GUESS 赤 1
潜む者
夏休みが始まって数日経ったある日、陽介の母親から電話があった。 それまでも一、二度、彼女とは話をした事があった。向こうはこちらの事をよく覚えていて、声や話し方がすっかり大人びてきたとか、これからも陽介と仲良くしてやって欲しいといった、いかにも母親らしい内容だった。 彼女も、昔を知る一人なのだが、それでも変わらず自分と話をし、陽介を頼むと言ってくれるのはありがたかった。 彼女の声は一度聞いたら忘れられないくらい溌剌としていたのに、最後に受けた電話の時はまるで別人のように弱々しくかすれていた。涙声ではあったが、泣きはしなかった。 小一時間ほど話をしただろうか。どんな些細な事でも、思い当たる事があったら必ず連絡すると約束して、電話を切った。 彼女と話をした事で、陽介の失踪はより一層現実味を帯びて真物を襲った。理解していなかったわけではないが、今一つ実感が湧かなかったのだ。 頭のどこかで、大袈裟な冗談だと思いたがっていたのだろう。 事実を理解する能力がないわけでもないのに。 |
その日も、明け方からやけに湿度の高い気候だった。 誰かの怒りが太陽の光に変化したような、まるで閃光のような陽射しが、カーテンの隙間から部屋に差し込んでじゅうたんを真っ白に浮き上がらせている。少しでも寝苦しくないようにと開けておいた窓からはそよとも風は吹き込まず、部屋の中はどんよりと重い空気が立ち込めていた。 ベッドの上でまどろんでいた真物は、うなされたように寝返りをうった。 夢の中で真物は、誰かの後をついて歩く影のような希薄な存在になっていた。 けれど自分は、夢の中にいるという実感はなく、日常と同じくらい普遍的な現象として受け入れていた。 夕闇迫る路地を、母親と手を繋いだ男の子が歩いていくのが見える。彼女のお腹の中には、真新しい命が育ちつつあった。大きなお腹を抱えた母親と子供の三人は、楽しげに童謡を歌いながら家路につく。 影のようにひっそりとついてゆく真物は、子供の名前も、これから生まれてくる命につけられる愛らしい名前も知っていた。 この時の自分が、いかに幸いであったかもよく覚えている。 子供が、母親を見上げて恥ずかしそうに何か言った。母親は美しい微笑みを浮かべて、じっと耳を傾けていた。 僕ね、あのね、生まれてくる赤ちゃんがね、男の子でも女の子でもね、もう名前考えてあるんだよ。 本当? どんな名前にしたの? だめ。今はまだ内緒なの。だって、いちばん最初は赤ちゃんに言ってあげるの。お父さんとお母さんはその後なの。 あら。……は意地悪ね。 違うもん。僕はお兄さんになるんだから、意地悪なんかしないもん。これは決まりなの。 子供が母親と交わす言葉を自らも口の中で呟きながら、真物は二人をじっと見つめていた。 やがて三人は三階建ての小奇麗なアパートにたどりついた。母親が財布から鍵を取り出し、子供が待ちかねていたように家の中に飛び込む。 アパートの門から彼らを眺めていた真物は、目の前のレリーフに気付いてふと目を向けた。 『カーサ乾』の浮き彫りが刻まれたレリーフに、髪の長い少女の姿をした自分が映っていた。 その瞬間の驚愕を、言葉でどう表現すればよいのだろうか。 レリーフに映った自分の姿を認めまいとする気持ちが、真物を突き動かした。弾かれたように踵を返し、力の限り走って逃げる。唐突に、足の裏に感じられていた地面が失われ、真物は何もない空間にまっさかさまに落ちていった。 ベッドの上に横たわる真物の足がびくりと震える。 はっと目を見開き、真物はぼんやりと天井を見つめた。視界の端がぼやけて見えるのは、まだ夢現の状態だからか。 だんだんと思考がはっきりしてくるにつれて、真物は背筋が凍るほどの悪寒に見舞われた。嫌な夢を見た。何か嫌な、とても恐ろしい夢。見た事は覚えているのだが、それがどんな内容だったか、切れ端さえも思い出せない。 けれど、震えがくる程の嫌悪感は拭いきれない。 真物はだるそうに身体を起こし、それからはっとなって机の横の鏡に駆け寄った。 鏡を見る寸前恐怖が舞い戻ってきたが、しまったと思っても既に遅かった。大きく見開いた眼で、鏡に映る自分と対峙する。そこに映っているのが紛れもなく自分自身である事に、真物は大袈裟に安堵した。疲れ切ったため息をついて、目を閉じる。 そこへ、部屋の扉をノックする音が割り込んできた。呼びかけに応えると、髪の長い少女が扉の向こうから現れた。 「洗濯物あったら一緒にかけちゃうから、忘れずに出しておいてね」 優しく響く声で、彼女は兄にそう言った。 「霧子……?」 