GUESS 緑 9

答えを求める小さき者

 

 

 

 

 

 あきの居城と思われる『マナの城』に辿り着くまで、一行は一体の敵とも遭遇せずに済んだ。
 壁のこちら側にはまったく悪魔が存在していないのかと思えるほど、街は不気味に静まり返っている。
 遥か上空を悠々と旋回する判別不明の鳥獣の、なんともいえぬ不愉快な鳴声だけが辛うじて聞こえるばかりだ。

「なんつーか、拍子抜け?」

 あのお嬢ちゃんの事だから、それこそ数え切れないくらいの悪魔をけしかけてくるに違いないと睨んでいたブラウンは、ほっとする反面肩透かしを食らったような気分だった、

「私も。ダークサイドって言うくらいだから、悪魔がうじゃうじゃいるのかと思ってた」
「油断するな。あきの罠かもしれん」

 本来なら有り得ない静寂に苛立ちを感じているのか、南条の声はいつにもまして刺々しかった。

「罠ねぇ。そー言ってるうちに、もう着いちまうぜ」

 もうすぐそこに見えてきた城の入り口を見据え、マークは首を傾げた。どんな罠を仕掛けたというのか、自分にはさっぱり思い浮かばない。
 風が少し強いだけで、他には例の鳴声のみ。
 六人は緊張の面持ちで城門をくぐりぬけた。石畳を進み、見張りのいない扉の前で足を止める。
 唐草の透かし彫りが施された、見るからに頑丈そうな大扉である。扉の脇には黒曜石に似た黒い小さな台座があり、半月型の窪みがあいていた。
 扉にはまず、マークが挑んだ。

「びくともしねえぞ?」
「押してダメなら引いてみなって…それもダメ?」

 懸命に足を踏ん張るマークに、ブラウンが進言する。しかし、どんなに頑張っても扉は開かない。

「どけ…俺がぶっ壊す」

 見かねて玲司がペルソナを発現させた。

「ちょい待ち! タンマタンマ!」

 今にも強烈な魔法を仕掛けそうな玲司を慌てて止める。

「多分ペルソナでもムリだ。なんかおかしいぜこの扉」

 実際触れてみて何か感じたのか、マークは渋い顔で首を振った。

「鍵がないと開かないよ、その扉」

 石畳の方から、あきの声が聞こえてきた。いつあきが現れてもおかしくない状況だと警戒していたお陰か、真物は一言も掴む事なく振り返る事が出来た。とはいえ、あきの内包物がもたらした衝撃が自分の中から綺麗さっぱりなくなったわけではない。姿を見ればどうしても思い出されてしまうのだ。
 あの、光景が。

「鍵だと?」

 振り向きざまにマークは睨んだ。

「これがそうだよ」

 臆する事なくあきは手にした鍵を高くかざした。

「それ、ちょ〜っと貸してくれないかなぁ、お嬢ちゃん」

 まず無理だろうけど…とりあえずブラウンは聞いてみた。

「やだよ。貸すわけないじゃんバ〜カ」
 何言ってんの?

 あきは小馬鹿にしたように舌を出した。多分そうくるだろうとは予測していたが、実際やられると無性に腹が立った。ブラウンは自己嫌悪に顔を引き攣らせた。
「この鍵を持ってるのは私の他にはまいだけ。でもあいつもきっと貸さないと思うよ。森の中に隠れてて、絶対出てこないから。ま、行くだけ行ってみれば。お前らじゃ無理だろうけどね。誰にもパパの邪魔はさせないんだから!」
 噛み付かんばかりの勢いで言い放ち、あきはふっと姿を消した。

「……んとにハラの立つガキだぜ!」
「まーまーまー、コドモのする事ですから」
『神取め…相変わらず……』『乗るしかないか……』

 マークが、抑えきれない怒りを声に出し紛らそうとし、ブラウンが、それを茶化しつつ宥める。
 そして誰かが、あきの言葉から考え付く推測を頭の中で組み立てる。
 それらの声も聞こえぬほどに、真物は一人、全く別の物を追っていた。

「あき……だ」

 誰の耳にも届かないくらいかすかに、真物は唇を震わせた。瞳孔が針の穴ほどに収縮し、瞳から色が消え失せる。
 病室で、麻希の中から聞こえた複数の声の一つに、自分を『あき』と呼ぶ幼女がいた。
 渡り廊下でマキは、またあの黒い女の子ね、と言った。
 デヴァ・システムの前で神取と対峙した時、突如現れた幼女を神取はあきと呼び、それに誘発され自分はマキの言った『またあの黒い女の子のしわざね』という言葉を思い浮かべた。
 どこか遠くで少女の泣き声が聞こえる。

 泣きながら、助けを求めるあれは……

 真物はやっとの思いで目を上げると、マキの顔を見ようとした。

「まい、まい…まいちゃんの事かな……」
「マキちゃん、なんか心当たりでもあるの?」
「うん、ちょっと待ってね今思い出すから……」

 けれどここにいるマキは自分たちの知っている園村麻希ではない。
 一度に複数の声が聞こえてくるところは同じなのだ。
 けれど。
 彼女は別の園村麻希なのだ。
 本当にそうか?
 自分たちの知っている園村麻希の心に潜む複数の声を、あの時――神取と初めて見えた時、ここにいるマキから聞いたというのに、別人だというのか?
 どうして今、こんな事を考えるのだろう。

「そうだ、森にいるあの子確かまいちゃんていったっけ」

 マキは、ようやく思い出したとばかりに晴れやかな顔で目を上げた。いつもならその視線を避けた事だろう。だが今はそれをせず、真物は追求のみを優先させた。どうもこうもない。もう覚悟を決めたはずなのだから、今更止めるなんてしてはいけない。出来ないのだ。

 自分は『知りたい』んだろう?

 引き返そうとする自分自身を奮い立たせ、マキの脳裡にありありと浮かぶ光景に意識を集中させる。
 次第に輪郭が浮かび上がり、あたかも自分自身の記憶のように目の前に景色が広がってゆく。
 だだっ広い空き地一面に、色とりどりの花が咲き乱れ風に揺れている。
 花畑では一人の少女が遊んでいた。
 白い木綿のワンピースを着た女の子。
 熊の縫いぐるみを大事そうに抱え、どこか寂しそうに見えるその子が――

 まい

 マキの、物怖じしない率直な眼差しがまいを見る。
黒く艶やかな髪に赤いリボンを飾り、切り揃えた前髪の合間からのぞく気弱そうな印象を与える眉、目は、それでもぱっちりと見開かれ見上げてくる。おずおずと、まっすぐに。
 熊のぬいぐるみに手が届きそうなほど身を乗り出し、真物はついに思い出した。
 この子は助けを求めている。
 あの時教室で会った…非現実的な現実へ入り込むきっかけとなった『ペルソナ様遊び』を試した時
 インヤンの前でも会った
 その時は確か…今更一人逃げるわけにもいかないのに、どうにも嫌になって逃げ出そうとしていた。それを思い止まらせてくれた。
 城戸玲司もこの子に会っている。
 白い服を着た今にも死にそうな顔の少女に助けられた。
 この子に導かれて皆この世界にやってきたんだ。

