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金曜日 夕刻

 

 

 

 

 

 壁際のベッドに腰を下ろし、真物はささやかに呼吸していた。空気の漂う音もしない沈黙が耳を圧迫し、心を縮み上がらせる。
 手のひらにのせたピアスを色褪せた瞳で見つめ、胸の内に広がってゆく悲しみに抗う。

 こんなはずではなかった――

 今日彼は、六日ぶりに学校へ行った。

 

 神取の目の届く場所に移り住んですでに三度、朝を迎えた。その内の一回は、神取の部屋で眠りのない夜を過ごした。真物の微妙な変化に神取はすぐさま気付いたが、言葉でも指先でも触れる事はしなかった。ただじっと、どう受け止めていいのか解らない眼差しで見つめるだけ。
 家屋の明け渡しまで半月は確実に残されていたが、真物には必要なかった。彼は必要最低限の荷物だけを揃え、あとは全て切り捨てた。主張したのはただ一つ。
 霧子の部屋は家具の配置に至るまでそっくりそのまま移して欲しい、という事だけ。
 両親の位牌も、写真も、想い出も何もかも、すべて捨ててしまうつもりだった。けれどいざその時になって、真物はほんのひとかけらを手元に残した。
 位牌と、四人が笑って写っている一枚の写真。
 そんな物には何の未練もない筈だったのに、捨てられなかった。
 憎しみの種は、腐れるほど蒔かれていた。
 自分の左耳に残した、両親の形見だけにするつもりでいたのに。
 真物が思いとどまったのは、霧子にまで自分の憎しみを押し付けてはいけないと悟ったからだ。
 憎しみが芽吹いても、死者に対する礼儀を欠かしたくはなかった。毎朝、コップ一杯の水を供えるだけはする。
 ほとんど荷物のない、がらんとした部屋の中で一日の大半を過ごす。する事はなく、したい事も見つからなかった。
 そうして三日。
 ようやく耳の痛みにも慣れてきた。
 最初の夜は眠れないほどだった。眠れない理由は他にいくつもあったが、無理やりこじつけて考えない事にした。
 もう一つ慣れた事といえば、神取が寄越した佐久原清という通いの家政婦もそうだ。
 四十代後半の、細身の女性だった。いつも柔和に微笑んでいるせいか、実際の年齢よりもずっと若く感じられた。
 これからは清が家事全般を賄ってくれる、と神取は説明した。
 そしてもう一つ、これは自分だけに聞こえるよう囁かれた。

――妹御を大事に思うならば、君の取るべき道は一つだ。君と、私が共有する秘密を、守るか否か

 跪き、誓いの言葉を口にする。とてつもない悪意がそれを聞き届ける。そこは教会ではなく、業火の赤と死骸の黒の荒野。
 そんな幻を見た気がした。
 真物はわざと神取から視線を逸らし続ける事で答えの代わりにした。
 守る以外道はないのはわかっている。

 これは罰なのだから

 

 金曜日の今日、彼は学校へ行った。
 見送る者はなく、出掛けに声をかける相手もいない。まともに向かい合えば、たちまち押し潰されてしまいそうな孤独感も、今の真物にはなかった。
 構うものか。
 欲しいのは、霧子の笑顔。そして友達の声。
 真物は、たくさんの友達の存在に心のよりどころを求めた。
 救いを求めたのだ。
 たくさんの友人達の、たくさんの笑い声。
 他愛無いお喋り、笑った顔。
 今の自分が、はたして以前のように大きな声で笑えるか解らなかったが、例え自分が出来なくても、自分を取り巻く人たちのいろんな表情が見られれば、それでよかったのだ。
 真物は今日、学校へ行くはずだった。

