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日曜日 朝

 

 

 

 

 

 

 胃が引き攣れるような痛みを感じて、真物は目を覚ました。気分が悪くなるほどの空腹感に、掛布の下で身体を丸め腹を押さえる。
 そこで唐突に記憶がよみがえった。

 ここはどこ――

 見知らぬ家の寝室に一人取り残された真物は、思うように動かない手足を抱き寄せて目を凝らした。
 ベッドの位置。天井の灯り。壁紙の色。

 ここは――

 光を遮り灰白色に浮き上がるカーテン。薄暗い部屋の一番下に敷かれた暗い色に見える絨毯。

 神取の……!

 ぞっとなって目を見開く。
 鳥肌が立つほどの寒気に、掛布の下でかたかたと震える。
 一秒でも早くここから出て行きたいのに、ひどい倦怠感に見舞われ起き上がる事さえままならない。
 その時、部屋の扉が開かれ誰かが姿を現した。
 暗闇を吸い取ったように真物の瞳が黒く染まる。
 咄嗟に真物は手をついて身体を起こした。掛布が滑り落ち、下半身を隠すぎりぎりのところで辛うじてとどまる。
 その直後、腰の深奥から何かが大量に流れ出し、真物を凍り付かせた。
 ぎくりと身体を強張らせ、真物は全ての動きを止めた。瞬きすら出来ない。
 それが血でない事はすぐに理解出来た。

 ではこれは……

 神取がゆっくりとした足取りで近付いてくる。逃げたいと思っても、今は動けなかった。腰の奥からとろとろと流れ出る、白濁した……
 真物の目の前で立ち止まると、神取は感情の失せた瞳でじっと彼を見下ろし、沈黙を長引かせた。
 彼が硬直している理由は解っている。
 嫌と言うほど注ぎ込まれたおぞましいものにおののき、苦しんでいるのだ。
 掛布を剥ぎ取って、屈辱を与えてやろうか。
 だがそれでどうなる? 
 彼は泣き出しそうな顔で俯き、けれど決して涙は零さないだろう。
 瞳に、あの光を浮かべて懸命にこらえるのかと思うと、行為は逆に自分を苦しめる結果になる。

『やめろよ』
 わかっているだろう?

 「彼」の警告に「そうだな」と答えて、神取は手に持ったカップに目をやった。
 大きめの白いカップから、柔らかな甘い香りを含んだ湯気が立ち上っている。濃い目の紅茶に、たっぷりとジャムを落としたもの。

「飲むといい」

 取っ手を彼の正面に向けてカップを差し出し、彼が自分の言葉を飲み込むまでじっと待つ。
 やがて真物は、内側にこもっていた意識をそろそろと外に向け、カップを見た。それからゆっくり、神取を見上げる。
 どんな衝撃にも対抗出来るだけの、できる限りの覚悟をもって。
 だが、意外にも神取の眼差しは普通で、本当にごく普通で、親しい友人にもてなしでもするような顔付きをしていた。

「身体を見て気付いた。ここ数日、ろくに食べていなかっただろう?」

 少し間を置いてから、真物は素直に頷いた。
 その反応に神取はふっと口元をゆるめる。卑らしい笑みではなかった。
 それは、そう――子供のささいな仕草に思わず笑みを零した親のそれに似て見えた。真物は混乱した。どう受け止めればいいんだろう。
 好意?
 それとも……解らない。

「栄養になるもの以外は、入れてはいないよ」

 真物は再びカップに目をやった。そこまでは考えていなかった。立ち上る湯気はとても良い匂いがしていた。昨日か、せめてそれくらいなら、意志が欲求に負ける事はなかっただろうが、この時は本能もぐるになって真物に逆らった。
 神取の施しを拒否するだけの力は、湧いてこなかったのだ。
 真物は、葛藤とも呼べないいがみ合いを瞬きする間に済ませ、美しい琥珀色の飲み物に手を伸ばした。直前の裏切りを繰り返され、疑心暗鬼になった浮浪者が、半信半疑で施しを受け取る時のように、諦めに似た眼差しでカップを持つ。何故そんな気分になったのかわからなかった。
 今まで一度だって、本当の意味での悪意でそんな事をされた覚えはないのに。
 恐る恐るカップに口をつける。唇に触れた甘さに心を奪われ、真物は無我夢中でカップを傾けた。
 身体のどこかはおぞ気がするほど粘ついていたが、今はそれを忘れられるくらい没頭出来た。
 カップの白い底が見えるまでは。

