GUESS 緑 6

際 会

 

 

 

 

 

 頭の中に女の静かな声が響いた。
「さあ、いらっしゃい」

 ここはいつだって夜だ。
 心待ちにしていた休日に胸躍らせる金曜の夜とか、憂鬱でため息ばかり出る日曜の夜とかじゃない。
 ただの夜。
 冷たく、暗く、明けることがない。
 生まれた場所に、戻ってきたというわけか。

 夜とあの女の声。

 声が、もう一度同じ言葉を繰り返す。
「さあ、いらっしゃい」
 戻っておいで、待っているから。

 誰も待っている訳がない。だからここに逃げ込んだ。
 何もかもどうでもいいと捨てて、忘れて、思い出すのもやめて。
 それでも彼女は繰り返す。
 さあ、いらっしゃい、待っているから、と。
 嫌だ、行かない。


 頭の中に女の静かな声が響いた。
「そこはあなたのいるべき場所じゃないわ」

 ここはいつだって夜だ。
 太陽は沈みっぱなしで、月も星も光らない。得体の知れない鳴き声は聞こえてこないが、夜明けを告げる鳥の声も聞こえない。
 ただの夜。
 切り取られた時間。
 あの日の夜と同じというわけか。

 夜とあの女の声。

 声が、もう一度同じ言葉を繰り返す。
「そこはあなたのいるべき場所じゃないわ」
 早く気付いてくれと訴える。
 嫌だ、行かない。

 ここにいたっていいじゃないか。誰かが誘ってくれたからここにいるのに。どうして引きずり出そうとするんだ。

 それでも辛抱強く繰り返すのだ。
「思い出して」

 頭の中に女の静かな声が響いた。
「私が護るから」

 ここはいつだって夜だ。
 理性は消え失せ、感情が剥き出しになる。正視に堪えないほど醜い形相も隠してくれるし、どんなに泣き叫んでも伝わらない。
 夜。夜だ。
 一瞬の永遠。
 これが始まりというわけか。

 夜とあの女の声。

 声が、もう一度同じ言葉を繰り返す。
「私が護るから」
 こっちへいらっしゃい、そこはあなたのいるべき場所じゃない、と。
 何度も言われて、段々そんな気持ちになる。

 ここはいるべき場所じゃない。
 ここを、出よう。
 何から護るのか分からないけれど、護ってくれるというのならここから出よう。
 出て何をすればいいか全く分からないけれど、ここから出ていこう。
 何を思い出せばいいのか分からないけれど。

 どこかも分からない場所から外に出る。

 そして女の声が迎える。
「あなたの思う通りに動けばいい」
 なんて無責任な。

 

 

 

 うつ伏せの状態で横たわっていた真物は、突如襲った激痛にはっと目を覚まし、反射的に額を押さえた。
 そのままもがくようにして上体を起こし、ぎこちなく辺りを見回す。最悪の気分だった。ひどく嫌な夢を見たように思う。目を開けた途端ほとんどは波が引くように消え失せ、残されたのは、男の罵声と、ひれ伏す女の姿、鈍色に光る長細い凶器、そして子供の叫び声。
 憎しみの胤が芽吹く瞬間。
 正確に言えばそれは夢ではなく、誰かの思考の断片だろう。気を失い意識が拡散した状態が、最も他人の思考に捕らわれやすいからだ。となると、近くにこの記憶の持ち主がいる事になる。
 真物は霞む目を見開いて、近くにいる筈のその誰かを探した。耳の奥ではまだ、男の怒鳴り声がわんわんと響き、男の怒りを静めようと必死になって謝罪の言葉を繰り返す女の弱々しい声が続いている。自分の記憶ではないにしても、余りに酷似した状況は吐き気すら感じる。
 女がいくら詫びようと男は許さず、手にしたゴルフのクラブを振りかざした。
 蛍光灯の明かりを反射して鋭く光る凶器が、女を庇って飛び出した子供の頭に振り下ろされる。

「ぐぅ……」

 また衝撃が襲う。
 誰かが残した思考の断片は激痛を伴って繰り返され、真物は恨みがましい声を上げて眉間に手を当てた。
 そこで不意に腕を掴まれ、後方に引きずられる。それも随分乱暴に。他人に触れられる事は未だ嫌悪の対象でしかない。真物は緩慢な動作で拒絶を示し、傷もないのに熱く疼く眉間を強く押さえた。

「死にたくなきゃじっとしてろ!」

 頭の上で、低い声が真物を叱咤する。有無を言わさぬ態度に一瞬腹を立てたが、「死ぬ」という言葉の恐怖に突かれ、真物は大人しく言う事に従った。足の傷から流れ出る血の跡を残しながら引きずられ、近くの大木の影に突き飛ばされる。怪我人を扱うには随分荒っぽいやり方だが、次の瞬間真物は理解した。
 たった今まで自分がいた場所に無数の弾丸が撃ち込まれ、石畳を粉々に砕いたのだ。
 驚いてはっと目を上げると、奇妙な形をした鉄製の大きなネズミがゆっくり近付いてくるのが見えた。こちらにではなく、自分を助けた誰かに向かって、だ。彼はエルミンの制服を着ていた。声に覚えはないが、どこかで見かけた記憶はある。

(誰だろう……)

 大きなネズミとしかいいようのない鉄製のそれは、五連の機関銃の銃口を環状に組んだものが背中に取り付けられており、明らかに殺人兵器である事を示していた。姿形が愛らしいだけに、凶悪さがさらに増す。
 さらに目を凝らすと、鉄のネズミの傍に、黒い服を着た少女―あき―が立っているのが確認出来た。
 真物は半ば無意識に身構えた。自分が思い出すだけではなく、実際の衝撃としてあきから思考の断片を感じ取るのを防ぐ為にだ。

『それだけ解っていれば大丈夫』

 安心させるように「彼女」は笑顔で言った。
 「彼女」の干渉は、もう不快感だけではなくなっていた。「彼女」はいつでもこうして言葉をくれる。決して諦めず、見捨てる事もしない。こちらがどんなに嫌悪を示そうが決して離れず、護ってくれる。恐らくそんなのは「彼女」だけだろう。

『今は嫌々でも構わないわ』

 図星をさされ真物は苦笑いをもらした。それでも、安堵感は間違いなくある。
 ほっとしたせいだろうか、唐突に周りの景色が見えるようになる。傍にあるのが大木ではなく、深い光沢を放つ黒い巨大な岩石だと気付くのにそう時間はかからなかった。

