GUESS 赤 0

運命の車輪

 

 

 

 

 

 土曜日の午後に、部活動以外で学校に残る生徒はほとんどなく、校舎はまるで別世界のように静まり返っていた。
 中庭のベンチに一人腰をおろし、学校の七不思議の一つに数えられる奇岩に目を向けたまま、見神真物はぼんやりと浅く物思いにふけっていた。
 着込んだ学生服の襟元には、二年生を示す学年章がつけられていた。
 膝の上にはスケッチブックがあり、目の前の風景が描き込まれている。
 長い事考え込んでいた真物は、不意に手にした鉛筆で描きかけの絵を打ち消すと、脇に放り投げて大きなため息を一つ吐いた。

(全然駄目だ……見たままじゃ駄目ってことなのか)

 疲れたように目を閉じで、置きっぱなしにしてあった缶ジュースを手に取った。

(何かが違う……)

 ちらりと横目で絵を見遣り、正面に居座る奇岩と見比べる。するとますます自分の描いた絵に嫌気がさして、情けないような腹立たしいような気分になった。

(これじゃ、ただ描き写しただけ……)

 描きたい気持ちと、実際の技量に随分差異があるらしい。
 何故駄目なのか、どこに違和感を抱くのか、自分でも納得のいく答えが見つからないのでは、もう諦めるしかないだろう。
 それにしても…と真物は思った。
 描ける描けない以前に、どうして自分は奇岩を描きたいと思うようになったのだろう。
 ふと浮かんだ疑問にとらわれ、真物は記憶の糸をたどった。

『あ、いたいた』

 しかしそれを邪魔するように、誰かの思考の断片が無遠慮に真物の頭に飛び込んできた。
 やや遅れて中庭の扉が開かれ、校舎から一人の男子生徒が姿を現した。

『やっぱりここだったのか』

 相手の心の声は明確な響きをもって真物の肩を叩いたが、実際に声をかけられるまで、真物は気付かない振りを決め込んでジュースの缶を傾けた。目だけを相手に向けたまま。

「やっぱりここだったか。まっすぐ来て正解だったよ」

 その男子生徒は、人当たりの良さそうな笑みを浮かべて歩いてくる。そこでやっと真物は顔を向け、頷くような仕草で返事をした。

「千里が探してたよ。絵画コンクールに出す絵は、もう決まったのか?」

 真物の隣に腰をおろして、そう尋ねる。

「正規の部員じゃないし」

 かすかに首を振って、真物は言葉少なに答えた。

「またそんな事言って。もったいないよ、あれだけ上手に描けるのに」

 困ったような笑みを浮かべる友人…内藤陽介の目に触れぬよう、真物はさりげなくスケッチブックを裏返した。

「そんなことないよ」

 残り少なくなったジュースを一気に飲み干して、真物はにべもなく言った。
 その時、再び扉が開き、今度は女生徒がやってきた。

「見神クン! もう部活始まってるよ!」

 良く通る明るい声が、真物を呼んだ。

「もう、ここんとこずっとサボってるんだから、今日こそは出てもらうわよ」

 真物の前で足を止めると、腕を組んでぴしゃりと言い放つ。

「じゃないと、私が部長に怒られちゃうんだから!」

 初夏の陽射しに似合う明るい顔立ちをした女生徒―香西千里―は、一歩も引かない迫力で真物に言い寄った。

「もう、陽介からも言ってやってよ。見神クンの絵、ホントに評判良いんだから」
「悪い悪い、千里」

 苦笑いで答える陽介にちらりと目を向けて、真物はなんと答えるべきか言葉に詰まった。
 趣味で描いている程度の絵を、そこまで賞賛してもらえるとは正直思っていなかった。
 思えば、入学式の日に、千里に強引に誘われた…それが事の発端だったと記憶している。

 

 

 

 聖エルミン学園が、一風変わったミッションスクールであるという事は入ってから気付いた事で、とにかく家から離れている事を前提に、自分の学力にあっていたという理由から真物はこの高校に入学した。
 そこで偶然、陽介と再会したのだ。
 ふと、二ヶ月前の事が頭を過ぎった。
 入学式は滞りなく閉会し、教室に向かうよう指示された生徒に混じって、真物は体育館を出て行こうとした。出入り口付近で、誰かに呼び止められた。
 自宅から一時間半もかかる高校に、自分を知っている人間がいるはずがないと決め付けていただけに、真物は心底驚いて振り返った。
 自分より幾分背の高い、人当たりの良さそうな笑みを浮かべた一人の男子生徒と、寄り添うように立つ女生徒が一人。
 出て行く生徒の邪魔にならないよう端に寄って、真物は曖昧に相手の顔を目に映して言葉を待った。

「間違ってたら申し訳ないけど、見神、真物君?」
『間違いないと思うけど……』『そう、みかみまこと』『ないとうようすけ』『小学校の時の……』

 不安と期待、特に不安の感情が強い分、真物の頭の中に相手の内から発散される声が明確に響いてきた。ためらいがちに口を開いた相手が誰であるか、思考の断片を聞くまでもなく思い出した真物は、わずかに笑みを浮かべた。

