GUESS 赤 5

因果の糸車

 

 

 

 

 

 警察署を出る前に五人は、銃火機類を手に入れなければならなかった。
 マキが無事であった事、ブラウンにもペルソナが出現した事により当初の目的をすっかり忘れていたマークだが、南条に言われてやっとその事を思い出し、別室に厳重に保管されているであろう武器を手に入れる為にもう一度署内に戻った。
 南条は、間に合わせで持っていたハンドガンをやめてライフル銃を装備し、マキは南条に渡されたハンドガンにちょうどいいガンベルトを見付け、マークはマキが見付け出したショットガンを装備する事にした。かなり重量はあるが、実際構えると身体にしっくりなじんだ。そうでなくてもマークは、マキの推薦とあればどんな武器でも喜んで受け取っただろう。
 ブラウンが手にしたのは、本来の形態とはかなりかけ離れた改造の施された、派手な外見のマシンガンだった。渋いブルーの光沢が一際目立っている。
 マークが異を唱えたが、ブラウンは取り合おうともせずに調子付いて構えてみせた。ひとまず格好だけは様になっていた。
 彼らから離れ一人ぼんやりと様子を眺めていた真物は、不意に南条に呼ばれてはっと顔を上げた。その直後、何かを投げ渡される。両手で受け取ったそれは、マキが見つけ出したものに似た形のハンドガンと、補填用の弾丸を備えたガンベルトだった。反射的に礼を言ったものの、実際に使う状況が訪れない事を祈るばかりだった。
 あるいは人をも殺してしまうだろう武器を、自分自身が身につける事になるとは。そう考えただけで、気分が悪くなった。
 だが決して、その感情を顔に出す事はしなかった。
 そして五人は警察署を後にし、廃工場へと向かった。

 

 

 

 やがて、幾重にも覆い重なった薄墨色の雲から大粒の雨が降り始め、生暖かい南風とあいまって嵐と化し、目指す廃工場まであとわずかという五人を行かせまいと荒れ狂った。
 勢いよく吹き荒れる風に翻弄されながらも、五人はどうにかこうにか廃工場の入り口にたどり着き、軋む扉をこじ開けて中に駆け込んだ。
 五人を追いかけるように扉の隙間から風と雨が吹き込み、マークが慌てて扉を閉めようとする。

「待って、稲葉君。その前に明かりをつけないと、真っ暗になっちゃうよ」

 ハンカチで濡れた髪を拭いながら、マキが慌てて引き止める。

「ああ、そだな。おい上杉、ずっと向こうの突き当たりにスイッチあるから、つけてきてくれよ」
「えー、オレ様ぁ?」

 ゴーグルを外し、犬のように頭を左右に振って滴を払い落としていたブラウンが、あからさまに拒否の声を上げた。

「そうだよ。いーから早く行けっての」
「奥は真っ暗だし、何も見えないし、悪魔とか潜んでたらヤダし……」

 ブラウンは腰に手を当て、あれこれ言い訳しながら何とか回避しようと試みた。

「ごちゃごちゃ言ってんなって。そんなに広くねぇし…って、もしかしてオマエびびってんの?」
「えー? 違う違う。もうわかってないなぁ、マークは。こーいうのはリーダーであるオレ様の役目じゃないって言いたいのよ。オレ様が行ってだよ、もし万一何かあった場合マズイでしょーが」

 咄嗟にこれだけ嘘を並べ立てられる自分自身に腹を立てながらも、ブラウンは平静を装い言い切った。

「あのなぁ……」

 マークにとって、ブラウンのこの手の虚栄には慣れっこだったが、怖いとかいやだとか素直に言わない態度には心底うんざりしていた。さらに何か言おうとした時、いきなり天井から薄暗い明かりの束が降り注いだ。

「お…?」

 マークはまず天井を見上げ、次いで思い当たったスイッチの方に目を向けると、こちらに歩いてくる南条の冷やかな眼差しとぶつかった。

「貴様らはいつもそうやって無駄話を繰り返すが、よく飽きないものだな」
「よけーなお世話だっての」

 面白くなさそうにマークは鼻を鳴らし、そっぽを向いた。
 いくつかの電球は壊れて使い物にならなくなっていたが、探し物をするには十分な明るさだった。

「なにこれ!」

 マキが、思いもよらぬ宝物を発見した驚きと喜びのあいまった声を上げた。それが余りにも嬉しそうだったので、真物は思わず同じ方に目を向けた。そして同じように、驚いた。
 左手の壁一面に、大小入り乱れ様々なキャラクターが色鮮やかにひしめきあって描かれている。
 それらは、壁全体を埋め尽くしていた。
 心にイメージするものを、思うままに発散させた勢いが感じられた。本人が名乗らずとも、真物にはそれが誰の描いた物なのかすぐに分かった。

「ねぇこれ、稲葉君が描いたものでしょ?」

 よく見えるように近付いて隅々まで眺めていたマキが、見事言い当てる。

「へぇー、マークにこんだけ描ける才能があったとはねぇ」

 茶化すような口振りだったが、ブラウンも素直に感心していた。

「古色騒然というより、小汚いだけだな」

 水を差すように、南条が率直な意見を述べた。

「あんだよ南条、わかってねーなぁ。これがアートっつぅモンよ!」

 南条独特の皮肉もまったく効かず、マークは自信たっぷりに腕を組んだ。本当に得意とするものを口にする時特有の、誇りに満ちた表情をしていた。

「グラフィティアートっつって、オレのソウルのシャウトなわけよ!」

 マークの言葉に背中を押されて、真物は傍まで寄って絵を見上げた。完全に圧倒されてしまった。グラフィティアートは、言い換えれば「落書き」になるが、そんな簡単な言葉では表しきれない才能が秘められていた。絵筆も使わず、下書きも無しにこれだけ表現できるマークの眼差しに、真物は改めて驚かされた。
 その時、右手の方向に誰かが立っているのに気付いた。

「へぇー、ソウルのシャウトねぇ。うんうん、わかるわかる」

 腕を組んで、ブラウンは大仰に頷いた。

「私もわかる」

 ブラウンの態度にはうさんくさそうな目を向けたマークだが、マキの屈託のない笑顔を見て、照れたように鼻の頭をかいた。

「へへ、ここはよ、オレら『テイラーズ』のアトリエみたいなもんなんだ」
「そのようだな。この内部には詳しいようだが稲葉、一つ質問していいか」

 後方にいた南条が、一歩前へ出て話に割り込んだ。

「何だよ」
「貴様らは、しょっちゅうここに出入りしていて、ここがセベクと繋がっている事に気付かなかったのか?」

 殊更ゆっくり喋る南条の言葉を最後まで聞いて、マークはあっと声を上げたきり凍り付いたように動かなくなった。

「そうか、分からなかったのか」

 マークの返事を待たずとも、表情を見れば一目瞭然だった。蔑むでもなく、仕方ないとばかりに肩を竦めて南条は頷いた。

「う、うっせーな! こーいうのを、あれだ、灯台波高しってんだよ!」
「それを言うなら灯台もと暗しだ」

 慌てて言い繕ったものの、うろ覚えの諺で南条に対抗するのは分が悪すぎた。特に感情が込められていない分、マークには最高の皮肉だった。ブラウンが我慢出来ないという風に肩を震わせて笑い、つられてマキも思わず笑ってしまった。
 それらの喧騒は、真物の耳には一切届いていなかった。
 真物は、奥の方に乱雑に積んであるドラム缶の陰から、誰かがこちらの様子を伺って身を潜めているのを見ていた。現在の光景ではない。真物が目にしているのは、この場所に染み付いた過去の映像だった。目に映ったという表現は間違いかもしれない。感じられる思考の断片が心の中で再構築され、その映像が直接目で見たものと同じように脳裏に映し出されているといった方が近いだろう。
 今にも消え去りそうなほど微細で、顔かたちがはっきり見て取れなくても、真物にはそれが節子だと認識出来た。息を潜め、周りの気配を肌で感じ取ろうと神経を張り詰めている。
 入り口まであとわずかだ。逃げ切れる自信はないが、体力にはまだ余裕がある。節子は、意を決してドラム缶の陰から飛び出した。
 彼女の素早い動きを追って、真物は肩越しに振り向き入り口を見やった。
 現在そこには、南条が立っている。