 この子は
 助けを
 求めている。

 風の囁きにも似たかすかで弱い声…この子だったのだ。
 そう思うとやもたてもたまらず、真物はほんのわずかな思考の切れ端も見逃すまいと目を凝らし片っ端から手をつけた。この際自分が何をしているのかなんてどうでもよかった。助けを求めるものを放っておけない。ただその思いばかりで突っ走る。
 真物は全力を傾けた。限界を取っ払われた力は際限なく強まり、遮るもの全てを貫いて手を伸ばす。空間を飛び、壁を越えて、ついに声を掴む。
 廃虚と化したダークサイドの一角に聳え立つ、禍々しい城の前に真物は立っている。けれど全ての感覚は、花畑の中に佇む少女を見ていた。
 少女が気付いて目を上げる。
 少女は気付いて、助けを求めた。
 少女はがむしゃらに手を伸ばし
 応えるように真物も手を伸ばし…目と目が合い、体温のように伝わりくる思考を感じ――重なる。

 助けて

 凄まじいまでの力で引っ張られる。

「なに……!」
「うわっ!」
「きゃあ!」

 悪魔の襲来を感じ取った時とよく似た重圧が六人を縛り付けた。自分達の周りだけ空気が違うものにすりかわるあの感覚。しかし、誰のペルソナも発現しない。と、それまで見えない何かで押さえ付けられていた身体が急に解放され、今度は驚くほど軽くなった。
「!…」
 球状の、不可解な物質に包まれ六人は宙に浮いていた。
 声も出ない。これまでの非現実的な現実にもう驚く事はないだろうと思っていたが、これには全員が驚かされた。
 一番衝撃が濃かったのは、真物だった。

 ここです…ここにいるです……

 少女が呼ぶ。真物はもう一度、足が地から離れた非現実的な現実に目をやり、マキが奇麗だと称賛したあの眼差しで声のする方に向きを変えた。
 その場から、六人の姿がかき消える。

 

 

 

「おい、なんであいつにあんな芸当が出来んだよ?」
 答えろクソ女!

 驚きと苛立ちの入り混じった、うろたえたような物言いで、真生は檻の外にいる「彼女」に怒声を投げ付けた。
 「彼女」は動じる事無く真生を振り返り、じっと表情を観察した。
 明らかに狼狽していた。これまでの、短くはない付き合いの中でも見せた事のない、この先二度と再び目にする事はないだろう慌て振りに、「彼女」は場違いにも笑ってしまいそうになった。
 どういうつもりか「彼女」は実際口端をささやかに緩め、はっきりそうと分かる表情を浮かべた。
 もちろんそれは、真物の変化に対する喜びの感情に他ならない。

「腑抜けのまんまじゃいないってことか……?」

 余りの衝撃に笑うしかないのか、投げやりな笑みに頬を引き攣らせ真生は何度も舌打ちした。

「冗談じゃねぇよぜんっぜん笑えねぇ。大体なんで今更なんだ? えぇおい!」

 唐突に声を張り上げ、射殺さんばかりの勢いでがなりたてる。邪魔をする鉄柵の合間から思い切り腕を伸ばし…あと少しで「彼女」に届きそうだ。

「まさかあいつ……!」

 衝撃の抜けきらないぞっとするような笑みのまま、真生は目を見開いた。
 そして、普段から狂気じみている眼をさらに不気味に光らせ、冷やかに見つめる「彼女」を射抜く。

「…まさかな。いくら奈落にいたからって俺が見逃すはずは……」

 脳裡に浮かぶある因果を追い払うように忙しなく首を振り、有り得ないと呟く。

「そうとも……俺の残りカスでしかない、記憶の断片ですらないあいつに、意志が備わるはずがない! 現に今までの十一年間、あいつは無意味無目的に、クソ女の言う事を渋々聞いてきただけじゃねぇか!」

 実際に目の前で起こったというのに、真生は頑として受け入れようとはせず、可能性は充分あるはずだと言い聞かせた。
 何の為に我慢してきたと思っているんだ、こんなにも膨れ上がった殺意を。
 いつか戻れるだろうと、それもあいつから望んでそうする日が来るだろうと信じていたからこそ、決して短くはない十一年間もの時を大人しく檻の中で過ごして来られたのだ。
 ただ見ているしか出来ない奈落で。
 勝ち誇ったように笑うクソ女に歯ぎしりして。
 もっと派手にぶち壊してやりたかった人格の残骸をばらまいたまま。
 二度と出られないのか?
 明確な「焦り」が真生を襲った。奈落に閉じ込められた時にだって感じた事はなかったのに。それどころか、俺の残りカスで何が出来るとあのクソ女を笑ってやる余裕すらあった。
 それがどうだ。
 二度と出られない。こんなにも膨れ上がった殺意を向ける先が定まらない。そこのクソ女にも、見神真物にも、嫉妬に狂った最低最悪な女にさえも。

「だがまだ…可能性は残ってるよな」

 自分の世界に没頭してうなだれたままだった真生が、ゆっくりと顔を上げる。
 どんな欲望も、行き着くところまで行くと例えそれがどんなに残虐性を帯びていても、瞳に浮かぶ輝きは限りなく純粋に見えるのだった。
 真生の表情もまた、子供のように無邪気なそれに彩られていた。

「あいつが、思い出そうとするのを止めない限りな!」

 ざまあみろ、と言わんばかりに吐き捨てる。
 「彼女」は深い苦悩に閉じた瞼を震わせた。そうだ。危険は去ったわけではなく、相変わらずすぐ隣に居着いているのだ。
 意志を持ち始めたかのように見える真物の姿を目の当たりにしても。
 否、意志を持ち始めたからこそ危険性は増したといえる。
 真物の知りたいものと真生の望みは非常に近しいものだから。
 遠からず、真物は再びここに呼び寄せられるだろう。真生に、惹かれるように。
 それから先どう流れてゆくのか、「彼女」にも見えなかった。
 皮肉にもそれは外の世界と酷似していて、切っても切り離せない密接さに「彼女」は歯噛みした。
 己と対成す狂人の仕組んだ大事に奔走させられている事に。

 

 

 