妹に呼びかけた自分の声が疑いの響きを含んでいる事に自分自身驚いて、真物はぎこちなく瞳を揺らして彼女を見つめた。 「どうかした?」 訝しそうに首を傾げる霧子の顔を見ていると、言い知れぬ焦燥感が湧き上がってくる。何かが分かりかける。夢の内容と共に、何者かが無言で語りかけてくる声が聞こえてくるように思えた。 それは、自分自身の中に存在する「彼女」に他ならなかった。だが真物は内側の声を一切無視して、断ち切るように軽く瞬きした。 「うん……別に」 「最近寝苦しい夜ばっかりだから、疲れているんじゃない?」 親友が行方知れずになった事は、霧子も知っていた。直接その事には触れず、自分を気遣う霧子の言葉に、真物ははっとなった。他の誰よりも、霧子にだけは余計な心配をさせたくなかった。ささやかに聞こえてくる霧子の思考の断片に触れて、真物は自責の念にかられた。 「夏休みなのに疲れるなんて、天邪鬼もいいとこだよな」 冗談めかして頭をかく。 「ホントだよ」 霧子は明るく笑いながら去って行った。 「あそうだ、祥子さん今日はちょっと遅くなるかもって」 しかしすぐに戻り、先程聞いた言伝を口にする。 祥子というのは、母の姉で、自分たち兄妹の親代わりになってくれている女性の事だ。自分が五歳、霧子が二歳の時からずっと一緒に暮らしている。 「うん、分かった」 「じゃあ、もうすぐご飯出来るから」 一人になった真物は、気付かぬ内に触れていたピアスからはっと手を離し、自分の顔を確かめるように頬を触った。 |
うんざりするほど長い時間を虚無に過ごした真物は、訳もなく苛立つ自分にもどかしさを感じていた。 待っているだけでは何も起こらない事は充分理解していた。全く何も考えていない訳ではない。どうにかしたいと思ってはいるが、どうすればいいのか、どこへ行けばよいのか。まるで手がかりすらない。 かけらさえ残さずに消えてしまった陽介と千里を探す事を、諦めた訳ではない。けれど、今までこれほど他人に執着した事のない真物にとって、始まりの行為を見付け出す事は困難だった。 何かあっても何もなくても、時間は同じように過ぎていく。焦りを募らせながらも、手のひらから芥子粒のように零れ落ちていく時間をとどめておく事が、誰にも出来ないように、真物にもまた出来なかった。 そうして一日は確実に過ぎ去っていき、次の日もまた同じように、また次の日も、その次も、滞る事無く、たわみもせず、流れていく。 二人が姿を消してから、既に二ヶ月が経とうとしていた。 |
終業のチャイムと同時に、教室内は一斉に騒がしくなった。土曜日の最後の授業という事もあって、ほとんどの生徒たちは後半からすでに帰り支度を始めていた。 数学の教師が出て行くのと入れ替わりに冴子が教室にやってきて、いつものように短めのホームルームを始めた。 体育祭の日程を記したプリントを配り、必要事項だけを述べると、冴子はホームルームをしめくくった。 待ちかねていたように、数人の男子生徒が我先にと廊下に飛び出した。 その勢いの邪魔にならないように、真物はしばらく待ってから教室を出た。 昇降口の扉の前でふと立ち止まり、肩越しに中庭を振り返った。今夜にも台風が上陸するという予報どおり、湿った空気が渦を巻いて草木をなでつけていた。扉の隙間をすり抜ける風が、二重の響きを上げて廊下に吹き込んでくる。 (今にも雨が降りそうだな……) 不気味な色をした空を、灰色の雲が物凄い速さで流されていく。 「雨降りそうじゃん! 私今日カサ持ってきてないよ!」 「じゃあ今日はジョイ通寄るのよそっか?」 次々に下校していく生徒達の喧騒を何気なく聞き流していた真物は、やがて諦めたように小さなため息をついた。 昇降口の扉に手をかけた時、突然左の耳にちくりと痛みが走った。開けてから大分経つのに、ピアスをした部分がかすかに痛む。もしやと思い、そっと触れてみるが血は出ていない。 (何だろう…何か、声のようなものが……) 気のせいだと思いたかったが、それにしては余りにも気配が濃いのだ。遠く離れた場所から大声で呼びかけられているような、かすかだが無視出来ない人影。 目だけで辺りを見回し、空間そのものに溶け込んだ何者かの意識を探り出そうとした。 その時。 「見神クン待って待って!」 背後から自分を呼び止める声が聞こえてきた。 「悪い悪い、もう帰るとこだった?」 邪魔された事に対する微かな怒りを、無表情で巧みに包み隠して真物は振り返った。見ると、一人の男子生徒がこちらに小走りで駆け寄ってくるのが目に入った。 上杉秀彦…ブラウンという愛称で呼ばれている、例の赤毛の生徒だ。 