GUESS 緑 7

心の海より来たる・・・

 

 

 

 

 

「鏡さん鏡さん。私、この世で一番綺麗になりたいとか、誰よりも素晴らしい絵が描けるようになりたいとは思っていないの。
だって私、生まれながらに綺麗だし、今まで描いてきた絵も、これから描く絵も、素晴らしいのはわかっているもの。でもね鏡さん。どんなに私が綺麗でも、どんなに素晴らしい絵を描いても、理解出来ない奴らがいたんじゃ意味がないの。
だから、鏡さん。千里のお願い聞いてちょうだい。この町のみんなに、私がどんなに優れているか教えてあげて」

 

 

 

 学園を後にした五人は、マキの提案により地下鉄ターミナルへと向かった。街は壁によって東西に区切られている為、地上から東側に行くのは不可能だという。地下道を使う以外方法はない。

「でも実際確かめた訳じゃないの。中は悪魔で一杯だって話だし」
「ま、行くしかあるまい。他に方法はないようだしな」

 元いた御影町とは異なる静けさを漂わせる町中を、マキを先頭に五人は一塊になって歩いていた。

「にしても、何から何までそっくりだな。あの桜の曲がり具合とかさ」

 遊歩道に目を向け、下校途中毎日確認するように見ていた桜の木を指差して、マークは独り言のように呟いた。
 春先になると、見事に咲き揃う遊歩道の桜並木の中程に、Sの字を描くようにねじくれて伸びている桜が一本だけある。

「ああ、それ今オレ様も思った。一本だけ道路にはみ出してるトコなんか、どう見てもおんなじじゃん」

 それからしばらく二人して、あそこの家の屋根がどうの、塀の欠け具合がどうのと言い合っては、最後に「どう見てもおんなじじゃん」と驚きの声を上げていた。
 南条は二人ほど余裕がないのか、取るに足らない事と思っているのか、それとも他に考えている事がこちらにとっては好ましくないものなのか、一切の声を掴み取る事が出来なかった。
 真物にしても、今まで周りに注意を払っていなかったので、二人のお喋りに同感出来る部分はなかった。最後尾について、遅れないよう黙々と歩く。
 実のところ、頭の中にひそひそと囁きかけてくる声を無視するので精一杯だった。
 「彼女」の声ではない。「彼女」なら、もっとはっきり聞こえよがしに言ってくるはずだし、周りの四人にも該当しない。
 近くに悪魔が潜んでいる可能性も考えられたが、今まで掴んできたものとは明らかに異なる声の質に、それもありえなかった。
 だいいちこの声は、話かけてきているのだ。無論自分だけに、というわけではない。それは分かる。声の調子からして、どうやら助けを求めているようだ。ただあまりに声が小さすぎて、聞き取れない。自分は思考の切れ端まで掴み取る事が出来るので聞き取れているだけだが、通常ではまず気付かないほど些細で微細な声音。
 どこから聞こえてくるのか、それすらも分からない。
妙に苛付いている自分に気付き、真物は衝動を抑えようと努めた。聞こえそうで聞こえない状態がいつまでも続くのにうんざりして、無視しようかと思った矢先、別の、明確で刺々しい思考の断片が真物の頭の中に突き立てられた。
 真物は耳を押さえて咄嗟に頭上を振り仰いだ。
 青く霞んだ空に、黒い塊が三つ浮かんでいるのが見える。始め拳ほどの大きさだった塊は見る間に大きく膨れ上がってゆき、やがて全貌が明らかになる。
 毒々しい紅色の羽毛はよくよく見れば大きなうろこ状になっており、異様に膨らんだ腹部をびっしり覆っている。空を切る翼は蝙蝠のそれに似て、黄色いとさかは鶏とも受け取れる。

「コカトライズ!」

 そのものの姿形から思い浮かぶ名称を、半ば無意識に口走る。

 ギョオオォ!

 真物の叫びをかき消す勢いで、コカトライズがけたたましい鳴声を上げた。鼓膜が破れそうなほど甲高い鳴声に、たまらず真物は耳をふさいだ。銃を構えるマキの喉元に狙いを定め、コカトライズは鋭いカギ爪をつき出した。

「!…」

 マキの危機に、マークは無我夢中で飛び出し、庇う体制で彼女もろとも地面に倒れ込んだ。耳障りなコカトライズの鳴声が頭上に降りかかる。咄嗟に振り向いたマークの黒い瞳に、勝ち誇ったようなコカトライズの顔が映った。

「ペルソナぁ!」

 マークの危機に応えてオグンが現れるより早く、ブラウンの背後から鮮やかな朱色の翼を広げてネヴァンが飛び立ち、マークに食らい付こうとしていたコカトライズを撃退した。慌てふためいてコカトライズは一旦上空に逃げ仰せた。

「いつまで乗っかってるんスか? マークのダンナ!」
「あ、わ…悪ぃ園村!」

 からかうブラウンの声にマークは大慌てでマキから離れた。にっこり笑って礼を言うマキに、マークはしどろもどろで答える。
 二人のやりとりに声を殺して笑い続けるブラウンだが、心の中は怯えたように震え、その一方で間に合った事に喜んでいた。その思いを足がかりに、ブラウンは悪魔に向かって挑発めいた言葉を口走る。
 三匹のコカトライズが上空で体制を整えている間に、五人のペルソナが揃う。
 コカトライズの殺意が筒抜けになったのは「彼女」の警告だったようで、ブラウンの声が聞こえた後はしんと静まり返った。

「よさんか上杉。奴らの力量が判らん内は、慎重に行動しろ!」

 何もこんな時まで、と言わんばかりに南条は声を荒げた。
 心中とは裏腹に調子付いて武器を振り回すブラウンの行動は、真物にはどうしても理解しがたいものだった。無理をすれば必ずその後に亀裂が入る。結果どうなるか、過去において嫌というほど味わった真物は、ブラウンに一抹の不安を覚えるのを否めなかった。

『考えるのは後!』

 真物は「彼女」の指差す方に目を向け、青面金剛から移り変わったマルドゥークに呼びかけた。

 アギラオ

 降下してくるコカトライズを、柱状の炎で迎え撃つ。
 コカトライズは力強くはばたいて炎を避けると、すぐさま五人に攻撃を仕掛けた。明らかに焦っていた。
 さして恐れる相手でもないと知り、マークはとどめとばかりに雷撃を放った。南条の補助魔法で威力を増した攻撃は一撃でコカトライズを仕留め、残るは一体のみとなった。

「最後はモチロンオレ様ぁ!」

 ブラウンは軽やかに武器を振り上げてネヴァンに呼びかけ、衝撃をお見舞いした。断末魔を上げる間もなく、コカトライズは消滅した。

「ま、楽勝ッスね!」

 渋い光沢を放つマシンガンを肩に乗せ、ブラウンはにっこり笑って振り返った。

「なーにが。調子ン乗るなっての」
「無駄話は寝てからにしろ。ぐずぐずしていると悪魔どもの格好の餌食だぞ」

 無茶な事を言う南条に何か言い返してやろうかと息巻いて口を開きかけたマークだが、マキに先を越され大人しく口を噤んだ。

「うん、そうだね。ここの所急に悪魔が増えたから、気を付けないと。あとそれから、ペルソナが呼べなくなった時の為に、弾薬とかも補充しとかないとね」
「へ? どこで?」