 どこまでも連なる木々の合間に、真物はぽつねんと立ち尽くしていた。蒼く、深く…独特の清涼さに満ちた森の空気が、心地良く頬を撫でる。
 半歩足を引いて振り向き、下草を踏む感触を確かめるように目を落とす。
 顔を上げ、遥か頭上で生い茂る枝葉の隙間に青空を見て取り、まぶしそうに目を細めた。それから正面に視線を戻し、ようやく、自分が今いる場所をおぼろげながら確認する。
 目がまだ夢現に揺れているのは、自分の仕業で瞬時にここに飛んだ事を納得出来ていないからだ。
 あの瞬間、寸分違わずマキの記憶と自分の意識が重なり合った。
 これまで彼女が見たもの、聞いた事、言葉のやりとり、目にしたものへの感想全てが自分のものとなった。何故かその時、それまで捨て置いていた疑問を解く鍵になるのではないかという過剰な期待が生まれた。そして、ひたすら一途に知りたいと願い、それまで出来るだけ使う事を避けていた能力を惜しみなく注いだ。
 それがこんなジャンプに繋がったとは、真物自身が一番驚いていた。
 しかしどうして森なんだろう。あれは――見えたのは確かに、一面の花畑だったのに。
 ジャンプの影響によるものか、全速力で走った後に似た忙しない鼓動が徐々に落ち着きを取り戻す。そこでやっと、一人だという事に気付いた。
 何故はぐれてしまったのか気になったが、それよりもみんなが無事かどうかが問題だった。それが真っ先に思い浮かぶなんて笑ってしまいそうだが、思いは真剣そのものだった。
 さてどうしよう、近くを探してみようかと一歩踏み出した途端、唐突に声が飛び込んできた。
 滅多に真物の傍を離れない「彼女」も、この時ばかりは真生を御するのに精一杯で間に合わない。
 警告が遅れる。
 飛び込んできた声は、たった一言だけだった。

――助けて

「あぁっ!」

 短く叫んで、真物は頭を抱え膝から崩折れた。刃で切り裂かれるより、錐で貫かれるより、拳で殴られるよりもっと鋭く、深く、激しい衝撃が脳天を直撃した。ショックの余り意識とは関係なく身体が震え、今にも舌を噛みそうだ。低く呻いて奥歯を食いしばり、痛みをやり過ごそうとする。
 その気になれば、今の真物なら「聞こえない」と軽く思い浮かべるだけでどんなに強い思念だろうと完全に遮断出来るのだが、不意を突かれたせいで痛みばかりが意識を占領してしまっていた。

 痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い……

 我慢の限界を越えようかというその時、更なる困難が真物に襲いかかった。
 悪魔が出現したのだ。
 しかし、痛みに支配され這いつくばるようにうずくまった真物に、それを気付く余裕はない。
 敵は、現れると同時に真物に攻撃を仕掛けた。発見次第抹殺する事が特命といわんばかりに、一対の人馬、否、悪魔――材質の知れぬ頑強な鎧で全身を覆い、二メートルはあろうかという長槍を重さも感じさせないほど軽々と片側に従え、黒い光沢を放つ赤毛の巨大な馬にまたがっている。馬と呼べるかその生物は眼の色が極端に薄く、浮き出た血管は亀裂のようだ。
 騎手は魔馬の腹に蹴りをくれて、うずくまり動かない真物を目指した。
 地を蹴り付ける蹄の音は絶え間ない落雷を思わせ、それは辛うじて分かったのか、半狂乱の眼差しで真物は首を巡らせた。
 馬は勢いを緩めず走り、槍は寸分違わず真物の心臓を貫いた…真物があのまま動かずにいたならば。
 しかし現実は、無慈悲な鉄槍が真物の輪郭を損なう寸前、どうした力が働いたのか崩れるように身体が横に倒れ攻撃を免れた。
 足に力がこもった様子はなく、避けようとする動作の前兆も見られなかったのに、だ。
 あえて表現するなら、誰かが真物の腕を強く引っ張った、そんな感じである。
 倒れた真物のすぐ脇を、巨大な蹄が踏み荒し通り過ぎていく。
 獲物を仕留め損ねた槍はたった今まで真物がいた場所の土を深く抉り、騎手は慌てて手綱を絞り魔馬を制する。ひび割れた声で魔馬は嘶き、後ろ足で立ち上がった。
 威嚇めいた前足の動きに視線が釘付けになる。しかし脳はそれを正しく認識出来ていない。全く別の事に気を取られていた。
 現実の光景から意識の視界へ移り白黒が反転する。
 真物の傍らに、小さな女の子が駆け付けていた。しきりに「ごめんなさい」を繰り返し、自分のせいで苦しんでいる真物を危機から救う為渾身の力を振り絞って腕を引いてくれたのだ。
 幼女が思念を弱めてくれたお陰か、耳に飛び込んでくる声は「ごめんなさい」しか聞こえない。
 驚いの余り間抜けた面、で真物は幼女に目を向けた。抱えるほどもある大きな熊の縫いぐるみで顔を半分も隠し、上目遣いに恐々と真物を見ている。
 幼女に気を取られつつも、真物は現実の危機に意識を戻した。
 高く持ち上がって空をかいていた魔馬の前足が振り下ろされ、走り出す寸前の場面に立ち返る。
 無意識に下草をむしり取って立ち上がると、現実にはいない幼女を庇うように真物は一歩足を踏み出した。

「ペルソナー!」

 ようやく戻った意識からペルソナが発現し、敵を圧倒する。
 それまでとは打って変わった存在の強烈さに動きを封じられたのか、真物に対峙したまま悪魔は微動だにしない。魔馬もじっと息を潜め指示を待った。
 悪魔の出現する度、心を締め付ける恐怖から逃れる為に無我夢中で繰り返してきた力が、何らかの働きによって―恐らくは先程のジャンプによるもの―強度を増していた。
 一度味わった事のある、生暖かいうねりが逆流して全身を満たすこの感触。より複雑な力を受け入れようとする働きが身体的な変調をもたらす。吐き気を催す気色悪さはあるものの、今まで見えなかった光景が急に目の前にひらけたようで、高揚感の方がはるかに強かった。
 勝敗は既に決まっていた。やや遅れて現実がそこにたどりつく。
 ろうそくの火が消え、煙が立ち昇る…よりお粗末な残像を揺らして、悪魔は消滅した。
 しかし真物はそれには目もくれず、自分の真上に示されたもう一人の自分に見入った。以前とは明らかに違う姿形。自分の心がどのような変貌を遂げたのか視覚ではっきり確認する事によって、気持ちもそこに流れてゆく。
 えもいわれぬ感覚に真物は震えを止められなかった。腹の底から込み上げる何かが、いてもたってもいられない気持ちに駆り立てる。
 この非現実的な現実に飲み込まれる以前は、ほとんど見られなかった現実認識が三度真物を変化させた。
 真生が言うところの『残りカス』は、今にも一個の人格として確立しようとしていた。

――やめろぉ!