「? 何かいるのか」

 真物の目の動きを見て南条は、この辺りに何者か潜んでいるのかと推測した。真物は、不審に思われないよう出来るだけ自分の声を抑えて首を振った。無傷ではなかったが、節子が五体満足で自分達の元にたどり着いた事実を知っているのに、今見た過去の光景が余りにも生々しく感じられたせいか、息苦しいまでの切迫感を拭い去るのは容易でなかった。

「そうか。では見神、早速そのカードとやらを使ってセベクに向かうぞ」

 頷くようにわずかに口を動かして、真物はポケットからカードを取り出した。と、不思議な事に、取り出した瞬間カードから光に似た一筋の糸のようなものが、はるか前方へ向かって放たれた。光は、建物内の一番奥に設置された電源ボックスに吸い込まれた。
 それは真物だけに見える、思考によって描かれた道筋だった。
 警察署で鍵を探し当てた時と同じ現象だった。糸のような光の筋も、本来の光とは異なっていたが、真物には光としかいいようがなかった。

「使える場所は聞いてあるのか?」

 しばらくの間、光の筋で繋がれたカードとその先の電源ボックスを確認するように何度も目で追っていた真物は、南条の質問にどう答えるべきか迷いながら振り返り、頼りなさそうに頷いた。

「よし、では案内を頼む」
「オッケー、ではちゃっちゃと行ってちゃっちゃとワルモンを懲らしめてやりますか!」

 冗談めかして、ブラウンが妙な気合をいれた。

「上杉、もう一度言っとくけど絶対足手まといになるなよ」

 先程笑われた仕返しか、いつもの数倍はトゲのある言い方でマークは念を押した。

「マジオッケーッスよ。超リーダーのオレ様に任せなさいって!」
「ホントかよ……」

 聞こえよがしに零しながら、マークは横目でじろりとブラウンを睨み付けた。
 真物はまっすぐ奥に向かって歩き出した。
 光が繋ぐ道のりをたどって実際近付いて見ると、巨大な印刷機の下部に設置された緊急停止用のスイッチボックスにたどり着いた。プラスチックカバーの蓋を開けると、中には赤いボタンが一つと二つの表示ランプそして鍵穴があるだけで、カードを使用出来るような部分は見つからなかった。

「これがそうか?」

 中腰になって覗き込んだマークに曖昧に頷いてみたものの、真物にもどこにどう使えばいいのかまだ分からなかった。蓋を開けた時点で、節子の手がここに触れて離れたのは見えたので、場所は間違いないはずだった。
 とりあえず真物は顔を近付け、脳裏に浮かんだ映像になぞらえてカードを持ち、スイッチの横の部分を探ってみた。すると、カードの厚みに合致する隙間が印刷機本体とスイッチとの間にある事を発見した。

「そこに使うのか?」

 マークの言葉に、今度ははっきり頷く事が出来た。

「大丈夫か、見神」

 やや離れた場所で成り行きを見守っていた南条が、確認するように声をかけた。

「まあ見てなって。さっそく使おうぜ、シン」

 真物の手からカードを取り上げて、マークが得意げに言い返した。

「おい稲葉、慎重に……」
「どーってことねぇよ」

 南条の忠告に耳も貸さずに、マークは素早くカードを滑らせた。その途端、今まで消えていた表示ランプが一瞬明滅し、左側の緑のランプが点灯した。

「どうかなった?」

 マークが振り返る。機械がカードを認識したのは確かだが、辺りに何らかの変化は見られなかった。

「何も…起きないね……」

 近くの壁の隅々まで見渡して、マキが呟いた。
 真物は立ち上がって何気なく正面の床に目を落とした。その直後、ぽっかりと巨大な口を開けたコンクリートの床と、現在の何の変哲もない光景とが二重写しのようになって、視界に広がった。

 ゴウン

 突然、腹に響くような地響きがして、床下から不気味な轟音が徐々に近付いてきた。そこで唐突に真物は理解した。
 秘密裏の搬入口というからにはもっと小規模なものを想像していたが、これほど堂々と改造していたとは。
 真物は思わず南条の腕を掴んで引き寄せた。何故なら、彼が今立っている場所がもう間もなく失われようとしていたからだ。彼の内側に渦巻く感情がどの方向を指しているかよくわかっていたが、触れる事に躊躇するより先に真物は行動を起こしていた。

「な、なんだ見神」

 突然腕を引かれて、南条は驚いたように振り返った。
 咄嗟の行動だったので、真物は説明出来る言葉を用意していなかった。その代わりに、脇にいたブラウンが南条の注意を逸らせるほど素っ頓狂な声で叫んだ。

「床! 床が……!」

 真物の見据える先に、いくつもの視線が集中する。重々しく軋みながら、床が割れて暗い穴が四角く口を開けた。

「あ、ああ。そういうことか。済まん見神」

 予想以上に大掛かりな仕掛けに驚き、南条は感情の抜けた声で言った。大掛かりな仕掛けの事も節子から説明を受けていたのだろうと納得する南条に、真物はほっと肩の力を抜いた。
 近付いてくる振動音とともにリフトがせり上がってきた。止まると同時に両脇から手すりが跳ね上がって殊更大きな音を立て、唐突に静かになった。
 皆呆気に取られたように口を噤んでいた。

「すげぇ……これで行くのかよ」
「まるで映画みたい。何かワクワクするね!」

 放心したように呟くブラウンとは対照的に、マキは嬉しそうに声を上げた。

「ワクワクって……」

 特別気になる女の子の意外な一面を見たマークは、純粋に驚いてマキを見た。

「ね!」

 同意を求めるように振り向いたマキと目が合った途端、マークは慌ててそっぽを向いて「そ、そうだな」と曖昧に頷いた。

「よっし、ではまずリーダーのオレ様が一番乗りね!」

 それまで何もせず傍観者気取りだったブラウンが、突然きびきびと動き出してリフトに乗り込んだ。

「スイッチ確認、と」

 調子に乗ったブラウンは、片側の手すりにある昇降ボタンを指差し点検する真似をした。はずだが、弾みで実際に降下のボタンを押してしまった。

「おろろ?」

 がくん、と上下に揺れて、リフトはゆっくりと床下に沈み始めた。

「上杉、早く止めんか!」
「ま、いーじゃねーか。このまま行っちまおうぜ」

 まだ段差はほんのわずか、マークは言うが早いかリフトに乗り込んだ。

「園村、大丈夫か?」

 手を差し出してマキを呼ぶ。

「よっと!」

 マークの手を掴み、マキはスカートの裾をひるがえしてリフトに飛び乗った。マキが無事乗り込んだ途端、マークは恥ずかしそうに慌てて手を離し南条と真物に目を向けた。

「全く……」

 その後に続く言葉を飲み込んで、南条は真物の背中を押した。促されるまま真物はリフトに飛び降り、小さな動作で南条を振り返った。間を置かず南条もリフトに乗り込む。
 その直後、南条は堰を切ったように一気にまくしたてた。

「いいか貴様ら! 今後何かあっても、やたらに触れるな! よく考えてから行動しろ!」
「へーへーわかりましたよ」

 両手を頭の後ろで組んで、マークは適当に返事をした。

「どこまで行くのかな」

 手すりから下を覗き込んで、マキが静かに呟いた。
 リフトは徐々に加速しながら下降を続けた。四角く切り取られた工場内の明かりが、みるみるうちに小さくなっていく。
 はるか頭上の点になっても、尚リフトは下へ下へ。
 さらに下へと向かっていった。

