GUESS 青 12

殺意もしくはシンイ

 

 

 

 

 

 血まみれの畳の上でうずくまる女をはさんで、正面に子供が立っている。
 寸前まで大声を上げて泣いていたのに、血が流れ出るのを、命が失われていくのを目にした途端、子供は色の失せた瞳でただ漠然と前を見ているだけになった。
 世界に絶望した瞬間。
 子供の足元には、糸がほつれ片目の取れかかったウサギのぬいぐるみが転がっていた。
 妹の大のお気に入りの、ウサギのぬいぐるみ。
 目玉が取れかかっているのは、恐怖に泣き叫んで子供が強く抱きしめたからだ。
 血だまりの中に光る物が見えた。
 指輪だった。
 他にも転がっている物があった。
 女の薬指だった。
 そしてもう一つ。
 女が自分の指を切り落とす為に使った凶器。
 子供にとって恐怖と絶望の象徴であるそれを、同じく恐怖と絶望の眼差しで見つめる。
 震えが止まらなかった。
 その時、子供の目が動いた。
 正面の人物を見る為にゆっくり目線を持ち上げる。
 見てはいけないと頭では分かっているのに、どうしても顔を背ける事が出来なかった。
 正面の人物と目を合わせた途端、子供は見るもおぞましい表情を浮かべた。

「――!」

 自分に向けられた冥い瞳が嗤っているのを見て、真物は言葉に出来ないほどの恐怖と絶望に射竦められた。
 黒く淀んだ汚泥に絡み付かれ今にも沈み込んでしまうその時。

『――違うわ!』

 果てのない暗闇を切り裂く「彼女」の声に、真物ははっと目を見開いた。
 意識は即座に深淵を抜け出し、現実に立ち返る。
 邪悪な貌で嗤う子供は幻と消え、五人の仲間たちがそこにいた。
 真物はしばし息を詰め、状況把握に努めた。魂にまでねっとりとへばりつく黒い汚泥の感触が、未だ残っている気がする。おぞ気を振り払おうと、真物は何度も目を瞬いた。

(ああ…ここは――)

 ここはデヴァユガ。神取のいるところ。
 節子の協力により、無事到着したのだ。
 いや、無事というには語弊があるかもしれない。各々跪きうずくまって、不機嫌そうに唸っている。
 マキが、しきりにこめかみを押して気持ち悪いともらす。吐き気もすると、内面の声は訴えていた。

「オ…オォォエ! 酔っちまった…シン……オマエ意外とタフなのな……」

 またえずいて、マークは何度も胸をさすった。
 その隣では、南条が口元をハンカチで拭っていた。

「……恐らく、無理な転送をしたからだ。五体満足でいられるだけ…運がいい」

 込み上げる吐き気と必死に戦うが、わずかに及ばず、小さく咳込む。
 少し離れたところでうずくまっていた玲司は、傍の手すりを頼りに根性で立ち上がると、マークに向かってにやりと笑った。

「どうした稲葉……だらしねぇ」
「……ケッ!」

 マークも、負けん気を頼りになんとか立ち上がって玲司を見やった。頭がぐらぐらするが、極力何ともない振りをしてみせる。

「へっ、なーに言ってやがる…そんな真っ青な顔してよ。鏡見てこいや。まるでゾンビだぜ」
「フッ…そんだけ言えりゃ上等だ。ウダウダやってる暇はねえぞ」

 しばし強張った笑顔で玲司に応えた後、マークはマキを振り返った。

「立てるか……園村」

 そっと様子を伺う。肩を支えようかどうしようか…助けたいが無闇に触ってはと葛藤する間に、マキはもう大丈夫と立ち上がった。
 少し残念がりつつほっとして、今度は上杉に向き直る。

「おら、オマエもしっかりしろや」

 そういう自分も、まだ足元がふらついていた。
 玲司はポケットに両手を突っ込み、肩を竦めた。

「だらしのねえリーダーだぜ……」
「!…き、キミらに合わせてやっただけだっつーの!」
 見てろよ!

 ひどい目眩にひいひい言っていた上杉だが、玲司の言葉に少し驚き少し嬉しげに目を上げた。よたよたと立ち上がり、どうにか背筋を伸ばす。まだ胸の辺りがムカついていたが、力ずく飲み込んでピースサインを高らかに掲げる。

「ほら、どうよ! な! よおしみんな、リーダーはだリーダ言ってみろ――! なーんつって!」

 大口開けて笑う上杉に、マークも南条も疲れ切った顔で首を振った。玲司は付き合い切れんと目を逸らすが、その表情は以前に比べてとても穏やかだった。
 と、マキが小さく吹き出す。

「もう、面白いなあ上杉君は」
「だろ、だろお? カッコよさとギャグのセンスを兼ね備えた悶絶イケメン、ブラウン様をどうぞよろしくぅ!」
「単純なヤロー……」

 ウインクまでしてみせる上杉にマークは大げさに肩を竦めた。

「まぁ…何とかとハサミは使いようと言うしな」

 その隣で冷やかに呟き、南条は眼鏡を押し上げた。

「ちょっと南条くーん、なんとかってなんだよお」

 彼らの喧騒も耳に入らぬ様子で、真物は周囲に神経を張り巡らせていた。マークはタフだと評したが、それは半分間違っていた。真物にも無理な転送の影響は出ていた。胃がぐんにゃりとねじれたように苦しい。吐き気もある。
 しかしその不快さを覆うほどの不愉快さが、あちこちから襲い被さってくる。仲間たちの声しか聞かぬよう「彼女」や真生と協力して思考を遮断しているのに、その壁を易々破って、何かが自分の域に侵入してきている。
 姿は見せず、こそこそと。
 視界の端に隠れて、にやにやと。
 伺っているのだ。
 それは、先程自分に醜い幻想を見せたヤツに他ならない。
 全ての人の魂を嗤うあの…邪神。
 どこにいる。
 目を凝らしても何も見付からないが、神経をかきむしる不愉快さは確かにあるのだ。
 真物はほんの少しだけ、意識を広げた。

