GUESS 緑 8

心 友

 

 

 

 

 

 扉の向こうとこちらでは、正に天国と地獄ほどの開きがあった。埃っぽい陰鬱な通路からは想像も出来ないほど、扉の向こうは眩しい光に満ちていた。
 強烈な光に射抜かれ、六人は咄嗟に目を閉じた。

『来るわ』

 瞼の裏まで真っ白に染まり、思考さえおぼつかない真物に「彼女」が警告の声を上げる。真物は是も非もなく従い、思考を遮断した。
 この、非現実的な現実に投げ出されてから、扉を開ける度にその向こうに渦巻く感情に打ちのめされてきた。それなのに、その事実を忘れまたしても不用意に扉を開けてしまった自分を叱咤し、素直に礼を言う。
 随分な変化だと「彼女」は嬉しそうに驚き、またすぐに厳しい顔付きに戻り油断なく身構える。

「ようこそ! カーマ宮殿へ!」

 突如聞こえてきたいやに弾んだ声に、六人は一斉に目を開けた。
 誰もが、目の前に広がる光景に唖然となった。
 中央に小さな噴水を設えただだっ広い円形のホール、やたら高い天井、赤みが強すぎて下品極まりない絨毯、大理石にごてごてと装飾を施した四本の支柱、極めつけは、正面に伸びる通路の入り口に立っている男―さっき喋ったのはこの男か―の格好。肌の色が白くないだけマシかもしれないが、それでも半裸を見せ付けるにはあまりに貧弱過ぎる体格をしていた。日焼けした肌が絶対的に格好良いと思い込んでいるのだろう。

「ハーレムクイーン様に会いに来たのかい? 君たち!」

 いちいち大袈裟な動作で喋る男に呆気に取られる中で、南条がまず我に返った。

「ハーレムクイーンとは…何者だ?」
「君たち、クイーン様を知らないのかい? クイーン様はここ、カーマ宮殿を治める若く美しいお方さ。その美貌は他の追随を許さず、神の手にも為し得ない絵を描かれる。その才能は、まさにこの世のものとは思えない素晴らしさなんだ」
「この通路を行くと展覧室がいくつもあるから、是非全て見てまわるといいよ。クイーン様の偉大さがよおく分かるから!」

 マークはそぉっと玲司を振り返った。案の定あからさまに嫌そうな顔をしている。恐らくここの内装からして肌に合わないに違いない。

『コイツがこんなん趣味だっつったら、サムすぎてシャレになんねーし』

 西洋宮殿を思わせる造りにあてられたのか、つい間の抜けた事を考えるマークの声を、真物はそれとなく拾っていた。
 声は今の所それしか聞こえない。だが、きな臭い臭いが立ち込めているのは間違いない。実際鼻を鳴らしても何も感じないが、顔を顰めたくなるほどの刺激集がする。ごくわずかに。それが、「彼女」の遮断したかったものだろう。主は恐らくハーレムクイーン。

(まさかあの人じゃ……)

 目を閉じ、石像の一つから読み取った映像を思い浮かべる。
 イボのようにもりあがった無数のほくろ
 怒りの余りヒステリックに震える唇
 目は逆に、寒々しいほど鋭く光っている
 確かに見覚えのある顔はしかし、似ても似つかないほど変貌を遂げていた。
 そんなはずがない。すぐさま打ち消す。

「ここにはあなたしかいないの?」

 マキが進み出る。

「この先の展覧室に僕の仲間たちがいるよ。街の人達はクイーン様に逆らった罰で、みんな石にされちゃった」
「何?」
「マジかよ!」

 恐ろしい事を平然と言ってのける男に、南条とマークが詰め寄る。

「く、クイーン様は、とても繊細なお方なんだ。機嫌を損ねるとすぐさま、石に変えてしまう。でもそれは、あいつらがクイーン様を傷付けるような事を言ったからで……」
「独裁者か……」

 玲司が忌々しく吐き捨てる。誰を思って言ったのか、即座に理解出来た。

「とんでもねぇ奴だぜ、ハーレムクイーンてのはよ!」
「き、君たち、そんな事クイーン様の前で言ったりしたら……」
「あぁあん?」

 うるさそうに睨み付け、マークが唸る。途端に男は口を噤んだ。

「マキちゃんさぁ、オレ様が見た限りじゃ、あの石像の中にちさっちゃんらしき女の子はいなかったと思うけど」

 ブラウンが進言する。恐いもの見たさの心理で、一つ一つまじまじと眺めたから間違いない。

「そっか…じゃあきみ、ここに、髪の長い女の子いない? 背はこうすらっと高くてスタイル良くて、すごく綺麗な子なの。名前は香西千里! 心当たりない?」
「お、女の子なんて見た事ないよ。で、でもクイーン様は、男でも女でも特に気に入るとお側に置くらしいから……」

 最初の勢いはすっかり失せて、おどおどと男は説明した。

「よっしゃ、んじゃ直接聞きに行こうぜ」
「そうだね」

 まだ何か言おうとしている男を置いて、マキ達は通路に踏み込んだ。

 

 

 

「やあいらっしゃい。最近じゃここを訪れる人もなくなって、退屈していたところなんだ」

 展覧室の扉を開けると、三、四人の青年がにこやかに出迎えた。
 中は広く、入り口のホールと同じように悪趣味な内装をしていた。絵を飾る部屋らしく、照明はわざと暗くしてある。

「さあさあ、どうぞ好きなだけ鑑賞していってよ。ところで外って、今どうなってんの?」
「まさかとは思うけど、君たちもしかして壁の向こうから来たの?」

 皆似たような背格好で、やはり上半身裸だった。そして貧弱。よく見れば、年齢は自分たちとそう変わらないようだ。

「俺ってイケてる?」

 少年の一人が、鼻にかかった甘ったるい声でマキに擦り寄った。

「はぁん?」

 園村に気安く声をかけるなとばかりに、マークが割り込む。そこでまじまじと相手の顔を眺めたが、どう見ても『イケてる』とは思えない。
 見た目はそれなりに整っているが、慢心がありありと伺えた。そんな薄っぺらな人間を格好良いとは評価しない。

「なんかめちゃめちゃ勘違いしてない? この人達。カッコイイってのは、オレ様みたいなヒトの事を言うのにねぇ」
「だったらオマエそれ言ってこいよ」
「軽々しく口にしないのがイイ男ってもんでしょ」

 つっけんどんな物言いをするマークにブラウンは余裕の笑みを浮かべて見せた。

「さあ見てってよ。これがクイーン様の絵」
「どう。素晴らしいでしょう?」
「クイーン様はお姿ばかりでなく、描かれる絵まで美しいんだ」

 似たような格好で、似たような事を言う少年たちに、台本でも作ってあるのではないだろうかと思ってしまう。賛美の言葉ばかり口にするが、彼等は間違いなく心の中では全く正反対の事を言っている。声が一切聞こえないのが何よりの証拠だ。

(ただの他人の空似だ……)

 彼等に構われないようひっそりと隅に立って目を伏せ、真物は自分の推測が間違いである事を祈った。
 ハーレムクイーンと、自分の知る誰かが同一人物だなんて、そんなはずがない。
 記憶の中ではとっくに二人の姿は重なり合っていた。けれど真物は、頑として認めなかった。
 今まで他人の事なんてどうでもよかったはずなのに。
 煩わされるのが嫌で何とも思わないようにしてきたのに。
 今だって本音は『どうでもいい、彼女がどうなっていようと関係ない』のに親友が哀しむのかと思うと、どうにもやるせなくなって、ただの他人の空似だ。彼女のはずがない。そうだ、もしかしたら誰かにそそのかされているのかも…そんな事まで考えていた。
 そんな願いは、壁にかけられた一幅の絵を見た途端脆くも崩されてしまう。

「そんなっ…これ!」

 悲鳴に近いマキの叫びに、真物は突かれたようにはっと顔を上げた。真正面に『ハーレムクイーンの絵』がある。

「ねえ、真物君この絵! これ、千里が描いた絵だよ……! そうだよね!」

 絵の傍に立ち、訴えるように真物を振り返る。
 呆けたような驚きが真物の顔にみるみる広がる。
 どうして。どうして自分の願いはいつも叶わない。
 光源を見つめるように目を細め、真物は絵の傍に歩み寄った。

「見覚えあるでしょ?」
――見てみろよ。女の怒り、つまり嫉妬だ

 マキの声に重なり、別の言葉が頭の中に響いた。意識の中で誰かが腕を引っ張る。

『麻希なんか目じゃない。見神クンだって』『二人とも大した事ない』『私の方がずっと上手じゃない』『麻希のヤツ、ちょっと誉めたくらいでつけあがりやがって』『どいつもこいつも、馬鹿にすんじゃないわよ!』

 鼻先に絵を突き付けられ、聞こえたのは千里の声。間違いなく彼女。他人を褒め称える言葉を惜しみなく吐きながら、その実心の中ではけなし蔑んでいた。耳を澄ませば、全ての発言は皮肉に満ちている。常に輪の中心にいなければ気が済まず、些細な事でも人と競い合っていた。
 自分は綺麗なんだと、最高なんだといつも声高に主張していた。

「嫉妬心の塊みたいな女だよな」

 突然の語りかけ。
 真物はぎょっとなってすぐさま振り返った。外からの声ではない。他人の思考の断片ではない。自分の内側だ。ここで自分の内側で意識の中で、「彼女」以外の声を聞くなんてありえない……

