GUESS 赤 3

分離する複数の魂

 

 

 

 

 

「随分……大きな地震だったな」

 まだ揺れているような感覚を払い落とすように、まっすぐに背を伸ばして南条が言った。

「……園村!」

 床に這いつくばっていたマークが、立ち上がるなり治療室の扉に体当たりする勢いで駆け寄った。センサーが、マークを感知して扉を開いた。

「なっ……!」

 目に飛び込んだ光景のあまりの非現実さに、言葉を失う。踏み出そうとした足も手も、凍り付いたように動かない。

「馬鹿な! そこは確かに……!」

 南条は息を飲んだ。
 その場にいる全員の目が、薄ら寒い現実…白塗りの壁に集中する。

「なんだよおい! どうなってんだ!」

 マークは力任せに拳を叩き付けてみたが、幻ではなかった。
 畏怖が首筋を流れる嫌悪感に、真物は身震いを止められなかった。
 しばし、誰も口を開かなかった。
 不意に、重く圧し掛かる沈黙を破り、切迫した女の悲鳴が四人を串刺しにした。
 見えない手で押さえ付けられていたかのような圧迫感が消え、四人ははたと我に返った。

「今の、何!」

 声のした方に身体を向け、ゆきのは弾かれたように駆け出した。

「行ってみよう!」

 ゆきのを追って、三人は走った。
 今の地震で、誰か怪我を負ったのだろうか。
 声は、尋常ではなかった。
 廊下を走りながら真物は、建物全体が奇妙な思考に包まれている事に気付いた。
 何も聞こえない。
 何も見えない。
 なのに、肌にじかに触れてくる思考の波は、嫌悪に値する不気味なものだった。
 悲しくて泣いている人を、自分ではどうする事も出来ない…そんな歯痒くやるせない気持ちに似ていると、真物は思った。
 その時、なまあたたかい思考のうねりを貫いて、再度悲鳴が起こった。

「あっちだ!」

 先頭を走るマークが張り叫ぶ。
 角を折れ、突き当りの部屋を目指して四人は急いだ。
 不意に、真物の視界に強烈な光が閃いた。
 それは何よりも強烈な感情、思慕という名の鋭い矢だった。
 膨れ上がる嫌な予感を胸に、真物は誰よりも早く突き当たりの部屋に飛び込んだ。
 荒ぶる息が、一瞬止まった。
 あれほど駆け巡っていた血が、全て凍ってしまったように感じられた。
 目に映るものがうまく把握できない。
 うつ伏せに倒れている老人と、一人の看護婦と、三つの人形。
 そして、胃の中のものを全てぶちまけたくなるような、失われつつある命のにおい。
 やや遅れて南条、ゆきの、マークが部屋に駆け込み、でくのように立ち尽くす、真物の周りで足を止めた。

「……なんだありゃ!」

 受け入れがたい現実に、マークが叫びを上げた。
 部屋の中央に立っている三人が、どう見ても生きている人間に思えないからだ。

「た…助けて……! み、みんな…死んでるの……! それなのに…突然動き出して――!」

 腰が抜け、立つ事もままならない状態の若い看護師が、悲鳴まじりの叫びを上げながら四人に必死ににじり寄る。
 ゆきのは跪き、宥めるように肩を掴むと、ゆっくり言葉を綴った。

「どういうこと? あれは、死体だってのかい?」
「わ…わからない!」

 涙に濡れた顔を引き攣らせ、看護師は激しく首を振った。

「そんな……」

 真物の口から、驚愕のため息がもれた。

「あの地震の後、急に襲いかかってきて……私を助けようとしたあの人を……!」

 半狂乱になって喚き散らしながら、ぶるぶると震える手で部屋の中央を指さす。
 三人は一斉にそちらを見た。

「!…山岡!」

 悲鳴にも似た南条の声に、真物の顔が強張る。
 部屋の中央には、首の辺りを押さえうつ伏せに倒れる白髪の老人の姿があった。手も、顔も、血で真っ赤に濡れている。

「山岡! しっかりしろ!」

 すぐさま南条は駆け寄り、耳元で何度も呼びかけた。
 瞬きもせずその様子を見つめていた真物の目が、ぎこちなく上向き、必死に抱き起こそうとする南条の向こう側に立つ三つの死骸を捕らえた。
 崩れかけ、砕けた不気味な姿勢で棒立ちになる、三つの死骸。
 若い男と、老婆と、小さな子供。
 白く濁り光を失った目玉、ばさばさの髪。
 そのまま動かずにいれば、精巧に作られた死体の人形にも見える。
 三つを順繰りに見やり、最後に子供を見た時、真物は言葉にし尽くせぬほどの恐怖を味わった。
 半開きの口から覗く歯はべっとりと赤く濡れ、何かを咥えている。
 目を凝らして正体を見極めようとした寸前、子供はそれを素早く飲み込んでしまった。
 ややあって、閉じた口の端から赤い涎が糸を引いて垂れ落ちた。
 ぴりぴりと、全身が総毛立つほどの嫌悪感に、脂汗が滲んだ。

「に…ぐ」

 干からびてこりかたまった舌をもつれさせ、子供が何かを呟いた。
 言葉の意味を理解してしまった事に激しいショックを感じながらも、真物はただじっと三つの死体を凝視していた。
 見たくなくても目は動かず、一歩も動けないのだ。
 マークは膝の震えを必死に抑えながら、ゆきのを振り返った。
 その直後、それまでじっとしていた三つの死体が急に耳障りな声で喚き出した。
 びくっと肩を震わせ、マークは弾かれたように顔を上げた。

「にぐうぅ! 新しいにぐだあ!」

 がくんと首を下に向け、三つの死体は山岡の傍に寄り添う南条に歓喜の声を上げた。

「ひっ…いやあぁ!」

 看護師は悲鳴を上げ、ゆきのの手を振り払って走り去っていった。

「にぐぅ!」

 引っ張られたように腕を振り上げ、若い男の死体は嗄れ声を吐き出した。
 髪を金に染め、左耳には三つもピアスをつけたその死体は、異様に長く伸ばした爪を濃い紫のマニキュアで飾っていた。その、男には似つかわしくない長い爪が、蛍光灯の白い光りに反射して、凶器のようにきらりと光った。
 それが何かを連想させたのか、真物は咄嗟に走り出した。

「……!」

 誰の名を呼んだのか定かではないが、真物は声の限りに張り叫んだ。そしてろくに考えもせずに、走り出したままの勢いで男の死体にしがみ付くように体当たりした。
 生前のしなやかさを失った骸は、衝撃にあっさりと折れ砕けた。背筋のぞっとする乾いた音を耳にした直後、真物は肩から床に倒れ込んだ。
 間近の強烈な死臭に、はっと目を見開く。
 かつて人間であったのが信じられない。
 うっすらと白く濁った目玉、例えようもない白い皮膚には紫色の筋がいくつも走っている。干からびた唇と、そして死に至る傷跡にこびりついた黒い血と肉。

「おあああぁぁ!」

 男の口から、押し潰したようなうめきがもれた。
 その声を耳にした途端、真物は急に血の気が引くのを感じた。
 何故自分はこんな事をしたのだろうという、疑問が沸き起こる。
 そして唐突に、死を予感した。
 だが、極限にまで膨れ上がった恐怖はいっそ陶酔をもたらした。
 覆い被さる真物を払いのけようと、男はぎくしゃくと腕を持ち上げ殴りかかった。
 自分に向かってくる腕が、その動きがひどくゆっくりと感じられる。
 直後の衝撃を他人事のように見ていた真物の目の前で、棒切れのように腕はぼきりと折れ曲がった。