「!…」

 真物は我が目を疑った。学校の中庭に間違いないのだが、どう考えてもありえない事だった。記憶の、未だ不明瞭の部分を慌てて掘り起こす。
 それを邪魔するように、高く鋭いあきの声があからさまな敵意を吐き出した。

「なにお前、自分から先に殺してくれってわけ?」

 あきの言葉と共に、きりきりと嫌な音を立て、機関銃の照準が背中を見せたままの人物に合わせられる。

「おもしれぇ。俺を殺るだと?」

 ポケットに両手を突っ込んだまま、彼は鼻で笑った。

「なにがおかしいんだよ! 大体お前、パパが殺したはずなのに、なんで生きてるんだ!」

 子供らしからぬ凄みのきいた声で喚き散らし、あきは目をつり上げた。
 答える代わりに、彼はあきの言葉に一つの光景を心に思い浮かべた。
 それは彼にとっていつまでも心に残しておくような代物ではなかったようだ。その為、真物が掴み取れたのは『白い服』と『今にも死にそうな顔をした女の子』だけだった。これだけではさっぱりわけがわからず、また、何か推測出来るほど、今は落ち着いた状況ではなかった。
 足からの出血のせいで身体全体が冷たく感じられ、嫌というほど、死の危機に晒されている自分自身を思い知らされる。

『いいえ、あなたは大丈夫!』

 「彼女」は力強く言った。
 何気なく、真物は足の傷に目をやった。途端に押し寄せる慙愧の念が、自ら閉ざした頑強な砦を打ち砕く、あと一歩のところまで迫る。
 直後、奇岩の向こう側で、稲妻を思わせる激しい音と光が立て続けに起こった。校舎全体がびりびりと震え、窓ガラスは落ち着きを失いそこここでがたがたと囁き合う。
 正常さを欠いた思考はそれを現実のものと捉える事が出来ず、真物は夢見心地で振り返った。視界の端が白く霞み、目に映るものを上手く判別出来ない。
 背を向けた人物の足元から、ゆるやかに渦を巻いて蒼紫の霧が立ち上り、二重の螺旋を描きながらやがて人の形を取り始めていく。

「城戸……玲司」

 半ば無意識に、口から名前が零れ出た。頭の中に、夕暮れ時の空を蒼紫の霧が侵食していく光景が思い浮かぶ。

「ペルソナ……!」

 低い声が呼びかける。玲司の背後に浮かび上がった異形の玲司が、背丈ほどもある朱の槍を下手から振り上げ、鉄のネズミに攻撃をしかけた。

「やっちゃえテッソ!」

 あきの掛け声と共に、テッソは銃弾を連射し、玲司の攻撃は防御の動きを取らされた。
 「彼女」のおかげか、二人の思考の断片は微塵も感じられなかったが、狂ったように笑い声を撒き散らすあきの形相、憎悪と殺意としか受け取れないほど陰惨な玲司のペルソナを見せられては、何の意味もなかった。
 こうまで責められると、かえって笑いが込み上げてくる。目の前で繰り広げられるテッソと玲司の非現実的な現実に、真物は自嘲気味に笑みを浮かべた。

『一度決めた事を、そんな簡単に覆そうなんて思わないで。この目の前の有り様は全て、あなたが選んだものよ』

 あまりに的確な「彼女」の言葉。そうだろうとも。まるで予想もつかない出来事ではない。

 しかしなんだってそんなに干渉するんだ?

 何か、何かが解りかける。そうしている間も砦をこじ開けようとする働きは止まず、そのせいでいつにも増して感情が直に顔に表れてしまう。
 結果、視線の先にいたあきを睨み付ける格好になり、間を置かずあきがそれに気付く。

「そこで隠れてるお前! 他のやつらはどこ行ったんだ!」

 言われるまで、真物もその事を忘れていた。
 妙なのはそれだけではない。これだけ派手な物音が絶えず轟いているのに、校舎からは誰一人として出てくる気配はなく、窓から覗く者さえいない。
 まさか…まさかみな悪魔に殺されてしまったのか?
 南条やマキ達はどこへ行ってしまったのだろう
 それより、そうだ。自分は何故学校にいるんだ?

「おまえら二人とも癇に障る!」

 明らかに殺意を抱いた声音。

「死んでくれる?」

 子供らしい無邪気な微笑みと対極に位置する、陰惨な言葉。テッソの両目が緑色に光る。直後、口が大きく開き奥で朱色の熱の塊が閃いた。

 メギドラ

 上からの凄まじい重圧と、正面からの高熱とが続けざまに二人を襲う。
 吹き付ける熱風に身体をすくわれ、奇岩を掴み損ねた真物は後方に転がされた。視界の端に、目前に迫った校舎の壁が映る。
 打ち所が悪ければ死ぬかもしれない。頭の隅に、そんな考えがぼんやりと思い浮かぶ。

 死にたくはない――

 思いが通じたのか、寸前で真物の身体は見えない手に抱き止められ、激突を免れた。
 唐突に身体が自由を取り戻す。足の傷は麻酔をかけられたように痛みを忘れ、おかげで真物は立ち上がる事が出来た。
 振り返らずとも、そこに青面金剛が現れているのは間違いなかった。
「意外としぶといな」
 土煙の向こうから、あきの声が聞こえてきた。やや離れた場所に、玲司の姿がある。
 彼も無傷のようだ。

「それで終わりか?」

 あからさまな挑発に、あきが目をつり上げる。しかし玲司の方も、言葉通りの余裕があるわけではなかった。手応えはあっても、テッソに傷一つ負わせる事が出来ないのだ。
 相手は、弾丸を吐く上魔法も使うときている。今のところ無傷で済んでいるが、長期戦に持ち込まれてはこちらの方が不利だった。
 ペルソナは、使えば使うだけ体力が消耗する。
 早くけりをつけなくては
 焦りは禁物だと、自分自身を叱責する。

 ツインスラッシュ

 玲司の思い描くとおりの威力で、ペルソナブレスが槍を振り上げた。朱色の軌跡が優美な曲線を描き、テッソの胴体に狙いを定める。切っ先が触れる寸前、テッソは素早い動きでこれをかわし、すかさず弾丸を撒き散らした。
 頭を低くし走る玲司を追って、校舎の外壁を打ち砕きながら弾丸が放たれる。いたるところで窓ガラスが割れ、見る間に校舎は無惨な外観に成り果てた。雹のようにふりそそぐ外壁のつぶてが、容赦なく玲司を襲う。砕け散る瓦礫に肩を打たれ、玲司は崩れるように倒れた。

