逃げようとしている自分を、心のどこかでは理解していた。でもその時は、何もかも現実味が失われていて、探せばどこかに両親がいるものと信じていた。信じようとしていた。 　探してもどこにもいるはずがない。 　だって、たった今お骨になったのを、見届けてきたばかりなのだから。 　でも私はそんな現実から逃げたかった。 　逃げる私を追いかけてくる兄の声が憎く思えて、私は本当に逃げ出した。 　駆け出してから、謝らなければ、という思いが強く起こった。感情に任せて飛び出した私は足を止め、私の名を呼ぶ兄に応え振り返った。 　多分…それと同時だったと思う。不意に強い光を向けられ、私はびっくりしてそちらに目を向けた。 　車の急発進する音。 　瞬く間に迫る強烈な二つの光。 　足が竦んで動けない私。 　兄の絶叫。 　衝撃―― 　私の目は夜空をまっすぐ見つめ瞬きもせずにいた。それで、ああ、仰向けになっているんだなと解った。 　でも、なぜ？ 　思うように息が出来ない。身体中でひどく苦しがっていた。 　どうして？ 　急に遠くなった耳に、車の走り去る音が聞こえた。 　何が起こったの？ 　瞼が勝手にぴくぴくと動いて、それなのに目を動かす事が出来ない。目だけじゃない。首も手も、身体を起こす事すら出来ない。 　そうか、私…嘘―― 　車にはねられたんだ。 　きっとひどい怪我を負ったに違いない。 　死んでしまうかもしれない？　 　いやだ！ 　間違っている事に気付いたのに、お兄ちゃんに謝ってない。 　謝らなくちゃ 　謝らなくちゃ 　謝らなくちゃ……

真物は病室の入り口からそっと顔を覗かせ、遠目に霧子の様子をうかがった。 　どうやら、眠っているようだった。 　ロビーの売店で買ったジュースに目を落とす。持って帰ろうかと迷ったが、書き置きと一緒に置いていく事に決めた。 　鞄から筆入れとノートを取り出し、破り取ったノートの隅に鉛筆で短い手紙を書く。鞄はその場に置いて、足音を忍ばせベッドサイドに歩み寄った。 　薬の副作用で喉が渇いてしょうがないと、先週会った時霧子はそう零していた。 　まだ固形物は食べられないし、ジュースやヨーグルトなら差し支えないって言われても、一人じゃ買いに行く事も出来ないんだから…と困ったように笑っていた。 　ならば、次に来る時は何か買ってくるからと約束した。霧子はとても喜んで、来週の土曜日が待ち遠しい、と言った。 　霧子の喜ぶ顔を見るのは、自分にとっても嬉しい事だった。それだけに、少し残念に思えた。 　メモの上にジュースを置き、ちらりと霧子に目を向ける。 　目の包帯が取れて一週間が立つ。 　縫合跡も大分薄れて、もうしばらく経てばすっかり消えてしまうだろう。 　視力の方も回復して、細かい文字も支障なく読めるようになったと言っていた。 　ほっと、胸を撫で下ろすのに抵抗を感じたのは、やはり頬に残る擦過傷が目に付いたからだろう。 　顎にかけて広がる傷は、まだ大きなガーゼで覆われたままだ 　深い傷ではないので縫うほどではなく、完治すれば跡は残らないと担当医は言ってくれた。 　本当にそうだろうか、と真物は不安になった。 　唇の下辺りにも点在する傷跡は、でこぼこもなくなり元の皮膚と同じように戻ってきているが、痣のように赤黒く変色している。 　これで、本当に元に戻るのだろうか。 　真物は、心が重苦しく沈むのを感じていた。 　妹の寝顔をじっと見下ろし、心の中で今まで何度となく繰り返してきた祈りを捧げる。 　不意に、霧子が苦しそうに喘いだ。 　真物はどきっとして、霧子の様子を見守った。 　かすかに首を振って、唇の先で短い言葉を反芻する霧子。 　何を訴えようとしているのだろうか。