『ペルソナ』

 唐突に、心の中から一つの言葉が鮮明に浮き上がってきた。それに伴い、身体が芯から熱され、覚醒の時が訪れる。
 驚いて立ち上がり、真物は遠ざかるようによろけた。
 瞬きをするよりも短い間に、消え去っていった夢の光景がくっきりと甦る。

「おおお!」

 うつろな口をぽっかりと開けよたよたと迫る男の死体を見ても、真物はもう恐怖を感じなかった。
 身体を動くがままに任せ、片手を高く掲げると、耳元に囁かれた一つの言葉を口にする。

「……ペルソナー!」
「?………!」

 立て続けに起こる信じがたい現実に呆然としていたマークにも、同じ現象が訪れた。
 金色に輝く蝶に誘われ、出逢った仮面の人物。

 ペルソナとは古き心のかたち
 神のように自愛に満ちた自分
 悪魔のように残酷な自分
 臆病であったり、勇敢であったり
 人の心は様々な仮面を隠し持っている
 善にも悪にもなるもの
 それが――ペルソナ

 身体中に満ちていく溢れんばかりの力をほとばしらせ、ゆきのは耳元に囁かれる一つの言葉を解き放った。
 驚きはあったが、不思議と恐怖の感情はなかった。
 身体の、心の奥底から確かな形を持って現れた、異形の自分に教えられた言葉を繰り返す。

 我は汝
 汝は我
 我は汝の心の海より出でしもの
 力を貸そうぞ

 陽炎のように揺らめき存在する異形の自分から発せられる言葉に、真物はじっと耳を傾けていた。
 夢のとおり
 青銅色の肌、鈍色の鎧、奇妙な形の仮面
 何もかも、夢で見たとおりだった。

「…の心の……もう一つのかたち」

 呆けたように呟きをもらす。まるで身体が宙に浮いているような奇妙な感覚に身を委ね、真物は瞬きもせずに立ち尽くしていた
 だが、身を包むのは心地好い昂揚感ばかりではなかった。長い事押さえ付けていた感情の起伏が、ペルソナの出現によりよみがえってしまった事に、怒りに似た棘を抱く。
 他の人間がするように、喜怒哀楽を表現してはいけないと、あれほど聞かされてきたのに。

(誰に……?)

 苛付く自分自身とは別に、疑問を投げかける声が交差する。

『そんな事、誰も言ってはいない』

 二つの思考が絡みねじれて描く螺旋を、「彼女」が掴み宥める。
 その声に対する条件反射からか、真物は初めから一瞥もくれていなかったかのように咄嗟に目を逸らし、意識を遠ざけた。
 そうして「この場」に戻ると、覆い被さるように押し寄せる悲痛な叫びを浴びせられ、真物ははっと息を飲んだ。

「っ……!」

 受け入れがたい現実が、目の前に横たわっている。
 何も見るまい、聞くまいと思考を閉ざすが、自らも味わった惨劇の再現を無視し続ける事は、出来なかった。
 人の死が、その最後の瞬間が、目の前で静かに起こる。見つめる事しか出来ない。

「――!」

 南条の声なき絶叫が、視界を真っ赤に染めた。

(病院は、人の死ぬ場所じゃない……)

 真物は心の中で繰り返した。
 虚しく。

「……なあ、シン。オマエも聞いたよな、あれ。見たよな……」

 囁くようなマークの声に、真物ははっと顔を上げぎこちなく頷いた。

「……アタシも聞こえたよ」

 その横で、ゆきのも答える。

「自分はオレだって……夢のとおりだ。やっと思い出したぜ。ひょっとしてあれが……ペルソナ様なのか?」
「かもしれないね。物凄い力を感じたよ。死体が一瞬で消し飛ぶなんて……」

 今目にしたばかりの光景が、瞬時に脳裡をかすめる。
 異形の自分、ペルソナの囁いた言葉を口にした途端、全身から凄まじいエネルギーが放たれ、甦った死体を粉みじんに吹き飛ばし焼き尽くした。四散する肉片は残らず塵と化し、後には何も残らなかった。
 非現実的な現実を目の当たりにしたというのに、それをすんなりと受け入れている自分が不思議でならなかった。
 目に映るものでさえも否定してきたというのに、見えない力を肯定するなんて。
 今だって、人の死を無視しようとしているのに
 真物は俯いたまま、目の端に映る南条と山岡をそっと見やった。
 数少ない記憶を掘り起こし、日常のどんな場面を思い浮かべても、南条のあんな顔を見た事は一度だってない。

「……あいつが、泣くなんてな。よっぽど大事だったんだな……あのジイサン」

 クラスメイトのあまりに痛々しい姿に、声をひそめてマークは言った。半ば無意識に被っていたニットキャップを取り、頭を垂れる。

「そう…だね」

 短く、しかしそこに様々な感情を込めてゆきのはため息混じりに呟いた。
 堪えきれず、真物は南条に背を向けた。これ以上、彼の心の声を聞いていたくない。
 その時ふと、足元に何か落ちているのが目に入った。
 立派なべっ甲ぶちの眼鏡は、片方のガラスがひび割れわずかに欠けていた。
 真物はすぐに、それが山岡のものであると悟った。
 散々ためらって、手を伸ばす。
 彼はいつの時も、この眼鏡越しに歳若い主人を見守り、成長を見届けてきた事だろう。
 予測したとおり、それに触れた途端、目の前に音と輝きを伴い色鮮やかに記憶が甦る。
 二人の揺るぎない絆が、どのように培われてきたのかが、様々な場面を通して真物の脳裡に浮かび上がる。

『山岡…僕はどうすればいい?』『お前がいなくなったら、僕はまた一人になってしまう』『誰も僕を褒めてくれない』『叱ってもくれない』『誰も…誰も傍にいてくれないんだ!』

 じわじわと血の滲む心の中から、絞り出すような南条の叫びが聞こえてくる。
 真物には、その理由が痛いほど分かった。
 日常の、自信に満ちた態度も、気高く振る舞う様子も、何故そうなのか、理解出来た。
 時に支えとなり、慰めとなり、目的となるものを、南条は両親に与えてもらった記憶はない。だが、それらを補って余りあるものを、山岡は与えてくれた。山岡は、南条圭の両親の代役を、立派に果たしてきた、
 南条にとって、山岡は家族と呼べる唯一の存在であったのだ。
 それが今、失われてしまった。
 南条がどれほどの悲しみと喘ぐような苦痛を味わっているか、みんな特に真物は嫌というほど理解出来た。
 誰も何も言えないまま、長い長い数分が過ぎた。

 

 

 

 御影町の外れ、隣町との境に、放置されたままの工場が並ぶ一角がある。
 敷地内には、乗り捨てられた盗難車や近隣の会社から廃棄された棚や書庫が無造作に捨てられていた。
 工場の所有者も行方をくらました今、役所も処置に困り見て見ぬ振りを決め込み、それをいいことに時折暴走族の類が深夜勝手に敷地内でたむろしていた。
 昼間は、いつもひっそりと静まり返り、廃工場と呼ばれるにふさわしくうらぶれていた。
 しかし、今日はいつもと少し様子が違っていた。
 工場の裏手に広がる住宅街の中を、全身黒のスーツに身を包んだ見るからに怪しい風体の男数人が、険しい面持ちで足早に通り過ぎていく。
 異様な空気を察知し、どこかの家で犬が騒ぎ出してもおかしくない雰囲気だというのに、どの家も奇妙なほど静まり返っていた。
 まるで人の気配がしないのだ。
 その静寂を破り、乾いた破裂音が起こった。
 その音が合図だったのか、散開していた男達は一斉に音のした方に向かって走り出した。

