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現在 土曜日

 

 

 

 

 

 鉛筆が紙の上を滑る小気味よい音がする度に、白紙に人の姿が浮かび上がる。
 一心不乱に鉛筆を動かし、見神真物は紙の上に一つの風景を映し込んでいった。
 男子にしては美しい、整った顔立ちをしていた。
 ほっそりとした輪郭がそう思わせるのだろうか。制服をセーラー服に替えたら、美少女に見間違えるかもしれない。
 特に目が印象的だった。
 何かに耐えるような無表情でありながら、中心に強い意志の光が見える。狂気にも似たその光は、怒れる彼の内面を言外に表していた。
 決して消えない、弱まりもしない怒りをぶつけるように、彼はひたすら鉛筆を動かし続けた。
 まっすぐに伸び、交差し、曲線が描かれてゆくに従い、やがて姿を現す顔のない人の群れ。
 彼らは交差点を行き交う途中の時を与えられていた。背中を向けた者、こちらを見る者、親に手を引かれる幼い子供、同じ制服を着た数人の女子…そんなありふれた風景でありながら、そのどれにも表情はなかった。
 目も口もなく、話しているのか、笑っているのか、目はどこを向いているのか、楽しいのかそうでないのか。それらが一切解らない。
 画面全体は薄く塗り潰され、空は螺旋を左右に動かした黒で表されている。
 幾人かの仕草は談笑しているように見えるのだが、それでも何故か、全体的に暗く沈んだ雰囲気の漂う、陰惨な絵だった。
 交差点の中央で足を止め、描き手に顔を向ける黒い服を纏った男の姿を描き終えて、真物は鉛筆を置いた。そして、紙全体をびっしりと埋め尽くす無数の人の群れをぼんやりと見渡した後、おもむろに目を閉じた。
 落胆したように俯き、深いため息をつく。
 その拍子に、制服の襟元につけられた校章が太陽の光を反射して、画面中央に立つ描き手に顔を向ける男の姿を、一瞬照らした。
 土曜日の放課後、部活動以外で学校に残る生徒はほとんどなく、校舎はまるで異世界のように静まり返っていた。
 人の気配は随分前に失せ、ただあるのは降り注ぐ太陽と、柔らかな空気の取り巻く落ち着いた空間。二メートルを超える奇岩が置かれた中庭の、この時間のこの空気は、真物に束の間の安息を与えてくれた。
 ここにいる間は、自由が許された。
 しかしそれで何もかも忘れてしまうのは叶わなかった。
 忘れようと努める心の働きが、逆に固執を生み、片隅できりきりと傷んだ。
 自由でない時間が、どれほど醜悪で堪え難いものであるか嫌というほど味わっているだけに、痛みは相当ひどかった。
 閉じた瞼の裏に浮かぶ誰かの顔に怯えて、真物ははっと目を開いた。ふと時計を見ると、すでに一時を過ぎている。
 いつまでもここにしがみついている場合ではないと、膝に乗せたスケッチブックを無造作に鞄に押し込み、真物は立ち上がった。
 石のように重く冷え切った目で、中庭を立ち去る。

 

 

 

 学校から御影町の駅までは十分ほどの道のりだ。
 そこから電車を二度乗り換え、一時間ほどかかる臨海公園駅にやってきた真物は、目的地である、ホームの正面に位置する病院に目を向け、それからおもむろに歩き出した。
 改札を出てすぐの洋菓子店で、小さな箱に入ったクッキーの詰め合わせを買い、これから見舞う身内がそれを受け取り喜ぶ顔を思い浮かべてみる。
 駅前には、シュールな女性像を設えた市民公園があり、休日には家族連れの憩いの場になっている。
 公園の向こうには国立病院があり、そのさらに向こうは駅名の通り海が臨めるようになっていた。今日のように天気の良い日は、遥か沖まで見渡せた。
 しかし、風が運ぶ潮の香りも、穏やかに降り注ぐ太陽の光も、真物には意味のないものだった。
 ただひたすら、すれ違う人の顔より下に目を向けて、歩き続ける。
 病室で、自分の訪れを心待ちにしているであろう年若の身内を見舞う間だけが、生きている自分を実感出来た。
 それ以外の時間は、自分のものではなかった。
 ある人間に管理され、自分の意思は何一つ通らない、許されない。
 もしも破れば、自分の『今の時間』を所有する男の怒りに触れ、手酷い罰を受ける事になる。

