GUESS 緑 10

負け犬の言い分

 

 

 

 

 

 一行は森を抜けて再びダークサイドを目指した。
 森の中に於いて幾度か悪魔と逢いまみえたが、ワイバーンやノズチといった今までも散々遭遇している悪魔ばかりで、余程油断しない限り苦戦を強いられる事はなかった。
 楽な道程ではあったが、彼等の表情はどこか強く、交わす言葉の一つもない。
 学校帰りや休日の外出とはまるで異なるこの状況で、楽しい話題がある方がおかしいのかもしれないが、どんな場面だろうと何かしら無駄話を繰り出してきたブラウンでさえ口を閉ざしたままなのだ。
 悪魔の奇襲に備えて少しだけ意識を外に向けていた真物は、彼らがみな一様に同じ考えにとらわれている事を知った。
 悪魔の思念は人間の数倍強烈だ。
 遮断をほんの少し緩めるだけで容易に掴める。
 加減を誤ると、実際遭遇した時余計な苦痛を味わう事になり、杭を打ち込まれたようなあの凄まじい衝撃は、思い出すだけで震えが走るほどだ。
 それを考慮して、人の声が聞こえなくなるぎりぎりのところを保っていたが、みな余程深く強くのめり込んでいるのだろう。書物を朗読する時に似たささやかな響きが、途切れる事無く頭の中に滑り込んでくる。
 考えている事みな皆同じ。
 まいの問いかけと、それに対する真物の答。そして自分の考え。

――生きるって…苦しくない?
――違う!

――なんで生きてるです?
――それを探しているところだ……

 聞こえそうで聞こえない声の羅列はかなり耳障りで、ともすれば苛々させられるものだが、真物はそれも聞こえないほど深く没頭し、のめり込んでいた。
 みんなと同じように、もう一度まいの問いかけを自分の中で反芻し、あらためて考えてみる。
 あの時答えたのは自分以外の誰かだったと仮定して、今度こそ自分の言葉で答えを出そうと探し続けた。
 自分に目を向けたのは恐らくこれが始めてではないか。それも、他と比較して手探りするなんて。
 必然なのだろう。
 もう、無視出来ないのだ。以前の自分には戻れない。口やかましく干渉してくる「彼女」に見ない振りを決め込んだり、何か法則があるのだろう他人の思考の断片に煩わされないよう無関心を装ったり。
 正直、今でも戻りたい気持ちはある。
 虚ろで乾いた毎日は何も考えなくて済むし、誰に言われたのか思い出せないが、ただ生き延びればいいだけなのだから、そこに意味などなくても問題はないはず。
 ああそれなのに。
 知りたい、知りたくてたまらない。
 問題を一つずつ解決するのだってろくにやった事もないのに、真物は今園村麻希の事を考えながら自分の事を考え、ふと意識が向いた仲間たちの声にも考えを巡らせた。
 かなりのエネルギーを集中させ沈み込んでゆく。
 悪魔がいつ出現するか分からない状況で油断は禁物のはずだった。
 確かに森の中では、見通しが悪いせいもあって絶えず周りに意識を向けていたが、陰鬱とした森を抜け見慣れた街中に出た事で気が緩んでしまったのだろう。
 それは真物だけでなく、彼らも同じだった。一度通った事のある道だから、というのも原因の一つだった。
 六人に宿るペルソナがいち早く異変を察したが、遅れてやってきた緊張感にみなが身構えた時は既に遅かった。
 ひとかたまりの列から一人外にはみ出していたマキの背後に、突如エリゴールが現れたのだ。

「!…」
「園村!」

 切羽詰まった誰かの叫び。
 出現するやエリゴールは長槍を振りかざし、怒号と共にマキめがけて鋭く突き出した。
 マキの隣にいた真物は咄嗟に手を掴んで引っ張り、位置を入れ変わる形で彼女をかばった。触れた事で、マキの心が上げる驚愕と悲鳴とが耳奥でばっと弾ける。聞くのに好ましくない奥底の内包物も当然流れ込んでくる。きつい痛みを伴って。
 苦痛によろけながら、真物は、自分の咄嗟の行動に『何故こんな事を』と疑問に思いつつ、仲間を助けた。
 直後どんと激しい音を立て、長槍の先端が地面に突き刺さる。
 真物の身体を貫いて。

「っ……!」

 背中から前へと突き抜ける 血まみれの凶器を無意識に握りしめ、真物は呆けた目付きで自分の有り様を見下ろした。と同時に、おびただしい量の血を口から吐き出す。

『真物!』
「真物君!」

 マキと「彼女」の悲鳴が重なる。

「ジーザス!」

 マークがペルソナに呼びかけると同時に、一気に槍が引き抜かれる。
 たちまち真物は崩れるように跪き、どさりと身体を横たえた。かなりの衝撃を受けたはずだが、何故か痛みはあまり感じられない。とっくに痛みを通り越して、全身が麻痺してしまっていた。
 どす黒い液体が目の端に映る。
 わずかに首を傾けて、それが傷口から流れ出る自分の血である事を真物は確認する。
 じわじわと顔の方に向かってくる流血が、その匂いが、失われてゆく命が、光景が――

「お……」

 真物は眼を一杯に見開いた。悪魔の断末魔が覆い被さる。聞こえない。頭の中に気の狂った女の声が繰り返し繰り返し響く。それしか聞こえない。
 猛烈な勢いで意識が引きずり込まれる。

「真物君? 真物君!」

 ペルソナごと呼びかけるマキの声も届かないほど、深い場所へ落ちてゆく。

 

 

 

「冗談じゃないぜこのクソ女! お前が余計な事するせいで、どんどん遠ざかってくじゃねぇか! ふざけやがって、これ以上邪魔すんなっ!」

 誰かを激しくなじる真生の怒鳴り声に真物ははっと目を開けた。どことも分からぬ闇の中にうつ伏せて倒れている。

「何とか言えよ!」

 手を付いて起き上がり、辺りを確かめるように左右に首を巡らす。
 檻を挟んで向かい合う真生と「彼女」に、やっとここが意識の奥である事を理解した。と、慌てて胸に手をやり、傷を確認する。しかしどこにも異変はない。あれほどの大怪我を負ったというのに痕跡すら見つけられなかった。

「表の現象は滅多にここまで届かないから」

 不思議そうに自分を見つめる真物に、真生を睨んだまま「彼女」が説明する。そういうものなのかと首をひねるが、事実少しの不具合もない五体に真物は納得した。

「ったく馬鹿だな、他人なんかほっときゃいいのに」

 ま、それがお前なんだろうけど……
 忌々しいとばかりに唇を歪め、真生は吐き捨てた。

「そのお陰でここに呼べたようなもんだから、いいけどな。ところで……」

 ついと「彼女」から目を逸らし、座ったままの真物に語り掛ける。

「色々思い出した事があるみたいだな」

 突かれたように立ち上がり、真物はぎこちなく頷いた。

「でももう自分だけじゃ手詰まりで、どうにもならない。そうだろ?」

 もう一度頷き、こちらに歩き出そうとする真物を見て真生はにやりと口端を歪める。焦る必要はなかったのだ。閉じ込められたままでも、まだいくらでも打つ手はある。声が届きにくくなったとはいえ、真物が知ろうとするのを止めない限り呼べるはずだ。
 そうだ、慌てる事はない。

「俺なら教えてやれるぜ。このクソ女みたいに小出しになんかしないで、お前の知りたい事は残らず教えてやるよ」

 真物の望みを巧みに利用して、真生は誘導した。

「やめなさい」

 言葉を差し挟む。少し前なら強制的に連れ出す事も出来たが、こんなにも知りたい気持ちを抱えた今の真物にはそれも叶わない。
 結局言葉で思い止まらせるしかないのだ。
 無理と分かっていても。

「まず何だ? あの気狂い女についてか? そういやお前、自分の事だけじゃなくて奴らの事も知りたがってたっけな。いいぜ、まずどれからいく?」
「やつら……?」
「いいえ、真物」
「うるせえな、お前は黙ってろよこのクソ女! 喋んな! 黙れ!」

 箍が外れたように矢継ぎ早に怒鳴る真生の激昂ぶりに、真物は竦み上がった。
 最初の頃よりは幾分慣れたとはいえ、あの檻がなかったら実際に「彼女」を殺しかねない真生の激昂ぶりは変わらぬ恐怖をもたらした。
 そうはいっても、自分だってああだったのだ。残り滓…思い当たる節はある。
 殺意、衝動的な殺意。
 真物は俯いて唇を噛んだ。
 人が死ぬとはどういう事かよく分かっているはず。