 エルミン学園から程近い場所に、小さな神社が建てられている。
 心に宿る神を奉ったとされるその神社の鳥居の傍に、一つの人影が辺りを窺うように首をめぐらせながら足を止めた。
 エリーである。
 帰り支度を済ませ、いざ学校を出ようとした矢先突如起こった激しい地震。
 その興奮も冷めやらぬ内に、学校の外に奇怪な影を見付け、それが紛れもなく『悪魔』と呼ばれる化け物である事に気付いたエリーは、護身用にとフェンシング部から無断で持ち出した武器…レイピアを手に、渡り廊下の塀に開いた穴から抜け出し、空を見上げた。
 心なしか、空の色がくすんで見えた。
 日常では感じられないような空気の重さが、全身に圧し掛かってくるようで、エリーは不快そうに呟きをもらした。
 その時、どこかで乾いた破裂音が起こった。

「銃声!」

 叫ぶと同時に、エリーは身を低くした。
 この日本という国では滅多に聞く事のない、忌むべき音。
 伏せたまま両耳に全神経を集中し、わずかな異変も聞き漏らすまいと辺りを見回す。
 しばらくそうしていたが、二度とは聞こえてこなかった。
 冷たい汗が、背筋を伝う。
 我が身の安全を考えるならば、出来るだけ遠ざかるのが賢明なのだが、この時はなぜか、行かなければならないという声が耳の奥でしていた。
 意を決し、エリーは銃声の起こった方角に向かって歩き出した。
 人の気配がしない住宅街を歩き、程なくして神社の前を通りがかった時、かすかに人の声がしたのを聞き逃さなかった。手にしたレイピアを握りしめ、出来る限り辺りを警戒しながら鳥居をくぐって社の裏へと進む。
 社の裏手には、人の背丈の二倍はあろうかという奇岩がしめ縄に囲まれて奉られていた。
 玉砂利を踏む足元に細心の注意を払い、一歩一歩近付いていく。

(これは……!)

 踏みしめる靴の爪先に、まだらに赤く染まった小石がいくつか転がっているのが目に入った。

(……血?)

 不快な胸騒ぎをどうにか飲み込み、エリーは思い切って奇岩の裏を覗き込んだ。

「!…」

 目に飛び込んだ光景に、思わず息を飲む。
 奇岩に寄りかかるようにして、一人の女性がぐったりとうなだれていたのだ。

「どうなさったのです!」

 エリーはレイピアを放り投げ、傍らにしゃがみ込んだ。と、それまで疲れ切った様子で頭を垂れていた女性は、声に驚き弾かれたように顔を上げた。
 四十歳前後の、眼鏡をかけた理知的な顔立ちの女性だった。黒のタートルネックに、パンツスーツがよく似合っている。
 眉をひそめるようにして見つめてくるその女性に、エリーは、状態によっては救急車を呼ぶべきかと頭を働かせた。
 体調を崩し、立つ事もままならないのだと初めは思ったが、すぐに、肩を押さえる手が血に濡れ朱く染まっている事に気付いた。
 目を見開く。
 頭の中で、先ほどの銃声が忌々しくも甦った。

「その怪我…もしやさっきの銃声は……!」
「……エルミンの生徒さんね!」

 と、それまで焦点の合わない眼差しでぼんやりと見つめていたその女性は、エリーの制服の校章を見るやはっと顔を強張らせ、矢継ぎ早に話し始めた。

「私、園村の…二年四組の園村麻希の母親です」
「まあ!」

 エリーはスカートが汚れるのも気にせずに跪くと、彼女を安心させるように何度も頷いて言った。

「私、同じクラスの者です。麻希の事はよく知っていますわ」

 その言葉に、麻希の母親と名乗るその女性は苦痛の合間に安堵の微笑を浮かべた。

「この怪我、先ほどの……」
「事情は後で話すわ。どうか私を警察に……」
「ええ、そうですわね……でも、怪我の手当てをしないと」
「私は大丈夫。早くしないと……」

 引き攣る呼吸を抑えるように、麻希の母親は肩を大きく上下させエリーに訴えかけた。

「……わかりました。私が呼んでまいりますわ。それまでお母様は、社の中に隠れていて下さい」

 一瞬考え、エリーは頷いて両手を差し出した。

「ごめんなさい……ありがとう」

 エリーの手に支えられ立ち上がると、よろけながらも歩き出した。
 社を回りこんで中に入り、エリーは中央に母親を寝かせると、もう一度励ますように声をかけ、飛び出していった。
 駆けて行くエリーの後ろ姿を、鳥居の上でひっそりと翅を休めていた一匹の蝶が見送っていた。

 

 

 

「これ、誰かの手作りだね」

 ベッドサイドの椅子に座っていた熊のぬいぐるみを持ち上げると、ゆきのはそっと呟いた。
 地震の後、病院内の構造は著しく変化していた。
 整然と並んでいた病室は全て消え失せ、代わりに、曲がりくねった通路と不気味な螺旋階段が現れた。
 四人は、迷宮と呼ぶにふさわしい白い空間を、ひたすら歩き登っては下りた。
 どれくらい歩いただろうか。
 ようやく、見慣れた病室の扉を見つけ、そこに立ち寄った。
 園村麻希の病室だ。
 突然異変を訴え、慌しく運び出された跡がはっきりと残っている。
 ほんの数分前まで、麻希はここにいたのだ。

「ここ…園村のにおいがすんな……」

 誰にも聞こえないようひっそりと、マークが囁いた。
 閉めた扉に寄り添うように立ち、真物はなるべく何も見ないよう努めた。
 そうでなければ……
 壁の絵やぬいぐるみにも、麻希の心の断片がまとわりついている事だろう。
 この部屋でたった独り、滅多に人の訪れない日々を送ってきた麻希は、何を思い、考え、見ていたのだろうか。

「園村…絶対見つけ出してやるからな」

 震える声で自分自身に誓いを立て、マークは拳を握りしめた。

「ちょっと…あれ見て!」

 窓際にいたゆきのが、突然叫びを上げた。

「ありゃ…何だ?」

 窓を開け放ち、マークは身を乗り出した。
 窓の外に広がる家並みの向こう、ゆきのが指差す方に、巨大な壁のようなものが陽炎よろしく揺らめいていた。それは波打つように刻々と色を変え、向こう側の景色を透かして見せながらも壁のようにそそり立ち、不気味に存在していた。

「何か…いやな予感がするよ。早く出よう!」

 言うが早いかゆきのは踵を返し、三人を急かした。
 ゆきのがマークを、マークが南条を促し、彼らの後についた真物は去り際、ふと振り返った先に捕らえた数個の積み木にぎくりと顔を強張らせた。
 壁に寄せたテーブルの下に、ばらばらに散らばって転がる色とりどりの積み木。
 元は何かの形に積み重ねてあったものが、先の地震で崩れてしまったのだろう。
 そう推測した時、真物の視界に今の光景と、崩れる前の光景とが二重写しになって左右に揺らいだ。
 目眩に似た混乱の症状を、束の間目を閉じてやり過ごそうとする。
 目を閉じて今現在の光景を遮断した途端、もう一つの光景…机の上に積み木で作られた「学校」をじっと見つめる誰かの視線が自分の中に割り込んできた。
 それと同時に、嫉妬と羨望、期待と絶望、歓喜と悲哀といった様々な感情が、水底から湧き上がる気泡のように絶え間なく起こり、たちまち真物はそれらに翻弄されぐらぐらと揺らいだ。
 ただひたすらに悔しくて、悲しくて、情けなさに泣き叫んでしまいそうになる。