 そんな手軽に入手出来るものなのかと、ブラウンは気の抜けた声で聞き返した。

「イン・ヤンで」

 当然、とばかりにマキは答えた。

 

 

 

「いらっしゃいませ! 武器をお探しですか?」

 溌剌とした女子店員の声が店内に響き渡る。自動ドアをくぐり抜けた途端そう声をかけられ、マキを除く四人は呆気にとられて立ち尽くした。

 コンビニエンスストア、イン・ヤン。

 元いた御影町にも、確かにそういう名前のストアはあった。この世界のイン・ヤンも、アーケード内に存在するところや、造り、内装に至るまでそっくりなのだが、陳列してある商品には大きな違いがあった。
 日用雑貨や菓子類、飲料は問題ない。しかし、それらと同じ扱いで銃火機類が売られているのだ。警察署から失敬してきた銃器はもちろん、長剣や小刀、ナイフ、果ては槍だの斧まで置いてある。傘を売るように長剣が立て掛けられており、ショーケースの中には飾り金具に乗せられたマシンガンがずらりと並べられている。

「え…えー? マジッスかこれ……」

 冷凍ケースの中には見慣れたアイスや缶ジュースがあり、棚には整然と並べられた各種弾薬の小箱がある。馴染みの物とそうでない物を見比べて、ブラウンは呆けたように呟いた。

「ね、ねぇマキちゃん……これ、ほんっとーに売り物なワケ?」
「そだよ」

 品定めをしながら、マキはさらりと答えた。

「ふ〜ん……」
「あ、上杉君の持ってるマシンガンに合う弾なら、確かもう一つ向こうの棚にあったと思うから探してみて」
「……はぁ」

 町中にいくつもそっくりな場所を見付けたとはいえ、一番馴染みのあるコンビニがこうまで違っているのでは、さすがのブラウンも別世界に来た事を認識せざるをえなかった。

「見て見て真物君、こんなちっちゃなデリンジャー!」

 マキがうきうきと言う。
 いくら小型で、握って隠せるほどだとしても武器は武器だ。それを、ファンシーグッズを手にしたようにはしゃぎながら見せられても、真物には何とも返事のしようがなかった。
 首筋にまとわりつく冷たい感触に、愛想笑いを浮かべた口元がかすかに歪む。
 それでも、拳銃の類はまだ抑えが利いた。形が余りにも違うからだろう。問題は刃を持つナイフの方だ。それらは右手奥の棚にあった。出来るだけまともに見ないよう、視界の端に映すだけにとどめ所在なげに立ち尽くす。

「ナイフとかは慣れてないとかえって危ないから、持つなら銃の方が便利だよ」
「ああ、そうだね」

 声にならない声で頷いて、真物はその場を離れようとした。

「あ、ねぇねぇマーク! シンも見てみて!」

 同じ通路にやってきたブラウンが、棚の反対側にいるマークにはしゃいだ声で呼びかけ、真物に手招きした。

「あんだよ」

 面倒くさそうに答えて、マークがぶらぶらとやってきた。真物はやや離れた場所で足を止め、それとなく目を向けた。

「ほら、今流行りのバタフリャーナイフ!」

 折りたたまれた状態でラッピングされているナイフの一つを手にとり、ブラウンは妙に嬉しそうに見せて寄越した。
 衝撃に似た脈動が、真物の全身を駆け抜ける。

「それはちょっとやばいんじゃねぇの?」
「あ、これけっこーキレイじゃん?」

 奥から取り出した方には、艶無しの黒い握りに、細かい模様が彫り込んである。ナイフでなければ、それなりに美しい代物といえる。刃の部分を握りの中に仕舞える形状だったのが、真物にはせめてもの救いだった。よくよく見れば、小刀の類はみなどれもそれぞれに鞘に収められており、剥き出しの刃は一つもなかった。四人の内の誰かが買いさえしなければ、衝動は回避出来る。

「でもこれ、アレだろ?」
「うんアレ」
「やっぱやめとけ」
「はーい」

 素直に返事したものの、やはり名残惜しいのかブラウンはしばらくじっと見つめた後、元の場所に戻した。知らず内に緊張していたのか、真物は強張った頬を緩めてほっと息をついた。いつのまにか指先がピアスを探っている。

「ねぇねぇ、ところでマキちゃんさぁ、こんなオープンに武器売ってて、大丈夫なワケ?」

 傍に寄ってきたマキに気付いて、ブラウンは小声で話し掛けた。

「?」

 何の事を言っているのかわからない、といった目付きでブラウンを見つめかえす。

「だってさぁ、アブネー奴がこれ盗って暴れたりとか――」
「やだぁ上杉君。これ、悪魔用だよ? そんな事する人なんて……」

 呆れた様子で吹き出したマキの表情が、すっと青ざめる。

「……そっちの世界じゃ、そんな事する人がいるの?」

 真剣な眼差しで聞き返され、ブラウンは言葉に詰まってマークに目を向けた。
 沈黙を肯定と受け取ったのか、マキは怯えて眉をひそめた。
 自分たちのいる世界では、刃物や銃による傷害事件はもはや非日常ではなくなりつつある。けれど、マキの態度を見て改めて、それがどれほど異常であるかを思い出した。例え毎日起こる事だとしても、どんな理由があろうとも、人が人を傷付け、死なせる事は、誰もしてはいけない。

「悪魔なら…いいのか……」

 真物は抑揚のない声で呟いた。彼らには聞こえないような小声で。

『自分でも答えられないような難しい質問ね。セベクで出遭った悪魔は全て、人の心が形を持った物だけど、その悪魔を殺すという事は……』

 その後に続く言葉を恐れ、真物は「彼女」から遠ざかった。
 しかし脳裏に深く食い込んだ「彼女」の言葉は中々消えず、逃れようとする真物の意思に反していつまでも繰り返し響いた。

(デヴァシステムの影響で悪魔が現れた。悪魔は、人の心から生まれたもの。悪魔
を殺すという事は……)
『この世界の悪魔は果たして本物かしら』
(!…)

 意識的に遠ざけていた推測が、「彼女」の言葉をきっかけに視界の端に姿を現す。
 せき止められていた記憶が、掴み取る間もないほどの勢いで流れ出した。それも唐突に。
 ほとんどが目の前を通り過ぎた頃、ようやく焦点が合い始める。

 縫い止めていた糸がほつれて取れかかった赤い目玉のウサギのぬいぐるみを・それは妹のものだった・抱えてうずくまったまま凍り付いた凝視で訴えかける幼児。何を伝えようとしているのか表情が全く無く・名前もない幼児の瞳はそれでもじっとこちらを見つめている・少しも動かない

 解らない。

 真物の意思に逆らい、思考は義務を放棄したままぴくりとも跳ねない。視線は相手を捕えているのに、対象を把握していないのだ。
 実感の伴わない恐怖が、真物の胸の内で染みを広げてゆく。
 真物と一緒になって、「彼女」も同じ物を見ていた。
 どんなに時を経ようが、それで色褪せるような代物でない事は「彼女」自身よく理解していた。
 だからといって、ここで逃げられては困る。それでは同じ事の繰り返しだ。ずっと昔から諦めず投げかけてきた言葉を、ようやく受け入れて歩き出してくれたというのに。

 少し、早すぎた……?