 

 

 

 雨は静かに降っていた。窓ガラスに叩き付ける雨粒が様々に形を変えるのを黙って見つめていた男は、やがて、その向こうに広がるくすんだ町並みに目を移した。
 地上ははるか眼下にあった。雨の降る音も、ここでは全く聞こえない。
 何か思うところがあるのか、男はガラスに片手をついて囁くように息を吸い込んだ。それから、呼ばれて振り返る時にそうするように、首を傾げ、ゆっくりと身体の向きを変えて部屋の中央に目を向けた。
 セベク、支社長。
 神取鷹久。
 ここは彼の居室であり、セベクの支社長室とも呼び、子供の遊び場でもあった。

「ねえ、こいつどうすんの?」

 それまで、張り詰めたような沈黙が続いていたのを、幼い女の子の声が唐突に断ち切った。
 幼女は、神取の前にあるマホガニーの大きなデスクに座り足をぶらぶらさせていた。すっかり退屈しきった様子で、大きなあくびを一つつく。
 神取はデスクに両手をついて幼女の目の高さにかがみ込み、「そうだな」と思案した。
 二人の視線の先には、床にうずくまったままわずかも動かずにいる少年がいた。
 少年は、エルミンの制服を身につけていた。

「もしパパが望むなら、あきがこいつを、二度と帰ってこれない場所に連れてってやるよ」
「そうだな…それもいい。そいつと遊ぶのも、もう飽きていたところなんだ」
「じゃあすぐにやってあげるよ!」

 幼女は嬉しそうに叫んでデスクから飛び降りると、服の下から何やら引っ張り出した。
 首に下げていたそれは、半月型の鏡のようなものだった。
 神取はゆっくりとした足取りで幼女の横に歩み寄った。

「やるよ? パパ」

 もう一度確認するように神取を見上げ、幼女は返事を待った。
 神取は口元に緩やかな笑みを浮かべていたが、その瞳は幼女を止めたがっていた。
 幼女もそれを察したのか、神取を見上げたまま鏡を持った手をゆっくりと下ろした。

「どうするの? パパ。あきは、パパの望む事なら何でも叶えてあげられるよ」

 幼女にとって、それこそが生きる喜びであり、糧であった。神取もそれを知っていた。
 しかし今は必要なかった。
 別の方法を試したいと思っていた。

「そうだな……」

 神取は囁くように言ってゆっくり歩き出した。少年の顔の傍で足を止め、覗き込むように前屈みになる。
 少年は完全に意識を失っていた。誰かの手が触れても気付かないほど、闇の中で眠りについていた。
 神取は少年の額にかかる髪をかき分けて、そこに浮き上がるわずかな傷跡を記憶に刻み込むように、じっと見つめていた。
 彼の顔は、何度見てもやはり自分と似ていた。憎々しげにうめいて、神取は少年から離れた。くびり殺したくなるほどの衝動に駆られる自分自身に腹を立て、神取は感情を噛み殺すように奥歯をきつく噛み締めた。

「武多!」

 安易に喜怒哀楽を波立たせる自分自身を叱咤し、神取は扉の脇に立つ人物を呼び付けた。

「は!」

 それまで、立像のようにわずかも身じろぎせずにいた男は、神取の呼びかけに即座に応え指示を待った。スーツを着込み、ネクタイをするよりも、青銅の甲冑でも身につけさせた方がよっぽど似合うのではないかと思えるほど、男は頑強な身体つきをしていた。

「システムの実験にはうってつけの人材だ。こいつを次元の狭間に捨ててこい」

 少年には二度と目を向けようとせず、神取は抑揚のない声で命じた。

「かしこまりました」

 武多は深々と頭を下げると、未だ眠りに就いている少年を担ぎ上げ、先程まで立っていた扉とは別の場所から出ていった。
 立ち去る武多の後ろ姿を目で追いながら神取は、これでいい、と何度も自分自身に言い聞かせていた。
 そう、これでいい。これでもう過去の亡霊に苦しまずに済む。奴を始末すれば、今後一切自分を苦しめる何者も失われ、現れずに済む。

「さて、あき。次の計画に移ろうか」

 まとわりつく執着から逃れるように、神取は踵を返して幼女を見た。

「そうだね、パパ。早くパパとあきのお願いを叶えようよ」

 神取の言葉に、幼女の顔一面に喜びの表情が広がった。

 

 

 

 辺りはすっかり闇に包まれ、互いの顔を確認する事も出来なかった。足元から伝わる微弱な振動と、モーターの回転音が、未だ降下を続けている事を知らせる。そして唐突に、リフトは停止した。と同時に、五人の頭上からまばゆい光の束が降り注いだ。急激な明暗の差に目が慣れるまでしばらくかかり、ようやく辺りを確認出来るようになった彼らは、緊張の面持ちでお互いの顔を見合わせた。
 リフトの終着点は、四方を壁に囲まれた妙な圧迫感を感じさせる四角い空間だった。正面には、分厚い鉄の扉がある。

「見神、あそこにカードのスロットがあるぞ」

 慎重にリフトを降りた南条は、素早く辺りを見回し目立った異常がない事を確認してから、正面の扉を指差した。扉の脇に、一目でそれと分かる装置が取り付けられている。
 真物は言われたとおりポケットからカードを取り出し、無言で南条に差し出した。先程物凄い剣幕で怒鳴り散らした後だけに、自分でやらねば気が済まないだろうと思って渡そうとしたのだが、意外にも彼は手を出さず促すように目配せした。一瞬ためらった後、真物は近付いていってカードを差し込んだ。
 縦に二つ並んだ丸い表示ランプが赤から緑にかわり、金属のこすれる耳障りな騒音とともに鉄の扉は真上に跳ね上がった。
 扉の向こうには、まっすぐにのびた暗い道がどこまでも続いていた。両脇には貨物用の巨大なコンテナが整然と並んで積まれており、天井の明かりを所々遮っていた。

「なんか、いや〜んな感じ?」

 同意を求めるように、ブラウンがぼそぼそと呟いた。

「うん、すっごく気味悪いね」

 そう言ったマキだが、これから秘密基地の探検にでも向かう子供のように、好奇心に満ちた瞳を輝かせた。
 しかし実際は、やはりマキの言う通りだと、真物は思った。光が遮られて出来た影は異様なほど暗く、息を潜めて何か蠢いていても気付かないほどだった。
 尻込みするブラウンとは対照的に、南条は表情一つ変えずに歩き出した。
 そのすぐ後をマキがついてゆき、そうなれば当然マークも慌てて後を追う。真物は扉の前でブラウンを振り返った。

「リーダーはねぇ、仲間全員を守らなきゃならないから一番後ろでオッケーなのよん。全員が見渡せるしね」

 ウインクを投げて寄越し、ブラウンは真物を促した。
 真物としては、背後に人の視線を感じるのが苦手だから先へ行かせたかったのだが、ブラウンの得意の口上を翻すほどのいい言葉が浮かんでこなかったので、仕方なく歩き出した。
 複雑に絡み合い、森の木々のように連なる光と影は視覚を混乱させ、迷路を連想させる通路がさらに拍車をかけた。
 辺りは薄暗く、いくら進んでも周りの光景には何ら変化はない。やがて真物は、まるで夢を見ているようだと思い始めた。

 だとしたら、一体いつから現実ではなくなっているのだろう?