「おい、シン。行こうぜ」

 病室を出ようとして、一向に動こうとしない真物に気付き、マークは引き返して肩を叩いた。
 そこでやっと真物は、覆い被さってくる誰かの思考から逃れる事が出来た。
 転がる積み木から無理やり視線を引きはがし、わずかに目を伏せる。
 そのまま、真物は病室を後にした。
 冷静になって考えれば、あの場所に麻希のありとあらゆる感情が塗り込められているのは当然の事で、それに対する心構えもなくいつもと同じように無関心を貫く事など、出来はしないのだ。
 自分の迂闊さを悔いながらも真物は、孤独に打ちひしがれていた麻希にかすかな同情心を抱いた。
 積み木で作り上げた学校を、どんな思いで毎日眺めていたのだろう。
 滅多に人の訪れる事のない病室で過ごし、何の変化もない一日を終える。
 毎日、毎日。
 そんな、感覚も狂うような日々の中で、今日はいつもと違う一日になるはずだった。
 彼女にとっても、自分たちにとっても。
 けれどそれは、些細な違いであり大きな刺激にだけなるはずだった。
 こんな風に、人が死に人が消え、悪魔と呼ばれる存在が現れる、そんなきっかけになどなるはずではなかった。
 一体、何が起こったというのだろう。
 先を歩く南条の後ろ姿をちらりと見やり、真物はまた俯いた。
 今のところ、彼からは何の声も聞こえてこない。だがその様子を見れば、後悔の念に苛まれているだろう事は容易に推測出来た。

 学校を出る時素直に行き先を告げていれば――こんな事にはならなかったのに!

 抜け殻のように、表情の一つも変えず歩き続ける彼を、マークもゆきのも言葉にはせず気遣った。
 真物は思った。南条は他人ではあるが、彼の身に起きた事を思うと、自分とは切り離して考える事は出来ないと。
 自覚した途端、真物は当惑したように忙しなく左右に視線を走らせた。
 麻希や、南条に対する同情心といった感情を不快に思いながらも、完全に切り捨てる事が出来ない。

(何故――)

 何故唐突に、しかも立て続けにこうまで感情が波立つのだろう。
 今までは、何が起きてもほとんど引きずられる事なく過ごしてこられたのに。

『でももう始まってしまっている。変わる事は逃れようもないわ』

 文章の一片を読み上げるような抑揚のない声で、「彼女」が言う。

(何が始まったというんだ)

 謎めいた言葉を投げかける「彼女」に聞き返す。記憶している限り、こうして「彼女」の言葉にまともに答えたのはこれが初めてだろう。

(教えてくれ。いったい、何がどう変わる)

 再度問い掛けた。しかし「彼女」は、肩越しに振り返り、こちらを見るだけだった。
 まっすぐに向けられた眼差しには多くの言葉が込められていたが、今の真物にはそれらを理解出来るだけの感情は持ち合わせていなかった。
 思考の堂々巡りに捕らわれ、虚無になりかけていた真物の内側に、突如冷水を浴びせられたような衝撃が走った。
 一瞬遅れて、鼓膜を突き破るほどのけたたましい吠え声が前方から聞こえてくる。
 見ると、進む廊下の突き当たりに自分たちとさして変わらない歳の少女が立っているのが目に入った。
 潰れた喉を震わせ、少女がしゃがれた叫びを上げる。その声には、生きているもの全てに対する羨望と憎しみが込められていた。
 背筋が、ぞっと凍り付く。
 輝きを失い濁った瞳が、余計、物悲しく感じられた。
 少女はもう一度吠え声を上げると、不恰好な姿勢で足早に近付いてきた。

「やっぱ死体か。げ! ぞろぞろ出て来やがったぜ」

 一体だけかと軽口をきいたマークだが、少女の後から何体もの骸の群れがぎくしゃくと身体を揺らしながら現れたのを見て、喉の奥を引き攣らせた。

「言って分かる連中じゃないよ……どうすりゃいいんだい」

 かすかに舌打ちして、ゆきのはじわじわと迫り来る死体の群れを睨み付けた。

「逃げるか……?」

 幸いな事に、背後からは何も現れる気配はない。だが、ここまで一本道だった事を考えれば、いずれは追い付かれてしまうだろう。

「ペルソナが呼べれば……!」

 半ばやけになって、マークがこの状況を切り抜けられる唯一の方法を口にした。

「それしかないようだね。でも、どうやって呼び出せばいいんだい?」
「んなのオレに聞かれたってわかんねえよ」

 焦りと恐怖にかられ、早口でまくし立てる二人の横で、南条がわずかに顔を上げて死体の群れを見た。
 眼はしっかりと見開かれているが、瞳には感情の色は一切表れていなかった。ただ口元には、安堵の笑みが浮かんでいた。
 近付くにつれて、彼らの残留思念が声となってより一層強く真物を揺さぶった。命を落とした無念さが、生きている者に対する恨みとなって拳を振り上げる。
 内面に食い込んでくる恐怖と怒りは、そのまま真物の中で彼自身の恐怖と怒りに変わり、やがてそれは死に対する恐怖と、恐怖を感じている自分への怒りと変わっていった。
 そしてついに、真物の胸の内で極限まで膨れ上がった二つの感情は、限界を迎えはじけた。

「……ペルソナー!」

 逃れる為に、異形の自分に呼びかける。
 何をしているのかはっきり自覚しないままペルソナを呼び出し、根源を消し去る為に力を振るう。
 ペルソナの発現は、一番外側に自分自身を露わにする行為と酷似する、不快な震えの走るものだった。

 

 

 

「くそ! 一体いつになったらオレら、病院の外に出られんだよ!」

 先頭を歩くマークが、突然がなり声を上げて大げさに舌打ちした。
 その声は、思考の堂々巡りに陥っていた真物の意識を呼び戻した。わずかに顔を上げてマークを見ると、下りの螺旋階段の手前で立ち止まり、うんざりした顔で肩を落とすところだった。

「稲葉、園村の病室が元の三階のままだとしたら、この階段をおりれば一階に出るはずだよ」

 ゆきのが少し疲れた顔で、自分自身も励ますように言った。
 麻希の病室を出てから、幾度か死体の群れと出くわし、その度にペルソナを呼び出して応戦してきた。次第に呼び出すコツが掴めてきたのか、さしたる困難はなかった。
 ただ、真物だけは違っていた。
 死体の群れと出会う度に、いつまでも残る不快感に苛まれた挙句ペルソナが現れるのだ。中々消えない不快感は、そうとは認めたくはなかったが紛れもなく恐怖だった。相手が死人だから怖いのか、自分が殺されそうになるから怖いのか分からなかったが、それ…不快感は一度生じるとどうあがいてもいつまでも真物の胸の内に暗い影を落とし、かさこそと這い回って脅かした。

「ホントかよ……」

 ゆきのの言葉に半信半疑の眼差しを向け、マークは螺旋階段を覗き込んだ。
 死体の群れと遭遇する以外は、曲がりくねった通路をひたすら歩き、螺旋階段を上っては下りまた上るといった具合で、自分たちが今いる正確な階数は分からなくなっていた。
 しかしゆきのは、辛抱強く階数を数え記憶していたようだ。

「にしてもよお、人っ子一人見当たらねえな。あんだけいた入院患者とか、一体どうなっちまったんだ?」

 螺旋階段を下りながら、殊更大きな声でマークはゆきのたちを振り返った。

「わからないよ。建物だってこんな、まるで迷路だよこれじゃあ。でも、誰の仕業にしろ随分なめた真似してくれたもんだね」
「とても人間業とは思えねえぜ。マンガとかならこんな話いくらでもあるけどよ。夢でも見てるような気分だぜ、全く……なんじょう、元気かあ?」