 こんなはずではなかった――
「こんなはず…では……」

 消え入りそうな声に苦痛が見え隠れする。ピアスを握り込んで、涙を流す代わりに長く細く息を吐く。
 学校へは行けなかった。
 大勢の人間に囲まれる空間、朝の混雑した電車に乗れなかったのだ。
 早朝の街路を行き交う人の姿には何も感じなかったのに、地下鉄の駅構内に向かうにつれ、ある一つの感情が次第に大きく膨れ上がっていく…それは、濁った膿を内包したできもののように、醜い瘤となって心を疼かせた。
 そしてそれはすぐさま目に映る部分に剥き出しになり、真物を脅かした。
 傍を人が通り過ぎる度に、異常とも思えるほど恐怖を感じた。
 そう、それは紛れもなく恐怖だった。
 真物は愕然となった。
 階段の途中で立ちすくむ自分自身に。
 身体を縮ませて他人の影に怯える態度に。
 貧血を起こしたように目が眩み、映るものがゆっくり回転して見えた。
 心の片隅では、自分の身に何が起きたのか、何が原因でこうなったのか解りかけていたが、認めようとはしなかった。別の理由を無理矢理掘り起こしてこじつけようとする。
 異変に気付いた親切な誰かに声をかけられ、真物は強い顔で振り返った。と、突然腕を掴まれ、一気に膨れ上がった恐怖に理性が押しやられる。
 真物は腕を振りほどくと、無我夢中で駆け出した。
 危険な場所から逃げる時に必要なだけの力を振り絞って。
 親切な誰かは、真物が今にも倒れそうに見えたので、身体を支えようとしていただけなのに。
 一度も立ち止まらずにマンションのエントランスホールまで走り続け、やっとの思いで辿り着いた真物は、錯乱する思考を落ち着かせようと深く息を吸っては吐き出し何度も深呼吸を繰り返した。
 何者も追いかけてくるはずがないと知りながらも、空気の気配さえも感じ取ろうとするかのように神経を張り詰める。そのせいで中々緊張をとく事が出来なかった。
 幸いにも、それからしばらくの間は、通りかかる者もマンションから出てくる者もいなかった。
 次第に冷静さが戻ってくる。それに伴い、明確になってゆく因果の糸が目の前で紡がれてゆく。
 驚愕の眼差しで空を見上げ、それからゆっくり、学校に続く道に目を戻す。
 けれど真物はそちらに進まなかった。否、進めなかった。道の先には正体の解らぬ化け物が潜み、行けばたちまち飲み込まれ、かけらも残さず舐め尽くされてしまうだろう。少なくとも、真物にはそう思えた。
 化け物は神取の瞳の奥から産み落とされ、毒を含んだ甘い姿をしている。
 真物は部屋に戻った。
 今はそこ以外、行ける場所がない。

 こんなはずではなかった――

 握った手を少し開いて、白金の輪を目に映す。精密な細工の施された縁を指でなぞり、心を落ち着かせようとする。
 父が選び、母に送ったもの。特別な想いの込められた、両親の形見。
 真物は、憎しみとも悲しみともつかぬ曖昧な眼差しで、長い事それを見つめていた。
 耳に穿たれた穴が鼓動を刻む度に疼き、心に響く。
 いつしか真物は、その数を意味もなく数え始めた。
 規則正しいリズムは眠りを呼び寄せ、十まで追う前に真物は意識を失った。

 

 眠る時訪れる暗闇は恐くなかった
 今まで、明確に暗闇が恐いと思った事はなかった
 少し嫌な感じがする、というのはしばしばあったけれど、これほどはっきりした感情を抱く事はなかった
 心が竦み上がり、全身から冷たい汗が噴き出す感覚
 「恐怖」という、曖昧でありながら自分を脅かすには充分すぎるもの
 彼にはそれを感じる

 神取鷹久

 彼は闇に潜む何かと同等の存在なんだ
 僕は今、暗闇が恐い
 とてつもなく…恐いと感じる
 ふと気が付くと、僕はどことも解らぬ場所に座っていた
 すぐ隣に誰かが座っているのが解ったが、顔を確かめる事は出来なかった
 隣にいるその誰かの手が、僕の目を覆い隠しているからだ
 けれど僕はその手を払いのけようという気にはならなかった
 隣にいるのが誰なのか、ここがどこなのか、すぐに理解出来たからだ
 僕は、僕の目を覆い隠す人物にもたれて、半ば眠りに陥った時のような浮遊感に包まれていた
 それはとても心地良く、不思議と心が安らぐ感覚だった
 閉じた瞼の裏には暗闇が広がっていたが、それは恐怖を感じない暗闇だった
 僕は理解する
 ここは僕にとって安心出来る場所であり、隣に座る誰かは味方なのだという事を
 川の水は緑色に濁り、流れも滞っているけれど、それほどひどい所ではない
 尋ねたい事はいくつもあったが、今は眠りの方が勝っていた
 この次出逢う機会があったら、その時に聞こう
 僕は顔も分からぬ誰かにもたれかかり、安心して――眠った

 

 寒さに震えながら目を覚ますと、窓の外はすでに夜闇に覆われていた。
 うつ伏せに倒れて気を失ったはずだが、いつのまにかきちんと布団がかけられており、仰向けに横たわっていた。
 制服の襟元もゆるめられている。
 不思議に思いながら上体を起こし、真物ははっとなって枕元を振り返った。

――ピアスは?