 ……そんなはずがない。遅いも早いも、これには関係ない。今日だろうが十年先だろうか、「たった今起きた事」なのだから。

 重要なのは真物本人の気持ち……

 認めるか拒絶するかの二つに一つ。
 「彼女」は正面―過去―に目を向けた。この目に映るものを、真物はいつになったら見てくれるのだろうか。そう…遠い事ではないだろう。
 思い出すまであとわずか、といったところか。
「行こっか、真物君」
 不本意ながら行動を共にする者達に呼ばれ、真物は何も買わないままストアを出た。

「かなりイケてる?」

 細長い波打つ刃を天に向け、ブラウンは槍の柄を肩にもたれさせ気取った。柄は丸く、人の手が握るのに絶妙の太さをしていた。日の光を受けて鋭く光る無機質の刃は、凶器以外の何物にも見えない。
 微塵も表情を変えず、真物はただじっと彼の手にした武器を見つめていた。光を受けて収縮する瞳孔さながらに、瞳の奥に黒が凝集する。
 それは、衝動に対抗する為の脆弱な意志。
 喉元まで込み上げた吐瀉物の、胸の悪くなるような臭いが舌先に広がる。
 唐突に、逃げ出したい衝動が破裂した。
 気持ちの上では、見苦しく怯えながらなりふり構わず駆け出していた。
 が
 出来なかった。
 声が――足に縋り付いて離れないのだ。
 真物は驚きをぐっと飲み込んで声に耳を傾けた。

『お願い、早くここに来て……ここにいるです。私を助けてくれる人を、待ってるです……』

 目の奥に映る思考の断片が、足に縋り付く小さな女の子の姿となる。白い柔らかな綿のワンピースを着た、今にも泣きそうな顔の幼女。

(この子…どこかで見たような気がする。いや…それとも誰かの記憶がまだ残っているのか……)

 黒く柔らかで艶やかな髪を赤いベルベットのリボンで束ね、切り揃えた前髪の合間からのぞく気弱そうな印象を与える眉、目は、それでもぱっちりと見開かれ、声を聞き取る事の出来る真物をじっと見上げている。

(確か似たような…どこでだった……?)

 呼びかけるのに相当勇気がいったのだろう。大きな熊のぬいぐるみをぎゅっと胸に押し付け、少し震えている。

(熊のぬいぐるみ……熊の?)

 声から、これだけはっきりした映像を掴み取ったのは初めての事だった。手を伸ばせば、幼女の頭を撫でてやる事も出来そうに思えた。

「どうかしたか、シン」

 わずかに俯いたままの真物に向かって、マークがのんびりと声をかけた。
 幼女の姿は一瞬にして消え去り、現在の光景が視界に広がる。半ば無意識に開きかけた口から囁くように答えを返し、真物は目を上げた。
 風は、西北の方角から吹いている。

 

 

 

 地下道の入り口にたどり着くまでに、五人は幾度か悪魔と遭遇したがいずれもさしたる困難もなくこれを退けた。

「……前は、こんなんじゃなかったんだよ」

 何度目かの戦闘の後、マキが沈んだ声で口を開いた。

「どした? 園村」

 悲しそうに肩を落とすマキを気遣って、マークがそっと聞き返した。

「私たちの御影町は、本当はもっと楽園みたいな平和な町だったんだ…それなのに急に悪魔が現れるようになって…千里だって……」

 マークは、マキの胸中に渦巻く痛いほどの悲しみと不安を少しでも和らげてやりたいと思ったが、思い浮かぶいたわりの言葉はどれも空々しくて、とても口に出せる代物ではなかった。滴り落ちた沈黙が徐々に染みを広げてゆく。

「ま、諸悪の根元の神取をやっつければオッケーなんだからさ、そんな暗い顔する事ないって、マキちゃん」

 得意げに人差し指を振って、ブラウンはいつもの調子でウインクしてみせた。
 悲しいとか、苦しいとか。一番心に食い込むのはそういった感情。自分がそうでなくとも、周りに一人でもその感情に苦しめられ追われている人間を見るのは耐えられない。
 治る見込みのない剥き出しの傷を、かきむしられるようなものだから。

「貴様の頭でもそれは理解出来ているようだな」
「モチロンなんたってリーダーですから、オレ様!」

 遠回しに馬鹿にされている事を理解した上で、あえてこう答える。
 マイナスの感情でも、関わりを絶たれるよりはましという事なのだろうか。

『私に聞かなくても、理由は分かっているでしょう。あなたは見て、聞いているのだから』

 一瞬、何を言われたのか理解出来なかった。頭の隅で、ぼんやり思い浮かべただけの些細な疑問にまで律義に返答してくれる「彼女」に辟易して、真物は聞こえないよう小声で悪態をつく。筒抜けなのは承知の上だ。

「で――問題の入り口って、あそこ?」

 道の先にようやく見えてきた下りの階段を指差して、ブラウンは振り返った。

「うんそう。多分――繋がってると思う」
「そんであれが黒い壁ってヤツ? なんか、イヤーンな感じ……」

 行く手を阻むのは、黒い霧の淀みだった。見上げても果てがなく、左右を見渡しても途切れている場所はただの一ヶ所もない。
 壁というからにはそれなりの、煉瓦やブロックといった塊のようなものを想像していたが、まさかこんな形で存在しているとは。

「あんなモンをあのお嬢ちゃんがねぇ……」

 あまりに現実離れした光景に、ブラウンは足を止めて呆けたように呟きをもらした。

『なーんでこんなとこ来ちゃったんだろ…オレ……』

 自分の決断がいかに安易で浅はかであるか、それなりに理解しているつもりだった。
 見境なく口からこぼれ出そうになる泣き言を心の中だけにとどめて、見てくれだけはいつもと変わらないよう努める。
 みんなは、平気なのだろうか。
 ふと、そんな疑問にとらわれる。
 周りの四人が羨ましく思えてならない。何故みんな冷静でいられるのだろう。
 怖がっているのは、自分独りだけではないか。

 ……嫌になる

 それでも、『自分だけが一番不幸だ』とは思いたくない。世の中にはもっと不幸な人間がたくさんいる、自分はまだましなほうだ、なんて納得させるやり方も、嫌いだ。
 本当は、呆れるほど長い間そうやって自分を慰めて、最近やっとそれが間違っている事に気付いた。気付いて、でも他に出来る事が思い浮かばなかった。
 それで、そのままずっと過してきた。

 ……もう遅いのかもしれない

 立ち止まったまま、ぼんやりと黒い壁を見つめているブラウンをさり気なく振り返り、真物は声をかけるべきか迷った。
 苦悩する彼の声は、独白の呟きのようにささやかでありながら、途切れる事無く自分の中に染み込んでくる。あたかも、自分自身が苦しめられているような錯覚を起こさせるほど、それは生々しい。

