GUESS 赤 4

沈黙する街

 

 

 

 

 

 学校に戻った真物たちは、昇降口で冴子に出会い、説明もそこそこに保健室へと向かった。
 町の異変に混乱気味だった夏美だが、怪我人の治療に当たってはいつもの冷静さを取り戻し、的確な処置を施した。とはいえ、学校の保健室では応急処置が精一杯だった。何にせよ、弾丸が体内に残っていなかったのがせめてもの救いだった。
 ベッドに横たわる麻希の母親―園村節子―を起こさぬよう冴子は三人を廊下に連れ出し、南条とマークはどうしたのかと問いただした。
 町の異変については見たままを話す事が出来た三人だったが、南条とマークが、その原因となった人物に『ヤキを入れに』行ったなどとは、とても言えなかった。
 そこでエリーとゆきのは、二人は他のエルミンの生徒が街で立ち往生していないか確認しにいったと、もっともらしい嘘をでっち上げた。これもまた冴子を心配させるだろうが、まだショックは少ないだろう。これ以上冴子に余計な心配はさせたくない。
 血気盛んなマークと、責任感の強い南条なら、それを思い付いてもおかしくない…とりあえずは、納得してもらえたようだ。

「まったく、あの二人らしいけど……」

 大きなため息をついて、冴子は三人にそれぞれ指示を出した。
 部活等で学校に取り残された生徒たちの為に、食堂で食事の支度に取りかかっているので、女子はその手伝いを、男子は各教室で待機、連絡は都度校内放送を流すから、よく聞いておくように、との事だった。
 指示を受け、真物は一人教室へと戻った。
 2―4の教室は無人だった。
 静かに扉を閉めて、真物は自分の席に向かった。窓際の中程に腰をおろし、ぼんやりと窓の外に目を向ける。

 ……もしかしたら夢を見ているのかもしれない

 頭の片隅にそんな考えが思い浮かぶ。そう思えても不思議ではない程、今日という一日は突飛な事ばかりが立て続けに起こった。生き死にに関わる重大な事物に遭遇したというのに、何を馬鹿な事を、という声も聞こえてくる。
 突然、鼓膜を引き裂くかと思えるほどの悲痛な叫び声が耳の奥でこだました。

「!…」

 真物は辛そうに目を閉じた。するとたちまち瞼の裏に、縋り付いて泣きじゃくる南条の姿がくっきりと蘇った。記憶の残りに奥歯を食いしばって俯く。息を詰め、逃げようとかすかに頭を振る。
 死の瀬戸際にあっても、山岡は年若い主人の事ばかりを気遣っていた。痛みをおしてまで微笑み、励まし、約束を交わし…そして潔く目を閉じた。南条は、山岡とかわした約束を必ず果たすと何度も誓いながら、声の限りに泣いた。
 中々振り払えない光景を打ち消すように、真物は大きく息を吸い込んだ。
 これ以上見たくないと開かれた瞳に、突如蒼紫色の霧が吹き付けられる。それは現実の物ではない。それは真物にだけ見える、誰かの思考の断片に他ならない。凍る指先で首筋を撫でられたような悪寒に、真物は肩を強張らせた。鼓動が一気に早くなる。どうにかそれを鎮めながら、真物は声が聞こえてきた方…扉の方へと目を向けた。
 背の高い男子生徒が一人、教室の前を通り過ぎてゆくのが見えた。

(あれは……確か)

 見慣れない後ろ姿だったが、まるで記憶にないわけでもなかった。ゆっくりと浮上してくる記憶をどうにか掴んで、真物はさっきの生徒が城戸玲司という名前だった事を思い出した。
 その頃にはもうすっかり悪寒は消え去っていたが、瞬間を思い出すと同じように背筋が凍り付きそうになるのを感じた。
 真物は、しばらくの間まともに考える事さえ出来ないほどの混乱に見舞われた。
 相手の思考の断片を読み取る能力があるとはいえ、誰彼構わず掴んでいる訳ではなく、例えば悪感情といったものとはほぼ無縁のはずだった。自分の意志では自由にコントロール出来ないので時に漏れ聞く事もあるが、「彼女」は少なくとも自分の味方だ。その「彼女」が今のような不穏な感情を選ぶはずがない。
 それなのに、今、自分の意識を襲ったのは紛れもなく悪意だった。自分に向けられたものではないにしろ、充分過ぎるほど恐怖を感じたのは事実だ。
 玲司の母親の顔が、おぼろげに思い出される。
 そして気付けば、半ば無意識にピアスに触れていた。元々これはピアスではなかった。その元の形を思い出し、縋りたい気持ちがあったのかもしれない。

 ……この先自分はどうすればいいんだろう

 熱に浮かされた病人のように、真物は表情もなく呟いた。
 その時、黒板の上のスピーカーから、生徒は全員食堂に集まるようにとの指示が出された。
 少し億劫そうに立ち上がり真物は教室を出た。他の教室からも、数人の生徒が姿を現すのを目にして、ほっとする自分を少しおかしく思った。
 いざ食堂へ向かおうとした途端、どこからか明確な思考が飛んできて、真物の頭を強かに殴り付けた。こめかみのあたりが引き攣れたように痛み、真物は声を押し殺して咄嗟に教室に戻った。
 断続的に襲う鈍痛をおして、真物は懸命に目を見開いた。視界に映るのは、見た事もない巨大な装置。傍には、気難しそうな白髪の老人と、墨色のスーツに身を包んだ男が立っている。男は巨大な装置を見上げて、傍の老人に何か話しかけている。老人はしきりに頷きながら、身振り手振りで何かを話している。恐らくは説明しているのだろう。二人の声は全く聞こえないのに、低いうなりを上げる不気味な装置の鼓動だけは、耳障りなほど大きく響いていた。

(……これが――デヴァシステムか?)

