GUESS 緑 11

行き先を見失った憎悪

 

 

 

 

 

お前は誰だ?

 たった一人の味方である守護者を奪われ、呪いの主を憎悪する『南条圭』か
 ――違う

 全てを怨み、夢の果て城の主を気取り楽園の王を気取る『園村麻希』か
 ――違う

 思慕する人格を、病の苦痛から解放せんがため奔走する『稲葉正男』か
 ――違う

 かつて力に負け、力のみを信じ力のみに頼り屈辱を晴らそうとする『城戸玲司』か
 ――違う

 偽りと虚栄の仮面に振り回され、本当の言葉と貌を見失った『上杉秀彦』か
 ――違う

ではお前は誰だ
嘘偽りのない言葉を述べよ

『………』

 

 

 

「………」

 どことも分からぬ場所で、マキはゆっくりと目を覚ました。自分を取り囲む空気はどんより重く、ホコリとカビの臭いが充満している。不快感も露わに首をめぐらすが、明りがないのか周りの様子を探るのもひと苦労だ。
 と、すぐ傍で唸る声がした。
 悪魔の襲来かと一瞬びくっと肩が弾ませるが、すぐにそれがマークの声であると気付き、ほっとする。

「どこだ…ここは」

 次に聞こえてきたのは、玲司の声だった。
 マキは、きょろきょろと辺りを見回した。漂う空気から推測するに、どうやら先程の城とは異なるどこかの室内にいるようで、明りはなく、光といえば、右手にかすかに見える窓の隙間から射し込むそれしかないようだった。
 いつの間に座ったのか、揺り椅子らしき椅子から立ち上がる。相当古い物なのだろう、椅子は今にも壊れそうな軋みを立てた。
 そこではっと思い出し、マキは仲間に呼びかけた。

「みんないる?」

 先に声を聞いたマークと玲司が返事をするが、三人、聞こえない。

「お願い二人とも、窓開けるの手伝って」

 マキは踵を返すや窓に向かった。窓の外におりた雨戸を開ければ明るくなり、もっと探しやすいはず。
 つま先立ちになるマキの背後に立ち、玲司は窓に手をかけた。

「どいてな」

 言うが早いか玲司はあっという間に窓を開放した。

「ありがとう」

 ダークサイドの空気は町の西側に比べれば重いが、まるで五十年間締めきっていたかのような室内の空気に比べればずっと軽く感じられた。知らず内に詰めていた息を吐き出し、新鮮な空気を吸い込んで、マキは振り返った。

「あれ? ここどっかで見た事あるな」

 ようやく明るくなった室内を見回し、マークは首をひねった。
 古びてボロボロにはげた壁紙、埃の積もった机、色褪せたシーツのベッド、ソファー、チェスト…どこかおどろおどろしい雰囲気漂う室内の、揺り椅子にマキ、ベッドにマーク、玲司、そして今丁度目を覚ました南条が、部屋の中央にある擦り切れたソファーから立ち上がった。

「城の中では……ないようだな」

 服についた埃を払いながら、南条は部屋をぐるりと見回した。
 壁際の椅子にはブラウンが、そしてもう一つのソファーには真物が、それぞれまだ意識を失い身体を預けていた。
 マークは、真っ白に燃え尽きたボクサーよろしくがっくりうなだれるブラウンの肩を掴み、ゆさゆさと揺すった。

「おーい上杉、起きろ」
「あいあい…何時れすか……」
「ったくコイツは……もしもし、もしもーし」
「はいはい…上杉れす……」

 寝惚け眼のブラウンと呆れるマークのやり取りに小さく笑いながら、マキは真物を起こしに向かった。ソファーの低い背もたれに頭を乗せ、がっくりと仰向いているその顎に、小さな傷跡があるのがふと目に入った。
 こちらの真物には、確かこんな傷はなかった。いや、どうだっただろうか。見た覚えはないが、こういった姿勢にでもならないと見えない傷だ、気付いていなかっただけかもしれない。

「真物く――」

 呼びかけようとした時、真物の口から小さな囁きが零れた。

 麻希……どこにいるの――と。

 名前の後はよく聞き取れなかったが、思いがけず下の名前で呼ばれ、マキは思わずどきりとなった。
 自分の知るこちらの世界の見神真物は、大抵、園村と名字を呼ぶ。時にお喋りが弾んでくると、マキちゃんと変化する事もある。
 対して目の前の彼は、違う世界の人間なのだから当然だが、園村さんと少し遠い。少し…悲しい。
 だから今、名前を呼ばれて、すごく嬉しくなった。
 弾む気持ちのまま頬を緩め、再度呼びかけようとした時、ぱっと真物の目が開かれた。
 少し驚いて、マキは伸ばしかけた手を引っ込めた。

「真物君、大丈夫?」
「………」

 ほんの一秒目を見合わせ、真物はよそへ目線を向けた。口を押さえ、顎に手をかけ、目を逸らしたまま大丈夫と答える。冷たく聞こえないよう気を使っても、声の震えはごまかしようがなかった。
 それを、城の中からとつぜん見知らぬ場所に放り出され、自分と同じように驚いているのだと納得するマキの心の声にひとまず安堵し、真物はゆっくり立ち上がった。部屋をぐるりと見回す。

「………」

 頭の中で、娘の名を呼び探し続ける女のすすり泣きが強く弱く響く。
 麻希…麻希…どこにいるの…と
 気を失い意識が拡散したせいで、夢現のまま同じ言葉を自分ももらした。それがマキに小さな変化をもたらした事に真物は戸惑った。
 そしてその一つ前の、顎に残る傷跡を見られた事に動揺もしていた。見た覚えがあるかを思い出そうとするだけで、追究の気持ちがないのはいいが、見られた事にひどいショックを受けていた。
 いつ負ったのか、自分自身まるで覚えていないのに。

「うわ! なんか聞こえる!」

 どこからか聞こえてくるかすかなすすり泣きを耳にし、ブラウンは震え上がった。

「あん……? そうかぁ?」
「ふむ……確かに聞こえるな」

 ショックの尾を引きながらも、真物はすすり泣く女に目を向けた。声はおぼろげにしか覚えていないが、あれほどの思慕を込めて名を呼ぶ事が出来る人間は、この世に一人しかいない。

 園村麻希の母節子だ。

 だが何故、この世界で彼女の声がするのだろう。
 真物はそれとなくマキをかすめ見た。
 ここにいるこの世界のマキに、母親は存在しないはず。
 となるとあれは……
 この建物のどこかで、彼女が娘を呼んでいるのだ。
 いや、そうじゃない。それだけではない。