 もしかしたら学校で倒れてから、ずっと夢の中にいるのではないだろうか。それなら、悪魔が出たり、ペルソナが現れたりしても、何もおかしい事はない。

『あの出来事も、夢だったらいいのに?』

 真物の思考が行き着く先で待ち構えていたのは、「彼女」の痛烈なこの一言だった。その言葉は、真物を突き抜け背後に隠れる小さな核まで届いた。
 またも傷跡から、赤い滴が滴り落ちた。「彼女」は黙ったまま、肩越しに振り向きじっと見つめていた。視線の先には、やせ細った小さな子供がいた。「彼女」の声が聞こえないのか、聞く意志がないのか、少しも目を上げようとせず、息を潜めて立っている。
 「彼女」が何を見ているのか、真物には関係なかった。今までと同じように、「彼女」の言葉も行動も何もかもを無視する。
 そうして目を逸らすと、今度は現実が待ち構えていた。
 元がどうであったか思い出せないほど変化してしまった街、死をもたらそうとする無数の悪魔、もう一人の自分だというのに、自分の意志では操れないペルソナ、記憶する姿形はそのままに、しかしまるで別人のようなマキ、いなくなった親友。
 そして、忌まわしい悲劇の再現。
 次々と起こる非日常的な日常と、自分がどう関係があるというのだろう。
 自分はただ、死なない程度に生きていればよかったのではないか?
 その問いかけは、隅に追いやられていたが常に心の中にあった。完全に忘れ去る事は出来なかったが、はっきり受け止める事もなかった。時間をかけて考えるものでもないと、思っていたからだ。
 今では関わりを持たないように無視しようとして、逆に固執していた。「彼女」もこれまでにないほど核心をついた言葉で干渉してくる。ぼんやりと霞んでいた心に風を送り込んでくる。何もかもがはっきり見えるようにと。

「なぁマーク、ここってホントに町の下だよなあ」

 いつしか真物と肩を並べて歩いていたブラウンが、前にいるマークに向かってそっと問いかけた。小さな声ではあったが、自分たちの足音以外には全くの静寂が広がっていた為、驚くほど辺りに反響した。

「んだよそれ、どういう意味だ?」

 一方マークは、いつもと変わらずぶっきらぼうに聞き返した。

「だってさぁ、ここ、こんなに広いんだぜ? とても信じられないってぇ」

 はるか頭上にある奇妙に薄暗い照明を見上げて、ブラウンはなるべく平静を装って両手を広げた。真物は、怪訝そうな面持ちで二人をかすめ見た。というのも、先ほどから二人はこうやって他愛もないお喋りを繰り返しているが、その声が遠くの方から聞こえてくるような、あるいは耳元で話し掛けられているような、たわんだ感覚がずっと続いているからだ。
 そんな、半ば眠っているような意識を、南条の低い声が呼び戻した。

「見神、また扉だ。どうやらここがセベクの入り口らしい」
「うん、ほんとだね。いかにもって感じがする」

 扉の両脇に立って、南条とマキが続けざまに言った。マークとブラウンも同じように扉の両脇に足を止め、四人は揃って促すように真物を振り返った。ほんの一瞬、真物は何故彼らがこちらを見ているのか分からなくなった。直後、思い出したようにはっと顔を上げて扉を見据えた。
 誰とも目を合わせずにゆっくりと扉に近付く。

「気を付けろよ、シン。悪魔が待ち構えてるかもしれないからな」

 カードをスロットに滑らせようとした直前、マークの忠告が薄れかけていた真物の緊張感を揺り起こした。
 反射的に真物はピアスを掴んだ。
 しかし意味などなく、小さく息を吸い込んで真物はカードをスロットに差し込んだ。
 扉は音もなく開き、五人を招き入れた。
 真物はその直後、今まで感じた事のない激しい感情の渦に飲み込まれそうになった。

「!…」

 胃の中で灼熱の玉が転げ回っているような、目も眩むほどの鋭い痛みに苛まれ、真物は身体を強張らせた。
 軋轢によって生じた大人たちの様々なストレスが、猛烈な勢いで真物の精神に喰らい付いてきたのだ。

『予想しておくべきだった。これもシステムの影響によるものだわ』

 遠退いてゆく真物の意識を、「彼女」の声が辛うじて繋ぎ止めた。血の気の引いた首筋はやけに冷たく、脂汗が滲んでくる。
 扉の向こうに待ち構えていたのは、デヴァ・システムによって増幅された人間の負の感情だった。
 あるいはそれは同僚を妬む声、上司に対する不平不満、女子社員の不仲、あるいは消費者の不信感、横柄な顧客に対する怒り、黒い噂。

「とりあえずは大丈夫そうだな。よし、行くぞ」

 扉の影から中の様子を伺い、見張りの人間や悪魔が潜んでいない事を確認すると、まず南条が先に立って歩き出した。

「いよいよ敵の本拠地に乗り込むわけね」

 ブラウンが続く。

「よぉし、とっとと行って神取のヤロウをぶちのめしてやろうぜ」

 さり気なくマキを先に行かせ、マークが後からついていく。
 真物はこの時ほど、自分の能力が恨めしく思えた事はなかった。
 まるで気付かず、平然と扉をくぐりぬける彼らに、ささやかな憎しみを抱く。

『そんな感情は必要ないはずよ』

 過ちを正そうと、子供をたしなめる口調で「彼女」が真物の両肩を支えた。
 反射的に真物は、自分を助けようとする「彼女」の手から逃れるように身じろいで歩き出した。
 不必要に波立つ感情を頭から追い払って、先を行く彼らに追い付こうと足を速める。
 必要なのは、目立つ行動を控えて、影のように振る舞う事だけだ。
 空気中に溶け込み漂う鬱積した負の感情が、形を持って現れるようになったのは、セベクに侵入してしばらく経ってからだった。
 目に映らない時でさえ苦しめられた真物は、悪魔の名に相応しい姿形となって出現した様々な感情に、誰よりも早くペルソナを呼び出してこれを退けた。
 そこには、まだ自分の意志ははっきりと関わっていなかった。ただひたすら、相手を消し去るか、この場から逃げ出すかしたいと切望しただけであった。
 誹謗、中傷、悪口、罵詈雑言、妬みそねみ。これらのせいで、今の自分が出来上がってしまったのだ。
 この世で最も触れたくない存在。
 だが、建物内は、デヴァ・システムによって増幅されたありとあらゆる感情で満ち満ちていた。それらは最上階へ進むにつれ強まってゆき、自分たちの目指す人物に近付くにつれ深まってゆく。
 比例するように悪魔の能力も高まり、五人は苦戦を強いられるようになった。
 しかし幸いな事に、マキのペルソナが外傷の類を治癒する能力を備えていた為、五人は五体満足のままついに支社長室のある最上階にたどり着いた。

「いよいよゴールってトコかぁ?」

 先頭に立って階段を上りきり、長い廊下の突き当たりにある扉に目を向けて、ブラウンが口を開いた。なるべく軽口に聞こえるように冗談めかして言ったつもりだが、わずかに声が震えてしまった。重厚な作りのこの扉の向こうに、誰が待ち構えているのかは十分承知していた。その人物に会う為にここまでやってきたわけだが、出来るなら自分は今すぐここから逃げ帰りたい気分だった。