 自分の思考を占領している記憶が誰の物であるか思い知るよりも早く、ほぼ直感的に真物は目の前にそびえる装置がデヴァシステムである事を理解した。
 突如窓の外から、赤ん坊の泣き声に似た烏の喚きが聞こえてきた。と同時に目の前の光景は一瞬にして消え去り、現実の、無人の教室へと移り変わる。
 ぎこちなく目を上げて、真物はよろけながら歩き出した。まるで冷水を浴びせられたような、身体の芯まで凍えていく恐怖を払い落すように、意識して足を踏みしめる。
 廊下には既に人の姿はなく、寒気がするほどの静けさに支配されていた。
 思わず吐きそうになる。
 妙に息苦しいのだ。

『この町の空気……妙に重苦しくなった気がする』

 確かこれは、ゆきのが言っていた言葉だ。病院の窓から町の異変を発見した時、彼女が無意識に漏らした言葉。
 真物は食堂へは向かわず、階段の方へ歩き出した。

(自分はどうすれば……)

 引き返そうかと何度もためらいつつも、真物は階段をおりながらぼんやりと呟いた。ふと見ると、踊り場の窓ガラスに自分の姿がかすかに映っている。ぎこちなく視線を動かして、顔を見合わせる。そこに映っているのは間違いなく自分のはずなのに、まるで別人のようにも感じられた。
 空腹感も麻痺するほどのもどかしさに、真物は叫びたい衝動に駆られた。

『あなたの思うように行動すればいいのよ』

 大丈夫だと「彼女」は言った。
 目を閉じて、真物は呼吸の分だけ肩を上下させた。

 

 

 

 こつこつと控えめにノックして、真物は保健室の扉を開いた。

「あら、見神くん、どうかしたの?」

 日誌から目を上げ、夏美はにっこり笑いかけた。室内には、夏美と節子の二人しかいないようだった。

「あの、少し話を……」

 夏美の問いかけに、真物はちらりと節子をかすめ見て、囁くように言った。

「ついさっき、目を覚ましたわ。とりあえず今のところは大丈夫。ところで見神くん、もう食事は済んだの?」
「いえ、まだです」

 向き直った夏美の視線を曖昧に受け止めて、真物は小さく首を振った。

「どこか具合でも悪いの? 育ち盛りの男の子が、食欲がないなんて」

 腕を組み、夏美は困ったように笑った。

「じゃあ、紅茶でもどう? とっておきのがあるんだけど」

 そう言って戸棚からアールグレイの缶を取り出す。

「あ、はい。いただきます」

 ぺこりと頷く。
 紅茶は好きだった。アールグレイが一番美味しい…誰かが言ったのを覚えている。真物は無意識の内にピアスに触れていた。

「お母様も、お紅茶いかがです?」

 明りが邪魔になるだろうと思い、ベッドの周りをカーテンで囲っていた。夏美はそのカーテン越しにそっと声をかけた。

「ありがとう。いただくわ」

 ややあって聞こえてきた声は、先程より大分落ち着いていた。中からカーテンを開けて、節子が顔をのぞかせた。

「あなた、見神君ておっしゃるのね。今日は本当にありがとう。よかったら、麻希の事を教えてくれないかしら」

 デヴァシステム―次元転移装置―の開発に関わっていた節子は、半ば強制的に研究所内に軟禁されていた。そのせいで、麻希とは半年近く会えずにいた。
 病院の異変と、麻希の消失については、まだ何の説明もしていなかった。病院が安全と思っているかは分からないが、麻希はまだそこにいると思っている。
 真物は、自分一人でどうやって彼女を説得すればいいのか苦悩した。
 節子は言葉を待って、じっと顔を見つめていた。
 恐らく、どんな言葉から始めたとしても、彼女がパニックを起こすだろう事は容易に想像出来た。
 何から話せばいい。
 なんで自分はここに来てしまったのだろうと、真物は激しく後悔した。
 自分の思うように行動すればいい。
 なのに後悔してしまう自分が嫌だった。
 堪え難い空気の中、ふわっとアールグレイが漂う。

「はい、お待たせ。お母様にもお渡ししてくれる?」

 夏美が、白い湯気立つ二つのカップを渡してきた。
 これを渡したら、もう、残り時間はない。
 一拍置いて、真物はベッドサイドの椅子に腰かけた。
 片方のカップを手渡すと、真物は彼女の心の声を出来る限り無視して、俯いたまま口を開いた。
 聞き手がいる事を忘れようと努めながら、真物は声の調子を抑えて淡々と話し続けた。
 すぐに彼女の瞳からあらゆる感情の色が消え去り、代わりに、信じられないものを見た時に発せられる異様な光が現れた。
 こちらを見ているのにここにはない物を見つめる節子の眼差しは、どこか狂気にも似て見え、真物の記憶をかきむしった。
 彼女の心の中に渦巻くあらゆる思いから逃れるように、真物はただ一心にカップの中の琥珀を見つめた。どうかすべて頭の上を通り過ぎてくれますようにと、無理な願いを思い浮かべる。

「まき……」

 数秒の沈黙の後、節子は声を震わせて最愛の娘の名を呼んだ。その後に続く恐慌に満ちた混乱の言葉は全て声にならなかった。代わりに、一つ残らず真物の中に雪崩のように押し寄せてきた。
 親がこれほどまでに子供を思っている事に、真物は少なからず驚きを感じていた。
 半ば無意識に目を上げる。

「……麻希!」

 もう一度、今度は意思を込めた響きで節子は叫んだ。そして、ひどく思い詰めた瞳で真物を見た。節子と目があった真物は、彼女が何をしようとしているのか、心の声を聞くまでもなく悟った。
 何か言うよりも早く、真物は彼女の肩を掴んで押し止めた。
 咄嗟に手が動いたのだ。
 はっと目を見開いて、節子が覗き込むように真物の顔を見つめる。
 それでも、真物は何も言えなかった。どこか非難めいた節子の瞳を、真物は言葉もなくただじっと見ていた。
 真物も自分自身に問いかけていた。何をしたいのか、自分自身よく分からない。

「あの……僕が行きます」

 思いがけず言葉が口から零れ出た。言いたかった事はこれなのかと自分で驚く。しかし口にしてみると、自分のやりたい事はこれなのだと、はっきり自覚出来た。
 そう、これだ。
 無人の教室で男とデヴァシステムを見た時から…覚醒した節子の思考と重なった時から、そうしようと思っていたのだ。