 娘もまた彼女を――

 真物はきつく眉根を寄せた。ひどく物悲しい気持ちに包まれるのは、悲痛なすすり泣きに引きずられたからかそれとも…思う気持ちを知ったからか。
 真生はここで何を見ろというのか
 真物はピアスを強く掴んだ。自分の中で何かが変わり始めているのをはっきり自覚しながらも、その先に向かって進もうとする。

 これ以上とどまっている事は出来ない。もう、始まっているのだから

 いつだったか「彼女」に言われた言葉を思い出す。
 とどまる事をやめた今、自分は自分でなくなりつつある。そしてそれを、自分が消えるかもしれない事を、悲しく思いながらも受け入れ始めてもいる。
 「彼女」は、こうなる事を知っていたのだろうか。

「ああ、ここって幽霊屋敷じゃん! やっと思い出したぜ」

 すっきりしたとばかりにマークは声を張り上げた。

「ええー! じゃああの声まさか……ユーレイ?」
「あのなぁ……」

 本気で震え上がるブラウンに呆れて言葉も出ない。マークはいっそ憐れみの目を向けた。

「悪魔もユーレイも似たようなもんだろ。とにかく行ってみようぜ」
「えー! い、行くのー?」
「森ン時もそうだったろ? 誰かが呼んでるから、ここに飛んだんじゃねぇの? もしかしたら、向こうに戻る手がかりとかあるかもしれねーし」
「俺も同感だ。では行くか」
「……置いてくぜ」

 すでにドアノブに手をかけたマークの後に南条が続き、玲司がぼそりと呟く。

「あ――あのさぁ、もうさぁ……もう無理じゃねえ?」

 そんな彼らの背中に、ブラウンはぼそりと言った。ばっと顔を跳ね上げ、中に溜め込んでいたものを堪え切れないとばかりにぶちまける。

「……そうだよ、無理だよ! だって、あんなの持ってる奴に、勝てるわけないじゃん?」
「……上杉」
「上杉君……」

 戸口でマキは振り返った。

『もういいよ……もうやめようよ……』『無駄だよこんなの』『どんなに頑張ったって……』『無理なものは無理なんだよ』『出来っこないんだよ』『今までだってずっとそうだった』

 上杉秀彦の意識の奥深く、がっちり鍵をかけてしまい込んでいた弱音、真物さえも容易に踏み込めない深部に隠されていた本音が、噴火よろしく噴き上がり真物の心に降り注いだ。
 もういやだ、やりたくない、怖い、恐ろしい、ついていけない、早く逃げたい…頭を抱えてうずくまり、がたがた震える弱々しいイメージが迫ってくる。
 彼は一方ではそんな自分を卑下していたが、もう一方で、それをして何が悪いと、出来ないものは出来ない、無理なものはどこまでいっても無理なんだ、仕方がないだろうと、出来ない事を悔しがりつつ受け入れるしかない自分を嘆いていた。

(上杉……秀彦……)

 恐らく初めて見る彼の意識の奥底からくる心の声に、ひっそり名前を呼んで応えた瞬間、バケツの中の水を浴びせられる勢いで意識が流れ込んできた。
 顔に浴びせられた水…意識に、咄嗟に閉じた目をそろそろと開く。

 私は彼であり、彼は私であった。
 目を開いた途端、腕から頭から身体じゅうあちこちが痛んだ。それは彼の抱える傷の痛みであり、すなわち私が負った傷だ。
 ほんの一段踏み間違えたせいで起きた失敗が、全ての始まりだった。
 人を拒絶するかたい殻を作って、人からも自分からも尻尾を巻いて逃げ隠れる。
 私はどうせ何をやっても無駄だから、何もしない。何もしなければ、どうにもなる事はない。
 何をやっても無駄という事…そんな拉がれた気持ちを抱え閉じこもる。

 それを引き上げたのは、やはりマキだった。

「無理じゃないよ、出来るよ上杉君。せっかくここまできたのに、諦めちゃダメだよ! みんなで一緒に頑張ろうよ! みんなの世界、みんなの未来でしょ!」

 園村麻希が逃げた末に生み出した、決して逃げないマキが、拳をきつく握りしめ叫ぶ。

「それを他人の好きにさせるなんて、簡単に捨てるなんて、私はいや!」
 私は、絶対に諦めない

 心から迸る強い思いは、上杉の心に作られたかたい殻の砦をがーんと打った。びりびりと響く衝撃はたった一度きりでも、わずかな亀裂を作っただけだとしても、確かに彼の殻を打った。
 マキの言葉はまた、部屋にいる全ての人の魂に響いた。

「………」

 やや離れたところで、マークが何事か呟いた。
 目を見開く上杉に合わせ、真物も瞼を引き上げた。
 上杉の意識から離れた事で自分に立ち返った真物は、傍に立つマキをそれとなく見やった。不思議な眼差しでマキを見やった。

『私、この町が好き!』『みんなの事が好き!』『自分が好き!』『好きなものが壊されるの黙って見てるなんてイヤ!』『そんなの私じゃない!』

 みんな消えちゃえ…園村麻希が呪った末に生み出した、沢山のものをこよなく愛するマキを、じっと見つめる。
 こんな気持ちになるのはきっと、先刻彼女が思い浮かべたほのかな想いに引きずられたからだろう。あるいはマークの、麻希に寄せる崇拝にも似た気持ちを聞いたせいか。

『あなたの思うように行動すればいい』

 これまで抱いた事のなかった感情にひどくうろたえ、何とか説明を付けようとする真物へ、「彼女」はそっとひと言手向けた。
 何を言っているのか…そんな強張った目を、真物は「彼女」に向けた。

「ですよねー!」

 突如明るい声で叫び、上杉は腰に手を当てた。
 ボロ屋敷を崩さんばかりの大声に、マークはびくっと仰け反った。さしもの玲司も肩が跳ねる。

「よおっしリーダーふっかあつ! うんうん、うんうん! 悪い奴が強い程、ヒーローは目立つってもんだ!」

 立ち直りはえーな…心配して損したと、どこかほっとした顔でマークは首筋をかいた。

「よっしゃ、マキちゃんシンちゃん、玲司くん、南条クンにマー君も、リーダーのオレ様についてきなさい!」

 片手を振り上げ、意気揚々と足取りも軽く上杉は部屋を横切りドアノブに手をかけた。

「そうだよ、行こう上杉君!」
「おう、行きましょう!」
「……へいへいと」

 短くない付き合いでもう心得ていると呆れながらも小さく笑い、マークは後に続いた。

『もう、尻尾巻いてばっかいらんないもんな』『そうだよ、今度こそ……!』

 ポップコーンのように楽しげに跳ねる上杉の心の声に、真物は知らず内に微笑んでいた。

――どうせ助けられっこない…どうせ…見れば分かる……

 意識の奥底、狭い檻の中で、真生は冥い目で呟きながら真物を凝視する。
 離れた場所に立ち、「彼女」は振り返って静かに見ていた。

 