「っ……!」

 直後、背中から射抜かれる。
 息も出来ぬ衝撃に倒れそうになる真物を、真生はすぐさま支えた。

「真物君、あそこに!」
 あのおじいさんが

 マキが指差すと同時に真物は振り返り駆け出した。
 入り口近く、一人の白髪の老人がたたずんでいる。神取の野望を何とか阻止すべく、自らの命でもって償おうとした科学者ニコライその人。

「そんな……」

 そんな、まさか…近付くにつれ重圧は増して、打ち消したい真物の心を嘲った。

「ジイサン、生きてたか!」

 マークが上げる喜びの声に重なり、ニコライの内面から地を這うような終わりの詩が聞こえてくる。

「ねえ、なんか……様子がおかしいよ!」

 真物にだけ聞き取る事の出来る思考の断片は、すぐに、彼らも聞く事になる。

――気を付けろ、まともに聞くなよ

 見入られたように動かない真物をかばい、真生は力を込めた。真物はすぐさま我に返り、眼を眇めた。

「滅びよ…人類は全て滅びよ……」
『破壊!』『滅亡!』『滅び滅び滅び滅び……』『人類に鉄槌を!』

 ニコライの精神を乗っ取った終わりの詩は、途切れる事無く続いていた。陰惨な詩の一節ごとに心が抉られ、その度に全身にひどい痛みが走った。

「なにこれ……!」
「こいつぁ……」
「ど、どうしちまったんだよジイサン! んな神取みてーなこと……」

 マークは震える声を振り絞って問いかけた。凄まじい勢いで恐怖が背筋をかける。忍び来る恐怖に、五人は足を竦ませた。

『来るわ!』

 「彼女」が鋭く叫ぶ。真生の支えを頼りに、真物は振り返った。どんな衝撃を受けようと銃を抜く真似だけはすまいと、きつく両手を握りしめる。
 殺す為に来たのではない。
 助ける為に来たのだ。
 直後、見えない扉をくぐり抜けて、そこに神取が現れる。

「………」

 まるで現れるのを予測していたかのような真物の態度に楽しげに笑い、神取は口を開いた。

「……その男は、もはや私の分身にすぎん」

 不愉快さをかきたてる男の声に、五人は一斉に振り返った。

「いや…既に世界中の人間が、私と同じように人類の滅亡を望んでいるだろう」
「神取!」

 敵意を込めてマキが張り叫ぶ。
 マキの向こうに見える冥い目の男を、真物は信じられぬ面持ちで見ていた。これまで数度、あの目を見てきた。その度に得も言われぬ衝動が込み上げ、時に銃を抜きたくなった。
 それが…それが今は、何の衝撃も感じられないのだ。恐ろしい、不快だと感じる事はあっても、あの、身体の芯を貫く凄まじいエネルギーが、今はまるで感じられない。何かがおかしい。

「そりゃどういうこった!」

 吠えるマークも意に介さず、神取はただ薄く笑うばかり。
 直後南条がはっと息を飲む。

「そうか貴様……あの鏡で世界中の人間を洗脳したな!」

 信じられぬと、マークが上杉が南条を見る。
 しかし続く言葉で、否が応でも飲み込む事になる。

「そう……」

 束の間目を閉じ、神取は言った。
 世界はもはや、我が掌中にある。
 二つのコンパクトから作り出した混沌の鏡で世界中の人間を洗脳し、意のままに操り死滅させるのが我が目的。

「……いかな支配者も為し得なかった偉業を…私は成し遂げた。私は――人を超えたよ」

 恍惚の表情で神取は紡いだ。
 誰も何も言えぬ中、真物はただじっと神取を凝視していた。決してあの目の奥を覗くまいと己を御する一方で、何故あの衝撃が感じられないのか、確かめたい気持ちもあった。

「……どうして? どうしてそんな…人を消したがるの?」

 悲痛な叫びを上げるマキに一瞥をくれ、神取は囁くように言った。

「フフ……君が最も望んでいた結末だろうに……園村――麻希君」
「……え?」
『名前を……』『どうしてあいつが……』『……私の名前を!』『なんで知ってるの?』

 マキの動揺は、園村麻希の病室となって真物の心に広がった。
 何もない病室で泣いている麻希が見える。
 何もない病室で一人泣き暮らし、周り中に呪詛を吐く麻希になる。
 誰にも、何にも望みの持てないこんな世界、こんな人生はなくなってしまえばいい。
 全部なくなってしまえばいい。

 みんな消えちゃえ――

「っ……」

 きつい痛みを伴って、園村麻希の思考の断片が襲い来る。真物は小さく呻いて頭を押さえた。必死に集中し、逃れようともがく。
 全部なくなってしまえばいい。
 かつて、母親が心の中で何度も繰り返していた恐ろしい言葉。態度には微塵も表れなかった心が凍り付くような願い。あの頃は、必死に耳をふさいで聞くまいと抵抗した。止めたくても、あまりに幼すぎて何も出来なかった。
 今は?
 今は…思案に潜ろうとする真物の邪魔をするかのように、何者かが耳元に語りかけてきた。

『人間なんて、みんなすぐに誰かを憎んだり殺そうと思ったりするもんだ。すごく簡単に、呆気なく。実行しないだけで、考えなんてたやすく心に浮かぶ』
 そしてお前は、実行した

 何者かがにやりと嗤った途端、見覚えのある場所に引きずり込まれる。
 真物はぎくりと頬を強張らせた。

『ほら、もう一回やってみせろよ』

 武多から情報を聞き出す為に取った非道な手段を、もう一度再現してみろと声が強要する。
 自分のしでかした悪行に震える真物の耳で囁く。

『そして今度はほら――南条が』
「なに……」

 声の主を見極める間もなく、謎を解明した南条の怒りと憎しみが怒涛のように押し寄せる。

「っ……!」

 真物は咄嗟に頭をかばうが、思考のうねりは鋭く尖ったつぶてとなって降り注ぎ、容赦なく皮膚を切り裂いた。そこここから血が噴き出し、焼け付くような痛みに真物は喘いだ。

(南条…圭……)

 二つの世界の謎と、マキの正体に南条はついに気付いた。砂が雨水を吸収するよりも早く、彼の心に抑えの利かない憎悪が浸透してゆく。

「そうか、そういうことか……」
 なんて事だ
 だがこれはまだ推測の域を出ない。だから、確固たる真実を追究してからでも遅くはない――彼女を殺すのは。

「――!」

 凄まじい衝撃が背骨を貫く。
 殺す?
 人をか?
 これ以上人が殺されるのを黙って見ていろと?
 そんな事……!