「……神取はある意味悪魔よりも手強い。この状況を演出しているのは、奴なのだからな」

 南条は自分自身に言い聞かせるように、吐き捨てるように声を響かせた。
 だがブラウンは、逃げ出しはしなかった。出来るような状況ではなかったし、あるいはペルソナの力で何とか乗り切れるかもしれないと思ったからだ。
 そう、ペルソナがもう一人の自分だとするならば、あるいは自分自身もあんな風に強くなれるかもしれない。それは願いに近かった。
 真物は、息をしている自分が不思議でならなかった。ここにたどり着くまでに、一体どれだけの数の悪魔と戦った事だろう。目に映らない声、形を持った声に翻弄され、ぎりぎりになって現れるペルソナに助けられ、辛うじて死なずにここまでやってきた。
 しかし肉体的には無事でも、精神的には疲弊し切っていた。細く研ぎ澄まされた長い針が身体中いたるところに食い込んで、ひどく痛む。実際には、身体の傷は全てマキのペルソナで治癒していた。それでも身体中が冷たい熱さに苛まれていた。
 真物は一刻も早くこの場を去りたかった。どうにかして全てを静寂に変えたかった。
 特にこの、人をそしり抉るような響きだけはもうたくさんだ。
 その為には、神取に会い彼を止めなくてはならない。真物にとって、神取がどのような人物なのかは、南条の内側と外側の声によって知ったわずかな情報しかなかった。南条は彼によい印象を持っていないようで、随分偏った言葉で表現されている。だが恐らく、南条の言葉と真実にはさして差異はないだろう。
 ただの人間が、これほどまでに大それた事を実行出来る筈がない。
 人の死がどれほどの苦痛をもたらすものか、神取は知っているのだろうか。
 やがて南条が扉に向かって歩き出した。見えない糸で繋がれている五人は、手繰り寄せられるように神取の元に近付いていった。
 磨き上げられたドアノブに、南条が手を触れる。
 からからに乾いた喉を引き攣らせて、ブラウンがぎゅっと唇を引き結んだ。
 ついに扉は開かれ、五人は暗く澱んだ思考の渦巻く醜悪な空間に足を踏み入れた。
 その途端、真物に縋り付いて苦しめた一切の声はたちどころに消え去り、たった一人の人間から発せられる気狂いじみた断末魔だけが残った。
 真物は部屋の中央に、死の吐息をもたらす貌のない化け物がとぐろを巻いているのを見た。心の奥底まで凍り付くような寒々しい孤独が、ただそれだけが感じられる。

「また子供だと?」

 耳障りながなり声が、五人に向かって噛み付いた。背を向けて立つ神取の脇に、小山のようにいかつい体格の男が敵意をむき出しにして立っている。

「失態だな、武多」

 わずかに首を傾けて、抑揚のない声で神取が言った。

「は…も、申し訳ありません」

 武多と呼ばれた男は、即座に頭を下げた。
 唇にうっすらと笑みを浮かべて、神取はやっと五人に向き直った。
 真物はそこに、荒み切った人の心が行き着く果ての暗闇を見た。
 神取の眼差しは、自分の母親の瞳と見紛うほど良く似ていた。
 それは、自分の目で見た紛れもない真実であったが、到底受け入れられる代物ではなかった。
 一体何百万回苦痛を味わえば、解放されるのだろう。

「誰かと思えば、南条コンツェルンのお坊ちゃまではありませんか。今日はご学友と一緒に弊社のご見学ですかな」

 低い、地を這いずるような声の響きは、不快感だけをもたらした。

「貴様にそう呼ぶのを許した覚えはない」

 南条は奥歯を噛み締め、醜い怒りに取り込まれまいと毅然とした態度で言い返した。

「……どうやら南条家の躾はなっていないようだな」

 束の間目を閉じて、神取はあからさまに侮蔑の言葉を吐いた。

「あのぼけた執事にでも言い付けて、一つお尻をぶってもらいますか」
「貴様……!」

 怒りの余り、南条は目も眩むほどの白い光りが視界を覆うのを見た。

「ふざけんなよてめぇ!」

 南条の怒りが乗り移ったように、激しい剣幕でマークが吠えた。

「いい年こいた大人が、何バカげた事やってやがる! 町を元に戻しやがれ! てめぇのせいで南条の――」
「黙れ」

 うっすらと目を細めて、神取はマークの言葉を遮った。
 囁くような小声にもかかわらず、まるで呪いでもかけられたかのようにマークはそれ以上何も言えなくなってしまった。

「耳障りだ。躾のなっていないガキは野獣と変わらんな」
「!…」

 マークは激昂したが、やはり言葉は出なかった。
 真物は、神取が口を開く度に薄い刃物で首筋を切り裂かれるような、熱い痛みを味わっていた。その度に全身が震え、失神してしまいそうになる。あるいは、ペルソナが現れそうになる程の死の予感。
 神取の視界は、一体どのように自分達を捕らえているのだろう。
 聞けば必ず死をもたらされるだろう、それでも真物は、神取の思考の断片に触れたいと思った。
 発狂する寸前の、紙一重の理性がそれを阻んだ。「彼女」の守りは、真物の意識が正常を保てるぎりぎりのところで立ちはだかっていた。デヴァ・システムによって増幅された様々な声が真物を襲い、苛んでも、防げるものは全力をもってこれを退けた。

「構わん。始末しろ、武多。部屋は汚さんようにな」

 美しい細工の施された銀の懐中時計を開いて、事も無げに言い放つと、神取は踵を返して部屋の奥に向かって歩き出した。

「逃がすかよてめぇ!」

 神取の視線が逸れた途端、呪縛から解き放たれたようにマークが駆け出した。極限まで高まった凄まじいまでの怒りに呼び出されたペルソナが、武多の隙をついて神取に襲いかかる。
 ペルソナオグンの拳が神取の首にかかる寸前、見えない壁に弾き返され、マークは驚愕の表情で立ち竦んだ。

「……まさか貴様らも、ペルソナ使いだったとはな」

 立ち止まり、肩越しに振り向いた神取は、そこに楽しめそうな玩具が転がっているのに気付き、薄く笑った。
 五人は、見た。
 神取の背後に現れた、貌のない異形の神取を。
 その姿は、到底言葉では表し切れない。
 見た者全てに恐怖と絶望をもたらす、暗い世界から這いよる混沌の意識。

「ウソだろ……」

 マークは呟きをもらした。圧倒的な力に怯えたように、半ば無意識に後ずさる。

『知らない。ホントに知らないってば』
『気を付けてください、あの人は平気で……』
『黙れ黙れ! パパのやる事は間違ってないんだから!』

 神取のペルソナが両手から沢山の災いをふりまくのを見た誰かが、心の中で悲鳴を上げる。その叫びは、真物の思考に雪崩の様に押し寄せた。
 複数の声が一つの心から同時に湧き上がる。
 もっとよく耳を傾ければ、それが誰の声なのかすぐに分かっただろうが、今その余裕はなかった。

(病院で聞いたのと同じ…じゃあ彼女は、園村さんに間違いない……?)

 だというのに、この考えだけが残ったのが妙におかしかった。そんなに違和感が気になっていたのだろうか。

「気を付けろ!」

 叫ぶ南条の声に、真物ははっと我に返った。
 ゆっくりと振り返る神取の動作に合わせて、部屋中に黒ずんだ冷たい霧が立ち込めてゆく。霧の中心には、おぞましい形態の神取が陽炎のように揺らめいている。
 五人はひとかたまりに寄り添ったまま、無言で神取のペルソナを見上げていた。無防備な彼らを嘲笑うように、神取は一人一人の顔を順に見回した。
 真物は思った。もしも視線だけで人を殺す事が出来るとしたら、間違いなく自分は一握りの塵も残さず消滅させられていただろう。
 真物は、人ならざる者がもたらす力の強大さを、まざまざと見せ付けられた。
 他者を見下したような神取の冷え冷えとした眼差しが一瞬赤く染まった。その直後、凄まじい重圧感が八方から押し寄せて五人に牙をむいた。
 誰も、真物でさえもペルソナを呼び出す事が出来なかった。
 巨大な拳で強かに殴られたように、真物たちは全身に激しい衝撃を受けて倒れた。

「……そんなものか。武多、後は任せる」

 心底落胆した表情で神取は肩を竦めた。
 その仕草が引き金となり、南条は必死に身体を起こし神取に向かって張り叫んだ。

「逃がさん!」
「させるか!」

 ぐらつく足でなんとか立ち上がった南条の行く手を、武多が阻む。がっしりした体躯からは想像も出来ぬ程の俊敏さで、武多は続け様に蹴りを繰り出した。
 完全に回復していなかった南条はかわす事も腕でかばう事も出来ず、脇腹と肩にまともに打撃を受け再び倒れた。