 マハーガル

 真物は奇岩の影から一歩踏み出し、青面金剛に呼びかけた。途端に真物を中心に激しい風が吹き荒れる。風の束の中に隠された無数の刃が、テッソの背中から銃身を切り落とそうと接合部分に集中する。
 玲司に気を取られていたあきは、突然の攻撃に驚きの表情で振り返った。
 動き出してから、真物は自分自身に驚いていた。目の前で人が殺されるのを黙って見ているわけにはいかない、そんな衝動的なものだった。いや、突き動かされたというよりは、自分で自分を引きずり立たせた、それがより正確な表現だった。
 今はそれ以上考える事はなかった。使命を果たすのならこれで充分だろう。
 一度動き出した以上、躊躇している暇はない。テッソの外殻がどれだけ頑丈に造られているかは承知の上だったが、真物は続けざまに風刃を繰り出した。

「そんなちゃちな魔法がきくもんか! やっちゃえテッソ!」
「ウッヂュー!」

 間の抜けた鳴声とは裏腹に、テッソは激しい炎を吐き出した。迫り来る熱波に対し、真物は風の力で方向を逸らせようと試みる。辛うじて成功。鼻先がやや熱かったが、黒焦げになるのは免れた。
 休みなくペルソナを使ったせいか、未だ止まらない出血のせいか、手足の先に軽い痺れが走った。ひと息ついてから、真物は再びペルソナに呼びかける。だが、思った以上に身体は疲弊しきっていた。先程に比べると、目に見えて威力が激減している。風刃はことごとく弾かれ、お返しとばかりに弾丸の雨を浴びせられた。風刃の防御壁で直撃を免れているものの、すぐ脇を弾丸がすり抜けていく恐怖は、言葉では到底表しきれない。
 けれど。
 もうだめだとは思いたくない。
 自分に、そうは思わせたくない。
 使命を――!
 意識の底で、真物は「彼女」の手に触れようと動いた。今は無理だが、必ず重なり合う時が来るはずだ。
 だから、今は矛盾していても構わないのだ。
 死を免れる為に、嫌悪する殺意を抱いても。
 まだ赦せないでいるのだから
 変革を告げる衝撃は別の形でやってきた。無我夢中だった一度目とは明らかに違う昂ぶりと開放感は、言葉での表現を遥かに越えた快感だった。
 自分自身に驚きを感じる。
 この感情はどこから来るのだろう、と。――を守る為とはいえ、ここまで出来るとは、正直思っていなかった。
 ペルソナの姿が、威力と共に変質し、呼びかける者に応えられるだけの強さを備えて覚醒する。

 マハラギオン

 風を操る力は大気から火炎を起こし、灼熱の塊は鋭い槍の形を取りテッソを貫いた。

「テッソォ!」

 高熱で砲身が溶け、テッソの胴体が見る間に真っ赤に染まってゆく。
 予期せぬ展開に、あきは呆然と口を開けて突っ立っていた。テッソの両目が不機嫌そうに明滅している。異常を報せるにはそれで十分だった。

『爆発するわ!』

 テッソの構造を考えれば当然の成り行きだろう。「彼女」の警告に、真物は咄嗟に辺りを見回し隠れる場所を探した。一瞬、視界の端に、唖然としたままのあきの姿が映る。
 その後の行動は、頭で考えたものではなかった。
 いや、例え冷静であったとしても、目の前で人を見殺しにするよりも、助けて苦痛を味わう方を選んだに違いない。
 気が付くと、あきを横抱きに抱え玲司に覆い被さるように入り口近くの花壇に倒れ込んでいた。直後、腹の底を突き上げるような爆音を轟かせ、テッソは粉々に砕け散った。
 中庭一杯に黒煙が広がり、舞い上がった土や小石のつぶてが真物の背中に降り注ぐ。ややあって物音は小さくなり、燃える部分を全て焼き尽くした炎は潔く姿を消した。
 真物の腕を払いのけて飛び起きたあきは、振り返るなり絶叫した。辛うじて原形を止めているテッソの頭部と、鉄屑同然に成り果てた胴体が、奇岩の前に散らばっている。

「パパが…パパがプレゼントしてくれたのに……何てことするんだよぉ!」

 あきはべそをかきながら喚き散らし、真物の頭を何度も踏み付けた。

「お前なんか死んじゃえ! 死んじゃえ!」

 踏みにじられる度、凄まじいまでのあきの激怒が頭の中に響き渡る。初めこそ堪え難い苦痛だったが、それも少しずつ薄れていった。やがて何も感じなくなって、そして……

(この子の声…前にも確か聞いた覚えが……)

 どこかで聞いた。
 どこでだっただろうか。
 次第に思考が千切れてゆき、まとまりのない考えがあちこちでぽつぽつと浮かんでは消えてゆく。

(なんでこの子は、こんなに怒っているんだろう……)

 憔悴しきった身体は自由が利かず、両腕で頭を庇うのが精一杯だった。
 死ねと罵るあきに対して、衝動的な殺意が芽生える。
 今にも銃を取り出しそうになる自分自身を辛うじて引き止めたのは、正体がなんであれ、あきが子供の姿をしている、という思いからだった。
 とはいえ、子供でも本気になれば人を殺す事は出来るだろう。
 加減を知らないから。

(そんなに大事なものだったんだ……怒るのも無理ないな)

 殺意や怒りとは異なる感情が同時に立ち上がる。

「真物君!」

 途切れそうになる意識を、誰かの悲鳴が繋ぎ止めた。

「やめなさいあき!」
「おまえらか!」

 吐き捨てるように言って、あきは真物から離れた。
 真物はそろそろと目を開き、声のした方に頭を向けた。

「大丈夫かシン!」
『うわっひでぇ……』『死んでねぇよな?』『今すぐ治してやるからな!』『なんて事しやがる、あのガキ』

 すぐ傍で別の声がした。この声には聞き覚えがある。ただ、顔がよく見えない。
 真物は、手をついて身体を起こそうと試みたが、どうもうまくいかない。手も足も、まるで力が入らないのだ。
 そのままぐったりと横たわっていると、四本の手が差し伸べられ静かに起こしてくれた。傍に寄られただけでも思考の断片は筒抜けだというのに、直接触れられては遮りようがない。とはいえ、助けがなくては起き上がるどころか頭を上げる事も出来ないのでは、大人しくしているしかなかった。
 両側から身体を支えてくれる二人の思考の断片が、いたわりと怒りを交互に繰り返しながら頭に流れ込んでくる。