『あっちにもいるぜ』

 嬉しくてたまらないといった声が指差すその先には、怒りの赤と復讐の黒を滾らせ立つ玲司の姿があった。

「そんなの……駄目だ」

 泣きそうに顔を歪め呟く。
 しかし神取の放った糸に絡め取られた彼らは、あるいは以前の尊い教えを忘れて憎悪に染まり、あるいはただひたすら復讐に燃える。
 それじゃ駄目なんだ!
 どうする?
 どうしたい?
 どうしたらいい……?
 真物は途方に暮れて傷付いた腕を力なく下ろした。
 萎む心に声の主がにやりと嗤う。
 足元から飲み込まれそうになった瞬間。

『目を開けて!』

 力強い「彼女」の声が、呪縛から真物を解き放つ。
 解放された途端、傷を負った腕は元に戻っていた。

「ごめん…ありがとう」

 肩を支える真生に顔を伏せたまま真物は礼を言い、さり気なく離れた。
 誘惑してきた何者かは、真生によく似ていた…そんなはずがない。

――人間なんて簡単に殺せるし、死ぬもんだ。殺したい奴は殺せばいい。死ねばそれで終わりだ。

 遠くでまた、声が響いた。
 真物は声を振り払うようにしっかと正面を見据えた。
 助ける為にここまできたんだ。
 誘惑の声になど、負けるものか。

 

 

 

 扉を開けて一同はどよめいた。
 迷路のように入り組んだ沢山の細い路地と、石造りの家が連なる静まり返った街が、目の前に広がっている。
 見上げれば空は濁った海の色で覆われ、太陽すら見えない。それでいて妙に目を刺す白光が降り注いでいた。

「これ……どこ行きゃいいのさ」

 一歩踏み出して石畳を恐る恐る踏みしめ、上杉は戸惑いの声を上げた。左右を見やるも道は曲がりくねって、見通しが利かない。
 開けたままの扉を振り返れば、そこには間違いなくデヴァシステムがある。中はセベクビルで見た通りのままだが、扉の外はまるで雰囲気が違っていた。
 マークが試しに路地の奥へ声をかけるが、無数に連なる家のどこからも、何の反応もなかった。

『完全に無人ではないわ。ただ…みんな洗脳されてる……だから彼の呼びかけに返事をしない』

 「彼女」は重苦しい口調で言った。
 かつてここに存在した物…人たち全てを押しのけて、こんな、まともなものは何一つ存在しない廃墟の街を作ったというのか。こんな虚ろを、そうまでして作りたかったのか。
 真物は何とも言えぬ思いに包まれた。
 こんな人をどうやって助けられるというんだ。
 どうしたら…そもそも助けるだなんて、何ておこがましいこと。
 急速に気持ちが縮んでいく。

『あなたの思う通りに、すればいい』

 素っ気なく突き放す「彼女」の言葉はしかし、真物の中に力となって灯った。

――目指す場所はもう見えてんだろ、行こうぜ

 とにかくまず進むのが第一だ、お前にだけ見える思考のうねりを追えと、真生が励ます。
 落ちた目線を引き上げ、真物は一度強く拳を握りしめた。真生の言うように、神取が潜む場所はもう見えていた。ここからでは家々の屋根に遮られ実際に見る事は叶わないが、その向こうにはっきり見えていた。
 しかしいざ口を開こうとして、はっとなる。どうやって彼らにそれを伝えればいいのか。自分もみんなと同じ、どこへ行けばいいか分からない者の一人なのだ。まさか能力の事を告げる訳にもいかない。
 その時視界の端を、金色に光る何かがかすめた。

「……あれは!」

 思わず零れた声に南条やマークが顔を上げる。

「あれって……」
「あれは確か……」
「もしかしてさあ……ついてこいって事じゃない?」

 遠く屋根の向こうへ飛んでいった金翅の蝶を指し、上杉は言った。

「行ってみようよ!」

 マキが先頭に立ってみなを促す。
 これまで何度も目にした、出会ったフィレモンの誘導に一同顔を見合わせた後、そちらへ向かう事にした。
 しかし歩き出して間もなく、悪魔の出現を知らせる独特の重圧が真物の思考に迫った。
 咄嗟に空を仰ぐと、翼をたたみ、こちらを目指してまっすぐ急降下してくる数体の妖鳥の姿が見えた。

「げ! 悪魔は出んのかよ!」

 マークはあたふたとショットガンを構えた。

 ガルーラ

 同時に魔法が繰り出される。命中していれば胴体を貫いていた弾丸は風刃によって逸らされ、羽の二、三枚を散らすだけだった。

「消えな……!」

 玲司は天高く拳を突き上げてペルソナを発現させると、後方からやってくる妖鳥に対抗した。

「ペルソナ……!」

 襲い来る真空波を辛うじて避け、南条はペルソナに呼びかけた。しかしそれより早く、別の妖鳥が南条に迫る。

 スパイククロ―

 人の頭など軽く鷲掴み出来るほどの巨大な爪を突き出して、妖鳥は耳障りな声で笑った。
 鋭く光る凶器が南条に迫るのを目にし、真物は咄嗟に地を蹴った。突き出した手で身体を力一杯押しやって代わりに標的になる。
 直後、額から眉尻にかけて爪が深く切り裂く。

「っ……!」

 ペルソナの守りのお陰で受けるダメージはさほどでもなかったが、恐怖の方が強かった。たちまち足が萎え、膝から崩れる。心臓は早鐘を打ち、嫌な汗が全身からどっと噴き出す。きっと一生消せないだろう恐怖の対象に何故自ら向かったのか、自分でもよく分からなかった。