 ゆきのの後ろ、真物の前を歩く南条に向かって、何気なくマークが声をかける。
 彼なりの気遣いなのだろう。朝の挨拶でもするかのように、マークはこれまでも何度か「なんじょう、元気かあ?」と呼びかけてきた。しかし南条は、それが自分に向けられているのだと全く気付いていない様子でただじっと前を見据え、歩き続けていた。努めて平静に振る舞うマークの、その瞳だけは正直に、南条の心中を慮るいたたまれない苦痛を浮かべていた。
 やがて階段を下りきったマークが、用心深く左右を見渡して身を乗り出した。

「おい、黛。確かあそこ、一階のロビーだったよな」

 右手正面、自動ドアの向こうを指差して、マークは振り返った。

「間違いないよ」

 安堵の表情でゆきのはほっと息をついた。

「とりあえず学校に戻ろう。後の事は、それから考えよう」

 開いたまま動かなくなった自動ドアをくぐりながら、ゆきのが妥当な案を口にした。肩越しにちらりと振り返ったマークの眼差しが、何を言わんとしているか察したゆきのは、同じように視線で返した。

「うわっちゃー、こりゃひでえや」

 ロビーに一歩足を踏み入れた途端、マークが素っ頓狂な声を上げて大げさに両手を広げた。
 先ほどの地震によって、一階ロビーはひどい有り様を呈していた。
 入口付近に設置された自動販売機は倒れ、受け付け内の書庫は元の位置から大分離れた場所で横倒しになり、ガラス戸は割れて中に収まっていた様々なファイルは一つ残らず床に散らばっていた。その上待合所の長椅子はてんでに引っくり返っており、カウンターの上で青々と茂っていた観葉植物は床に落ちて鉢は粉々、四方八方に散らかった土は、かき集めるのもひと苦労というほどである。
 しばらくの間、四人は滅茶苦茶になったロビーを前に黙って立ち尽くしていた。
 その時、どこからか切れ切れの低い呻き声が聞こえてきた。大分戦闘慣れしてきた彼らは、どこかに死体の群れが隠れているのかと声のした方を振り返り反射的に身構えたが、視線の先にとらえた光景に驚き、目を見張った。
 倒れた自動販売機に足を挟まれ、一人の看護師がうつ伏せに倒れているのだ。
 すぐさま駆け寄り、救出に取りかかる。

「しっかりしな、もう少しの辛抱だからね!」

 額に脂汗を浮かべ、意識も絶え絶えの彼女をそう励ますと、ゆきのは販売機の角に手をかけた。

「シン、引っ張り出してくれ!」

 マークは反対側に手をかけ、掛け声とともに力を込めた。ほんのわずかだが、販売機が持ち上がる。たった二人で持ち上げられる代物ではないのだが、実際に起こったこの現実には、ペルソナの力が関係していたのかもしれない。
 彼女の足はようやく重圧から開放され、今なら引っ張り出せるだろう。
 他人に触れる事に対する恐れから戸惑いを見せた真物だが、相手が気を失っている事、そして見捨ててしまった誰かの命の代わりになるならと、彼女の両手をしっかりと握り締めた、
 だが、意識のない人間がこれほど重いとは思ってもいなかった。

 せめて、あと一人いれば……

 思わず真物は、視界の端に映った南条に目を向けた。
 目の前の出来事から己を遮断し、無表情で立っている南条に。

「シン……早く!」

 重苦しい声でマークが叫んだ。ペルソナに助けられ、限界を越える力を振り絞っているとはいえ、これ以上は耐えられそうになかった。
 切羽詰ったマークの声に真物は焦り、必死に足を踏ん張るが、彼にペルソナの助けはなかった。

「おい、南条……!」

 マークが、最後の望みを託して南条を振り返る。と、その瞳が驚愕の色を浮かべて見開かれた。
 いつの間にか、自動ドアの向こうに死体の群れが迫っていた。
 南条はそれらを見つめ、うっすらと微笑んでいた。

「くそっ、マジかよ!」

 動けない自分の状況を呪い、マークは舌打ちした。

「おい南条、何ぼさっと突っ立ってんだ! 早くペルソナを呼べ!」

 叫んでから、マークははっとなった。ここに至るまで、南条は一度もペルソナを呼び出していないのだ。

「くそっ!」

 自分らと同じく夢を見たはずなのに、なぜ…その時ようやく、マークは、南条の顔に浮かぶ不気味な表情に気付いた。

 あいつ、なんで笑ってるんだ?

 疑問とほぼ同時に浮かんだ推測に、背筋が凍るほどの衝撃を受ける。

「バカな事考えてんじゃねえぞ、オイ! オマエあのジイサンと約束しただろ!」
「まさか南条……!」

 腕が千切れそうに痛むのも忘れ、ゆきのが愕然とした表情で南条を凝視した。マークの言葉の端々から、南条が何を考えているのか察したのだ。
 真物はかたく目を閉じ、外側から聞こえてくる声と内側に響いてくる声とを一切遮断しようと息を詰めた。

「あれはウソか? オイ!」

 何の反応も示さない南条の目を覚まさせようと、マークは尚も声を張り上げた。
 じわじわと迫る死体の群れは、自分たちの前でじっと立ち尽くしている南条に狙いを定め、最高のごちそうだとばかりに耳障りな歓喜の叫びを上げた。既に、先頭の一人が手を伸ばせばたやすく首を締められる距離まで近付いている。

「くそったれ! ウソの約束するなんざ、最低の人間だぜ南条!」

 やぶれかぶれになって叫ぶマークをちらりとだけ見やり、南条はまた顔を正面に向けた。
 心を遮蔽し、あらゆる声を遠ざけていた南条の耳に、ようやく音が戻り始めたのだ。
 周りの世界が急変し、生き延びる意味を失った彼の心を揺さぶるように、奇声を上げて死体の群れが一斉に襲い掛かる。

「寒いようぅ!」

 聞く者の心を凍りつかせるような忌まわしいうめき声を上げて、歳若い女の死体が南条にしがみついた。
 生前は、それは美しい黒髪だっただろう。腰まで伸びたまっすぐな髪は、今やあちこちもつれて絡まり、打撲により陥没した額のひび割れた部分からは、脳漿が見え隠れしている。恐らくそれが死に至る傷跡だったのだろう。
 見るも無残な女の、ぱっくりと割れた額の奥、生々しい色をした残り物にたかる蛆が、ちらりと見えた。
 うねうねと蠢くおぞましい様が、はっきりと目に映った。

「アアア・ァ・ァ!」

 顎の骨が砕けているのかと思えるほどぱっかりと口を開けて、女は南条の肩に噛み付いた。
 生臭い、吐き気を催す死臭が鼻腔を突く。
 痛みは、なかった。
 すぐ目の前で、死肉にたかる蛆が蠢いている。
 死肉にたかる蛆。
 ただそれだけが見えた。

「死んだらおしまいなんだよ南条ぉ!」

 マークの怒声が、最後の引き金となった。
 無気力だった南条の双眸に冷ややかな意志の光が宿る。
 真正面を見据えてきっと顎を引く。
 三人は、そこで初めて南条の内側からペルソナが覚醒するのを見た。
 全身から立ちのぼる白い輝きは、あらゆる事物に慈悲をもたらす明王の姿となり、死体の群れを残らず光りの渦に包み込んで消滅させた。
 瞬きする間の出来事だった。
 唐突に輝きは途切れる。

