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土曜日
朝が来ていた。 母の趣味の、鮮やかな色のカーテンの隙間から朝日が射し込み、窓際のベッドに横たわる真物の顔を遠慮がちに照らした。 真物の意識は未だ夢現をさまよっていた。 寝起きは良い方だった。 たまに昨夜の遅寝がたたって起きられない事もあり、そういう時は決まって母が部屋の扉をノックしてくれた。 真物は思った。 もう起きないと、母が少し怒ったような顔で起こしに来る、と。 けれど、もう二度と、真物を起こしに母はやっては来ない。 寝ぼけた顔でリビングにやってきた真物を見てから、会社に向かう父も、もういない。 二人は死んでしまったのだ。 現実が、容赦なく真物を突き放す。 そこで真物ははっと目を覚ました。 見慣れた天井を訝しそうに見つめる。 何故自分はここにいるのだろう。 いや、ここは自分の部屋なのだから、ここにいていいはずだ。 けれど何かおかしい。 いつ…帰ってきたのだろう…… 記憶を辿ろうとした直後、全てを思い出し、真物は冷水を浴びせられたような強烈な寒気を覚えた。 ありえない痛みに心が凍え、実際の痛みが更に拍車をかける。 「―――っ!」 身体を起こそうと横を向いた途端、下腹の深奥に激痛が走り、息も出来ないほど苦しめられた。 あれは…あれは何といえばいいのだろう 這いつくばってもがき、やっとの思いで上体を起こす。ぎこちなく首を動かして部屋の中を見まわし、もう一度、ここが自分の部屋である事を確認した。 間違いない。では……あの男…が、ここまで運んだというのか 心の内から急速に込み上げてくる怒りを、真物は唇を噛んで堪えた。思うように動かない足を床に下ろし立ち上がろうとする。 出来なかった。 腰から下がばらばらに壊れてしまったように思えた。今までどうやって立って、歩いていたのか、それすらも解らない。 真物は途方に暮れて、座り込んだままじっとしていた。そのままでいる分には何の問題もなかった。 けれど自分には行くところがある。 真物はふと壁の時計に目をやった。 九時を少し過ぎている。 真物は深くうなだれて、肩を上下させた。そしてもう一度試みる。 霧子の様子を、見に行かなくては。 頭にはそれしか思い浮かばなかった。その思いを杖に、真物は身体中の骨が軋むのも無視して腰を浮かせた。 今まで体験した事のあるどんな痛みともかけ離れた痛覚が、行かせまいと下腹の深奥に荒々しく爪を立てる。 呻く自分を押し殺し、真物は足を踏み出した。 重心を変える度に新たな苦痛が生じ、脳天を直撃する。 それでも真物は進む事を止めなかった。やっとの事でドアノブに手をかけ、部屋を出る。 その直後、猛烈な吐き気に見舞われ、真物は口を押えて立ち竦んだ。 あまりの気持ち悪さに目眩がする。今にも吐き出してしまいそうなのを寸でのところで堪えるが、わずかに込み上げた胃液が喉の奥から舌先に広がり、痺れるような嫌なにおいに脂汗がにじむ。 全身が冷たい熱さに苛まれ、真物は途中何度も躓きながら、壁伝いに出来るだけ急いでトイレに駆け込んだ。 ドアを開け放った途端、真物は前のめりに便器に倒れ込んだ。 昨日はほとんど何も食べていないせいか、胃液しか出てこない。なのに吐き気は治まらなかった。ひとたび毎に体力をごっそり奪われ、真物は目に涙を溜めて何度も吐き続けた。 荒い息に肩を上下させ、容赦なく襲い来るやり場のない怒りを振り払うように大きく首を振った。 それでも声は消えない。 神取の声は消えない。 耳の奥に響く、地を這うような声は消えない。 どんなに拒んでも、決して消えはしなかった。 あー 真物は絶叫した。 |
水を一杯飲んだように思う。 トイレから這うように出て、ひりひりと傷む喉を癒そうと水を飲んだ。 その先は覚えていない。 いつ自分の部屋に戻ったのか、そもそもどうやって階段を上ったのか、それすらも思い出せない。 何か…そう、どこかへ行くはずではなかったか? 時折、頭の奥からそんな疑問がやってくるのだが、考える事を止めた真物を見ては、諦めてとぼとぼと戻っていった。 時計の秒針だけが、ひっそりと音を立てていた。 |