「見てはいけない」

 「彼女」の警告は、しかし間に合わなかった。
 真物はそこに、三人目の存在を目にした。
 果てのない暗闇の中、虚空から向けられたスポットライトに照らされ、円形の檻に閉じ込められた一人の少年の姿が浮かび上がる。
 「彼女」は少し離れた所から振り返り自分を見ていた。いつもと違うのは、驚愕に似た焦りを浮かべた眼差し。口元は、今にも何か言うそれに酷似して歪んでいた。
 そんな表情は、未だかつて見たことがない。
 語る言葉を眼差しに込め沈黙する「彼女」も気になるが、真物はそれよりも、檻の中の少年に目を奪われた。
 着ているもの、背丈、格好、髪の色、顔の……

「久しぶりだな。見神真物」

 ゆっくり手を上げる。

「中々凝った演出だろ? もっとも、このオリは悪趣味極まりないけどな」

 瞬きもせず、食い入るように見つめる真物に、ゆっくりと言葉を綴る。

「誰……」

 白光に滲んで姿がよく見えない。真物は無意識に足を踏み出した。

「いけない」

 魅入られたように近付く真物を「彼女」が鋭く制する。

「冷たいな。思い出さないのかよ」

 声は聞き覚えがある。いや、そんな遠いものじゃない。
 聞き覚えがあるどころか……

「ようやく会えたってのに」

 顎を引いて上目遣いに薄く笑う。
 わずかに陰影が出来てようやく、閉じ込められた少年の顔かたちを見て取る事が出来た。
 異様な音を立てて真物は息を吸い込んだ。
 檻の中に閉じ込められているのは、ピアスをしていない以外何一つ自分と同じ――別人……

「これでわかるだろ……」

 指にはめた『あるもの』がよく見えるよう手を開いて胸にあて、眇めた眼で真物をねめつける。
 女性用の指輪は関節でつかえ指先にしかはめられない。薬指の爪の根元を取り巻く白金の輪は、忘れるはずもない…しかも彼が持っているそれは、損なわれていない白金のリング。

 それを持っているのは

「!…真生――」
「そうだ!」

 それまでの抑え目な低い声とは対照的に、感情も露に張り叫ぶ。

「聞いたか、クソ女!」

 ざまあみろと、真生は「彼女」に吐きかけた。

「俺を殺さず力だけを利用しようなんざ、虫が好すぎんだよ! 俺を殺す事なんてお前には無理だろうけどな! どんなにお前が頑張ったって、完全に分離するなんて出来ねえんだよ! じゃなきゃああのタケダって奴を、あそこまで痛め付ける事は出来なかったはずだもんなぁ!」

 真生の言葉に、真物はぐっと奥歯を噛み締め顔を背けた。
 動揺する真物をよそに、くすくす笑いながら真生は喋り続けた。

「いやホント凄いよおまえ。俺の残りカスにしちゃあ、よくやったと思うね。なにが良かったって、ホントはとっくに行き先が『見えて』んのに、汚いもの見せた腹いせにって手足の骨一本ずつ折って殺してくトコ。やる事がまともじゃないね。けど、スッとしただろ?」

 見るもおぞましい顔付きで真生は笑った。
 今更ながら真物は、自分のしでかした事の異常さに震え上がった。同時に、真生の言葉に衝撃が走る。
 残り滓ってなんだ
 前に「彼女」が言った【衝動的な殺意】とは、彼の事なのか?

「黙りなさい!」

 思いもよらぬ「彼女」の怒声に、真生は一瞬口を噤んだ。が、迫力に圧されてというよりも、わざと口を閉ざしたようだ。そう、従う振りをしてみせたのだ。黙る気などさらさらない。

「黙らなかったらどうする? また俺をあそこへ追いやるか? それは無理だ。絶対無理だぜ。俺をここまで引き上げたのは、半分は真物の力だからな。そう、真物が呼んだんだ。だからもしお前がここで俺を追いやっても、ハーレムクイーンに会った瞬間、真物はまた俺を呼ぶ」

 自信たっぷりに言い放つ真生に何も言い返せない歯痒さに、「彼女」は忌々しげに睨み付け唇を噛んだ。
 真物は何も出来ずただ二人のやりとりを聞いていた。ずっと昔も、同じようにびくびくしながら言い争う二人を見ていたような気がする…あれはいつだったか

「つまりは…女の嫉妬が、引き金になるんだ」

 女の嫉妬という言葉に、「彼女」はますます顔付きを険しくした。わずかに眇めた眼を向けただけだったが、激しい憤怒を秘めているのは間違いなかった。

「女の嫉妬……」

 息も絶え絶えに真生を見つめる。

「今までいくつも見てきただろ?」

 悪意に満ちた目で真生はくすっと笑った。

「今から会いに行く奴は、俺たちの中じゃ三番目だけどな」
「三番目? おれたちのって……」
「今に分かるさ。二番目が誰か。そして最悪な女の名前も」
「いい加減にしなさい」

 長い髪を揺らして真物の前を通り過ぎ、「彼女」は檻の前に足を止めた。

「じゃ、また後でな。せいぜいハーレムクイーンにぶっ壊されないように、気を付けろよ」
「待てっ……」

 ふっとスポットライトが消え去り、一瞬の暗闇の後視界に現実の光景が戻ってきた。
 全ては瞬きする間の出来事だった。真物は、正面の絵から目を逸らし、同意を求めるように見つめてくるマキと目を合わせないようにかすかに頷いた。

「どうして千里の絵がここに…クイーンに捕まって、描かされているの……?」

 マキの憶測に曖昧に首を振る。分からない、と。真実は、とっくに見えていた。それが余りにも無慈悲なものだから――二人が親友である事を思うとどうすればいいのか途方に暮れる。
 そしてそれとは別の所で、真生の残した言葉が頭から離れず、他に何を思う余裕がない。
 ひどく混乱していた。

「ううん間違いない……これ千里が描いた絵だよ」
『思い出した…』『中三の時描いたものだ』『千里は私が出したテーマで、私は千里が決めたテーマで描いた』『女の人の描き方…間違いない』『どういうこと!』

 今にも泣き出しそうに唇を歪め、マキは俯いた。見かねてマークが口を挟む。

「ほ、ほら、ここであれこれ考えてたってしゃーねーじゃん? だからハーレムクイーンに聞きに行くトコなんだし。そんな顔すんなって、な?」

 弱々しく頷くマキ。

(そうだ、ハーレムクイーン……いや、千里さんに会えば、真生とも会えるはず。僕が呼ぶのだと言っていた。女の嫉妬がそうさせると……)

 自分が何かを思い出せるのか、疑問だった。女の嫉妬と口にすれば、不可解なほど心が竦み上がってたまらなく恐くなる。何もないならそんな怖がり方をするはずがない。何かが発端となっているのは間違い無いだろうが、この非現実的な現実に放り込まれてから幾度となく過去を掘り起こそうと努力しているにも関わらず、未だ原因を発掘する事は叶わない。
 やっと思い出した「真生」も、名前以上は分からない。残り滓とはどういう意味なんだ
 これで本当に思い出せるというのか…疑問が付きまとう。

「ハーレムクイーン様に会いに行くのかい?」
「全ての展覧室を抜けた先の扉がそうさ」
「くれぐれもハーレムクイーン様を怒らせないようにね」
「君もイイ男だけど俺もなかなかでしょ」

 一人見当違いな事を言ってくる輩に真物は無視を決め込んだ。考える事が多すぎて今はそれどころではない。
 考えようと無理矢理気持ちを奮い立たせているわけでもなく、真物は自然と頭を働かせていた。
 最悪な女の名前を解く鍵。
 香西千里に会う事。
 自分の問題はそれで解決するはず。
 しかしそれで終わりじゃない。
 何が彼女をああまで残酷にさせたのか。目の前で人が石と果てるのを望む、無慈悲で冷酷極まりない行為を平然とやってのける心理。
 駆り立てているのはなんだ?

『オンナノシット』

 親友の想い人。
 もしも彼がこの事実を知ったとして…どうすれば親友が哀しまずに済むのか。自分に出来る事を考える為に、惜しみなく思考を巡らせる。
 没頭するあまり、今までの自分が拒否していた事をしているのに気付かない。「彼女」にしてみれば、両手を上げて歓喜したくなるほどの変貌ぶりだった。
 真生の出現がそうさせたのだとしても、喜ばずにはいられなかった。
 謎を解く為に、探す事を始めた真物を。

 

 

 

 帰ってくるなり大声でわんわん泣き出したあきに、男は困惑し手招いて膝に抱き上げてやった。

「パパからもらったおもちゃね…壊されちゃったの」
「せっかく、せっかくパパが…プレゼントしてくれたのにね…あきね…壊しちゃったの…ごめんなさい!」

 首にしがみついて泣きじゃくるあきを優しく宥める。

「そうか。壊されてしまったのか」
「……パパ怒ってる?」

 おどおどと見上げるあきに首を振る。

「怒ったりしないよ」
「ホント?」

 真っ赤に泣き腫らした目を恐る恐る上げて、あきは鼻を鳴らした。

「お前が無事ならそれでいい。彼らを侮っていた私がいけないのだから」

 黒々と艶やかな髪をそっと撫でてやりながら、男は静かに言った。

「パパは悪くないよ! あいつらがいけないんだ。生意気で、よわっちいくせに、ずる賢くてさ!」

 あきは眉をつり上げ憤慨した。

「今度会ったら、もっとひどい目に逢わせてやる。そして、パパのお願いを叶えるんだ」
「協力してくれるかい?」
「パパの為ならあき、なんでもするよ! だからパパ、ずっと傍にいてね!」
「もちろんさ。あきが望む限りいてあげるよ」
「パパ大好き!」

 胸元に顔を埋め、至福の表情であきは目を閉じた。
 絶対の信頼を寄せ、決して裏切らない幻のような存在を胸に抱き、男は軽く目を閉じた。
 しばしの静寂の後、あきは静かに口を開いた。