「忘れてないよ、内藤君」

 言葉で表現出来ない程の喜びを感じたというのに、自分でも呆れるくらい抑揚のない声だった。

「ああよかった。昔と随分雰囲気が違っているから、声をかけようかどうしようか迷ってたんだよ」

 一方陽介は、大袈裟すぎるほど破顔して頭をかいた。

「陽介のお友達?」

 頃合を見計らって、隣の女生徒が口をはさんだ。

「ああ、小学校からの親友で、見神真物君だよ」
「こんにちは。私香西千里。よろしくね、見神クン」

 そう言って千里は軽く頭を下げた。思ったように表情を変えられない自分自身に心の中で言い訳をしながら、真物は頷くような仕草で返した。
 歩き出した陽介の後をついて、真物は体育館を出た。
 渡り廊下にさしかかった時、まず陽介が口を開いた。

「まさかここで会えるなんて、夢にも思っていなかったよ。けど正直、もう一度会いたいと思っていたんだ」

 驚きに目を見張り、真物は陽介の顔をまじまじと見つめた。喜ぶより先に、疑惑が頭をもたげる。
 嬉しくないといったら嘘になるが、自分が彼に会いたいと思っていたように、陽介も自分と再会する事を望んでいたとは、にわかには信じがたかった。

「僕に?」

 思うより早く、言葉が口をついて出た。
 陽介とは、小学校一年の時に出会い、数年同じ学校に通っただけで、親友とは呼びがたい仲だったと記憶している。小学校を卒業する前に陽介は親の仕事の関係で引越してゆき、その後は一度も会っていない。
 それなのに、陽介は自分の事を「小学校からの親友だ」と千里に紹介した。単なる言い間違いでない事は、陽介の思考の断片を聞いている真物には明白だった。

(ああ、そうか。彼は約束を守ったんだ……)

 忘れようと努めてきたせいで、陽介に関わる記憶はすっかり隅に追いやられてしまっていたが、今の一言で真物は陽介の言った言葉を鮮明に思い出した。

『どこに行ったって、友達は友達じゃんか』

 越して行く前日、わざわざ家まで来て言ってくれた陽介の約束を、その時は信じようともしなかった自分が情けなく思えた。

『だから言ったでしょう、大丈夫だって』

 突然、頭の中に声が起こった。少女の声で諭すように話し掛ける相手が、誰であるかすぐにわかったが、真物はあえてその声を無視して遠ざかった。

『変わりたいくせに』

 そう言い残して、意識の奥に引っ込んでいく。

「そうだ私、麻希の様子見て来るから、先に教室行ってて」

 途中千里がそう声を上げて廊下を引き返していった。少しだけ首を傾げて振り返った真物は、ちらりと陽介に目で問いかけた。

「ああ、千里と同じく中学で知り合った、園村麻希さん。彼女、あまり身体が丈夫じゃなくてね…今日も、式の途中で保健室に。今日もし一緒に帰れるようなら紹介するよ」

 千里の後ろ姿をしばらくの間見送っていた陽介は、やがて向きを変えて歩き出した。
 陽介と親友であったのは今から何年も前の事、ほんの数年間だけで、それ以来一度も会っていない。彼が昔と変わらない性格である事は、彼の気さくな話し方で充分理解出来るのだが、問題は自分の方だ。一対一で誰かと話をするのは苦痛に等しかった。
 無表情を装ってその実真物は、居心地の悪さに一刻も早く逃げ出したい気分だった。

「そうだ、妹さん。確か霧子ちゃんだっけ。変わりないかい?」

 先に口を開いた陽介にほっとしたのも束の間、質問の内容に真物はびくりと肩を強張らせた。
 心の中癒えぬ傷口から、真っ赤な血が玉のように浮き上がった。

「うん。変わりないよ」

 言葉少なに答えて、真物は話を打ち切った、正直、その話題には触れたくなかった。

「内藤君は?」

 さらに言葉を続けようとする陽介を遮るように反射的に口を開き、真物は聞き返した。
 赤い雫がぽつりと垂れ落ちる。かすかに疼く傷口の鈍い痛みを無視して、真物はちらりと陽介に目を向けた。
 気を悪くしたかもしれない。という後悔の念が頭を過ぎった。しかし陽介は特に気にした風もなく「それがさ」と話し始めた。
 内心ほっとして、真物は陽介の話に耳を傾けた。
 人の話を聞くのは嫌いではなかった。自分の意見は少なくて済むし、相手に合わせて頷いていれば退屈させないでいられるからだ。