 

 

 とうの昔に無人になった大きな屋敷の廊下を、六人は連なって進んだ。
 一歩踏みしめる度に床がぎしりと軋み、女のすすり泣く声とあいまっておどろおどろしい雰囲気を作り上げる。
 声はどこか遠くの方から聞こえるようでもあり、目に見えない何かが泣き声を上げながら自分達の周りを飛び交っているようでもあった。
 そんな、どこから聞こえてくるのかはっきりと分からない声が、屋敷全体を包み込んでいた。
 部屋を出る時は先頭切って飛び出した上杉だが、現在先頭を歩いているのは南条だった。二番手にマキ、それからマーク、上杉はその次に並んで、進む廊下の奥からうっすら聞こえてくるすすり泣きや床の軋みに、都度肩をびくつかせていた。

「なあマーク、ホント、この声何なんだろうな……」

 肘の辺りをしっかと握り締め、びくびくしながらついてくるブラウンにマークはさあなと素っ気なく肩を竦めてみせた。
 聞こえてくるすすり泣きの主は、もしかしたら上杉の推測するとおり本物の幽霊かもしれないし、あるいはたまたま迷い込んだ町の人間がこの雰囲気にのまれてしまい、恐怖のあまり途方に暮れ泣いているのかもしれない。
 どちらにしろなんにせよ、確認するのが一番だ。
 このひと気のない屋敷で唯一目立つ現象はそれだけだし、曖昧な勘だが、向こうに戻れる手掛りが見付かるかもしれない。
 だというのに。

『ったくコイツは……』『いいかげんうっとーしぃなぁ』『あんま言ってバカにすんのも気が引けるし……』『にしたって少し落ち着けバカ!』『怖がり過ぎだバカ!』『離れろバカ!』

 彼らのすぐ後ろを歩いているせいか、ひたすら恐い恐いと繰り返す上杉と、表面上は何でもない風を装いながらその実、上杉の影響からか少し竦み上がっている気持ちをひたすら上杉を馬鹿にする事で紛らそうとしているマークの声が、音量を絞ったスピーカーから聞こえる音声のようにぼそぼそ響いている。
 そこには聞き取れないほどの声がいくつか紛れていたが、いずれも、ただ聞こえるだけで感情の波までは伝わってこない。ああでもない、こうでもないと、推測らしきものに没頭しているようだった。
 以前に比べてかなり能力は鋭敏になり、同時に制御出来るようにもなっていた。その気になれば、二人の声を消す事も、あるいはどちらかの声だけを拾う事も可能なまでになった。

(この力…どうして僕は、こんな能力を持っているのだろう。一体いつから…何の為に……?)
 何の為に。

 それが一番の疑問だった。
 ここまで自在に扱えるようになっても、その答えはまだ見つかっていない。
 記憶をたどる作業は、馬鹿らしい事の一つ…以前はそうだった。大抵の事はするだけ無意味で馬鹿らしく、どうでもいい事だった。
 そんな、ほんの少し前の自分をすっかり忘れた様子で、真物は自分の中心目指して深く没頭した。
 それを邪魔するかのように、屋敷のあちこちで反響する女のすすり泣き…最愛の娘を探し求める母親の深い情が、真物の神経を逆撫でする。
 彼女の気持ちに引きずられてかやるせない心持ちになる一方で、むかむかと湧いてくる不快感もあった。
 ともすれば今にも銃を抜き、そのものを撃ち殺してしまいそうな衝動。抑えても抑えても、殺してやりたい憎しみが湧いてくる。そんな自分を怖いとも思わず、怖いとも思わない自分を不思議にも思わない。それでいて一瞬、はっと我に返り震え上がる。そんな事を繰り返す自分にため息を噛み締め、真物は歩き続けた。

――我慢すんな、もっとこっちこいよ……俺が見せてやるから、一緒に殺そうぜ

 掴んだ鉄柵に顔を押し付け、真生はにたりと笑った。楽しくてたまらないとぎらつく目は、ひどく狂気じみていた。
 一番、真生に相応しい貌。
 待ち遠しくてたまらないのだ。これまで何度もきっかけとなる状況に出くわしてきたが、いずれも「彼女」に邪魔をされ寸でのところで真物を手に入れ損ねている。「彼女」のせいで歯痒い思いばかりしてきたが、今度ばかりは自分の思い通り事が運ぶはず。
 今度こそ真物を自分の中に取り戻せる。
 そうしたらこの忌々しい檻から出られる、思う存分『好きな事』が出来る。
 真生の『好きな事』
 「彼女」の恐れる事。

「まったく…すごい能力だよな。早く俺の中に戻らないかな……」

 小さな子供の無邪気さで、真生はうっとりと囁いた。
 始めは脅威に感じた。あんな芸当…形のない「声」を自分の意志で掴み、たどり、たとえどんなに距離が離れていようと身体ごとジャンプする。
 そこまでの芸当が出来るのはデヴァシステムの影響があっての事で、そうでなければそこまでの非現実は叶わないだろう。
 だが実際にジャンプは無理でも、あそこまで育った能力なら、他人の心を破壊する…殺すくらいは簡単に出来るはずだ。
 誰でもいいから殺したい真生にはうってつけの能力。
 その時背後で、かたんかたんと、小さなプラスチックの塊が落ちたような軽い音がした。
 無数の鍵穴をもつあの扉に、また鍵が差し込まれたのだ。
 激しい憎悪に眦まで真っ赤に染め、真生は扉を凝視した。

 誰が出してやるものか

 指先にはめた白金のリングからじわじわと痛みが広がり、また憎悪が深まった。
 真生の抱える怨みとは異なる眼差しで、真物もまた扉を見ていた。
 離れた場所に立って、「彼女」も同じく扉を見つめていた。