「ペルソナ……もう一つの自分、か」

 両手を見つめたまま、南条は嘲笑に似た表情を浮かべて呟いた。

「あ…焦らせやがってよぉ、もったいぶらずに早く呼べってんだ!」

 ふてくされた様子でマークが零す。声の調子は怒っていたが、顔には安堵の表情が広がっていた。

「さ、早いとここの人引っ張り出すの手伝って」

 ゆきのの呼びかけに、南条は頷いた。

 幸いな事に、ロビーを出た廊下の先に診察室を発見した。他の階同様、部屋の位置は全て滅茶苦茶に入れ替わり、消えてしまった病室も多数あった。
 ひとまず四人は、傷付いた南条と看護婦の手当てをする為診察室の扉を開いた。
 室内には、麻希の回診に訪れたあの物腰の柔らかな医師と、一人の歳若い看護婦がいた。二人ともまるでこの世の終わりといった絶望的な表情を浮かべていたが、自分達以外に生きている人間に会えた事に大げさなほど安堵し、それで冷静さを取り戻したのか、怪我を負った二人の治療をてきぱきと済ませた。
 南条の怪我の程度が比較的軽いものだとわかるや、マークは焦りと苛立ちを剥き出しにして三人を急きたて、早く園村を見付けねばと声を荒げた。
 だが、闇雲に病院内を歩き回っても無駄に体力を消耗するだけ、一旦学校に戻った方がいいというゆきのの言葉に、渋々ながらも従うよりなかった。
 病院の玄関を一歩出た所で、四人は思わぬ人物に出会った。

「まあ、ごきげんよう皆さん」

 エリーである。
 重苦しい雰囲気を引きずる四人とは対照的な、エリーのよく通る明るい声に、緊張感が一気にほぐれる。

「英理子、あんたよく無事で…妙な化け物がうろついてなかったかい?」

 真っ先にゆきのが駆け寄り、エリーの安否を気遣う。

「ご心配なく。どこもかしこも悪魔だらけでしたけれど、私、剣の腕には自信がありますもの」

 そう言ってエリーは、手にしたレイピアを胸の前で構えてみせた。

「どこもかしこも?」

 ひどく驚いた声でゆきのが返す。

「ええ。あちこち見て回ったのですけれど、今のところ無事なのは学校だけのようですわ」

 そんなゆきのとは正反対に、エリーは瞳を輝かせて頷いた。どうやら、非現実的な現実に興奮しているようだ。

「そうか。なら、早いとこ学校に戻ろう」
「その前に、神社に寄って下さいません? 麻希のお母様が怪我をなさって――」
「園村のお袋さんが?」

 エリーの言葉にマークは素っ頓狂な声を差し挟んだ。

「おい、そういう事は早く言えよ」
「Sorry とにかく参りましょう」

 慌てて口を押さえ、エリーはくるりと踵を返した。
 彼女を先頭に、四人は神社へと歩き出した。

 

 

 

 町は、耳を覆いたくなるほどの静寂に包まれていた。
 台風が近付いているせいか、なまあたたかい南風が絶えず吹き付けてくるが、びょうびょうと唸りを上げる風の音以外は、何の物音も聞こえてこない。
 通りには一台の車も走っておらず、人っ子一人見当たらない。
 姿を消したのは、人間だけではなかった。
 まさかと思いつつも恐る恐る電柱を見上げたマークの顔に、信じられないものを見た時の怯えが色濃く浮かび上がった。
 いつもなら、ぐるりと見渡せばどこかしらにカラスの一羽も見付かるのだが、今は鳴き声一つ聞こえない。

「何にもいなくなっちまったよ」

 辺りを見回し、薄気味悪いとばかりにゆきのは肩を竦めた。

「こう静かだと、空気まで重くなったようだよ……!」

 突風にあおられ、路地の角に置かれていたポリバケツが大きな音を立てて飛ばされていった。そんな些細な物音にまで敏感に反応してしまう自分自身に腹を立て、ゆきのは小さく舌打ちした。
 自分の意思で歩き出したものの、南条は病院を出てからただの一度も口を開く事はなかった。ゆきのは無音の町に苛立ちを感じているようだし、エリーは非現実的なこの現実を、滅多にない機会とばかりに興奮しておりまともではない。マークはというと、立て続けに起こる異常事態に呆気に取られ、頭の中を整理するのが精一杯といった様子である。
 そんな奇妙な雰囲気に飲み込まれた五人は、ただ黙って歩き続けた。
 訳もなく腹を立てても無意味と悟ったゆきのだが、冷静になるにつれて今度は不安ばかりが大きくなってゆくのを感じていた。
 もしかしたら自分たちは、誰もいない別の世界に放り込まれてしまったのではないか。ここが御影町だというのは大きな勘違いで、あの地震のせいで実はもう死んでしまっているのではないか。もう二度と帰れない場所に迷い込んでしまったのではないか…考えれば考えるほど、悪い方へと転げ落ちてゆく。
 逆に真物は、日常とそれほど違いはないと感じていた。内から聞こえるゆきのの声は、無人の町に取り残されたようだとしきりに繰り返しているが、自分にとっては以前も今もさして変わりなかった。

『それだけ、周りを見ていなかったという事の証ね』

 ゆきのの不安や、エリーの興奮に引きずられないように心を遮断していた為に、予期せぬ「彼女」の声はことさら大きく真物の胸の内に響いた。いつものように、真物は「彼女」の声には耳も貸さずに平静を装った。
 と突然、間近の空で雷が轟いた。いよいよ本格的な嵐になるのかと頭上を仰ぎ見た一行は、目にした光景に一瞬呆気に取られた。
髪を振り乱し、叫びに大きく口を割いた、みすぼらしい恰好の中年女がそこにいた。姿は透け、胸から下が忽然と消え去っている、この世の物ではないのは一目瞭然だった。アクマだと理解するが早いか皆一様に身構える。
 首を激しく左右に振って髪を振り乱し、意味のない言葉を撒き散らしながら、アクマはメチャクチャに両手を振り回した。先程聞いた雷は、割いた口からひっきりなしにもれるもの金切り声だったのだ。腹の底まで不快になる、なんともおぞましい声。
 女がキーキーと喚く度に身体のあちこちからプラズマが放出され、騒々しい事この上なかった。

「皆さん気を付けて、こいつはクイックシルバーですわ!」

 いち早くアクマの正体に気付いたエリーが、その名を口にする。と同時にクイックシルバーと目が合った。瞬きするよりも短い刹那だったが、エリーは、クイックシルバーのカッと見開かれた目玉に浮かび上がった狂気に心底ゾッとなった。寒々しい感触を嫌というほど味わう。
 エリーは、絶望から来る高揚感に全身が熱くなるのを感じた。
 それは溶けそうなほどのエネルギーとなってエリーの全身を駆け巡った。
 何と心地良く、いつまでも浸っていたい感覚だろうか。
 エリーは恍惚としたまま、解放感を味わっていた。
 周りで見守っていた真物たちには、ほんの一瞬の出来事だった。ほんの一瞬、エリーがクイックシルバーと目を合わせたかと思うと、エリーの身体から白熱の輝きが放たれた。それは見る間に姿を変え、背中から一対の翼をはやした光…ペルソナへと変化した。
 それまで耳障りな笑い声を撒き散らしていたクイックシルバーの表情が、一変して恐怖に染まる。
 存在し続ける権利を死守するかのように、クイックシルバーはプラズマを放出して対抗しようと試みるが、エリーの心の海から姿を現したのは勝利の女神ニケー。
絶対の自信とそれに見合うだけの強さを持つ者だけが、ニケーを自在に操れるのだ。
 断末魔を上げる間もなく、クイックシルバーは浄化の光に包まれ消滅した。生死に関わる危機から脱した事で、エリーのペルソナは心の海へとまた沈んでいった。静かに薄れてゆくニケーの姿は、話に聞く天使によく似ていた。
 エリーにもまた、ペルソナの力が宿ったのだ。