 意識の奥で叫んでも、真物には届かない。
 ようやく感情が鎮まりかけた時、ごく近い場所に複数の気配が潜んでいる事に気付き、真物は咄嗟に身構えた。思考のうねりを聞かないよう注意を払い、襲撃に備えて神経を研ぎ澄ます。
 困った事に、それらとは反対の方角目指して、自分だけが可視可能な思考の導線が伸びていて、気を引こうとするのだ。
 油断すればきっとさっきの二の舞になるだろうし、かといって無視を決め込むのも容易な事ではない。その上、いつの間にか幼女はいなくなっている。
 前方と後方と背後に忙しなく視線を送り、どこにも決められない内に複数の気配が前方から現れ、総毛立つような緊張が真物を襲った。

「あー、いたいたぁ!」
「真物君! もー、どこいっちゃったかと思ってたんだよ!」

 背の高い茂みをかき分けて現れたのは、見慣れた五つの顔。
 真物は一気に肩の力を抜いた。

「急に森に飛ばされるわ、シンだけはぐれちゃうわでオレ様も〜大パニック!」
「でもすぐ見つかって良かったね」

 彼らの思考を少しずつ見せてもらって分かったのは、みんなはこの茂みの向こう、少しひらけた場所にかたまって到着し、自分だけがやや離れてここに落ちたらしいということ。
 それにしては不可解な現象ではないか。確かに奇襲は音を立てず速やかに行われるものだが、誰一人として悪魔を見ていないのはどう考えてもおかしい。少なくとも、ペルソナを発現させた事によって生じる共鳴なりがあってもおかしくはないはずなのに、これではまるで自分だけがみんなの視覚から除外させられていたようではないか。
 ともあれ、再会を果たして一安心といったところか。

『あれ? なんかちょっと違わねぇか…』『シンてあんな顔したっけ?』『本人には違いないだろうが、目が…違う』

 表面をなぞるだけにとどめたのだが、中にはこんな言葉が紛れていた。内面の劇的な変化は、外見にも多大な影響を及ぼしていたのか。
 朧げな自覚はあるものの、そうなのだろうかと彼らの言葉に内心首をひねる。

「でもなんで、急にここに来ちゃったんだろ」

 釈然としない表情でマキが辺りをぐるりと見回した。

「さっきも言ったけど、ここにあきの言ってたまいちゃんがいるの。もしかしたらまいちゃんが呼んだのかなあ……」
「花畑じゃない……」

 思った時にはもう、言葉が飛び出していた。慌てて、言いつくろうなり取り消すなりしようとマキに目を向けたが、この時はさして不審がる様子も見られずごく自然に言葉を継いだ。

「うんそう、元々は花畑だったんだけと、ある日気が付いたら、こんな事になってたの」
「とにかくさ、まいちゃんだっけ? その子探そうよ」

 珍しくブラウンが、的確な意見を口にする。真物ですら「おや?」と思うくらいで、案の定マークと南条がかわるがわる「珍しい」を連発した。

「なんだよぉー、オレ様だってたまにはなぁ――」
「あーはいはい、さすがはリーダーさんだねー」

 もういいから喋んなとばかりにマークが遮る。

「園村、まいという少女がどこにいるかおおよその見当はつくか?」
「えーっとねー……」

 南条の問いに、マキは唇に指を押し当てて考え込んだ。
 見通しの良い花畑にいた頃は探さずとも見付けられたものだが、恐らく、あきの出現が彼女を怯えさせたのだろう。ここが森に姿を変えてからは、一度も見かけた事はない。
 最悪の場合もうここにはいないかもしれないが、まずはここを探してみるべきだろう。
 ここで不意にマキは、少し前の会話に不自然な部分が紛れていた事に漠然とながらも気が付いた。

 なんかヘン……なんだっけ?

 マキに背を向けて、森の奥へと続く思考の導線を目で追っていた真物は、密かにまずいともらして目だけで彼女を振り返った。
 マキは、城の前で森とだけしか言っていない。
 花畑だった頃を知っているのは、この中ではマキだけだ。
 それを、勝手に読み、あまつさえ口に出してしまった。
 その事に、マキが今まさに気付こうとしている。
 上手い言い訳を考えなければならない。あるいは適当にはぐらかすでもいい。とにかく、これ以上目立った事や発言は控えなくてはと、内心焦る。
 だがそれ以上に、幼女が残しただろう思考の導線が気になって仕方がないのだ。これ以上、手招きする刺激を無視するのは出来そうになかった。
 どうにも堪えられなくなって、真物は足早に踏み出した。
 他人の記憶の断片に、過ぎた干渉は、結局自分の首を絞める結果になるのは、もう充分理解出来ているのだが…どうしてか身体が動いた。
 助けを求める声がしたのだ。

「あ、おいシン!」

 慌ててマークが後を追う。

「どこ行くの大将!」
「何を考えているのだあいつは! 単独行動がどれほど危険か知らんわけではあるまい!」

 ブラウンの困惑も南条の憤慨ももっともだが、一度歩き出してしまうともう自分では止められなかった。自分の能力をはっきり告げる以外説明しようもないが、そんなものは全て後回しだ。
 今はとにかく知りたいのだ。あきとまいとマキの繋がる瞬間を。他にも知りたい事はたくさんあるが、まずはここからだ。
 文句を零しながらも五人は真物の後をついていった。
 木々の合間を縫うように続く思考の導線を追って、真物が進む。その後を、五人が追う。道なき道をしばし進んで、一行は、突如からりとひらけた場所に辿り着いた。
 一瞬どよめきが沸き起こる。
 森の中において、これほど不似合いな場面はまずないだろう。
 六人の目の前には、小ぢんまりとした「お菓子の家」があった。

 

 

 

 真物の追っていた思考の導線はまっすぐここに突き当たり、「お菓子の家」を包み込むようにして白くぼんやりと光を放っていた。
 たどってきた導線は徐々に向こうの端から消えてゆき、家の周りにだけ残った。
 真物を招いて、その使命を果たしたのだろう。

「………」

 目の前に、昔絵本で見たまんまそっくり同じ、正に完璧な「お菓子の家」が鎮座している。その光景にみな呆気に取られた。
「なんだ…こりゃ」
 さしもの玲司も、間の抜けた声をもらした。
 溶かした白砂糖をたっぷりとかけたココアビスケットの屋根、三角屋根のてっぺんには砂糖漬けのあんずか何かが飾り付けられてあって、屋根の縁にはホイップクリーム、細長いビスケットを組み合わせて作られた壁はレンガを模したのだろう。特に扉が凝っていて、彩りも鮮やかだ。

「すごいすごーい! これ本物の「お菓子の家」だよ!」

 子供の頃夢に見るほど憧れた「お菓子の家」を目の当たりにし、マキは場違いなほどはしゃいで傍に駆け寄った。ビスケット特有の甘い懐かしい匂いについつい顔がうっとりとほころぶ。