黄色いグラスのゴーグルがトレードマークの、見た目通り派手好きな性格。 真物の目には、誰彼構わず声をかけ、都度賑やかに話を盛り上げる騒がしい人物としか映らなかった。その割に、彼の思考の断片には触れた事がない。きっと、心の中ではまるで別の事を言っているからだと、真物は思っていた。 「そんな怖い顔しないでさぁ」 ブラウンの何気ない一言に、感情が顔に表れていたのかと真物はぎくりとした。 「ってのはジョーダン、こっちに置いといて、と。いや、実はさ、うちのクラス体育祭の準備まだ終わってないのよ。放課後手の空いた生徒は手伝うようにーって冴子先生が言っても、クラスの連中付き合い悪くってさ。これが中々はかどんないのよねー。でさ、今日も、五、六人くらいしか残ってなくって。ゆきのさんが、一人でもいいから四組の人間連れてこいーってんで、オレ様駆けずり回ってるってわけ。お分かりいただけたかしら?」 目だけでかすかに相槌を打つ。 「もしこの後見神クン用事ないんなら、オレ様助けると思って、一緒に来てくんない? お頼みます!」 両手を合わせて必死に頼み込んでくるブラウンに、真物は曖昧に頷いた。人の多く集まる場所は正直苦手だったが、家に帰り着く時間が遅くなるならと引き受ける。 「マジ? サンキュ! じゃオレ様他にも残ってるヤツいないか探してくるわ」 片手を上げて走り出そうとするブラウンに、真物は小さく目を見開いた。 「え? ああ、場所ね。そこ曲がったすぐの空き教室にみんな集まってるから。んじゃ、よろしくぅ」 言うが早いか、ブラウンは駆け出して行った。 空き教室 使われなくなって久しいそこは、普段は物置部屋として使われているが、今は一時的に2―4が体育祭の準備の為に使用していた。 そこに向かう途中、真物はふと窓の外に目をやった。暴風にあおられて揺れる草木の間を、一匹の輝く蝶が飛んでいた。 真物の頭の中に、蝶は別名夢見鳥とも呼ばれているという記憶が過ぎった。 吹き荒ぶ風を器用にかわして、上へ下へと気ままに飛ぶ様は、まさに夢見鳥の名にふさわしかった。 扉を開けると、中にいた生徒が一斉に目を上げて真物を見た。だが真物は、彼らよりも窓際に立てかけられた一枚の大きな看板にまず目がいった。 「あれ? 上杉は一緒じゃないのかい?」 床に広げた垂れ幕に文字を書き込んでいた黛ゆきのが、真物を見るなりそう言った。 「他にも残っている人がいないか、探しに」 ゆきのの肩の辺りに曖昧に視線を向けて、真物は答えた。視線はそのままに、集まっているメンバーをそれとなく見やる。 ゆきのの傍で別の垂れ幕に色を塗っているのが南条圭。彼については、地元では有名な資産家の息子という程度しか認識がない。銀縁の眼鏡が冷たい印象をもたらし、話す時は必ず口の端を歪める癖があった。もっとも、彼と直接言葉を交わした事はほとんどない。 「あいつ、まさかバックレたんじゃないだろうね」 ゆきのはやれやれといった風に首を振った。 「しょうがない。じゃあさ、英理子たちの手伝ってやって」 名前を呼ばれて、本人…桐島英理子が顔を上げた。向かい側に座るアヤセ…綾瀬優香が、何か言いたそうに目を向ける。二人は向かい合わせに並べた机に座り、紙の花を作っていた。足元の段ボール箱には、出来上がった花がかなりの量積まれていた。 真物が近付くと、英理子はにっこり笑い立てかけてあるアーチを指差した。 「早速で悪いんですけれど、縁に花を貼り付けていってくださるかしら」 ぐるりと取り囲むように そう言って英里子は机の中から両面テープを取り出し、真物に手渡した。 受け取って真物は、ちらりと窓際の立て看板に目を向けた。 「アンタが来るなんて珍しいじゃん」 アヤセが、正直な感想を口にした。その言葉に、真物は無表情で応える。 アヤセは、始業式の日に体育館で見たとおり普段もうるさいほど賑やかな人物で、イマドキの、といった言葉がよく似合う性格をしていた。 それ以上何も言われないのを確認してから、真物はアーチに向き直った。 単純作業を繰り返していると、ふと、誰かの思考の断片が真物の耳に飛び込んできた。 『前から気になってたのよね、あのピアス』『縁のデザイン、可愛いな』『どこで買ったんだろう』 (これは…桐島さん?) 確信が持てなかったのは、普段の話し方の癖と大きくかけ離れているせいだった。 長い事海外で暮らしていたという彼女は、会話にもよく英単語が飛び出し、日本語も独特のアクセントで話す。丁寧すぎる言葉遣いも、彼女の口から出ると何故か嫌味にならず、心地好く耳に響いた。