『下手に声をかけない方がいいわ』
(当り前だろ。一言も口に出してないのに)

 真物は間髪を入れずに言い返した。どんなに切迫した状況でも、ブラウンは『あの』態度を取り続けてきた。思考の断片を聞いて初めて、彼のふざけた態度が上辺だけのものだと理解出来たが、南条と稲葉は正反対の性格をしているにもかかわらず、上杉に対する感想は似通っている。時に南条は、本当に心底嫌っているのでは、と思えてしまうほど辛辣な言葉を平気で口にする事がある。度が過ぎる不真面目な態度が、彼には堪え難いのだろう。
 つまり、他人の目に上杉という人間は大差なくそう映っているのだ。
 それなのに
 彼に、何をどう伝えというつもりなのだろう

『もし仮に、そう映るよう彼が仕向けていたら?』

 隠したい何かの為に、そう振る舞っているのではと「彼女」は言った。真物はうんざりして、言い返す代わりに首を振った。分からないしどうでもいい。知りたいとも思わない。

『それは嘘ね』

 すかさず言い返され、真物は苛立ちを表すように殊更ゆっくり首を振った。

『どうして? 疎外される事を一番恐れている点では、彼もあなたも同じはずよ。南条君だってそう。見たし、聞いたはずでしょう?』

 語尾を荒げて「彼女」は言った。余りの剣幕に圧され、真物はたじろいだ。その直後、思考の隅に切り抜かれたいくつもの光景が続けざまに瞬いた。強烈な光に瞳を射抜かれたように、真物は咄嗟に目を閉じた。判別するには早すぎた記憶の羅列が、目を閉じる事によってよりくっきりと瞼の裏に浮かび上がる。
 今まで頑なに遠ざけてきた真実が、隙を突いて急速に迫り寄る。

 幸福という言葉を知らなくとも、望まれて生まれた子供は幸せに満ちている。
 幸福という言葉を知らなくとも、愛されて育つ子供は笑顔でいられる。
 不幸という言葉を知らなくとも――
 両親を亡くした子供は耐え切れない痛みを味わう。

 今までよりも強く、何を忘れていたのかが解りかける。
 きっかけは、殺し合う大人たちではなかったのか?
 誰に対してか、真物は弱々しく首を振った。
 視界の端でちらつく真実を見極めるよりも、以前と変わりなくても構わないから、空虚な日常に戻る事を優先させる。

「真物君どうしたの? 上杉君も! 置いてっちゃうよ!」

 大分離れた場所から、マキが呼びかける。
 もう一度、それとなくブラウンを振り返り、先を行く三人に追い付こうと歩を早めた真物は、マキの『置いていくよ』という一言に条件反射的な恐怖を感じ、びくっと足を止めた。後からやってきたブラウンは真物の異変に気付かず、わざとらしく眉間にしわを寄せ唸った。

「ゴメンゴメンマキちゃん。いやね、いかにカッコよくあの悪党をやっつけるかあれこれ考えてたもんだからさぁ」
「ウソくせ」

 すかさずマークが口をはさむ。

「いやいやマジで!」

 あっさり言い返せば少しは真実味も増すだろうと、ブラウンは軽く手を振った。

「わかったわかった。んで? どんなのがあるんスか、リーダーさん」

 真面目に取り合う気もないマークだが、完全に無視するのは性に合っていない。仕方なく聞き返し下らないお喋りに付き合ってやる。
 呆れたようなマキの視線が少々痛いが。
 真物は半ば無意識にピアスに触れていた手を下ろし、頼りない足取りで歩き出した。
 唐突に襲った恐怖は一瞬にして消え去ったが、しつこく付きまとう真実を付け上がらせるきっかけとなった。もはや無視は出来ない。最後尾について遅れないよう歩きながら真物は、たった今感じた不可解な感情がどこから来たのか突き止めようと嫌々ながら意識を集中した。

『何が見える?』

 没頭する真物に、「彼女」が静かに問い掛ける。はっとなって顔を上げた拍子に真物は、自分が今何をしていたのか何をしようとしていたのか分からなくなってしまった。思い出そうと試みたが、「彼女」に何を言われたのかが気になり、諦めて聞き返した。だが「彼女」は軽く肩を竦めて背を向け、沈黙を守り続けた。もう一度だけ問いかけ、諦めて真物は「彼女」から離れた。
 それからゆっくりと、階段をおり始める。
 階段を下りきった所で、五人は立ち止まった。
 曇天の日差しの方がまだましと思えるほど、駅構内は薄暗く澱んでいた。形容しがたい臭いがうっすらとただよっている。
 壁や柱に貼られた小旅行の案内や広告類のポスターは皆、尖った金属で引っかいたように切り刻まれていた。
 天井には雨漏りの跡が浮き上がっており、壁の所々にバケツでぶちまけたような黒い大きな染みが広がっている。

「なんか、イヤーンな感じ……」

 無人の構内を見回し、ブラウンはぼそりともらした。

「こちらでも地下鉄は使えないようだな」

 右手奥の改札に目を向け、南条は言った。

「静かだな、やけに」

 マークは踵を返し、誰に言うでもなく呟いた。静かすぎるがらんとした空間が、奇妙な反響をもたらす。
 知らず内に真物は、顔付きも険しく辺りをうかがっていた。
 正体の知れぬ不気味な呻きや物音、あるいは悪魔の、あの突き刺すような独特の響きは今のところ聞こえてこないが、あちこちに隠れ潜んでいるのは明白だったからだ。
 ここは一つ、素直に「彼女」に感謝する。完全に遮断されては襲撃に対抗出来ないし、かといって筒抜けでは一秒だって耐えられない。何か隠れているのは間違いない、と気付かせるだけにとどめ、悪魔の殺意をぎりぎりで遮っている。ありがたい。

「随分広いんだねぇ、こっちの世界のって。オレ様たちのいた……」

 あまり離れないようにしてあちこち見てまわったブラウンが、気の抜けた声で驚きを表した。

「ううん、元はこんなじゃなかったんだ。あきが来てからなの、こうなったのは」

 最後まで言いきらない内にマキは口を挟み、通路が巨大な迷路と化した理由を説明する。

「とにかく行くしかあるまい」

 左手に伸びる通路の先に目を向け、言うが早いか南条は歩き出した。
 翳りの隅で五人の様子を伺っていた無数の目が、動き始めたのを確認するや好戦的に目をぎらつかせ、先を争うようにして動き出す。
 誰が一番に手を出すかで揉めていたそれらは、行く手に突如現れた自分たちの主に気付き、ひどくうろたえた様子ですごすごと戻っていった。
 真物は何気なく顔を上げた。

「………」

 心持ち、風が吹いたように思えた。空気が揺れ動いた程度の些細なものだが、妙に気になり、肩越しに振り返る。

「!…」

 瞬間、竦み上がるほどの寒気が背筋を駆け抜けた。まだ相手の思考の断片に触れていないにもかかわらず、真物は実際の衝撃を上回る苦痛に見舞われた。自分の中に残る相手のイメージが、あまりに強烈すぎるからだ。
 凍えそうなほど冷たい泥沼の中、もがいている自分が見える。