「南条!」

 這いつくばって手足を踏ん張っていたマークは、目の前に倒れ込んだ南条を見て火がついたように怒声を上げ、ペルソナオグンに呼びかけた。
 一人神取の攻撃を免れたマキが、すかさず南条の治癒にあたる。

「とっととそこをどきやがれ!」
「いい気になるな!」

 威嚇するように両手を上げた武多の背後に、長い手足に隆々たる筋肉を備えた青年の姿が浮かび上がった。

「ペルソナ? まさかこいつもかよ!」

 オグンの放った怒涛の連打が、武多のペルソナによってことごとくなぎ払われた。と同時に烈風が吹き荒れ、鋭利な刃物となって五人に切りかかる。
 マキが悲鳴を上げ、続けざまにブラウンが情けない叫びを上げた。
 マキは足首に、ブラウンは肩に受け、南条は首筋を薄く切り裂かれた。幸い三人ともペルソナの守りがあった為か傷は浅かったが、絶え間なく襲いくる烈風にさらされ傷の個所は徐々に増えていった。
 それらの惨状を、真物は、壁を背にしたまま瞬きもせずに凝視していた。武多の攻撃の一切はペルソナ青面金剛の絶対の守りによって防がれ、無傷だった。だが、まるで糸の切れた人形のように座り込んだまま、真物は動こうとしなかった。
 ペルソナネヴァンを呼び出したものの、すっかり萎縮してしまったブラウンは、頭をかばうだけで精一杯だった。辛うじて立っているだけのブラウンの腕を、肩を、烈風の刃が容赦なく切り裂いてゆく。

「行け……!」

 多少の傷もものともせず、南条はペルソナ愛染明王を呼び出し武多に対抗した。
 マークは南条と協力する形でタイミングを合わせて攻撃し、マキは彼らの補助にあたった。

『あなたがしなければならない事は?』

 いつまでも動こうとしない真物に焦りを感じた「彼女」が、肩越しに振り返り叫んだ。
 目の前で人を見殺しにするような真似だけはしてはならない。血を流し、苦しむ様を見てはならない。

『このままじゃマジ殺されちまうよぉ…』『なんでオレこんなトコ来ちゃったんだろう…』『死にたくないよ!』『!…』

 すぐ間近で、弱音を吐く誰かの心の声が聞こえた。その響きには、どんなに祈り望んでも決して手に入らないものに対する、憧れと憎しみが込められていた。
 ブラウンはがっくりと跪くと、大切にしまい込んでいた思いを手放すかのように、深く長いため息をはいた。額を切られたのか、赤い滴が瞼にとどまりまるで血の涙のように頬を伝って滴り落ちた。
 真物は改めて彼らの姿を見回した。みなどこかしらに怪我を負い、血を流している。
 命が少しずつ失われていく様は、なんとも醜く、また逆に狂気を誘発する美しさを併せ持っていた。

 血のにおいがする

 そう感じた途端、真物の胸の内で何かが弾けた。

『違う、そういう事じゃない!』

 「彼女」の絶叫を振り払い、真物はすっくと立ち上がるとホルスターから銃を引き抜き、銃身を握り締め駆け出した。

『違う!』
(違うはずがない!)

 思う存分力を揮える事にすっかり心酔し切っていた武多は、悪魔のそれとさして変らぬ醜悪な笑みを浮かべて咆哮を上げた。

「うおおぉ!」

 そこにわずかな隙があった。ペルソナの力で誰も近付く事が出来ないと思い込んでいた武多の思い上がりを打ち砕くように、真物は正面からぶつかっていった。

「シン!」

 脇をすり抜けて武多に飛び掛かった真物に驚いて、マークが攻撃の一切を引き止めた。

『あなたがしてはいけない!』
(しなければみんな殺される!)

 手が届く場所まで接近した途端、武多の心に渦巻く思考の断片が弾丸のようなつぶてとなって真物の心を貫いた。目の前の人間が、どれだけ薄汚い仕事を請け負いこなしてきたかほんのわずかでも知ってしまった真物は、痛みをこらえるように眉根を寄せ更なる怒りを募らせた。

「――!」

 声もなく吠え、真物は武多のこめかみに狙いを定め、両の手に握り込んだ銃で激しく殴り付けた。一撃で倒れるようなやわな相手ではない。
 真物は、不必要な世界を見せ付けた大人に対する怒りを残らず吐き出すように、二度、三度と繰り返し打ち続けた。
 だが、不意をついた真物の攻撃が効いたのは最初の数発だけで、武多はわずかによろめいてすぐさま体制を立て直し、じり、と真物ににじり寄った。
 振りかぶった真物の腕を目前で掴み取った武多は、骨を砕かんばかりに力を込めた。武多の手が触れた途端、またしても真物の視界に鮮やかな手口で人を殺す過去の映像がよみがえる。

「ああぁ!」

 感じ取った思考の断片が、激痛となって脳天を直撃する。腕にかかる重圧はさして気にならなかった。それよりも、この男の声を聞く方がはるかに苦痛だった。
 きっと眦を決して睨み付ける。

「遅いわ!」

 まだ自由な左手で殴り掛かろうとする真物の動きを見切って、武多はたやすく払いのけると、そのまま腕を突き出して首を鷲掴みにした。

「小僧、死ぬ前に言い残した事はないか?」

 一息に殺してしまわず、武多は相手の苦しむ様を存分に味わおうとじわじわと指を食い込ませていく。

「真物君!」

 マキの絶叫が聞こえた。
 この時、死の予感はなかった。

「よくもこんなものを……!」
 こんなものを見せたな

 喉が押し潰される寸前、真物は絞り出すような声でそれだけを言った。
 その後の出来事は、ほんの一瞬の間に起こった。
 けれど真物には、時間が引き延ばされたように随分長く感じられた。胃の中に大量の血を流し込まれたように、生暖かいうねりが逆流して全身に満たされる。
 余り気色のいい感触ではなかったが、それが新たな力を呼び覚ますきっかけとなった。
 真物の身体を中心に小爆発が起こり、真っ白な光の束が渦を巻き天井を突き破って天高く登っていった。
 光は人の形に成り代わり、真物を守るように背後にとどまった。

「ペルソナが……変わった?」

 爆風から身を守るように腕でかばい顔を背けていた南条は、恐る恐る目を開けて真物を見た。
 首から肩までを覆う分厚い兜に顔を隠した戦士を背後に従わせ、真物は部屋の中央に立ち尽くしていた。戦士の姿は、ケルト神話に聞く神々の王に酷似していた。
 真物は、指の跡が残るほど強く掴まれた首筋を軽くさすって、部屋の隅に転がる武多に目を向けた。衝撃を受けて壁まで吹き飛ばされ、そのまま気を失ってしまったようだ。
 無理矢理ねじ込まれた思考の断片を払い落とすように耳の傍で手を振り、真物は顔をしかめて小さく舌打ちした。

「真物君…大丈夫?」

 どことなく近寄りがたい雰囲気をまとった真物に、マキが恐る恐る声をかける。真物は目だけでマキを見やり、小さく何度も頷いた。

「助かったぜ、シン」

 足元に転がる自分の銃を拾い上げようとした真物は、耳にした言葉につらそうな顔になって眉を寄せた。

「同感だ。貴様があの時捨て身で飛び出していなかったら、俺達は間違いなく殺されていただろう」
「うんうん、勇敢な仲間がいてくれて、オレ様リーダーとして鼻が高いよ」
「なーにがリーダーだ……」

 満身創痍といった様子のブラウンだが、それでも彼特有の冗談は健在のようで、弱々しいながらもにっと笑って軽口をきいた。
 相手にするのも馬鹿馬鹿しいと、マークは鼻を鳴らして茶々を入れた。
 これが、たった今まで絶望に触れていた人間の言う言葉かと、真物は畏怖の眼差しでブラウンを見た。