「……なんて言われるんだけど、生まれ付き落ち着きがないみたいで、しょっちゅう親に怒られてばかりだよ。お互い長男は辛いよな」

 照れ隠しに苦笑いを浮かべる陽介につられて、真物も少し笑った。口の端をわずかに持ち上げただけの、どこか冷たい感じのする笑顔で。

「この学校じゃ、家から大分遠いんじゃないか? 朝は何時に起きるんだ?」
「別にそれほどでもないよ」

 極力自分の話題を避けたい真物は、さりげなく手をかざして教室の扉を指差した。
 真物の指差す方に目を向けた陽介は、自分たちの教室にたどり着いた事に気が付いた。
 真物は一歩横に退いて、先に教室に入るよう陽介を促した。
 まだ担任は来ておらず、教室内は騒然とした雰囲気に包まれていた。黒板に貼られた席順表で自分の位置を確認すると、真物はとりあえず席についた。
 窓からは、中庭の様子が一望出来た。これまでは気付かなかったが、昇降口から見える場所に、見上げるほどの巨大な岩がそびえたっているのが目に入った。
 あまりの大きさに圧倒されて、真物はしばらくその岩に見入っていた。ふと耳を澄ますと、背後から陽介と千里の話し声が聞こえてくる。二人の声とは別に、もう一人女子の声が混じっているのに気付き、それが園村麻希なのだろうと真物は思った。
 喧騒にかき消されて途切れがちではあるが、それにしても随分弱々しい声をしていた。
 背後の様子をうかがうように目だけをそちらに向けて、真物は声をかけられるまで気付かぬ振りを決め込んだ。
 間を置かず、陽介の呼ぶ声がした。真物はゆっくり振り返って、席を立った。
 椅子に座る麻希を気遣うように千里と陽介が傍に立っている。三人の視線を曖昧に捕らえて、真物は歩み寄った。

「紹介するよ。彼女がさっき言ってた、園村麻希さん。俺の小学校以来の親友で、見神真物君」

 園村麻希は、声から想像していた通り千里とは対照的な顔をしていた。髪を束ねる赤いリボンと、首から下げた、お世辞にもオモチャとしか言いようのない首飾りも印象的だが、何よりも彼女の瞳はインパクトがあった。
 気分が優れないせいか心持ち潤んでいたが、静かな力強さを秘めた不思議な眼差しをしていた。

「はじめまして」

 青白い顔で、はにかんだように麻希が微笑む。

「ねえ麻希、帰りに美術部覗いていかない? 麻希も入るでしょ? 美術部」
「そのつもりだけど……今日は病院に行く日だから」

 残念そうに俯いて、麻希は詫びた。

「そっか。ごめんね」
「ううん、気にしないで」
「やっぱり、二人とも美術部か」
「もちろんよ。ね、麻希」

 同意を求める千里に頷き返して、麻希は軽く咳込んだ。

「ちょっと大丈夫?」
「うん、平気平気。ちょっとむせただけだから」

 背中をさする千里の手をさりげなく断って、麻希は異常のない事を証明するようににっこりと微笑んだ。

「そうだ、見神クン部活とかってもう決めちゃった?」

 いきなり名指しで呼ばれた真物は、一瞬困惑したように目を細め、曖昧に首を振った。

「なら私たちと一緒に美術部入らない? 楽しいし面白いよ。ここの美術部はどんな活動しているのか詳しくわからないけど、人生変わるよ」

 最後の言葉は大袈裟にしても、ずいぶんと強引な千里の誘いに、真物は断りきれずにうやむやな返事をしてしまった。

 

 

 

 やはりあの時、相手の気分を害してしまってもきっぱり断るべきだったと、真物は今更ながらに後悔していた。
 他人と関わるとろくな事がないと、充分承知していたはずなのに。

「もう、今日こそははっきりした返事をもらってきてくれって、部長直々に言われてる私の身にもなってよ」

 わざと口をとがらせて、千里は大仰に腕を組んだ。
 表面上は真物を賞賛しながらその実、心の中では自分が一番だと叫んでいる千里の思考の断片が、残らず真物の頭に響いてくる。

(こんなのわざわざ聞かせる事ないだろ)

 心の中に潜む「彼女」に悪態をついて、真物は目を上げた。

「……千里さんには悪いけど、入部はしない。趣味で描いているのが性に合っているし」

 上目遣いに千里の顔をとらえ、真物はそう答えた。

「う〜ん、諦めきれないなぁ…じゃあさ、気が変わったらいつでも来てね。待ってるから」

 本心とは裏腹に強引に食い下がる千里に内心辟易しながらも、真物は曖昧な笑みでかすかに頷いた。

「行こう、陽介」
「ああ。じゃあな、真物」

 千里と並んで歩き出した陽介に手を上げて、真物はほっとしたように肩を落とした。
 二人の姿が完全に見えなくなるのを待ってから、真物は裏返したままのスケッチブックに手を伸ばした。
 ページをめくり、再度奇岩に目を向ける。

 

 

 