けれど、今聞こえた声は、アクセントに特徴があるものの他の女子と変わらない、砕けた喋り方をしていた。 じっと耳を傾けながら、真物はピアスを隠したい気持ちを何とか押しとどめた。英理子の気が他に逸れる事を祈ったが、果たして祈りは何にも通じなかった。 「ねえ真物、あなた変わったピアスをしていますのね。見せてもらっても構わないかしら」 英理子の言葉に、怒りに似た感情が胸の内に沸き起こった。無表情を装って振り返り、真物は曖昧に言葉を濁した。 「いや、これは……」 時折、引き千切りたくなる衝動に駆られる。今もそうだった。隠すように手を当てて、真物は口ごもった。 「ひゃー、すっきりしたぁ!」 そこへ、すがすがしい顔でマーク…稲葉正男が教室に入ってきた。 「さぁーて、仕上げちまいますか!」 大声で自分に号令をかける。水に濡れた手を無造作に振って、マークは教室を横切った。 「待て、サル!」 窓際の立て看板と向かい合ったマークに、唸るように南条が声をかけた。 「なんだてめぇいきなり! 誰がサルだ!」 今にも噛み付かんばかりの剣幕でマークは振り返った。頬を拭いながら、南条も負けじと立ち上がる。 「飛沫がかかったぞ! 手ぐらいきちんと拭け! ハンカチはないのか?」 「あぁ? なんでぇそんな事か。別にいいじゃんよ。んな細かい事は」 あっけらかんと言い放って、マークは殊更大袈裟に手を振ってみせた。 「やー! 稲葉サイテー!」 あからさまに顔を歪めて、アヤセが非難の声を上げる。 「いいわけなかろう! しかも貴様、人に飛沫をかけておいて、謝罪の言葉もなしとは。これだからサルは困るな!」 殊更大きな声で、南条は挑発するように言った。 「あーのーなー! 何度もサルサル言うなっての。てめぇが言うとマジムカツクんだよ!」 「サルにサルと言って――」 「はいはい! もうそれぐらいにしときな、二人とも!」 マークと南条の小競り合いを、毎日嫌というほど耳にしているゆきのは、今もまた収集がつかなくなりそうな予感がして、鋭い声を上げた。 「毎日よく飽きないよねー。バッカじゃないの?」 嫌味たっぷりにアヤセが言った。 話題が逸れた事に内心ほっとして、真物は作業を続けた。 「そうですわね」 アヤセの吐いた『バカ』の二文字に苦笑いを浮かべつつも、英理子は頷いた。 「稲葉、あとちょっとでそれ仕上がるんだろ。だったらとっとと終わらせな」 「へいへい」 渋々頷いて、マークは床に置いたスプレー缶を持ち上げた。 原色のみの大胆な絵柄、迫力のある構図、細かい部分まで手を抜かず、独特のセンスを感じさせる立て看板は、マークの描いたものだった。彼の授業態度はお世辞にも良いとはいえず、事ある毎に南条と言い争いをしている姿からは想像もつかないが、特出した絵の才能があった。 同一人物とはどうしても信じがたいが。 (なんて…勢いのある絵だろう) 迫力に圧倒され、真物はじっと見入った。 「でもさー、稲葉がそんだけ絵が上手いのって、ある意味意外だよねー」 紙の花を作るのに飽きたのか、作りかけをぽいとほっぽりだして頬杖をつき、アヤセは言った。 「オマエ、それ絶対バカにしてるだろ」 「珍しく褒めてやってんだから、素直に聞きなさいよねー」 「あーあーはいはい。どうもありがとうございますねー」 綾瀬の声に被せるように言って、マークはスプレー缶を上下に振った。 「オレらのクラスにさ、見神っているじゃん? あいつも、結構面白い絵描くんだぜ」 縁取りした文字に色を付けながら、振り返らずにマークが言った。 突然自分が話題に登った事に驚き、真物は唖然とした表情でマークを見つめた。 「それに見神って、知ってるヤツの間じゃ結構噂になってるし」 『タッチが独特で、好きなやつはすごく好き』『確か園村と同じ美術部員だったはず』『見た事あるのは確か馬の絵だったっけ』『中庭で、よく何か描いてるんだよな』 彼の心の中に次々と浮かんでくる自分に対する感想が、数枚の止め絵と共に目の前に繰り広げられるのを真物は目にした。いつ描いたものか、記憶もあやふやな馬の絵に対するマークの評価は、悪からぬものらしく、少しばかり美化されて思い出された。 (他人の目を通して自分の絵を見るのは初めてだ……) あまりの気恥ずかしさに、真物は言葉を失った。 英理子がにこやかな表情で見つめてくる。一瞬目が合ったが、真物は慌てて視線を逸らした。彼女の彫りの深い特徴のある顔は、さすがに異国の血が混じっているだけの事はある。同年代の女子と比べると、彼女は物腰もさることながら、眼差し一つとってもかなり大人びている。 