「あき……」

 思わず名前を呼んでいた。
 床に敷き詰められた扇状のタイルを一つ隔てた場所に、屈託のない―子供特有の残酷さを兼ね備えた―笑顔を浮かべて、あきが立っていた。
 無意識の底からわき上がる衝動的な殺意が、銃を構えろと真物に叫ぶ。

『駄目よ!』

 拒みきれない真物の代わりに、「彼女」が強引に殺意を取り上げる。一体どちらの言う事に従えばいいのか戸惑う真物を連れて、「彼女」は危険な場所から立ち去った。

『どちらが正しい、というものではないけれどね』

 現実の領域に真物を押しやり、「彼女」はこの一言を残して意識の奥に引っ込んだ。

「のこのこ出てきやがって。いい度胸してんじゃねぇか、このガキ」

 取りようによっては感心しているようにも聞こえるマークの独り言。真物より半歩前に足を踏み出し、眇めた眼をあきに向ける。

「むかつく言い方。なによサル!」

 あきは腰に手を当て、フンと鼻を鳴らした。

「なっ…このガキ!」
「まーまー、相手は子供だし」

 今にもつかみ掛からんばかりのマークを引き止め、ブラウンは軽く肩を叩いた。

「サルー! サルサルサルー!」

 子供という特権を大いに利用し、あきは続けざまに、しかもとても楽しげに言った。

「!…てめぇぶっ殺す!」
「サルが怒ったー!」
「いい加減にしなさいあき!」

 けたけたと笑い転げるあきに向かって、マキが凄まじい剣幕で怒鳴り付けた。

「ふん、耳障りな声。ペチャパイ女!」

 マキの形相にも怯まず、あきは挑発するように言い返した。

「ぺ…!」

 頭にかっと血が上る。これは、侮辱された事に対する怒りなのか、それとも羞恥からくるものなのか。マキは素早く胸を覆い隠すと言い返した。

「もーあったまきた! 絶対許さないわよ!」
「へーんだおとこ女!」
「な…なんですってこの――!」
「……よさんか園村」

 すっかり相手のペースに陥り低次元の言い争いを続けるマキを、南条がたしなめる。
 早口で、相手の欠点を次から次へと並べ立てる女同士のいさかいの凄まじさをまざまざと見せ付けられ、さしものマークも唖然となった。

「あきの勝ち!」
「今のは引き分けよ!」

 勝ち誇ったように宣言され、マキは抗議の声を上げた。

「いい加減にせんか!」

 稲妻のごとき勢いで南条は怒鳴った。それでも二人の睨み合いは中々終わらず、ほぼ同時にそっぽを向いて一応の終結を迎えた。

「オンナの子ってこわーい……」

 震える声でブラウンはそう呟いた。

「さて……」

 気を取り直し、南条は抑えた口調であきに尋ねた。

「神取はどこだ?」

 名前を口にした途端、殺意すら覚える憎悪が舞い戻ってきた。気を抜くと皮膚を突き破り今にも現れそうになるのを、南条は意志の力だけで抑え込む。

「しつこいなぁ、もう。教えてなんかやらないってば」

 苛々した様子であきは答えた。
 あきの声が、たくさんの声が、真物の耳と意識に滑り込む。

『引きずられないで。あなたの感情じゃない』

 突然の警告。
 それは肉親に等しい存在を殺された者の憎しみ、あるいは理不尽な虐待者に対する恨み、あるいは大切な人を奪われた者の怒り。どれもこれも外から入り込んできた、自分とは似て非なる感情。
 そうだ。これは自分の怒りではない。恨みはないし、憎しみともまた違う。

『でしょう?』

 「彼女」は腕を横に振り、我が物顔で振る舞う目障りな憎悪を追い払う。邪魔物扱いされ腹を立てたのも束の間、それ以上に激しい「彼女」の剣幕に圧され即座に逃げていった。
 一瞬にして、辺りが元の静けさを取り戻す。

『気を付けて。掴む物を決めるのはあなたなんだから』
(何馬鹿な事を! いつもそっちが勝手に……――!)

 言ってから、違うという声が沸き起こった。自分自身の中に。
 謎が一つ、ほどける。

(そんな馬鹿な…僕が自分で……!)

 無意識の範疇にあるものだと、ずっと思い込んでいた。
 頭を強かに殴られたようだった。痛みに近い衝撃が、内側で強く弱く反響する。しばらく何も考えられなかった。嘘だと思いたい。理由は分からないが。

「お前らと遊んでやりたいところだけど、あきの番はまだ先だからだめ。次は、すごく綺麗な女の子だよ」
「あんだぁ?」

 あからさまに顔をしかめ、マークは脅しに近い声で唸った。
 真物はまだ動揺していた。とてもすぐに受入れられる代物ではない。自分の意思で他人の心を盗み聞きしていたなんて。それを「彼女」のせいにしていたなんて。自分の仕業だと思いもしなかったなんて……
 「彼女」は、一度も違うとは言わなかった。だからといって肯定していたわけでもない。
 そもそも、何故忘れていたんだ?

「でもこの先はあきのお家だから入れてあげない。もし勝手に入ったら閉じ込めてやるから」

 明らかに馬鹿にした表情であきはくすくすと笑った。どこか大人びて見えるその仕草は、ますますマークの神経を逆なでした。

「いちいち腹を立てるな」

 煩わしい、と言いたげに南条は吐き捨てた。

「入るなといわれても入らせてもらうぞ。教える気がないならさっさと消え失せろ。子供だからといって手加減はせんぞ」
「ふーん、そう。じゃあ勝手にすれば。後で出してくれ、って泣き付いたってあき知らないからね」

 そう言ってあきは、首から下げた半月型の鏡を手にした。

「そうだ、お前らが来る前に一人でこの奥に向かった奴がいるけど、今ごろ悪魔の餌食になってるかもよ」
「それって、城戸の事か?」
 マークは思わず声を上げていた。確かに、思い当たるのは玲司だけだ。
「一人で、って……そりゃちょいまずいんじゃない?」
「早く追いかけねぇと!」

 マークは振り返り、仲間を急かした。

「もう手後れじゃない?」

 勘に障る笑い声を響かせて、あきは姿を消した。

「行ったか。まぁいい。俺達も行くぞ」
「ああ、急ごうぜ」

 先に歩き出した南条を追いかけるように、マークたちが続く。

 

 

 

 長い階段をやっと上り詰めた直後、玲司は悪魔と遭遇した。こちらに向かって一直線に飛んでくる、ばさばさと耳障りな羽音が聞こえた瞬間、肩に激しい衝撃を感じた。無様に床に倒れ込んだ玲司は、すかさず体制を立て直し敵の数を見極める。
 玲司の行く手を阻むように、三匹のワイバーンが正面に集まる。体長は人間の大人ほどもあり、蝙蝠のそれに似た大きな翼は広げればそれだけで充分通路をふさぐ事も出来る。尾は長く、先端は三つ又に分かれ槍のように鋭く尖っていた。大きな割に動きは俊敏で、口から吐き出す毒霧にはそれほど威力はないものの、目くらましにはもってこいの代物だ。