「何を……?」

 わずかに身じろいで、節子は訝しそうに問い詰めた。
 と同時に、節子の肩に触れた手のひらから、彼女の一部が真物の中にするりと割り込んできた。
 その瞬間、腕に激痛が走った。場所は節子の怪我の箇所と一致する。ありえない痛みをこらえて目を見開くと、割り込んできた節子の記憶が細部に至るまで再現された。
 住宅街の中を必死に走りながら、「私」は、時折聞こえてくる奇妙な声を追っていた。
 会社が秘密裏に設けた、研究用の資材の搬入口からの脱出を試み、細工したIDカードを使ってどうにか外に出る事が出来た「私」は、不注意からセベクの私設SPに発見され、追われる身となった。彼らは躊躇なく「私」に銃を向け、引き金を引いた。その内の一発が腕をかすめた。
 彼らは本気だ。本気で「私」を殺すつもりだ。捕まれば命はないだろう。これくらい、走れない痛みではない。「私」は、力の限り逃げた。
 その最中、頭の中に奇妙な声が聞こえてくるのに気付いた。
 記憶の再現を追いながら、真物は、その声に聞き覚えがあるとぼんやり思った。
 奇妙な声に導かれるようにして「私」は走り、気がつけばアラヤ神社の鳥居の前に立っていた……。
 そこで真物ははっと我に返った。節子を呼び寄せた声の主を突きとめたい気持ちもあったが、今はそれよりも彼女を思いとどまらせるのが先決だった。
 割り込んできた節子の記憶から、彼女がどのようにセベクから逃げてきたのか理解出来たし、廃工場へ行けば正面から乗り込むよりも危険が少ないだろう。
 問題は、どうやって彼女からIDカードを受け取るかだ。
 他人の為にわざわざ危険に赴くなんて馬鹿馬鹿しい。
 不意に否定が浮かび上がる。
 けれど今はそれは些細な事だった。
 自分の身が危うくなるというのに些細な事と思うなんて不思議だったが、強い気持ちが込み上げてきて止められないのだ。
 今だけの、一時的な分離ではなく、本当の意味での別れが彼女を襲ってほしくない。
 ただその一心で、真物は、自分でも出来る何かをしたいと思ったのだ。

「……あなた」

 節子は長い事、真物を見つめていた。目の前の少年が何をしようとしているのか悟って、心の中にほんのわずかな希望が宿るのを否めなかった。本当なら、誰の手も煩わせてはならないし、自分以外にこの問題に立ち向かえる者はいないと思い込んでいた。
 だが、目の前の少年は何故だが、頼ってもいい気がするのだ。信じて任せてもいいと、思えるのだ。
 ほんの少し沈黙が続いた。節子は、真物の肩越しにそっと夏美を見やり、彼女がこちらにどれだけ注意を払っているか確かめた。どうやら彼女は日誌の作成に追われているらしく、顔も上げずに紅茶をすすってはまた作業を続けていた。節子はすぐまた真物に目を戻すと、小さな動作でジャケットの懐から一枚のプラスチックカードを取り出した。

「町外れに廃工場があるのは知ってるわね。私は、あそこから逃げてきたのよ。このカードを使ってね。これがあれば、正面からセベクに入るよりもはるかに危険は少ないはずだわ」

 囁きかける節子の声が、事の重大性を嫌というほど知らしめた。真物は険しい顔で何度も頷きながら、節子の言葉を心に刻み込んだ。

「どうしてかしら……あなたならやり遂げてくれるように思えてならないの。本当なら私が……」

 激しい後悔の念に駆られ、節子は声を詰まらせた。口元を押さえ、懸命に涙をこらえている。

「お借りします……」

 真物はIDカードを受け取った。表面には、青地に銀でセベクの紋章が描かれている。
 しばらくの間カードを見つめていた真物は、ゆっくりと目を上げて遠慮がちに節子を見た。少し落ち着きを取り戻したのか、彼女は祈るような眼差しで目を潤ませていた。
 何か、彼女を安心させるような事を口にしたかった。言うべきだろうと。けれど何一つとして意味のある言葉は浮かんでこなかった。長い時間他人と目を合わせる事に慣れていない真物は、心にやましい事がある時そうするように、さり気なく視線を逸らせた。
 そこへ、冴子が入ってきた。

「あ、見神。あんた食事は?」
「大丈夫です」

 曖昧に顔を向け、真物はぼそりと言った。返事としてはいささかおかしなものだと頭の片隅で小さく思う。

「そう? 今ね、体育館で布団の準備してるとこなんだ。あんたも行って、手伝ってくれる?」
「分かりました」

 節子がまだこちらを見ているのは分かっていたが、真物はあえてそれを無視して立ち上がり、すっかり冷めてしまった紅茶を一気に飲み干した。冷たくなっても、アールグレイの独特の香りは失われていなかった。優しい香りが内部に浸透してゆく心地よさが、束の間真物を包んだ。

「ごちそうさまでした……」
「ああ、それそこ置いといて。後で一緒に洗うから――」
「見神君!」

 夏美と節子の声が重なり合う。節子の切迫した声に、驚いた様子で冴子は振り返った。
 真物は肩越しに振り返って、またじっと節子を見た。
 眼差しを受けて節子は、光源を見つめるように目を細めて真物を見つめ返した。
 この子の瞳は何故こんなにも美しいのだろう…男の子は、時々こんな顔をする。まだ見ぬ未知の世界を覗きに行く勇気を身に付けた時、男の子は目には見えない光を放つのだ。
 年齢は関係ない。心がそうさせるのだ。

「どうか気を付けて……」

 節子が言えるのはそれが精一杯だった。
 真物は小さく頷いた。

「失礼します」

 目を伏せたまま軽く会釈し、真物は保健室を後にした。そしてそのまままっすぐ、体育館へと向かった。
 体育館へと続く渡り廊下には、人の姿はなかった。何気なく、壁の穴に目を向ける。以前生徒がふざけて開けた穴は、今は悪魔の侵入を防ぐ為か板を何枚も立てかけて塞いであった。

(出るならここからか……)

 正門は、生徒会によって封鎖されていた。他に通用口はなく、塀を乗り越えるのも一つの手ではあるが、それより楽に出られる道はここしかなかった。
 分厚い板の一枚に手をかけた時、自分の中の不安定な決意が急激にぐらつくのを真物は感じた。
 たった一人で、何をどこまで出来るというのだろうか。
 その時、背後で扉の開く音がした。

「あ、オッス真物君。まだ帰らないの?」

 聞き覚えのある、しかしここで聞けるはずのない女子の声に、真物は少なからずぎょっとなった。

「園村さん……」

 反射的に名前は言えたが、真物は信じがたい気持ちで一杯だった。

「どうかしたの……あー、なにその穴! 真物君がやったの?」

 そんな真物の混乱をよそに、マキは困ったように笑って目を見開いた。
 驚きのあまり感情の抜け落ちた眼差しで、真物は正面に立つ顔見知りの姿をまじまじと見つめていた。彼女は制服を着ていた。声も、顔付きも、身につけているリボンやコンパクトに至るまで、彼女が紛れもなく園村麻希である事を証明したが、あり得ない事だった。
 何故なら彼女は、病院から消え失せてしまったではないか。

「もーう、しょうがないなあ。こんな大きな穴開けちゃって。あーあ、冴子先生驚くよ」

 マキは隣に立つと、板で塞がれた穴をまじまじと眺めた。

「本物の……園村麻希……?」

 真物の言葉に、マキは一瞬面食らったようにぱちぱちと目を瞬いた。

「やだなあ、本物も何も、みんなのアイドル、園村麻希ちゃんじゃないの! しっかりしてよね真物君!」

 マキは大声で笑いながら、真物の肩をたたいた。真物の思考はまだどこか麻痺していたが、今はとにかく彼女に母親の事を知らせなくてはとはっとなる。
 直後、塀の穴の向こうで何か重い物が落ちる音がした。次いで、穴を塞ぐ板を叩く音。

