妄想02_1

　徐々に落ち着いてゆくにつれ、光景の断片が蘇ってくる。
　思い出したくもない記憶。
　束の間でも構わないから眠って忘れてしまいたかったが、極度の疲れに頭は逆に眠りを拒絶し、これでもかと真物を責め立てた。
　縋る思いでピアスに触れ、真物は目頭に力を込めた。
　式典の最中でなくて良かった。
　ホームルームの最中でなくて良かった。
　自己紹介の最中でなくて良かった。
　忘れよう…せめてそれでけりをつけようとする。

（何が……！　良いわけないじゃないかっ！）

　くっと息を吸い込み、頬をシーツに擦り付けるようにして顎を引く。
　治まったものと思っていた。
　条件反射的に周囲に神経を張り巡らせてしまう事があっても、一時期のように、人間であるなしに関わらず始終陰にびくびく怯える事は―全くではないが―なくなったと思っていた。
　そうではなかった。
　分かっていた、相手が自分をどのように受け止め、どのような感想を抱いていたか分かって、そしてそれを受け入れていたから、というだけの事であって、他人と相対する事、同じ空間に存在する事、視線に晒される事に対する恐怖感は拭い切れていなかったのだ。
　相手が自分をどう受け止めるか、どう反応するか。
　例え自分の想像通りであったとしても―それが一番苦痛だ―初対面の、それも大勢の他人と同じ空間に立つ事は、恐怖以外のなにものでもなかった。
　他人の目が自分に向く度に、一体何を見ているのだろう、どう映っているのだろう、もしやすべて筒抜けになって、何もかも知れてしまっているのではないか、自分がどれほど汚い人間なのかを…全て見透かされているような気分になる。
　夜毎の腐れた行為その気配その匂いが、身体のどこかに残っていて、それが他人の目を引き付けているのではないだろうか。
　そこまで過敏になってしまう事もままあった。
　式典の最中、何度も気が遠くなりかけた。
　意識が脇道に逸れたように、何のきっかけもなく全てが現実味を失ってしまうのだ。
　目ははっきり開いている。
　視野ぎりぎりが暗くなったり白くなったりしないし、壇上で延々喋る理事長の声も耳に届いているのに、不意に立ちっぱなしの足のだるさがぼうっと遠退いて、まるで夢でも、そう、正に夢を見ているかのように現実味が薄らいでゆくのだ。
　あんな感覚は始めてだった。
　それでもその時は辛うじてこらえた。
　我慢出来た。
　出来る事なら、今すぐにでも駆け出して、誰も侵入出来ない小さな部屋に篭ってしまいたかった。
　誰の目も届かない、一切の干渉を撥ね退ける事の出来る自分だけの部屋に。

（そんな場所、どこにもない……）

――あるよ、ここに来ればいい

　手で顔を覆い、泣きそうになる弱い自分を追い払おうとする。
　つらいも苦しいも全部感じなくして、泣く事を止めようと努めてきた。
　それでも、神取の与える苦痛には負けてしまう…それが嫌だった。
　そんな自分が嫌だった。
　弱みを見せる自分が。
　今も、静寂があまりにも穏やかに流れているから、久しく感じていなかった両親に対するあらゆる感情がむき出しになって、余りの激しさに泣いてしまいそうになる。

（泣いてもどうしようもないって解っているのに）

――そんな事ない。泣いたって、喚いたって構わない

　涙を流す代わりに、細く長い息を吐く。
　指先の冷たい感触はピアス。
　凝った作りの白金の輪は、父が選び母に贈ったもの。
　内側に、二人の愛情の深さを表す文字―兄妹に至る歴史―が刻まれている。
　二人は、自分達の結末がこんなものだと思ってもいなかっただろう。
　その後兄妹がどの道を歩く事になるのか、想像もしていなかっただろう。

（それともこれは、始めから決まっていた事なんだろうか……）

――そんなはずない！　決まってもいなければ、変えられない事でもない！

「！…」

　不意に、石鹸の清潔な香りが鼻孔をかすめた。
　家に帰り着いて手を洗った時は、思い出さなかったのに。

（嫌だ！　もう……！）

　真物は、眠りを邪魔する疲れきった思考を押し退けて、黒く濁った川の底へとダイブした。

　望んで否定して、また望んでやはり否定して…結局僕は濁った川の底を目指した。来たくないわけではない。出来るなら、一生ここに逃避しっぱなしでいたいくらいだ。僕の目を覆い隠し、決して顔を見せようとしない人物にもたれ、恐怖や苦痛を感じないここで……。

「でも、僕は、そうする自分を許したくないと……思っている」

　隣の人物が始めて口を開いた。その事に、僕は余り驚かなかった。自分にそっくりな声も、心を見透かされた事も、意外な事ではない。
　彼は…そう彼は、いつも翳から僕を見守り、励まし、慰めてくれる唯一の味方。
　いずれ話が出来ると思っていた僕は、早くも訪れた機会に感謝した。
　感情が堰を切って一気に溢れ出す。
　涙が溢れて、止まらない。