――それがお前なんだよ

 何かを含む真生の言葉に首をひねって応え、喘ぎ喘ぎ立ち上がる。
 早く息を整えねばと思うのだが、恐怖は中々去ってはくれなかった。

「いけー!」
「ペルソナァ!」

 マキが上杉がペルソナを発現させ、妖鳥の群れに魔法を繰り出す。
 仲間が倒される中、空高く逃れた最後の一体は、大きく旋回すると、一人無防備に立ち尽くす真物目がけて急降下した。

「!…」

 覆いかぶさる影に気付いた時には、妖鳥はすでに眼前に迫っていた。大きく羽を広げ、今にも叩かんとしたその時、さっと人影が割り込んだ。
 南条だった。
 南条はかばう形で立ちふさがると、下から勢いよく剣を突き上げた。手応えを感じると同時に羽ばたきを食らい一瞬目が眩むが、足を踏ん張って持ちこたえる。
 自らの勢いで白刃に串刺しにされた悪魔は、耳障りな断末魔をあげ消滅した。
 完全に見届けてから、南条は剣を鞘に収めた。それから真物を振り返る。

「大丈夫か……ひどい出血だな」
「……これくらいなんとも」

 南条の驚く声に真物はさっと手で隠した。血を見るのが嫌な自分は、誰かに血を見せるのも嫌だった。怖い思いをした自分に会いたくないからだ。

「すぐに治してあげるからね」

 マキは急いで駆け寄り、ペルソナに呼びかけた。

「それにしても、相変わらず捨て身だな。以前言った言葉を撤回していいか」

 マキのペルソナが傷を癒す。途端に、ぴりぴりと肌を這っていた熱い疼きが消えてなくなる。失われた命が戻ってくるあたたかい感触に、真物は肩で息をした。

「ごめん、ありがとう。南条君も」
「こちらのセリフだ。お前がいつもそうするから、移ったのかもしれんな」

 真物は心持ち目を見開いた。自分が誰かに影響を与えた事に小さく動揺する。けれどそこには嬉しさ、そして喜びがあった。
 無数の鍵穴を持つ扉にまた鍵が差し込まれる。

「しかし、いくらペルソナがあるとはいえ過信は禁物だ」

 真物は済まなそうに頷いた。

「その時は私が治すから、心配しないで。まかせて!」

 少しはしゃいだ声で励ますマキのまっすぐな視線からさりげなく逃れ、真物は礼を言った。
 人の目を長く見つめるのは苦手だった。内面の声を聞いてしまうからというのが大きな理由だ。
 忘れていた様々な事を思い出し、大分制御出来るようになった今では、よほど気を抜かなければ、あるいは相手の声がよほど大きくなければ、目を見ただけで聞いてしまう事はなくなったが、かつての忌まわしい事件の後遺症とも言うべき傷のせいで、長く見るのも、見られるのも、やはり苦手だった。
 気を抜かず、目線を逸らしたが、この時のマキの内面の声は殊更に大きかった。大きく、楽しげに弾んでいた。
 軽やかに跳ねまわる思考の断片を聞き、真物は息を引き攣らせた。
 マキの内側は、自分への称賛で溢れ返っていた。
 命がけで人を救う事、それが誰かに良い影響をもたらした事、それらを褒め称えていた。まるで自分の事のように嬉しそうに誇らしげに。

 普段は言葉少なで素っ気なくて、けれど言う時は言うんだ。そして、ここぞという時は命がけで仲間を守って。ちょっとおっかなく感じる時もあるけど、でも、そこが自分は――

 慌てて思考を遮断する。
 真物は力一杯眉をひそめ近くの壁に目線をぶつけた。
 どうしてよいやら分からない。

――やるじゃん

 何を言っているのか…からかい交じりの真生に強張った目を向ける。逃げるように遠ざかり、真物は立ち上がった。

「さて、では行くか」

 先程見えた金色の蝶を追っていこうと南条は号令をかけた。あいよ、オッケー…各々賛成だと応え、歩き出した。

 

 

 

 しんと静まり返った白い部屋。聞こえるのは、一人の少女に繋がれた生命維持装置の低い呻き声だけ。
 少女は、ほとんど何もない白い四角い部屋の中央に、ただぽつんと置かれたベッドの上に横たわっていた。
 少女は、大事な楽園が生まれる場所である頭を、白く固い殻で覆い、護り、夢に浸っていた。
 ベッドの足元には、背丈ほどの高さにホログラムが浮かび上がっていた。デヴァシステムと呼ばれるそれは、現在少女の命を握っている。
 それを横目に眺めながら、黒い影が二つ通り過ぎる。
 一つは大人、一つは子供。
 二つの影は、壁に飾られた『楽園の扉』に向かいあった。
 長い事、食い入るように扉を見つめる大人の影に焦れたのか、心配になったのか、子供の影…あきは控えめな声で「パパ」と呼びかけた。
 長い事人の声の無かった部屋にあがった、一つの声。
 大人の影…神取はゆっくりとあきへ目を向けると、微笑みかけた。
 不安をかき立てるには充分な、虚ろな笑顔。
 空っぽな表情にあきが怪訝な顔になると同時に、頭に手が置かれる。

「パパ……」

 いつもと変わらぬ優しい手だ。
 けれどやはり何かがおかしい。
 そう思うと同時に身体から力が抜ける。

「どうして……」

 意識を失いその場に崩れて倒れたあきに目もくれず、神取は踵を返した。

 

 

 

 しばらく進んだ先で、一行はついに人影を見付けた。
 代わり映えのしない路地が続くだけの無人の廃墟と思っていただけに、人の姿に安堵する。
 しかし声をかけた後、それを激しく後悔する。
 神取の言った非現実的な現実が、待っていたからだ。
 科学者らしき数人の白衣の男たちは、ニコライと同じように、終わりの詩を紡いでいた。
 洗脳されていたのだ。
 生気の失せた目で同じ事ばかり繰り返す彼らに、上杉がぶるりと震え上がる。

「イカレてんぜ……」

 ぼそりと漏らしたマークの言葉は、目の前の彼らを指し、そして神取を指していた。

「一刻も早く神取を止めねば!」

 忌々しげに吐き捨て、南条は歩き出した。
 誘う金色の蝶は、今度は左の路地へと飛んでいった。
 なだらかな下り坂を進むと、二人並んでやっと通れるかという細いのぼりの階段に突き当たった。蝶の姿は見えないが、一本道、間違いないだろう。
 南条を先頭に、六人は階段をのぼり始めた。