 あの時――
「あの時が…思い出せない……」

 熱に浮かされたようにぼんやりと呟く。二人は揃って息を潜めた。
 片方は陰湿な笑みを浮かべ、もう一方は険しい顔付きで眉を寄せた。

「それも教えてやる。お前の記憶がなんで虫食いだらけなのかもな」

 ゆっくり向けられる真物の眼差しを受け、真生は「どうする?」と首を傾けた。

「お前は…何故そんなに殺したがるんだ……」
「!…」

 真生の目に異様な光が宿る。込み上げる歓喜に目を見開いた表情は、凍り付くような恐怖をもたらした。縋るようにピアスを探る。

「俺…か? 俺の事が知りたいのか? 俺が何故こんなに殺したくてたまらないか知りたいのか!」

 口にするべきではなかったのだ。激しい後悔が襲う。慄いた目付きで真物はよろけた。

「こいつさえなけりゃ!」きつく鉄柵を握りしめ、真生は気が違ったように喚き散らした「今すぐにでもそのクソ女の喉を食い千切って、面倒事に巻き込んだあの男の身体に気の済むまで弾を撃ち込んで、麻希をくびり殺して!」

 平然と惨い言葉を並べ立てる真生に吐き気を覚え、真物は虚ろな眼差しで口を覆った。

「誰だっていい、俺はとにかく殺したいんだよ!」

 そんな真物を面白がるように、真生はさらに声を張り上げて続けた。

「お前だってそうだろ? 適当に理由をこじつけて正当化してみたって、とどのつまりは殺したいだけだ! 俺とおんなじなんだよっ!」

 とうとう耐え切れなくなって跪いた真物に、とどめとばかりに吐き捨てる。

 もう止めてくれ

 苦しさに涙を滲ませて訴える真物に、一転して穏やかな声音で真生は囁いた。

「お前は殺しゃしないよ。いずれ俺の中に戻ってもらうのに、殺しちまっちゃ俺が損するだろ?」

 信じ難い真生の言葉に、助けを求めるように「彼女」を見やる。

「……決めるのはあなた自身よ」

 苦悩に満ちた眼差しで真物を見据え、ゆっくりと首を振る。
「私達はただ語るしかしない。決められるのはあくまでも真物だけ。だから、自由に選んで構わない。真生がどんなに危険か理解出来たで――」
「そうやって自分の側に引き込もうって魂胆か? そりゃちっとやり方が汚ねぇんじゃねえの? 元は俺の中に在ったんだから俺に返すのが当然だろ! 大体、俺が危険だってんなら真物はどうなんだよ。自覚がない分、あいつの方がよっぽどアブナイじゃねぇか」
「違う」
「どう違う? 言ってみろよ、どう違うってんだ? 俺の殺意は認めなくて、真物の衝動は認めるってことか? 気に入らなきゃ誰彼構わず撃ち殺そうとするのにか? しかも――」

 唐突に言葉を切り、真生は小刻みに身体を震わせ仰のいた。爆発寸前の怒りを抑えようと必死なのか、それとも度を越えた衝動に酔いしれているのか。

「お前が教えないなら俺が真物に教えてやるよ。殺意の衝動がどこから来たのか。あの気狂い女の事も記憶が虫食いだらけなのも自分が自分じゃないように感じる理由も…使命も役割も――子供の正体も一つ残らずな……」

 虚空から降り注ぐ白光を睨んだまま真生は独り言のように呟いた。ちらりと横目で真物を見やり、ゆっくりと顔を向ける。
 薄暗がりの中で蹲る真物の目は大きく見開かれ、一切の感情を突き抜けた表情を張り付かせていた。

「思い出したいだろう? 知りたくてたまらないだろう? お前の中に残ってない記憶は、全部俺の中にある。俺とお前に分けられた時、そうなった。だからお前の記憶は虫食いだらけなんだよ。取り戻したいなら、俺の手を取れ」

 鉄柵の合間から左手を差し伸べ、毒を吐き出すようににやりと笑う。
 とうとう訪れた選択の時に「彼女」は厳しい表情のままかたく目を閉じた。
 真生に触れた事で起こる全てが真物をどう導こうと、自分はただ見守るしかないのだ。

「……分からない」

 しばしの沈黙の後、真物の口から零れた予想外のひと言に、真生は一瞬当惑の表情を見せた。
 何に対して分からないと言ったのか。

「……どう考えたらいいのか、分からない。思い出したいし、知りたくてたまらない。探している…そう言ったけど、何を探しているのかが分からなくて…僕に『読め』と言ってるのは分かる。でも…それでどうなるのか、僕は……」

 真生の危険性と、自分の要求と、園村麻希の質問に答えた言葉、そして拙いながらも芽生えた、道程を共にする彼らを守ろうとする意思と。一度に色んなものが頭の中に渦巻いて、何から手をつけたらいいのか途方に暮れる。
 ああ、そうなのか。「彼女」は静かに目を開いた。彼は混乱しているのだ。今まで何一つ向き合って考えようとせず、何もかもどうでもいいと済ませてきたせいで、善いも悪いも分からない。ずっと自分と世界を切り離して過ごしてきて、初めて意識を向けた。だから「分からない」と。

「本当に分からないとは思えない」

 穏やかな声で「彼女」は続けた。

「あなたは何度も「助けたい」と言った。あの老人、心友、香西千里、白い服の少女、園村麻希、そして……」

 その先をあえて口にしない。

 あるいは神取か、それとも――

 真物が、少しだけ顔を上げる。

「あなたがここまで来たのは、周りの声を自分の意志と勘違いして行動を起こしたからではない。あれは紛れもなく、あなたの中にあるもの。あなたの感情。今も、真生を『読む』事で彼らが危険に晒されるのを避けたいと思っている」

 差し伸べられた「彼女」の手を見つめたまま、真物はぎこちなくしかしはっきりと頷いた。

「事実、今の真生はとても危険な存在で、あなたの推測どおり、表に出た途端気に入らない相手を残らず殺すでしょう。あなたはそうなってはいけないと思っている。彼らを守りたいと」
「余計な口を挟むなよクソ女! お前はただ見てるしか脳がねぇんだから!」

 がなりたてる真生を無視して、じっと真物の答えを待つ。

「多分……そうだと思う」

 善悪の意味は分かっていたけれど、何が善くて何が悪い事なのか区別が付けられなかった。真生を表に出すのは悪い事。してはいけない事。真物はようやく理解した。

 でも
「でも、知りたいんだ……」

 悲しそうに俯く真物にゆったりと微笑んで、「彼女」は言った。

「今は無関係に見える出来事も、因果の糸を手繰っていけば必ず真実に辿り着ける。そしてあなたは、糸の端を握る一人。かかる時間は問題にならない。あなたがその糸を手放さない限り、必ず謎は解けるもの」
「くそったれこの――」
「黙れ迫害者」

 名を叫ぼうとする真生を遮り、抑えた声で振り返る。
 真物を背にかばうように向かい合った「彼女」の胸の辺りに、白い貌―片側に聖とも邪ともつかぬ奇妙な模様が描かれた仮面―がうっすらと浮かび上がり、真生の目を釘付けにする。
 瞬きの間に跡形もなく消え去っていたが、怒りに染まっていた真生の眼差しはみるみる恐怖に凍り付き、しかし……

「いいさ……何度邪魔しようが、必ず真物を取り戻してやるよ。お前はそこで見ていろ」
 恐れさえも快感なのか、寒々しい眼差しを「彼女」に向け真生はうっすらと嘲笑を浮かべた。ついと真物を見やり

「お仲間が呼んでるぜ。行けよ。またな、見神真物」

 追い払うように左手を曖昧に振って、名字から綴る。
 途端に真物の肩がびくっと跳ねた。
 どこかで感じた不安が、朧げに甦る。
 それを思い出すより早く、真物の意識が浮上してゆく。

 スポットライトがふっと消え去り、真っ黒な闇が視界を覆う……

 

 

 

 長く尾を引く悪魔の断末魔が、最初に耳にした音だった。
 うたた寝から覚めるようにぼんやりと瞼を開き、一瞬の空白の後真物は意識を取り戻した。

「起きられる?」

 頭上からマキの声。また、時間の拡張が起きたのだ。
 深く息をついて、真物は気持ちをまとめようと努めた。
 何度体験しても一向に慣れない。あれだけ、会話なり動作なりをしたにもかかわらず現実では瞬きするほどの間だというのだから、頭が混乱するのも無理はない。

「大丈夫…ありがとう」

 半ば強引に飲み込んで身体を起こすと、不安そうに様子を見守るマキの眼差しに小さく礼を言う。
 即死でもおかしくない状態は、マキの回復魔法によって救われ、すでに痕跡すらない。