「あいつら、今ごろハーレムクイーンに会ってるはずだから、もう少ししたらこのお城に来ると思う。でもここはパパとあきのお城だから鍵がないと入れない」
「鍵はあきと、森にいるまいが持ってる」
「半分ずつ……」
「元々は一つだった」

 以前あきが説明した、二人の力の源である割れた鏡。

「何でも願いが叶うカガミ。でも今は半分だけだから、パパの役に立てない……」

 寂しそうに呟くあきを励ますように、男は言った。

「そんな事はないさ。半分でも、充分私の役に立っているよ」
「でも、もう半分あればもっと凄い事出来るのに」

 悔しそうに歯噛みするあきを、黙って見つめる。

「だから、だからねあき、いい事思い付いたんだ」

 きらきらと瞳を輝かせ、あきはにっこり微笑んだ。
 あきの心には、男の役に立ち、喜んでもらう事こそが善であり、その他の事、つまり男を思い悩ます全てのものが悪であると成り立っていた。
 そうする事が、本来の自分を喜ばし慰める唯一の方法だと、思い込んでいた。
 自分を生かしている絶対のものだと。

 

 

 

 展覧室にはそれぞれ二、三人の少年たちが待ち受けていた。どれも見分けが付かないような似た顔ばかりが揃い、大概が自分の容貌を鼻にかけ癇に障る態度で振る舞った。
 格好いいと勘違いして。

「にしてもさぁ、オレ様絵の事あんましわかんないんだけど、あのー、なんつーかこう……」

 興味のないものを長時間見せられ飽き飽きした、というのとは少し違った表情で、ブラウンは言葉を濁した。

「どうどう? 素晴らしいでしょ? クイーン様の絵」
「いいよね、これ」

 彼らの中身の伴わない誉め言葉にもうんざりしていた。

『つまんないっつーか』『うん、つまんない絵だ』『よくこんなの誉める気になるよな。ある意味エライよ』

 何食わぬ顔でばっさり切り捨てるブラウンの内面の声に、真物は少し賛同していた。
 単純に、面白味のない絵だと評価したからか、それとも千里の皮肉に対するささやかなお返しのつもりか。
 と、

「おまえらさぁ、もう少しモノを見る目を磨けよ!」

 黙っているのも限界とばかりにマークが進み出た。

「この絵もさあ、綺麗に描けてるし色使いとか悪かねーよ? でもよ、それだけなんだよ。絵っつーのは心で描くものなんだよ。この絵にゃ心がこもってねーんだよっ!」
「よく言った。無駄に壁を汚していただけではなかったようだな、サル」
「だー! しばらく大人しくしてたかと思えばこの……!」

 噛み付く勢いで睨むマークも気にせず、南条は続けた。

「園村の絵は心に響くものがあったが、この絵には何も感じられん。上辺だけの、薄っぺらなものということだ」
「けっ! ってーこった! わかったかバーカ!」

 言うだけ言ってすっきりしたのか、青くなったり赤くなったりする少年たちを置いてさっさと展覧室を後にする。
 絵画を侮辱されたようで、我慢ならなかったのだろう。まだ憤っているマークの内面の声を耳にすれば、彼がどれほど崇拝しているかよく分かった。
 では自分は何だろう。
 ふと思う。いつ頃から、どんなきっかけで絵を描くようになったのだろう。恐らくうんと幼い頃の事だから、もう覚えてはいないけれど……

(幼い頃――)

 真物はぎくりとなった。
 何があった?
 夢を見たよりもっと不確かなものを思い出そうと、真物は目を凝らした。
 突如足をすくわれる。

 血と、刃物と、争う二人
 殺しあう大人たち…あれは、あれは……誰だったか
 あれは誰かの親
 親としての自覚も未熟な歳若い二人
 散々憎んで罵って、殺してやろうと刃物を手に……
 それはどうして?
 それは
 きっかけとなったのは――!

 激流にも似た勢いで失われた片鱗が注がれる。一歩間違えば手は届かず、再び意識の奥底に消えてしまうだろう。
 真物は一心不乱に追いかけた。
 不意に、扉が行く手を阻んだ。記憶の核心をしまい込んだ、無数の鍵穴をもったあの扉。鍵穴はまだ半分も塞がっていない。

「この扉がそうなのかな」

 問い掛けるマキの声に、真物は我が目を疑った。正面の扉には鍵穴など一つもなく、色も形も全く違っていた。軽い目眩を感じ、真物は目を閉ざした。瞼の裏に薄い暗闇が降りた瞬間、頭の中に気の狂った女の声がうわんと響いた。

『死んでしまえばいいのよ!』

 命を脅かすコトバに真物は震え上がった。息も絶え絶えに冷えきった指先でピアスを確かめる。血の気の失せた指よりも尚冷たい塊を探り当て、奇妙な安堵感をまた得ようとする。

「ぽいぽい。この向こうにいるんじゃないの?」
「しのごの言ってねーでとっとと開けろ」

 刺々しい物言いで玲司がうなる。

「う、うん」

 玲司の迫力に圧されて、というよりも、別の悩みに苦しめられマキは躊躇していた。

『どうしよう』『すごく不安になってきた。もし……』『……もしこの扉の向こうに』『そんなことあるはずない!』

 マキもまた最悪の推測を立てていた。真物は混乱した。誰ともつかない気狂い女の声に打ちのめされて息をするのもやっとだというのに、こんな状態で会わなければいけないなんて。

『女の嫉妬』

 追いつめられる真物を見て、意識の内側で真生がくすっと笑った。

――アールグレイが一番美味しい。誰が言ってたっけ

 この先確実に訪れるであろう惨劇を、待ち焦がれているというのか。真生の表情は愉悦の色をうっすらと浮かべていた。

「どっか具合悪いのか、園村」

 青ざめたマキに顔を曇らせ、マークが傍に歩み寄る。

「わ…私――どうしよう」

 苦悩をはりつけたままマキは扉を押し開いた。ひたすら進み続け、振り返る事を知らないマキは、今回も同じ手段をとった。前に進む、それしかないのだ。

 豪奢な大扉は、全く重みを感じさせず内側に滑り込む。

「――誰?」

 部屋の奥から女の声が響いてきた。

「やっぱり……」

 そうもらしたのは、マキか。真物か。この声を、まるで知らない人だと言い切れたらどんなに幸せか。
 マキは、先頭に立って声をたどった。謎は解けたというのに、何故心は晴れない。何故こんなにも哀しく、やるせなく、傷付いているのか。
 それは

「アンタ達……!」

 それは、壇上の玉座にくつろぐ

「………」

 異国の服を纏ったハーレムクイーンが

「千里……!」

 その人だからだ。
 きっちりと結い上げた髪にいくつもの輝石をあしらった冠をはめ、しなやかな肢体を強調する黒いビロードの服、露になった肩にゆったりとショールを羽織り、きつい色の紅を引いている。
 まるで別人のように飾り立てた千里に向かって、マキは気後れした様子で名を呼んだ。

「なっ……!」
「え〜!」
「ちさっちゃん?」

 マキがはっきり名を示したのに、三人は別人を見るような目を千里に向けた。
 ある意味、千里の顔はまるで別人のものだった。

『うるさい。だまれバカどもが』
(………)

 美しく高価で上質なものを身につけているのに、そぐわない。
 醜女は、どんなに着飾っても醜女でしかない。

「貴様、誘拐されたと聞いたぞ。何故ここで支配者ごっこなどしているのだ!」
「冗談きついよちさっちゃん!」
「な、なあシン、香西ってあんなにほくろあったか?」

 南条とブラウンが口々に叫ぶ合間に、マークが密かに耳打ちしてきた。

「いつも自慢してたよな、自分の肌はキレイだってよ」
『…うるさい………』

 騒音にかき消されたように途切れる別の声が、真物の思考に割って入る。マークの声に重なって、妙に癇に障った。

『アタシを………』

 「彼女」の警告通りにしているはずなのに、それでも邪魔な声は途絶えなかった。

「ようこそアタシの城へ! 美しいでしょう?」

 攻撃的な眼差しをぶつけて、千里は玉座から立ち上がった。
 真物は思わずその動きを目で追った。謀らずも千里と目が合う。

『アタシはアンタ達なんかに劣ってないわよ!』

 何の隠し立ても無い本音が、真物の脳天を直撃した。
 刹那、時間が凍り付いた。
 目に見える世界は一切の動きを放棄し、色を失う。残ったのは白と黒。白は無で、黒は混沌。
 ところが突然黒が物凄い勢いで他を侵食し、濃く塗り潰していった。
 何も見えなくなる……
 最後に残ったのは意識だった。

 

 

 

 呼んだ覚えは全くなかったのに。

「いや。俺ははっきり聞いた。お前が叫ぶのを」

 円形の檻の中、真生は緩慢に両手を広げた。

「危ない所だったけど、逃げ足は結構速いな。にしてもお前、随分下らない事してるよな」
「……え?」
「俺抜きだと、あんな風になるのか? 理解出来ねえよ」

 真生は嫌悪に唇を歪め、ぞっとしないと肩を竦めた。

「なんであんなこと…まさかお前さあ、あいつらに協力する事で『扉』開くとか、思ってんの?」

 真物は言葉に詰まった。見抜かれた。はっきり頭にあったわけではないが、少なくともその方法が扉を開く鍵になるのではないか。考えていたのは事実だ。

「今まで片っ端からどーでもいいって無視して、あれもこれも見ないフリしてきたお前が、やけに他人に関心持つなと思えば、そういうことか」

 小馬鹿にしたように鼻を鳴らす。

「なんで急に始めたんだ? 何も持ってない、何もいらないはずのお前が。あのクソ女がいくら言っても、逃げてばかりいたのに」

 問い詰められ、真物は無意識の内にピアスを掴んだ。

「それにどんな意味があるんだ?」

 真物は全身をびくっと震わせた。
 真生は檻に拘束されている。真物はその外にいた。逃げようと思えばどこへでも自由に行けたはずなのに、真物は逆に真生に向かって足を踏み出していた。恐慌状態に陥って、色の抜けた瞳を見開いたまま。