一台の車が家の前で停まった。 ドアを開け閉めする音に続いて、革靴の乾いた足音が家に近付き、玄関の鍵を開けて中に入る。 静かに扉を閉め、靴を脱いで上がり込んだ。 音がする 誰かが階段を上っている。 わずかな足音がする。 誰かが、ドアを開けて部屋に入ってきた。 自分に近付いてくる音の全てを聞いていながら、真物はそれが何か理解する事を放棄していた。 目の前に立つ男を見る事も、しようとしない。 鍵の束が放り投げられる。 それでも真物は何の反応も示さない。 「忘れ物だ」 「!…」 聞き覚えのある低い声で真物は我に返った。受け止めきれないおぞましさに顔を歪める。 「あぁっ……!」 化け物でも見たかのように頬を引き攣らせ、張り叫んだ。しかし口からは、唖のそれに似たしゃがれ声しか出なかった。両脇に放り投げていた腕で頭を庇い、視界から神取を消し去ろうと顔を背ける。 逃げる事もせず、その場でうずくまったままかたかたと震えるばかりの真物を見下ろし、神取は黙って立っていた。しばらくそうしていたが、いつまで経ってもこちらを見ようとしない真物に、蔑みを含んだ声で神取は言った。 「初めてがあれでは、余りにも無慈悲すぎたか?」 「ああぁ!」 行為の最中のありとあらゆる痛みが、衝撃が、屈辱が、神取の言葉と同時に生々しく甦る。 余りの辛さに、真物は叫びを上げてかき消そうとした。 「痛みだけか?」 その問いかけに、真物は顔を跳ね上げ憎々しげに神取を睨み付けた。異性との性交はまだなくとも、何を言わんとしているか理解出来た。 男に犯されて、痛み以外に何が感じられるというのか。 もしも視線だけで人が殺せるのなら、灰も残さぬほど焼き尽くしてやるのに。 真物は奥歯をきつく噛み締め、蔑みの眼差しで呻いた。 激昂する真物とは対照的に、神取は褪めた目をしていた。 その目付きは、一切の輝きを奪い取る深い闇の色に似て見え、やがて真物は気圧されたように目を逸らした。 突然神取は素早い動きで真物の腕を掴むと、強く引いて立ち上がらせた。 その動きは身体に痛みを与え、心に恐怖をもたらした。ひっ、と喉を鳴らし、真物は唇をわななかせて後退さった。 「どうした? 妹御が心配ではないのか?」 神取はもう一度真物を引き寄せ、目を見合わせてかすかに笑んだ。 「……霧子!」 無意識に名を呼んで、真物ははっとなった。そして、今頃になって思い出した自分の薄情さを激しくなじった。 どんなに悔やんでも悔やみきれない。 何をやっているんだ? 妹が事故に遭ったのは、自分の所為ではないか! 神取はにやりと笑うと、真物の腕を放した。 真物は、まだ視界に神取がいるのも忘れて歩き出した。 足を引きずり、目の前を通り過ぎる真物の耳元で神取は囁いた。 「妹御には会えんよ」 「……え?」 振り返った真物の眼差しがみるみる凍り付く。 最悪の予測に行き着くのを恐れ、問いただすような目付きで神取を睨む。 「集中治療室に運ばれ、面会謝絶だそうだ」 「な……」 受け止めきれない現実に、真物の瞳が色を失う。 「先程病院から連絡があった。昨日そう伝えておいたのでね。それで、君と一緒に来るよう言われたんだ。だからこうして迎えに来たというわけだ」 「霧子は今…一体……?」 「詳しい話は直接担当医に聞くといい。とにかく私の車に乗れ」 「誰がお前となんか……!」 今にも噛み付かんばかりの真物を鼻先でせせら笑い、神取はこう返した。 「忘れたのか? 今は私が君たちの親代わりになっている。権利はあるんだよ」 「それは――」 「議論している暇はない。早く仕度をしろ」 異議を唱えようとする真物を無視して扉を開け、神取は振り向きざま冷たく言い放った。 真物に選択の余地はない。 一瞬の沈黙の後、真物は力なく「……はい」と答えた。 |