『こんな感じで大丈夫かな』『唇が切れてあんなに血が……』『でも何でシンだけはぐれちゃったんだろ』
「頼む園村!」

 右側の人物が、脇に立つ女子にそう呼びかけた。

(ああ、園村さんが…稲葉君…上杉君か、こっちは)

 首を傾け、両脇にいる二人の顔を交互に見つめる。頭の中はぼんやりとしていたが、三人の顔は辛うじて確認する事が出来た。

 ディアラマ

 優しい声音が身体を包み、傷付いた個所を残らず癒す。鉛を詰められたようだった足も、ずきずきと疼く頭も元に戻り、嘘のように痛みが消え去る。視界一杯に白い光が弾け、瞬きの間にそれは消えた。
 まず目にしたのは、心配そうにこちらを見つめるマキの潤んだ瞳だった。背後には南条もいた。鋭い眼差しをあきに向け、立っている。

「ありがとう……」

 自由に動けるようになった身体を起こし、真物はかすれた声で礼を言った。

「オイ、何でこいつ…! 城戸じゃねぇか!」

 玲司に気付いたマークが、素っ頓狂な声を上げて真物を振り返った。

「こいつが、何でここに?」

 困惑の表情で真物は首を振った。

「オイ城戸、大丈夫か!」

 マークは遠慮がちに身体を揺さ振り、呼びかけた。わずかに呻いて、玲司がゆっくりと目を覚ます。

「くそったれが……」

 悪態をつきながら上体を起こし、あきを睨み付ける玲司の顔を見て、真物ははっと息を飲んだ。
 彼の額には、縦横の傷跡がうっすらと刻まれていた。
 ついに見つけた。彼だったのだ。

『多分引き寄せられたんだと思う。あれだけの憎しみを抱く人物だもの。力がそれに反応したのよ。だから皆とはぐれてしまったのね。ま、推測だけどね』

 またしても、「彼女」と同じ事を考えていた。どちらが先だろう。

「あき! どうしてこんな事をするの?」

 玲司の治癒を済ませたマキは、名残惜しそうにテッソの残骸を見つめているあきに向かって非難めいた声を浴びせた。

「学校なんて…こんなものなくなっちゃえばいいんだ」

 小さな、しかし憎々しげな声であきは呻くように言った。

「なんでなの?」
「うるさい黙れ!」

 噛み付かんばかりの勢いであきは怒鳴った。
 針のように鋭く尖ったあきの思考の断片が、真物の鼓膜を突き刺した。血が噴き出すかと思えるほどの痛みに、真物は眉を寄せて目を背けた。「彼女」はこれでも守っているつもりだろうか。耳の奥で高い音が鳴り響く。

(こうやって全部失われていくわけか……)

 妙に冷静だった。他人事のようにも思える。しかしこれは紛れもなく自分自身の現実であり、父親も母親も親友さえも奪われた者の本音でもあった。

「神取の居場所を教えてもらおうか」

 南条の声が、激昂するあきの上に冷やかに被さった。名前を口にするのも忌々しいといわんばかりだ。その為か、彼の声はそれしか聞こえない。だが、眼差しを見ればその心境は容易に推測出来た。

「ばーか。誰が教えてやるもんか!」
「真物!」

 突如名を呼ばれる。
 真物は困惑の表情で振り返った。
 今、その声が聞こえるはずがない。
 自分を、名前で呼び捨てにする人物は、ここにはいないはずなのだ。
 だが、今、確かに呼ばれた。
 自分を名前で呼び捨てにする人物が、ここにはいるのだ。
 ここに?
 我が目を疑う。
 開け放たれた扉の傍に立っていたのは、紛れもなく内藤陽介だった。

「陽介……」
「内藤君!」

 叫んで、マキはあきの動きを注意深く見守った。もしも視線だけで人が殺せるとしたら、今ごろ陽介は炉の中の溶けたガラスのようにどろどろにされていただろう。それほどあきの形相は凄まじく、憎しみに満ちていた。
 真物は糸の絡まった操り人形のようによろよろと立ち上がり、感情の抜け落ちた顔で陽介に歩み寄った。
 彼は、松葉杖をついていた。左足にギプスをしているせいだ。怪我の個所はそこだけではない。包帯で覆われた右腕を首からつっており、こめかみと右頬に大きなガーゼを、鼻の頭には白いテープをはっている。顎の辺りには、治りかけた擦過傷の跡もあった。

「―――………」

 百もの聞きたい事が我先にと頭に思い浮かび、そのせいで何も言えなくなってしまった。 
 何度も口を開こうとするのだがやはり言葉は出ず、困り果てた真物はただじっと親友の顔を見つめていた。

「俺の知っている方の、真物だよな?」

 探るような目付きで真物の特徴や身につけているものを確認した後、陽介は確信をもってそう切り出した。

「……え?」

 一瞬、何を言われたのか理解出来なかった。戸惑いの眼差しを問いかけの代わりに陽介に向ける。しかし陽介は、ほっとしたような顔付きで口を閉ざし、真物が『読み取る』のを待っていた。
 真物はわずかに眉を寄せた。
 陽介は、今までただの一度もこんな、試すような真似をした事はない。
 何があったというのだろう?
 あまりいい気分はしなかった。

『どうして私を選ばなかったの!』

 そこへ、背後から強烈な思考が放たれ、矢のように勢いよく真物の頭に突き刺さった。

「危ない!」

 マキが悲鳴を上げるより早く真物は振り返り、あきが投げ放った鉄の塊を目にするや陽介を庇うように後ろ手に押しやった。拳ほどもある鉄の塊は真物のこめかみを打ち付けると、鈍い音を立てて地面に落ちた。激しい衝撃に視界がぐらりと揺れる。倒れそうになるのを辛うじて踏みとどまり、真物は目を上げてあきを見た。