(全部で三体、しかもやっかいなやつらが相手か)

 心の中で密かに毒づいた。
 改札を背に歩き出してからどれくらい経つだろう。何十辺となく角を曲がり、幾筋にも分かれた分岐点に翻弄され、狭い通路にひしめき合う悪魔を倒して……
 一時間は過ぎたろうか。未だ出口にたどり着かない。
 息の詰まりそうな地下通路を長い事歩き続け、いい加減うんざりしていたところだ。一気にけりをつけようと、ペルソナ・ブレスに呼びかける。玲司の背後に浮かび上がる青紫の甲冑をつけた魔王を目にした途端、だらしなく開いた口を閉じ、ワイバーンは驚きを露にした。反対に双眸は好戦的な赤に染まり、ぎらりと光る。
 折りたたんでいた翼を広げ、先頭のワイバーンが床を蹴って飛んだ。間を置かず残りの二体も後に続く。

「消えな……!」

 玲司の声に従いブレスが槍を突き出し、ほぼ同時にワイバーンが毒霧を吐く。黒色の霧は一瞬にして四散し、視界を覆った。その直後、ワイバーンの断末魔が轟いた。どうやら一体は始末出来たようだ。
 後二体。視界を奪われた玲司は、息を潜め些細な物音も逃すまいと神経を集中した。
 じめじめとした黒色の霧が肌に纏わり付く感触はおぞましく、思うように集中出来ない。何重にも積み重なった上に新たな怒りが圧し掛かる。
 突如、闇の中に赤い光りが二つ浮かび上がった。それがワイバーンの目だと気付いた時には、玲司の身体は壁に叩き付けられていた。鈍い痛みが全身に広がる。もしペルソナがなければ、今の衝撃で間違いなく絶命していただろう。喘ぐように息をつきながら、玲司は壁に手を這わせよろよろと立ち上がった。
 と、唐突に足場が失われた。
 階段を踏み外したのだ。咄嗟に頭を庇い、玲司は階段を転げ落ちていった。ペルソナの力か、痛みはあまり感じられない。落ちてゆく自分の姿が、妙にくっきりと脳裏に思い浮かぶ。

(みっともねぇ……)

 最後に肩を強かに打ち、ようやく下にたどり着いた。動くのは指先だけ。仕方なく玲司は、感覚が戻るまでじっとしていた。
 気を失うまいと懸命に抵抗したが、無情にも意識は遠退いていった。
 勝ち誇ったようなワイバーンの咆哮が遥か頭上で轟いた。

 

 

 

「城戸!」
「待て、下手に動かさん方がいい!」
「城戸君大丈夫?」

 突然周りが騒々しくなった。

「うるせぇ……」

 無意識にそう吐き捨てていた。少し眠らせて欲しいと思っていたからだ。

 ディアラマ

 優しい声がして、途端に、全身に覆い被さっていたひどいだるさが嘘のように消え失せる。
 弾かれたように玲司は起き上がり、階段の上に目を向けた。いつの間にか黒色の毒霧は晴れていた。どれくらい気を失っていたのだろう。

「ワイバーンならもう倒したぜ」

 こいつが、とマークが親指で示した人物は、我関せずといった態度を決め込んで突っ立っていた。
 覇気のない表情が勘に障ると、相手の気持ちなどお構いなしに玲司は真っ向から睨み付けた。
 真物は、気付かないふりを装い微動だにせずいた。ある程度予測していただけに、無遠慮にこちらを罵る玲司の声も冷静に聞き流す事が出来た。ふと、好奇心に似た感情が生じる。中庭で自分を助けた玲司が、どういった気持ちで動いたのか、母親を庇って傷付いた玲司が、その後どうやって生きてきたのか。自分に似ていると思う気持ちが、好奇の心に拍車をかける。

「おいおい、礼ぐらい言えって。園村にも」

 真物を睨み付けたまま無言でいる玲司に、憤然とした面持ちでマークは言った。

「……貸しを作ったつもりか?」

 脅しに近い声音で玲司は返した。言って、周りに集まる小うるさい連中の顔を見回す。

「!…」
「そうじゃない、借りを返しただけだ。学校での」

 玲司の反応に呆れてマークが何か言い出す前に、驚いたマキが迫力に圧されてしどろもどろに言いつくろう前に、真物は口を開いた。貸し借りや、他人に煩わされる事を極端に嫌う玲司を気遣っての発言だが、慣れない言い方はするもんじゃないな、と真物は心の中でため息をついた。

『幼稚園児の学芸会よりはマシってとこね。それでどう? 聞き取るコツは大分思い出してきた?』

 問いかけに対して真物は、曖昧に首を傾げただけだった。確かに、盲滅法掴んでいた今までに比べれば、『選択』と『切り離し』は出来るようになった気はする。が、全くといっていいほど実感が湧かないのだ。「彼女」にうまい事騙されているようにも思える。

『騙してなんかいないわ』

 未だにそんな事を言う真物に、「彼女」はふと笑った。
 思い込みを溶かし、自分の意志で操るものだと分かってからも、真物の意識は以前と大して変わらなかった。積極性に欠けるのだ。
 無理もない。
 謎の大半は忘れたままなのだから。

『でも足がかりは出来たのだから、後は探して、見つけ出す事ね』
(探す? 何を)
『自分で考えて』

 一方的に会話を打ち切り、「彼女」は意識の奥に引っ込んだ。
 そうするしかないのだろう。真物は追いかける事をしなかった。
 物事のほとんどを、どうでもいいと無関心に過ごしてきた頃から思えば、随分な変化だった。

「おい城戸、どこ行くんだ?」

 マークの声にふと目を上げると、階段を上り始めた玲司の背中が見えた。両のポケットに手を突っ込み、やや前屈みになったそこには、文字になって見えそうなほど、拒絶が浮かんでいた。

「一人で行こうなんて、無茶はするなよ。そういやオマエ、オレ達の世界の城戸だよな?」

 構わず足を進めていた玲司は、マークの最後の言葉にぴたりと立ち止まり、わずかに振り向いて言った。

「……てめぇらもか?」

 説明を続けなくても飲み込めたようだ。

「俺達は神取によってこの世界に飛ばされた。貴様もその口だろう?」

 南条が言う。
 玲司は何か言いかけて口を開いたが、果たして言葉は出なかった。
 玲司の思考の断片は、否定とそれに続く光景、神取に対する憎悪が含まれていた。それらは絡まるように繋がっており、切り離す事は無理だった。はっきり掴みたいと思ったわけではなかったが、前に玲司が思い浮かべた『白い服』を着た『今にも死にそうな顔の女の子』がもう一度見えたので、身悶えするような苦痛も承知で聞き取ったのだ。
 はじめ玲司は、この世界ではなく、次元の狭間に送られた。時間の概念を失った虚無の空間を漂っていると、目の前に白い服を着た少女が現れ、気が付くと学校の中庭にいた……
 真物は、玲司の前に現れた少女が、以前学校の空き教室で見た亡霊のような少女と同じである事に気付いた。連鎖して、もう一つの事実も明らかになる。風のように囁き助けを求めているのも、同じ少女だという事を。