「他人の事なんかお構い無しで、ただその日を生き長らえていれば十分だった」

 近付いてくる真物を、一挙手一投足逃さぬ注意深さで見守る。さながらそれは、自分の身を危険に晒しながらも猛獣を射程内に導いている狩猟者のようだった。

「死なない程度に。それでいいんだろ? なのになんで、わざわざ女の嫉妬に近付くんだよ」

 真生は、手を伸ばしたい衝動をぐっとこらえ言葉を重ねた。あともう少しで手が届く。「彼女」がいない今なら。

「僕は…、………」

 何一つ言葉が浮かんでこない。

「答えられないのか」
「あ……」

 真生のきつい物言いに落としかけた目線をびくっと弾ませ、また弱々しく目を伏せる。

「かわいそうに。ひどいよな。いくら聞かれたって答えられないよな。だってお前の意志じゃなかったんだから」

 ぶたれた小犬の様におどおどと震える真物に手を差し伸べ、頬に近付ける。
 接触に対する条件反射で、真物は一歩後ずさった。動いてから、気まずそうに目を逸らす。
 薄笑いを浮かべ真生はわずかに顎を引いた。

「気にするなよ。お前は悪くない。全部、あのクソ女が仕組んだ事だ」

 囁く真生に、真物は驚きのまま目を見張った。

「お前をそんな腑抜けにしたのも、あいつだよ。嫌なものばかり押し付けられて、他のものを取り上げられたら、誰だって無気力になるよな。死ぬのが恐い、血を見るのが嫌、なのにあの女は、そんな状況にばかりお前を追い込んでる。お前は、見たくも聞きたくもないのに。何でだと思う?」
「分からない。でも…そう…だ。「彼女」の干渉があんまりうるさくて鬱陶しくて無視出来ないくらいになって、仕方なく話を聞くようにしたんだ。それで気が付いたら、他人を助けるような真似に繋がっていた。本当にそうしたいと思ってやったわけじゃないのに。死ぬのも、血を流すのも、僕は感じたくないのに」

 思い当たる節はいくつもある。「彼女」はいつも強引に、見る事聞く事をさせてきた。こちらの事などまるでお構い無しに。こっちは、外の声だって聞くに耐えないのに、わざわざ他人の本音まで響かせて!
 誰がどこで何を考えていようと、こっちには関係ないじゃないか!

 本当にそうか?

 疑問が滑り込む。
 頭の奥に鈍い痛みを感じ、真物はわずかに顔を歪めた。どこか間違えていないか? 人の『声』を聞きたがっていたのは「彼女」ではなくて――

「あのクソ女は、お前にとって迫害者なんだよ」

 真物に考える間を与えまいと、真生はもっともらしい言葉を並べ立てる。

「……迫害者?」

 真生の誘導に乗せられ、真物は耳を傾けた。

「前に調べた事があるだろ? 他の人格を殺そうとする、一番危険な存在の事を。あいつがそうだったのさ」

 前に調べた…そういえばそんな事をした覚えがある。去年か? 言い出したのは確か――

 内藤陽介

 一つの名前が他の記憶を呼び覚ますきっかけとなり、真物は閉ざされた意識から弾き出された。
 「彼女」に強制されたのではなく、自分の意志で辿り着いた過酷な現実へと立ち返る。心友に誓ったのだ。必ず千里を連れ戻すと。
 それは紛れもなく自分の決意だった。

『誰の為に?』
 友達の為に

 一握りの土くれを、真物は拾い上げていた。
 安堵する「彼女」。
 檻の中、真生は悔しそうに歯噛みした。

 

 

 

「千里! もうやめて!」

 喉の奥から悲痛な叫びを絞り出し、マキは懇願した。
 憤怒に目をぎらつかせ、それでも千里は笑っていた。悦こんでいた。更にほくろが増えてしまったのも気にせず、千里は快感に身を震わせ気狂いじみた笑い声を上げた。
 時間の流れから外れていたのはほんのわずかな間だったはず。
 そのわずかな間に何があったのか。マキを残し、四人は完全に石の塊と変わり果てていた。通路に並んだ石像を覚えているなら、大方の予想はつく。彼らが、こうなる事を分かっていて尚非難したのだという事も。石像にまとわりついた無数の光る粒――自分だけに見える思考の残留が、無言の内に語っていた。

「お願いだから…元の千里に戻ってよ」

 涙に声を震わせ、マキは親友の顔を見上げた。

「うるさい! アタシはあんたが困ってるところをもっと見たいんだよ! いい気味! ざまあみろ!」

 毒々しく罵る言葉の一つ一つが、薄く尖った爪で引っかくようにマキの心を傷付ける。そしてそれは真物にも同じ痛みを味わわせた。泣く事すら出来ず竦み上がる子供のように棒立ちになり、辛うじて息を付く。

「それより見神クン。どうしてあなただけ残したか解る?」

 ふいとマキから目を逸らし、動じた素振りも見せない真物に視線を注ぐ。こんな時でも顔色一つ変えないなんて。千里は内心舌打ちした。
 突き刺さる千里の内包物に、真物は怯えたように顔付きを険しくした。思うのは勝手だが、決め付けられるのは苦痛だった。何も感じてない訳じゃない。
 本当は誰よりも本心に近い場所にいるのだ。それがどんな痛みを生むか、知るはずもない。

「見神クンなら、正しく答えられると思ったからよ。そこの四人はみんな外れ。ま、別に期待なんかしてなかったけどね。ったく、なんでマキの絵なんか誉める気になるのよ! どう見たってアタシの方が上手いじゃない!」

 腹いせに石にした四人を見回し、千里は忌々しげに舌打ちした。

『何も分からないくせに偉そうな事いってくれる!』『絵は心で描くもの? それじゃアタシの絵には心がこもってないとでもいうの!』『アタシを馬鹿にする奴は絶対許さない』『アタシは力を手に入れたのよ! どんな願いも叶えてくれる鏡の力を! それはアタシにそれだけの価値があるからよ!』

 マークは、一も二もなく『マキの描いた絵』の方を多少の慕情も込めて優れていると褒め称えた。
 南条は、借り物の力で他人をねじ伏せ言いなりにさせた千里の心を罵倒し卑怯者と言い放った。
 ブラウンもまた、やり方がフェアじゃないということで千里を選ばなかった。
 玲司は、ただ一言『独裁者』と吐き捨てた。
 千里は激怒し、選択を誤った彼らを大鏡に映し石の塊にしてしまった。どんな願いも即座に叶えてくれる大鏡を、千里はうっとりとした目で見つめた。この鏡を与えてくれた『天使様』に心の底から感謝する。
 天使…黒い服の幼女。千里の記憶に垣間見えたあきの姿に、真物の心はおののいた。

(天使って……)

 冷たい汗が首筋を伝う。千里はあきを崇拝し、微塵も疑っていない。願いを叶える度に、自分の自慢にしていたものが損なわれていくというのに。
 今やほくろは千里の顔全体に広がって、見るも無惨な有り様に成り果てていた。
 あきは何故、千里に鏡を与えたのだ。

「さあ答えて! アタシと麻希のどっちを選ぶの?」

 隙を見て飛び掛かろうと身構えた猛獣のように目をぎらつかせ、千里は張り叫んだ。
 悪鬼の如き形相で立つ千里の傍らに、泣き崩れ助けを求める少女の姿が薄ぼんやりと現れ、真物の目を奪った。半ば透き通った亡霊のような少女もまた千里で、それは、彼女の良心に近かった。存在が希薄なのは、過ちを繰り返す慢心を暴走させてしまったからだ。けれど、まだ完全に消えてはいない。

「お願い千里!」

 これ以上人が傷付くのを見るのは耐えられない。マキは割って入った。

「千里の方が上手いって分かったから…だからもうこんな事やめて…皆を元に戻して……」
「麻希……」

 千里は静かに応えた。けれどそれは了解したからではなく、怒りの余り言葉を失ったからに過ぎない。

「そんな事思ってないくせに……」

 怒りに震える声で千里は言った。

「アタシ、昔っからあんたのそういうとこ大嫌いだったのよね。知ってた? なんでだか分かる?」

 突然信じ難い言葉を突き付けられ、マキは呆然となった。

『やめて! やめて! 麻希は親友なのよ!』
 それ以上言わないで

 薄れゆく千里の良心が髪を振り乱し哀願する。けれどどんなに泣き喚いても、取り返しのつかない事をしでかす自分を止める手だてにはならなかった。

「アタシ知ってんのよ、あんたが心の中でアタシの事、馬鹿にしてるのを!
自分の方がかわいい、自分の絵は優れてる! 
ちょっと人に誉められたからっていい気になって、アタシの事見下してたでしょ!
分からないとでも思ってたの?
それでもアタシがあんたに付き合ってやったのは、あんたに他に友達がいないからよ!
そうよ、身体が弱くてろくに学校に来られないあんたがかわいそうだから、親切にしてやったのよ!
そうすればアタシの評価も上がるしね…実際、良い気分だったわ」