「こっちこそありがとう、真物君。油断しちゃって…本当にゴメンね」
 助けてくれてありがとう

 頭を下げるマキに、真物は悲しげに笑った。良かったと、どうやら彼女は無事だったと、嬉しいのに、どうしてか悲しみも込み上げてくる。
 彼女は、助かったのに。

「いや…しかしアラタメテ見るとやっぱすごいよねぇ〜。あんだけハデにやられたのに完璧に治しちゃうんだから! ってゆぅかマキ様最高?」
「そりゃ…なんたって園村だからよ」

 どこまで本気か分からないブラウンの軽口に、マークがぼそりと付け加える。
 軽く瞬いて、真物はさり気なく視線を外した。崇拝にも似たマークの想いが二言三言耳をかすめる。小さく眉をひそめる。
 彼はどう思うだろう。
 誰よりも早く知ってしまったこの真実を目の当たりにした時、彼は何を見るだろうか。

「あれしきの雑魚に背中を取られるとは、正に油断大敵だな」
「これみよがしに四文字ジュクゴ使うなってーの」
「まー君だったらさしずめ大盛定食ってとこ? でひゃひゃ!」
「うっせーよ茶!」
「茶ってゆーなよぉ!」

 もうこれは決まり事なのか、南条の発言にマークが難癖付けてブラウンが茶々を入れる。たまにマキが仲裁に入ったり。
 これが消えてなくなるのだろうか。こんなに楽しい色や声が一切失われてしまうのだろうか。前と同じように。

 あの時のように。

「てめぇら…死ぬぜ?」

 ほんのわずか振り返り、うんざりしたように吐き捨てる玲司の言葉に、真物ははっと顔を上げた。

「また出たぁ!」

 凶鳥の大群を発見しブラウンが叫ぶ。
 即座に南条とマークがペルソナを発現させる。
 油断、さえなければ楽に勝てる相手だ。
 そして六人はマナの城に到着した。問題の鍵は、見張りのいない大扉の横。

「これが、そうなんじゃない?」

 黒曜石にも似た光沢を放つ台座を指差して、マキは五人を振り返った。
 上部に半月型の窪みが刻まれており、まいが託してくれた魔法の鏡と形は一致する。
 これでようやくマナの城に潜入出来そうだ。
 と、マキは、借りた半分の鏡と自分の持っている首飾りとを見比べ、

「見れば見るほど私のにも似てる。私のには鏡がないけど」

 ささやかな疑問に首をひねって、真物に手渡す。
 唯一人理由を知っている真物は、気付かれぬようひっそりと顔付きを強張らせ鏡を受け取った。

「さっさと中に入ろうぜ!」

 鼻息も荒くマークが声を張り上げる。今にも爆発しそうな怒りを抱えた玲司の余波を受けてなのか、かなり殺気立っていた。

「んじゃシンちゃん、よろしくぅ!」
「……オマエ、ちゃんはないだろ?」

 気負いをこそぐようなブラウンの言葉に一気に肩の力が抜けたのか、いつもの調子でマークが反論する。

「えー、いいじゃん。我らが大将、シンちゃん」

 紹介するように指差してブラウンはにっと笑った。
 大将呼ばわりは勘弁してもらいたいが、ちゃん付けはそんなに悪い気はしないと、真物はつられて少し笑った。

「……ゴメンね、さどーぞ」

 余り嬉しくなさそうな本人の苦笑いに、ブラウンは慌てて謝り先を促した。
 小さく頷いて、鏡を持った手を差し伸べる。

「待て、見神」

 それを南条が引き止めた。
 言われて、真物は動きを止めてそれとなく振り返った。
 険しい顔付きで、正面の扉を射抜くように見つめている。
 真物も同じく扉を見た。そして、南条とは別の意味で警戒を深める。
 この向こうに待ち構えている人物。

 神取鷹久

 一度目の遭遇を思い出す。冷たい重圧が全身を締め付け、得体の知れぬ恐怖が身体の芯から込み上げてくるあの感触。
 荒みきった人の心が行き着く果てにある……
 これ以上思い出すのを恐れ、強く瞬いて意識を取り戻す。光景から逃れるように南条を見る。
 まだ、南条は口を開かない。

「なんだよ南条、早く言えよ」

 焦れたようにマークは腕を組んだ。

「いや……何でもない。続けろ」

 一切の視線を遮断するようにふいと顔を背け、南条は言い放った。

「んだそれ…オマエ変だぞ? ここんとこずっとそんな調子でよ」
「……気にするな」

 そこで偶然南条の思考の断片を掴み、真物は手にした鏡を凝視した。
 南条の立てたのはあくまで推測であり、今一歩確定には届かないが間違いない。
 これは罠だ。

『あきに取られないでください…鏡が一つになってしまったら、もう誰もあきを止められないですから……』

 どんな思いでこの鏡を託してくれたか、まいの言葉を思い出し真物は苦悩した。
 まいとの約束を破る事に。
 神取を止められなくなる事に。
 探せなくなる事に…動けなくなる。

――いいから行けよ

 意識の奥で、真生が嘲笑まじりに急き立てる。

『何が起こるのか見えたなら、どうすればいいかも分かるはず』

 動けない真物に「彼女」が手を貸す。
 手の中、虹色の光沢を放つおもちゃのようなコンパクトを見る。
 片方はまいが。もう一方はあきが。
 願えばなんでも叶えられる魔法の鏡。
 片方は楽園を。もう一方は……

――どちらが、園村麻希の望む楽園なんだろうな

 恐らく真生にも結果が見えているのだろう。
 真物は鏡を固く握り締めた。この鏡が神取の手に渡った時、何が起きるというのか想像も付かない。ただ、目指す方向が分かるだけ。
 脳裡に、神取の背後に現れた貌のない化け物が甦る。目に見えない形だからこそ強烈に焼き付いている恐怖が、きっとそのまま現実を覆うのだろう。
 あの化け物から感じたものは、すべて覚えている。
 這い寄る混沌の渦はあらゆる恐怖と絶望をもたらして…幼い頃に味わったものと同質の恐怖に真物は竦み上がった。
 立っているのもやっとの真物を緊張から解放したのは、奮い立つマキの内面の声だった。

『なんとかして止めなくちゃ』『もし言葉で駄目だったら…』『その時は戦う!』『好きなものをこれ以上壊されたくない』『まいちゃんと約束したんだから!』

 どんな時もまっすぐ正面を向く彼女の強さに引かれ、呪縛が解かれる。

(園村…麻希……)

 狭い殺風景な部屋。白く、無機質で、何もない。何もないそこに存在する本物の園村麻紀を思い浮かべ、真物はひっそりと名を呼んだ。
 思い浮かぶイメージは、白いのにやけに暗く陰鬱で、息苦しい程重い。
 思い返すのさえ二度と御免だと思っていたそれを思い浮かべたのは、出来たのは、どんな時もまっすぐ正面を向く、目の前のマキの底抜けの強さが呪縛を解いてくれたからだ。
 視界を覆っていた黒い霞が晴れて、前よりも少し明るくなったように思えた。
 探すのは、きっとどんなものでも構わないのだ。だったら今は、鏡を奪われた後の事を探そう。
 真物は意を決して鏡を置いた。

『扉が開くわ』

 真物は数歩下がって身を強張らせた。来ると分かっていれば声に振り回される事もない。強く集中する。

 その目の端で――

「あっ……!」

 悲鳴に近い叫びを上げて、マキは鏡の収まった台座を見つめた。
 どのような仕組みか、鏡がはまった途端煙のように台座ごと消え去ってしまったのだ。
 同時に、ゆっくりと音もなく扉が内側に開いてゆく。

 引っかかったあ、ざまあみろ

 真物は、あきのそんな声を聞いた気がした。それは自分の想像や推測ではなく、実際にあきが城の内部で発した言葉。「彼女」の警告で強く遮断したお陰で空耳程度に抑える事が出来たのだ。心底ぞっとする寒気の目に遭わずに済んだ事を、「彼女」に感謝する。
 ほんのりと笑んで「彼女」は応えた。
 真物は強い眼差しで開いた扉の奥を見据えた。

「ど、どうしよう! まいちゃんの鏡が……!」
「……神取め…笑いが止まらんだろうな」

 心底腹立たしいのを強引に抑え込み、南条は唸るように言った。

「どーいうこったよ!」

 マークがずいと進み出る。

「我々は、奴の思い通りに動かされてしまったというわけだ」
「なにぃ?」
「鏡の片割れを手に入れたいが、自分達ではまいに手出しが出来ない。ならば、誰かに持ってこさせればいい。それに俺達が選ばれた。そういう事だ。姑息だが、頭の良いやり方だな」
「でも…だったら鏡だけ取って、扉を開ける必要はないよね?」
「よほど自信があるのだろうな」
「ナメやがって…おもしれぇ乗ってやる!」
「オレ様もなんかすっごくムカついてきた!」

 いつもはマークの制止役に回るブラウンも、この時ばかりは怒りを滾らせた。

――さあ、扉は開いたぜ。何をどう探す?