「なあなあマーク、ここで悪魔に来られたらちょっとヤバいよな」
「お前なあ、そういう事言うとホントに来るからやめろよな」

 上杉の不吉な発言に目を眇め、マークは返した。
 しばらくのぼったところで、真物は足を止めた。
 最後尾についていた為、立ち止まった事に気付く者はいなかった。
 左の建物に顔を向け、扉も窓も一切ない、くすんだ白い壁がただ続いているある一点に、手のひらを押し当てる。
 少し苛々とした様子で、真物は壁を見回した。
 この向こうに、園村麻希がいる。
 見える、感じるのだ。
 病院から消え去った彼女は、この向こうにいる。
 だが今はここには入れない。
 デヴァシステムによって歪められたこの場所からは、彼女のいる部屋に入る事が出来ない。
 すぐ向こうにいるのに、今は助ける事が出来ない!
 真物は縋るようにピアスを掴んだ。

――焦んな真物、見えるものも見えなくなる

 意識の底から聞こえる励ましに一拍置いて頷き、真物は名残惜しげに壁から離れた。
 階段をのぼりきって出たところは、見覚えのある路地だった。

「なに……?」

 かすかに目を眩ませながら、南条が声を上げる。
 これまで通って来たどこも似たような壁、窓、家の扉だったが、今自分が見ている赤茶の扉は確かに見覚えがある。デヴァシステムのある部屋の扉だ。両開きになっていて、丸い取っ手がついている、間違いない。
 出発地点に、戻ってきてしまったのだ。

「……だよな」
「うん……」
「ええ……?」

 お互い顔を見合わせ、どうなっているんだと首をひねる。

「あの蝶は確かにこちらに飛んできたはずだが、これは一体……」

 訝りながら、南条は辺りをぐるりと見回した。
 真物は一人、違う物を見ていた。廃墟の町と、邪神を祀る冷たい神殿とが二重写しとなって視界に広がる。天井ははるか高く、粗末だった木の扉は背丈の何倍もある豪奢な大扉になり、扉の表面には、文字とも絵ともつかぬ何かがびっしり掘り込まれていた。読めなくともその禍々しさは感じられた。ここに刻まれているのは、邪神を褒め称えるあの終わりの詩だ。
 間違いない、ここに間違いない。
 ここにあの男がいるんだ。
 心の奥底まで凍り付くような寒々しい孤独を吐き出す、貌のない化け物と一緒になって全ての人の魂を嗤う、あの男が…この奥で待ち構えている。
 真物は銃に手を伸ばした。

「どうなってやがる……?」
「まさか罠…って事はないよねえ」
「どうする? 別の場所探してみるか?」

 玲司や上杉の当惑の声にきょろきょろと辺りを見回し、マークは言った。直後、ぎょっと視線が強張る。
 屋根のてっぺんにある風見鶏を狙って、真物が銃を構えたのだ。

「おい、シン――!」

 声をかけると同時に風見鶏が砕け、同時に周りの風景が一変する。
 曲がりくねった細い路地と石造りの家からなる廃墟の町はたちまち消え去り、代わりに暗く冷たい神殿が現れた。

「これは……!」

 南条は息を飲んだ。
 真物が撃った風見鶏は何らかの幻惑を発生させる装置らしく、効果が切れた今は風見鶏ではなく、それらしいコードと機械部の覗く装置の残骸へと戻っていた。
 そして五人の前に大扉が現れる。
 その禍々しさに、しばし誰も口をきけなかった。

「……それにしても、真物君よく分かったね!」

 やがてマキが、心底感心した様子で真物を振り返った。

「いや……最初の家には風見鶏はなかったから、もしかしてと思って」

 実際には風見鶏の有無は覚えていない。誰の記憶にも残っていないのをいいことに、能力に頼って半分ズルしたようなもの。真物は心苦しくなる。 

――助けたい為に使ってんだから、そんな深刻に考えることねぇよ

 もっと気楽にいけと真生は肩を叩く。

「さすが見神だな。撤回は取り消させてくれ」
「えらそーに……んでも、これ見破ってなかったら、オレらずーっとあの街さまよってたとこだもんな」
 助かったぜシン

 マークは軽く腕を組んだ。

「相変わらず小細工の好きな男だぜ……」

 玲司はポケットに手を突っ込むと、憎々しげに舌打ちした。

「そんじゃー皆さん、ちゃっちゃと行ってちゃっちゃと悪党ぶちのめしちゃいましょう!」

 上杉はそう気合を入れると、肩にかけたマシンガンを構えた。

「行こう!」

 マキが大きく頷く。
 そうだ、助ける為にきたのだ。
 真物は眦を決した。

「よし……開けるぞ」

 南条は大扉を押し開いた。
 扉の向こうから、毒をもたらす淀んだ空気のような思考の断片が流れ出て、真物の頬を撫でた。それでもしっかり前を見据え中に踏み込む。
 何もない、がらんとした広間の奥に一人、神取はたたずんでいた。足元には、白刃を収めた鞘が無造作に転がっていた。

「いやがったな、もう逃がしゃしねえぜ神取!」
「覚悟しやがれ!」

 南条に続いて駆け込んだ玲司がマークが、噛み付かんばかりの勢いで吠える。

「人を苦しめるのはやめて! みんなを元に戻してよ!」

 願いを込めてマキは張り叫んだ。彼女の援護をするように銃を構えた上杉と南条が一歩後方に立つ。
 真物は彼女の一歩前方に立ち、神取と対峙した。

「……案ずるな」

 自分を包囲する六人にぞんざいな眼差しを向けた後、神取は口を開いた。

「これ以上の事はせんよ」
 もう……どうでもよいのだ

 ため息交じりに吐き出された言葉を聞き、上杉はマシンガンの構えを解いた。

「ど、どういうことよ? なんか急に、やる気なくなっちゃってないか?」
「……今更、命乞いのつもりか?」

 玲司が油断なく見据える。
 少し疲れた顔で笑う神取を、南条はじっと見ていた。

「せっかく気合い入れてきたのに、そりゃないぜ」

 どうすりゃいいんだと、上杉は困った様子で頭をかいた。
 奇妙な沈黙がしばし続いた後、神取の口から一つの質問が紡ぎ出された。

「君たちは……何の為に生きている?」

 それは以前迷いの森で、まい…麻希がしたのと同じものだった。
 それを聞き真生は咄嗟に真物の腕を掴んだ。あの男の声を聞きたいが為に無茶をして、思考の内部に飛び込んでしまうのではないかと思ったからだ。
 以前ならともかく、今の自分にはもう、あそこは遠い。もし真物が入り込んでしまったら、安全に連れ出せるか自信がない。
 ヤツのいる危険な場所へ飛び込んでしまわないよう、しっかり捕まえておく。
 真物は前を見据えたまま、分かっているという風に頷いた。