「――!」

 その瞬間を思い出し、真物は背負わされた痛みにひくりと喉を引き攣らせた。
 すぐさま頭から追い払う。
 これから向かう場所に、そんな記憶は必要ないと、片隅に追いやる。
 外科病棟の個室で真物を待っているのは、三歳下の妹、霧子だった。
 二年前に両親を亡くした真物にとって、霧子は唯一残された身内だった。
 霧子の入院は長く、実に丸二年も病院に閉じ込められていた。交通事故で運ばれ、術後の経過が思わしくないとの診断により、十四歳を過ぎた今も小さな白い部屋で一人過ごしている。
 事故に遭った日は、両親の告別式の日でもあった。
 正面玄関に続くなだらかなスロープをゆっくりと過ぎ、真物は自動ドアをくぐり抜けて病院に足を踏み入れた。
 土曜日の午後は休診の為外来患者もなく、ほとんど人影のない閑散としたロビーを、かすかな足音を響かせて目指す病棟へと向かう。
 目に入るものは――。
 リノリウムの無機質な白、薬品の臭いが染み付いた白壁、天井のぼやけた白。
 いつ来ても嫌な空間だった。
 白は色に含まれない。
 ここにいる人達は皆何かしら病に苦しめられ、青白い顔をしている。
 霧子もそう、この空間の外にいる誰より、ずっと死に近い…だからそう、色を失ってしまうんだ。
 三階でエレベーターをおりた真物は、そのまままっすぐ突き当たりまで廊下を進んだ。
 霧子の病室をノックしようと手を上げたところで、真物ははっとなった。
 慌てた様子で鞄を探り、霧子に頼まれた物を忘れていないか確認する。
 教科書の間に挟まれたノート大の封筒を見つけ、真物は思い出したように息を吐いた。
 一度色を失ってしまうと、再び取り戻すまでに相当かかる。あるいは、二度と元に戻らないかもしれない。
 真物は、霧子が失いつつある色を手放してしまわないよう、出来るだけの事をした。
 封筒の中身に込めて、霧子の目に映るものに色を与える。
 自分と同じ苦しみは、味わわせたくなかった。
 知らず内に、顔が苦痛の色を浮かべていた。こんな色は必要ない。真物は気持ちを切り替えようと深く息を吸い込んだ。目を閉じ、霧子に会うのに不必要な一切の感情を消し去る。

――大丈夫

 目を開けて、真物は扉をノックした。
 ややあって小さな声が応え、真物は静かに扉を開いた。
 不安そうに扉に目を向けていた霧子の顔が、兄を認めるやたちまちほころび、愛くるしい笑みに彩られた。

「今日は来てくれないのかと思ってたの!」

 驚きと喜びの入り混じった、明るい声。とても病人とは思えない。一瞬真物は、何故霧子がここにいなくてはいけないんだろうという疑問にとらわれた。
 こんなに元気なのに、霧子は何故ここに閉じ込められているのだろう。

「遅くなってごめん。もっと早く来るつもりだったんだけど……」
「ううん、来てくれて嬉しい」

 屈託のない笑顔で霧子は首を振った。
 本当にどこも悪いようには見えない。
 けれど霧子は、病院から出る事を許されない。
 本当ならこんな所ではなく、もっとたくさんの人の集まる、明るく、賑やかで、楽しい…数え切れないほどの色に囲まれた中で笑っているはずなのに。
 切り取られた空間の中で一日を過ごさなければならない霧子の苦しみを、自分が全て負う事が出来たら。
 例えそれで今以上に死んだような生活を強いられる事になっても、霧子が笑って過ごせるなら、それで構わないのに。
 そんな大それた望みではないだろう、どうして許されない事ばかりなんだ。
 手に届く場所にない物を求めてあがく。
 それを霧子の目に触れる表には出さないけれど。

「そうだお兄ちゃんさっき――」
「……霧子、それは?」

 何かを伝えようとする霧子の言葉を遮り、真物は凍り付いた眼差しで棚の上の花瓶を指差した。
 白無地の花瓶には、赤と黄色の大輪の花が生けられ、艶やかに咲き誇っていた。