「大丈夫か真物!」

 陽介は松葉杖を手放し両手で真物の身体を支えた。

「大当たり!」

 歓声を上げ、あきは手を叩いた。
 本当は内藤陽介を狙ったのだ。狙いは外れたが、その代わり、大事なテッソを壊した張本人にぶつけられたのは気分が良かった。

「いい加減にしろよこのガキ!」

 今にも噛み付かんばかりの勢いでマークが足を踏み出した。だが、次に目にした光景にぎょっとなって言葉を失った。
 真物はホルスターから銃を引き抜くと、銃口をあきに向け引き金に指をかけた。この時、ためらいはまるでなかった。

「!…」
「なっ……! 止せ見神!」

 真物が引き金を引くより一瞬早く、南条が止めに入った。直後放たれた弾丸はあきの足元にめり込み、真物は銃を取り上げられた。

「……真物?」

 真後ろにいた陽介が、ようやく状況を把握し驚きの声で真物を呼んだ。
 足元に視線を落としていたあきはゆっくり顔を上げ、薄ら笑いで目を細めた。

「おもしろいやつだな、おまえ。次に会うのが楽しみになった」

 あきは服の下にしまい込んでいた首飾りを取り出すと、何事か唱え、見えない扉をくぐり抜けて消え去った。

「オイ、待て――!」
「あき!」

 マキとマークの声が、辺りに空しく四散する。少しして二人はほぼ同時に、恐々と真物を振り返った。
 困惑の表情が、真物には非難しているように見て取れた。救いを求めて、真物はちらりと「彼女」に目を向けた。

『とりあえず友達は守れたわ』

 励ましの言葉は、心なしか…上辺だけのように軽薄に響いた。いっそ思い切り罵倒された方がましだと、自責の念にかられ沈む真物の感情を和ませるように、「彼女」は真っ向から見つめにっこり微笑んだ。
 それがぎこちなく見えるのは思い過ごしだろうか。「彼女」は、別の何かに気を取られ上の空だった――

「いきなり撃つのは反則ッスよ大将」

 苦々しい沈黙が広がるのを防ぐように、ブラウンは大きめの声でわざと軽口をきいた。
 あからさまにうなだれては、かえって彼らの目に付き余計な気を遣わせる事になるだろうと、真物は強い顔で目を伏せた。けれど今でももう、充分そうなっている。心苦しくてたまらなかった。

「まあ、あのガキにゃあんくらいで丁度いいんじゃねぇの? ダチの仇だし、なぁ南条」

 彼らの心の内だけは聞くまいと表情を殺していた真物だが、マークの言葉にそれも忘れてはっと顔を上げた。睨むような勢いでマークを見る。
 だがマークは南条に目を向けていたせいで真物の変化にすぐには気付かず、南条に適当にあしらわれふてくされてそっぽを向いてやっと、真物に気がついた。
 マークと目が合った途端、真物は陽介を振り返った。この時も陽介は、全ての説明を眼差しに浮かべるだけで口を開こうとはしなかった。一体何が彼をこうさせるのかまるで分からなかったが、今はそれよりも彼の怪我の理由を知る方が先だ。

『気を付けて……!』

 「彼女」の忠告はしかし一歩間に合わなかった。真物は陽介の思考の断片を掴み取ろうと、彼の目を覗き込んだ。陽介の中に残る記憶を垣間見た真物は、途端に猛烈な吐気と目眩に襲われ、一瞬にして気を失った。
 黒い服の少女、あきが見えた。
 黒いどろどろしたものが、顔といわず身体といわず全身にこびりついている。汚泥の中に座り込んだまま、女は頭を抱えてけたたましい悲鳴を上げ続けていた。
 真物が見たのは、奇しくも自分の記憶の底に残っているものと同種の、『女の嫉妬』だった。

「ま、真物君!」
「シン!」

 突然目の前で倒れた真物に、マキたちが驚きの声を上げる。
 慌てふためく彼らの喧騒が、急速に遠退いてゆく。
 無意識の底に沈んでゆく真物を追いかけるように、小さな手が伸ばされる。だが、あきの衝撃から逃れるのに精一杯で、真物は追いすがる小さな手に気付かなかった。

『助けて! 早く――ここに来て!』

 泣きじゃくる幼女の必死の叫びも、ついに届かなかった。

 

 

 

 気がつくと、保健室のベッドに横たわっていた。室内に漂う独特の匂いに顔をしかめて辺りを見回すと、周りはカーテンで仕切られており、傍に陽介が座っているのが目に入った。他に人の姿は見当たらない。

「気分はどうだ? 真物」
「ゴメン……あまり良くない」

 喉がからからに渇いて、かすれた声しか出ない。力なく咳込んで、真物は何とか上体を起こした。頭がやけに重く、目に映るものがゆっくり回転して見えた。乗り物酔いをもっとひどくしたようだ。壁や天井の白が滲んで見える。

「無理に起きない方がいい。さっきは助かったよ、ありがとう」

 何を? と真物が聞く前に、陽介は静かに言葉を続けた。

「あの、黒い服を着た女の子…理由は分からないけど、どうも俺を憎んでいるらしいんだ」

 陽介の言葉に誘発され、真物の脳裏に先程の壮絶な光景が生々しい感触を伴い蘇る。途端に胃の辺りが焼け付くように痛み出し、強烈な吐き気が喉元までこみ上げた。慌てて口を押さえ俯く。

「悪い、何か見えたのか?」

 言葉も態度も心底詫びているのは分かるのだが、声の響きはまるで喜んでいるようだった、真物は怒りを通り越した驚きの表情で目を上げた。ショックのせいか、吐き気はほとんどなくなっていた。

『やっぱり俺の知ってる真物だ』『良かった、会えて』『もう駄目かと、諦めてたんだ』

「ここは……一体どこなんだ?」

 自分が学校にいる理由、行方不明になったはずの陽介が目の前にいる理由の説明を求めて、真物は尋ねた。大体は、陽介の思考の断片に触れて分かりかけているが。

「ああ、実はな――」

 陽介が口を開きかけた丁度その時、かすかに扉が開く音がして、何人かの人間が室内に入ってくるのが聞こえた。

「具合はどう? あ、気が付いたんだ真物君。良かったぁ!」

 カーテンの隙間から顔を覗かせ、マキが嬉しそうに声を弾ませた。

「ちょっくら学食行って、色々食うもん仕入れてきたぜ。考えてみたらろくに食ってなかったしよぉ」
「大将の分もあるッスよ!」

 マキの背後から、紙袋を抱えたマークたちが現れた。袋の口からのぞくパンや紅茶のペットボトルを目にした途端、すっかり忘れていた空腹感が猛烈に押し寄せてきた。

「気分はどうだ? 見神」
「……大分いい」

 南条の問いかけに、真物は努めて明るい声で応えた。実のところ、陽介の中に残っているあきの切れ端がまだ脳裏をちらついて言葉ほど良好とはいえないが、まさかそれを口にする事は出来ない。表面上だけでも平静を装い、唇を引き結ぶ。
 その時真物は、彼らの中に玲司の姿が見えない事に気がついた。それとなく陽介に尋ねると、マークが代わりに説明した。