エリーという愛称も、よく似合っていた。 「見神の絵って、なんつーか…ソウルを感じんだよな。結構好きなんだ、ああいう絵」 次々と色を重ねながら、マークは独り言を続けた。 「でさ、色使いや背景の描き方とか変わってて、とにかく面白いんだよ。確か馬の絵はあれ、水彩絵の具で描いたと思うんだけど、色の出し方っつぅか、とにかく線が――」 「ねー、稲葉ぁ」 こと絵に関しては人一倍思い入れがあるのか、マークは夢中になってあれもこれもと話し続けた。それを遮って、アヤセが口を開く。半ば呆れたような声だ。 「あん? なんだよ」 いい気分で話していたのにと、マークは不機嫌そうな声を上げた。 「いるよ? 見神」 面倒そうにマークが振り返るのと、アヤセが真物を指差す動作が重なり合う。 「がっ…!」 と口を開けたきり、マークは言葉を失った。 マークの反応のあまりのおかしさに、エリーがくすくすと含み笑いをもらす。 その時教室の扉が開いて、ブラウンが入ってきた。 「あねご〜、やっぱダメっす。みんなとっくに帰っちゃってました」 情けない声を上げて、ブラウンは大袈裟にため息をついた。 「ちょっと、誰があねごだい!」 きっと眉を吊り上げて、ゆきのが怒鳴る。 タイミングよく割り込んでくれたブラウンに感謝して、マークはほっと息を吐いた。 「そう、しょうがないね……」 マジックを床に置いて、ゆきのは思案するように腕を組んだ。 「あねご! オレ様グッドアイディア! ひらめきましたです、ハイ!」 いきなり高々と手を上げて、ブラウンは張り切って叫んだ。 「なあ…見神」 飾り付けに戻ろうとした真物を、マークが手招きで呼び寄せる。マークの思考の断片を聞かないように心を遮断して、真物はゆっくりと歩き出した。 「全然気付かなかったのは謝るけどさ、さっきのアレ、噂っつっても別に、悪口とかってんじゃないぜ」 ひしと手を合わせ、囁き声でマークは弁解した。それを証明するように、先ほど心に思い浮かべた感想を正直に告白する。 頭に『バカ』がつくほど正直なマークに、真物は少し好感を抱いた。がさつで乱暴な言葉遣いをする事はあっても、まるで分別のつかない人間ではないようだ。 まっすぐ相手を見つめるマークの目にも、不思議な力を感じた。 この瞳で物を見て、絵を描くのか。 そう思った時、真物は、彼の絵に力が漲っている理由が分かったような気がした。 「ちょっと上杉、アタシはそんなモノ信じちゃないんだけど……」 ブラウンの閃きとやらを耳にしたゆきのは、抗議の声を上げた。 「アヤセそれ知ってるー! ペルソナ様遊びでしょー?」 びっくりするほど大きな声を上げて、突然アヤセが立ち上がった。 「はぁ? ペルソナ様だぁ?」 訝しそうにアヤセに目を向けるマークにつられて、真物もわずかに振り返った。 「あれ? 稲葉は知らないの?」 「なんだそれぇ?」 名前からしていかにもうさんくさい遊びである事を直感したマークは、頭の中身を心配するようにアヤセを眺めた。 「おや? マークは初耳? 今学校で一番流行ってる遊びなんだぜぇ!」 すっくと立ち上がったブラウンが、得意そうに人差し指を横に振って言った。 「んなの聞いた事もねぇよ。それが何だってぇの?」 全く乗り気でないマークは、つまらなさそうに聞いた。 「ペルソナ様をすることによって、人は自分の未来を見る事になる……!」 突然真面目な顔で天を仰ぎ、やや芝居がかった声でブラウンは拳を振り上げた。 「まぁたくだらない事言い出しやがって…なんじょー、オマエ知ってる?」 うんざりしたような顔付きで、マークが南条に声をかけた。 「知るわけなかろう。下らん質問をするな」 周りの声を一切無視して一人黙々と作業していた南条は、わずかも顔を上げずにべも無く言い放った。 「あー、さいですか。どうもすみませんねー!」 半ば予想していた通りの答えが返ってきた事が逆に面白くないのか、マークは思い切り顔をしかめて言い返した。そもそも南条に聞く事自体が間違いではないかと真物は思ったが、それを敢えて行うマークが不思議でならなかった。 「んじゃ見神は? 聞いた事あるか?」 「いや……」 振り向きざまにマークが問う。 まさか自分にも聞かれるとは思っていなかった真物は、驚いて首を振った。初めて聞く遊びだった。「ペルソナ」の言葉の意味は知っているが、内容については見当もつかない。 (自分の未来を……? 本当にそんな事が……) マークとブラウンの姿を交互に見つめながら、真物は興味を覚える自分に戸惑っていた。 そして気が付けば、八人目の気配がすぐそこまで迫っているではないか。