「な、なに?」

 マキはびくっと肩を弾ませ真物を見やった。
 もしや悪魔が…真物の胸中に不吉な予感が過ぎる。

「誰かいるか!」

 もう一度板を叩く音がして、塀の向こうから誰かが怒鳴った。

「あれ? もしかしてそこにいるの……南条君?」

 板にぴったりと身を寄せて、マキは聞き返した。
 答えはない。
 しばし沈黙の後、訝るような声が塀の向こうで起こる。

「まさかとは思うが、その声は園村か?」
「そうだよ。ねえ真物君、板どけるの手伝って」

 言うが早いか、マキは乱暴に板を倒した。

「………」

 ぼんやりしたまま真物は返事をした。何かを冷静に考える余裕がないのだ。とにかく、言われた通り板をどけて、塀の向こうにいる南条と対面する。
 南条はかなり驚いた様子でマキを見ていた。表情の変化はそれほどでもなかったが、しばらく動けないほどだった。

「ああ、見神……いたのか」

 ようやく周りに目がいくようになったのか、南条はそこでやっと真物に気付いた。
 視線を受け、真物はクラスメイトの無事な姿に少しほっとして、少し不安になる。
 何故、一人なんだ。

「それが、少し厄介な事になってしまって……いや、それもそうなんだが……」

 どうやら見た目ほど落ち着いている訳ではないようだ。南条は忙しなく目を動かし、真物とマキを交互に見やった。
 何から言うべきか束の間思案し、南条はついに口を開いた。

「園村、お前よく戻ってこられたな。病院で何があったのだ?」
「え?」
「いや、そうじゃなくてだな……見神、園村の母親はどうした」
「今は保健室に。大分落ち着いてる……」
「え、なに? 二人とも何の事言ってるの?」

 戸惑ったような笑みを浮かべ、マキは二人の顔を交互に見た。

『どうしちゃったのよ二人とも』『お母さんて、私にはお母さんなんていないのに、からかってるのかな』『なんかヘン』

 自分たちを訝るマキの思考の断片が聞こえてくる。それを聞いて真物は、彼女は園村麻希ではないと強く思った。内容はもちろんの事、声の響きが何よりそう思わせた。

「何よ二人してそんな怖い顔しちゃって。それにさっきから訳分かんない事言って、私をからかってるの?」
「いや…無事ならそれに越した事はない。それよりも稲葉が警察に捕まって……」
「ええ?」

 マキは手を口元に短く叫んだ。
 目の前の少女に囚われていた真物の思考が、即座に切り替わる。

「せめて何か武器になる物を手に入れようと侵入したはいいが、中は完全に悪魔の巣窟になっていてな。ペルソナで応戦を試みたんだが、何度も呼び続けると精神的に疲労するらしい。弱ったところを悪魔に付け込まれて……」

 その瞬間の悔しさが込み上げてきたのだろう。南条は一旦言葉を切った。

「ちょっと南条君、それ本当なの? だったら早く助けに行かなくちゃ!」

 南条の返事も待たず、マキは二人を急かした。
 真物は困惑の表情で南条を見やった。

「何してるの、二人とも! 早く稲葉君助けに行こうよ!」
「分かっている。ちょっと待て」

 落ち着きを取り戻したのか、普段と変わらぬ声で南条は手招きした。あからさまに顔をしかめて、マキは引き返した。
 南条は抱えていた袋をおろし、中から何やら取り出した。

「慌てていたのでこれだけしか持ち出せなかったが、急場はしのげるだろう」

 そう言って、南条は何かを真物に手渡した。ずしりと重たく冷たい感触に、真物はそれが拳銃である事を知った。思わず目を見張る。

『ケーサツ…って何だろ。新しく出来たコンビニの名前かな』『どこのコンビニだろ。全然気が付かなかったな』『ジョイ通にはもう行けないから、サンモールに出来たのかな』

 本物を見るのも実際触るのも初めての真物とは対照的に、マキはまるで文房具を見るような目付きで拳銃の一つを手に取った。それだけでも驚きだが、更に真物を驚かせたのは、マキの心の中から聞こえてくるいくつかの声。一瞬、頭が真っ白になるかと思えるほど突拍子もない言葉の数々に、真物は感情の抜け落ちた顔でマキをかすめ見た。

「気を付けろ園村! 既に弾丸は装填してあるのだからな!」

 いきなり銃口を向けられ、さしもの南条もうろたえた様子で言った。

「ごめんごめん。でもさ、こんなもの使わなくても、悪魔なんて倒せるじゃない」

 ぺろりと舌を見せて、マキは苦笑いした。そんな顔は、今まで一度も見た事がないと真物は心の中で思った。一年の頃を振り返り、当時の麻希と今のマキを比べるように脳裏に思い浮かべる。
 思い出されるのは、寂しさと苦悩に満ちた瞳だけ。
 そんな真物の思考を断ち切るように、南条が声を荒げた。

「そんな訳がなかろう! 貴様は知らんのだろうが、あの地震の後、数えきれないほどの悪魔が町中に現れたんだぞ!」
「え、地震……て?」

 まるで記憶にないと、マキは眉をひそめて真物を振り返った。自分の知っている麻希と外見は全く同じなのに、まるで雰囲気の異なる少女から目を逸らせて、真物は言葉少なに説明した。

「園村さんがICUに運ばれたすぐ後に起きたんだ」

 気を失ってしまい、覚えがないのかと真物は思った。それにしては、先程から聞こえてくる彼女の思考の断片は様子がおかしすぎる。『またあの黒い女の子ね!』だとか、『あの子がいくら呼んだって、あんなオモチャみたいな悪魔、怖くないんだから!』といったものだ。
 何の事か、真物には見当もつかなかった。それに、先程もそう感じたが、一つひとつの声が明瞭な響きと感情を含んでいるのも真物を悩ます要因となった。何人もの声が同時に聞こえてこないだけ、まだましだが。
 そこでふと真物は、ほんのかすかに、自分と似ているなと思った

「ああもう、二人してさっきから訳分かんないことばっか言って! いいからもう行こうよ!」

 焦れたように言って、マキは二人の腕を掴んだ。

「……貴様も行くつもりなのか?」
「決まってるじゃない! さ、早く!」

 止める間もなく、マキは塀の穴から血気盛んに飛び出した。
 真物は、ちらりと南条の顔をかすめ見た。怒っているのかはたまた困っているのか、外見上はどちらとも取れる顔をしていた。
 ややおいて南条が呟く。