 試すように問いかける真生に、真物はかすかな怒りを覚えた。お前に何が出来ると言われて、腹を立てたのだ。
 事実、今まで何一つろくにしてこなかったのに。
 でもこれからは出来るはずだ。

「お前もお前だぜ南条! 知ってたんなら教えろよな!」
「仕方あるまい、奴に逢うには他に道はなかった」
「そうかぁ〜?」

 不満そうに腕を組む。

「ッチ、どいつもこいつも下らねぇ……」

 怒気を含んだ声で吐き捨て、玲司は一人扉に向かって歩き出した。

「どったの? 城戸ちん」

 何気なく玲司の腕を掴んだ途端、振り向きざま怒声を浴びせられブラウンは硬直した。

「触んな! てめぇらと群れるつもりはねぇんだよ! 特に稲葉! てめぇを見てると苛々する、虫唾が走るんだよ!」
「ちょっ…城戸君! そんな言い方ないじゃない!」

 物怖じせずマキは進み出ると、頭一つ分背の高い玲司を真っ向から睨み付けた。

「まぁ、いいって園村」
「よくないよ! あんな言い方ひどすぎるっ!」
「俺は別にへーきだから。それに玲司もさぁ、目的は違うけど同じ奴追ってんだから、そんなに邪険にすんなよなぁ。それに人数多い方が何かと楽だしよ」
「チッ……」

 忌々しそうに舌打ち、玲司は背を向けた。しかし、すぐには歩き出そうとしなかった。何か思うところがあったのだろうか。
 分かる、真物には見えていた。
 マークは心の底からただ純粋に玲司を案じているのだ。玲司があれほどまでに神取に固執する理由は分からないし、また固執がどれほど強烈なものかも分からない。だが、ただ一つの事だけで生きている、そんな風に見える玲司を何とかしたいから、だからどんなに刺々しい態度で罵倒されても腹が立つ事はない。むしろ……

「なんか…マー君違う人みたいよ……?」

 唖然とした様子でブラウンは呟いた。

「普段の貴様からは想像も付かんセリフだな。その頭は飾りではなかったと分かってひと安心だ」
「だー! そこまで言うことねぇだろ!」
「うーん…男の子って分からないな」
「さ、さあ、とにかく早いとこ奴を捕まえようぜ」

 妙に焦ってまくし立てるマークに促され、六人は扉の奥に進もうとした。

「そうはいかないよ!」
「!…」

 六人を阻むように、あきが姿を現した。予想外の出現に、真物は我を忘れて銃を抜いた。構えてから自分の行動に気付き、一瞬とはいえ衝動に支配された自身に歯噛みする。

「パパが用があるって!」

 あきが選んだのは、玲司だった。空中で玲司の腕を掴み、もろとも姿を消す。

「おい待て…玲司ぃっ!」

 叫んでも後の祭りだった。

「な、なんであのガキ!」
「とにかく早く追いかけよう!」

 驚きの余り青ざめた頬を強張らせ、マキは先頭を切って駆け出した。

 

 

 

 防毒マスクのお陰で辛うじて命を繋いでいるに過ぎない状態…真物が今置かれている状況は正にそれだった。
 ここはマナの城。神取のいるところ。
 城内には神取の慢心を示すかのように至る所に悪魔が潜み、その能力は侮り難い。悪魔のそれも充分脅威だったが、真物にはそれ以外にも退けなければならないものがあった。
 声が。
 壁にも床にも柱にさえ染み込んでいるのではないかと思えるほどあらゆる方向から、たった一人の人間が発する数え切れないほどの穢れた声が、凄まじい光景さえ見えてくる。伝わってくるイメージが例え現実ではないと分かっていても、足元に淀む黄みがかった濃いガスを蹴って進むのは、相当勇気がいった。
 こんなものまで見せる「声」を、ほんの一言でも聞いてしまったら一体どうなるのだろうか。今は「彼女」の協力もあって全く聞こえないが、それでもこんなに明瞭なイメージを見せ付けるなんて。

 でもこれは……

 刹那の恍惚。這いずり回る混沌の渦を見下ろし、真物は唐突に浮かんだ自分自身の馬鹿げた考えに竦み上がった。
 触れてみたい衝動に心を奪われたのだ。
 真生が言うところの『気狂い女』を思わせる思考がそうさせるのか、否定してはみたものの強烈な勢いで引き寄せられる。

――抵抗すんなよ。本当は見たいくせに

 必死に目を逸らす真物を嘲り、真生は指先にはめた白金のリングで鉄柵を軽く打った。

 かちん

 些細な音を合図に、真物の視界が白と黒に反転する。
 切り取った石を積み上げて作られた閉塞空間は消えてなくなり、彼方に無数の光が点在する果ての見えない暗闇に立たされる。ここだけはまるく銀色に輝いており、床と思しき面は見た事もない図形で埋め尽くされていた。中心に描かれているのは巨大な目玉のようなもの、その周りを、象形文字らしきものが取り囲み、一番外側には、陰と陽を表す形が幾重にも連なっている。
 真物はその端に立ち、中心に立つ男を見ていた。
 両目を閉じ、物思いに耽るかのようにわずかに俯いている。背後には、数え切れないほどの触手をうねらせた化け物…蠢く触手は一本残らず男に絡み付き震えていた。全ての人の魂を嗤うかのように。

 貌のない化け物

 激しい衝撃が脳天を直撃する。度を越えた恐怖。この上もない絶望。とてつもなく大きな……

 あれが、神取か――

 真物は即座に銃を抜いた。
 声にならない叫びが全身からほとばしり、死の予感にペルソナが応える。それが全くつりあわない相手なのは百も承知で、いっそ自ら死を選びかねない心の動きを遮二無二奮い立たせ抗う。

「ムダだって」

 極度の緊張を、間近で起こった声が突き崩す。
 恐怖に引き攣った顔で声を振り返り、鉄柵に囲まれた真生を見止める。
 光源を見つめるように目を細め、何故ここに真生が現れたのか真物は疑問を抱いた。
 同時に頭の片隅で、「彼女」の不在を訝る。

「あんまり近付くと、声、聞いちまうぜ?」

 問い掛ける凝視を無視して、真生は中心にいる化け物を指差しやめとけと首を振った。

「どうしてお前が……」

 恐怖の余韻を引きずっているのか、絞り出すような声で尋ねる真物に一瞥をくれ真生はにやりと笑った。

「ここに来るきっかけを作ったのも……」

 真生の立てた些細な音が合図だった。
 それともあれは、単なる偶然だったのか?

 それにしては余りにも……

 教えるつもりがない事を表すように、真生は嘲笑を深めてふいと目を逸らした。

「見るだけ見たら気が済んだろ? また後でな、見神真物」

 反応を確かめるように横目で見遣り、またも名字から綴る。
 どうしようもなく不安にさせる六文字を耳にした途端、それまで感じていた恐怖を塗り潰すほど壮絶な衝撃が全身を貫いた。
 白と黒に反転した世界が一瞬にしてかき消える。
 気が付くと石の床にうずくまり、小刻みに震えていた。

「違う…僕は……じゃない」

 正気を失った瞳で何事か呟く真物を見て、マキは取り乱したように顔を覗き込んだ。

「大丈夫? ねえ真物君? 真物君!」

 繰り返し呼び続けるマキの声がやっと耳に届き、たった今目を覚ましたとばかりに真物ははっとなって顔を上げた。
 直後、口から零れた自分自身の言葉に愕然とする。

 僕は見神真物じゃない

 見神真物ではない。

「大将…顔真っ青よ?」

 真物はゆっくりと首を傾けて、心配そうに屈むブラウンを見やる。息をするのがやっとで、とても応えられそうにない。

 では僕は一体……
――誰なんだろうな

 真物に聞こえないよう呟いて、真生はくすくすと忍び笑いをもらした。

「もしや…罠か?」

 尋常ではない真物の様子に、南条がこの場所に於いて考え付く推測を口にする。

「何だよ! なに仕掛けてんだよあのオヤジ! くそっ、玲司だけじゃなくシンまで!」

 あくまで仮説に過ぎないというのに、すっかりそうと決め付けてマークが激昂する。

「どんな状態か言えるか?」

 南条は片膝をつくと、真物と目の高さを合わせて問い掛けた。
 苦しそうに眉根を寄せて喘ぐ真物の様子に、南条は険しい顔付きで眼を眇めた。中々答えない事に痺れを切らしたのではなく、思ったよりダメージが大きいと分かったからだ。

「まずいな…今悪魔に襲われたらひとたまりもないぞ」

 警戒するように左右を見遣り、南条は唸った。
 城内の悪魔は思いのほか強力で、五人がかりで辛くも勝利をおさめている有り様だ。それが真物が戦力を外れるとなると、南条の言うように正にひとたまりもないだろう。