「うん、これね。さっき宮下さんが来てくれて、お見舞いにってくれたの」
「いつ……来たの」

 血の気の失せた唇を震わせ、真物はかすれた声で聞いた。
 自分の好きな花ばかりを選んでくれた宮下に対する感謝の意味も込めて、霧子は嬉しそうに答えた。
 兄の様子がおかしい事には気付いていない。

 宮下真夜

 複合企業セベク。

 支社長秘書を勤める二十代半ばの女性。
 彼女は、自分に付き纏う真実をどこまで知っているのだろうか。

「ええと…三十分くらい前、かな」
「これ――これ、霧子の好きな花だったよね」

 冷たい手のひらで撫でられたように、背筋がすっと冷えてゆく。纏わり付く不快感を無理矢理押さえ付け、真物は声が震えないよう努力して言った。

「そうなの! 私、一回くらいしか言った覚えないのに、宮下さん忘れないでいてくれたの」

 自然と霧子の声が弾む。
 途端に真物は、花瓶ごと窓から投げ捨てたい衝動にかられた。

「良かったね。後で僕からもお礼を言っておくよ」

 込み上げる激情を懸命に押し殺し、真物は笑顔を浮かべた。
 霧子が優しさに包まれて生きてゆく為なら――自分はどんなに悪意にさらされようと構わない。

「食事には特に制限ないって聞いたから、これ」

 覚悟を決めてベッドサイドに腰を下ろした真物は、手にした包みを霧子に差し出した。

「うわぁ! この包み、確かすぐそこのポワントっていうお店のでしょ!」

 桜色のリボンを丁寧にほどき、霧子は蓋を開けた。

「前にも買ってきてくれた事があるでしょ、このクッキー。すごく美味しかったから、もう一度食べたいなって思ってたの! 今日、ホントに!」

 強く願ったのが届いたのかと、不思議な目の輝きで霧子は繰り返した。
 けれど、霧子のはしゃいだ声も、今の真物には遠く霞んではっきり聞き取れなかった。
 ただ、彼女の口の動きに合わせて、笑顔のまま頷き返す。

「調子に乗って食べ過ぎて、病院の食事残すなんて事にならないようにね」

 しかし、それではここに来た意味がないと思い直して、真物は声を出した。

「ええ、私、残した事なんて今まで数えるくらいしかないよ」

 わざと拗ねたように頬を膨らせて、霧子はそっぽを向いた。
 その仕草があまりにもかわいらしくて、真物は思わず笑ってしまった。
 つられて霧子もくすくすと笑う。

「そうだ、この前霧子に頼まれた馬の絵。描いてきたけど…これでどうかな」

 そう言って真物は、鞄から封筒を取り出した。霧子が何を望んでいるのか解っているつもりだが、実際見てもらうまでは不安ばかり募る。
「この前お願いしたばかりなのに、もう描いてくれたの?」
 霧子はびっくりしたように瞬いて、封筒を受け取った。慎重な手つきで中から厚手の紙を取り出す。

「うわぁ、きれい……!」

 霧子の視界に、一つの風景が現れる。微風に揺らぐ草原の緑と、雲一つなく澄み渡る空の藍と、まっすぐに尾をなびかせて疾走する駿馬の栗色に、霧子は感嘆のため息をもらした。
 それからしばらく、霧子は風景に見入ったままじっと押し黙っていた。

「とっても……綺麗。本当にありがとう。すごく嬉しい!」

 喜びを全身で表すように、霧子の身体は小刻みに震えていた。

「よかった、そう言ってもらえて」

 ほっと胸を撫で下ろし、真物はちらりと壁に目を向けた。そこには、今まで霧子にせがまれて自分が描いたいくつかの絵が、丁寧にセロファンに包まれて飾られていた。
 昔、両親がまだ生きていた頃、夏には必ず訪れた美しい南の海、森の木々、初日の出を眺めた富士。
 そういったありのままの自然を、霧子は特に好んだ。
 どれもこれも、退院したら真っ先に肌で感じたい風景。
 実現する日を夢見る霧子の手助けになるよう、真物は、まるで自分の命を削り与えるように彼女の望む絵を描いてきた。
 霧子の目に映るそうした一切のものには、優しい気持ちを惜しみなく注いだ。
 そうでない部分がどれほど醜悪であるかは、微塵も感じさせずに。
 そうして三十分ほど、他愛ないお喋りをしただろうか。
 とうとう帰らなければならない時間になり、真物は断腸の思いでそれを告げた。