「……なんだあ?」

 思いもよらぬ質問に、マークは素っ頓狂な声を上げた。
 高い天井をぼんやり見上げ、神取は独り言のように言った。

「人は…目標を持たず生きていけるほど、強くはない……誰しも、必ず何かを求めている。それがどんな些細な事でもな。だからこそ必死に……しかし――」

 取り囲む六人をぼんやり見回し、神取は独り言のように言った。

「全てを満たしてしまったら、次に何を求めればいい? 何を支えにすれば……」

 足元に転がる白刃に目を向け、今初めて気付いたとぼんやり眺めながら、神取は独り言のように言った。

「自らの望みを叶え続け、高みに上った先に在るのは……果てしない虚しさと孤独だけだ。ならば……自ら課した階段など、登らない方がいいのではないか?」

 喋るのも億劫だと言わんばかりにため息交じりで、神取は続けた。

「そうすれば――いつまでも夢を見ていられる」

 男の紡ぐ空虚な言葉を聞きながら、南条はじっと視線を注いだ。

「私は、下らない世界を破壊する為に、階段を登り続けた――しかしもう…もうどうでもいい。今の私には、不可能な事など……」
 何もない

 喋り続ける神取の声が音としか聞こえない事に、真物は眉根を寄せた。
 自分の根深いところにまで刻み込まれた、あの『気狂い女』を思わせる恐ろしい瞳に間違いないのに、何故あんなに何もないのか。
「孤独と虚しさの風吹き荒ぶこれが……これが神の境地というものか」
 何故笑い声も、あんなに乾き切っているのか。

――駄目だ、やめとけよ

 行きたがる真物を再び制する。
 今にも踏み出しそうになっている自分に気付き、真物ははっと息を飲んだ。

「……君をここまで来させたのも、それを問う為だ」

 神取の目が真物を捉える。奈落の奥底に繋がっているかのような、黒い虚ろで見やる。

「君らは何の為に…生きている?」

 投げかけられた質問に、マークの心が生き生きとした赤を湛え燃え上がる。どんな時でも、精一杯輝いて生きたいと。

 自分を超えたいと願う上杉の心には、伸びゆく若芽の青が萌えた。もうウソついたり尻尾巻いて逃げるなんてこりごりだと。

 神取の名のつくものの抹殺を願う玲司の拉がれた黒に悲嘆しかけた時、マキの心から眩い光が溢れるのを目にする。

 なんで生きているのか分からなくても、自分を信じて悔いなく精一杯生きるのだと。

 それを聞き真物は、強い顔で俯き拳を握りしめた。
 暗い場所に落ちかけた時、いつも自分を引き上げてくれる人。だから自分は。

「神取――もうやめろ」

 一歩踏み出し、南条はがらんどうの広間一杯に声を響かせた。

「度が過ぎた強がりは見ていて辛い」
「……なに?」

 それまで、見ているようで誰も何も見ていなかった神取の眼差しが、ぴくりと揺れた。
 南条は語る。
 南条は男の虚栄をはぎ取る。
 南条は、憐れな男が見て見ぬふりをする恐怖にあえて触った。

「大層な建前でコンプレックスを正当化するのはやめたらどうだ? 貴様が一番、自分の滑稽さに気付いている筈だ」
「………」

 怯えに似た色に染まっていた神取の顔が、不意に醜く歪む。口元に浮かぶいやらしい表情を見て、真物は息を詰まらせた。

『……乗っ取られた』

 感情を抑えた「彼女」の声は、やけに大きく響いた。
 真生は、引き止める手に力を込めた。そんな事をしても無駄だというのは、承知の上だ。

「フフ……神に対する暴言の数々、許す訳にはいかんな。我が手で引導を渡してくれる」

 冥い、ねめつけるような視線に上杉はごくりと喉を鳴らした。どうにかこうにか逃げずにここまで来たんだ、上等じゃないか、やってやるぜ…アクション映画の主人公を気取って自身を鼓舞し、マシンガンを構える。大丈夫、自分は自分を越えられる。越えてみせる。
 身構える六人を小馬鹿にした目で見回し、神取は嗤った。

「楽には死ねんぞ。覚悟は――出来ているな?」
「そりゃこっちのセリフだ!」

 マークは手にした武器を握り直し、叫んだ。

「神取……俺たちが喜劇に幕を引いてやる」

 南条は剣を抜き構えた。

「……それが貴様の望みならな!」

 まっすぐ向かってくる南条の怒号を受け流し、神取…否邪神はにたりと口端を持ち上げると、真物を見やった。

「――!」

 最も恐れる視線に絡み付かれ、真物は何も出来ずただ立ち尽くした。
 即座に真生が盾となって立ちふさがるが、『気狂い女』を彷彿とさせる狂気に満ちた眼差しは瞬時に真物を虜にした。
 お母さんを思わせる黒が、真物の意識を引き寄せる。

――しっかりしろ、助ける為に来たんだろ!