「やなコト言わないでよ〜」

 今にもどこからか現れるんじゃないかとびくびくしながら辺りを見回し、ブラウンは情けない声で首を振った。

「いや、もう……平気だから」

 出来るだけらしく聞こえるように努め、真物は立ち上がった。
 これ以上他人を煩わせるわけにはいかない。
 理由もないのに不安になるなんて有り得ない。

 自分の名前は――

「そんな顔で平気とか言われても……」

 血の気の引いた頬で笑みを浮かべる真物に、ブラウンは困惑して南条らを振り返った。

「身体はなんともない…本当に。ごめん……」

 じりじりと痺れたように震える指先をきつく握り締め、疑いの眼差しを向ける南条にそう告げる。

「……貴様がそう言うなら、そうなのだろう」

 溜息交じりに言い放ち、南条は背を向けて歩き出した。
 奇妙な縁で集まったとはいえ、ここまで行動を供にした仲間を思いやる感情が、そよりそよりと胸を撫でる。
 もう一度心の中で南条に詫びて、真物は歩き出した。
 不安で一杯の真物の胸中をくすくす嘲りながら、真生は見送った。

 

 

 

「恐らくはここ…だろうな」

 城内で初めて目にする扉を前に、南条は低く呟いた。

「静かだな……」

 のぼってきたばかりの階段を振り返り、マークは訝るように目を細めた。あれほどひしめいていた悪魔の群れも、ここには影すら見当たらない。

「とにかく行こう! 城戸君が心配だよ」

 続けざまの悪魔の襲来にやや疲れた表情のマキが、それでも眦をきっと上げて叫んだ。
 一行は声もなく頷く。
 各々武器を手に、扉の両脇に散って背を押し付ける。
 何が来ても即座に対応出来るよう身構え、扉の前に立った南条が送る合図に無言で応えて……
 何の前触れもなく、真物はありえない光景に囚われた。今まさに踏み込もうという場所が、銀色に輝く円形の床にすりかわった。そうじゃない、畳の上に飛び散ったおびただしい量の血が……
 耳の奥がどくんと脈打つ。

 すくえるほどの赤い水、転がった指、包丁、殺し合うお―――

 幻だ

 誰とも解らぬ声にはっとなり、同時に扉が蹴破られた。
 一瞬の間を置いて駆け込んだ五人は、すぐ目の前で死んだように倒れ伏す玲司にぎょっとなった。

「玲司……!」

 マークは恐る恐る顔を覗き込んだ。

「城戸君?」

 取り乱した様子でマキが傍らに跪き、頬に手を伸べた。
 まるで反応しない。見る限りどこにも外傷はないが、どんなに呼んでも揺すっても、玲司はぴくりとも反応しなかった。

「……あんまり煩わしいのでね。ペルソナごと封じたんだよ」

 部屋の奥から、静かな声が響いてきた。
 部屋の奥…仰々しい『「王様の椅子』に座した神取が、微笑を浮かべてこちらを見ている。

「封じただと?」

 言葉の意味を理解しかねて、南条が眇めた眼を突き付ける。

「君たちは知らなかっただろうが、玲司は随分前から私を殺そうと狙っていてね」
「……え?」

 誰ともなく驚きの声が上がる。
 それまで扉の前で棒立ちだった真物は、ようやく部屋の中に歩を進めた。まるで夢遊病者のようにふらふらと、目の前に浮かび始めた光景に引き寄せられる。
 罵声を浴びせる男、伏して謝る女…これを見るのは初めてではない。

 前にどこかで見た記憶がある……

「母親がひどい目に逢わされたとかで、逆恨みして復讐を企んだ。もっとも、張本人の私の父親は既に他界していてね。何を勘違いしたのか玲司は、恨みの矛先を私に向けるようになった。母親が違うとはいえ、半分血の繋がった、兄であるこの私にね」
「!…」

 それまで頭の片隅に、なぜ神取が玲司だけをはっきり名前で綴るのかぼんやり疑問に思っていた事が、衝撃的な真実とともに明白になった。
 皆が皆、ほぼ同時に玲司を振り返った。驚きともつかない複雑な表情がそれぞれの顔に浮かんでは消える。
 その中で真物だけが、全く違うものを聞き全く違う光景に埋没していた。
 前の時は、誰の記憶か分からなかった。すぐ後で、その場で一番近くにいた玲司のものだと理解したが、残酷なあの光景がどういう意味をもっているのか、気付く事もなく、また考えを及ばせることもしなかった。
 玲司の傍らまで辿り着いた真物は、見つめる先にある玲司の顔、その額にうっすらと残る古傷が、彼の異常なまでの生への執着と憎しみとの胤だということを理解した。
 蛍光燈に反射して鈍く光る凶器が、母を庇って立ちはだかった子供…自分の額に振り下ろされる
 寸前で記憶はふっとかき消えた。実際にはありえない衝撃と灼熱を伴った痛みが、一瞬とはいえ脳天を直撃する。指が食い込むほど額を押さえ、真物はしゃくりあげるように息をついた。
 ようやく、心と身体が現在の流れに沿って対応を始める。
 『王様の椅子』から立ち上がった神取目掛けて顔を向け、まだ脳裡に生々しく残っているもう一人の神取をも見極めようとする。
 足元に立ち込めるどろどろとした思考の澱は凍えそうなほど寒々しく、それを囀る人の眼差しのなんと虚ろな事か。

「今すぐ城戸を元に戻せ」

 射殺さんばかりの激昂を眼差しのみに込め、南条は低く唸った。

「それは出来ん相談だな。半分は神取の血を引いているが、半分は薄汚い雌犬の血が混ざっている。汚らしい腐った血がな。とはいえ……やはり殺すのは忍びない。となれば封じるのが一番だろう? 死ぬでもなく生きるでもなく……神取の名を汚さぬよう、殺さぬよう、精一杯心を砕いた私の情けに、感謝してもらいたいくらいだよ」
「てんめぇ……」

 怒りに拳を震わせ、今にもペルソナを呼び出す勢いでマークが一歩踏み込む。

「……返せ」

 そこに割って入ったのは真物だった。無造作に片手を突き出して、聞き取れない程の小声で強要する。
 マキとブラウンが揃って驚きの目を上げる。
 神取の表情がぴくりと反応した。

「君は確か…あきが世話になったようだね」

 ひと目で分かった。自分に少し似ている奴が六人の中にいるとあきが言っていた。それがこの少年か。
 確かにそうだ。同じところから生まれた。同じ…匂いがする。彼の中にほんの少しだけ。

「返せ」

 真物は熱に浮かされたように同じ言葉を繰り返し、手を突き出したままわずかに首を傾ける。

「それだけでは何を指しているのか分からんな。君たちに持ってこさせた鏡か、それとも玲司なのか」

 嘲るように首を振り、神取は口元を卑らしく歪めた。
 真物にも自分の行動が分かっていなかった。またあの感覚…【自分と似て非なる自分】が割り込んできたように、自分の意志で行動しているにも関わらず自分はそれを傍観している。

 これは誰なんだ――

「両方だ。両方返してもらう」
「ク…ククク」

 場違いなほど甘やかな囁きに神取は肩を震わせた。

「両方とも既に元の形を失っている。まず鏡の方からだ…あき」
「はいパパ!」

 この合図を待っていたのか、満面の笑みを浮かべてあきが姿を現した。手にした鏡は丸く、元の形を失った証をまざまざと見せ付けられる。

「お見せしろ」

 大きく頷いて、あきは奇妙な言葉を口にした。

 ノモラカ・タノママ!