「ああ、あいつな。気が付いたらいなくなってたんだよ。にしてもなんであいつまでこっちに来ちまったんだろうな。おふくろさん、心配してんだろうなぁ……」

 マークの言葉に触発され、玲司の母親の顔が過ぎる。思い出されるのは、優しく穏やかな陽のイメージ。あれほどの壮絶な過去を抱えているとは、まるで想像もつかない。
 真物は、先にマークが行った『こっちに来た』という言葉が気になっていたが、それは陽介が説明してくれるだろうと思い、まずは自分の目にしたものを告げた。

「えっマジ? あいつもペルソナ使えんの?」

 飛び出そうなほど目を真ん丸くしてマークは言った。
 真物には、あまりにもストレートな彼の反応こそが驚きだった。彼はきっと、ほんの少しも隠し事の出来ない性格なのだろう。
 そこでふと、玲司のペルソナが思い出される。不吉さを匂わせる蒼紫と、それとは正反対の、生に対する凄まじいまでの執着を感じさせる、鮮やかな赤。
 そして憎しみ。
 マークが落ち着くのを待って、真物は陽介に目で訴えた。

「ああ、そうだったな。今丁度ここの説明をしようと思っていた所なんだ。悪いけど園村さん、俺じゃ上手く説明する自信がないんで、代わりに教えてやってくれないか」

 買ってきた菓子パンの包みをいくつか真物に手渡し、マキは軽く頷いた。
 しばらく頭の中で言葉を整理し、やがてマキは、ここは君たちのいた世界とは別の世界なの、と切り出した。
 小説や映画ではよくある話だが、実際この世にそういった別世界が存在している事に、真物は少なからず驚いた。といっても、既に陽介から事情の半分を『読み取って』あるだけに、反応はごくわずかなものだったが。

『いつもはこんな風に冷静なんだよな』『頭の回転が速いってぇか』『南条とは別のタイプだよな』『キレるとおっかねぇけどな』『普段大人しい人間が怒ると恐いってのは、ホントなんだな』

 軽く頷いて説明を促した時、マークの思考の断片が頭の片隅に響いた。それとなく目を向けると、頭の中で思っているほどあからさまな表情はしておらず、ただ、少しばかり驚いているようにしか受け取れなかった。偽っているのか、それとも本当に、大した事ではないと思っているのか、真物には分からなかった。

『彼は、少しも隠し事の出来ない人物、そうでしょう。何もかもを疑ってかかるのはやめなさい。それに、あなたの基盤には衝動的な殺意≠煌ワまれている、そんなに気にする事はないわ。必要悪とでも思えばいい』

 指摘されてはっとなる。その後で慰めてもらってもあまり効果はなかったが、心のどこかでは「彼女」にそう言ってもらいたがっていた自分に気付き、密かに苦笑いを浮かべる。基盤という言葉が少し気にかかったが。

「私は、君たちの知ってる園村麻希じゃないの。何かのはずみで、君たちの世界に紛れ込んじゃったみたいなの。みんなの言う事や、街の様子があんまりにも違うからおかしいなとは思っていたんだけど、中々言い出せなくて。それに、あのカンドリって人を止めれば、どっちの世界も元に戻ると思っていたから…みんなにも言ったけど、ホント騙すとかそういうつもりじゃなかったんだ。ゴメンね!」
「別に……」

 突然頭を下げられ、真物は困惑した表情で首を振った。これでようやく、事情が飲み込めた。渡り廊下で出会ってから感じていた様々な違和感は、目の前の園村麻希が、自分たちの知っている人物とは似て非なる存在だからだったのだ。
 では、自分たちの知っている園村麻希は、未だに病院に閉じ込められたまま、というわけか。

(一度にいくつもの声が聞こえるところは一緒なのに)

 その時ふと、彼女の内側で起こる声に聞き覚えがある事を思い出した。

(少なくとも二人…以上はいるのでは……)

 薄ぼんやりとした思考が徐々に形をはっきりさせ、繋がりが見え始める。

「悪いけどシン、食ったらすぐ行こうぜ」

 没頭しかけた真物の意識を、マークが強引に連れ戻した。今は悠長に考えている時間はないようだ。真物は適当に頷いて思考を切り替えた。

「でもマークのダンナ、早食いは太るモトですよぉ」

 マークの鼻先に菓子パンを押し付けて、ブラウンはからかい半分に言った。

「あぁ? オレは太らねぇ体質なんだよ」

 ブラウンの手から袋を奪い取ると、勢いよく開いてマークはかぶりついた。

「椅子、足りないな」

 気を遣って立ち上がろうとする陽介を、慌ててマキが引き止める。

「大丈夫だから内藤君は座ってて。真物君、悪いけど端っこちょっと座らせてね」

 そう言ってマキはベッドの縁に腰を下ろした。

「じゃあオレ様も失礼してっと」

 マキの横に一人座れるだけの間をあけて腰を下ろすと、ブラウンはいたずらっ子のように目を輝かせてマークを見上げた。

「奥様、ここあいてるザマスよ! 立って食べるのはお行儀悪いザマス!」

 隣をぽんぽんと手で叩いて、ブラウンは満面の笑みを浮かべた。おかしくてたまらないといった表情である。

「う、うっせーな……」

 あからさまに取り乱した様子でマークはそっぽを向いた。しばらく気まずそうに立っていたが、やがて、遠慮がちにマキの横に座った。

「後で覚えてろよ上杉」

 小声で脅し、これ以上ないというほど険しい表情でブラウンを睨み付ける。

「何の事ッスか、マークのダンナ!」
「気安く触んなバカ!」

 刺々しい声で、肩を叩くブラウンの手を振り払う。
 自分の知っている園村麻希とは違うと頭で分かっていても、そうすぐには気持ちを切り替えられない。少しばかりやるせない気持ちになる。マークは腹いせにブラウンにつっかかった。