「ところでよ…神取のヤロォどこ消えやがった?」

 ほっと一息ついたところでその事実に気付いたマークが、側にいた南条に問い掛けるように口を開いた。

「分からん。だが、この部屋から出た可能性は低いな。あるいは部屋の中に細工がしてあるとしたら……?」
「それって、隠し扉ってヤツ?」

 一番怪我の度合いのひどかったブラウンの治癒にあたっていたマキが、彼の言葉を耳にするなりぱっと顔を輝かせて頷いた。

「きっとそうに違いないよ。工場の入り口もあんなに大掛かりな細工がしてあったんだもの。きっとどこかに扉があるんだよ。あの人が目を覚まさない内に、探してみよう!」
「考えられん事ではないな」

 束の間思案して、南条はすぐに行動に移った。

「よし、俺は入り口を見張る、貴様らは隠し扉とやらを探せ」
「まーた偉そうに…命令すんなってんだ。ったくよぉ」

 マキのペルソナによって回復したマークは、尊大な物言いをする南条にしかめ面を見せて立ち上がると、いつまでも座ったままのブラウンの肩を叩いた。

「オラ、いつまでも休んでねぇでとっとと見つけようぜ、リーダーさんよ」
「へいへい、と」

『どうしてあんな事を?』
(殺してはいない。血の一滴も流してない)

 明らかに咎める口調の「彼女」にそう言い返し、真物は俯いたまま目だけを上げた。

「こーいうのってさぁ、本棚とか、額縁の裏とかに、スイッチあったりするんだよねぇ」

 以前見た洋画を思い出し、妙にはしゃいだ口調でブラウは本棚の前に立った。
 あるかどうかもわからない秘密裏の扉を探し回る彼らを見て、真物は自分も動くべきか分かりかねて立ち尽くしていた。

『あなたにしか出来ない事がある』

 「彼女」が、一方の壁を指差して囁きかける。
 そのヒントを聞き入れたのか無視したのか…自分でも分からなかった。
 真物はゆっくりと歩み、まだ意識の戻らぬ武多の側で足を止めた。

(もしも僕が気違いでも……)

 そして手にした銃の残弾を確認すると、しっかり握りしめる。

「あぁ? シン、何か言ったか?」
「おい待て見神、貴様、何をする気だ?」

 真物の側で壁を探っていたマークと、扉の脇に立っていた南条が、続けざまに口を開く。
 南条の声が少し強張っているのが気になり、ブラウンとマキは視線を集中させた。
 真物は無言のまま構え、引き金に指をかけた。

 

 

 

 細心の注意を払って、エレベーターは上下の揺れも起こさずに停止した。
 四角い空間に閉じ込められた五人の若者の、ぴりぴりした緊張感を逆撫でしないよう、音を立てずに扉を開く。
 目の前にひらけた、低い天井の通路に降り立った彼らを見送りもせず、エレベーターは扉を閉ざすやすかさず上昇を始めた。

「なんか、いやに殺風景なトコにきちゃったなぁ」

 左手に伸びる通路のずっと先、突き当たりに目を向けてブラウンが肩を竦めた。努めて明るく言ったつもりだが、誰も返事をせず、乾いた笑いも出なかった。

「この奥だ」

 軽く手を上げて正面を示し、真物は肩越しに振り向いた。
 真物を見つめ返す四人の眼差しには、多少の差異はあったが皆一様に怯えに近いものを浮かべていた。
 無理もなかった。最上階で真物が取った行動を見れば、誰でもそうなるだろう。
 彼は、神取の行方を聞き出す為に異常ともいえる方法で武多を追い詰め、絶命寸前でそれを成し遂げたのだ。
 南条が止めに入らなければ、真物は間違いなく武多を殺してしまっただろう。しかも彼は表情一つ変えずそれを行った。あるいはそれは、数式を暗記するような、英単語を覚えるような、故人の伝記を読み進めるような熱心さにも似ていた。
 真物が喜怒哀楽の起伏の少ない人物という事は知っていたが、あのような残虐性を秘めていたとは誰も想像していなかった。

(殺してはいない。血の一滴も流してない……)

 自分自身に言い逃れをするように、真物は同じ言葉を何度となく心の中で言い続けた。
 歩き出した自分についてくる彼ら四人が、心の中で何を考えているか真物には全て聞こえていた。腫れ物に触るような、切れ切れの思考から逃れる為の呪文のように、真物は尚も繰り返す。

(殺してはいない。血の一滴も流してない……)
『そうね。あなたは人を殺していない。血の一滴も流してない』

 自らの首を絞めるかのような真物を宥めようと、「彼女」は背後からそっと手を握った。
 だが真物は、「彼女」に触れて「彼女」の心を知る事に怖れを感じていた。即座に手を引き、真実から遠ざかる。

 自分は、死なない程度に生きていればそれでいいのだから

 神取を止め、システムを止め、狂った思考の流れを止めて、元の日常に戻る。

『そして、あなたを取り巻く真実から目を背ける毎日に戻るつもり?』

 「彼女」の静かな問いかけに出せる答えはまだなかった。
 とにかく真物は、非現実的な現実を元に戻す事だけを考えて、歩き続けた。
 全てが、もう始まっていた。

 

 

 

 扉の向こうにそびえたつ、宇宙船を思わせる巨大な装置を見た瞬間、奇妙な感覚が真物を襲った。それはまさに既視感だった。
 しかし自分自身の目で見るデヴァ・システムは、園村節子の記憶にあるものよりはるかに禍々しかった。
 街を混乱へと導き、人に死をもたらし、心に潜む悪意に形を与えた元凶。何より憎むべきは、自分にとって不必要な過去の記憶を呼び覚ますきっかけを作った事だ。

「もう逃がしゃしねーぜ、神取!」

 真物の前に踏み出たマークが、噛み付かんばかりの剣幕で怒声を上げた。

「そのとーりだ悪党め! このブラウン様が引導を渡してやるぜぃ!」

 マークに続いてブラウンがずいとにじり寄る。
 装置に気を取られていた真物は、そこでやっと我に返った。まっすぐ正面、装置の入り口近くに神取の姿を見つけ、手にした憎悪を今にも投げ放ちそうになる自分を慌てて押し止める。

「早く、街を元に戻して!」

 掴みかかる勢いのマキを、慌ててマークが引き止める。

「やはり来たか。武多も存外頼りにならん」

 神取は五人の姿を見てもさして驚いた風もなく、肩を竦めて笑った。その隣では、白髪の老人が思い詰めた表情で神取を見ていた。

「貴様の企みもここまでだ……!」

 真物の横をすり抜け、南条が前に進み出た。低い、押し殺したような声には、激しい殺意が込められていた。真物は即座に抵抗を試みたが、南条の声はいともたやすく心に割り込み、じわじわと侵食していった。
 その直後、とめどなく溢れ出る疑問に翻弄される誰かの自問自答の声が、真物ににじり寄る憎悪をかき消すように湧き上がった。

『私はこれを見た事がある…?』『どうして知ってるの?』『どこで見たの?』『私は知らないよ』『これは私の記憶なの?』『こんなもの知らない!』

 最後の言葉は、岩の塊のように激しく真物の頭を打ち付けた。

(園村さん……?)