 千里は、悪魔のそれと同じ笑いを浮かべた。千里の良心はますます希薄になり、ひたすら謝罪の言葉を繰り返す。

「そう…だったの……そんなに私の事…嫌いだった……」

 消え入るような声でマキは呟いた。衝撃に顔は青ざめ、唇が小刻みに震えている。

『ぜんぜん知らなかった』『そんな風に思われていたなんて』『妬まれていた』『千里が私の事を羨んでいた』『羨んでいた……』

 奇妙な色を見せるマキの内面の声に、真物は一瞬気を取られた。深く傷付いた心は本物の血と見紛う黒ずんだ赤に染まり、しかしその中に一筋鮮やかな朱が紛れている。
 これは喜びか。
 何故?
 そして、そして…なぜこの世界のマキが、千里の言葉を衝撃と受け取るのか。

「ついでに言うとね、麻希。陽介と付き合ったのも、あんたの羨ましがる顔が見たかったからよ。別にあんな奴、本当に好きで付き合ってたわけじゃないのよ」
『違う、違う…陽介の事は好き…大好き……』『こんな私でも大事にしてくれるんだもの……』『私にはもったいないくらい素晴らしい人だよ……』

 千里が麻希に対して激しい嫉妬心を抱いているのは、紛れもない事実だ。羨むあまり、利用出来るものは全て利用して麻希を見返そうとした。麻希が自分を羨ましがるなら、物でも人でも構わなかった。
 許せない。
 けれど、千里の全てがそれだけを考えていたわけではないのだ。彼女は、たった一つでも良いから支えが欲しかったのだ。彼女はがむしゃらに求めた。キレイである事は彼女をかなり安心させた。けれどすぐに、思うよりも脆く下らない事に気付いてしまった。別のものを求めた。
 特技と呼べる物は絵画しかなく、それにしたってすぐに才能がない事に気付いてしまった。それでも麻希さえいなければ満足出来たかもしれない。しかし麻希がいる現実は変えようがない。
 後は…後は何もなかった。
 そこへ、陽介が現れた。

『麻希から陽介を奪ったのは悪いと思ってる…いけない事したって…でも麻希はいろんなものいっぱい持ってるじゃない…アタシには何もないんだもの…アタシだって支えが欲しい…だから陽介に頼って…でもきっと陽介は……』

 陽介に寄り添いながら、千里はいつも罪悪感にかられていた。それは陽介に対してであり、麻希に対してであり、また自分にも感じていた。一人になった時、それは最も激しく自分を苛んだ。けれど人前ではおくびにも出さず、特に麻希の目の届く範囲では過剰に自分達の仲を見せ付けた。
 相反する二つの自分を置き去りにしていた結果が、この有り様だ。
 一方では麻希を憎み、もう一方は死んでしまいたいくらいに後悔している。
 自分を死なせるか、相手を殺すか。

――もうそろそろ解ってもいいんじゃねぇの?

 辛うじて耳に届く程の小声で真生が囁く。嫉妬に狂った最悪な女の名前を思い出せと。

 自分を殺して、相手を死なせた女

『こんなものいらないわ!』

 真物は弾かれたように仰のいた。

 真っ赤な水がたくさん流れてきて、お母さんが大事にしていた銀色の指輪もウサギのぬいぐるみもみんな赤く染まってしまった。赤い水は、いつもお母さんが料理で使う包丁の先から流れてくる。いつもお母さんが使っている。今もお母さんが持っている。自分の指を――

「言うのよ! アタシの方が麻希より優れてるって! 早く!」

 火を吐く勢いで怒鳴り散らす千里が、記憶の中の女と重なって見えた。酷似する状況が、閉ざされた記憶を呼び覚ますきっかけとなる。
 真物は、顔も思い出せない女の姿をただ眺めていた。そうするしかなかった。前の時も、ただ見ているしか出来なかったから。

――そうして見殺しにした

 真生が無感情に吐き捨てる。
 真物は震えながら目を見開いた。何も出来ないと言われ、本当に何もしてこなかった自分を思い知らされ、己の余りの虚ろさに悲嘆する。

『そんなものを見るくらいなら、今この状況を変える力を見なさい』

 真生の言葉はほんとうに正しいの?
 「彼女」の語りかけは、諭すより尚強く心に響いた。
 今やっと目を覚ましたかのように顔を上げ、真物は強い目で千里を見つめた。
 真物の心を奮い立たせたのは、心友に誓った言葉。
 何が出来ると問われても答えは出ないが、自分はそうしたいと心から思った。
 思ったのだ。

「僕は――」

 真物は身体の向きを変え、マキを正面から見た。
 それが答えだった。
 音の聞こえそうなほどに奥歯を噛み締め、千里は真物の背中を燃える目で睨み付けた。
 もはや聞き取れないほどの怒りの嵐が、千里の内面で渦巻いていた。荒れ狂う彼女の憤怒を聞いて尚、真物はきっぱりと背を向けた。

「真物君……」

 真っ向から注がれる視線を、マキは不思議な物を見るように見つめていた。
 心なしか、いつもと瞳の色が違って見える。
 その時、千里の隣に鎮座する大鏡が突如閃光を放ち部屋全体を白く包み込んだ。驚き、真物は即座に振り向いた。半ば無意識にマキをかばう形で立つ。その目を、白光が鋭く射抜いた。

「へえ、上手い具合に二人だけ残ってるじゃん」

 目を射る輝きに何も分からなくなった二人の耳に、聞き覚えのある声が飛び込んだ。
 内包物を一切受け取るまいと、真物はぐっと奥歯を噛み締めた。
 唐突に光は消え去り、入れ替わるように大鏡の横にあきが現れた。

「やだぁ、随分ひどい顔になっちゃったねクイーン。かわいそ」

 千里の傍に歩み寄ると、あきは哀れむようにくすくすと笑った。

「て、天使様……」
「あき……! 千里、そいつは天使なんかじゃない!」

 千里のほっとした表情は、デヴァ・システムの前で神取が見せたそれと同じ。マキはぎょっとなって張り叫んだ。

「うるさい! あんたに何が解るのよ!」

 止めるマキを無碍に振り払う。

「ねぇクイーン、あいつら倒したら、その顔元に戻したげる。殺しちゃっていいよ。だって、あいつらクイーンにひどい事言ってたじゃん。だから…やっちゃえ」

 恐ろしい事を平気で言い放つあきに一瞬呆然となった千里だが、抑制から解き放たれる瞬間を思うとたまらなく心が弾んだ。

「そうね、そうよね…あいつら、アタシを馬鹿にした…殺してもいいのよね……」

 薄笑いを浮かべて、千里はふらりと立ち上がった。理性を取り払われた人の目は白く濁り、狂気を思わせる光を宿していた。

「そんな…千里……」
「力をあげるよクイーン。そんなやつら殺しちゃえ!」
 ノモラカ・タノママ!

 半月型の首飾りを掲げ短く唱える。浮き出た光は砂粒ほどに収縮し千里の眉間を貫いた。と、千里の全身が見る間に変化してゆく。

「千里……」

 最後に背中を向け、千里は逆方向にねじれた両手で後頭部の髪を左右に分けた。そこには、らんらんと輝く双眸と鋭い歯が並んだ丸い口があった。

「すごいすごーい!」

 変貌を遂げた千里を見てあきがけらけらと笑う。
 真物はそこに、千里とは別の女の嫉妬が絡んでいるのを思い知った。切迫した状況でそれが誰なのか見極めようとする。

――今は危ないから止めとけって

 余裕もないのに無茶をするなと真生がたしなめる。もっとも、ここからでは声は届かないが。

「憎いわ」
『みんなみんなみんな憎い』

 千里と誰かの声が重なって頭に響く。肌は痛いほど緊張し、化け物と成り果てた千里にほとんどの意識を奪われいくらも考える余裕はないのだが、どこかで聞いているはずの少女の声を無視する事は出来ない。千里とは別の、女の嫉妬、それはこの声の主に他ならないだろう。そしてこれは自分でも突飛すぎる推測だと思うが、その少女こそがあきを動かしているのでは……

「死ぬのよ!」
『みんな消えちゃえ!』

 雄叫びを上げて千里が襲いかかる。そこに紛れた破滅を望む言葉は、今まで忘れていられたのが不思議なくらい壮絶な衝動をもたらした。

「千里!」

 マキの叫びにはっと目を戻す。【悪魔のような】千里の姿が目の前にあった。眼前に迫った命の危機に、一瞬にして恐怖が膨れ上がる。
 真物は咄嗟にマキを後ろ手に押しやり、盾代わりになった。それしか出来なかった。
 真物の顔に翳を落とすように腕を振り上げ、千里は低い唸りを上げた。
 人間の手とは思えないほど異様に長く伸びた指からは、鉤状に爪が飛び出している。
 恐怖に突き動かされて、真物は爪の先に目を向けた。
 唐突に視界が切り替わる。

『死んでしまえばいいのよ!』

 そう言って女は包丁を振り上げた。
 やっと思い出した。

 あれは母さんだ――

――大当たり

 自分の思う通りに流れてゆく真物に、真生は満面の笑みを浮かべた。

「死ぬのよぉ!」

 呆けたように立ち尽くす真物を、千里は容赦なく打ちのめした。

「真物君!」

 頭から倒れ込む。衝撃はあったが、痛みはまるで感じなかった。ふと頭に手をやると、ぬるりとした感触が伝わってきた。手を付いて身体を起こす。どこか切れたのか、頭からぽたぽたと血が滴った。面白いように流れ出る自分の血を、真物は気の抜けた目で見つめていた。

「いい気味! テッソを壊したお返しだ!」

 血を流して倒れ伏す真物にけたけたと笑い、あきは吐きかけた。

「やめて千里! もうやめて!」

 背後でマキが叫ぶ。反射的に真物は振り返った。庇うように立ちはだかるマキに狙いを定め、千里は咆哮した。
 真物はまだ、過去の光景に囚われていた。
 マキと千里が、殺し合う大人達だった。
 親としての自覚も未熟な歳若い二人。片方は、抑えに抑えた怒りを爆発させ、なりふり構わず罵り憎悪をぶつける。もう一方は過ちを認めひたすら謝罪の言葉を繰り返す。しかし女の怒りは鎮まらなかった。
 そして最悪の結果を招いた。
 自分を殺し相手を死なせた。
 死なせたのだ。

「やっちゃえクイーン!」

 あきの掛け声と共に千里が襲いかかる。
 マキは無抵抗のまま立ち尽くしていた。
 鋭い鉤爪がマキの喉首にかかる…と、突然強く腕を引かれマキはよろけながら後ずさった。
 はっと顔を上げると、ペルソナを従えた真物が千里と対峙していた。

「だめ、真物君だめ! 千里を傷付けないで!」

 真物は、自分が何故ここにいるのか分からなかった。殺し合う二人から逃げてきたはずなのに、こちらも殺意に満ちている。どこにも逃げ場はないのか。

「なんで殺すの……」

 声もなく真物は呟いた。錯乱したままペルソナの力を発現させる。

 ガル

「やめてぇ!」

 無我夢中でマキは、千里を襲う風刃に氷塊をぶつけ対抗する。

「千里は何も悪くない! あきのせいで我を失ってるだけなの! だから、お願いだから千里を傷付けないで!」

「傷付ける……?」
 誰が、誰を傷付けるというの?