「いつも、こんな風に賑やかなのか?」

 懲りずに言い争いを続ける二人に目を向け、陽介がそっと聞いてきた。

「実は、あまりよく知らないんだ」

 軽く肩を竦めて、正直に答える。

「……陽介はどうしてこっちに?」

 しばらく考えた後、最後に残っていた疑問を口にする。

「ああ、まだ説明してなかったな。俺も、理由は分からないんだ。真物と待ち合わせをしたあの日だ。千里を家まで迎えに行って、駅に向う途中、ひどい目眩がして…気が付いたら二人してここにいたんだ。学校の、正門の前に。あの日は、約束をすっぽかして悪かった」
「――別に……」

 陽介が責任を感じる事ではないのに、心底済まなそうに首を垂れる彼の態度に、真物は言葉に詰まってただただ首を振った。

「それにさっきの…あれは、こっちの世界の僕が――じゃなかったから、だろ?」

 中庭での、試すような態度の理由を陽介の思考の断片から読み取った真物は、さらに詫びようとするのを遮り、周りに知れないよううまく言葉を濁して言った。

「ああ、そうなんだ。すごくヘンな感じだったよ。ないだけじゃなくて、なんというかこう、性格とかも――」
『よく喋る方で』『正規の美術部員で、こっちの園村さんと一、二を争うほどの』『絵の描き方とかも随分違ってた』『彼女の存在もなかったようだし』『とにかく明るかった』
「なるほどね」

 陽介が言葉に詰まる理由を内側から読み取った真物は、なるべく苦笑いに見えないよう気を付けて笑みを浮かべた。
 こちらの世界の見神真物に対する、陽介の正直な感想を一通り耳にした真物は、羨望に似た思いが込み上げるのを止められなかった。
 何かに耐えるように唇を引き結び、一点を見つめる真物に気付き、陽介は口を開いた。こちらの真物を賞賛したと思われては心外だからだ。

「でも俺の知ってるのは、の方だし、それにお前の描く絵の方が、ずっと好きだ」

 自分の目を指差してから真物を示し、陽介は真面目な顔で頷いた。照れくさいというより、唖然としてしまう。堅い性格ではないのだが、時々こういうセリフを臆面もなく言い切ってしまう陽介に、真物は何とも言えない顔になった。
 数ヶ月前、内藤陽介が失踪した時、やはり人など信じてはいけないのだ…心を押し潰そうとのしかかっていた不信感は溶けてなくなり、純粋な喜びがゆっくりゆっくり広がっていく。それはとても心地良く、安心感に満ちていた。真物は深く息を吸い込んで、余韻を味わった。
 しかしすぐに頬を強張らせ、幾分沈んだ声で問い掛けた。

「ところで……千里さんは、どこへ?」

 問いかけに陽介は険しい表情で目を伏せ、力なく首を振った。それにつれて思考も暗く打ち沈んだ褐色に変わり、ひび割れていく。

「推測だけど……」

 と、それまでマークたちのお喋りに参加していたマキが、控えめに口を挟んだ。千里の名前に反応したのだろう。

「街の東側に連れて行かれたんだと思う。今、この街は、西と東に分けられてて、間に大きな黒い壁があるの。あきが現れた途端出来上がったんだけど、あきは東側を占領してるの。多分そこに千里がいるんだと思う。私たちはダークサイドって呼んでるの」
「ダークサイド……?」
「うんそう……いつも黒い霧に覆われてて中の様子は分からないんだけど、誰かが言うには、中は悪魔でいっぱいだろうって。あの子、あきちゃんは悪魔を操る事が出来るから――」

 視界の端に映る陽介の顔がますます険しくなる。事実がどうあれ、大切に思う人が最も危険な場所にいるとは、考えたくないのだろう。だが、可能性は大だ。あきが陽介を憎んでいるというなら、直接傷付ける以上に効果的なのは、千里を奪う事だ。最悪の事態も、ある程度は覚悟しなければならない。

「あのおじょうちゃんに、そんな力がねぇ――」

 見た目こそ極普通の少女なだけに、ブラウンは驚いたように頷いた。

「ダークサイドか。ではまずそこへ行くぞ。あの幼女を捕まえれば、神取の居所がつかめるかもしれんしな」
「ってまーた仕切りたがるし…えっらそーに」

 さっさと準備を始めた南条に、聞こえるか聞こえないかの小声で零し、マークは立ち上がった。

「黙れサル」

 一方南条も、聞こえない風を装いながらもしっかり言い返した。

「なんだとコラ!」
「済まん、サル」
「だーまた言いやがったな! 大体なぁ――!」

 途端に次元の低い言い争いが始まり、止める気はさらさらないブラウンが面白半分に仲裁に入る。
 それらを脇目に、真物はベッドからおりて身支度を整え始めた。

「ちょ、ちょっとみんな! 遊んでる場合じゃないでしょ!」

 マキの声に真っ先に反応したのはマークだった。うろたえて口を閉ざす。気まずそうにマキを見ると、ホルスターから銃を抜いて弾丸を装填している。

「? 何やってんだ園村」
「何って、出発の準備だよ」

 万全の状態かを確認しながら、マキは平然と答えた。

「いつまでも遊んでないで、稲葉君も早く準備して」
「早くって…おい、一緒に行くつもりなのか? そんな危険な事――」
「私も行くの!」

 止めようとするマークの言葉を遮り、マキは鋭い声で言った。

「だって、一刻も早く千里を助けたいんだもの。みんなには迷惑かけないから、お願い一緒に連れていって」

 真剣な眼差しで頼み込むマキの内面で、千里に対する想いが鮮やかに花開く。場面ごとに切り取られた様々な思い出のいくつかが、真物の脳裏にあたかも自分の記憶のように浮かび上がる。

 千里とお喋りしている時が、一緒に絵を描いている時が、何より楽しい。考え方や物の見方はまるで正反対だけど、共通した趣味があるからそんな溝はまるで気にならない。
 千里とは中学校の入学式で初めて出会った。それまで友達と呼べる人のなかった「私」にとって、千里はなにより大事な存在なのだ。