「完全に思い出せなくても、真物は母親を助ける」

 ややあって口を開いた「彼女」をうるさそうに見やり、真生は小馬鹿にした口調で吐き捨てた。

「完全に思い出せないからだろ。思い出したなら、やらねえよ…絶対にな」
「本当にそうかしら」

 振り返り穏やかに語りかける「彼女」の視線に背を向け、真生は座り込んで鉄柵にもたれた。忌々しいと言わんばかりに唇を歪め、冥く虚空を見つめる。
 同じ方へ目を向け、「彼女」は静かに言った。

「忘れるな真生。私たちは、見神真物を助ける為にいる」
「わたし『たち』だ?」

 面倒そうに振り返り、真生は鼻を鳴らして笑った。

「そんなの、お前だけだろ。俺は違うし、真物だってそうは思ってねぇよ」

 嫌悪を含んで言い捨てる真生に、「彼女」は穏やかに微笑んで首を振った。
 真生は黙したまま立ち上がると、持っていた凶器の柄で鉄柵を叩き始めた。
 カン
 カン
 カン
 何もかも見透かす「彼女」の態度が気に入らないと、内側に凝る苛々をぶつけているようだった。
 叩き付ける度、血にまみれた凶器から赤いしぶきが飛び散って、辺りを黒く汚した。
 やがて、飽きたのか気が済んだのか、真生は凶器をそこらに放った。ごとりと落ちたそれは、すぐに虚空に飲まれて消えた。

 何が助けたいだ…見れば分かる……

 ひっそり呟いて、真生は両の手のひらに目を向けた。両手の縁を合わせ、水をすくうように記憶をすくいあげる。
 真物が時折見る、殺し合う大人たちに至る日々が蘇る。
 興奮のあまり呼吸もままならない。
 やがて全身がおこりのように震え始めた。
 早くこれを見せてやりたい。この中に残っているものすべて、真物に見せてやりたい。
 いや、待て。
 落ち着け。
 まずはこの先にいる「母親」を見てからだ。それから真物に渡した方が、より大きな衝撃を受けるだろう。
そうすれば、もう誰も助けたいなんて思わなくなるはず。
 この中にいる気狂い女と園村麻希の母親。
 天と地ほどの差がありながらも同じだけの憎しみを向けられる。心の底から疎ましく思うなら当然の事、命懸けで愛しても…お前たちのした事は、子供に憎しみの感情を抱かせるばかりだった。
 そしてそれは、今も膨らみ続けている。
 ただ殺すだけじゃ飽き足らないほどの憎しみを育てている。
 お前たちのせいだ。

「お前たちが、俺たちを生んだんだ……」

 怒りと恍惚が交差する。二つは絡み合って真生の胸を貫いた。
 目を刺すほど鮮やかすぎる赤と、見るもおぞましい汚泥の黒が互いを侵食しようとぶつかり合う。
 真生は「彼女」と共にその中心にいて、二つを操っていた。そして彼らのいる奥底よりもっと深い、もっと暗い混沌とした場所になにかが蠢いていた。
 以前真生は、それに限りなく近い存在として真物の奈落にいた。
 もしまた近付くなら、今度こそ真生は、名前も貌も持たないあのなにかに取り込まれ、「彼女」がいる事で辛うじて保たれている均衡が一気に崩れてしまうだろう。
 それがどんな結果をもたらすかは正直分からない。想像もつかない危険の方がはるかに恐ろしいのは言うまでもなく、それを回避する為に「彼女」が在るのだが、檻の中に閉じ込められた真生に現実への干渉が不可能なように、こちらも真生には一切の干渉が不可能だった。そして真生は、自分自身に一片の制限も課さない。つまり、真生の力を外部に漏らさぬよう鉄柵に閉じ込めたのはいいが、危険である事にはなんら変わりがないという事だ。
 すべての決定権は見神真物が握っている。
 それが希望となるか否かは、推測も及ばない。

 

 

 

 ぎしり、ぎぃ、きしり、きぃ……
 かつて誰が住んでいたのか、そしていつ無人になったのか。荒れ果てた内部はまさに『幽霊屋敷』と称されるにふさわしい雰囲気を漂わせていた。
 迷路を思わせる、曲がりくねった廊下が延々と続く。
 子供の頃、危険だからと母親に言い付けられても探索ゴッコを続けたマークの、おぼろげな記憶には、こんな曲がりくねった通路は登場しない。確かに子供の時も「迷路のよう」だと感じたが、今歩いている屋敷内の構造とは明らかに違う。ずっと向こうまで伸びた廊下と、たくさんある部屋に圧倒されたのだ。階段がいくつもあって、上ったり降りたりしているうちに出口が分からなくなってしまい、心細い思いをした事が何度もある。
 あれから随分経ってすっかりその事を忘れてしまっていたが、こうして歩いていると徐々に記憶の霧が晴れてきて、この世界の『幽霊屋敷』はやはり自分達の世界のものとは違うという事を認識した。
 そんなマークの思考の断片を聞くともなしに聞いていた真物は、二番手を行くマキの、しきりに訝る心の声にかすかに顔を曇らせた。
 出だしはマークと同じ。
 よく小さい頃、こっそり忍び込んで探検しては、迷子になって…誰に怒られたのか、誰に心配かけたのか、どうしても思い出せないと繰り返している。

『私にはお母さんなんていないのに』

 ふと、彼女が以前零した声を思い出す。
 麻希の代理人であるまいは、そのようにマキを生み出した。何もかもを麻希の理想とする形そのままに創る事が出来るのに、何故母親だけは頑なに拒んだのだろうか。
 間違った方法である事には怒りを感じるが、この世界でいくらでも、好きな風に出来ただろうに。

――だから好きな風にしたんだろ

 いやらしく笑いながら、真生は正面の扉を指差した。

「!…」

 真物は凍り付いた眼差しで、進む廊下の突き当たりにある扉を凝視した。
 幻聴のようだったすすり泣きは、今やはっきりとあの部屋から聞こえてくる。
 そこにあきの耳障りな笑い声を聞いた気がした。単なる回想だったそれは、突如強烈なイメージとなって真物に牙をむいた。
 古びた洋館は瞬時に消え去り、暗いじめじめとした陰鬱な黒い汚泥の道となる。
 行く手には黒い服の少女。
 耳元まで口を裂いてにやりと笑い、立っている。
 その目は、怒りで真っ赤に燃えていた。
 少女は耳障りな声で笑いながら空に浮かび上がると、一歩も動けずにいる自分へと急速に迫り、今にも飲み込もうと更に口を大きく開いた――