 甲高い叫びと同時に鏡の中から光が弾け、一瞬視界を眩ませた。庇う間もなく六人は白光に包まれ…そして唐突に光は消え失せた。

「なに……?」

 光の中から産み落とされたものに、怯えた様子でマキが悲鳴を上げた。
 彼等の目の前に、人の背丈より尚高い大きさの鏡が忽然と現れた。
 鏡の上部に添えられた装飾は見るからに禍々しく、得体の知れない不安をかき立てるに相応しい形をしていた。
 不思議な事に鏡は、傍らに立つ神取も、相対する彼らの姿も映していなかった。ただ表面から鈍い光を発するばかり。

「混沌の鏡だ……」

 うっとりと口ずさむ神取を、五人は唖然としたまま見つめていた。

「諸君らには心から感謝するよ。おかげで分かたれた鏡は一つに戻り、私は神にも匹敵する力を手に入れた……」

 至福の笑みに口元を緩ませ、神取は先を続けた。

「見るがいい」

 鏡を示して脇に退く。
 どのような仕業か、それまで何も映していなかった鏡にぼんやりと絵が浮かび上がる。
 どこかの街並みをはるか高みから見下ろしたような光景。

 見覚えのある建物の連なり、目立つマンション、高速道路、緑輝く大きな公園

「おいこれ……」
「まさか!」
「御影町か?」

 口々に正解を述べる。何を見せようというのか、意図も分からず食い入るように鏡を覗き込んでいた。
 と、不意に街並みがぐにゃりと歪み、出現した巨大な球体によって押し潰され消滅した。
 一瞬にして消滅したのだ。

「!…」

 信じ難い光景は更に続いた。球体の形のまま消滅した部分のあちこちに黒い点が浮かび上がり、見る間に増える黒点はやがて一つの形へと集結し……古代の遺跡を思わせるような建物と成り果てた。

「いかがかね。神たる者にふさわしい居城だろう?」

 誰一人口を開かない。これが作り物の映像でないことは分かっている。分かっているから声も出ない。

「輝ける新時代の到来を記念して――『デヴァ・ユガ』とでも呼ぼうか……」

 気味の悪い薄笑いに頬を引き攣らせ、満足そうに頷く。

「お、おい…まてよ、あそこにあったの…どうなったんだよ」

 ようやく我に帰ったマークが、上擦った声で問い詰める。
 答えもせず、ただ笑みを浮かべたままの神取に、マキは動揺を深め一杯に目を見開いた。

「なんてことを……」

 そこに確かに存在していた数え切れない人達も、建物と共に消滅してしまったというのか。
 マキの驚愕が引き金になったのか、突然神取は狂ったように笑い身を反らせた。

「素晴らしい! そうは思わないか? この混沌の鏡こそ我が望みの結晶! ちっぽけなコンパクトと違いその効果は絶大……デヴァ・システムに頼らずとも、次元を超えて望みを実現する力を私は手に入れた!」

 狂気じみた瞳をらんらんと輝かせ、喚くように神取は言った。

「ひどい…ひどすぎる!」

 錯乱したように張り叫ぶマキに目を移し、神取は囁きにも似た嘲笑をもらした。

 同じではないか

 言葉はあまりにもささやかで、誰の耳にも届きはしなかった。
 唯一人、真物だけが聞き取る。
 神取の心に浮かんだ光景を見て、聞き取り、知る。
 見上げるほど巨大な装置、デヴァシステムを守護者として背に従え立つ神取とそして…園村麻希を見る。
 寄り添って立つ二人の中からとめどなく紡がれる、恐怖と絶望に染まった冥い終わりの詩を聞く。
 二人が何に臨んでそうなったのかを知る。
 その途端虚空から伸びた無数の触手が真物に絡み付き、凄まじい力で締め付け、同じところへ引きずり込もうと呼び寄せる。

「――!」

 真物はきつく目を閉じ、何も見るまい何も聞くまい、何も知るまいと必死に遮断を試みた。

――あーあ、だから近付くなって言ったのに

 警告を忘れた真物に肩を竦め、しかし真生は嬉しそうににんまりと口端を歪めた。

『大丈夫。よく見て』

 恐慌状態に陥りかけた真物を、「彼女」が強い声で呼び戻す。

『目を開けて。見れば分かる』

 人の魂を嗤う邪神に取り込まれかけた真物を、「彼女」がしっかと引き止める。
 見るもおぞましいものを見ろと急かす声に、真物は無我夢中でその通りにした。
 ぎこちなく目を開けて、目を凝らし、汚泥の黒を見据える。
 途端に引き込まれる力が増す…そうではなかった。逃れる為の唯一の道を、一直線にすり抜けていくではないか。ふと見ると、脅威から免れる為頭をかばった腕のそこここに、一つ、また一つと、弱いながらもはっきりと光る粒がくっつき、ちかちかと煌めいていた。
 味方だ。
 力をくれる。
 守っている。
 直観的に悟る。
 どこかで、これと同じものを見た事がある…思い出そうとしたまさにその瞬間、唐突に真物は現実に立ち返った。
 瞬きにも満たない一時に真物は小さく目を見開いた。
 すぐ傍で南条の声が上がる。

「まさか…そうか貴様――」

 浮かんだ一つの推測に、南条は込み上げる驚異とともに神取を睨み付けた。これほどまでに大それた事を平然とやってのけ、それどころか愉しんでいるようにさえ見える神取に、推測は確信に変わる。

「……私は、現世の神となる」

 他の人間が言ったならただの滑稽なほらに聞こえただろうが、この男の口から聞かされてはただただ脅威をもたらすばかりだった。

 彼のいう『神』はひたすら消滅を望み、他の存在を認めない

「神の仕業はただ一つ……愚かな人類に、裁きの杖をふるう事だ」
「そうかあなた…人間を皆殺しにする気なのね!」

 自分の言葉にマキは竦み上がった。ひしひしと這い寄る確実な恐怖と絶望が身を凍り付かせる。
 そこに真物は割り込む。

「そんなはずはない」

 何に応えたのか分からない言葉を放つ真物に、神取はどこか楽しそうな眼差しを向けた。
 真物は眼を眇めた。またあの感覚…【自分と似て非なる自分】が割り込んできて、かすかなおぞ気と共に背筋を駆け抜ける。けれどどこか心地良くもあった。
 少し前は不安や不快感をもたらしたが、今はどこか違う。言葉にするならばそう…嬉しさがあった。
 誰とも、何ともつかぬものに、慰め励まされ、曖昧な足元を支えてもらっている気がするからだ。
 守られているから、あの男のあの冥い眼差しに引き込まれる事もない。
 奥底で、真生がぎりぎりと歯噛みする。
 その向こうで、「彼女」が穏やかに成り行きを見守る。
 二人の視線を背に真物は、神取に言った言葉を頭の中で強く繰り返していた。
 彼…彼らの望みがそんなものであるはずがないと。
 本当はもっと別のところにあるはずだと。

「おもしろいことを言う……」

 何を見極めようとしているのか、半ば睨むように挑んでくる真物の眼差しに冥い輝きで応え、

「さて、もう一つの方だが……」

 未だ衝撃の覚めやらぬ五人に向かって手を伸べて、蒼紫に染まった小さな球を差し向けた。

「玲司のペルソナは……ここに封印してある。欲しければ返してやってもいい。ただし――」

 突如辺りの空気が重苦しく震え始めた。そこかしこで縦横に稲光が走り、異変に身構える彼らの目の前に、巨大な悪魔が姿を現した。

「生き残る事が出来れば…だがな」

 足元にことりと球を置き、神取は楽しそうに小首を傾げた。

「私はまだやらねばならない事があるので、これで失礼させてもらう」
「待てっ!」

 鏡に向かい合う神取を南条の怒号が引き止める。
 肩越しにほんのわずか振り返り、狂気にも似た満面の笑みで神取は言い放った。

「私が憎いか……? 憎ければ――追ってこい」

 度を越えた狂気はある種の喜悦をもたらす。酔い痴れてうっとり目を伏せ、神取は震える指先を五人に向かって突き出した。

「望む物はたやすく手に入らん。だが……障害を乗り越えそれを手にする喜びは至福のものだ」

 神取が指差す者は唯一人。

「神の啓示と受け取るがいい!」

 銃を手に無造作に腕を伸べ、今にも引き金を引かんとする少年…真物を嗤い、神取は鏡の縁に足をかけた。

「そんなはずがない!」
「侮るなぁ!」

 張り叫んで真物は引き金を絞り込んだ。同時に悪魔が咆哮を上げる。狙ったのは混沌の鏡だった。
 何の妨害も無ければ、間違いなく悪魔を撃ち抜き、神取の心臓から真横にずれた鏡の中心を貫いたはずだった。
 実際は鏡に届くどころか、悪魔の直前でまるで高温で溶かされたように音もなく消滅し、わずかな塵を四散させただけだった。
 神取は鏡の中に消え、あきがその後に続く。振り返りざま思い切り憎らしい顔を見せて。
 二人を飲み込んだ鏡は、すぐさま後を追おうとする彼らを嘲笑うように…神取の意志が乗り移ったように一瞬にして消え去り、見るものを圧倒する異形の悪魔だけが残った。

「我が前に立ちはだかる人間よ……」

 しゅうしゅうと、唸るような不快な声が発せられる。
 五人は今一度武器を確認し、残された脅威を退ける為にペルソナに呼びかけた。
 真物はすぐさま銃を収め、駆け出した。

 早く取り返せ。
 早く元に戻すんだ。
 早く!