「な、なんかの罠じゃねーのか?」

 心配そうにマークが手を伸ばすが、対象があまりに突拍子もないせいか声もどこか間が抜けていた。

「ちょ…マークこれ食えるよ!」

 勇気を出して白砂糖を指ですくい舐めてみたブラウンが、ぱあっと顔を輝かせてマークを振り返った。

「何故こんな森の中に……」

 南条が首をひねる。余りにも不自然なこの取り合わせはこの上もなく怪しい。仮に油断させるのが目的だとしても、これではさすがに幼稚すぎやしまいか。
 すっかり「お菓子の家」に心を奪われはしゃぐマキ。
 ブラウンにつられて端を少しかじってみるマーク。
 この状況に何らかの説明をつけようとあれこれ推測する南条…彼らの「声」に聞くともなく耳を傾けていた真物は、ごく弱い別の声が紛れ始めているのに気付き、大体の予測はついている声の主を探すそうと首を巡らせた。
 仲間の声だけに向けていた意識を少しずつ緩め、おっかなびっくり手を広げる。
 気配を掴み取るのと、実際の出現とは、ほぼ同時だった。
 今まで六人しかいなかった場所に、何の前触れもなく七人目が現れた。まるで、目に見えない扉をくぐり抜けてきたように。
 七番目の人物―柔らかそうな白い木綿のワンピースを着た、小柄な少女―は、現れるなり小走りに真物の傍に駆け寄り、服の裾をしっかと握り締めた。

「!…」
「やっと、来てくれたですか……」

 驚きに目を見開き、声も出ない真物をおどおどと見上げて七人目の人物はしゃくり上げた。
 反射的に真物は思考を遮断した。
 マキがびっくりした声を上げる。

「ま、まいちゃん!」

 今にも泣きそうに目を潤ませ、こっくり頷くとまいはもう一度しゃくり上げた。

「まいちゃん、ずっと、ずっと待ってました……」

 とうとうこらえきれなくなったのか、堰を切ったようにぽろぽろと涙を零し、まいは弱々しい声で泣き出してしまった。
 まいを凝視したまま動かない真物の代わりに、マキが駆け寄って優しく宥める。

「どうしたの? 泣かないでまいちゃん。このお兄さんたちは恐い人じゃないよ、大丈夫だよ?」

 怖い人…マークとブラウンは、自分を差し置いて南条へ玲司へにやにやと視線を向けた。

「きみが呼んでいたのか……」

 傍のマキにも聞こえないくらい小声で呟いた真物の言葉に、まいははっきりと頷いた。

「よーし、ほら、涙拭いてあげる。ね、もう大丈夫でしょ?」

 一方マキは、自分の言葉に頷いたものと受け取り、取り出したハンカチでまいの顔を優しく拭ってやった。

「まいちゃん…っていうと、あの黒いお嬢ちゃんが言ってたもう一個の鍵持ってるってぇ、子?」

 遠巻きに見つめていたブラウンが、近付きながら問い掛ける。

「あきに会ったですか…お兄ちゃん達」
「会った会った、あんのクソ小生意気なクソガキだろ!」

 未だにアレ…サル呼ばわりを根に持っているマークが、語気も粗く言い放った。
 突然の大声にまいはびくっと肩を竦ませ、さっと真物の影に隠れた。
 助けを求める小さい存在に頼りにされ、真物は無意識にかばう姿勢を取った。

「もう稲葉君!」

 マキが眉をつり上げてマークを振り返る。
 睨まれ、ばつが悪そうに身を縮こまらせるマークの横で、ブラウンが小さく吹出す。二人のおふざけにいつもの数倍険しい眼差しを突き付け、南条はずいと歩み出た。

「時間がもったいないので単刀直入に聞くが、貴様が鍵を――」
「南条君もダメー!」

 近付こうとする南条を鋭く制し、マキは立ち上がって振り向きざまに叱り飛ばした。

「小さい子と話をする時は、相手の目線に合わせてあげなきゃダメじゃない! それに、女の子に貴様なんて言っちゃダメ! 子供を怖がらせるなんて一番よくないよ。そうでなくてもまいちゃん怖がりなんだから、そういう事ちゃんと考えてあげなきゃダメじゃない!」

 言い返す間も与えぬマキの勢いに気圧され、その上何度もダメ、ダメと突き付けられ、論破には自信のある南条もさすがにぐうの音も出なかった。
 南条を言い負かすマキの迫力にマークは素直に感心した。
 隣ではブラウンが、滅多に見られない南条の困惑顔に必死で笑いを噛み殺していた。

「ちゃんと怒っといたからもう恐くないよ、ごめんねまいちゃん」

 にっこり微笑み、マキは一転して優しい声音で話しかけた。
 真物は、自分の影に隠れ縮こまって震えるまいを見下ろした。何故この子は、自分の傍から離れないんだろうと、素朴な疑問が浮かぶ。

「そうだ、あたしの事覚えているよね」

 話をする前に、まず確認する。
 おどおどしながら顔を覗かせ、まいは小さく頷いた。
 真物は、服の裾をしっかと握りしめる小さな手を見やった。見知らぬ自分よりマキの方がずっと馴染みが深いだろうに、自分の何がそんなにこの子の信頼を深めているのか。
 声を聞いたからというなら、ここにいる皆も空き教室で見たし聞いている。非現実的な現実に振り回され忘れてしまっているが、記憶の糸はもう今にも繋がりそうだ。
 自分の方が少し早く思い出しただけで、条件はそう違わないはずだ。
 接触した回数は確かに多いが、それが決定打とは思えない。
 それとも…マキには近寄り難い何かがあると、そう考えた方が妥当なのだろうか。

「良かった、あのね、お姉ちゃん達、まいちゃんの持ってる鍵を……」
「あー、思い出した!」

 ようやく本題に入ろうとするマキを、今度はブラウンが邪魔をした。

「もぉ! なぁに上杉君?」

 怒って振り返るマキに謝りつつ、ブラウンは先を続けた。

「マークも南条クンも、覚えてない? ほら、シンもさぁ、あれだよ!」
 あれ、あれ!

 気が急いて言葉が追い付かないのか、忙しなく手招きして三人に同意を求める。

「落ち着いてはっきり喋れ」
「あんだよ?」
「あの、だから!」

 見かねて真物は口を開いた。

「空き教室で会ってるんだ」
 ペルソナ様遊びをした時に
「!…」

 ついに声も出なくなったのか、ブラウンは身振りで「そうそう!」とこくこく頷いた。

「む……! そう言われれば」
「ああ、そーいやそんな熊のぬいぐるみ持ってたっけな。思い出した思い出した」

 南条らが得心する間、玲司は未だ信じ難い表情で、救い主であるまいをじっと凝視していた。次元の狭間で見たのはこの少女に間違いないが、こんな子供が、ペルソナをもってしても手も足も出なかった虚無の空間に干渉出来るほどの力を秘めているとは。

「? どういこと? 真物君」

 しゃがんだまま真物を見上げ、マキは首を傾げた。
 声を聞いてしまわぬよう気を付けながら目線を向け、真物は端的に説明した。

「そうだったんだ。じゃあやっぱりお城からここに飛んだのも、まいちゃんが呼んでたからなんだね」

 マキの言葉に真物はぎくりと肩を強張らせた。
 そんな真物を見上げ、まいはわずかに頭を揺らした。
 大丈夫だと、言うように。

「それでまいちゃん、なにをそんなに困っているの?」
「あきが…この世界を壊そうとしてるからです……――」

 話が核心に触れようとした時、またしても邪魔が入った。頭上に巨大な影が差し掛かり、咄嗟に見上げた六人は、まっすぐこちらに降下するワイバーンの群れを目にした。

「早くお家の中へ! あいつらには、お家が見えてないから!」

 服の裾を引っ張ってまいは悲鳴を上げた。マークは肩にかけていたショットガンを素早く構えると、先頭に躍り出て威嚇射撃を繰り返した。

「早く引っ込めよ玲司!」

 反射的に身体が身構えてしまうのか、今にもペルソナを呼ぼうとする玲司に声を張り上げ、マークは少しずつ後退していった。マークの意図するところを察し、玲司は渋々引っ込んだ。