 人の心の断片に触れるこの不思議な能力が、一体いつ頃身に付いたものなのか…その辺りの記憶はいつもあやふやだった。大抵の物事を無意味に思いどうでもいいと取り合わず、無気力に過ごす真物にとって、記憶をたどる作業もまた馬鹿らしい事の一つだった。
 多分、生まれ付き持っているもので、多分、小学校に入った頃に自覚するようになった。
 それくらいで充分だった。
 自分にしてはこの認識は、かなり考えている部類に入る。
 とにかく、自分は人の心の断片を見て、聞き取る事が出来るのだ。
 何故かは分からない。それもまた、どうでもいい事の一つ。
 自分の意志とは全く関係なく偶然掴んでしまう確率が高いが、大体においてそれらは、平凡な独り言や穏やかな感想といったものが多かった。
 平凡で穏やかとはいえ、聞きたくもない他人の心の声が突然頭の中に飛び込んでくるのだ。否定的、攻撃的、悪感情といった声とはほとんど無縁だったが、精神を揺さぶるには十分だった。
 それだけでも疲れ、うんざりするのに、自分の中に存在するもう一人の自分までも口を挟んでくる。
 自分よりやや年下の、長い髪の少女の姿で。
 初めて「彼女」と対面した時、言い表せないほどの衝撃を受けた。
 正直真物は、その姿をした自分とは会いたくなかった。
 「彼女」が一体いつ頃、どんな理由で生まれ、そして何故その姿をしているのか、見た瞬間に全てを理解する。その途端、殺意の衝動が全身を駆け抜けた。
 そんな自分が信じられず愕然としている真物に、「彼女」が言う。
 始まった、これ以上とどまっている事は出来ない…と。
 それだけ言うと、彼女は意識の奥に引っ込んでいった。
 その言葉が何を意味しているのか、あれから数年経つが未だに分からずにいる。ただ一つはっきりしているのは、分からないなりにわずかでも前に進もうとしている自分の気持ちだった。
 大抵の事を無意味に思い、どうでもいいと取り合ってこなかった自分が、そんな事を思うのは、本当に不思議だった。
 何も変わらないのに、何かが変わった。
 人の心の断片に触れるこの能力を、意味のないものとするか、否か、すべては己の考え方にかかっているのだ。

 

 

 

 まだまだ夏の陽射しを感じられるある日の事。麻希の描いた絵が、絵画コンクールの高校生部門で金賞を受賞したという報せが、陽介を通じて真物の耳に届いた。
 作品は市立の美術館に一定期間展示される事になっており、その前に一旦学校に戻され、麻希は全校生徒の前で表彰された。
 陽介と千里に誘われ、真物は美術部に展示された麻希の絵を見に行った。
 人垣を上手くすり抜け、真物はやっとの事で麻希の絵と対面した。
 それまで何度か麻希の作品を目にした事のある真物だが、この時ほど彼女の眼差しの力強さを感じられた事はなかった。
 『楽園の扉』という表題のつけられた一枚の異世界の前に立ち、真物は長い事瞬きも忘れて見入っていた。
 抽象画とはまた違った趣の、独特な世界を匂わせるどこか懐かしい感じのする絵だった。

「おめでとう、麻希! これならいけるんじゃないかって思ってたのが、当たったね!」
 背後から、千里のはしゃいだように絶賛する声が聞こえてくる。麻希が何か言い返し、二人して笑うのが耳に入った。
 それでもしばらくは、絵から目を逸らす事が出来ずに、真物は二人の話し声を遠い喧騒のように聞き流しながら、じっと立っていた。
 千里の内面の声を聞かないように、心を遮蔽して。
 そうする事によってさらに深く絵に心を向けた真物は、目の前に別の光景が映し出されるのを見た。
 自分の意識が、泡になって拡散していくような、なんとも不思議な感覚だった。
 明け方の空のように、蒼い静けさに包まれた空間に、ぽたりと雫が垂れ落ちた。
 瞬時にして世界の有り様が変わる。


 茜色から藍色に変わりつつある空の元、「私」は一人たたずんでいた。
 月はなく、星も光らない。
 寒々しい暗闇が私を覆い尽くそうとする。「私」という存在を消し去ろうとする、冷酷な悪意がにやりとほくそ笑む。
 たまらなく怖くなって、「私」はここではないどこかへ行こうと思った。
 でもどこへ行けばいい? きっとどこもかしこも粗悪で冷徹で素っ気無いに決まっている。どこにも、「私」の行き場所なんてないのだ。
 でもこれ以上ここにいたくない。ここはあまりに冷たすぎる。何も無さ過ぎる。「私」の欲しいものは、ここでは絶対に手に入らない。
 そうだ、目の前の扉をあければいい。
 この向こうには楽園がある。
「私」が信じている限り、優しくしてくれる素晴らしい世界があるのだ。
「私」は、扉を開こうとした――


「見神クンだって、出してたらきっと賞をもらえたと思うんだけどな」

 誰かが自分の名を呼んだ。
 気付かぬ内に掴んでいたピアスからはっと手を離す。振り返ると、千里の笑顔が目に飛び込んだ。

(……)

 四散していた意識が急速に集中し、それに伴い内面から吹き出してくる黒いもやのようなものによって、自分がかき消されてしまうような、言葉では言い尽くせない程の恐怖が真物を襲った。
 身体の芯は焼け付くように熱く、けれど外側から凍り付いていくような、なんともいえない嫌な感覚に真物は身震いした。
 今、自分が感じた思考が麻希のものだとするならば、彼女の内面は一体どうなっているのだろう。
 言葉でもなく、色や形の繰り返す喜怒哀楽でもない。完成された一個の世界だ。

(あれが、園村さんなのか?)