 真物は訝しそうにマキの顔を見つめた。目の奥にちくりと痛みが走る。
 間違ったものを見ている真物に警告を促す。

「悪魔なら…いいのか……」

 確かに悪魔と呼べる物は散々消滅させてきた。悪魔を殺すのは、そうしなければこちらが殺されてしまうからだ。死を免れる為に悪魔を

 人の心のなれのはて

 かつて「彼女」が言った真実が真物の意識を揺り起こした。
 瞳に映る現実を正しく把握する寸前、それまで見ていた殺し合う二人から視点が横にずれ、傍らに立ち尽くす子供の姿を見止めた。あの子は――

『今はこっちよ!』

 「彼女」が手を引く。
 顔を確かめる間もなく現実に引き戻される。
 真物は目を瞬いた。
 惑わされている場合ではないのだ。今はどうにかして千里を元に戻さなくては。
 もう一度、心友に誓った言葉を思い出す。そして、今の自分に出来る事を強く心に思い浮かべた。
 呼応してペルソナが力を示す。
 子供の顔を確かめたい気持ちは残っていた。親達が殺し合いをした理由も、千里の声に紛れて聞こえた別の女の正体も、知りたい事は山ほどあった。けれど今は、千里を助けたい気持ちの方が勝っていた。
 恐らくマキの内面の声がそうさせるのだろう。
 千里を大切に思う気持ちが、自分の中にも広がり始めている。それはとても暖かく、心強いものだった。
 真物は、壇上に取り残された千里の良心を一瞥した。すっかり諦め絶望して、疲れた顔で座り込んでいる。

『麻希を殺すくらいなら……』

 心友を殺すくらいなら自分が死んだ方がましだと、弱々しく繰り返す。
 もうたくさんだ。人がいがみ合うのも、殺し合うのも見たくない。
 真物は素早く銃を構えた。狙うのは千里ではなく、あきでもなく、あきが寄り添う鏡の方だ。この推測が正しいか分からないが、鏡を壊せばきっかけが生まれるかもしれない。

 マハーガル

 風刃を投げ付けあきの目を逸らさせると、真物は躊躇せず引き金を引いた。
 部屋中に響き渡る乾いた音に誰もが動きを止めた。

「しまった……!」

 弾丸は鏡の隅に命中し、同時にあきが舌打ちする。弾がめり込んだところから瞬く間に無数の亀裂が走り、身悶えするように鏡がかたかたと震え始めた。
 追い打ちをかけるように真物は真空波をぶつけた。ひび割れて脆くなっていた鏡は、あっけなく粉々に砕け散った。
 見届けてから、真物はすぐさま千里に向き直った。推測が正しければこれで彼女は――

「千里さん……?」

 動きを止めたままの千里に恐る恐る声をかける。と、がっくりと膝を折り、崩れるように千里は倒れ込んだ。
 慌ててマキが身体を支える。

「千里? 千里!」

 ぐったりともたれかかる千里の顔は相変わらず醜いほくろに覆われ、見るに耐えなかった。
 真物が鏡を撃った時点でマキは考えを瞬時に理解し、自分もそれに賭けた。しかし願いも空しく、千里に変化は表れなかった。
 二人は顔付きを険しくした。
 不意に背後が騒がしくなる。四人が石から解放されたのだ。

「ったくひでぇ目に逢ったぜ」
「なんつーか貴重な体験だったねぇ!」
「笑っている場合か」
「良かった、みんな元に戻ったんだね」

 複雑な面持ちでマキは振り返った。真物も振り返ろうとして、別のものに目を引かれた。いつのまにか千里の半身…良心がすぐそこまで近付いていた。物悲しい目で、変わり果てた自分を見下ろしている。

「大丈夫だったか、園村!」
「私は…何ともないから」

 心配そうに尋ねるマークに首を振って応える。

「ちさっちゃんは……」

 おっかなびっくり顔を覗き込もうとするブラウンの視界をさり気なく遮り、マキは小さく言った。

「今は気を失ってる……」
「ああ、そう」

 マキの声色に何か察したのか、ブラウンはそれ以上聞こうとはしなかった。

「がっかりしてんでしょ、そいつの顔が元に戻んないから」

 どこからかあきの声が響いた。真物は身構えるように振り返った。手は無意識に銃を握り締めていた。

「鏡にお願いして変わったものは元に戻るけど、そいつのは自業自得だもん」
「あき……」

 マキは激しい怒りに身を震わせ、あきを睨み付けた。

「なるほど。貴様が裏で糸を引いていた訳か」

 地下通路であきが言った『奇麗な女の子』とは香西の事だったのだと、南条は頷いた。

「神取の差し金か? 奴は今どこにいる」
「もうそろそろ教えてくれてもいいんじゃない? ねえお嬢ちゃん」

 南条の怒りを察したのか、ブラウンがやんわりと口を挟む。

「探せばどっかにいるんじゃない?」

 馬鹿にしたように言い放ち、あきはけらけらと笑った。

「自業自得……そうだよね……」

 かすれた声で呟き、千里は目を開いた。

「千里! 大丈夫?」
「そいつら倒せなかったし、あき弱いやつキライだから、もう帰るね」
「待ちなさいあき!」

 マキは鋭い声で制止した。言葉の持つ力でその場に縫い止めようとする。
 対してあきは、腐った汚いものを見るような目でマキを見やり、腹の底がぞっとするような笑顔を浮かべた。

「あき……」

 完全に飲まれてしまった。何も言えないまま、あきが姿を消すのを見届ける。

「相変わらず憎たらしいガキだぜ」

 苛立ちをため息に交えマークは吐き出した。
 あきが去り過度の緊張感から解放されほっとした時、真物は、いつのまにか千里の半身がいなくなっているのに気付いた。

「大丈夫よ千里! 絶対あきを捕まえて、元に戻す方法聞き出してくるから。約束するから!」
「もういいよ。もう、いいから…あの子の言う通りだもの。私…麻希にあんな、あんなひどい事言って……」

 親友を殺したいほど憎んだ事実に、千里は涙も零せぬほど泣いた。どんなに謝っても許される事ではない。

「私…もう生きてる資格なんかないよ……」
「馬鹿な事言わないで! そりゃあ…正直ショックだったけど…でも、生きてる資格がないなんて、そんな悲しい事言わないで! 私、千里のこといつも誇りに思ってたんだよ。おしゃれで綺麗で自分をしっかり持ってて。私の親友なんだって思うと、すごく誇らしかった。だから、もし死にたいなんて言われたら、私すごく哀しいよ。私に言われても…迷惑かもしれないけど」
「麻希……そんな事ない……」

 千里はおずおずと目を上げた。

『どうして私はこんなに優しい人を憎んだりしたんだろう…』『もう一度友達になりたい…もしなれたら、もう二度と裏切ったりしない』

 分かたれた二つの千里は融合を果たしていた。本来の千里は意志が強く、人の困った顔を放っておけない性格なのだ。だから、当時誰とも馴染めなかった麻希ともすぐに打ち解け、無二の親友になった。

「それに、内藤君だってきっと哀しむと思う」

 麻希は何とか思い止まらせようと必死に言葉を続けた。

「ようすけ……」
 逢いたい

 千里は、心の底から願った。けれど、自分のような醜い女はそんな事望んではいけないのだ。千里は必死の思いで噛み殺した。
 そんな千里を試すように、事態は急変した。

 

 

 

 粉々に砕け散った鏡の内側から、一斉に光が放たれた。そして、光に誘われるように現れた内藤陽介の姿に、その場にいた全員は唖然となった。

「なんだ…ここは一体……」

 自分の身に起きた事を理解しかねて、陽介は呆けた眼で辺りを見回した。

「!…」
「内藤君!」
「……みんな!」

 見知った顔が揃っているとほっとして、陽介はびっこをひきひき傍まで駆けた。

「陽介……」

 背を向けたまま、千里は信じられないといった目で呟いた。

「千里、内藤君だよ!」

 マキは純粋に喜んだ。自分だけでは無理だが、陽介が説得してくれればきっと千里も思い止まってくれるはず、と。
 しかしブラウンは複雑な心境だった。今の千里が、果たして素直に陽介を受け入れるだろうか。いや、きっとマキに気を使い、取り返しのつかない事をしてしまった自分を責めて、内藤陽介を拒絶するに違いない。
 多少の差異はあるものの、ブラウンだけでなく南条もマークも、似たような事を考えていた。