 どこから響いてくるのかも分からない切迫した声。誰か見極める余裕もなく、突き動かされるままに真物は走り、懸命に手を伸ばした。蒼紫に輝く水晶球、玲司を封じた忌まわしい形に。

 早く元に戻さなくては。早く元に……

 マハマグナス

 両手を突き出し、悪魔が低く呻いた。
 途端に、実際は有り得ないはずの瓦礫の山が出現し、凄まじい勢いで五人に降り注ぐ。意志を持っているかのように狙い定めて落ちてくる瓦礫を辛うじて避けるも、次から次へと襲い来る衝撃に魔法を繰り出す余裕もない。
 翻弄される彼らに嘲笑を響かせ、悪魔は耳障りな声で怒号を上げた。

「さあ、ショータイムだ。思う存分踊るがいい……死の舞いをなぁ!」

 行く手を阻む瓦礫をぎりぎりかわし、悪魔の脇をすり抜け、真物は走る。

「いけー!」

 真物の意図を悟ったマキは、援護しようとペルソナに呼びかけ、進路の確保に努めた。マークもその補助に当たり、南条とブラウンは強大な力を持つ悪魔と対峙し攻撃を繰り出した。
 悪魔の吠え声、魔法のぶつかり合う音。
 部屋を揺るがすそれらの轟音の中、真物は懸命に駆ける。
 前のめりに倒れかける身体を片手で支え、もう一方で水晶球を掴み取ろうとするまさにその寸前、真物の頭上に大きな影がかかった。

「真物君!」

 マキの悲鳴と床に映る影で危機を察知したものの、避けるには間に合わない。
 自分の身体よりも大きな岩が真物を押し潰す。

「ペルソナー!」

 それより早く、死の予感を免れる使命を果たさんとペルソナが発現し、瓦礫を肩に受けたにも関わらず殆どダメージはなかった。
 ようやく指先が水晶急にかかり、真物は床を転げながらもしっかりと両の手に握り込んだ。
 それが封印を解く鍵となった。

――やったか……

 意識の奥で悔しそうに舌打ちする真生に一瞬気を取られたが、それよりも今は目の前の脅威を回避する方が先だった。忌々しげに睨み付ける真生を何とか無視し、手にした水晶球を覗き込む。
 途端に水晶球は手の中で泡となって弾け、跡形もなく消え去った。
 間を置かず玲司の意識が覚醒する。
 気付いて真物はすぐさま玲司の元へ走った。
 頭の中に、いくつもの鍵穴に物凄い勢いで鍵が突き刺さる重い音が絶え間なく響く。見る間に埋まってゆくたくさんの鍵穴をもった扉を見ながら、一人無防備に倒れ伏す玲司を目掛けて床を蹴る。

「人の子如きに何が出来る!」

 奢れる絶叫と共に業火が起こり、大蛇のように這って五人を脅かす。

 炎の壁

 猛烈な勢いで迫る灼熱の大火を、マキのペルソナが異なる炎で壁を作り五人に届く寸前で阻止する。
 二つの炎は互いを相殺しどこかに吸い込まれるように消滅した。
 すぐさまマークが万破の核熱を悪魔にお見舞いし、わずかに怯んだところを、間を置かずブラウンが衝撃を食らわす。
 思い通りに動かない手足を必死に突っ張り、玲司はなんとか立ち上がろうと踏ん張った。封印されていた為か、ろくに力が入らない。
 と、誰かの手が肩を掴み支え起こした。
 玲司は反射的にその手を払いのけ、不自由な身体で身構えた。

「ペルソナは呼べるか」
「? てめぇ……?」

 突き飛ばされても平然とした顔で立っている真物に玲司は眉をひそめた。構えは解いたが、訝る眼差しはますますきつくなる。

 こいつ…こんな奴だったか?

 違和感が生じる。今までろくに目にも留めていなかったが、こんな風に「動く」人間ではなかったはず。どうでもいいといわんばかりの無関心さとは違う落ち着いた態度に、玲司は危険な状況だという事も忘れ半ば睨むように真物を見つめた。

「ペルソナは、もう呼べるか?」
「……ああ」

 再度尋ねられ玲司はふと我に返った。
 玲司が不審がるように、真物も自分自身に違和感が拭えない。それとは別のところに、あと一人加われば悪魔を倒せると、冷静に判断を下す自分もいる。意識を支配されているわけでもなく、しかし自分では意思するはずもない考えにかすかな恐怖を抱く。
 無数の鍵穴をもった扉。ずっとその向こうを知りたいと願っていたのに、全ての鍵穴を埋める勢いで鍵が突き刺さる様を見て、真物は明白に恐いと感じた。
 どうして「彼女」は何も言ってくれない!

――あんなクソ女、どうでもいいだろ

 意識の奥底から響く声に、強く引き付けられる。

「お前だけじゃ、どうしたって思い出せないんだよ。記憶の残りカスをなぞるだけだろ?」

 時折真物を襲うフラッシュバック。それを指して真生は言った。

「まだ決心つかないのかよ」

 いつまで迷えば気が済むんだと、真生は薄く笑って腕を組んだ。
 その真生に、恨みに近い感情がふっと紛れ込む。危険だと恐れる事はあっても、恨みには繋がらないはず。だというのに真物ははっきりと、それを宿した眼差しで真生を睨んでいた。
 ここに於いてもこの感覚――【自分と似て非なる自分】にとりつかれるという事は、これは自分自身の中にこそあるものだというのか……
 真物は忙しなく左右に視線をさまよわせた。
 その様子から、真物が何に脅かされたのか悟った真生は、過去の自分の仕業を思い出しつつ、少し苛々とした様子で言った。

「あるっつーかあったっつーか…ま、それも全部分かるから、俺の手を取れよ」

 そして鉄柵の合間から揃えた手指を差し伸べる。もうそれしか縋るものがないのかと、真物はよろけるように一歩踏み出した。
 そこに玲司が割り込む。

「奴は…どこだ」

 それ以外の事はどうでもいいとばかりに神取の行方を問いただす。それが、図らずも真物を引き止めるきっかけを作った。
 はたと足を止め、目を大きく見開いたまま振り返る。
 意識の奥で、真生がくそ、と小さく吐き捨てる。

「あの悪魔を残して帰った」

 示す指先がかすかに震えていた。真生に対する恐怖の余韻を引きずっているからか、あるいは――

「あの野郎……」

 玲司は両の拳をぐっと握り込んだ。神取に対する憎悪そのままに悪魔を睨み付け、片方の拳を天高く突き上げる。
 あるいは自分が恐ろしいのか。
 玲司の背後に、青紫に輝く甲冑を纏った魔王が発現し、優美な動きで朱の槍を構えた。

 ツインスラッシュ

 螺旋を描いて槍が繰り出され、悪魔を縦横に切り裂く。
 巻き起こる烈風に真物は反射的に腕で顔をかばった。

「馬鹿な…何という強さだ……貴様ら本当に人の子か……」

 圧倒的な力の違いが勝敗を決した。口惜しそうに吐き捨てる言葉を最後に、悪魔は塵となって四散した。
 肉眼で確認出来なくなるほど消え失せてやっと、彼等は安堵に深く息をついた。

「おい玲司よぉ! 攻撃する時はオレ達巻き込まないように気を付けろよなぁ!」

 鼻の先スレスレをブレスの槍がかすめ一瞬生きた心地がしなかったと、驚いた眼差しのままマークはふてくされたように怒鳴った。

「マークがニブいだけじゃないの?」

 すかさずブラウンが茶々を入れる。

「なにおぉ?」

 しかめ面でブラウンを睨みつける。

「身体の方は何ともない? どこかおかしなところがあったら、すぐに治してあげるから」

 慌ててマキが駆け寄る。

「あ、マキちゃんの魔法はすごいよー。なんでも一発で治しちゃうんだから。なんたってマキちゃんだから。ねー」

 最後はマークの反応を伺いながら大げさに肩を上下させて笑う。

「……なんともねぇよ」

 目を逸らしたままぶっきらぼうに言い放つ玲司に、四人そして真物さえも驚きを浮かべる。
 玲司は口の中で小さく舌打ちした。本当は煩わしくてたまらないはずなのに、何故か無碍に断れない。今までは、なんだかんだと構いたがる彼らを嫌悪し、群れて行動する無力な奴らと侮蔑していたのに…ともすれば、今までの自分と正反対の考えを抱き始めていた。神取を追う事のみが唯一の目的なのは変わりない。それだけで生きていると言っても過言ではないが、別のものも意思始める。

「ところで貴様、神取と血の繋がりがあるというのは、本当か」
「!…」
「お、おい南条! ンな事聞く必要ねぇじゃんかよ!」
「ただ確認したいだけだ」

 そう言う南条の眼差しは、どこか冥い輝きを宿していた。

「俺は奴とは関係ねぇ!」

 火を吐く勢いで玲司は張り叫んだ。

「ではお前は誰だ」

 言ってから、真物は自分自身にぎょっとなった。
 聞きたい気持ちは強くあるのだが、実際口走ったのは自分ではない。否、これはどこまでいっても自分には違いないはず。
 分からなくなり始めた自分を知りたいから聞くのか、 玲司が自分と同じように【変わりつつある自分】に戸惑うからか。

