四年前 土曜日

 

 

 

 

 

 私は次第に心細くなってきた。
 道は徐々に狭くなってくるし、目的地への道を聞こうにも歩いている人さえ見つけられないのだ。途中立ち寄った村でもう少し、詳しく聞いておくべきだった。
 とはいえ、渓流沿いに行け、と言われたのだから、道は間違っていないはずだ。
 車はやがてゆるやかな山の斜面にさしかかった。
 山道をしばらく走ったところで車を停めて、私は窓から顔を出して空を見上げた。アーチのように両側から枝が伸びて、雲一つなく澄み渡る青空に網目をめぐらせている。ひんやりとした山の冷気が私の頬を撫でる。運転し通しで大分疲れていたので、私は一旦車を降りて縮こまった身体を思い切り伸ばした。
 と何気なく右手に目をやると、森の木々の合間に目指す町が見えた。
 安堵した私は、思わず頬を緩ませて深呼吸した。
 正面を見れば、確かに道は大きく弧を描き、白く伸びて村へ続いている。
 時計を見ると、昼を少し過ぎていた。到着したら、まず熱いコーヒーを一杯飲んで…いや、この地方は白ぶどうの産地だそうだから、そちらにしようか。そして何か腹にたまるものを頼んでそれから教会を訪れよう。
 そうあれこれ考えていると、急に腹がぐぅと鳴って私は一人赤面した。
 私は再び車に乗って、街へ通じる道を下り始めた。少しすると道の両脇にどこまでも続くぶどう畑が現れ、まるで町を取り囲んでいるように広がっている。いくつも連なる房は見たところまだ青くかたく、収穫期はまだ先のようだ。
 私はしばらくぶどう畑を見渡した後、町に入った。町の中央をまっすぐ行くと、つきあたりに教会が見える。私はやや興奮気味にハンドルを握り直した。
 心が逸る。
 道すがらいくつかの食堂が目に入ったが、教会を真っ先に見てしまった私は、空腹感も忘れまっすぐ車を走らせた。
 私にこの教会の事を教えてくれたのは、同じ大学院に通う神学部の友人、アルバート・ブロックだった。彼の話では、そこはキリスト教の教える悪魔とは全く違った悪魔を信仰している教会だという。
 私は少なからずその話に興味を覚えた。もしかしたら自分の求めるものとは別かもしれないと思ったが、それを抜きにしても、教会と神父と信仰の異端さには私をひきつける何かがあった。
 私は早速、連休を利用してその教会に向かった。
 小さな空港から車で延々四時間。途中いくつもの町と村を越えて、私はついに目指す教会にたどり着いた。
 積み上げられた煉瓦はすっかり色褪せ、左右対称の尖塔も長い間風雪に耐えてきたせいか、所々崩れていた。
 入り口の彫刻は、いわゆる最後の審判を表したものらしいが、そこから読み取れる物語はひどく陰惨で、救いになるような部分は一切感じられなかった。中央上部に位置する『神の手』も、節くれだった長い指に鷹のような鋭い爪を生やしている。手を差し伸べているのではなく、掴みかからんばかりの勢いがあった。ひれ伏しているのは、着ている衣服から察して聖女か何かだろう。
 長い事彫刻を眺めた後、私は教会の扉を開けた。

 

 

 

「それが、我々の信仰する神なのですよ」

 教壇のすぐ前に立ち、独特な色使いのステンドグラスに表された物語を食い入るように見つめていた神取鷹久は、突然そう声をかけられ、驚きを飲み込んで振り返った。
 浅黒い肌に柔和な笑みを浮かべて、神父が立っていた。すらりとした長身に聖職者にしては珍しいどす黒く赤い、言い換えれば血で染めたようなローブを纏っていた。

「……少しお話しを、いいでしょうか。私は、神取鷹久といいます。日本から来ました」

 神父の笑みはどことなく薄気味悪く、神取は嫌悪感をごまかすように愛想笑いを浮かべた。
 神父は黙って大きく頷き、長椅子に座るよう手振りで示した。神取は勧められるままに腰を下ろし、長い事心の中に重く垂れ込めている疑問を神父に投げかけた。
 神取は始めに、哲学書や宗教書をそれこそ数え切れないほど読み漁り、それでも納得のいく答が見つけられなかった事を説明し、人間の存在意義について知りたいのだと神父に告げた。

「人間の存在意義…ですか」

 神父は神取の顔をまっすぐ見つめたまま何度も頷き、おもむろに口を開いた。

「よろしい。お聞かせしましょう」

 静かな口調で語り始めた神父の説明を聞いて神取は「またか」とあからさまにうんざりして顔をしかめた。
 過去何度となく聞かされてきた話と同じ始まりであるなら、たどり着く先も同じ場所だろう。神取は神父の話を聞き流しながら、きりのいいところで断ち切ろうと言葉が途切れるのを待った。
 ところが、始まりは同じく「旧支配者たちは、この地に人間と動物と植物を創った」だが、その先の展開は神取に大きな衝撃を与えた。

「それは、自らの食物にする為です」

 神取は絶句した。

 人間を?

 唇はそう綴ったが、言葉にならなかった。
 神父は尚も説明を続けた。
 動物と植物は人間の為に。そして人間は旧支配者の為に存在するのだという。
 人間が万物の霊長だというのは大きな誤りで、結局は旧支配者たちの食物に過ぎないのです。
 神父は言った。

 食べるといっても、肉体そのものではありません……人間の精神が糧となるのです。特にそう――恐怖と絶望を好むのです。

 恐怖と絶望

 神取はそこではっとなった。入り口の彫刻は、まさにこの教えを克明に表したものなのだ。
 あの『神の手』は、人間を食物とする旧支配者の手だったのだ。
 俄かには信じられなかった。
 だが、西洋の宗教に多く見られるエゴイスティックで傲慢な教えと比べれば、こちらの方がはるかに自然で、正しいとさえ思えた。
 その時神取は、どこからか声が響くのを耳にした。
 神父のそれとははっきり異なる、混沌とした意識の塊。
 姿は見えなかった。灰色に濁った雫を滴らせ、音もなく這い寄るそれは、視界に映る一切のものを黒く塗りつぶし、闇に変えた。
 神父の声は変わらずはっきりと耳に届いていた。
 そしてそれとは別のところで、闇が広がってゆく。
 神父の話に触発されたように。
 これが旧支配者なのだと、神取は直感した。
 絶大な恐怖に晒され、神取の魂が悲鳴を上げる。
 だが、限界を越えた感覚はいっそ陶酔を齎した。

「旧支配者は滅びたわけではありません。今も存在しているのですよ。我々の言うところの、異世界に……」

 神父は再び気味の悪い薄笑いを浮かべて頷いた。
 それはまるで、神取の見ているものが何か解っている――そんな表情だった。
 急速に迫る闇に抱かれ、神取の意識はぷっつりと途切れた。

 

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