「内藤君、どうしてここに?」

 近付いてくる陽介を見上げマキは尋ねた。

「それが、自分でもよく分からないんだ。みんなに任せて学校に残ったものの、いてもたってもいられなくなって、後を追おうと思い立った。そうしたら突然辺りが真っ暗になって、声が聞こえて。気が付いたら――そこにいるのは、千里か?」

 そこでようやくマキの傍らにうずくまる千里を見止め、陽介は驚きに目を見張った。
 千里はびくっと肩を震わせ、途方に暮れた眼差しを空に漂わせた。

「どうしたんだ……? まさか悪魔にやられたのか?」

 背中を向けたまま動かない千里を心配するあまり、陽介はまるで怒鳴るように声を張り上げた。

「違うの。あの、えーと……」

 慌ててマキが言いつくろう。陽介に顔を見せようとしない千里に、マキはようやく事の複雑さを理解した。

「一体何があったっていうんだ」

 陽介は、真物に説明を求めた。
 困惑した陽介の眼差しが真っ向からぶつかってくる。マークも南条もブラウンも、城戸でさえも真物に目を向け、託すように目配せした。
 「彼女」も見ていた。彫像のようにまっすぐ屹立した七人に取り囲まれ、どういう行動を取るべきか苦悩する真物の姿を見ていた。
 真物は、千里、マキ、陽介の顔を見回し、最後にもう一度、うずくまる千里に目を向けた。過ちを悔やむあまり、自分を犠牲にしようとしている女の姿は、驚くほど母にそっくりだった。
 だから真物は

「自業自得だよ」
「なっ……!」

 思いもよらぬ真物の一言に、面食らったようにマキは顔を上げた。
 マークとブラウンが、揃ってぽかんと口を開ける。
 真物は、怯えたように震えうずくまる千里の腕を引いて立たせると、無理矢理陽介の方を向かせた。

「疑心暗鬼に囚われて園村さんを裏切った」
「や……!」

 咄嗟に千里は顔を背けかたく目を閉じた。

「だからこんな顔になった」

 嫌がる千里を押さえ付け、髪を掴んで上向かせる。斑に広がるほくろだらけの顔が、陽介の眼前に突き出された。

「やめて……!」
「!……千里」

 マキの悲鳴と、陽介の驚愕が重なる。

「陽介…わ…わたし……」

 見られてしまった。千里は一切の抵抗を止め、おぞましいほどに変貌を遂げた自分の面を想い人に晒した。

「こんな顔の女、どう思う?」
「わたし……」

「どうしちゃったの真物君? なんでそんな言い方するの?」

 マキは信じ難い面持ちで真物の横顔を見つめた。

「嘘は言ってない」
「そ…そんなことじゃなくて――」

 ふと向けられた真物の眼差しに、マキは言葉を飲み込んだ。先刻自分の絵を選んでくれた時と同じだ。瞳の色が違って見える。怒っているからとかそういうことではなく、内面のもっと深い部分で何か変化があったのだと思わせるような、不思議な色を湛えていた。そしてそれはすごく奇麗だった。

「そうでしょ? 千里さん」

 真物は続けた。

「園村さんとは友達のフリをしていた。そして陽介とは恋人のフリ。何故って、誰も信じられないから。信じようとしなかったんだっけ。それだけ猜疑心が強ければ誰も信じられないのは当然だよね、千里さん」
「………」

 今となっては、どうしてあれほどまでに他人を信じられなくなってしまったのか自分でも分からなかった。どんな些細な一言でも勘繰って、どうせ心の中では自分を馬鹿にしているに違いないと決め付け、自分は誰にも劣ってなんかいない事を証明する為に、わざと卑屈な態度を取り優越感に浸っていた。
 なんてバカげた事をしていたんだろう
 なんで素直に好きと嫌いが言えなかったんだろう。

「もうみんなバレちゃったんだから、今更隠さなくたっていいだろ? 園村さんの事も、陽介の事も、好きでもなんでもないって。ただ利用してただけだって」
「もうよさんか見神!」
「やめろって、シン!」
『一体どうしたというのだ』『何やってんだよアイツ!』『いい加減にしろよ!』『大将ひでぇよ……』『………!』

 南条の制止、マークの怒号、ブラウンの呆れ、そして彼らの内側の怒りが、真物の心に雪崩となって怒涛のように押し寄せる。自分に振りかかる様々な嫌悪の声に埋もれまいと必死に足を踏ん張り、真物はただ空を見つめた。
 触れた瞬間から分かった、千里の声を心友に聞かせたい。
 ただそれだけだ。

「ほら、言いなよ」

 静かに強要し、千里の肩をぐいと揺さ振る。

「……違う」
「嘘だね。さっきだって、仲直りしたフリだったんだろ」
「違う……」
「じゃあなんだよ。まさか本当に仲直りのつもりだった? それは嘘だ。元に戻したいなんて嘘だ。園村さんを殺したいほど憎んだっていうのに」
「それは…それは本当の事だけど……」

 千里の唇から零れたのは今にも消えそうなささやかな声だったが、自分の過ちを無責任に投げ出さず、握り締めようとする勇気を含んでいた。
「だろ? 友達を殺したいほど憎む人間なんているわけない、元々千里さんは、園村さんを友達とは思ってなかった。そして陽介の事も。園村さんが密かに想いを寄せているのを知って、羨ましがらせる為に付き合っただけだ。本心からじゃない」

「違う!」

 千里は張り叫んだ。もしも言葉が力を宿していたら、願うよりはるかに強烈な想いを見せ付けた事だろう。

「何が違うの?」

 女は、必死の思いで噛み殺した想いを全て打ち明けた。

「確かに…確かに私は麻希を憎んだ。殺したいほど憎んでしまった。それは私が、臆病だったから。
本気で人とぶつかるのが恐くて、何もない弱い自分を知られるのが恐くて、だからむりやり理由をこじつけて優位に立とうとした。
嘘を重ねて、自分をよく見せようとした。でも、麻希が本気で私にぶつかってくるのを見て、私は自分がどんなに愚かだったか知った。
そんな愚かな私を、真剣に思ってくれる麻希と、今度こそ本当の友達になりたいと……これは嘘じゃない…嘘じゃない!
陽介の事も……私…いつも自分に自信が持てなくて……陽介はすごく支えになってた……」
「それで?」
「陽介を好きなのは嘘じゃない!」

 だから何だと言わんばかりの真物をかき消す激しさで、千里は絶叫した。

「だってさ。信じる?」

 疑問を投げかける真物の目付きは、あからさまな蔑みをありありと浮かべていた。
 陽介は強い目で真っ向から真物を睨み付け、無言のまま傍に近付いた。
 陽介は真物の襟首を掴み千里から引き離すと、思い切り殴り飛ばした。
 よろけ、真物は床に倒れた。
 成り行きを見守っていた仲間たちはわずかに身じろいだが、誰も真物に近寄ろうとはしなかった。それこそ自業自得だと、弱い者苛めの報いだと、冷やかに見ていた。
 それでいて、もしやとも思い始めていた。

「それ以上彼女を苦しめるな!」

 とんでもない事をしたと驚く自分にも気付かないほど陽介は激しい怒りを感じていた。

「千里…もう泣かなくていいから」

 うなだれ、声もなく泣きじゃくる千里の肩にそっと手を乗せ、陽介は囁くように声をかけた。

「俺は、分かってたよ。それでも千里の事が好きだ。変わらないよ」

 千里は、ぐっと唇を噛んで首を振った。

「分かってたなら、尚更駄目だよ…それに私は変わってしまったもの…こんな醜い顔…まあ自業自得だから…仕方ないんだけどね……」

 哀しくてたまらないのを飲み込んで、千里は震える声で笑ってみせた。

「だから…もういいから麻希のところへ行って……本当は今でも…麻希の事が好きなんでしょ……?」

 ほとんど残るものがないのに自分の中身を全て曝け出した千里を、陽介はきつく抱きしめた。本当の千里を抱きしめた。

「ようすけ……」

 呆気に取られた声で千里は呟いた。痛いほど力強い抱擁に心が震える。

「確かに今でも彼女の事を思う時はある。でも、千里を想う気持ちの方が遥かに強いんだ。俺という人間をこんなに確かなものにしてくれる君の存在は、どんなものよりも大切だよ」
「!…」

 どんな時でも彼はこうして嘘偽りなく言葉をかけてくれた。どうして素直に信じられなかったのか。どこに疑う隙があるというのか。
 千里の両の瞳からぽろぽろと涙が零れた。

「そんな…だって、だって私……こんな顔になっちゃったんだよ? 友達に、笑われちゃうよ……」
「構うもんか。そんな友達はこっちから願い下げだね」
「陽介……」
「――好きだ千里」
「陽介……!」
「ちーちゃん!」

 千里はためらいがちに陽介の背中に腕を回し、恐々と、次第に力を込めて抱きしめた。応えて陽介も抱き返す。
 千里はこの時、この人がいれば他に何を望む必要はないという事をはっきり理解した。
 その純粋な想いに呼応するように、部屋の隅で鏡の破片が強く弱く明滅した。そして今度こそ本当に、目に見えないくらい細かく砕けて四散した。

「ち、千里! 顔が……」

 驚きとも喜びともつかない声を張り上げて、陽介は大きく目を見開いた。
 誰も気付かないところで光が途絶えるのと同時に、千里は鏡の呪いから解放された。
 誰が言った訳でもないが、千里は赦された事を実感した。心の底から感謝する。
 親友らと手を取り喜び合うマキたちの喧騒から離れ、誰の目にもとまらぬ隅の方で、真物は一人ひっそりとたたずんでいた。