 唐突に、麻希の言葉が思い出される。

『お喋りするの苦手だから、その分絵で表現するの。そっちの方が得意みたい』

 以前、麻希が何かの折に話してくれたものだ。麻希の描く絵が、誰よりも力に満ちている理由を知ったのは、この時だったか。

「……だから言ったのに」
「え? いや、うん」

 本心を巧妙に包み隠し、わざとへりくだった物言いをする千里の思考の断片に、否応なしに現実に引き戻された真物は、曖昧に言葉を濁してさりげなく麻希を見た。
 物を介して相手の思考の断片を読み取った事は、今まで一度もなかった。自分の能力なのに、無意識の範疇にあるものだからだろうか。

『出来た……やっと出来たわ。これで安心して私の楽園に行ける』

 かすれた弱々しい声が、真物の思考を鋭く射抜いた。言葉の内容を理解しかね、真物はじっと覗き込むように麻希の顔を見つめた。
 その目の前で、麻希はくたりと膝を折り倒れ伏した。
 どよめきがわき上がる中、周りにいた誰よりも早く一人の生徒が教室を駆け出し、保険医を呼びに行った。
 真物の視界の端を、黄色い「P」のマークが入ったキャップがかすめた。
 青白い頬のまま、死んだように目を閉じる麻希を遠巻きに見つめて、真物は何も出来ずに棒のように立ち尽くしていた。
 ほどなくしてやってきた教師に抱えられて、麻希は保健室へ運ばれていった。何人かの生徒が廊下に出て口々に囁き合っている。
 気が付くと千里の姿が消えていた。

「大丈夫かな、園村さん」

 脇から、陽介の心配そうな声が聞こえてきた。

「……とても、苦しそうだった。あんなに、まるで…魂を削るみたいに絵を描いたから」

 そう言って、真物は壁にかけられた「扉」に目を向けた。
 ややあって、救急車のサイレンが近付いてきた。麻希がどうなったかは、それだけで理解出来た。
 しばらくして千里が、暗い顔をして戻ってきた。
 以後、麻希は長らく学校を休む事となる。
 真物の頭の中に、気を失う寸前の麻希の言葉が強く刻み込まれた。

『ミンナ、キエチャエ』

 

 

 

 昼休みには、毎日といっていいほど中庭を訪れるようになった真物は、その日も同じようにベンチに腰をおろし、枯葉の降り積もる植え込みにぼんやりと目を向けていた。
 それからちらりと、脇に置いてあるスケッチブックを見る。
 空に向かって吠える四足の獣の首の辺りから、人間の手に似た二本の影が獣の目を覆い隠している。空に当たる部分は、螺旋を左右に動かして真っ黒に塗り込め、獣の姿もはみ出るほど塗り潰してあった。それらとは対照的に、二本の手は荒々しい線だけで真っ白のままだった。
 我ながらおかしな物を描いたと、真物は自嘲気味に鼻を鳴らした。
 麻希の描いた「楽園の扉」は、彼女の内面の世界を象徴しているといえる作品だ。それでは、自分の世界はどんな姿をしているのだろうと、単なる思い付きで真物は大雑把に書いてみた。
 大地に手足を踏ん張っている様を表したかっただけで、特定の獣を描いたつもりはなかった。

『獣があなた? それとも手? あるいは全く別の……』

 唐突に話し掛けてくる「彼女」の声を、真物は無理やり意識の奥に追いやった。いつもこちらの考えを見透かしたように話し掛けてくる「彼女」を、真物は少なからず疎ましく思っていた。
 無意識に、あるいは縋るように、真物はピアスに触れた。

(比麗文岩。1963年、学校建設当初に出土した巨岩。伝説では、比麗文なる天上人が、御影町の守護石として天から振り落としたもの……)

 たまたま目に入った、奇岩の由来が書かれた石碑の文字を読んで、真物は気持ちを切り替えようとした。

「みんなきえちゃえ……か」

 麻希の言い残した言葉を口の中で呟いて、一体どんな時にそんな気分になるのだろうと真物はぼんやりと考えてみた。
 彼女とはあまり話をした事はなかった。彼女も口数が少なく、自分はさらに口を閉ざしていたので、正直彼女がどんな性格なのかは掴めていなかった。感情の起伏がそれほどないらしく、彼女の内面に触れる事もなかった。
 そういえば、彼女は一人で本を読んでいる事が多かった。見事な装丁の分厚い本を静かに読みたどっていたのが思い出される。けれどいつも休みがちで、たまに学校に来ても大抵午前中で帰っていった。
 まるで無口という訳でもないようだった。中学からの親友の千里とは、よく談笑していただろう。
 ああ、彼女はあまり身体が丈夫ではないのだ。毎日、当然の様に学校に来る事が出来ない
 友達がいる人は、学校に来るのは楽しい事だろう。

(学校……友達?)