「ペルソナがなければ……」

 どんな結果が待ち受けているか充分過ぎるほど理解している南条が、昏い顔で正面を見据えた。それからちらりと真物に顔を向け仕方がないと歩き出した。
 先頭切って飛び出したマキだが、塀の穴からわずかも離れてない場所で足を止め、二人を振り返った。

「ところで、どこへ行くんだっけか」
「警察だ、警察! 行き先も分からずに飛び出す奴があるか!」
「えーと……ケーサツってなんだっけ?」

 呆れた様子で怒鳴り散らす南条に怯む事なく、マキは更に聞き返した。

「貴様……ふざけているのか?」

 目眩がすると頭を振りながら、南条はマキを睨み付けた。

「ふざけてないよ、ホントに知らないんだってば!」

 困ったようにマキは顔をしかめた。冗談ではない事を悟った南条は、端的な言葉で『警察』について説明した。

「おい見神、連れていって大丈夫だと思うか?」
『まさかあの地震で記憶喪失に?』『外傷はないようだが……』『まるで別人のようだ』『足手まといになりはしないか?』

 南条の心の中にいくつかの心配事が浮かんできた。自分に向けられた言葉ではないにしろ、誰かを疑う声はあまり気持ちのいいものではなかった。
 とはいえ、自分も同じようにマキの態度を不審に思っていたのは事実だ。

「ケーサツ、警察……うん、なんか思い出してきた、かな?」

 腕を組み、独り言を呟きながらマキは首を傾げていた。その様子を見て真物は、とりあえずは大丈夫なのではないかと無理やりにも思い込もうとした。
 ただ一つ気がかりなのは、彼女の母親の話がうやむやになっている事だ。だが、この時は何故かこれ以上蒸し返さない方がいいように思え、真物はあえてその話題に触れなかった。

「歩き方もしっかりしてるし」

 それで自分自身も納得させようと、真物は意識して明るい声で言った。

「ならいいのだが、しかし……」

 マキを見つめる南条の瞳の奥に、誰かが浮かび上がって彼をためらわせた。それがはっきりする前に真物は目を逸らし通りを見やった。

「あれを……!」

 丁度見やったそちら、曲がり角の向こうから、悪魔がのそりと姿を現す。真物は思わず声を上げた。

「何!」
「出たわね悪魔! 負けないんだから!」

 マキは勇敢にも身構えた。

「フ・ハハ! 喰うてやるわ!」

 後ろ足で立ち上がったワニを連想させる、全身を緑の鱗に覆われた化け物が、耳障りな声でにたりと笑った。血のように真っ赤な目玉がぎょろりと動き、三人をねめつける。
 しゃがれた声でひと声吠えると、悪魔は突然腹ばいになり素早い動きで三人に迫った。鋭く尖った歯がずらりと並ぶ口をがっぱりと開く。弾みで、ねばついた唾液が辺りに飛び散った。
 その余りに奇妙な動きは、震えが来るほどの嫌悪を感じさせた。

 ガル

 悪魔が短く叫んだ。その途端、幾重にも束になった風が縦横に吹き荒れて三人を翻弄した。風の束の中に真空の刃が紛れているのに気付いたのは、生命の危機を感じて真物の中からペルソナが現れた後だった。
 甲高い、鋭い音が身体のすぐ傍で弾ける。
 音のした方に目を向けると、長く細い弓なりの白い光が、激しく回転しながら風の中へ紛れていくのが見えた。そこで真物ははっとなって頭上を振り仰いだ。そこに、真物の身体を守るように両手を正面で交差させているペルソナ青面金剛の姿があった。
 自分が危機を自覚するよりも早くペルソナが現れた事に、真物は少なからず驚いていた。
 未だ自分の意志でペルソナを呼び出す事は出来ないが、少し解りかけたように思えた。

「!…」

 再び悪魔の吠え声がして、真物は弾かれたように二人の姿を探した。まだ危機は去っていないのだ。
 南条は既に自分の意志でペルソナを操る事が出来るのか、自信に満ちた表情で悪魔と対峙していた。その傍には、静かな怒りをたたえる明王の姿があった。乳白色の淡い光が南条を包むように漂っている。
 優劣の差ははっきりしていた。向かい合う悪魔にもそれは飲み込めたようだ。だが、ひたすら人の死にこだわり続けそれ以外に興味を持てない憐れな存在は、たった一人でもいいから八つ裂きにして苦痛を啜ろうと、マキに最後の望みを託した。

 ガル

 破れかぶれになって、悪魔はすぐ間近のマキに向かって風刃を放った。マキは勇敢にも、逃げようともせずに銃を向けていた。しかし引き金を引くよりも早く、襲い来る風刃がマキの首にかかる。

「――!」

 マキは咄嗟に目を閉じた。痛みも衝撃もなかった。死ぬ瞬間とはこんなに呆気ないものかと、目を開く。その目が、一杯まで開かれる。
 自分の内部から、優しい声が聞こえてくるのだ。
 マキはうっとりとした表情で目を細め、かすかに聞こえてくる声に耳を傾けた。
 そして囁かれた言葉を自分の口から発する。

「……私を助けて!」

 まっすぐに振り上げられたマキの手が、荒れ狂う風の束を切り裂いた。
 マキに寄り添うように、貴婦人の姿をしたもう一人のマキが、陽炎のように揺らめいて立っている。もう一人のマキは、優雅に手を振りかざし、青白い光を放つ無数の小さな氷塊を悪魔の頭上に降らせた。
 ギョオオォ!
 断末魔を長く響かせて、悪魔は消滅した。途端に辺りは元の静けさを取り戻し、しばらく沈黙が続いた。

「園村……」

 やがて口を開いた南条が、貴様もペルソナを…といった眼差しでマキを見た。

「ねえ、ねえねえ! 今の何? ペルソナって何なの?」

 やや興奮気味にマキは早口でまくし立てた。
 ペルソナが何か、という疑問に、真物は言葉を詰まらせた。
 フィレモンに出会い、既にペルソナを発動させたことから、説明はそう難くない。しかしどうしても、自分の口から言う事が出来なかった。
 真物は救いを求めるようにちらりと南条を振り返った。

「ペルソナ…意味はラテン語で仮面。英語のパーソナルの語源となった言葉だ。で、俺たちが呼び出しているペルソナと呼んでいるものは、この通り強大な力を持っている。仕組みは分からんが役に立つのは間違いない。あの仮面の男の言葉を借りれば、神や悪魔の姿をしたもう一人の自分という事になるな」