それは、先程昇降口で感じたあの人影に他ならない。 「でもよ上杉、そんなんで未来見えりゃ、誰も苦労しねぇっての。オマエ、頭あったかくなってねぇ?」 心底心配しているような表情で、マークは聞いた。 「なんの、未来云々ってのはちょっと言い過ぎ、オレ様上杉、は置いといて……」 「バーカ! 一度死ね!」 頭を押さえて、マークが叫ぶ。 「いーから聞けって。未来は見えないにしても、超常現象バリバリなのは間違いないっす!」 両手を腰に当てて、ブラウンは得意そうに胸を張った。 「ねぇねぇ、やろーよ!」 すっかり乗り気のアヤセが、大はしゃぎで立ち上がる。 「あーん? あんまし興味ねぇよ」 目深に被ったニットキャップ越しに頭をかきながら、マークはブラウンを見た。 「よーし、じゃあこうしよう。ピースダイナーで食い放題賭ける――ってのはどうよ!」 人差し指を立てて、挑発するようにブラウンが言った。 「何?」 それを聞いて、マークの目の色が変わった。痩せの大食いとでもいおうか。マークは一度にかなりの量を平らげる。しかも、ピースダイナーは彼の大のお気に入りだ。 「何も起こらなかったら、好きなだけおごるぜ?」 この時点ですでにマークは、ブラウンのペースに乗せられていた。 「その代わり! ちょっとでも異変があったら、オマエがオレ様におごる!」 「いいぜ。その話乗った!」 『何も起こるわけねぇじゃん。食い放題はオレのもんだぜ』『ったく、もう少しましな事言えよな、上杉もよぉ』『桐島までその気になっちゃって』 (いや…何かが起こる。確実に……!) マークの思考の断片に、心の中で反論する。真物は全身の毛が逆立つ思いだった。いよいよ姿を現そうとしている何かを、瞳を凝らして見つけ出そうと、意識を集中した。 マークとブラウン、どちらも得意げな笑みを浮かべてお互いを見ている。 「わーい! じゃアヤセ上杉に乗るー!」 「私もブラウンに」 アヤセとエリーの二人が、ちゃっかり尻馬に乗ってきた。 「なんだよ、んじゃシン、オマエは?」 黙って成り行きを見守っていた真物に向かって、マークが問いかけた。耳慣れない呼び名は、自分につけられたあだ名のようだ。 「ああ……上杉君に」 (来る…何かが、もうそこまで来ている!) 「おい〜、マじかよぉ。オマエまで」 呼吸すらままならなくなった胸を押さえて、真物は現れるのをひたすら待った。 「まさかとは思うけど、あんたらホントにそれやるつもりなのかい?」 半ば呆れた様子で、ゆきのは肩を竦めた。 「当たり前じゃん。ここまで言われて今更やめれるかっての。で? ゆきのはどっちに賭けんだ?」 大仰に腕を組んで、マークが頷いた。 「モチロンオレ様っすよね、あねご!」 親指を立てて得意そうにブラウンが言った。 「あねごは止めなって。あたしゃやらないよ」 「……あ、そう。じゃ南条くんは? やっぱオレ様?」 顔を覗き込むように腰を折り曲げて、ブラウンが問いかける。この時も、ちらりとも目もくれず南条は面倒くさそうに吐き捨てた。 「右に同じだ。馬鹿馬鹿しくて付き合いきれん」 「ケッ。相変わらずさめたヤローだぜ。いーからとっとと始めろよ」 止めたい気持ちと、結果を知りたがる自分…相反する二つを両脇に立たせたまま、真物は黙っていた。 ルールは至って単純で、降霊術のスクエアに似ていた。部屋の四隅に立った四人が一人ずつ「ペルソナ様」に呼びかけながら壁沿いに移動し、四人とも行動を終えた時点で何かが起こるというものだ。 「お分かりいただけた? よっし、んじゃあ始めましょうか!」 ブラウンの掛け声と共に、アヤセが一番手となって歩き出した。次いでブラウンが壁沿いに移動し、人数合わせに無理やりメンバーに加えられ、ごねるマークを宥めて先に進ませる。四番手はエリーだった。 「さあ来るぞ!」 エリーが足を止めた途端、ブラウンが期待と興奮に満ちた声で張り叫んだ。 しかし、いくら待っても物音一つ聞こえてこない。 「……あ、れ?」 きょろきょろと辺りを見回し、何の異変も起きていないのが確認されると、ブラウンは慌てた様子で言いつくろった。 「ちょ、ちょっとタンマ! なしなし、今のなし! マークが入ってたからダメだったんだな? おいー、オマエらもっとやる気出せよぉ!」 「おい、往生際が悪すぎるぞ!」 マークは腕を組み、ブラウンを追い詰める体制に入る。それをゆきのが制する。 「さあ、これで気が済んだだろ。早いとこ残りの……」 「来た!」 ゆきのの言葉を遮る形で、真物は半ば無意識に叫んだ。六人は驚いて一斉に真物を振り返る。