「稲葉君!」

 マキの声を合図に、マークは身を翻して「お菓子の家」に飛び込んだ。急いでマキが扉を閉める。
 今の今まで狙いをつけていた標的は、あたかも見えない扉をくぐりぬけたかのように突然姿を消してしまった。理解不能な出来事にワイバーンは狂ったように鳴声をまきちらしたが、的となる対象は二度と姿を現さなかった。仕方なく諦め、飛び去る。
 扉の傍で耳をそばだてていたマキは、次第に遠ざかってゆく鳴き声にようやく肩の力を抜いた。

「行ったみたいだね」
「倒しちまった方が早かったんじゃねーの?」
「子供の前で殺生はいかんでしょマーク」
「悪魔だろ」
「んでもさぁ」
「……わぁーったよ」

 諭すブラウンにぞんざいに手を振って応え、マークは苦い顔をしてみせた。いつの間にか悪魔との戦闘に慣れてしまっていた自分に、気付かされたからだ。

「あきが…街の向こう側を占領してから、日に日に悪魔が増えてるです……」

 部屋の隅で縮こまったまま、まいは蚊の泣くような声でそう告げた。

「まいちゃん、恐いからこのお家作って隠れる事にしたです…最初は楽しいものや良い事しかなかったのに…ちゃんと創ったはずなのに……」
「なに……創ったぁ?」

 素っ頓狂な声を上げてマークは目を真ん丸く見開いた。言ってからすぐに、大声禁止とマキに叱られたばかりなのを思い出し、慌てて口を押え恐る恐る振り返る。しかし当のマキは、心ここにあらずといった様子でまいを見つめていた。内心ほっとするも、呆けたような眼差しが少し気になった。

「まいちゃん、この魔法の鏡にお願いしてこの世界を創ったです……」

 まいは抱えていたぬいぐるみを丁寧に床に座らせると、服の下から半月型の首飾りを取り出して六人に見せた。

「まいちゃんのたからもの…何でも願いがかなうです……」
「おおホントだ、あのお嬢ちゃんの持ってるのとそっくり」

 もっと近くで見ようとブラウンが足を踏み出した途端、まいは怯えたように首飾りをさっと後ろに隠した。

「あ、別にとったりしないから……」

 証明にと、ブラウンは手のひらを見せて左右に振った。

「まいちゃんが、ホントにこの世界を…創ったの?」

 少し上擦った声でマキは尋ねた。無理もない、こんな唐突に自分の世界の中心を知ってしまったのだから。

「俄かには信じ難い話だな。大概の作り話は相手の目を見れば見破れるが、子供の空想は限りなく純粋なだけに、真偽の判別は難しい。だが――」

 更に言葉を続けようとする南条より早くブラウンが口を挟んだ。

「でもさあ南条、あっちのお嬢ちゃんがほいほいお城作れるくらいだから、あながちウソとはいえなくない?」
「……ほう」

 すると、どこか皮肉めいた、あるいは驚いているような笑みを口元に浮かべ、南条は窓へ目をやった。

「珍しく回転が早いな。雪でも降りはしまいか心配だ」
「オレ様にだってそれくらい分かりますぅーだ。なにさ、雪なんか降んないよーだ!」

 思い切り口を尖らしてブラウンはふてくされた。

「でも、なんであきがまいちゃんと同じ鏡を持っているの?」

 ようやくショックから抜け出たらしいマキが、真剣な顔でまいに聞く。

「それは……」

 悲しそうに目線を床に落とし、まいは続けた。

「あきは…元々まいちゃんの中にいたです…悪いまいちゃんなんです……」
「ハァ?」

 言葉の意味を理解出来ず、間抜けた顔でマークは首をひねった。

 元々…中にいた…悪い自分

 思わずぎくりとするほど自分にあてはまるキーワードに、真物は身震いした。
 がちんと重い音を立てて、鍵穴の一つが埋まる。

「人を怖がらせてばかりだから、まいちゃん恐いの嫌いだから、あきを自分の中に閉じ込めて出られないようにしたです。でも少し前……」

 まいはか細い声で説明を続けた。
 耳だけで聞く光景を、真物だけは、実際の過去として体験する。
 ゆるやかに切り替わってゆく視界に、真物は意識を集中させた。
 目を閉じ、目を開く。

 私はまいであり、まいは私であった。
 私はいつもたった独りで花畑にたたずんでいた。ここにいて世界を管理し、人々を眺めている。時折、赤いリボンをつけた少女がやってきて遊び相手になってくれるが、その少女が帰ってしまうと私はまた独りになってしまう。どんなに寂しくても、私には役目があるので我慢するしかなかった。
 少女以外滅多に人の訪れる事はないのだが、ある日、黒い服を来た男の人が私の前に現れた。とても恐かったのを覚えている。
 何故なら、私の管理する世界にあんなに黒いものは一つもないからだ。
 逃げなくては、と思ったその時、私は信じられないものを目にした。
 逃げようとする私の中から、男の人目掛けて黒い塊が飛び出したのだ。
 嬉しそうに飛び跳ねる黒い塊は、男の人に名前を聞かれ「あきだよ、パパ!」と嬉しそうに抱き着いた。
 私は愕然となった。ずっと昔に封印して閉じ込めておいたはずのあきが、外に出てしまった。
 これ以上恐ろしい事はない。
 私はすぐにあきを呼び戻そうとしたが、叶わなかった。
 そして男の人に連れられて、どこか遠くへ去ってしまった。去り際に、私の力を半分奪って。
 私は花畑を森に変えて隠れる事にした。
 助けを求める私の声が誰かに届くまで。

「神取……!」

 怒りの余り声にならない声で叫び、玲司は両の拳を握り締めた。また、彼の眼差しに鋭い光を放つ憎しみが宿る。こんなにも澄み切った瞳が、憎しみしか知らないなんてあまりにも惨すぎやしまいか。

「まいちゃん一生懸命助けを呼びました…少し前までは、街のこちら側に悪魔が現れる事なんてなかったのに……」
「それだけ向こうの力が強くなってきているということだな」
「あのオッサンがなんかやってるからじゃねぇの?」
「まいちゃん…もうこれ以上隠れる場所ないです…どうしたら……」