「――!」

 気が付くと、意識は元の古びた洋館に立ち返っていた。
 全てはただの幻、この場所に残された思考の断片を掴んでしまったにすぎない。
 真物は、知らず内に握りしめていた両手からこわごわと力を抜いた。首から背中から、じっとりと嫌な汗が浮かぶ。

――さあ、とっとと中に入って見てこいよ

「どうやらこの中みてーだな」

 出来るだけ床の軋みを抑えて歩み寄ると、マークは扉の向こうに耳を澄ませた。人の、気配がする。
 しくしくと泣きながら、誰かを探しているようだった。

「麻希……どこにいるの麻希……」

 マークが、南条が、みな一斉にマキを見やる。

「今、確かに『麻希』と言ったが、あれは……」
「もー、前も言ったでしょ南条君、私にはお母さんなんていないってば」

 伺うように見やる南条にそう答え、マキは腰に手を当てた。

「ふむ……」

 しばし考え込み、南条は扉に手を当てた。上から下まで慎重に探り、ゆっくり確かめる。

「鍵はかかっていないようだが……罠かもしれん、どうする?」

 南条は声を潜めて振り返った。

「そうだな……あ」

 思案がまとまるのを待たず、真物は進み出た。

 麻希…麻希…こっちへいらっしゃい

 手招きする母親の声に引かれ、鍵のかかっていない扉を開ける。
 がらんとした大広間の中央には、凶悪な刃を高く掲げ、待ち構えていた悪魔が一体。

「くそ、やっぱ罠だったか!」

 マークはすぐさま武器を構えた。

「……!」

 しかし真物は違う光景を見ていた。
 節子と悪魔の姿が二重写しとなって視界に映る。
 まっすぐに向かってくる母親の深い愛情に射抜かれた途端、言いようのない殺意の衝動が後から後から込み上げてきた。
 突かれるまま真物は銃を構えた…しなかった。
 出来なかった。
 瞬きも忘れて、ただじっと悪魔の向こうに見える節子を見ていた。
 唐突に時間の拡張が起こる。
 飲み込まれる寸前、視界の端に愕然とする真生の顔が映った。
 そして十二年前のあの日に飛ぶ。

 

 

 

 ベビーカーの中でぐずる二歳の妹の為に、五歳になったばかりの兄はジャングルジムに登ってあの木に咲いた花を取ろうとした。
 てっぺんから手を伸ばせば、きっと届くはず。
 あの花をあげたら、きっと妹は喜ぶはず。
 そして兄は足を滑らせ、地面に落ちた。
 公園にいた人たちはみな口々に悲鳴や叫びを上げ、顎から血を流して仰向けに倒れる男の子の周りに集まった。
 死んだように、ぴくりとも動かない男の子…十二年前に起こった、自分に続く始まりの時を、真物は呆然と見つめていた。

 そんな真物の背中を、「彼女」は静かに見守る。
 ついに自分と同じ方を向いた真物を、ただ静かに。

 それから丸一日経って目を覚ました時、男の子は以前にはない能力を獲得していた。
 一度死んだ、死にかけた体験がそうさせたのだろう。男の子は、人の心の断片に触れる事が出来るようになっていた。
 言葉がまだ不明瞭な妹の役に立てて嬉しかったが、良い事はそれだけだった。
 自分の事故を発端に、両親が度々言い争うようになったのだ。互いの心を殺し合う醜い思考の断片に絶えず晒され、男の子は再び死にかけた。
 今度は精神が死にかける。
 心の深い場所にこもって身を守ろうとするが、醜い罵りの言葉は何度も何度も男の子の心を切り裂いた。
 決して自分に向かってくる事の無かった罵倒だが、男の子は逃げた。かつて優しかった、あたたかかった、愛情の溢れる頃へ逃げ込んだ。

 その直後に忌まわしい事件が起きる。
 殺し合う事に堪え切れなくなった母親が、何もかも捨てる為に、自分の指を切り落としてまで印を手放したのだ。
 自分を殺し、相手を死なせたのだ。
 男の子は絶望して表の世界から自分を切り離し、沢山の鍵をかけ扉を閉ざした。

 男の子の代わりに表へ出たのは、怒りを抱えた人格だった。気弱で甘ったれな人格もいた。引っ込み思案でおどおどと振る舞う人格や、明るく運動好きな人格もいた。それらが、本体の代わりに男の子となった。
 時には、死にたがる人格も生まれた。
 そういう時は、保護者の人格が制御役を担い本体を守った。
 保護者は、死にたがりの人格よりも怒りを抱えた人格を恐れていた。
 本体を守る為に生まれながら、本体を憎み、親を憎み、常に怒りを募らせ、常に殺したがっていたからだ。
 そして実際に、他の人格を残らずバラバラに裂いて殺してしまったのだ。
 彼のエネルギーはどの人格よりも強烈で、だからこそ本体を生かす源になっていたが、とてつもなく危険だった。このままでは、いずれ本体をも殺してしまうだろう。
 保護者は苦悩の果て、彼を二つに分けた。けれど殺意の衝動を完全に切り離す事は無理だった。
 それでも希望はあった。
 拙いながらも助けたいという願いの種を持っている事、そして心友内藤陽介の存在。
 それに望みを託し、保護者は常に真物を守り導いた。

 

 

 

 記憶の旅から戻ってきた真物を、檻の中の真生は油断なく見据えた。

「……見たのか」

 ややおいて真物は頷いた。

「見たのか。ああそうだよ、嘘だよ。お前に言った事は全部でたらめだ。俺とじゃないと見えないってのは、真っ赤なウソ」

 真生は両手をひらひらと振りながら薄く笑い、素直に白状した。

「お前を取り戻したくてついたウソだ」
 テレパスの力を取り戻したくて騙しただけ。

 真生は鉄柵にもたれて振り返ると、ぞんざいに「彼女」を指差した。

「で、どうする? そこのクソ女に頼んで、前みたいに奈落に落とすか? それとも俺が昔奴らにやったみたいに、殺すか? どっちでも好きにしろ」

 どちらもしないと、真物は無言で首を振った。
 突如激しい怒りと共に真生は鉄柵を掴んだ。

「見たんなら、俺がどんだけ危険か分かっただろ!」

 狂気じみた笑い顔を浮かべて真生が喚く。

「他の人格にしたように、バラバラにして殺してやったように! 同じように本物の見神真物も殺してやりたいよ!」

 虚空から掴み取った凶器で、真生はがんがんと鉄柵を叩いた。
 血にまみれた凶器と、真生の狂気に、真物は身を竦ませた。
 凶器にべったりとまとわりついた血が、衝撃で真生の頬に飛び散る。真物の足元に飛び散る。
 真物は喉の奥で呻きわずかに後ずさった。
 今にも叫びが零れそうになる。当然だろう、どこまでいってもあれは、恐怖と絶望の対象なのだ。
 そんな真物を、かつて真生に殺された人格の沢山が味方について真物を護った。分厚く頼もしいマントをかけて、真生の刺すような狂気から護る。
 そこにいくらかの怒りが紛れているのは、殺された事への恨みだろうか。
 鼓膜を割らんとする不快な音が不意にぴたりと止む。