「あれが私…私が…あれ……」
「英里子、ちょっと…しっかりしな!」

 ニケーが現れた辺りに視線を漂わせ、エリーは茫然自失といった様子で呟きを繰り返した。
 それはゆきのにも身に覚えのある感覚だが、さすがに心配になり、少々乱暴に肩を揺すった。

「あ…あら? Sorry もう大丈夫ですわ!」

 ついに事情を飲み込めたのか、エリーは今やっと目が覚めたとばかりに瞬きを繰り返し、四人の顔を見回した。
 そして自信たっぷりに笑い、声も高らかに宣言する。

「私のPersonaは勝利の女神! これからは私が皆さんの勝利のAngelとなってお守りしますわ!」
「……英里子、あんたも夢を見たんだね?」
「金色のチョウが出てくるやつな」

 エリーは、驚きの声が上がるものとばかりに思っていた。が、実際には、妙に冷静なゆきとマークの問いかけが返ってくるだけだった。怪訝そうな顔で頷く。

「ええ…ええ、初めてペルソナ様遊びをしてからかしら、よく、見ますけれど」
「やっぱな。オマエもそうかよ」
「まあ、では私だけではないんですの…選ばれたのは」

 顔はにこやかだったが、エリーは感情を消した瞳でわずかに俯いた。

「……話が出来過ぎているとは思わないか?」

 寄り集まった四人からやや離れた場所に立ち、誰とも視線を合わせずに南条は口を開いた。

「町の異変。ペルソナの出現。裏は何だ?」
「あんたも、誰かが仕組んだ事だって、そう言いたいんだね?」

 腕組みして、ゆきのが聞き返す。難しい話はごめんだとマークは右から左に聞き流す体制に入った。

「その可能性は充分に考えられるな」
「全く、随分なめたマネしてくれたもんだね。何にせよ、この力で原因を暴いてみせるよ」
「何事も為せば成るですわ」

 いきり立つゆきのを宥めようと、エリーはにっこり微笑んだ。

「じゃあ、早く神社に行こうぜ」

 難しい話はこれでおしまいと、マークは急かすように割り込んだ。
 歩き出した四人の後を、真物は黙ってついていった。以前も今も変わりないと思ったのはどうやら間違いのようで、少なくとも今は一人ではなく五人のようだ。自分にもペルソナが覚醒したせいか、切り離して考えてはもらえないのが、真物には正直煩わしかった。
 静かで、何の変化もない日常にはしばらく戻れそうもなかった。「彼女」の言った『もう始まっている』事がこれに当てはまるなら、自分はどのように変質してゆくのか。今の時点で言える事は、たとえ悪感情がなかろうと、他人の思考の断片にはこれ以上ただの一度も触れたくない、という事だけだった。
 それが無理な望みなのは、真物にもよく分かっていたが。

 

 

 

 その後、五人は何度か悪魔との戦闘を繰り返したが、エリーという新たな戦力と、今のところ生死を脅かすほどの強力な悪魔が現れないという事もあって、さしたる困難もなくほぼ無傷で神社にたどり着く事が出来た。

「ここ、こんなに狭かったんだね」

 ゆきのは幼い頃の記憶…近所の子供たちとよく遊びに来ていた当時を思い返しながら、小さく呟いた。

『鳥居も、もっと大きく感じられたんだけどね……』

 肩越しに見上げ、背の伸びた自分を実感する。
 初めて訪れる場所なのに、真物は何故か無性に懐かしい気分になるのを感じていた。鳥居も、社も、石畳も、どれ一つ見た事ないはずなのに、覚えているように思える。幼い頃来た事があるような、薄れかけた記憶。

(いや、やっぱり知らない場所だ。黛さんの記憶に引きずられたんだな……)

 観音開きの木戸を引いて、エリーがまず社の中に入った。

「中に入るのは初めてだよ」

 子供の頃、入ってはいけないと親にきつく言い付けられた事を思い出しながら、ゆきのが続く。

「うわ、すげぇ……」

 次いで木戸をくぐりぬけたマークが、足を踏み入れるなり驚きの声を上げる。
 真物は心の中で頷いた。
 通常ご神体が祀られるべき場所にそれらしいものはなく、代わりに三方の壁に無数の面が隙間なくびっしり飾られていた。圧倒される程の数の面、マークが驚くのも無理はない。

「全部微妙に表情が違うんだね。これだけあると、さすがに気持ち悪いね」
「今はそれよりも……まあ、またあの蝶が」

 横たわる麻希の母親の傍で四人を振り返り、エリーが声をかける。しかし次の瞬間、エリーの注意はふと目に入った金色の翅を持つ蝶に向けられた。蝶は、他と趣の違う面にとまっていた。
 柔和な微笑みをたたえ、片側に聖とも邪ともつかぬ奇妙な模様の描かれた白い面。
 そこにとまった蝶が、まるで呼吸するかのようにゆっくり翅を開いては、また閉じる。
 エリーはついつい、そのささやかな動きに見入ってしまっていた。

「いけね、園村のお袋さんを……うわっ!」

 何かに驚いてマークが短い叫びを上げる。反射的に振り返った真物は、そこに強烈な光が弾けるのを目にした。

「!…」

 受け止めきれない眩さに驚き、咄嗟に顔を背ける。
 ばっと光が散ったはずなのに、気付けば薄墨に彩られたぼんやり霞む空間の中にいた。
 突然の異変に少しも驚かない自分が不思議でならなかった。日常の一場面と同じように、真物はごく自然に仮面の人物―フィレモン―と向かい合っていた。

「ペルソナは――君の救いとなっているかね?」

 およそ人間のそれとは思えない奇妙な響きを含んだ声で、フィレモンは静かに問いかけた。

「救い……?」

 真物の思考は、そのまま言葉となって口から零れた。常軌を逸したペルソナの力は確かに救いになってくれているが、フィレモンの言葉には別の意味が込められている気がしてならなかった。
 仮面に隠れて分からなかったが、フィレモンが微笑んでいるように感じられた。

「君はこの先、様々な選択を強いられるだろう。もはや進むしかなく、どの道を選ぶも、全て君自身の決意によるものである事を、忘れぬように進みたまえ。たとえそれで人の業を見る事になろうとも……決して目を逸らす事なく進んでほしいと、願っているよ」
「それを……!」

 核心を突いたフィレモンの言葉に、真物はうろたえたように口ごもった。自分以外に、自分自身を知っている者はいないと思っていた。それがどうだろう、目の前の人物は、この自分がいつ生まれ、どのような道を経てきたのか全て見続けてきたような物言いをするではないか。
 滅多に取り乱す事のない真物だが、この時ばかりはさすがに冷静さを保てず、声もなくただじっとフィレモンを凝視していた。
 心の拠り所を求めて、真物は無意識の内にピアスに触れた。
 その途端、真物の意識は元の場所に引き戻された。

「よく意味が分かんねえな……つまり、自分の好きなようにやれって事だろ?」

 マークはしきりに目を瞬かせ、自分の解釈を口にする。
 その様子を視界の端に移し、そっと様子をうかがっていた真物は、フィレモンが彼らにも同じ言葉を告げたのか少し気になった。

「皆さんよろしいかしら?」

 頭の中でフィレモンの言葉を反芻していた真物は、エリーの呼びかけにはっと我に返った。
 慌てて、今意識を傾けるべきものに目を向ける。
 麻希の母親は、依然気を失ったままだ。

「ひでぇ」

 淡い色のジャケットにべっとりと染み付いた血の跡を見て、マークがやや青ざめた顔で低く呟いた。エリーの施した応急処置のお陰か、それ以上の出血はないようだ。
 恐る恐る覗き込んでいたマークとは対照的に、冷静な眼差しで南条は傷口を観察し、重々しく口を開いた。