 真生の言葉が呪縛を解く。
 はっと気付くと、銀円の座の端に立っていた。
 そこは無人だった。
 誰もいない。
 神取もあの化け物も。
 銀円の座は空っぽだった。

「何度も怖い目に遭ったのに、やっぱり来たか。待ってたぜ真物」

 背後でくすくす笑う声。
 振り返ったそこには、腕を組み立つ真生。

「……お前は誰だ」

 一歩退き、真物はきつく睨み付けた。

「俺が分からないなんて、そんな訳ないよな?」

 真生は薄く笑って虚空から血まみれの凶器を掴み取ると、これが証拠だと言わんばかりにまっすぐ真物に差し向けた。

「!…」

 ややおいて、刃からぽたりと赤い血が滴る。
 魂にまで刻み込まれた恐怖から、真物は半ば無意識に後ずさった。必死に抑え飲み込み、目の前の人物をきつく見据える。

「お前は真生じゃない」

 姿を騙る邪神に対する怒りが、沸々と湧いてくる。

「そうだっけ?」
「真生はもう、僕にそれを向けない。だからお前は真生じゃない」
「そうなんだ」

 見破られて尚薄笑いのまま、真生の姿をした邪神は真物の背後にゆっくり回り込んだ。
 真物は何も言えずただ立ち尽くしていた。視界の端にちらつく凶器に足が竦む。怖い。動けない。目で追い、睨み付けるのが精一杯。

「そんなおっかない顔すんなって」

 怯える真物とは対照的に、邪神は慣れ親しんだ者にするように、真物の肩に腕を回した。
 偽者に対する嫌悪、血まみれの凶器に感じる恐怖…真物がそれらを跳ね退けようとするより早く、邪神は口を開いた。

「半分は俺で出来てるようなもんだし、そう考えりゃあいつも俺も、そう変わりないだろ」

 真物は小さく目を見開いた。驚く。驚かない。自分も度々衝動に支配される。そんな時、かすかにこの気配を感じるからだろう。
 懸命に力を振り絞り、かすれる喉で言う。

「……真生はお前じゃない」
「まあそう言うなよ」

 怒りのこもった低い声を軽くあしらい、邪神は凶器を真物の顔の前に持っていった。
 途端に真物の身体がびくっと跳ねる。

「せっかくここまで来たんだからさ」

 邪神は真物の左手を掴むと、強引に凶器を握らせた。

「やめろっ……!」

 あまりの恐ろしさに喉が引き攣る。真物は必死に抵抗した。

「いいもん見せてやるよ」

 恐怖と絶望の象徴に顔を歪ませ、息も絶え絶えの様子を嗤いながら、邪神は無数の触手を絡ませ少年の両手に凶器を握らせた。

「お前がずっと知りたがっていたものだ」
「………」

 真物は声も出せずただがたがたと震えながら、自分の手にある血まみれの凶器を見ていた。

「気狂い女の夜を、見せてやる」

 後方から伸びる一本の触手が、真物のピアスに絡み付いた。
 途端に恐怖を押しのけるほどの怒りが込み上げる。直後、左耳に灼熱の痛みが走った。絡み付いた触手が、ピアスを引きちぎったのだ。
 そのまま遠くに投げ飛ばされ、落ちたピアスの立てるかすかな音が、合図だった。
 瞬きの間に切り替わる。

 私は母であり、母は私であった。

 私はここ数日、もう何日も、ろくに眠れない夜を過ごしてきた。怒りと悔しさで、夜中に何度も目が覚めてしまうのだ。目覚めた瞬間から怒りがぶり返し、悔しさが胸に渦巻き、悶々とする内に疲れて眠りにつく。そしてまたはっと目が覚め、怒りと悔しさが私を苛み、眠りを妨げる。

 私はここ数日、もう何日も、夫とまともに言葉を交わさぬ日々を過ごしてきた。口を開けば刺々しい言葉しか出てこず、それが嫌で口を閉ざすが、心の中では夫への憤りや不満が百にも千にも膨れ上がって絶えず渦を巻いた。

 私はここ数日、もう何日も、子供たちの顔をまともに見られないでいた。特に真物を見るのがつらかった。ようやく退院したあの子に、一生懸命笑顔を向けるが、まだ癒えぬ傷を見る度夫の言葉を思い出してしまい、以前のように笑いかけてやれているか自信がない。

 私はここ数日、もう何日も、姉の祥子に対する何とも言葉にしようがない悶々とした思いを抱えて過ごしてきた。夫がもらした何気ない一言が原因で、嫉妬とも後悔ともつかぬ思いが圧し掛かる。消そうとする程、それらは反発して大きくなってゆく。

 そういう時決まって思うのだ。思ってしまうのだ。
 どうして私だけ…と。
 私はちゃんとやっている。出来る事は一生懸命やっている。なのに何故夫は私を責める。
 もうやめて、姉と比べないで、私の何が気に入らないの。
 私は何も悪くない。
 もちろん真物も悪くはない。
 五歳の子が、三つ下の妹の為にと、一生懸命頭を働かせただけではないか。
 そんな優しい子供たちを、私を責めるだしに使う夫が本当に憎くてたまらない。
 ああ、もう嫌だ。
 何気ない言葉の端々で私を責めてくる夫の言葉を聞くのが嫌だ。
 それに対して刺々しい言葉で夫を傷付けてしまう自分が嫌だ。
 嫌で嫌でたまらない。
 でも、子供たちの前では元のお母さんでいたい。
 私の可愛い息子。
 私の可愛い娘。
 たくさんお喋りして、たくさん笑って、たくさんの時を一緒に過ごしたい。
 なのにそうやって振る舞う間中も、ふとした瞬間に夫への不満が心に渦巻いてしまう。
 子供たちと笑って、楽しくお喋りしている時さえ、嫌なものが心を真っ黒に塗り潰していく。
 ああ…もう嫌だ。
 もう、こんな人生いらない。
 こんな指輪もいらない。
 いっそ死んでしまえばいいのよ。
 ……こんな事を考える自分がどうしようもなく憎い。憎くてたまらない。
 いつまで、あと何日経てば、この日々から解放されるのか。
 日々増してゆく憎しみに訳が分からなくなる。

 せめてもの救いは子供たちと過ごす時間けれどそれももう残りわずかかもしれない何故なら真物の目が私を…見ない。

 あの人が全て悪い――死ねばいいのよ

 そしてあの夜が始まる。

 私は一つの決意を胸に夫の帰りを待った。真物が怪我をして以来、まともに会話の出来なくなった夫の帰りを。包丁を隠し持って待ちわびる。
 ……真物の怪我は単なるきっかけに過ぎない。あの子が怪我をしなくても、きっと他の些細なきっかけでこんな風に破綻した事だろう。
 あんたが不満を持つように、私もあんたに不満だらけよ。
 少し酔って帰った夫に、私はこれまで溜め込んでいたものを全てぶちまけた。
 それから指輪を投げ付け、縁を切り、そして……。
 なのに、どうしても指輪が抜けない。
 焦れば焦るほど指輪はつかえ、その間にも怒りはどんどん膨れ上がっていく。
 止めようとする夫に怒りが募る。

 私はもう、こんなものいらないのだ。

 あんたなんか死んでしまえばいいのよ。

 どうして私だけ!