 そこで唐突に、予鈴が鳴り響いて真物の肩を叩いた。
 重い腰を上げて立ち上がった真物は、無造作に絵を丸めてくずかごに放り投げると、中庭を出て行った。
 試験期間が過ぎたら、麻希の見舞いに行こうと考えていた真物だが、訪れる先が病院である事を思うとどうしてもためらわれ、次の週へと先延ばしにされた。
 そんな事をひと月、ふた月と繰り返すうち、結局麻希を見舞いに行かぬまま二年に進級となった。

 

 

 

 体育館は大勢の生徒でごった返していた。
 新学期初日。始業式は滞りなく閉式し、体育館に貼り出されたクラス割の表を見る為に全校生徒がひしめきあっていた。別々のクラスになってしまい残念がる女子達の、さざなみのような喧騒を耳にしながら、真物はぼんやりと表を見上げていた。
 自分の名前は2―4の表の中に見付ける事ができた。同じ表の中に、園村麻希の名前もあり、留年しなくてよかったものだと真物は思った。

『お見舞いには行かないの? 半年以上もほったらかしなんて、ちょっとひどすぎるわ』

 何気なく陽介の名前を探していた真物に「彼女」が咎めるような声を浴びせた。珍しくこの時は反発せずに、真物は心の中でわずかにうなだれた。
 その時、すぐ後ろからいやにはしゃいだ声が聞こえてきた。

「マークまたご一緒! 今後ともよろしくぅ! なんちて」

 周りの生徒が振り向くのに乗じて、真物はさりげなく首をめぐらせた。そこには、髪を赤茶に染めた派手な格好の生徒が、黄色いニットキャップを目深に被った隣の生徒に抱きついている光景があった。

「バカてめぇ! わかったから離れろって! 綾瀬に見つかったらまた何言われるかわかってんのか?」

 マークと呼ばれた生徒は心底迷惑そうな顔で、必死に赤毛の男子を引きはがそうともがいていた。

『マジムカつくぜ上杉はよぉ!』『馴れ馴れしくすんな!』『抱きつく癖は早いとこ卒業しろよ!』『園村と一緒になれて喜ぶ暇もありゃしねぇ』『そういや園村、まだ退院出来ないみたいだな……』

 始めは赤毛の男子をなじっていたマークの心のぼやきは、ふとした瞬間にぴたりとやんで、あっという間に小さくなっていった。

(あの生徒、確か前に見た事があるような……)

 曖昧にマークの顔をとらえて、真物は記憶の糸をたどった。独特のメイクをほどこした特徴のある顔と、麻希に何らかの感情を抱いている二つの点を軸に、真物は思い出せるものならと意識を集中した。
 しかし途中で翻す。なんて無意味な事を。真物はあっさりと考える事を止めた。
 再度表を見上げた真物は、右手の方に陽介の気配を察知し、反射的にそちらに目を向けた。それより少し遅れて、やや離れた場所に立っている陽介が真物に気付いて軽く手を上げた。

「うちの学校って、やっぱり生徒数多いよな」

 人込みをすり抜けるように小走りに駆け寄って、陽介は笑いながらそう言った。

「千里さんは?」
「ああ、友達とお喋りに夢中になってる。邪魔しちゃ悪いから置いてきたよ」

 顔には出さず。真物はほっとした。
 好き、嫌いといった感情ではないのだが、あえていうならば真物は千里が苦手だった。
 千里の心から感じられる声が好ましくない、というのもその理由の一つだった。彼女の性格を悪く言うつもりはない。いつでも本音ばかり口に出来るわけがないのだからと分かってはいるのだが、彼女の場合は少々行き過ぎる面も感じられる。鼻につくその態度が、苦手なのかもしれない。

『弱い部分を補う…相手に気付かれまいとする彼女の態度は、誰でもするけどね』

 真物の心に一つ声が上がる。うるさそうに目を細めて、真物は声を無視した。

「別々のクラスだな」

 表を見上げたまま、真物は囁くように言った。

「え、ああ。そうだな。でもまあ、隣のクラスだし。そう落ち込むなよ」

 頷くような仕草で陽介に目を向け、真物は薄く笑って言った。

「別に落ち込んではないよ。隣じゃないけど」
「え? ああ、そうか」

 建物の構造上、真物の2―4と陽介の2―5は隣り合ってはいない。その事を思い出した陽介は、少しばかり心配そうな眼差しで真物を見つめた。

「そんな顔しなくても…これでも一年前よりは大分――」

 大分良くなった、と言いかけた時、

「何よぉバカザル! ホントのコト言っただけじゃん!」

 真物の声に被さるようにすぐ背後で女子の金切り声がした。

「あー! てめぇ今俺の事サル呼ばわりしやがったな! この馬鹿アヤセ!」

 次いで起こった怒鳴り声は、先程赤毛の生徒にからまれていたマークのものだ。

「まーまー、同じクラスになったんだから仲良くしましょうよ、お二人さん」

 本気で仲裁する気もなく、面白がっているようなふざけた物言いは赤毛の生徒。
 普段なら特に気にもしない生徒同士のいさかいだが、真物にとっては同じクラスの生徒という事もあってか、わざわざ人垣の中に紛れていった。