 自分の中に潜む正体不明の意識に脅かされて、マキはわずかに俯き目を閉じた。
 目まぐるしくめくられてゆくマキの記憶の束を覗き込んだ真物は、その中の一瞬に見覚えのある顔を見つけたような気がした。
 目を凝らす真物を邪魔するように、突然誰かが発砲した。放たれた弾丸がつま先のすぐ脇にめり込む。ぎょっとなって目を上げると、白髪の老人がこちらに銃口を向けて立っているのが見えた。

「下がりなさい、子供たち!」

 つたない日本語で、老人が叫んだ。神取は驚いたように口元に笑みを浮かべ、横目で老人を見た。

「これはこれはニコライ博士。最近では協力を渋っていたように思いましたが、どのような心境の変化で?」

 己の企みを見抜こうとする神取の鋭い眼差しに一瞬臆したが、ニコライは挫けそうになる心を奮い立たせて続けた。

「この方に近付いてはなりません! ここから出てゆきなさい!」

 本国にいる時も、護身用に銃を持ち歩いてはいたが、実際に発砲した事はなかった。撃鉄を起こすのもやっとだ。子供たちが大人しく従ってくれるのを必死に祈りながら、ニコライはコントロールパネルに手を置いた。

「なあ、ペルソナ呼んだほうがいいんじゃん?」
「無茶言うなって。普通の人間にペルソナ呼べるか?」
「そりゃそうだけどさぁ……」

 銃を向けられ、反射的に両手を上げた格好のままマークとブラウンは小声で言葉を交わす。
 マークは相手を刺激しないようそろりそろりと動いて、マキを庇う形で前に立った。

「くそ! やっと追い詰めたと思ったのによ」
「でも、でも何か違うような気がする。あのおじいさん、もしかして…わざと?」

 マキが、真実に近い言葉を口にした。
 その時、もう一度弾丸が放たれ、ブラウンの頬すれすれを通過した。

「……リーダーとして言わせてもらうと、ここは大人しく言う事を聞いた方がいいかなーなんて……」

 ブラウンは顔を引き攣らせた。それでもせめてリーダーらしく振る舞おうと、震える膝小僧を宥めすかし、正面を向いたまま両手で皆を押しやりながら後退し、入り口付近まで移動する。
 その様子に、ニコライは一瞬安堵の笑みをもらした。

「さあ、ミスター神取。実行の時です」

 神取に向き直った時には、笑みは消えていた。代わりに、殉教者のみが見せる慈愛に満ちた悲しみだけが浮かんでいた。
 それが何を意味するのか、そして彼が心の中で何を決意したのかを聞いた真物は咄嗟に駆け出した。どうにかしてそれを阻止しようと走る。

「シン!」
「待たんか見神!」

 制止の声を無視して動く自分をしかしさして疑問にも思わない。
 自分には関係ない、どうでもいい、馬鹿らしい…いつもあるはずの無気力なそれらは、今は微塵も浮かんでこなかった。あの老博士が、自らの命をもって償おうと、死のうとしていると知ってただ身体が動いた。
 死なせてはならない、助けなくてはと衝動が湧き起こり、身体が動いたのだ。
 助けたいという気持ちが、それだけが、凄まじい勢いで湧いてくる。身体を突き動かす。

「来てはいけません!」 
 今にもキーに触れようとしていた手を強張らせ、ニコライは張り叫んだ。
 だが真物は聞き入れずただまっすぐに全力で走った。
 威嚇のつもりで、ニコライは引き金を引いた。

「!…」

 その弾丸は不幸にも真物の太ももに命中した。途端に血と肉がばっと飛び散る。声も出せず、真物は前のめりに倒れ込んだ。

「真物君!」

 マキが悲鳴を上げ、マークが慌てて真物の側に駆け寄る。
 予想だにしない出来事に、ニコライは愕然となってキーに指を触れてしまった。
 途端に、身をよじるように室内が振動を始め、デヴァ・システムを中心に歪んだ磁場が発生した。

「何だこれは……?」

 神取は訝しそうに眉を寄せて足元を見た。奇妙な膨張感が全身を包み、手足の先に軽い痺れが走る。

「てめぇ、よくも!」

 マークは、床に倒れ伏す真物の肩を支えて抱き起こすと、憎々しげに吐き出した。
 真物は何とかして事実を伝えたかったが、灼熱の塊を押し付けられたように傷口が痛み、声はおろか呼吸すらままならない。

「許してください! すぐに済みます」

 弾丸が急所を外れている事を祈りながら、ニコライは真物に向かって叫んだ。そして震える両手で銃を握り直し、今度は神取に狙いを定めた。

「どういうつもりだ? ニコライ!」
「あなたは私をだまし、人々を混乱に陥れた。償いの時です、神取」
「貴様……!」

 火を吐くように神取が唸った。
 傷付いた真物を抱えるようにして壁際まで後退した四人は、何も出来ずにただ呆然と成り行きを見守っていた。
 そこで唐突にマキが声を張り上げた。

「止めよう、あの機械早く止めよう! 真物君、もう少しだけ我慢しててね! あの人助けたら、すぐ治してあげるから!」

 機械を止めよう…真物は、その言葉に何度も頷いた。自分が出来ないのが何とも歯痒かったが、とにかくこれで、人が死なずに済む。

「待て、園村。あの老人は死んで責任を取るつもりだろう。余計な手出しは無用というものだ」
(死……)
「そんなのおかしいよ! 誰だって死にたくないはずでしょ?」

 冷静に言い放つ南条とは対照的に、マキは烈火のごとく言い返した。

「神取だって捕まえれば済むことでしょう? 私…これ以上人が死ぬのは見たくないよ!」
「そーだよな。死んじまっちゃあおしまいだしよ」

 マークが賛同の声を上げた。
「そうそう、それにあの悪党にゃ、きっちりオトシマエ、つけてもらわなくっちゃねぇ」

 ブラウンは不敵な笑みを浮かべて、得意の軽口をきいた。
 直後。

「パパに何するんだ!」
 どこからか幼い子供の金切り声が聞こえてきた。

「っ――!」

 声が聞こえた瞬間、足の痛みをはるかに越える衝撃が真物の思考を襲った。鋭い爪で心を鷲掴みにされ、真物は声にならない叫びを上げた。

(この声…どこかで……?)

 二度三度と立て続けに襲いくるありえない痛みを必死に堪えて、真物は正面に目を凝らした。
 真物をかばって寄り添うように立ち尽くす四人の前に、突如一人の少女が姿を現した。まるで、目に見えない扉をくぐり抜けてきたように、何もない空間から。
 少女の出現と共にデヴァ・システムは一切の動きを止め、沈黙した。

「あき……」

 消滅を免れた神取は、待ちかねた救世主の出現に安堵し畏敬の念を込めて名を呼んだ。

「よくもパパを殺そうとしたな!」

 子供特有の残虐性を秘めた鋭さでニコライを睨み付け、あきと呼ばれる少女は誰も寄せ付けまいと両手を広げて神取の前に降り立った。
 前髪を上げ黒いベルベットのリボンで結び、負けん気の強そうな顔をした、黒い服の少女。

「あき……」

 驚きの余り言葉を詰まらせて、マキは息を飲んだ。

『またあの黒い女の子のしわざね!』

 マキの声が聞こえた瞬間、一つの言葉が記憶を過ぎったが、真物はその声を掴み損ねた。無意識の範疇で、少女の声と誰かの声が結び付く。手の届かない場所まで遠ざかってしまった記憶を無視して、真物は黒い服の少女に意識を集中した。

「お前たちもだ。みんな消えろ!」

 小動物のように牙をむいて、あきは服の下から半月型に光る首飾りを取り出した。

「そうだ…いいぞあき。私を誘え! お前の世界に!」

 勝ち誇ったような神取の言葉を合図に、少女の手の中で強烈な光が閃いた。
 光の束を瞳に受けた瞬間、凍えそうに殺伐とした痛みが真物の意識に食らい付いた。それは、あきの思考の断片に他ならない。
 「彼女」の守りが後一歩遅れていたら、真物の意識は間違いなく破壊された事だろう。
 非現実的な現実の始まった一日を締めくくるに相応しい出来事だった。
 視界から一切の色が失われ、世界は暗転した。

 

 頭の中に気の狂った女の声が響いた
『こんなものいらないわ!』
 「彼女」の声ではない

 

GUESS 赤 4

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GUESS 緑 6