「じゃあまた、来週の土曜日に」

 立ち上がりかけた兄に、妹がさり気なく言う。けれど、目は嘘をつけなかった。
 まだここにいてほしいと、明日も来てほしいと訴えかける霧子の眼差しに、真物は言葉を失った。

「ああ……また、土曜日に来るよ」

 今にも涙が零れそうな霧子の頬に触れて、真物は励ますように頷いた。

「ありがとう。でも、無理しなくていいからね。この前持ってきてくれた本まだ読み終えてないし、当分は一人でも大丈夫だから」

 霧子の精一杯の笑顔に、真物は胸が抉られる思いがした。霧子が我慢する事を覚えたのは、自分のせいだ。
 それでも霧子は笑顔で見送ってくれる。
 これ以上霧子に哀しい思いをさせない為に、真物も笑顔で応え病室を出た。
 自分が去った後、一体どんな顔で霧子は夜を過ごすのだろうか。
 何もしてやれない自分の不甲斐なさに、真物はやり場のない怒りを感じていた。
 引きずるような足取りで正面玄関を出る。
 その直後、視界の端に他を圧倒する強烈な存在感の黒が現れ、真物はぎくりと肩を強張らせた。
 右手に広がる駐車場に停められた、黒塗りの、外国産の高級車の脇に一人の美しい女性が立っていた。
 霧子の口から名前を聞かされた時からずっと付きまとっていた、いわゆる恐怖や威圧感といった不快な感情が、一気に膨れ上がって真物の胸を締め付ける。
 ありえない痛みに、真物は胸を押えて立ち竦んだ。
 喉の奥から込み上げる吐き気に息が詰まる。
 真物はそれを無理矢理嚥下して、引き攣れた吐息をもらした。
 上品な赤いスーツを着た女…真夜は、真物に向かって軽く頭を下げ、車に乗るよう手をかざした。
 決して溶けない氷塊を押し付けられたように、背筋が底無しに凍えてゆく。
 身震いするほどの嫌悪感をどうにかこらえ、真物はゆっくりと真夜の傍に歩いていった。

「……花、ありがとうございます」

 ぎこちない笑みを浮かべ、真物は相手の目を見ずに頭を下げた。

「霧子さん、今日はとても元気そうでしたね」

 言葉通りに受け取っていいはずの真夜の気遣いも、真物は素直に聞き入れる気にはならなかった。
 何より腹が立ったのは、霧子の名を気安く呼んだ事だ。
 しかし、激昂するより先に諦めに似た感情がのしかかり、激怒する半身を引き止める。仕方なく真物は「ええ……」と呟き、彼女に促されるままに車に乗り込んだ。
「出して」
 助手席に座り、真夜は小柄な運転手にそう声をかけた。

 

 

 

 霧子の入院が長引いているのは、恐らく、両親の突然の死に深く関係があるのだろう。
 父は、佐伯グループに属する中核の商事会社に勤め、それなりの肩書きを持っていた。
 大人の領域につきまとう複雑な事情は分からなかったが、父の年齢では異例のスピード出世だと、母は事ある毎に口にした。
 父の休みは不規則で、それにしたって一日中家にいる事は滅多になかった。
 けれど父は間違いなく家族を大切にしていた。母や自分達兄妹の記念日には必ず、何かしら形に残るものと心を込めたメッセージを贈ってくれた。
 母はそんな父を心から敬愛し、同じだけ自分達を愛してくれた。
 互いに支え合い、父は前途洋々だった。
 ところが二年前のある日、父は突然退職を言い渡された。当時十五歳だった真物には、理由は分からなかった。
 その翌日、父と母は真夜中近い時間にもかかわらず、突然の電話に呼び出されるようなかたちでどこへか出かけ、二度と帰らなかった。
 首を吊って自殺したのだ。
 死体が発見されたのは、富士山のふもとに広がる樹海の入り口付近だった。遺書らしいものは発見されず、しかし殺人として成り立つような証拠もなかった為、結局自殺として片付けられた。
 悪い事は重なるもので、告別式の夜、霧子がひき逃げにあった。