「まぁ落ち着きなさいって、マークのダンナ。アヤセはチミに嫉妬してるだけの事で、そう気にするほどのモノじゃないって」

 気安く肩を叩きながら、赤毛の生徒はマークに耳打ちした。

「バーカ! 一度死ね! お前がそうやって引っ付くから馬鹿アヤセにホモ扱いされんじゃねぇか!」

 人目もはばからず怒鳴りつけるマークの余りの剣幕に、周りの生徒たちは自然と後退していった。
 騒ぎの張本人たちは輪の中に取り残され、それでも言い争いを止めなかった。

「ヘイハニー! 俺様に惚れても無駄だぜ。俺様マークにメロメロだから! なんちて、でひゃひゃひゃ」

 赤毛の生徒が、アヤセに向かってこう言った。
 その一言に、我慢も限界のマークがいきなり背後から赤毛の生徒の首に腕を巻き付けて、身長の差を利用して海老反りに締め上げた。

「てーめーえぇ!」

 これにはさすがにまいった様子で。風邪を引いた鶏のような声を上げて赤毛の生徒は矢継ぎ早に何度も謝った。

『いい加減にしろってぇの!』『マジぶっ飛ばすぞ!』『クソ南条がいないだけまだましだけどよぉ!』『お調子モン』『いい加減……』

 言いたい事を口に出してもまだ足りないようで、マークは思い付く限りの罵詈雑言を心の中で延々繰り返した。その一言一言が、空気のかたまりのように真物の頭を強かに殴り付ける。
 肺が呼吸を嫌がって、真物を息苦しくさせた。と同時に、頭といわず肩といわず何か重いものが圧し掛かってきたようで、支えきれずに膝をつく。

「おい、真物?」

 異変に気付いた陽介は、片手で頭を押さえたまま身動ぎもしない友人を気遣って声をかけた。
 面白くなさそうに舌打ちして、マークはさっさと歩き出した。人垣は自然と割れて彼に道を作る。

「立てるか?」

 肩越しに真物を覗き込んで、陽介は腕を掴んだ。
 二度ばかり頷いて、真物はゆっくり立ち上がると重い足取りで体育館を出た。渡り廊下に差し掛かった所で、ようやく思い出したように大きく息を吸い込む。
 マークが立ち去ってくれたおかげか、少し吐き気がするものの頭痛は嘘のように治まった。

「顔が真っ青だ……大丈夫か?」

 塀の傍で足を止め、真物はわずかに振り返って頷いた。

「あんなにいっぺんに聞こえたのは初めてだったから……少し驚いただけだよ」
 もう平気

 肩にかかる陽介の手から逃れるように向きを変え、真物は額を押さえた。
 ちょうどその時体育館から数人の女子と共にアヤセが現れて、騒がしくお喋りしながら真物たちの前を通り過ぎて行った。

「同じクラスになる人たちなんだけど……」

 後ろ姿を見送るように目を向けて、真物は囁くように言った。

「すごいメンバーが揃ったもんだよな。冴子先生の怒鳴り声が聞こえてきそうだ」

 冗談めかして陽介が肩を竦める。そういえば、さっき誰かが、2―4は問題児ばかりだとかなんとか言っていたのを真物は思い出した。

「いつもこんなだと、ちょっとやばいかもね」

 あまり深刻にならない程度に、真物は肩を竦めてみせた。大勢の生徒たちが通り過ぎて行く光景が、視界の端に映る。
 事情を知っている陽介は、苦痛の度合いは分からないまでも状況を判断する事くらいは出来たので、慮るような眼差しを真物に向けて何か言いかけた。

「そんな、別に陽介が謝る事じゃないし。それに「彼女」がいるから大丈夫だよ」

 陽介の心に浮かんだ言葉が口から出る前に、真物は思わぬ気使いに戸惑ったように言いつくろった。
 この学校で再会してしばらく経ったある日、真物はわだかまりと煩わしさを被らない為に、陽介に自分が普通ではない事を吐露した。
 人の心の断片に触れる事が出来ると、およそ信じ難い真実を告げたのだ。
 それで気味悪がって離れるか、嘘吐き野郎と軽蔑して離れるか、どちらでもよかった。
 しかし、彼は大して驚いた様子もなく自分の能力を受け入れた。話をする内に、真物は次第に思い出す事になる。小学校の頃、クラスで起きたある事件がきっかけで陽介に伝えていた事をだ。彼は何年もの間、疑う事なくそれを覚えていたのだ。
 もし自分が普通の人間で、顔見知りが自分のような力を持っていたとしたら、きっと気味悪く思うに違いない。全てではないにしろ、考えている事が筒抜けになるのだ。そいつの傍では迂闊に物も考えられないだろう。自分自身心底嫌っているというのに、何故陽介は以前と変わりなく自分に接してくれるのだろうか。
 二重人格といえるかどうか不確かだが、「彼女」という掴み所のない人格の存在や、まして昔のあの忌まわしい事件の事も全部知っているというのに。

