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二年前 金曜日
片足は奇妙な方向に折れ曲がり、アスファルトに強くこすり付けられ目茶苦茶に傷付いた顔半分は、真っ赤に染まっていた。 それとは対照的に、血の気を失い真っ白になった指先が、そこだけは別の生き物のようにぴくぴくと痙攣している。 横たわる頭の下からはじわじわと血が流れ出て、アスファルトに赤黒い染みを広げていった。 街灯に照らし出された、変わり果てた妹…霧子の姿を目の当たりにした真物は、急速に膨れ弾けた感情を口からほとばしらせた。 それから病院にたどり着くまでの間は、ほとんど記憶がなかった。 ぼんやりとにじむ赤い光を見ている内にだんだん意識がはっきりしてきて…… 「見神、真物君だね?」 突然名前を呼ばれ、真物は驚いて顔を上げた。一瞬そこに貌のない奇妙な生き物を見たように思い、慄いたように目を細める。 「はじめまして。私は神取鷹久といいます」 やや離れた場所に、濃いグレーのスーツを着た背の高い男が立っている。突然声をかけてきた見知らぬ人物に、真物はどう応えればいいのか解らず、とにかく立ち上がって神取と向かい合った。 「君の…お父上と同系列の会社に勤める者、と言えば、解ってもらえるかな」 「ええ…はい」 真物はそれを聞いて、かすかな不信感を抱いた。 というのも、通夜の時も葬儀の時も、何故か父親の知り合いは一人も参列しなかったからだ。それもおかしな話だが、だからこそ、今になって現れた神取という人物に不信感を抱いたのだ。 あるいは、何しに来た、という思いもあった。 真物は今、自分一人ではとても解決しきれない問題をいくつも抱え、途方に暮れていたのだ。 両親を一度に亡くし、霧子までもが生死の境をさ迷っている。両親が死んだ事さえ未だ信じられないのに、その上霧子まで失ってしまったら、きっと自分はおかしくなってしまうに違いない。 霧子は…あれは僕のせいだ 時間をかけてゆっくり説明してやれば、霧子だってきっと分かってくれたはずなのに! 彼女はどんなに傷付いた事だろう。出来るならば彼女の悲しみを残らず消し去ってやりたかった。 「こんな時に申し訳ないんだが……私の話を聞く余裕はあるかね?」 何者かに縋りたい真物の気持ちを邪魔するように、神取の低い声が耳障りなほど響く。 「何ですか……」 真物は疲れた瞳を神取に向けて、弱々しく答えた。 「本当に申し訳ない」 神取はまず詫びて、座るよう勧めた。 戸惑いがちに真物は腰を下ろし、隣に座る神取が口を開くのを待った。 「まずは……君たち兄妹の今後の事なんだが」 それを聞いて真物は、あぁ…と思った。 葬儀場で、別室からもれ聞こえてくる親戚達の話し合いを耳にした真物は、大勢いる彼らの誰も、自分達を引き取る事を拒否しているらしいのをそれとなく理解していた。 気が付けば、周りに見知った顔は一人もいない。 傍に一人も親戚の姿はなかった。 心細さを通り越して、寒気すら感じる。 「ここに来る前に、君達の御親族と話をさせてもらったんだが…言いにくい事に彼らの誰にも、君達を引き取るだけの余裕はないらしい。だが君達は未成年者だ。となると……」 神取は一旦言葉を切って真物を見た。諦めたように俯き、抗いがたい事実をどうにかして受け入れようと苦悩している。 「そこで、だ。この私が、君達兄妹を引き取ろうと思う。御親族の方々にはすでに了承してもらっている。あとは君達の……」 「あの、それって……」 突然の申し出に、真物は困惑の眼差しで呟いた。 「後見人になる。いわば、私が君達兄妹の親代わりになる、という事だ」 「でも、あの……なぜ、あなたが?」 「前にも会った事がある。私は」 「え?」 「一ヶ月ほど前だったかな。君が覚えていないのも無理はないんだが、とあるパーティで一度顔を合わせているんだよ。君の御家族とね」 「あの…もしかしてあの……あなたは」 神取の言葉が引き金になったのか、真物はようやく掴んだ記憶の糸を手繰り寄せた。 それがどんな祝事だったかまでは思い出せなかったが、確かにひと月ほど前、父に連れられて家族四人で何とかいう会社の本社ビルに行った事がある。 圧倒されるほど大勢の大人達と、華美に盛り付けられた御馳走と、意味の解らない退屈な話。 そして、参加者の誰よりも強烈な印象の、黒い服を着た男の顔が浮かんできた。 男とはもちろん、神取鷹久の事だ。 神取は意味深な顔付きで頷きながら、先を続けた。 「今こう言っても本当の意味では理解してもらえないと思うが…私はね、君達兄妹がとても気に入ったんだよ。人間としてね。まあとにかく、ここではきちんとした話がしにくいのでね。出来れば私の家に来てもらえないかな」 「それは…出来ません……すみません」 涙声で喉を詰まらせ、真物は俯いた。 「君の気持ちはよく分かるよ。けれどね、ここにいても君に出来るのは祈る事くらいだ。祈る気持ちは大事だが、一晩中ここにいては君まで倒れてしまう。どうだろう、明日また出直しては」 どうするかを真物に任せ、神取は問い掛けるようにじっと目を見た。 真物は、ゆっくりと顔を上げて、手術室に目を向けた。 『そう、話の運びはそれでいい』 神取の頭の中に、ひび割れた低い声が響いた。 「大丈夫、妹さんはきっと助かるよ」 自分の意識の奥に潜む。ひび割れた声の主が告げる通りの言葉を、出来るだけそれらしく聞こえるよう繰り返す。 声の主は神取にとって、絶大な力を秘めた守護者だった。暗く険しい道を行く自分の先に立って、守り導いてくれる存在。 それは、二年前ロンドン郊外で奇妙な神父に出会ったのをきっかけに、自分の中に現れた。 姿は見えない。ただ声だけが届く。こちら側の人間には決して見る事の出来ない異世界に存在する、旧支配者。 正体の見えぬそれを、神取は「彼」と呼んだ。 「彼」は、自分の思い描く未来を実現させる為に力を分け与えてくれた。しかしその力はまだ弱く不完全だった。 かつて人間を飼い、恐怖と絶望を糧に存在した「彼」を完全たらしめるに何が必要かを知り、神取は、行動を開始した。 まずは真物の両親を。 次に霧子。 最後が真物だった。 「一緒に、行きます……」 長い沈黙の末、真物はかすれた声で答え立ち上がった。 そしてもう一度、霧子のいる方を振り返り、心の中で何度も呼びかける。 それが彼女を救う方法になるよう一心に祈りながら。 「どうしてあなたが僕たちを……?」 まだ涙に潤む瞳でまっすぐ神取を見上げ、真物は同じ質問を繰り返した。 神取はわずかに首を傾け、何かを探るような目付きで真物を見た。しかしすぐに目を伏せ、独り言のように呟いた。 「君達兄妹の――特に君の目が、気に入ってね……」 虚空を見つめる神取の眼差しを一瞬でも見てしまった真物は、暗く沈んだ瞳に言い知れぬ恐怖を感じた。それがどこからくるものか解らなかったが、本能が告げる心身の危機を敏感に察知したのかもしれない。 あるいはただの気のせいか。 神取の、抗しきれない雰囲気に囚われた真物は、不安を感じながらも彼の後をついていった。 |