 視界には見当たらない。ひどくうろたえて左耳に手をやると、冷たい白金の感触が指先に伝わった。
 手に持ったままだと思っていたのに。だが、妙にくっきりと、ピアスを付け直す記憶は残っている。暗示をかけられ植え付けられた記憶のように。
 なんであれ、なくなっていないなら細かい事はどうでもよかった。
 ベッドからおり、真物は恐る恐る部屋の扉を開いた。直前に時刻を確かめると、五時を少し過ぎていた。そんなに長くは眠っていなかったようだ。
 清さんが夕食の支度をしにやってくるのは毎夕五時。
 扉の隙間からそっと様子を伺うと、キッチンで忙しなく動いている清さんの姿が目に入った。ダイニングは暖房が効いており、真物はほっと身体の力を抜いた。
 だがすぐに緊張は舞い戻り、心が腫れ上がる。
 彼女は自分が今日から学校へ行く事を知っている。
 何と説明すればいいのだろう。
 本当の理由は言えない。
 でも嘘は吐けない。
 相手を驚かすだけの悪意のない嘘なら何度かついたことがある。
 けれどそれ以外の嘘は吐けない。
 どうすればいい?
 清さんが振り返るまで…自分に気付くまで充分時間はあったが、焦りと悲しみの二重螺旋に締め上げられた真物の思考は完全に力を失い、役目を果たさなかった。
 暗がりにぽつんと立ち尽くす真物の姿が、清さんの視界に割り込んだ。
 もうすぐ出来上がるからと、声をかけられる。そして話の流れは必然的に、久しぶりの学校はどうであったか、に続く。
 微笑みかける彼女の表情は、奇しくも母親のそれによく似ていた。少なくとも、真物にはそう思えた。
 不思議な力で引き寄せられたように、真物はゆっくりと歩み寄った。聞かれた事に答えながら。

 真物は、真物は――

 嘘を吐いた。

 久しぶりに姿を見せた自分に友人達がどんな態度で接してくれたか、それに自分はどう答えたか。どう思ったか。
 それらしく聞こえるよう、ところどころ言葉に詰まってみせたりもする。
 かたい、透明な殻が胸の内を変形させながら自分を覆ってゆく。
 見てくれだけは目も鼻も口もある、仮面のようなもの。
 全てに等しいものが、何もかも目茶苦茶に歪んでしまったようだった。
 何故こんな事をしなければいけないのか。
 答えは簡単だ。
 秘密を守る為に。
 それでも尚、執拗に問いかけを繰り返す思考の片割れを怒鳴り付け黙らせる。
 表面上は取り繕った笑顔で清さんに話しかけながら。
 心を偽るのは案外簡単な事だった。
 それとも、霧子の為だと思うから簡単だといえるのだろうか。
 どちらにしろ、自分は疑問を抱く事無く神取に従えばいいのだ。
 それが条件だった。
 出来る、出来ないの問題ではない。
 しなければいけないのだ。
 夕食の後片付けを済ませ、清さんは戻っていった。
 それを待ちかねていた、部屋の隅に追いやられていた沈黙がたちまち真物に迫り、孤独感を味わわせようと見えないマントを広げて包み込んだ。
 けれど、思考を麻痺させてやり過ごす事を覚えた真物には、効き目がなかった。
 夕食後、いつもと同じように真物は一人ダイニングの椅子に座ったまま、何もせずじっとしていた。
 何時間もそうして無駄に過ごし、眠くなれば素直にベッドに横たわる。
 喉が渇けば水を飲み、小用を済ますくらいの事はした。
 それ以外は、何もしない。
 十時を過ぎた頃、やはりいつものように眠気に包まれ、真物は立ち上がって自室に戻り、ひどく緩慢な動作で服を着替え始めた。
 夜には眠り、朝目覚める。
 明日の朝だ。
 何の脈絡もなく、当たり前の事が頭に思い浮かぶ。だが、自分はそれについて考えなければならない。
 明日は、学校に行けるだろうか。今日、あれだけの目にあった自分が。
 真物は手を止めて、嫌々ながらにその問題と向かい合った。
 行かずにはいられないだろう。
 だが、どうやってたどり着くつもりだ?
 電車に乗るどころか、ホームにも立てなかったのに。
 もしかしたら、友人たちの影さえも恐怖の対象になるかもしれないと考えた途端、余りの喪失感に目の前が真っ暗になった気がした。

 ――そんな事になるはずがない!

 喉の奥で呻く。恐らくは現実になるだろう自分の考えを否定する為に。
 その時、かすかな音を立てて部屋の扉が開かれ、咎める響きを含んだ声が急所の首筋に突き付けられた。

 

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