「……てめぇ、結構言うじゃねえか」

 そこに玲司がのっそりと近付き、ぼそりと言った。

「………」

 真物は言葉を詰まらせた。
 これまで玲司が自分に向けてきた眼差しといえば、憎々しげな、刺々しいものばかりだったので、今のようにどこか感心した、穏やかな視線を寄こされると、何といっていいやら言葉に詰まってしまう。
 そんな真物に更なる追い打ちがかかる。

「さすがは見神だな。先程は勘違いして済まなかった」
「わりぃな」
「さすがシンの大将、言う事が違うっすねえ」

 南条は素直に謝り、マークは済まなそうに片手を上げ、ブラウンはしみじみと言った。
 ますます言葉に詰まった。

『オレが言えたらよかったのに』

 弱り果てた真物の耳…心に、誰かの羨望と嫉妬の断片が滑り込む。
 ブラウンだった。
 手放しの称賛の声よりも、ブラウンの内面の声一つが真物の心に大きく沁み込んだ。千里に憎しみの言葉を吐きかけられ、それでも尚『喜んだ』マキの気持ちが、少し分かった。
 真物は、彼らに照れ隠しに映るよう気を付けながら、小さく首を振った。
 そこにマキが近付く。

「さっきの、わざとだったんでしょ?」

 マキはハンカチを差し出した。真物はしばしためらい、小さく礼を言って受け取った。

「千里に本当の事を言わせる為に、わざとあんな事を」
『雰囲気は全然違うけど、やっぱり真物君てすごいな』『余り喋らないから冷たい人かと思ってた』『人って見かけだけじゃ分からないものね』『さっきの目、すごく奇麗だったな』

 自分でも無我夢中で、さっきの事はよく覚えていない。ただ、強烈な衝動のようなものが突然膨れ上がって、あんな行動を取った…らしい。奇妙な感覚だった。自分で判断して動いたのは間違いないが、どこか他人事のようにも感じていた。自分と似て非なる者が動いて喋って、自分は端からそれを見ている。そんな気もした。そしてそれとは別の部分で、自分はずっと前からこうしたかったのだと、大声で叫びたいほどの激情が脈打っている。
 動揺に似た昂ぶりが後を引いているものの、今一番良いと思われる結果に辿り着けた事を真物は素直に喜んだ。

「麻希…ありがとう。見神君も。二人が言ってくれなかったら、私また自分を騙すところだった。本当にありがとう」

 言葉では表しきれない感謝を双眸に込めて千里は頭を下げた。

「ううん。千里が元に戻って私もすごく嬉しい。良かったね千里!」
「ごめんね麻希…ありがとう。こんな私の事本気で心配してくれて」

 後から後から涙が溢れてくる。自分を真剣に思ってくれる人の心がこんなにも胸に沁みる。

「やだ…もう泣かないでよ千里。ほら顔上げて。せっかく仲直りしたんだから、笑顔でいこう!」

 つられて少し涙ぐんでしまい、マキは慌てて笑顔で手を振った。

「……うん!」

 差し出されたマキの手を、千里はしっかりと握りかえした。

「あのぉ〜そろそろよろしいでしょうか……」

 大変申し訳なく思っているのですが…ブラウンはおずおずと割って入った。ぴりぴりしながらも待つだけ待っている南条とマークに挟まれ、生きた心地もしない。もう勘弁してくれと言いたげだ。

「あの子の居場所なら、私多分――知ってると思う」

 彼が何を聞こうとしているのか千里は即座に理解し、以前あきが何かの拍子に言った言葉を思い出して説明した。

「……お城ぉ?」
「うん、そう」

 方角は、自分達の世界で病院のあった辺りに、あきの居城があると千里は言った。城に住んでいると聞いてマークは相当面食らったが、あの子供ならそれくらいやりかねないだろうと納得する。
 あきの居場所が解れば長居は無用とばかりに南条は出発の号令をかけた。
 お決まりのようにマークが文句をたれる。異論はないが、偉そうに命令されるのが余程気に食わないらしい。
 そしてこれもまたお決まりのようにブラウンがそんなマークを宥め、腹いせにないがしろに扱われてもめげず、和ませようと他愛ないジョークを立て続けに披露する。

 そんな中、離れた場所に一人身を置き、玲司は身震いするほどの寒々しい目で虚空を睨み立ち尽くしていた。彼が囚われている憎しみは眼差しにありありと浮かんでいたが、どろどろとした感情とは裏腹に驚くほど澄み切っていた。それほどまでに強く思い込んでいる表れなのだろう。
 玲司は過去を振り返り、現在を省みて、この先の自分を思い描いた。静かに目を閉じる。

 そしてそれとは別の場所で、真物も一人ぽつねんと突っ立ち喧騒を振りまく彼らを視界の端で眺めていた。それからふと、少し汚してしまったマキのハンカチに目を落とし、赤い染みを食い入るように見つめた。
 その時後方から誰かが近付いてくるのに気付き、真物は顔を上げた。
 陽介だった。
 途端に殴られた頬がずきりと痛んだ。
 気まずさが込み上げたが、真物は目を逸らさなかった。何を言われるか大体の想像はつく。例え理由はどうあれ、彼女を辱めたのは事実だ。どんな罵倒も聞き入れる覚悟は出来ている。
 ただやはり、心友だった―今はもう違うだろう―人間の内面の声を聞く勇気はなかったので、真物は陽介が口を開くまでじっと待った。
 背後で、図に乗ったブラウンが南条も巻き込み声も高らかにお薬屋さんを歌い出したが、不思議とここだけは静まり返っていた。

「さっきは済まなかった!」

 と、深々と頭を下げ、陽介は謝罪した。
 呆気に取られた弾みに、陽介の思考の断片が勢いよく流れ込んでくる。
 誰よりも人の本心に近いところにいる真物が、なんの理由も無しにあんな事をする訳がない、考えればすぐに答えは分かったはずなのに…冷静さを欠いて暴力を振るった自分を、陽介は心底恥じていた。
 どうか気の済むまで殴ってくれと、熱く訴えてくる。

「い、や…あの……な、殴らないよ」

 あんまり驚いたので、何を言ったらいいのか咄嗟に言葉が出なかった。自分の考えを正しく理解してくれたのは嬉しいのだが、こんなに馬鹿丁寧に謝ってもらわなくていいのに。けれどその馬鹿正直さが陽介の良さなのだ。

「それじゃ俺の気が済まない」

 どうすれば許してもらえるだろうと必死に考えを巡らせる陽介に、

「許すもなにも…あんなやり方しか思い浮かばなかった僕の方こそ謝るべきなのに」

 真物は何度も首を振って、自分は大丈夫だと少し笑って見せた。

「ああ…そうだよ。本当はきっともっと良い方法があったに違いないけど、あの時はああする以外思い浮かばなかった…本当に悪いと思っている」

 済まなそうに肩を落とし真物は唇を引き結んだ。それでも。最良とは言えないまでも、誰も殺さずに済む方法が見付かって、しかもそれを自分が実行出来た事を、真物は喜びとして実感していた。

「そんな事ないさ。俺がもし真物の立場だったら…もし、聞けたなら…きっと、同じ事をしたよ」

 少し考えてから、陽介はそう付け加えた。心友に認められた事で、自分だけでは萎えかけていた信念のようなものがより一層強まった。

「もう! いつまでもふざけてないの!」

 突然、マキがぴしゃりと言い放った。驚いて目を向けると、神妙な顔付きで畏まっているブラウンとマークの姿があった。ついに南条に見放され、仕方なくマキがまとめ役を買って出たようだ。
 と、ようやく収拾がついたばかりだというのに今度は玲司が足早に部屋を出て行こうとする。マキは大慌てで号令をかけた。

「あ、ちょっと待ってよ城戸君。ほらみんな、急がないと置いてかれちゃうよ」

 マキの最後の言葉に、真物は条件反射よろしく身を竦ませた。強烈な虚無感が襲ってくる。けれど以前と違うのは、ただ過ぎるのを待つのではなく、自ら突っ込んで原因を探ろうとしている点だ。『置いていかれる』のを極端に怖がる自分とその理由を、探そうとしている。「彼女」は黙って微笑むばかりで何も語ろうとはしないが、どうしてだろう、励まされたような気持ちになった。

「それじゃ行くね、千里。必ず元の世界に帰れるように頑張るから、千里も頑張ってね」
「ありがとう! 麻希」
「内藤君、千里をよろしくね」
「みんなも気を付けて」

 確かめる間もなく、真物は出発を余儀なくされた。軽い苛立ちを覚えたが、何故か焦りは感じなかった。今すぐ全ての謎を解きたいと思う気持ちもあるのだが、ここから先にちゃんと用意されているような気がして、必ず見つけられると告げられたような気がして、だから焦りがないのだろう。
 探せば、きっと見つかる。

 

 

 

 あんまりうまくいかなかったみたい。
 ごめんなさいパパ。
 でもあいつ、少しパパに似てる。気に入らない。
 早くここに来ればいいのに。
 うんと苦しめて、じわじわと殺してやる。
 あのネズミみたいに。
 あいつがもがきながら苦しんで死ぬのを早く見てみたい。
 それからあいつらを殺すんだ。
 一人ずつ違った方法で。
 そして最後にマキを消してしまえば、あたしはもう何も怖がらなくていい。
 まいは残しておくんだ。
 あいつはどうせ何も出来ないから。
 もしまたマキを作るような事があっても、あたしは何回でも消してやるんだ。
 まいには一生分からない。
 馬鹿な奴。
 パパといる事の方が正しいのに。
 麻希はそれを望んでいるのに。

 

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