「いや…メーワクとかそんなんじゃなくって……」
「オッケーマキちゃん、んじゃマークのダンナはマキちゃんの護衛役ってコトで。それでいーよね、南条クン!」
 うまく伝えないマークに代わって、ブラウンが承諾を求める。
「まぁいいだろう。ペルソナがあれば足手まといにはならんだろうしな」
「あんがとさん! 良かったねー、マキちゃん!」
「ありがと、上杉君」
「なんのなんの、ねーマークのダンナ!」
「おまえなぁ……」

 呆れ顔でマークはため息を吐いた。

「見神」

 南条に呼ばれ、真物は肩越しに振り返った。銃を差し出す手が目に入る。

「俺が言えた義理ではないが……無闇に発砲するのは控えろ」
「………」

 咎められるだけの事をした。真物は小さく頷いて済まなそうに目を伏せた。

「いい、貴様の気持ちはよく分かる」

 大事な人間を傷付けられ、激昂する感情を止められないのは痛いほど分かると、南条は低く言った。現に自分も混乱に陥ったし、元凶にたどり着いた時、何をしでかしてしまうか…想像もつかない。

「だがお前は、俺やいつも騒々しいあいつらと違いもっと冷静に的確に物事に対処出来るはずだろう」
「!…」

 勝手に人を冷静だ何だと決め付けるなと反発が起こる一方で、ショックも味わう。何に対しても意味を見出さず、どうでもいいと無関心で過してきただけの自分をそう評価する南条の目に、半ば無意識に見とれる。南条が不審に思う前に真物は目を逸らしたが、心を落ち着かせるまでに少し時間がかかった。
 衝動を抑える事について約束出来る自信はなかったが、彼らに要らぬ心配をさせたのを悪いと思うだけの気持ちはあったので、気を遣わせた事に対する詫びの言葉ははっきり口にする。

「ッケ、えらそーに説教しやがって、なぁ! ダチがこんな目にあわされたら、冷静もくそもねーってんだ。そだろ?」

 引き合いに出されたマークは、無遠慮に真物の肩に腕を回すと味方に引き入れようと強引に同意を求めた。曖昧な笑みを浮かべて真物は頷いた。

「真物……」

 目の前で出発の準備を整える親友に、自分勝手な頼み事を聞き入れてもらえるか悩みながら、陽介は重い口を開いた。

「……出来る限りの事はするよ。いや、必ず千里さんは連れ戻す」

 言おうか言うまいか陽介が迷っている間に、真物はそのあまりにも強烈な思考を否が応でも読み取っていた。これだけ心の中で繰り返されたのでは、耳元で叫ばれているも同然だからだ。

『誰の為に?』
(え? それは……)

 明確な言葉で答えを返せと言わんばかりの「彼女」の言葉に、真物は口篭もった。そう聞かれる寸前まで心の中にあった思いは脆くも根元からぽろぽろと崩れてゆき、放置され干からびて真実味を失った本音が、それだけが残る。
 やがてそれも、土くれのように四散して消え去るのだろう…一切手出しをせずに放っておけば。

「済まない……」

 歯痒そうに肩を落とす陽介を励ますように、真物はわずかに笑みを浮かべて首を振った。冷たい印象を与える笑みではない。
 一握りの土くれを、拾い上げたかどうか。

「また少し、変わったように思うけど……」

 陽介は小さく言った。決して悪い意味で言ったわけではない。ただ、以前と比べるとはっきりした感情の起伏が目に付くようになり、表情も豊かになったように思える。

「―――………」

 何か言いかけて、真物は口を閉ざした。伝いたいと思う気持ちは嘘ではないが、いざ言葉にしようとすると唇が震え、声にならない。焦りばかりが募り、まるで蜂の巣を突ついたような騒ぎの心の中から慌てて言葉を拾い集め、真物は思い切って口を開いた。
 今言わなくては、いけないのだ。
 感謝と、喜び。

「また……置いてかれた、って思ってたんだ。でもそうじゃないって分かった時、正直ほっとした。陽介にまたこうして会えて本当に嬉しかった。僕は苦痛を背負う役割を……え?」

 それまで、ためらいながらも嬉しそうに話していた真物の目付きが一瞬にして凍り付き、自分自身の言葉に驚きの声を上げて俯いた。
 混乱したように顔を顰める真物の表情は、何かに怯えているようにも受け取れた。精密な細工の施されたピアスの縁を指でなぞり、気分を落ち着かせようとしている。瞳は動揺を表して小刻みに震え、ここにはないものを見極めようとするかのように瞬き一つしない。
 陽介は、そんな彼の様子をただじっと見守っていた。声をかけられるような雰囲気ではない。彼の内部で何が起きたのか、まるで予想もつかない。真物の視線の先にある、自分には見えない何かに、陽介は寒気すら覚えた。陽はまだ高くにあるというのに、自分たちの周りだけ急に薄暗くなったように思える。
 視界の隅に訝る陽介の顔を捉えたまま、真物は縫い止められたように突っ立っていた。
 間違いない。何かが見えた。いや、見せられたのだ。「彼女」に。瞬きするほどの間に無秩序に脳裏を過ぎった、数百にも及ぶ光景。そのほとんどは精神的な苦痛と衝撃に満ちており、自分が何者なのかを思い知るには充分すぎるほどの記憶の羅列だった。
 だが「彼女」は、それらを一瞬にして消し去った。一度広げておきながら、また隠してしまったのだ。口から零れ出た分も含めて。

「真物君、お話……済んだ?」

 やや離れた場所で様子を伺っていたマキが、遠慮がちにそう声をかけた。慌てて振り返ると、すっかり準備の整った南条たちが戸口で待っているのが見えた。「彼女」が隠した記憶を追うのは諦め、真物は詫びるように陽介に目を向けると、踵を返し無言のまま立ち去った。

「内藤君、必ず千里を連れて戻るから!」

 マキは真摯な眼差しでそう誓いを立てると、先頭に立って保健室を出ていった。すぐ後に南条、マーク、ブラウンと続き、やや遅れて真物は歩き出した。

「真物……」

 間際、陽介が小さく呼び止めた。振り返ると、何か言いたそうな素振りは見せるのだが、ためらいを繰り返すばかりでついに一言も声を発しなかった。
 その気になれば、陽介の思考の断片を聞き取る事は出来ただろうが、真物はあえて心を遮断し、曖昧な笑みを浮かべて立ち去った。
 陽介の推測が自分の過去と結び付くのを恐れ、逃げるように。

 

頭の中に気の狂った女の声が響いた
『死んでしまえばいのよ!』
「彼女」の声ではない

 

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