 今にも泣き出しそうな瞳に大粒の涙が浮かんで、上を向いた可憐な睫毛をうっすらと濡らした。

「隠れるって……」

 どう言葉を返すべきか困ったように苦笑いを浮かべ、ブラウンは口篭もった。

「隠れているだけでは現状を打破する事は不可能だ。実害があるのなら、立ち向かうしかないな」
「ちょいちょい南条君、相手女の子だから。それちょっと無理だから」

 端で聞いていたブラウンが、きっぱりと言い切る南条の肩を叩いて首を振る。
 恐らく南条なら、言うとなったら例え生まれたばかりの赤ん坊にでも今と同じように話した事だろう。非常に南条らしい主義主張だが、単なる子供の喧嘩とは訳が違うのだ。それはあまりに酷というもの。

「でも南条君の言う通りだよ、まいちゃん。逃げてるだけじゃ何も変わらないよ」

 そこにマキが口を挟む。励ますように強い笑顔でまいを見つめ語り掛ける。

「で、でも……」

 涙を潤ませたまま、まいは考え込むようにぬいぐるみを抱き上げ俯いた。

「お兄ちゃん達は――」

 それからゆっくりと眼差しを引き上げ、並ぶ六人の男女を順に見つめながらまいは言葉を綴った。
 まっすぐに向かってくるまいの瞳が、真物を捕えた。

――この前、みんなに会いたいってお願いしたばかりなのに……

 奇妙な声が耳の奥で響く。前に聞いた覚えのある言葉を思い出したのか、それとも今誰かが思い浮かべたのを心の中から拾い上げたのか、判別のつかない声。
 耳のずっと奥、頭の内側に弱く響くこの声は一体。

――最近良い夢を見るから……

 一体どこから聞こえてくるのか。もし思い出したものなら、何故突然関係のないこの場で浮かんできたのか。

――見た事もない男の人なんだけど……

 もし誰かが思い浮かべているのなら、その誰かが特定出来ないのは何故なのか。

――まるでお父さんみたい……

 遠くで響く声は、優しい気持ちに包まれているのを伝えようとする心の動きに合わせて、いくつもの暖かな色が折り重なったイメージを伴い視界いっぱいに広がる。うっとりするような心地良さに心を奪われ、真物は抗う事なく目を閉じた。

「なんで――」

 真物が聞き取れたのはそこまでだった。まいの唇がその先に続く言葉を綴ったが、意識は既に内面へとジャンプしていた。時間の拡張が起こる。

「――生きてるです?」

 

 半強制的に引きずり込まれる事はあっても、自ら進んで他人の意識に入り込む事はまずなかった。何が自分をそうさせたのか分からないが、真物は自らの意思で呼ぶ声に応え内面にジャンプした。

 私は麻希であり麻希は私であった。
 四角く仕切られた狭い部屋にベッドが一つ、私はそこに横たわってじっと天井をみつめる。とても狭い部屋。息が詰まる。今にも死んでしまいそうだ。

 苦しい苦しい苦しい。

 私はこの苦しみから解放されたいと願った。
 するとベッドの脇に、白い服を着た女の子が現れた。私はその子に「苦しいの。助けて」と言った。女の子は頷いて、もう一人私をつくった。もう一人の私を見た途端、私の中から苦しみは嘘のように消え去った。

 けれど今度は、怒りが込み上げる。私を独り放っておく人に対する怒りだ。

 私はどうにかして怒りを晴らしたいと願った。
 するとベッドの脇に、黒い服を着た女の子が現れた。私はその子に「苦しいの。助けて」と言った。女の子は頷いて、私の中から怒りを全て吸い取ってくれた。途端に意識を占領していた怒りは嘘のように消え去った。

 そうなると今度は、楽しい事が欲しくなった。

 私が天井を見つめたままその事を口にすると、白い女の子と黒い女の子は同時に頷いて別々の方へ去っていった。

 もう一人の私は、私が二度と苦しい事を思い出さないようにずっと下の方へと降りていった。
 私は相変わらず狭い部屋に横たわったままだが、もう苦しみや怒りを感じる事はない。

 楽しい事は、白い女の子と黒い女の子が運んできてくれるようになった。

 白い女の子は、正に私が理想とする楽園を作り、また別の私をそこに送りたくさんの楽しい事を体験させてくれた。

 黒い女の子は、正に私が理想とする父親を探し巡り会い、共に過ごし力になることで楽しい事を体験させてくれた。

 私はもう、これ以上何も望むものはなかった。これで充分だ。苦しみもない。怒りを感じる事もない。あるのは、楽しい事ばかり。
 現実の世界は酷い事だらけでろくでもなかったが、ここにいればあんな思いは二度としなくていいのだ。もう未練はない。やがて忘れられる日が来るだろう。

 私はやっと、楽園の扉を開いたのだ。

 

 そうか。やはりそうだったのか――

 ようやく真物は、始めから目の前に出揃っていた答を受け入れた。
 彼にとって、これは謎でもなんでもなかった。ただ見ていなかっただけなのだ。
 これが他の誰かなら、もっとたくさんの判断材料がなければ答えに行き着く事は不可能だが、彼には他人の思考の断片を聞き取るという能力があるのだ。それを以って、はっきり意識を傾けたなら、誰よりも早く真実に辿り着くのは至極当然の事なのだ。
 彼らはまだ、疑うどころか、推測さえ浮かべていない。ここが、自分達の世界と似て非なる世界だと信じ、自分らと旅を共にしているマキを全くの別物だと信じている。
 真実はそうではない。もう解ってしまった。
 全身が締め付けられるような悪寒に、真物は身震いした。妙に冷たい汗が首筋に浮かぶ。
 狭い殺風景な部屋。白く、無機質で、何もない。

 あれが麻希

 ドクン

 突然胸の奥底が大きく脈打った。
 漠然とした恐怖が、どこからともなく沸き上がってくる。
 今にも姿を現して恐怖をもたらそうとする何かに圧迫され、真物は自分の意志で麻希の内面から遠ざかった。
 随分長い事とらわれていたように思ったが、現実では瞬きする程度の間だった。
 立ち返った途端、まいの続きの言葉が耳に飛び込んできた。

「――生きてるです?」

 子供らしからぬ苦悩に満ちた眼差し。ずっと麻希と共に在り、麻希の苦しみを見てきたからなのだろう。
 麻希の内面に触れ、ほんのいっときとはいえ『園村麻希』となった真物は、何故こんなにも全てに絶望を抱くようになったのか始まりから知る事が出来た。
 身の毛もよだつような無の風景はまた、得体の知れぬ恐怖をもたらすと同時に、別の感情を真物に抱かせるきっかけにもなった。

「生きるって…苦しくない?」
「違う!」

 皆それぞれに口篭もり、ある者はまいの視線から逃れるように顔を背け、またある者は言葉を捜すのに手間取っている中、真物だけがきっぱりと言い放った。
 今まで無かったものが、今まで在ったものを押しのけて真物の感情を占領する。