目の前に、何枚ものレントゲン写真が並んでいる。 頭部、胸部、上腕部、左大腿部、左足指。一目で損傷部分が解るものもあれば、全く判別がつかないものもあった。 医師は端から順に、どういう状態でどんな処置を施したのか説明し、手術は成功したと言った。 後は意識が戻るのを待つばかりである、と。 真物はそれを聞いて、身体中の力が抜けてゆくのを感じた。 安心していいんだ そう思ったのも束の間、次の瞬間には、さらに深い奈落の底に突き落とされた。 車にはねられ、アスファルトに顔面を強く打ち付けた衝撃で両目の損傷がひどく、再度手術を行っても完治する見込みは薄い…つまり、悪くすれば失明の可能性もある。 失明? 真物は愕然となって虚空に視線を漂わせた。 その先の、気休めにもならない医師の説明は一切聞き取れなかった。 何をどう答えて診察室を出たのか。 気が付くと、ブルーグレイの車を挟んで神取と向かい合って立っていた。 「状況は理解出来たか?」 半ば放心状態の真物にそう声をかける。 「……なんで――」 辛うじて聞き取れるほど小さな声で呟く。 「畜生…畜生…ちくしょう………」 一度も口にした事のない汚い言葉を繰り返し吐き捨て、肩を震わせる。胸が潰れてしまいそうだった。 僕はなんて酷い事を…… 霧子を助けたい 霧子を助けたい 霧子を助けたい…… 誰でもいい。誰か霧子を助けて下さい。 僕のせいで傷付いてしまった霧子を―― 真物は、祈る気持ちに力が宿る事を信じて、ひたすら繰り返した。 「車に乗れ。話がある」 聞く度に心を凍り付かせた神取の声も、今は耳に届かなかった。代わりに堪えきれない悲しみと怒りが続け様に襲い掛かり、心を侵食する。 神取は再度口を開こうとして躊躇った。 『これで充分だろう』 神取の中の「彼」が言う。 いや、しかし…と神取は引き止めた。そしてもう一度、冷静に自分の判断を見返してみる。 (いや…いい。どうせ行き着く先は同じなのだからな) 瞬きするほどの間に心を決め、神取は込み上げる笑いを押し殺して真物の傍に歩み寄った。 助手席側のドアを開け、嫌がる真物を強引に車に押し込むと、身を屈めて囁くように言った。 「妹御を助けてやろう」 鳴咽に震えていた真物の身体が一瞬強張る。片手で顔を隠しうなだれていたが、声は、聞き逃さなかった。 今何と言った? 神取は何と言ったんだ? 聞き間違いではないと理解するまでのわずかな沈黙の後、真物は弾かれたように顔を上げ、問いかけを鋭い眼差しに変えて神取を射抜いた。 半ば予測していた通りの反応だが、真物の、そのあまりにも強烈な眼光に神取は驚かずにはいられなかった。 それは純粋な感動であった。 (だからこそ……) 顔に出すまいと奥歯をきつく噛み締める。感動はすぐさま憎悪に取って代わり、純粋であるがゆえに目眩がするほど激しかった。 「助けて…下さい」 もしも言葉だけで現実が変えられるものなら、今の一言で霧子に奇跡が訪れた事だろう。 『これは驚いた! まったくもって予想外だ! まだほんの子供だというのに?』 言葉の内容は真物の存在を危惧していたが、口調は楽しんでいるようにも受け取れた。 じっとこちらを見つめる真物の眦に、辛うじて堪えた涙がとどまっていた。それが、瞬きをした拍子に頬を転がり落ちる。 神取はゆるやかに両手を上げて真物の頬を包み込むと、零れた涙を親指で優しく拭ってやった。 「お前次第だよ……真物」 口元をかすかに歪めて神取が言う。 自分の頬に触れる神取の指先にぎこちなく目を向け、真物はそれを受け入れなければならない事を理解した。 地獄で悪魔と魂の取り引きをして苦痛を強いられる方が、はるかに上等に思えた。それでも、自分はこの世で、神取の言葉に従うしかないのだ。 霧子が助かるなら、例えすぐ先に死が待ち受けていようとも、真物は喜んでその道を選ぶだろう。 「僕は何を……すれば、いいのですか」 喉の奥でつかえてうまく喋れない。今は恐怖にすりかわった涙を一粒零し、真物はおどおどと目を上げた。 怯えて震えの止まらない真物を宥めるように神取はにっこりと優しく微笑んだ。 「お前にしか出来ない事だ。私がお前にして欲しい事。沢山じゃない。たった一つだけで良いんだよ。頭のいいお前ならもう…解るだろう?」 そして怖気が走るほど卑らしい笑みに口元を歪め、助手席のドアを閉める。 呆然とする真物の目の前で、陽光が遮断される。 |