 真物が言葉に詰まったのはまさにその、もう一人の自分というところだった。それを自分の口で言うのが、何故だかためらわれたのだ。自分の中に在る自分とは異なる「彼女」の存在がそうさせるのか、フィレモンにすんなり名乗りを上げる事が出来なかったからか…とにかく、怖いという感情に似た何かが心に引っかかって、言えなかったのだ。

「え…じゃあ、今私の中から出てきたのは、あれも…私?」

 マキは信じられないといった様子でわずかに目を伏せた。そしてしばし考え込む。
 当然だろう。気味の悪い、不可解な、非現実的な現実を突如突き付けられ、思い悩まない人間はいない。
 しかしマキは。

「うん、出来る、出来るよ!」

 唐突に顔を上げ、二人を交互に見ながらはしゃいだ声を張り上げた。

「この力があれば、町を元に戻せるよ!」

 一片の陰りもなく輝くマキの瞳につられて、真物も同じ気持ちになるのを感じていた。
 そんな自分を不思議な目で見る。
 単に彼女の気持ちに引きずられただけだ。
 本当は自分は、何もかも面倒だから何もしたくないのだ。
 その一方で、けれど間違いなく、マキと同じように漲り溢れる陽の気持ちを湧き上がらせてもいた。

「さあ、警察に向かってレッツゴー!」

 意気揚々と歩き出すマキに続いて、真物は足を踏み出した。

 

 

 

 御影署内は、元の面影もない程荒れ果てていた。入口のガラスは粉々に砕け散り、床一面に散乱している。観葉植物の鉢は倒れて割れ、逃げ出した人々によって踏み付けにされたのか、あちこち折れて葉も千切れていた。ガラスケースの中の警察のマスコット人形も無惨に倒れて、床には、足の踏み場もない程書類が散乱している。
 見るに見かねて、マキは倒れたベンジャミンを元通り起こしてやり、零れた土をすくい入れてやった。少し傾いでいるが、死ぬような事はないだろう。

「まるで台風の通った後みたい……」

 床に散らばったガラスの破片を慎重に避けて奥に進んだマキが、唖然と言った様子で呟いた。

「随分静かだね」

 マキの言う通り、建物内は不気味なほど静まり返っていた。それなのに、何やら奇妙な声がそこかしこから聞こえてくる。それは真物にしか聞こえない、人々の思考の断片だった。

「俺と稲葉が侵入した時には、無数の悪魔がひしめき合っていたのだが……」

 不審に思った南条が言った。
 入口から数歩も行かない場所に足を止めた真物は、出来るなら今すぐどこか遠くへ逃げ出したい気分になった。
 壁といわず天井といわず、あらゆる方向からどす黒い思念が染み出てくるのが見える…自分にだけ見えるもの。
 今すぐどこか遠くへ逃げ出したい。とにかくここを出たい。
 しかしまるで足が動かない。
 凍り付いたように、縫い止められたように、まったく動かせない。
 罪を犯した者たちが、幾度となくここを行き過ぎた事だろう。異常とも言える精神の持ち主の狂気に満ちた声が、そこかしこに黴のようにこびりついているのだ。
 それらは「彼女」の手を持ってしても防ぎ切れないほどの無数の思考の断片。
 一刻も早くこの場を離れたい。その為には、この建物のどこかに閉じ込められているだろうマークを助け出さなければならない。

(そうだ……助け出そう)

 思考がそこにたどり着いたからか、それまで棒のようだった足が動き始める。

「まずは鍵を探さんとな」
「鍵か。じゃ私こっち探してみるね」

 言うが早いか、マキはカウンターの向こうに回って片っ端から引き出しの物色を始めた。

「俺は棚を探そう。見神はそっちを頼む」

 振り返って指示する南条に小さく頷く。
 しかし。

『殺すつもりはなかったんです!』『向こうが勝手に飛び込んできたんだ!』『本当だ信じてくれ!』『何よ! なんで私がこんな目にあうのよ! 向こうが悪いんじゃない!』『私じゃない! 私じゃない! 私じゃないのよお!』

 逃げるのではなく、人を助ける為に動き出した真物の行く手を阻むかのように、男の声、女の声、十代の若者、苦渋する声がありとあらゆる場所から襲いかかった。

「!…」

 黒ずんだ手が至る所から伸びてきて、真物に救いを求めるように絡み付く。がさがさにひび割れた指先が触れた瞬間、無罪を訴える断末魔が身体の芯を斬り付けた。
 あるはずのない衝撃を受けた途端、真物の視界から一切の色が失われる。鍵を探して右往左往するマキと南条の姿は急激に霞み、背景に溶け込んでいった。

『こんなものいらないわ!』

 直後、血に濡れた包丁が脳裏を過ぎった。同時に他の声をかき消すほどの激痛が脳天を直撃する。

「おい見神、早く探せ」

 棒立ちのままでいる真物を訝って、南条は声をかけた。
 そこでやっと真物は我に返り、呻くように謝った。
 生々しく蘇った最後の言葉は、長い事意識の奥に閉じ込めていたはずの忌まわしい傷跡だった。
 建物内の残留思念に触発されたのだろうか。

(なんで突然こんな……)

 冷たい汗がひと筋、背中を滑り落ちる。よろめくようにして、真物はマキの傍に歩み寄った。

「ないなあ……どうしたの真物君、顔が真っ青だよ!」

 戸棚の引き出しを覗き込んでいたマキは、ふと顔を上げてびっくりしたように叫んだ。

「いや、べつに」

 言葉少なに応え、マキから逃れるように辺りを見回した。すると不思議な事に、壁の一か所がぼんやりと光の渦を巻いているのが目に入った。明確に光と判別出来た訳ではないが、部屋を縦横に横切る何本もの光の筋がその一か所に集中しているのだ。
 もしやと思い、真物は傍に近付いていった。
 小さな木の箱が壁に取り付けられている。丁度目の高さだ。光はそこに集中していた。あるいは、そこから至る所へ光は飛び出していっていた。ためらいがちに中を覗くと、果たして鍵の束がかかっていた。

「見付けたか? でかした見神」

 南条の声にちらりと振り返り、真物は逸る心を必死に抑えて歩き出した。

(あんな見え方、初めてだ……でも、それにしても何故今更あの声が……聞きたくもないのに何故……)

 奥へ続く扉の前で立ち止まり、真物はぼんやりと浅く考え込んだ。そして気が付けば、またもピアスを引き千切ろうとしている。

「ねえ、それで稲葉君はどこにいるの?」

 廊下を進みながら、マキは南条に問いかけた。

「分からん。稲葉は俺を逃がすのが精一杯で、俺は悪魔の囲いから抜けるのに精一杯からな。だが悪魔どもはすぐに殺す気ではなかったようだ。気を失った稲葉を引きずって、地下へおりていったようだ」