(そういえば、学校で現れた時も、助けを呼んでいた……)

 今、その声は聞こえない。悪魔の声が邪魔をしているのか、離れ過ぎてしまった為なのかはわからない。意識して耳を澄ましても駄目だった。
 他にも心に引っかかっている事があるのだが、そちらはどうしても思い出す事が出来ない。とりあえず追うのは後回しだ。

「オレたちゃ神取をぶちのめして、帰る方法を探す。オマエも来いや。オフクロさんだって心配して……」
「何? 野郎もここに来てんのか?」

 突然声を荒げた玲司の剣幕にびっくりして、マークは肩を弾ませた。それから、思い出したようにぎこちなく頷く。

「……いいだろう。てめぇらと一緒に行ってやる」
「決まりだね! 私園村麻希! よろしくね、城戸君!」

 無邪気な声でマキは自己紹介をした。

「………」

 そんなマキを、玲司は意味深長な顔でじっと見つめ返した。

「何? 私の顔、なんかついてる? あぁ、私があんまり可愛いんで見とれちゃってるんだ! 分かる分かる」
 しょうがないよね

 マキはうんうんと頷いた。

「さ、さて! いつまでもグズってねーで早いとこ出発しようぜ!」

 好ましくない雰囲気を一掃しようと、マークは殊更大きな声を張り上げた。明るい口調とは裏腹に、鋭い眼差しを玲司にぶつけている。
 事情を察したブラウンがそっぽを向いてぷっと吹き出す。
 見逃さず、マークは眇めた眼をブラウンに向け無言で脅した。
 可笑しさをこらえきれず緩む口元を精一杯引き結んで、ブラウンは何度も首を振った。

「なーんだよ、ノリが悪いなぁ。もちっとこう、ハッピーに行こうぜ!」

 どうにかしてレイジの気を逸らそうと、マークが涙ぐましい努力を続ける。

「俺に構うな……」
「そーかよ。ま、いいけどな。ほいじゃ行くか、シン」

 どうやら成功したようだ。マークはほっとした顔で真物の肩に手を回すと、少し間を置いてから言った。

「あいつ、なんかそーとーひねくれてんな。よぉ、オレとオマエでなんとかしたろーや」

 これはどうやら本心らしい。おせっかいなこの人物らしい本音。
 マークと一緒になって玲司を振り返り、真物は曖昧に頷いた。頭の中に、マキを見て玲司が思った言葉が繰り返し響く。

『園村…麻希。初めて会った気がしねぇ。何者だ……?』

 初対面とは思えないと、玲司の思考の断片は言っていた。

 

 

 

「ひどい……!」

 やっとの思いで探し当てた、地上への階段を真っ先に上り詰めたマキだが、目の前にひらけた光景に悲鳴を上げて棒立ちになった。

「こいつぁ……」

 やや遅れてたどり着いた五人も、同じように衝撃を受け、言葉に詰まった。
 外は、地下よりも薄暗く、鉛色の雲が立ち込めた空は昼とも夜ともつかない。振り返ると、すぐ近くに黒い壁が見える。正面に目を戻すと、見渡す限り続く、崩れかけた建物が連なっている。灰色にくすんだ建物に人の住んでいる気配はなく、まさに廃虚≠セった。

『こんな…こんなの信じられない!』『千里は…!』『町の人たちはどこに行ったの?』

 マキが繰り返し心の中で叫ぶ。
 視線の先には、火事に見舞われたかのように焼け焦げて無惨な姿に成り果てた、アーケードの入り口がある。
 声にすらならない悲痛な叫びはあまりに強烈で、真物は選択の余地もなく彼女の悲鳴に込められた光景を見せられた。

 土曜日の午後は大抵ここに寄っていく。買い物をする時もあるし、ぶらぶら見て歩くだけの時もある。たまに、手作りケーキの美味しいお店に入って、千里やみんなと時間の経つのも忘れてお喋りしたり、本屋さんに寄って画集を買ったり、どんなに沢山買っても千円で足りる駄菓子屋さんで甘い物ばかり買って千里に呆れられる事も。

 元いた御影町のアーケード街も人の溢れる賑やかな場所だったが、マキの中に残る通りは彼女の思い入れともあいまって、まるで楽園のようにきらきらと明るく、華やかさに包まれていた。
 それが、今はこの有り様だ。マキの胸の内を垣間見た真物は、身悶えするような痛みを同じだけ味わった。悲痛な叫びの合間に、あきに対する怒りが見え隠れする。
 自分とは異なる怒りの形を目にして、ようやく真物は、他人との境界がまたもあやふやになっている事に気付いた。他人の風景に引き込まれてしまったのは、これが始めてではない。自分の意思で操る物だと分かり、彼女に騙されているのではないと分かっても、肝心の理由、何故この力を生み出さなければならなかったのか、が分からない。どうしても思い出せないのだ。
 分かっているのは、過去に、故意に忘れようと努めた結果、今の自分が出来上がった、という事だけ。過去の自分の仕業。そこまではどうにか思い出した。何かあったのだ。今これだけ必死に思い出そうと努めてもかなわないほど、固く扉を閉ざす理由が。
 扉には沢山の鍵穴があって、これまで見つけた鍵を差し込んでもまだ開かない。鍵は、色んな形をしていた。前から自分が持っていたものが実はそうだったり、いくつかの断片を組み合わせた言葉に反応したりと、実に様々だ。けれど、全部を埋めるにはまだ足りない。
 正直、扉を開けるのが恐くもある。頭の中で、扉を開ける事が絶対の使命だという声と、全く必要ないと主張する声が時折いがみ合う。どちらでもいいと関心を示さない声もあれば、面白半分に双方をはやし立てる声も飛び出す。
 真物の気持ちは、全くというわけではないが必要ないと主張する方に傾いていた。
 扉を開ける事で自分が失われてしまいそうで、それが恐かった。陽介に指摘された、自分でも気付いていたわずかずつの変化。そう悪い気はしない。むしろ嬉しく思う。
 だが、扉の向こうに待ち構える『何か』を暴いた途端、変わっていくのを楽しんでいる自分もろとも消されてしまいそうで――

「あ、オイ園村!」

 突然の叫び声に、真物ははっと我に返った。
 アーケードの入り口に向かって駆けてゆくマキの後姿と、慌てふためくマークの横顔が同時に視界に飛び込んだ。間を置かずマークが後を追う。

「あの馬鹿何を……」

 うんざりしたように口元を歪め、南条は目をつり上げた。

「そんな事言わず追っかけた方が……」

 遠ざかる二人と冷たい口調の南条を交互に見やり、おろおろしながらブラウンが提言する。

「仕方ない…行くぞ!」

 吐き捨てるや南条は走り出した。ブラウンが恐々とした様子で後に続き、並んで真物も足を早めた。何を考えているのか、険しい表情のまま玲司も動き出す。
 ジョイ通りの入り口にたどりついたマキは、目に飛び込んだ光景の余りの異様さに言葉を失い、しばらく息をするのも忘れて棒立ちになった。
 マキの変化に気付いたマークが、悪魔に遭遇したのかと武器を構え声を張り上げた。

