひまわりの黄色い花びらが、丁度霧子の頭に乗っかって、冠のように見える。
　それはまるで、リハビリに励んだ成果を見事兄に示せたご褒美のようだった。
　真物は――嬉しかった。とてもとても嬉しかった。涙が零れそうになるほど。この涙は、許されるのだろうか。

「でもほんのちょっとだから、もう少しすれば私の方が大きくなるはずよね」

　頭のてっぺんに手を乗せて、ひまわりとの差を測る。
　そんな霧子の様子を眺めながら、真物はゆっくりと傍に歩み寄った。

「よく頑張ったね。全然気が付かなかったよ」
「えへへ。看護婦さんとかも誉めてくれたんだ。だって、早く元通り歩けるようになって、お兄ちゃんびっくりさせたかったし」

　愛くるしい笑顔。
　ここ数ヶ月の間に、霧子の身体はみるみる回復していった。縫わずに済んだ頬と顎の傷はすっかりなくなり、痣も残っていない。
　一番ひどかった左足の複雑骨折も、こうして歩けるまでに回復し、後遺症が心配された頭部打撲も、今のところ何の異常も現れていない。
　ただ、自慢だった長い黒髪をすっかり剃られてしまい、大分伸びたとはいえまだ耳も隠れない長さなのは、見ていてちょっとつらい。
　でも、霧子は一度も帽子をせがんだ事はなかった。
　全く気にしていない風を装う霧子の優しさに感謝する。

「今の調子で頑張れば、あともうひと月もすれば退院出来るって、先生が言ってくれたの」
「本当！　良かった、良かったね霧子」

　思いがけない朗報に、真物は目を丸くした。声に出しきれないほどの喜びが湧いてくる。

「お兄ちゃんのお陰だよ。感謝してもしきれないくらい。本当にありがとう」
「違うよ、霧子が頑張ったからさ」
「うん、それはあるね。ホントに頑張ったもん」

　得意げに鼻を上げた霧子が、ふふっと笑う。
　つられて真物も笑った。

「さあ、そろそろ病室に戻ろうか」

　言って真物は手を差し伸べた。

「うん。あ、ねぇ、途中で売店に寄って、いつものリンゴジュース買っていい？」

　真物の手を支えに霧子は車椅子に座り、振り返ってそう聞いた。

「うん。あ、うーん……」

　頷いてすぐに声を上げ、真物は何やら考え込んだ。

「どうしたの？」

　不安そうに霧子は振り返った。炭酸やコーヒーでなければ問題ない、と言われていたはずなのに。
　真物にしてみれば、ささやかなりとも何かお祝いがしたかったのだ。だのに売店のパックのリンゴジュースでは、寂しすぎやしまいか。かといって、今すぐ何か思い付くわけでもなし、食事制限はまだあることだし……
　何かないか、何か、何か、何か――
　真物は焦って左右に目をやった。
　答えは花壇に点在していたが、気付くほど余裕がなかった。
　自己嫌悪の波が足元に打ち寄せる前に、真物は唐突に思い付いた。

「あっ！」
「なに？」

　突然、何か閃いたように叫んだ真物に、霧子は驚いて聞き返した。

「何でもない、ちょっとな」

　意味ありげな兄の笑顔に、霧子は『何かある』と感づいた。兄は昔から、隠し事は余り上手ではない。すぐ顔に出てしまうのだ。でも、これで嫌な思いをした事は今まで一度もない。だから今回もきっと、驚くほど素敵な隠し事に違いない。
　軽やかに歩き出した真物に任せ、霧子はその瞬間を待った。

「！…」

　思いもよらぬ贈り物に、霧子は言葉が出なかった。

「気に…入らない？」

　両手で抱えるほどの豪華な花束を差し出したまま、真物は恐る恐る尋ねた。
　売店で、霧子の希望通りリンゴジュースを買い病室に戻った後、真物は「すぐ戻るから」と言って急いで病院を飛び出した。
　すぐ近くに花屋があったのを思い出し、駆け付けた真物は、しどろもどろにどういった目的で贈るのかを店員に説明した。
　ほとんどカタコトの真物の言葉を要領よく拾い集め、店員は妹思いの優しい兄にたくさんのおまけつきで花束を渡してくれた。
　うろ覚えだが、霧子の好きな花も混じっているはず。

「すごく嬉しい…気に入らないわけない……」

　嬉し泣きに唇を歪ませ、霧子は零れた涙を手の甲で拭った。
　笑って、ごまかそうとしたのに、どうにもこらえきれなくて、とうとう霧子は声を上げて泣き出した。
　寂しかった。
　兄には言っていないけれど、毎日がとても寂しかった。だって、入院している他の子達には毎日お父さんやお母さんがお見舞いに来てくれているのに、私の所には来てくれなくて（だってもう死んでしまっているから）けれどそれは言ってはいけない事だから我慢するしかなくて…寂しくてたまらなかった。
　兄もきっと同じくつらいはずなのに、いつも私の事を一番に考えていてくれる。
　自分だけ甘えているのだと思うと、情けなくて泣かずにいられなかった。

「泣くなよ、な？　もうすぐ退院出来るんだから。それともどこか痛むのか？」

　おろおろしながら真物は聞いた。
　霧子は花束に顔を埋め、小さく首を振った。

「違う…大丈夫だからっ……」
「我慢しなくていいからな。僕じゃ頼りないけど、絶対傍にいるから」

　こんなにもつらい思いをさせていたのだと、今更ながらに思い知る。慙愧の念に潰されてしまいそうだった。
　引き出しからタオルを取り出し、そっと手渡す。
　霧子は何度も頷きながら受け取ると、鼻をすすって顔を上げた。

「お、お花ありがとう…すごく…嬉しい…ホント、ホントに…ありがとう……」

　しゃくり上げながら、霧子は真っ赤な目を何度もタオルで拭った。
　早く泣き止んで、そして笑おう。
　これ以上迷惑かけたくない。
　汗ではりついた前髪を手ですいてやり、真物はいたわるように霧子の頭を優しく撫ぜた。
　ふと、いつだったか自分もこうして誰かに優しくされた記憶が脳裡を過ぎる。
　そこで無意識に、腕時計に目がいった。
　霧子の気が済むまで傍にいてやりたいと思っているくせに、時間を気にする自分に腹が立つ。

（何も今思い出す事ないのに）

　自分に向けて憎々しげに言い放つ。

「花、生けてくるから待ってて」
「ありがとう！」

　花瓶を片手に病室を出て行く真物に、霧子は笑顔で頷いた。
　洗面所で花瓶に水を入れながら、真物は何度も自分に言い聞かせる。

　霧子の前では、決して、何があろうと余計な心配はさせない、と。

　不必要な色を落とす為、濡れた手で目頭を拭う。