 右手を差し伸べて、南条は歩き出した。
 思考の堂々巡りから逃れるように、真物はピアスから手を離し南条の後をついていった。
 廊下を進むにつれ、狂気は一層強まってゆく。思考の異常さは、病院の比ではなかった。
 歪み、たわんだ声があちこちから絡み付いてくる感触を心に直接感じ、真物は込み上げる激しい吐き気に息の詰まる思いを味わった。
 南条から渡された銃をかたく握りしめ、真物は心を遮蔽する事だけに意識を集中させた。
 まだ建物内に電気が通っている事に、真物は大いに感謝した。もしこれが暗闇で、頼りない懐中電灯一つで歩かねばならないとしたら、間違いなく発狂していただろう。
 自分とは何の関係もない他人の思考のせいで。

(ここも白い壁……)

 煙草のやにでうっすらと黄ばんでいるが、何かを思い出させるには充分な白塗りの壁。
 不意に真物の心の中に、何故自分はここにいるのだろうという疑問が生じた。
 唐突に、しかし自然に湧き上がった感情に、「彼女」は黙したままだ。

「ここ、おりなきゃいけないの?」

 地下へと続く階段の手前で、マキは不安そうな声を上げて立ち止まった。蛍光灯の明かりは皆まともに点灯しているのに、不思議と薄暗かった。空気中に溶け込んだ何かが、光を遮っているとしか思えない、不気味な重圧。

「仕方あるまい。どうやらここ以外に地下への道はないようだからな」

『やだなあ。すごく気持ち悪いよここ』『でも、友達は見捨てておけないもの!』『がんばれマキ!』『早く助けに行かなくちゃ!』『待ってて稲葉君!』

 きっぱりと言い切って階段に足をかけた南条と、南条の言葉にマキが心の中に思い浮かべた言葉に、真物は信じられないものを見た気分だった。
 他人との関わりを極力避けてきた自分には、到底受け入れ難い事実だった。けれど、頭のどこかでは二人を肯定する声もあった。
 人の為に何かをしようとする自分を、否定する気持ちと、励まし急かす声とが重なり合う。
 果たしてどちらが本当の自分か分からないまま、真物は二人の後に続いた。
 階段をおりてしばらく進んだ突き当たりに、一枚の鉄の扉があった。

「どうやらこの奥のようだ。開けるぞ」

 二人を振り返り、南条が一本の鍵を差し込んだ。その瞬間目にした光景に、真物は思わず顔を背けた。
 扉の隙間から、どろりとした澱の様な思考が低い呻き声を伴って滲み出してくるのが、はっきりと見えたのだ。それも一つだけではなく、無数に。手のひら大の赤紫のアメーバのようなものに、いくつもの黒い斑点が浮きあがっているものや、先端に血走った目玉を持った沢山の触手、溶けかけた人の顔のようなものもあった。ほんの一瞬目にしただけなのに、異様な姿は真物の脳裏に焼き付いたようにくっきりと残った。
 がちり
 南条が鍵を開けると同時に、それらの狂気は一斉に奥に引っ込んだ。

(そんな……あれが、あんなものまでがかつて人であったというのか……?)

 最も古い記憶の中に、更に陰惨な声が残っているのを、真物は思い出した。それが誰の声であったのかも。

「稲葉君?」

 叫びながら、マキが部屋の中に駆け込む。その声に、真物ははっと我に返った。

「そ、園村か? その声!」

 鉄格子の向こう、光の差し込まない暗がりから、驚きと安堵の入り混じったマークの声が返ってきた。

「良かった良かった! 無事だったんだね!」

 鉄柵に駆け寄り、マキは喜びの声を上げた。

「オレは何ともねえよ。それより、こんなとこまで来て大丈夫なのかよ! 身体は平気か?」
「うん、全然平気だよ。悪魔も出なかったし」

 マークが別の意味で心配し、マキもまた別の意味で答える。

「うーん…なんだよ騒々しいなあ。って、あれ? シンじゃんか。そーかぁ、オレ様助けに来てくれたんだあ!」

 と、隣の鉄格子の中から、聞いた事のある声が寝惚けた様子で話しかけてきた

「もしやとは思うが、その声は上杉か? 何で貴様がここにいる。捕らわれているのは稲葉だけだと思っていたが」
「おや、南条くん。それに…あっれー、マキちゃんじゃないの。いつ退院したの? ってそれよりも早くここからオレ様出してくんない?」
「うん、今すぐ開けるからね」

 そう言ってマキは、南条からひったくるようにして鍵を奪うと、二人を冷たい囲いから解放した。

「あー、ケツいてえ。まったく、オレ様をローヤに閉じ込めるなんざ、なんて不届きな奴らだろーね」

 首を鳴らして立ち上がり、開いた扉から出るなりブラウンは冗談めかして言い放った。

「こいつがなんで捕まってたかって? オレは聞いちまったけどオマエらは聞かない方がいいぜ、絶対」

 先程の南条の質問に、小馬鹿にしたような顔で手を振りながらマーク言った。

「そりゃないんじゃないの? オレ様ショック」

 腰に手を当て、心底がっかりしたようにうなだれるブラウンに向かって「けっ、ざーとらしい」とマークは鼻を鳴らした。

「早くここを出た方がいい……」

 戸口に留まり、成り行きを見守っていた真物は割り込むように口を開いた。扉の内側に足を踏み入れた途端、床を這いずり回る生温かい何かに気付き、それ以上先へ進めずにいたのだ。未だに何かは這いずり回っている。無視し続けるのも既に限界だった。

「おーし、園村も無事だったし、早いとこ神取をブチのめしに行くか!」
「? 誰それ」

 聞きなれない名だと、マキは首を傾げた。

「知らない? セベクって会社の偉いさん。町をこんな風におかしくしたヤロウだよ」
「せべく? そんな会社あったっけ」
「ああそっか。園村が入院した後に出来た会社だからな。ま、知らないのも無理ないか」

 マークの言葉に、マキがしかめっ面になる。自分では分かりやすく説明したつもりだったが、何かおかしなことを言っただろうかと不安になって、マークは慌てて聞き返した。

「説明は後だ。一刻も早く神取を止めねば」

 そこに南条が割って入る。
 真物ははっとIDカードを思い出す。取り出そうと何気なく視線を落としたところで、床の様子がおかしい事に気付く。人が這いつくばったくらいの透明な何かが、いくつも蠢いているのが見える。いや、感じられるのだ。

(……思考の澱が凝り固まったもの?)