「どうした園村!」

 動かし方を忘れたように、マキはぎこちなく手を伸ばし正面を指差した。
 近寄ると、口元がかすかに震えているのが見える。間を置かず、マキの視線の先に目を凝らす。

「何だ……!」

 マークの驚愕と同時にマキは一歩後じさった。

「これは……」
「うわ、気持ち悪ぅ〜」

 遅れてやってきた四人が、それぞれの感想を口にする。まっすぐ伸びる通路の両脇に、数え切れないほどの石像が無造作に並べられていた。
 六人はそれを見ていた。
 それだけなら驚く事もないのだが、薄気味悪いのはそれらの石像の表情。どれもこれも妙に生々しく、恐怖に引き攣った、あるいは苦悶の、あるいは泣いている…まるで、人間をそのまま石と化したような――中には子供も混じっていた。怯えきって一杯に開かれた瞳は、一体何を見たというのだろうか。

「造った奴の気が知れねぇよ……」
「悪趣味にも程がある」

 続けざまにマークと南条がもらす。
 真物は、薄暗い通路の奥まで埋め尽くすそれぞれの石像の、肩や腰の辺りに、ちかちかと光る小さな粒が纏わり付いているのに気付いた。
 皆にも見えているのだろうとはじめは気にも留めなかったが、それが思考の残り滓のようなものだと分かり、思い切って顔を近付けてみた。

「げっ。気持ち悪くねぇの? シン」

 鼻先を突き付けて石像をまじまじと眺めている真物に向かって、気味悪そうに顔を顰めたマークが正直な感想を口にした。
 粒状の思考の切れ端も、今まで目にした事のない形だった。いつもならこれだけ近付けば明確に声を聞き取れる距離なのだが、余程微弱な代物なのか、何も掴み取れなかった。そこでようやく、マークに声をかけられた事に気付いた。間の抜けた声を上げて振り返り、曖昧に笑って肩を竦める。
 実際光っているわけではないので暗がりを明るくする威力はなかったが、瞳が慣れてきたのか通路の様子が次第に見え始める。

「突き当たりに扉が……!」

 ブラウンが言った。さらに目を凝らすと、スプレーで書かれた黒の文字。

「I here……?」

 読んでしばらく経ってから、マークが口を開いた。下向きの矢印もある。

「誰がいるってんだ?」
「もしかしたら街の人たちが避難しているのかも。行ってみようよ」

 マキの言葉に、えっと驚いてブラウンは振り返った。

「そうだな。虎穴に入らずんば虎子を得ず。行くぞ」
「マジ?」

 今度は南条に目を向ける。
「嫌なら貴様はここに残れ。情報を得ようにも、人がいなくては話しにもならんからな」
「嫌ってわけじゃなくってぇ…あ、ちょっとシン?」

 困ってブラウンは誤魔化すように真物を振り返った。だが、真物は素知らぬ様子で背を向け奥へと歩いていく。
 提案に賛成してくれたのかと思い、真物を追って南条に並んでマキが続く。

「行こうぜ」

 マークに声をかけられ、玲司も渋々歩き出した。
 ブラウンは、次第に遠くなる五人を見送るような形で入り口に留まっていた。

「おら、んなトコにいっと悪魔に食われちまうぜ、リーダーさんよ」

 わざと面倒そうにマークは振り返った。何かきっかけがなければ動き出しにくいだろうと思ったからだ。案の定、あまり乗り気でないような声が返ってきたが、早足でこちらに近付いてくる。
 一体一体の光る粒を確認するように左右に目を向けながら、真物はゆっくりと歩いた。顔には驚愕が浮かんでいる。
 先程真物は、光る粒に思い切って触れてみた。途端に両目の奥が焼け付くように痛み、一瞬で手を離したが、事実を知るには十分な時間だった。分かったのは、ここに並んでいる石像の全てが元は人間であったという事。一体も残さず調べた訳ではないが、恐らく間違いないだろう。
 真物が触れたのは、両手を胸に押し付け顔を背けている青年の象だった。今にも泣き出しそうに口元は引き攣り、恐ろしいものを見るような目付きは上目遣いに対象に向けられている。彼が最後に見たもの、真物も同じものを見る。
 驚き、しゃくり上げるように息をつく。見えたのは、抑えが効かない程の怒りにまみれた女の醜い顔。唇を引き結んだ、冷たい感じのする微笑みを浮かべているだけなのだが、常軌を逸した光を宿した両の瞳は紛れもなく憤怒を浮かべていた。

 死の訪れを本能が思い知る。
 「私」は間違ったのか? 「私」にはこの絵が素晴らしいとは思えない。だがそれは好みの問題であって、「私」が悪いわけではないはずだ。それなのにこの女は「私」に死をもたらした。
 何故だ?
 女が鏡に向かって何かを叫んだ。途端に「私」の身体が手足の先から石と化してゆく。泣き叫ぶ「私」を見て、ようやく女は気持ちが落ち着いたようだ。満足そうに何度も頷きながら、石になってゆく「私」を眺めている。「私」は女の、ほくろだらけの醜いその顔を凝視したまま、石と成り果てた。
 女の怒りがこの世で一番恐ろしく残酷である事を実感しながら。

 衝撃の余り声も出ない。

――何をそんなに驚いているんだよ

 どこからか、声が問いかける。

――そいつが見た女の顔に見覚えでもあるのか?

 真物の答えも待たずに、次の問いかけに移る。
 正体もわからぬ誰かの、矢継ぎ早の質問に戸惑っている真物に、声は止めを刺すように冷たい口調で言った。

――それとも、覚えがあるのは、残酷極まりない『「女の怒り』か?

 魂ごと命を奪われたような気分だった。
 直後、「彼女」の焦りを含んだ声が聞こえてきた。

『ここはあなたのいるべきところじゃないわ!』
(誰が――!)

 真物は説明を欲して問い掛けたが、「彼女」は足元に目を落としたまま微動だにしない。
 だが気付いていないわけではなく、「彼女」は真下を睨み付けたまま静かに言った。

『あなたの役割は、探して、見つけ出す事』
(それは前にも聞いた。役割って何だ?)
『あなたの役割、思い出して。さあ、扉は目の前よ』

 そこでようやく「彼女」は顔を上げて真物を見た。指差す方には頑丈な鉄の扉がある。
 目の前の扉が一瞬、あの、鍵穴だらけの「扉」に見え、真物はぎくりとなった。
 すうっと視点が移り、現実に戻る。I here≠フ文字と矢印。

「どうかしたのか、見神」

 扉の前で足を止め、長い事動かないでいる真物に向かって南条が訝しそうに問い掛ける。かすれた声で「いや…」と答え、真物は扉を押し開いた。

 

頭の中に気の狂った女の声が響いた
『どうして私だけ!』
「彼女」の声ではない

 

 

 

 そして迫害者が現れる

 

GUESS 緑 6

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