「何か意味あるのかな、こんな力」

 真物はぽつりと呟いた。声を出したつもりはなかったが、誰かに聞いて欲しかったのだろう。

「意味は分からないけど……いつか、何かの役に立つと思うよ」

 精一杯考えた末の陽介の言葉に、真物は曖昧に笑って頷いた。
 いつかって?
 なにかって?
 そんな反発の気持ちが胸に渦巻くが、陽介の内面の声は至極真剣で、悩む友人の為になんとかしてやりたい気持ちで一杯だった。決して、いい加減な気持ちで言ったのではなかった。
 こんな薄気味の悪い人間の為に、一生懸命。

「……そうなると、いいな」

 言って真物はわずかに目を伏せた。

「そろそろ戻ろうか」

 さりげなくそう声をかけて、陽介はゆっくりと歩き出した。

「そうだ、今度の日曜日、園村さんの見舞いに行こうって千里に言われているんだけど、真物も行かないか」

 自分の半歩後ろを、ぼんやりとした眼差しのままついてくる真物を振り返って、陽介は問い掛けた。
 目を上げて、真物は曖昧に陽介の視線を受け止めた。少し考えてから、真物はなんとなく返事をした。思考の堂々巡りにとらわれて、うまく気持ちの切り替えの出来ない自分を意識の隅で蔑んでみる。
 これでよく、陽介は自分を気にかけてくれるものだと真物はぽつりと思った。

 

 

 

 約束の時間はもうとっくに過ぎたというのに、二人は現れなかった。もしかしたら時間か、あるいは待ち合わせ場所を間違えているのかとも思ったが、記憶には他の言葉は残っていなかった。
 正直、待たされるのは嫌いだった。いや、それよりも苦痛だといった方が正確かもしれない。待っている間、考えなくてもいいはずなのに何故だか『来るはずもない』と思ってしまうのだ。
 陽介は、一度も約束の時間に遅れた事はなく、ただ、自分が早く来過ぎてしまっただけだというのに、彼が現れるまで、止める術もなく真物は否定的な思考の堂々巡りに囚われてしまうのだ。
 とはいっても、徹底的にそうだと決め付けるのではなく、打ち消す声も同時に生じてせめぎあい、真物を苦しめた。
 けれどもう、そんな事ばかりを考えるのにはうんざりしていた。自分のこの考え方が間違っているという事は陽介が何度となく行動で示してくれたし、いい加減信じてもいいはずだった。だが厄介な事に、頭では理解出来ているこの真実も、一度でも否定的な声が浮かんでしまうと、以前と同じように打ち消す声とあいまってせめぎあうのだ。
 真物は考えないようにしていた。
 真物は、別の事を思い浮かべようとした。
 しかしやはり、考えは悪い方にしか傾かなかった。
 何か事故でも起きたのだろうか、と。
 だとしたら陽介の自宅か、自分の家に連絡が入っているかもしれない。

(もう少し待って、それからかけようか)

 十分ごとにそう考え、やっと真物は重い腰を上げて公衆電話に向かった。その時視界に向こうの通りを歩くマークの姿が映った。数人の友人と賑やかに話しながら、やがて友人たちはジョイ通りの方へ、マークはそのまままっすぐ歩き去って行った。
 何気なくマークの姿を見送っていた真物の耳に、先客の通話が終了したピーピーという公衆電話の警告音が鳴り響いた。待ちかねず空いた電話に向かい、一瞬どちらにかけるべきか迷ったが、真物は先に番号を思い出した陽介の自宅に電話をかけた。
 電話に出たのは陽介のすぐ下の弟だった。名乗りを上げる真物に礼儀正しく挨拶し、とっくに家を出たはずの兄がまだ到着していない事に驚いていたが、こちらが待ち合わせ場所を間違えたかもしれないと言いつくろい、真物は電話を切った。
 真物は、膨れ上がる不安を必死に抑えて自宅に戻り、もう一度陽介の家に電話をかけた。

 その日を境に、陽介と千里は姿を消した。

 

 

 

「ねえ、知ってる? 五組の内藤って人」
「聞いた聞いた! 彼女と駆け落ちしちゃったんだって?」
「大胆な事するよねぇ!」
「でもさ、彼女の香西さんって、なんていうか結構性格悪いよね」
「そーそー! なんかさぁ、見せびらかすってゆうか、わざとらしかったよね」
「内藤君、きっと騙されてるんだよ。てゆうか、あの子悪女? みたいな!」

 昼休みを待ちかねていたように、お喋り好きの女子たちは輪になって口々に勝手な憶測を出し合っていた。
 耳障りな喧騒は、嫌でも真物の耳に届いた。
 馬鹿馬鹿しい噂話だと思っても、頭の隅では完全に否定し切れないでいた。
 香西千里の性格云々は別にしても、彼女たちの話に一分でも真実が混じっているとしたら、自分は何も聞かされていなかった事になる。

(やっぱり他人は信用しない方が……?)
『もう始まっている。後戻りは出来ないわ』

 真物の思考を遮るように、「彼女」が忠告する。
 それを素直に聞き入れても、真物に出来るのは傍観者を決め込む事だけだった。

 

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GUESS 赤 1