 真物は唖然としたまま床を凝視していた。それらは、扉の隙間に見かけたあの醜悪な姿をはるかにしのぐほど、殺意に満ちていた。

「どったの? シン」

 様子がおかしいのに気付いて、ブラウンが声をかける。真物は返事も出来ずに動き回る透明な何かを目で追っていた。

「なんかいんの? もしかして…ゴキちゃん? オレ様、あれだけはどーしてもニガテなんだよねえ」

 真物の視線の先に目をやって、冗談めかしてブラウンは笑った。
 今の真物には愛想笑いの余裕もなかった。
 確認出来た透明な何かは全部で五つ。そのどれも、床や天井から滲み出してきた思考の澱だった。過去幾人もの犯罪者たちがここに隔離され、その間に染み付いた強い恨みの念で出来ている。
 それが今、悪魔の名にふさわしい形に変貌を遂げようとしていた。

 ばしゃり

 透明な繭を破って、膿が流れ出す。
 その音を、五人ははっきり耳にした。

「な、な、な…何だよあれ!」

 ひどく混乱した声でブラウンは張り叫んだ。
 死んで肉体を失い、残された恨みつらみの念が凝り固まって出来た形は、不格好な手足を持つ化け物だった。鎧のように変質した固い表皮が全身を覆い、寸詰まりの脚と長過ぎる腕には筋肉が盛り上がり、指先からは鋭い五本の鍵爪が伸びていた。背丈はゆうに二メートルはあるだろうか。

「ぐ・ぐ・ぐ…お前らは生きているのか。命なんかクソ食らえ! お前らみんな、啜ってやる!」

 五体の内の一体が、しゃがれた声でごそごそと呻いた。意味は分からなかったが、激しい殺意を抱いているのは充分理解出来た。

「お前らも終わりにしてやる!」

 ぜいぜいと喉を鳴らして、悪魔は腕を振り上げた。
 それを合図に、残りの四体が襲いかかる。
 ブラウンが情けない悲鳴を上げるよりも早く、四人はペルソナを呼び出し悪魔に対抗した。見た目の凶悪さとは裏腹に、悪魔はそれぞれのペルソナの一撃で呆気なく消滅した。

「なんだよ、お前ら……どうなってんだよ一体!」

 目にした光景が信じられないと。錯乱しきった様子でブランは喚き散らした。

「ぐぐ・ぐ…おお! せめてお前だけでも道連れにしてやるぅ!」

 残った一体が、絶叫と共にブラウンめがけて氷のつぶてを吐き出した。
 誰かが遮る間もなく、弾丸のようなそれらは四人の隙間をすり抜けて一直線にブラウンを襲った。

「うわあぁっ!」

 ブラウンは咄嗟に両手で頭をかばった。

「うえすぎぃ!」

 マークの悲鳴が部屋中に響き渡る。
 次の瞬間四人は、ブラウンを守るように深紅の翼を広げて立つもう一人のブラウンを目にした。

「ああ…あれ、あれ? 何ともない……!」

 恐る恐る目を開き、あちこち触れても傷一つついていない事に気付いたブラウンは、自分の前に立つ何者かに驚いて目を見張った。一杯に開かれた瞳が、みるみるうちに歓喜に移り変わって煌めいた。

「よろしくぅ!」

 絶対の安心感を伴って囁かれる言葉を耳にし、ブラウンは拳を振り上げて張り叫んだ。その目の前を、一匹の蝶が金色の翅をはためかせて飛んでゆく。
 断末魔を長く響かせて、最後の一体は消滅した。
 しばらくの間、静寂が五人を包んでいた。
 張りつめた沈黙を破って最初に口を開いたのは、南条だった。

「まさか……貴様にもペルソナがついていようとは」
「なあ、なあなあ、今の何な訳? ペルソナっての?」

 興奮気味に唾を飛ばし、ブラウンが誰彼構わず問いかける。

「ねえ、誰か教えてよ。意地悪しないでさぁ!」

 四人とも、何と切り出してよいものか困ってお互いの顔を見合わせていた。
 やがて南条とマークが代わる代わる口を開く。ペルソナを呼び出すきっかけとなった夢の話から始まり、町の異変の発端となったデヴァシステムの事、首謀者である神取を止める為にセベクビルへ向かっている事をかいつまんで説明した。

「つまりこういう事でしょ? 正義の味方のブラウン様に、町の異変を元に戻してほしいってんで、あの金色の蝶々さんが力をくれた、てんでしょ?」
「分かってねえな……まあ何でもいいや。お前学校戻れよ。その力があれば一人で大丈夫だろ」
「あっれぇ? そんな事言っていいの? なんたってオレ様がいれば怖いもんなしの鬼に金棒ってぇのに、連れていかないなんてどゆコト?」

 大仰に腕を組んで、ブラウンは呆れたように首を振った。

「……だとよ。どうする?」

 うんざりした顔でマークは三人を振り返った。
「ペルソナがついているならば役に立つだろう。間違っても、足手まといにはなるなよ」
「南条くんは賛成ね。よっしゃ。シンは?」
「……人数は多い方がいいと思うよ」

 自分にも聞かれるとは思ってもいなかった真物は、咄嗟に当たり障りのない答えを口にした。

「でしょでしょー、任せときなって! キミたちだけじゃどうもスター性ってものに欠けるからねぇ」
「うん、上杉君て面白いし、やっぱり沢山いた方が心強いし、私も賛成だな」
「ですよねー」

 味方が増えて喜ぶマキの無邪気な言葉にそう返しながらも、ブラウンはほんのわずか当惑の表情を浮かべた。誰かが気付く前にそれは消え去ったが、心の中まで偽る事は出来なかった。マークに対する謝罪の念がぐるりと渦巻くのを、真物ははっきりと耳にした。ブラウンの思考の断片を掴んだのはこれが初めてだった。ふざけた態度ばかりで、何一つまともな事を考えているように見えなかったブラウンの真実に触れて、真物は彼を見誤っていた自分に気付いた。

「多数決の結果オレ様超オッケー。マークは?」
「ケッ。勝手についてくればいいだろ。別に構わねぇけど」

 いつにもましてつっけんどんなマークの態度に、ブラウンはただ苦笑いを浮かべた。
 真物は無性に、親友に会いたいと願った。
 建物を出る間際、真物は麻希の母節子から預かったIDカードを取り出して説明した。出所についてはほんの一言に留め、これがあれば廃工場からセベクに抜けるルートがあると告げる。
 被害は最小限に食い止めたいという南条の言葉もあって、五人は廃工場へ向けて出発した。
 沈黙する町に雨が降り出したのは、それからしばらく後の事だった。

 

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