「俺の残りカスだったお前なら、この殺意の衝動が分かるだろ……?」

 血まみれの凶器をまっすぐさし向けられ、真物は咄嗟に目を逸らした。恐怖の対象から逃げる為でもあれば、今まで何度も込み上げた自身の殺意の衝動から逃げる為でもあった。小さく震える。
 親に愛された日々に眠る本体を殺したいほど憎む。
 きっかけを作った、殺し合う母と父を殺したいほど憎む。
 衝動は全てそこからきていた。

「自分だけ、愛された記憶の中でぬくぬく眠って…俺たちにはつらい現実押し付けて――殺してやる……絶対に」

 抑えた声音が、返って恐怖をかきたてた。

 もし今真生の目の前に本物の見神真物が現れたなら、彼は躊躇する事無く手にした凶器を突き立て切り刻んだ事だろう。

 もし今真生の目の前に母親が現れたなら、嬉々として手にした凶器で八つ裂きにした事だろう。

 真生は危険な人格。
 凄まじいまでの殺意の衝動…誰より大きなエネルギーを抱えた危険な人格。
 それ故、保護者である「彼女」が封じた。
 そんな脅威に向けて、真物は手を伸ばした。

「……なんだよ」
「元々真生だから、真生の中に戻る」

 心意をはかりかね、真生は眼を眇めた。
 真物は続けた。

「でも僕はこれまで色んな物を見てきた。真生にもきっと影響が出る」
「脅し文句かよ……俺の残りカスだった癖にいっちょまえに……」

 鉄柵を握りしめ、真生は嫌な顔で笑った。

「テレパスの力を使って、俺が誰を殺しても、いいんだな」

 怖さに真物の手がわずかに震えた。それでも手を引っ込めず、先を続ける。

「真生は……もう、誰も殺さない」
「殺してやるよ。お前以外全部」

 首を振る真物を即座に否定し、真生は唇を歪めた。
 尚真物は首を振った。

「殺さない。テレパスの力を取り戻したいのは、殺したいからじゃない。ただ、声を聞きたいからだ」
「………」
「聞きたいんだ」

 真物は真生の指先にある白金のリングを見つめ、自分のピアスを強く掴んだ。

「だから、僕も、真生も、指輪を持っている」

 真生は恐ろしげに…悲しげに、自分の指にはめた白金のリングを見た。

「声を、聞きたいんだ……」

 真物は言った。

「………」

 真生は顎を引き上目遣いに真物をねめつけた。

『それにどんな意味があるんだ?』

 以前吐き出された問いかけ。

「お母さんの声を…聞きたいんだ」

 深い愛情と共に贈られたはずの印を、指を切り落としてまで自分の身から切り離した。
 それはどうしてなのか。
 どうして自分を死なせたのか。
 知りたいから、指輪を大事に持っている。
 テレパスの力で、聞き取りたいから。
 かつて真生であった真物は、それをようやく思い出した。

「アールグレイが一番美味しいって…笑っていた頃のお母さんの声を」

 忌まわしい事件の起こる前、お母さんはどんな風に愛してくれていたか、聞きたい。

「なのに僕はその事も忘れて…ずっと忘れてて、ごめん……真生」
 本当にごめん

 そんな言葉しか口に出来ない歯痒さに両手を強く握りしめ、真物は精一杯詫びた
 真生は凶器を持った手を力なくおろすと、虚空に放り、俯いた。
 しばし沈黙が続いた。
 やがて真生は鉄柵から手を離すと、自分の指先にはめた白金のリングをゆっくり握りしめた。
 力なくしゃがみ込み、うずくまって、真生は泣き出した。後から後から溢れる涙が、頬にこびりついた赤い汚れを洗い流す。
 真物は静かに檻に近付くと、鉄柵の隙間から手を伸ばし、少しためらいながら真生の頭に触れた。
 今の自分の中には、かつて真生に殺されたいくつもの人格が融合していた。これまで何度か感じた【自分と似て非なる自分】あの感覚は、そのせいだったのだ。
 真生が言うところの奴ら。
 それらが、真生に殺された事を恨み、異を唱えるかと思ったからだ。
 しかし反対の声は一切挙がる事はなかった。
 真生に触れた事で分かったからだ。
 真生の中には、凄まじい怒りが渦巻いていた。そこから殺意の衝動がとめどなく湧き上がっていた。
 けれどその奥で、お母さんを思ってただ泣いていた。そんな子供を、誰も非難する者はいない。
 真物もそうだった。真生の異常さに何度も震え上がったが、触れた事で分かった今となっては、ただ涙が込み上げてくるばかりだった。

「真生の中に戻る。でも、誰も殺させない。僕が見てきた物を全部見れば――」

 真生はうなだれたまま小さく首を振った。

「それは本物の見神真物にやってやれ。俺たちの役割……本体を守ること」

 真物は頷いた。
 忌まわしい出来事を忘れて、外界を遮断して、もう誰も見なくなった本物の見神真物に、声を届ける事。
 その為にテレパスの力を使い、沢山の人を見てきた。
 聞くに堪えない悪意に晒され、何度も脅かされた。
 でもそれだけではない。
 人はいろんな仮面を持っている。
 良いものも悪いものも、人の心には、沢山の希望がつまっている。
 それを届けて、歩き出す力を取り戻させるのが、自分たちの役目。

「それに、マキにたぶらかされたお前の記憶なんざ、ゴメンだね。虫唾が走る」
 ぞっとしねえよ

 顔を伏せたまま真生はおどけたように言った。
 真物は小さく肩を震わせた。

「……いつか消える幻同士だからか?」

 真物は俯いてしばし考え込んだが、何とも説明のしようがなかった。分からないと、曖昧に首を振る。
 真物の答えに、真生は小さく「やっぱりそうか……」と呟いた。まだという言葉は飲み込む。