「この傷跡…まさかとは思うが……銃創か?」
「……Yes」

 エリーが頷くのを見ても、真物にはにわかに信じ難かった。だが、エリーの思考と重なり合った部分から、甲高い破裂音が聞こえてくる。正直見たくも聞きたくもない他人の思考の断片、それも誰かが怪我をする場面など更に嫌悪するものだが、こう間近では回避も難しかった。否応なしに見せられ、納得せざるを得ない事実に小さく震える。

「ジュウソウ……?」

 耳慣れない言葉にマークは首を傾げた。

「銃で撃たれた傷の事だ」
「!…おいマジかよ! 悪魔の癖に銃まで持ってんのか?」

 マークの驚きに、真物は何かが急速に近付いてくるのを感じた。ペルソナの力で辛うじて悪魔と対等に戦えるというのに、更に武器を持ち出されてはもはやそれを無視する事は叶わなかった。

(……かもしれない)

 この時は、あえてはっきり思い浮かべる事をしなかった。
 想像したくもない。
 死ぬ…自分の命が終わる瞬間など。

「だとしたらこちらは丸腰だ。何か武器が必要だな」

 南条が腕組みするのとほぼ同時に、麻希の母親が苦しそうに呻いて意識を取り戻した。

「ここは…どこなの……?」

 目に映るものが正しく判別出来ないのか、はじめ、彼女はひどく怯えた様子で忙しなく辺りを見回した。

「アラヤ神社の、お社の中ですわ」

 混乱しかけた彼女を落ち着かせる為、エリーは柔らかい声でそっと言った。それから説明をする。ここを出て真っ先に警察に向かったが、既に悪魔の襲来を受けておりほぼ壊滅状態だった事、町中至る所に悪魔が溢れている事…それを聞き、彼女の血の気の引いた顔がますます青ざめた。

「そんな――ああ…どうすればいいの……」

 絶望に光を奪われた瞳が虚空をさまよう。唯一の望みを断たれた彼女は完全に正常さを失っていた。

「誰か……誰か神取を止めてちょうだい……」

 高熱におかされた病人のように震える唇で呟く。

「!…神取だと?」

 まるで禁じられた忌み言葉を口にするような嫌悪の表情で、南条は聞き返した。

「神取とは、あのセベクの神取のことか!」

 語気荒く吐き捨てる。

「おばさま、しっかりなさって。神取とは誰なんです? 町の異変と関係があるんですの?」
「ええ……ええそうよ。あのシステムを作動させて――ああひどい! こうなる事は分かり切っていたのに、あの男は……!」

 襲い来る絶望から少しでも身を守ろうと、彼女は両手で顔を覆った。

「おい南条、神取って誰よ。セベクとかシステムがどうとか、何の事だ?」

 彼女からこれ以上事情を聞き出すのは不可能に思ったマークが、小声で南条に問いかける。だが、正常さを欠いているのは南条も同じだった。

「神取…あの男が! 奴ならやりかねん!」

 マークの声も聞こえぬ様子で、憤怒の表情を露わにする。

『神取鷹久!』『こんな大それた事を思い付く人間など、他に思い当たらん!』『最低最悪の屑男……!』

 心の中で思い切り毒づく南条の思考の断片が、真物の心を過ぎる。あまりにどぎつい景色に、軽い吐き気さえ覚える。

(神取鷹久……デヴァシステム……悪魔)

 無関係を装いたがる自分を抑えて、真物は心に刻み込むように繰り返し呟いた。

「オイ、落ち付けって南条。とにかくその神取って奴を止めりゃいいんだろ?」
「そんな危険な事……! 止めてちょうだいあなたたち」

 彼らが会おうとしている人物がどれほどの狂気を秘めているか、嫌というほど知っている彼女は、何とかして彼らを引き止めようと言葉を続けた。

「この異変は始まりに過ぎないの! あの男の…本当の目的は――!」

 しかし言葉半ばでついに力尽き、彼女はがっくりと崩れるように横たわった。

「とにかくどこかで手当てしないと!」

 一刻を争う事態に、ゆきのは焦れたように立ち上がった。

「学校が一番近いですわ。行きましょう」
「そうだな。じゃあシン、後は任せたぜ」

 きっと眦を上げ、マークは言った。
 後は任せた…言葉の意味を理解するより先に、いきり立つマークの思考が鮮烈なイメージとなって頭に流れ込んでくる。

「そんな……」

 引き止めるつもりの、およそ自分らしからぬ言葉が唇から転げ出る。
 それより先に南条が口を挟んだ。

「待て稲葉。俺も行こう」

 その顔には、ひどく思い詰めた果ての無表情が浮かんでいた。

「ちょっと、あんたたち?」

 様子がおかしいのに気付いたゆきのが、訝しそうに言った。

「ちょっくらヤキ入れてくらぁ。バカげたマネしやがって、許さねえぜ」
「いくら私たちにペルソナの力があるとはいえ、過信するのはよくありませんわ」
「止めてもムダだっての」

 片手を振って、マークはエリーの言葉を跳ね返した。

「たった二人で、何が出来ますの?」
「英里子の言う通りだよ、あんたたち。少し頭を冷やしな」

 二人はマークと南条を引き止めようと宥めすかした。
 説得する人たちと首を振る人たちを目の端に映し、真物は傍観者を決め込んだ。セベクに向かおうとしている二人の気持ちは、どんな言葉をもってしても決して変えられないだろう。それが証拠に、彼らの感情の高ぶりはもはや聞き取れないほどに荒々しくうねり、渦巻いていた。
 これ以上話していても時間の無駄と、マークと南条は先を争うように社を飛び出していった。

「まったく男ってのは! 残される方の気持ちなんて少しも考えないんだから!」

 心底腹を立てた様子でゆきのが零す。

「マークはともかくKeiが一緒ならばそれほど無茶はしないと思いますわ。少し様子を見たら、戻ってくるでしょう」
「だといいんだけど……」

 開かれたままの木戸から外を見やり、ゆきのは言い淀んだ。以前の南条ならば、こんな無謀な真似はしなかったはずだ。度が過ぎるほど慎重で冷静で、時に冷徹とまで見えた南条を変えてしまった惨劇を…思うと、もう二度と南条たちは帰ってこないのではないか。そんな不吉な予感が胸を過ぎるのを、ゆきのは拭えずにいた。

「仇を取りたい気持ちは分かるよ。けどさ…死んじまったらどうしようもないだろうに……」

 いなくなった二人に向けて、ゆきのは囁いた。
 遠くに見える空はどんよりと重く、墨色の雲で覆われていた。

「私たちは学校に戻りましょう。真物、お願い出来るかしら」
「ああ……」

 わずかに頷いて、真物は二人をかすめ見た。
 ここにいる男手は自分一人、となれば当然自分が彼女を背負うなりして運ぶべきだろう。しかし…接触が怖いのだ。
 何が見えるか。
 何が聞こえるか。
 知りたくもないそれらに触らなければならない事が、怖いのだ。
 小さく息を飲んで、それから真物は思い切って彼女に触れた。
 意外な事に何も聞こえなかったし見えなかった。
 気を失っているからだろうと、真物は内心大げさなほどほっとした。
 未だ意識の戻らぬ麻希の母親をそっと抱き起こすと、真物は二人の手を借りて背に負った。
 立ち上がる動きが傷に障ったのか、かすかに呻きが漏れた。

「おばさま、もう少しの辛抱ですわ」

 エリーが励ましの声をかける。

「あたしらが後ろ支えてるから、いいよ見神」

 頷いて応え、真物は静かに歩き出した。
 まだ昼下がりの時間帯だというのに、辺りは夕暮れ近くの薄暗さに沈んでいた。
 歩きながら真物はふと、マークと南条はどこへ行ったのだろうと思った。

 

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