「大丈夫。我慢しなくていいんだ」

　隣に寄り添う彼が言う。
　顔を見せない為に、つらい現実から護るように、彼の手はいつも僕の瞼を覆っている。頭を抱くようにして、瞼を覆ってくれる。僕は彼のその手を掴み、駄々をこねる子供のように泣きじゃくった。

「いい、大丈夫だから」

　僕の額に頬を摺り寄せ、優しく撫ぜる。
　こんなにも、こんなにも我慢していた事を、激しく泣く事で訴える。
　一切の気遣いなく。
　他人の目にはひどく無様に映るだろう。
　自分で自分を慰めているのだから。

　なんて弱い人間……

　彼は、そんな僕の自虐心を見透かして、赤ん坊をあやすように身体をゆっくり左右に揺すった。

「誰だって、慰めてもらいたかったり、甘えたい時があるよ。誰にも頼れない時でも、せめて自分には優しくしたいよ。僕が我慢しても、俺はそうする」

　我慢するより先に、僕の欲しい言葉を口にした。
　無様でもいい。
　僕は、思いのどこかでこうやって甘えたがっていた事を素直に認めた。
　肩を震わせてしゃくり上げる。

「言いたい事があったら隠さず言えばいい。ここで言えなかったら、一生、引きずっていくしかなくなる」

　彼の言葉に僕は唇を噛んだ。
　全身におぞ気が走り、身震いしても拭い切れない。
　わななく唇で言葉を綴る。

「トイレで………」

　見えない傷を踏みにじると、寒気がするほどの嫌な音が響いた

「うん」

　彼は短く相槌を打って、先を促した。

「…トイレで吐いたんだ…帰る間際……人がたくさんいる所は…い、嫌で…それに――昨日の……事を、思い出して…訳が分からなくなって…それで――」
　涙ながらに訴える。

　心配してくれる人の声にも応えられず、逃げ出した

「昨日の事？」

　知っているはずの出来事を、あえて口に出して言えと強制する彼に、僕は愕然となった。

「………」

　しゃくり上げる息も一瞬、止まった。

「言わなきゃ駄目だ」
「嫌だ！」

　叫ぶ激しさで指に力を込める。短い爪が、彼の手に食い込む。

　泡立った石鹸ねっとりとした肉壁に包まれる指白濁した体液血と肉

「言え、全部言え！　昨日何をされたのか何を言われたのか全部！」

　言葉毎に強く揺すぶられ、僕は身を竦ませた。反抗心を一切奪い取られた――服従を叩き込まれたせいで、相手が誰であっても…味方であっても、命令口調には逆らえなかった。
　僕は、魂の芯に響くほどの苦痛に苛まれながら、彼の眼前に昨日の出来事の始終を並べ立てた。
　つまりは、神取にどんな風に犯されたかを語ったのだ。
　頭がおかしくなってしまいそうだった。
　心の底から嫌っている行為なのに、気が付けばいつのまにかそれに浸っている。
　それも所構わず。
　しかも今日はそれが一段とひどかった。昨日の行為が、余りにもケダモノじみていたから…トイレで吐いた。
　なのに、なのに頭から追い払う事が出来ない。

　苦しくてたまらない――

「そんなに苦しいなら、何故俺に寄越さない。いくらでも代わってやるのに。俺はその為にここにいるのに。何故そうしない。償いはもう十分すぎるほど――」
「……十分じゃない。まだ…足りない。足りやしないんだ」

　舌の付け根を圧迫されるような嘔吐感をこらえて、僕は言った。

「どうして？」
「霧子の苦しみは、こんなものじゃない。こんなんじゃ済まされない……女の子が、顔に傷を負って、どんなにショックだったか！　まだ歩くどころか、自分で起き上がる事も出来ないでいるのに！　霧子の身体だけじゃなくて、心まで傷付けておいて僕だけ……だから、でも……」

　最後は、唇が震えて声にならなかった。
　また、涙が溢れる。
　彼は僕の気が落ち着くまで一言も喋らず、ただゆっくりと頬で撫ぜてくれた。
　彼が無理にでも言わせてくれたおかげで、恐怖感は大分薄れた。恐々と記憶に触れてみても、事実だけが思い出され、度合いまでは浮かんでこない。
　僕は少しほっとした。
　同時に、かすかな眠気が忍び寄ってくる。

「誰にも邪魔させない。せめてこの場所では」

　慈しむように、彼は額に接吻して頬を寄せた。
　吐息よりもささやかな僕の問いかけに、彼は神聖な誓いで以って応える。

「ああ、絶対に」

　彼はこれを絶対に翻さない。

　僕は安心して――眠った。