「……なんだと?」

 突然意味の分からない事を口走る真物に眼を眇める。

「お前は誰なんだ」
「俺は城戸だ! 城戸玲司だ!」

 繰り返す真物に玲司は吠えた。
 射抜かんばかりの迫力にも怯まず、真物は強い目でじっと玲司を貫いた。

「ならそれでいいじゃないか」

 それでいい。玲司に言った言葉は同時に自分に投げかけた言葉でもある。
 それでいいんだと。
 玲司はいましがたの勢いも忘れて、面食らったように瞬いた。

「……おう」

 束の間おいて、少しぶっきらぼうながら素直に頷く。
 それでいいのだと。

――そう思われても困るんだよな

 嘲笑まじりに真生は舌打ちした。とっくの昔に消したはずの「奴ら」が真物に出始めたのが無性に腹立たしい。これではいつまで待っても真物は手に入らないどころか、下手をすればこちらが消えかねない。
 どうする。

「相変わらずシンの大将てば言う事違うね」

 良い事言うわね〜と涙を拭く真似をしながらブラウンは何度も頷いた。そうやってごまかしてはいるが、本音は羨ましさと妬ましさが入り乱れていた。悟られまいとポーズを取る。

「しかしよお、どうやってあのオッサン追うよ」

 少し落ち着いたところで唐突に現実が舞い戻り、マークは途方に暮れて腕を組んだ。

「何か方法があるに違いねぇ…野郎はそういう奴だ。俺たちをおちょくって、楽しんでやがるんだ」
「城戸の言う通りだ。必ず道はある。フッ…初めて意見があったな」

 意外そうに、どこか楽しそうに、南条は賛同した。

「……まぁな」

 するとそれが伝播したのか、玲司もまた満更でもない穏やかな声音で応えた。
 難しい事を考えるのは南条の役目とばかりに、ブラウンは早々に思考を打ち切り黙した。
 こちらの世界の住人であるマキには手助け出来ない。
 マークはマークで何か考えているようだった。
 真物だけが、別のものに囚われていた。
 急に静かになった辺りの空気が助長させるのか、脳裡に残っているもう一人の神取が生々しく蘇る。見て、聞き、知った…取り込まれかけた瞬間が恐怖と絶望を伴って蘇る。
 連鎖して、あるいは何の繋がりもないのに、次々と浮かぶ記憶の羅列に身動きが取れなくなる。
 虚空から垂れ落ちる無数の黒い手に押さえ付けられたように。

 そもそも自分は何故ここにいる?
 本当の「見神真物」はどこにいってしまった?

 真物はかたく目を閉じた。自ら辿り着いた疑問に自ら悲嘆する。
 ずっと、そうではないかと思っていたのだ。
 意識と無意識の狭間で、フィレモンに名前を問われ答えた時から…あの時感じた不安と違和感は、思い違いなどではなかったのだ。
 自分は「見神真物」ではない。
 悲嘆に暮れる。
 しかし、そればかりが胸を締めるのでもなかった。
 漠然とながらも感じる味方の存在…それは「彼女」であったり、自分に紛れる異なる自分であったり。
 それらが、ぐらつきそうな足元を強固にして、慰め励ましてくれる。喜びに似た何かも確かにあった。
 自分は見神真物ではない。
 悲しいが、しかし――
 小さく目を上げかけた真物の邪魔をするかのように、真生は口を開いた。

「今はお前が、見神真物だろ? そうだろう?」

 強引に手繰り寄せた真物へ、真生は殊更にゆっくりと言葉を綴った。

「多分きっと…別の名前がある」

 声は幾分寂しげだったが、その表情に沈んだ陰りはあまり見られなかった。
 かつては見られなかった表情の変化は、紛れもなく『奴ら』の協力。こっそり舌打ちし、真生は目の前の鉄柵を強く握り込んだ。
「そんなもんどうでもいいだろ。思い出せないものに、意味なんかあるはずねぇし」
 真生がにやりと笑う。

 思い出せないもの。
 思い出したもの。

「くっ……!」

 言葉が引き金となり、一瞬にして真物は渦に飲み込まれる。
 殺し合う大人たちの惨状に引きずり込まれる。
 真物が見ているものに、真生は笑みを深めた。
 聞くに堪えない罵声を浴びせ、悪鬼の形相で包丁を振り上げる誰か。
 自分の指を切り落としてまで、そうまでして結婚指輪を捨てたかった。

 どうして?
「どうして……」

 形を変え、自分の左耳に突き刺した母親の結婚指輪を強く掴み、真物は熱に浮かされた病人のようにひたすら『どうして』と繰り返し呟いた。
 自分が生まれるきっかけとなったあの夜を思い出そうと、虚空を見上げる。
 目は無意識に、はるか上空のスポットライトを目指した。
 そこまで上を向いて初めて、真物の顎に残る小さな傷跡を見る事が出来る。
 真生はそれを睨むようにじっと見据えた。
 自分にはない傷跡。
 本物の見神真物にだけ残る傷跡。
 意識の範疇においてそれを身体に映すという事は、どんなに揺らいでもまだこいつは見神真物というわけか。
 それはいい。
 それでいい。

 だが、集まり始めた「奴ら」はどうにも忌々しい――

 ……くそ、くそ!

 数針縫うほどの傷を負った日の事が思い出され、知らず内に呼吸が荒ぶる。
 全ては、あの傷を負ったのが始まり。

「なあ、真物」

 反応はない。ぼんやりと、熱心にスポットライトを見上げている。

「一緒に、あの夜を見ようぜ」

 そこでようやく、真物の瞳が意思始める。
 ゆっくりこちらを向く強張った眼差しを見つめ返し、真生は片手を伸ばした。

「早くすっきりさせたいだろ?」

 鉄柵の合間から手が差し伸べられる。強烈なライトに照らされて白く浮かび上がる手が、どうしようもなく心を揺さ振る。

「俺が見た憎悪を、お前も見ろ。そして思い出せ! 全てはあの気狂い女から始まった!」

 おぞ気が走るほど陰湿な笑みに感覚が麻痺する。

「もういい、もうやめろ――!」

 苦痛から逃れようと真物は必死の思いでピアスに縋り付いた。

『それにどんな意味があるんだ?』

 指が触れた途端、以前真生に言われた言葉が思い出された。
 真物は強く思い浮かべた。

 これは、これは――の声を聞きたいから

 それがきっかけとなったのか、突如能力が暴走を始めた。
 この場に於いてのみ見える無数の手が、真物の身体から次々に立ち昇り凄まじい勢いで虚空を目指した。
 やがて数え切れない手の一つが誰かの声を掴み、逃すまいと残りの手もそれに続く。
 小さな麻希に呼ばれ森へ飛んだ時と、同じ事が起ころうとしていた。

「そうだ、ジャンプしてみせろ。前にやったように。飛べるだろ?」

 真物の掴んだ声を見上げ、にやりとほくそ笑む。
 最愛の娘を探して繰り返し名前を呼ぶ母親。
 ただし全く別の外見を押し付けられ、例え最愛の娘本人であってもそれが母親だと気付かない姿をしていた。
 くくくっと喉の奥で笑って、真生は指輪に目を落とした。

「この気狂い女とどんなに違うか思い知るがいい」

 指から抜いて光にかざす。内側に刻まれた文字を読み、真生は鼻を鳴らして嘲った。

「そうすればもう、もう二度と、助けたいなんて言わなくなる」
 千里を
 麻希を
 神取を
 そして――

 頭を抱え、今にも崩れそうだった真物の姿が、引き寄せる声もろとも虚空に消え去り、後には真生だけが残された。

「本当にそう思う?」

 背後から静かに問いかける「彼女」をゆっくりと振り返り、真生は鉄柵にもたれかかった。

「さあねぇ。今ごろ『奴ら』を出してくるようなクソ女に、何も言う気はねえよ」

 それだけ答え、真生はふいと顔を背けた。くすくすと笑いながら首を振り、真物の消えた先に目を向ける。

「大体あんな寄せ集めで何をしようってのか、さっぱり分からねぇな。真物を混乱させるだけじゃねぇか」

 侮蔑に口端を歪めて言い放つ。

「更に遠ざかってしまって、気が気ではないのでしょう」
「……どうかな。まだ真物は俺の思い通りに動いてくれてるぜ。お前の方こそ焦ってんじゃねぇの?」

 横目で「彼女」を見やり、言葉を続ける。

「俺が真物を取り戻したら、まず始めにお前を殺してやるよ」

 虚空から降り注ぐ白光に手をかざし、真生は言葉と共にライトをかき消した。
 一瞬にして全てが暗闇に包まれる。

 

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