 いい子だ

 神取が独り言のように囁く。

『そなたも。妾の考えを驚くほど正確に理解してくれる。賢き者よ』

 暗闇に浮かび上がる目が嬉しそうに細くなる。
 頭の中に聞こえてきた声に神取は一瞬驚いた。
 艶のある女の声、若い、美しい響き。言葉づかいも。
 「彼」とは違う?
 だがすぐに神取は、同一の存在である事を理解した。複数ではない。唯一に存在する多面性を表しているのだろう。推測に過ぎないが。

「………」

 最後の一滴が喉を下り、身体中に香りと甘みが広がっていく感触はとても心地良く、真物は軽く目を閉じて余韻に浸った。

「結構。いきなり食べても、身体が驚いて戻してしまうだけだからな」

 もっともな説明だった。確かに、そのとおりだ。
 けれど――

「何故……?」

 昨日とは打って変わった、優しい態度。
 思いやり、いたわり、そういったものだ。この男にそうされるのは心底腹立たしかったが、他にあてはまる言葉が探せない。

「何故は必要ない」

 真物の手からカップを受け取り、神取は即座に言い返した。
 寒気すら感じさせるほどの薄ら笑いを浮かべて。
 真物はたまらなく悔しかった。自分では見抜けない深い部分に、神取の本音が隠されているのだろう。
 それはどうやっても自分にはわからない。やり場のない怒りが荒れ狂う。仕方ない。怒りを抱いてもどうしようもない。たった今、神取の誘惑に負けてしまったではないか。

 紅茶は…おいしかった。

「何て汚い……」

 吐き棄てるように言う。言葉もろとも、自分の醜い部分が全て吐き出せたらどんなにいいか。
 真物は両手で顔を覆った。

「お前よりも…ずっと……」
 僕が――

 最後は、唇が言葉を綴っただけだった。声にもならない。

「心を決める事だ。そうとも……身体の痛みはじき慣れる。あとは、心を決めるだけだ」

 真物は顔を覆い隠したまま、現実のいやらしい目付きから逃れようとうなだれた。
 とはいえ、今の自分には神取の言葉を受け入れる以外方法はなかった。
 神の啓示ではない。それは…悪魔の甘言に他ならない。

『そうとも。怒りの末の恐怖。憎しみの末の絶望。妾の欲しいのはまさにそれ』

「妹の為に我が身を犠牲にする君を、誰が汚いと思うものか」

 正直な感想を口にして、神取はゆるやかに伸ばした手で、真物の手をさすってやった。
 警戒し身を震わせながらも、真物はじっとしていた。

「君に、いくつか言っておく事がある」

 カップを手に、神取は説明を始めた。
 まずは住む場所について。
 今住んでいる家は、今月中にも出て行かなければならない。両親の遺産では維持出来ないのだと言う。
 神取はそのしくみについて詳しく説明しようとしたが、今の真物には聞き分けるだけの余裕はなかった。
 理解させる事は無理だと悟った神取は、新居についての説明に切り替えた。

「このマンションの三階に、君たち兄妹の新しい住まいを用意させてもらった」

 神取の視線の先で、真物が困惑の表情に眉を顰める。
 八畳相当の部屋が三室、広めのリビング、清潔なダイニングキッチン。間取りの説明がなされる。
 違う違う…僕が聞きたいのはそんな事じゃない。

「全部は無理だが、出来る限り君の希望を叶えたいとは思っている」

 今の家に残された、たくさんの品。

「どうしても…出て行かなければ……」

 出て行かなければならないのだ。
 自分の意志に沿わなくても。
 真物はこの時やっと、両親が死ぬとはどういう事か思い知らされた。徹底的に。
 世界は暗く冷たい色に変わり果て、心の拠り所となる霧子は死にかけていた。

「もう一つ。今日の午後二時から、妹御の再手術が行われる。もっとも今度は、優秀な外科医が担当するがね」

 神取の言った言葉を完全に理解するより早く、真物は視線の先に時計をとらえる。
 もうすぐ十時。
 あと四時間。

「私の知り合いだ。彼なら妹御を助けられる……確実にね」

 毒気を含んだ声。足元から這い上がるおぞ気。
 確かに自分は、誰でもいいと願った。
 霧子を助けてくれるのならば。
 霧子にした事に対する、これが報いなのだろうか。