「けど……それも見神真物が欲しい物だろうな。大事に持ってろよ」
「……ごめん。ありがとう」
「はっ……気色わりぃの」

 心に沁み込むひと言に吐く真似をして、笑う。
 涙の最後の一粒を零し、真生はようやく顔を上げた。まっすぐ真物を見据えたまま立ち上がる。
 相変わらず何かに挑むような強い目をしていたが、そこにはもう殺意の衝動は感じられなかった。
 表情こそ変わらなかったものの、「彼女」は驚いていた。そして、喜んだ。
 不完全ながらも彼らがようやく獲得したものに心から喜んだ。
 見守り続けてきて良かったと思う瞬間。
 檻の中と外とで、真物と真生は視線をぶつけ合う。

「……で?」

 やや置いて真生は口を開いた。

「どうしたいんだ?」
「園村麻希を助けたい」
 みんなを助けたい。

 本体…見神真物を助ける為に生まれた人格は、関わる人を助けたいと望むようになった。
 初めはどうしてそう思うのか分からなかった。
 忘れていたからだ。
 それでも突き動かされるまま、がむしゃらに走って、人を助けた。
 そして今、明確に願う。
 助けたい。
 園村麻紀を助けたい。
 仲間を助けたい。
 みんなを助けて、見神真物を助けたい。

「……いずれ消え去っても、助けたいのか」

 探るような目で、真生は尋ねた。
 真物ははっきりと頷いた。
 死にかけた事で偶然獲得したテレパス能力。そのせいで見神真物は深く傷付けられ、絶望してしまった。
 沢山の鍵をかけ、消えてしまった。
 その随分後に生まれた自分は、どうしてこんな力があるのか、長い事疑問をほったらかしにしてきた。
 どうでもいい事と取り合わず、疎ましく思ってきた。
 きっかけを思い出し、始まりを思い出し…自分の役割を思い出して、そうしたら、自分に出来る事をやりたくなった。
 仲間を助けて力になる事で、自分は何も出来ない役立たずではないこと、この能力は無意味ではないこと、希望になること、自分は無力ではないことを、見神真物に知ってもらいたい。 
 それが自分たちの役割。
 お母さんには間に合わなかったけれど、間に合う人が傍にいる。
 あの時、身代わりになってマキを助けた時、悲しく思ったのは、お母さんには間に合わなかったからだ。
 お母さんは助けられなかった。
 だから、助ける事が出来て嬉しいと思う一方で、身を切られる悲しみが込み上げたのだ。
 こんな風にお母さんを助けたかった…でも出来なかった。
 けれどまだ間に合う人が傍にいる。

 だから――
「力を貸してほしい」

 まっすぐ向かってくる真物の目を真っ向から見つめ返し、真生は言った。

「力になってやるよ」

 答えに、真物は感謝を込めて力強く頷いた。
 真生も笑みを返す。

「行くぜ」

 それを合図に音もなく鉄柵が持ち上がる。
 高く虚空へと引き上げられていく檻をしばし見送り、真生は正面に目を戻した。
 天空からのスポットライトが、遮る事なく真生を照らす。
 白光に照らされた瞳は、黄金に輝いて見えた。

「何を見ようがもう足元すくわれないように、力になってやるよ」

 真生はすいと手を伸ばし、

「だから、見な」

 正面に広がる現実を指差した。

 

 

 

 わずかばかり慣れた時間の拡張を瞬きでやり過ごし、真物は正面に目を凝らした。
 かつて、現実の御影町で、セベクビルが出来る前に存在した幽霊屋敷。
 本物の幽霊が出る、幽霊の泣き声を聞いた、二階のどこそこにいくと鏡に幽霊が映る…様々な噂で子供を魅了し、惹き付けられた子供たちは親が止めるのも聞かず、こっそりと忍び込んでは迷子になり、結局は親たちにこっぴどく叱られた。
 それでもめげずに子供同士集まっては、再び屋敷の探検に向かう。
 何度迷子になっても探検を止めず、懲りずに幽霊屋敷に向かった娘を探して、園村節子は名を呼びながら探し回った。
 探し回っていた。
 探し求める娘本人に、見るもおぞましい悪魔の姿を押し付けられ、夢現の中、麻希を探し回っていた。
 そしてようやく、母親は娘を見付けた。

「やっと見付けたわ、麻希ちゃん……無事だったのね。さあ、いらっしゃい」

 迷子になって一人心細く泣いていた娘を慰めようと、節子は優しく両手を伸ばした。
 しかし現実は、恐ろしさに慄く異様な光景であった。恐怖を与えるのに充分過ぎるほどの凶器を掲げ、もう片方の手を突き出し、今にも取って食おうとする鬼女の姿が、そこにあった。
 真物は知らず内に一歩引いていた。
 後方に何らかの光源があるのか、鬼女の手にある凶器が鋭い光を放っている。それが、自分の記憶にあるあの忌まわしいものを連想させた。
 殺意の衝動が喉元まで込み上げる。

――それは俺が抑えといてやるから、心配すんな

 力になると宣言した通り、真生は「彼女」と共に制御役を務めた。真物の衝動を引き止め、もっとよく見ろと促す。

「信じられん…しかしこの声、やはり園村の母親だ!」
「ええー? なにこれ、なにこれ! どうなっちゃってんのこれ?」

 南条の確信に上杉は困惑の叫びを上げた。おろおろとした様子でマキを見やる。
 マークや玲司、彼らの視線が集中する中、マキは突き出された手に吸い寄せられるように一歩踏み出した。

「おい見神、いいのか?」

 珍しく玲司が焦った声を上げる。

「大将、早く止めないと!」
 早く倒さないと!