 怒りだ。

 現実に背を向けて、間違った方法に没頭する麻希に向けて放った怒りの言葉は、奇しくもまいの質問に答える形となった。
 仲間の視線が、一瞬にして真物に集中する。
 脳裡に焼き付くほど強烈な麻希の深奥に、真物はこれまで感じた事もない怒りを抱いた。
 「彼女」の干渉に腹を立てる、聞きたくもない他人の内面を聞いてしまいうんざりする…真物にとって怒りは、この程度の乏しいものだった。
 怒りだけでなく、喜ぶとか悲しみといった感情も無いに等しい。
 ほとんど、いや、全ての物事に対して心を向ける事を拒否してきたからだ。何も見ない、何も聞かない。そうすれば、何も感じる事はない。
 今まではずっとそうだった。(出来なかった?)
 だが今、自分がしたのは、感じたのは、抱いたのは、全くの正反対で、自分以外なら誰でもごく自然にやっていること。
 相手の心を受け取って、自分の心を返す。
 感情が激しく波打ち、目眩にも似た症状に真物はぐっと奥歯を噛んだ。自分は今確かに「違う」と言った。否定はしない。そうとも。麻希のしている事は間違いだと思ったからだ。はっきりと、刻み付けるようにはっきりと思った。これを今までのように、どうでもいいで済ませたくない。彼女に、それは間違っているのだと、戻るべきだと伝えたい…一刻も早く。
 強い願いが込み上げてくる。

『どうしたの? 急にそんな事言い出して。あなたらしくないじゃない』

 振り返り冷たく言い放つ「彼女」を、真っ向から見つめ返す事で真物は応えた。
 好ましく思っていないのかと受け取れるほど素っ気無い物言いは、きっとこちらの変化がどの程度強いものなのか見極めようとしているからなのだろう。
 どうぞ、好きなだけ覗くといい。
 自分でもこの気持ちがどこから来るのか分かっちゃいないが、そんなのは些細な問題だ。

――やっと二番目の女に気付いたな

 予想外の方向にずれ始めた真物を引き戻そうと、意識の底から真生が呼びかける。ひどく切羽詰まった、まるで余裕のない表情で。それでもあの陰湿な笑みだけは絶やさない。
 真物は強い目付きでこくりと頷いた。
 もしもこんな状況でなかったら、どんなに「彼女」が邪魔をしようと全ての謎を解く為に真生と向かい合った事だろう。
 だというのに今はどうしてもこちらに心を奪われてしまう。麻希に伝えたい気持ちが一番濃いのだ。こんなに躍起になるのは自分でも理解出来ないが、最悪な女の名前とか、残り滓がどうとかよりも、麻希を呼び戻すにはどうすればいいかに全力を傾けた。
 とはいえ、いつを境にかはっきりしないがこんなにも変化した…散々無視してきた記憶に触れようと足を踏み出すようになった自分が、いくつもある謎の切れ端を見せられて、それでも麻希だけに集中するのは容易ではなかった。
 あれも知りたい、これも知りたいというのが正直な気持ちだ。
 真物は混乱した。
 自分の奥深くにどこまでも沈んでいきそうになるのを、集中する仲間の視線が辛うじて引き止める。
 違うと否定した真物に、半ば諦めながらも何かを期待するまいの眼差しが強く突き刺さる。
 真物はわずかに口を開いた。しかしすぐには言葉が出ない。

『間違ってない。それでいいのよ』

 ためらって口篭もる真物を励まし、「彼女」は大丈夫だと何度も頷く。
 真物は顔を上げ、まいと、マキを順繰りに見つめ、もう一度まいに視線を向けた。まいの向こう側に麻希を見出そうと目を凝らし、麻希の深奥に沈んでいったもう一人の麻希をも見ようとした。

――出来っこねぇよ。お前なんかに、出来るわけがないんだ! それよりも俺の手を……

 意識の奥で、真生が毒を吐くように罵倒する。
 真物に届く寸前「彼女」が受け止め、黙れと視線で制する。
 無言で圧迫しあう二人に一瞬気を取られ、真物はますます混乱を深めた。
 それ故に、根本にある思いが素直に口から零れ落ちた。

―――なんで生きてるです?

 答は

「それを探しているところだ……」

 虚空に向けて言葉を放ち、ぎこちなくまいに目を向ける。
 表情こそ変わらなかったが、暗く打ち沈んでいた眼差しにみるみる光が戻り、まいの一番深いところ…麻希にまで届いた事を真物に知らせた。
 混乱してもつれていた意識が、不意に元の場所におさまり嘘のように消えてなくなる。
 そして、まいの声のみがすっと頭に滑り込んできた。

『この人ならきっと見つけてくれるはず』
 生きる事の意味を

 自分にそれが出来るか確証はないが、もし信じてもらえたなら、出来る限り応えたいと思う。

(なんだ、これ……自分じゃないみたいだ)

 しかしこれはどこまでいっても自分の意思に違いない。だが、どうもしっくりこない。どこか別の場所からやってきたような、あるいは元々あって消えかけていた【自分と似て非なる自分】がここに同化したような、なんともいえない不思議な感覚に真物は心の中で小首を傾げた。ちらりと「彼女」を見遣ると、どこにおかしなところがあるとゆるやかに首を振るばかりだった。
 片時も目を離さず、振り返り見守る「彼女」が、何一つ見落とすわけもないのだが。
 ふと目を戻すと、まいがゆっくりとした足取りで近付いてくる。自分の正面で足を止め、意を決したように顔を上げた。まっすぐにぶつかってくる眼差しに込められた希望が、真物の胸を打った。

「探す…ですか」

 そうだと、真物はこっくり頷いた。
 少し考え込んでから、まいはすっと鍵を差し出した。眦に滲んだ涙は、微笑んでいるせいか嬉し涙のよう。

「お兄ちゃんならきっと、見付けられると思います……」

 真物は両手でそっと受け取ると、振り返ってマキを見た。
 不思議なものを見るようなマキの目付きとぶつかる。
「よおっし、これでやっとあのお城に入れるッスね!」
 どこかわざとらしいブラウンの物言いにマキははっと我に返った。そこでやっと真物の視線に気付き、今度は、食い入るように見つめた。

「すごい…ね」
『どうして生きてるかなんて…今まで考えた事もなかった』

 彼女の内面をうっかり耳にしてしまい、真物は慌てて思考を遮断した。
 目の前のマキから、果たしてどんな風景を掴み取る事が出来るのか少なからず興味は―恐らく興味なのだろう―あったが、もしまたあの白く何もない部屋に行き付いたらと思うと、とてもじゃないが耐えられない。正直言って二度とごめんだ。

「まいちゃん、必ず元の街を取り戻してみせるから、少しだけ待っててね!」

 出発の号令を、まいの励ましに代えて、マキは意気込んだ。

「はい…です」

 まいの声は相変わらず弱々しかったが、その表情から暗い影はすっかりなくなっていた。
 自分だけではどうにもならなかった、それどころか悪化してゆくばかりだった状況を、彼らが打ち壊してくれるかもしれない。願いを込めてまいは祈った。

 

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