 兄妹を誰が引き取るか。

 葬式の席に集まった親戚達が議論を行っている間、二人は葬儀場のロビーに追いやられた。
 真物は、自分以上にショックを受けている霧子を慰めるのに精一杯だった。
 霧子は涙も出ないほど悲しみに暮れ、しきりに両親はどこへ行ったのかと尋ねた。
 真物は、このまま霧子が狂ってしまうのではないかという恐怖を感じ、目を覚まさせようと嫌がる彼女に無理矢理現実を突き付けた。
 途端に霧子は、それこそ気が狂ったような悲鳴を上げて葬儀場を飛び出した。
 そのすぐ後に、真物は理解した。
 時間を置いてきちんと説明するべきだったのだ。
 今はまだ早く、そして手後れだった。
 真物は急いで霧子の後を追った。
 霧子は我を忘れて駆けていった。
 車道に飛び出した霧子に気付いて、真物は引き返せと大声を張り上げた。
 霧子の意識が正気に返る。
 そこへ、猛烈な勢いで車が突っ込んだ。
 ブレーキを踏む間もなかったのか。車は呆然と立ち尽くす霧子を高く跳ね上げ、スピードも緩めずそのまま走り去っていった。
 車体にすくわれて霧子の身体は宙を舞い、屋根を転げて地面に落ちる。
 薄暗い街灯の明りに照らし出される、血まみれの妹を見て真物は絶叫した――

「着きましたよ」

 目を閉じ、当時の事を思い浮かべていた真物は、真夜の声にはっと我に返った。
 車はいつのまにか、セベクビルの地下駐車場に到着していた。
 先に車を降りた真夜は後部座席のドアを開け、声をかけた。
 足元に置いていた鞄を手に真物は無言のまま車を降り、真夜の後をついてセベクビルに入った。
 最上階の支社長室に連れてこられた真物は、一礼して立ち去る真夜を横目で見送った後も、扉の脇に俯いたまま立っていた。
 大きなマホガニーのデスクの向こうに、黒い服を着た一人の男が座っていた。

 複合企業セベク

 支社長

 神取鷹久その人

「妹御は、元気だったかな」

 椅子に深く凭れ、神取は伏し目がちに真物を見た。
 とても人間のそれとは思えない、暗く沈んだ無機質な瞳。
 自分はこの目を見てから、人の顔が描けなくなってしまったのだ。

「そこでは話がしづらい」

 低い、抑揚のない声で神取は言った。手にした万年筆でこつこつと机を小突き、傍に来るよう命じる。
 真物は持っていた鞄を足元に置くと、目を上げずにゆっくり歩き出した。

「唯一の家族と会えるせっかくの時間を制限してしまうのは、私としても心苦しいが……」

 デスクの向こうに足を止め、俯いたままの真物に一瞥をくれると、神取は続けた。

「嘘を吐いた罰は、きっちり受けてもらわねばな」
「……はい…すみませんでした……」

 びくびくと身を震わせながら、真物は今にも消え入りそうな声で言った。
 覚悟は出来ていた筈なのに、それでも神取の声を聞くと心に鋭い爪を食い込まされたようで、真物は自然と身体が竦んでしまうのを感じた。
 骨の髄までしみ込んだ、これは条件反射か。

「傷は癒えたか?」

 言って神取は椅子から立ち上がり、ゆっくりとした足取りで真物の背後に回った。
 真物はしばしためらい、ごくわずかに首を振った。
 当然だろう。まだ、一週間と経っていないのだ。

「見せてみろ」
「……はい」

 肩越しの声に真物はかすかに頷き、無表情のまま足元に目を落とした。
 視線の先にある、毛足の長い絨毯の深い紅が目の奥を突き刺した。
 以前、この紅よりもなお朱い血を、ここで流した事がある。
 真物は震える指先で制服のホックを外し、命じられるままに服を脱ぎ始めた。

 

序-

目次

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