 二時間後。
 真物は自分の家にいた。
 神取の寝室で服を着るのに悪戦苦闘したが、麻痺した思考は真物の逃避を渋々許した。
 いつもだったら決してそんな姿はさらさなかっただろう。しかし、生きていく為に敢えてそうせざるをえない時もある。得がたい魂の安息の為に。
 そしてようやく辿り着いた、自分の生まれ育った家。どこへ行こうと、どこまで行こうと、それは変わらない。昨日まで、いやほんの数時間前まで、それは永遠不変の存在だった。意識よりも無意識よりももっと深い場所で解っている、生まれ戻る場所。
 今となっては、ほんのわずかな安らぎすら与えてはくれない。
 苦痛と同等の想い出と、安穏の残骸があるだけ。
 何から考えればいいのかわからず、真物は途方に暮れて立ち尽くしていた。
 玄関先にずっと。
 必要な事は何一つ思い浮かばず、下らない考えばかりが泡のように弾ける。
 やがて怒りがふつふつと込み上げてくる。
 首を吊り自殺した父と母に対する、吐気がするほどの凄まじい怒りが。
 真物にしてみればそれは至極当然の事だろう。
 歪められた真実が無言の抗議をするが、真物の耳には届かなかった。
 やっと真物は動き出した。手足の動かし方を忘れてしまったかのように、ぎくしゃくとした動作で和室に向かう。
 真昼でもカーテンを閉めてしまうとかなり薄暗い部屋の中に、足を踏み入れる。奥には布をかけられたテーブルがあり、親戚の誰かが整えてくれたのか、両親の位牌と、写真が飾ってあった。
 視界の端にそれをとらえ、真物は向き直りもせず睨み付けるように見つめていた。
 表情はほとんど変えず、きつく奥歯をかみ締める。声を上げて泣き出してしまいそうな衝動と、何もかも目茶苦茶に壊してしまいたい衝動が同時に起こる。
 けれど真物はそのどちらもしなかった。静かに襖を閉めて、自分の部屋に戻る。
 頭の中で何かが言うのだ。今は休んだ方がいい、と。
 真物はそれに従う事にした。
 だが部屋に戻って横になった途端、唐突にそれを思い立った。
 使命感のようなものが、突然湧いてきたのだ。
 真物は飛び起きた。
 まずは探さなくては。



 それから一時間が経ち、ようやく道具が揃う。
 机に並べられた柔らかい布と、鋼と、鉄と、プラチナと白金。白金は一つしかない。失敗は出来ない。
 ふと時計を見やる。もうすぐ二時になる。霧子の手術が、もうすぐ始まる。終われば、霧子は元に戻る。手も足も、目も。すべて元通りになる。霧子は死にはしない。
 僕が死ぬだけだから
 真物は再び机の上に視線を向けた。
 細かい作業はあまり得意ではなかったが、止めるつもりはなかった。真物は慎重に作業に取り掛かかる。
 こんな事をして何になるだろう。
 作業中ずっと、頭の片隅にそんな疑問がこびりついていたが、何かに取り付かれたように黙々と手を動かす真物には向かい合う暇はなかった。
 徐々に、頭の中に思い浮かべる形に近付いてゆく。輪の内側に刻まれた文字は決して傷つけてはならない。
 鋼を持つ手の震えをどうにか抑え、凶器を道具に変えて扱う。
 形は出来上がった。思っていたよりも、良い仕上がりだと思う。
 後は自分だ。
 別の場所に除けておいた小さな細長い鉄と火を手にする。
 右手に鉄を、左手に火を。そして鏡の正面に立つ。
 自分の思う通りにすればいい
 頭の中で誰かが言った。
 澱んだ川の底で出会った誰かだ。
 味方の声に励まされて、真物は最後の仕上げに取り掛かった。
 鏡は驚くほど正直に真物の顔を映していた。
 狂気にまみれた化け物の貌。
 けれど真物は、たった一ヶ所に気を取られていたせいで、自分の醜悪な面に気付かない。
 鉄の尖った先端を火で炙り、狙いを定めて耳に突き刺す。

 これでいい―――



 深夜の時間帯になってようやく、真物の待ち望んでいた結果がもたらされた。
 辛抱強く待ち続けた者に相応しい朗報だった。
 面会が許されるまで十日はかかると言われたが、それを待つのは何の苦にもならない。
 霧子は助かったのだ。
 だが次の瞬間、真物の歓喜に翳りがさした。
 今日は霧子の誕生日ではないか

 

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