赤い光がひっきりなしに頭の上を過ぎる…救急車が来たのだ。 　苦しい、苦しい…苦しくて動けない…… 　私の顔を覗き込むようにたくさんの人間が周りを取り囲んだ。その中にはお兄ちゃんの顔もあったが、すぐに別の人間に輪の外に押し出され、見えなくなった。 　いやだ行かないで……謝らなくちゃ 　たくさんの手が差し伸べられ、私の身体を担架に乗せる。そしてそれは…そう酸素マスク、私は酸素マスクをされて救急車に運び込まれた。 　お兄ちゃんはどこ……早く謝らなくちゃ 　思うばかりで、声が全然出せない。息が出来ない。どこが痛いのかもわからないのに、苦しくてたまらない。 　いやだいやだいやだ死にたくない。 　死にたくない。 　お兄ちゃんに謝るまでは死にたくない。 　謝るまでは……！

「お兄ちゃん！」 　叫びと共に霧子は目を覚ました。 　真物は驚いて瞬き、霧子は、目を開いた途端視界に飛び込んだ兄を凝視した。 　二人の目が合う。 「どこか痛むのか？」 　霧子の様子を注意深く見守っていた真物は、すぐさまそう聞いた。いつでもナースコールを押せる体制を取る。 「………」 　しばらく強い目で真物を凝視―相手が誰か解っていないぼんやりとした目―した後、ようやく状況を飲み込んだ霧子は、ほっとして肩の力を抜いた。 「寝ちゃってたんだ……」 「夢でも見たのか？」 「うん……ううん、大丈夫」 　一瞬目を逸らし、霧子は首を振った。 　微笑む瞳の奥では、たった今体験したかのように夢の全容が生々しく過ぎっていたが、心配させたくない一心で霧子は強引に飲み込んだ。 「起きたら忘れちゃったし」 　唇の端を上げてにっこり笑おうとしたが、頬が引き攣って上手く笑えない。きっと兄の事だからこれが作り笑いだって解ってるだろうけど…本当に大丈夫だから、そんな顔をしないでほしい。 　霧子は、眼差しに願いを込めて真物をじっと見上げた。 　真物の顔から、幾分苦しさが薄れる。 　霧子の笑顔を消したくなかったからだ。 　真物は気持ちを切り替えてジュースのパックを差し出した。 「今買ってきたばかりだから、まだ冷えてるよ。飲むか？」 「リンゴジュース！」 　霧子は喜んで頷き、両手を上げた。 　やっとギプスが取れた両腕はすっかり痩せ細り、肘や手首の骨が目立って浮き出ていた。 　見るからに痛々しい有り様だ。 　大丈夫なのを主張するように、霧子はパックを受け取った。その途端、笑顔が凍り付く。 　リハビリは昨日から始まっていた。 　一ヶ月の間に、どれだけ腕の力が衰えたか知る為だけの運動にしかならなかった。 　簡単な作業一つ、まともにこなせないのだ。 （大丈夫大丈夫…頭では解っているんだから） 　自分に言い聞かせながら、霧子はジュースを飲むまでの作業―ストローを取り出し、さして、口をつける―に取り掛かった。 　始めてすぐに、霧子は悲しい嫌な気分になった。手の不自由な人というのは、いつもこんな気分を味わっているのだろうか。せめて指先の震えだけでも止まってほしい。動く事は動くけれど、みっともないほど手が震えている。 　悔しさのあまり泣きたくなった。いやだ、泣くもんか。 「………」 　霧子の必死な姿に、真物は手助けしそうになるのをぐっとこらえた。懸命に努力する霧子の目が、『出来るから』と無言で訴えている。 　葛藤が起こる。 　霧子の頑張りを無駄にしたくないという思いと、自分の責任をよそにやって都合の良い言い訳を振りかざしているだけだ、という思いとが、せめぎ合う。 　長い時間をかけて、ようやく霧子はリンゴジュースを口に含んだ。 　ささやかな、しかし大切な作業を終えて、霧子は誇らしげに笑みを浮かべた。 　つられて真物も笑ったが、心の底からは、笑えなかった。 　出来ると思っていただけに、自分自身の裏切りは相当堪えた。 　自分は罰を受けて当然の人間だ…という自覚が強まる。

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