目立つような真似はしたくなかったが、この時ばかりは構っていられなかった。 『……たすけて…誰か…お願い! ここへ来て!』 最初は空耳かと思うくらいかすかな声が、徐々に地鳴りのような大音響となって真物の精神を揺さぶった。 突如蛍光灯が不自然に点滅したかと思うと、部屋のあちこちで奇妙な音が弾けた。 「ラップ音? ポルターガイストかしら」 やや興奮気味に、エリーが天井を見回しながら呟いた。 「おいシン、一体何が来たって……」 動揺を隠し切れず、マークが震える声で真物に問いかけた。 「あ、あれ見ろ!」 素っ頓狂な声を張り上げて、ブラウンが黒板の方を指差した。 ぼんやりと浮かび上がる小さな人影が、そこにはあった。半ば透き通ったその姿は、見た目五、六歳くらいの、白い服を着た少女のようだった。 「まあ、なんてことでしょう!」 さながら素敵な贈り物をもらった少女のように声を上げて、エリーが瞳を輝かせた。 「ウソ…だろ?」 茫然自失といった感じでマークが呟いた。 「ホラ、な? オレ様の言ったとおりだろ…この前と大分違うけど……」 蚊の鳴くような声でブラウンが口ごもる。 「この前は音だけでしたのに、驚きですわね」 ブラウンとは対照的に、好奇の眼差しを向けてエリーが囁く。 まるで信じがたい光景に、ゆきのも南条も声が出なかった。アヤセはエリーに似て好奇心が強いのか、怖がる様子も無く幻のような少女をじっと見つめている。 離れているにもかかわらず、真物は少女の顔が目前に迫っているような錯覚に陥った。 「たすけて…たすけて……」 肩を震わせて泣きじゃくる少女は、嗚咽に混じって必死に助けを求めた。 『ごめんなさい…こんなことになってしまうなんて、わからなかったの……』 姿は透き通って見えるが、少女は幻ではなかった。その証拠に、彼女の心の声もはっきり聞き取る事が出来る。霊と交信した事はないが、今聞こえている声は紛れもなく生きている人間のものだ。根拠は無いが、真物はそう確信した。 (この子供、どこかで見た事がある……) 真っ黒で艶やかな髪、頭のてっぺんで結んだ赤いリボン、白いレースのワンピース、大事そうに抱えている熊のぬいぐるみ。 それら一つ一つをゆっくり目で追いながら、真物は記憶を呼び覚まそうと集中した。確かにこの少女には見覚えがある。あるはずだ。なのに、何故か思い出せない。よく知っている人物のはずなのに、ぽっかり抜け落ちたように片鱗すら見当たらない。 (誰だ……!) 睨むように少女を見据えたその時、室内の蛍光灯が一斉に火花を散らせた。 「みんな、気を付けな……!」 叫ぶゆきのの中心を、青白い一筋の光りが突き抜けた。短い悲鳴を上げ、ゆきのはその場に倒れ込んだ。 目の前で崩れるように身体を横たえるゆきのを目にして、真物は驚きを隠せず少女を振り返った。その途端、吐き気をもよおすほどの重圧に見舞われ、目の前が真っ黒に染まる。 「……!」 声を上げる間もなく、真物は一瞬の内に気を失った。 少女の泣き声だけがこだまのように耳に響き、突然途切れた。 |
後方から、玉乗りをしながらたくさんのお手玉を器用に操り、赤毛のピエロがやってきた。ピエロは時折失敗しては、滑稽な動作で笑いを誘った。口元は大笑いのメイクで彩っているのに、頬に大きな一粒の涙を描き込んでいる。その姿は、まるで彼の心を表しているようだった。 それらを目にしながら、真物は奇妙な浮遊感を味わっていた。上か、あるいは下に向かっているような気もする。 その時、一匹の蝶が目の前をかすめた。輝く金色のリン粉に覆われた二対の翅をはためかせながら、気紛れに上へ下へと飛んでいる。 姿形、はたはたと飛び回る様は、この世のものとは思えないほどであったが、不思議と美しいとは感じなかった。 これは、本当に蝶だろうか。 ふと真物の頭に疑問が浮かび上がった。実際にはあれは蝶なんかではなく、全く別のもので、しかし認識出来ずに蝶だと思い込んでいるだけではないだろうか。 一匹、また一匹とどこからともなく飛んでくる金色の蝶に目を奪われたまま、真物はぼんやりと立ち尽くしていた。 やがて、数え切れないほどの蝶が辺りを埋め尽くし光りに変えた。 太陽さえも眩む強烈な光に、真物は思わず目を閉じた。 次に目を開けた時、そこは、薄墨を流したようなほのかな明かりに包まれていた。そんなに小さくはない部屋の中にいるのは分かったが、どんな部屋なのか見極めようとしても、何故か目に映るもの全てが紗がかかったように霞んで見える。しかも、立っているのか横になっているのかそれすらも定かでない。上下の区別がまるでつかないのだ。 