 おたおたするばかりの上杉と、何も行動を起こさない真物に舌打ちし、玲司は身構えた。

「待てって! あの声は確かに園村のオフクロさんに間違いないんだよ」

 慌ててマークが押し止める。

「そうだろ、シン!」

 マークをちらと見やり、真物は小さく頷いた。
 マキは鬼女をじっと見つめたまま、呟いた。

「私には、お母さんなんていない……」
『私には、お母さんなんていらない』

 戸惑うマキの声に続けて、意識の向こうにいる麻希の声が聞こえた。
 その瞬間真物は、出発の決意をしたあの保健室で聞いた、節子の胸の内に溢れた娘への深い思いが心に蘇るのを感じた。
 羨ましいと素直に思い、だから助けたいと、より強く募らせる。
 真物はその思いのまま、マキの肩を掴んだ。
 マキが少し驚いた顔で振り返る。

「……よく、見て」

 真物は、鬼女…節子に顔を向けたまま言った。
 口から出た言葉は、もしかしたら深部の麻希へ向けたものだったかもしれない。この異様な状況を作り出した園村麻希に、間違っていると、この有り様を見ろと言いたい…その気持ちがそのまま口から出たのかもしれない。

「……うん」

 心意は分からなくともマキは頷き、警告通りしっかと見据えたまま歩を踏み出した。
 マークは、それが正しいのだろうと思いつつ、万一に備えて武器を構えた。
 玲司も南条も、油断なく伺っていた。
 彼らの背中に冷や汗がたらりと垂れる。
 見守る五人の緊張感が極限まで膨れ上がった時、室内に眩い光が生じた。
 瞼を通して刺さる光は唐突に消え去り、咄嗟に閉じた目をはっと開いて真物は見た。
 マキの接触がきっかけだったのか、節子は悪魔の姿から解放され、驚くマキの足元に横たわっていた。すぐに目を覚まし、困惑の表情で辺りを見回す。

『ここは……保健室?』『違う……』『……ここは!』

 夢の続きかと節子は小さく混乱した。

「園村のオバサン、大丈夫すか?」

 マークは真っ先に駆け付けると、顔を覗き込んだ。

「ああ、あなたはたしか……!」

 見知った顔にほっとした直後、節子は大きく目を見開いた。マークの肩の向こうに、マキの顔を見付けたからだ。
 真物は何の思考の波も受け取るまいと、心をきつく遮断した。
 驚き、喜び、そして戸惑う節子の表情の移り変わりを目にして、またも園村麻希に対する怒りが募る。
 それはどうしようもなく心を悲しくさせた。

「麻希ちゃん……どういう事?」
「順を追って説明しましょう」

 事情が飲み込めずにいる節子に、南条が説明役を買って出た。

「そうだったの……あなたは、この世界の麻希なのね」
「………」

 マキは、寂しそうに目を伏せる節子に、何と言ってよいやら分からず口を噤んでいた。

『ああ、いい気分!』『ざまあみろ』『いつも一人ぼっちにしたお返しだ……』『少しは気持ちが分かったか……』

 マキの目を通して、麻希はその様子を見ていた。そして素直に感想を心に思い浮かべ、楽しげに嘲っていた。
 それらを聞き取った真物は、腹立たしさ、悲しさ、そして悔しさが浮かぶのを止められなかった。ともすれば飲まれそうになる自分に戸惑う。

『それはごく自然な事。心配しなくても大丈夫』

 以前はうんざりさせた「彼女」のひと言が、今は気持ちを和らげる。ずっと疎ましく思ってきた自分の身勝手さを詫びて、真物は感謝した。

「でもどうして、この世界には私がいないのかしら……」

 訝る節子を、南条はじっと考え込むように見つめていた。

「おい南条、あれ、あれじゃね!」

 マークは部屋の奥を指差しながら呼びかけた。

「あれでは分からんだろうが」

 小さく腹を立てながら南条は指差す方を見やった。

「まあ、あれは次元通路ね!」

 装置を見止め、節子は言った。すぐに眉をひそめ、操作盤に駆け寄る。

「やっぱあのオッサン、何か残してたな」

 だから城から幽霊屋敷に飛ばされたのかと、マークは得心した。

「よし、神取を追うぞ」

 きっと顔を上げた南条に、マークも賛同の声を上げた。仕切りたがる号令ももう慣れたものだ。

「おし! オバサン、俺ら神取を追っていかなきゃなんないんスよ」
「分かってるわ。でも待って……ああダメ。この次元通路、ひどく不安定な状態になってる」

 操作してみたものの制御しきれないようで、節子は少し曇った顔で首を振った。それからふうと息をつき、六人を見やった。
 彼女が何を決意したか思考の断片に触れて知った真物は、きつく眉を寄せた。

「仕方ないわね。私が残って操作するから、みんな行ってちょうだい」
「そんな――そんなのダメだよ!」

 マキは即座に否定した。

「園村のオフクロだけ置いて行くなんて、そんな事できねぇよ!」

 そこに玲司が加わる。
 落雷のごとき剣幕に節子は目を丸くした。すぐににっこりと笑う。

「ありがとう、私は大丈夫よ。そうね、全部済んでからでも、迎えにきてくれたら、嬉しいんだけど」

 そう言って穏やかに微笑む、決意の固い母親の顔を見ては、それ以上何も言えなかった。

「おばさん……」
「何? 時間がないの。急いでね」

 マキはおずおずと歩み寄り、節子を見上げた。

「……私には、お母さんがいないけど、おばさんみたいな優しいお母さんが、いたら…良かったのにな……」
 お母さんなんていらない…園村麻希が恨んだ末に生み出したマキが、母親に思慕を寄せるのを、真物はじっと見ていた。心にまた、今度ははっきりと、マキへの想いが灯る。
 だからこそ余計、節子の内面から上がる声は胸に染みた。マキの言葉を受け、途端に噴き上がる慙愧の念は、その激しい思いとは裏腹に優しい雨となって真物の心に降り注ぐ。しっかりと大地に染み込み、種を芽吹かせて育てる恵みの雨のように。

「神取を倒したら、おばさんの『麻希ちゃん』も必ず見付けてあげるからね!」

 マキは力強くそう誓った。

「……ありがとう」

 節子はじっとマキを見つめた後、静かに頷いた。心の中で様々な想いが巡る。その中のひときわ強烈なイメージ、私の宝物…燦々と降り注ぐ太陽が見えた気がして、真物は、目が離せずにいた。
 お母さんを助けたい。
 それで自分が消える、マキが消える、でもそれは終わりではない。始まって、何かに続くはずだ。
 助けたい。

――俺もだ

 静かで力強い真生の声に励まされ、力が込み上げる。

「さあ、これでいいわ。みんな気を付けてね!」

 節子は六人を見やった。一人ひとりの顔を、励ましを込めて見つめる。みな次元通路の光球を見つめ、緊張の中に力強い自信をたたえていた。その中に一人、熱心にこちらを見る眼差しがあるのに気付く。
 装置が作動し、六人の姿が部屋から消え去るその瞬間まで、節子は、語りかけるような眼差しに応えていた。

 

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