そこで唐突に、真物の視点がある一点に集中した。カメラのピントを合わせたように、他のものは一切ぼやけて見えるのに、その一点だけはくっきりと浮かび上がっている。 真物はぎょっとなってわずかに身を引いた。 一切の表情をなくした白い顔が仮面であると分かり、真物は少しばかり冷静になって観察を始めた。 見たままをいえば―― 背が高く、貝の光沢を放つ白い服に身を包み、片側に聖とも邪ともつかぬ奇妙な模様を描いた仮面をつけた人物。 感じるものもあった。 光りや空気といったものに雰囲気が似ていた。決して見る事は出来ないが、確かに在るもの。そして、まるで心の奥底まで見透かされているような、隠す事も出来ず、隠す必要もないと思えるような、不思議な感覚。 仮面の奥の瞳はこちらを見ているのだろうか。 相手の目線がどこを向いているのか分かりようもない真物は、肩の辺りに曖昧に視線を向けてじっと立ち尽くしていた。 うなじの辺りがそそけだつ思いだった。と、それまで精巧に作られた立像のようだったその人物は、おもむろに組んでいた腕をほどくと、流れるような動作で腰を折り深々と頭を下げた。 いつもなら不快な緊張感を味わうはずなのに、何故かこの時はそれがなかった。 「ようこそ。私はフィレモン」 何を言っているのか理解出来るのに、声からは性別の判断がつかない。 奇妙な感覚だった。 口から発せられた言葉だが、思考の断片に触れた時のように、耳だけでなく全身で声を感じていた。 「意識と無意識の狭間に住まう者」 フィレモンと名乗る人物は、およそ信じがたい事実を口にした。 「君は、自分が誰であるか……名乗りを上げる事が出来るかね?」 聞かれた事に答えようと口を開いて、真物ははっと息を飲んだ。 「……わからない」 自分がどう名乗るべきか、急に分からなくなる。 「そんなはずない。僕は――……」 名前を口にしようとしても、ひどい違和感に見舞われてすんなりと言葉を出せない。名乗る事が出来ない。 何かが分かりかける。 「これは……僕の名前じゃないのか? 僕は、見神真物でいいはずだ……」 塊のような不安を無理やり飲み込んで、真物は呻くように言った。 フィレモンが微笑むように頷く。 「人はあるいは、様々な名前を隠し持つもの」 「様々な……? 例えば僕の中にいる別の名前の誰かの事か? それとも僕自身が別の名前を持っていると? そういう事か?」 いつになく口数の多い事に自分自身驚きつつも、止められずに、真物は言い続けた。 「……そうかもしれない。なんでもいい。今見神真物を名乗っているのは…僕だ」 話すのも止めるのも自分の意思だと思っていたのに、今は何故こんなに余計な事を口走るのだろう。戸惑いつつも、真物は最後まで言い切った。 「結構。そう、君の名前は見神真物。だが、君は自分が一つの意識で成り立っていると思うのは間違っているかもしれない。人はあるいは、様々な自分を内に秘めている。例えばそれは神のように限りない優しさをあらゆるものに向け、例えばそれは悪魔のように強欲にあらゆるものを奪い尽くす。気付かぬ内に、分かっていながらも…様々な仮面をつけて生きている。今の君も、無数の仮面の内の一つに過ぎない」 自らの仮面に指を差し向けて、フィレモンは淡々と言葉を連ねた。 「だが君は、この場所において自分が誰であるか名乗る事が出来た。ここに来て、名乗れる者は多くない。君は、自分が思っているよりもはるかに強い意志の持ち主だ。その強さは、そのまま君の力となる。この先、必ず役に立つ時がくるだろう。人の意識はあるいは、神にも悪魔にもなる」 真物に向かって差し伸べられたフィレモンの指先に光がともり、それは雫となって零れ落ちた。足元に滴った雫の中から、異形の者が立ち上がり、まっすぐに背を伸ばして真物に向き直った。 青く輝く鋼の逞しさを持ち、顔半分を隠すように奇妙な仮面をつけている。 「ペルソナ。君の心のもう一つの形…あらゆる場面で君の助けになるだろう」 「これ…が……僕だというのか?」 からからに渇いた喉を震わせて、真物はペルソナと呼ばれる異形の者を見上げていた。フィレモンはただ黙って頷くばかり。 「さあ戻りたまえ。君が在るべき時間と空のもとに」 そう言ってフィレモンは彼方を指差した。その瞬間、目に映る全てから色が失われ、形を崩していった。 暗闇が世界を覆い尽くす寸前、真物は視界の端に見慣れた人物を見付けたような気がした。 振り返る「彼女」は、願いを込めた眼差しで遠ざかる真物を見送った。 真物がそれを認識するよりも早く、全てが真っ暗闇に沈んでいった。 |