 どんなに力を込めても外れない指輪に頭の中で何かが壊れた。
 私は隠し持っていた包丁を振り回して叫び、口汚く罵り、そんな自分に酔いしれ、最後に泣き叫ぶ真物を見て…自分の指を切り落とした。

「あああぁっ!」

 身体の内側で嫌な音がした時、堪え切れずに真物は意識を離脱させた。
 そのまま逃げようとする真物を絡め取り、邪神は嘲りを吐きかけた。

「お前の母親は、お前たちを見捨てた。切り捨てたんだ。指輪ごとな!」

 全ての人の魂を嗤う邪神の声が響く。
 うなだれ、ろくに息も出来ぬ真物を見て、邪神は身をよじって歓喜し、そして憐れんだ。
 あの夜から離れた事で、真物の手から凶器は消えていた。しかし恐怖と絶望がそうさせるのだろう、握った形のまま硬直し、わなわなと震えていた。
 とどめを刺そうと、邪神は耳元に顔を寄せいやらしく囁いた。

「母親がそんな風になったのは――」

 その時、どんと強い振動がして邪神と真物を震わせた。
 弾みで触手が解け、真物は膝から倒れ込んだ。はっと顔を上げると、背後から偽者に凶器を突き立てる真生が目に映った。
 振り返らずともそれが誰か気配で分かるのだろう。邪神は真物を見たまま口を開いた。

「助けに来るには、少し遅かったな」

 そうかもしれないと、真生はぎりと歯を噛み締めた。自分が怖気づいたせいで…力になってやると言いながら、なんと情けない。己をなじりながら、真物を背に邪神と向かい合う。
 ややおいて、真物は恐々と手を握り締めた。そしてゆっくり開き、邪神へと告げた。

 ありがとう

 と。

「狂ったか」

 まともに受け止めきれず、精神が壊れてしまったかと、邪神は楽しそうに顔を歪めた。
 真生は驚愕の表情で振り返った。絶望しかけた色はしかし、ゆっくり立ち上がる真物の目を見てすぐ安堵に変わる。
 真物は狂った訳ではない。
 そうではなかった。
 真物は知ったのだ。
 母が最後の瞬間何を思ったか。
 母はあの瞬間、自分を見て、自分たちに詫びていた。
 母と重なった事で、分かったのだ。
 恐ろしさに泣き叫ぶ自分に対して、心の中で何度も何度も謝っていた。

 こんな弱いお母さんでごめんなさい。
 お母さんがちゃんと見ていたら、こんな怪我させずに済んだのに。
 痛い思いさせてごめんね。
 怖い思いさせてごめんね。
 親になるには未熟な大人でした、本当にごめんなさい。

 あの頃の自分は、心を殺そうとする恐ろしい言葉を聞きたくなくて、必死に耳をふさぎ抵抗した。あまりに幼すぎて何も分からなかった。全部を聞き取れなかったのだ。
 お母さんは、自分を殺し相手を死なせて、僕たちを置いていってしまった、それしか分からなかった。
 今は…分かった。
 母の気持ちがやっと分かった。
 あの瞬間、母はひたすら自分を責めていた。こうなったのは誰かのせい、なんて、ひと言も思い浮かべなかった。
 こんな道しか選べない自分の弱さを詫びていた。
 そして…そして、嗚呼。
 自分たちを愛しお父さんを愛し周りを愛していた。
 分かった。
 あれほどの愛情を殺し、伴侶を殺したい程憎むまでに変化してしまったが、お母さんには確かに溢れる愛情があった。
 優しい顔の奥で心をどんどん黒く塗りつぶしていったけれど、最期の瞬間は、残った白い部分をちゃんと握りしめていた。

「お前の母親は、お前たちに優しい顔を見せながら、心の中では常に殺して、死なせたがっていた」
「違う」

 分かった真物は、邪神の誘惑を即座に跳ね退ける。あの頃の自分と、やっと分かった母を重ねて、きっぱりと首を振る。
 優しい顔の奥で恐ろしい事を思っていたんじゃない。
 恐ろしい事を思っても、優しい顔を保とうとした。
 自分の愛したもの全てを守ろうと戦っていた。
 結局は全てを手放す最悪の結果になり、それを自分は憎み、恨んだ。それらはきっと一生消えない、ずっと残り続けるだろう。だから自分はこんなところにいる。時折込み上げる殺意の衝動に陶酔して、慄いて、何が自分なのか分からなくなって……だけど自分は、ここにいる。
 真物は耳元に手をやった。そこにピアスはあった。邪神の呪縛から解放された事で、元に戻っていた。
 ひんやりした白金が指に触れる。真物は安堵して手を下した。

 やっと分かったな――見神真物

 ……お母さんを

 母を許そうという方へ強く心が傾く。
 無数の鍵穴を持つ扉が現れ、消える。
 真物は顔を上げ、はっきりと言った。

 あの夜を思い出させてくれて、ありがとう

「小賢しい人間め……」

 思惑が外れ深淵から遠ざかる真物すら、邪神は嗤う。
 呪縛が解けた事で、真物の意識は元の身体に戻った。

「ありがとう真生……でも――」

 唇を引き結び、真物は「彼女」を振り返った。「彼女」はこんな無謀をいつも引き止めてきたからだ。
 しかしこの時は止めなかった。あなたの思う通りにしなさい…いつもと同じくそう眼差しで語り、ただ一度頷いた。
 「彼女」の無言の激励を背に真物は再び深淵に向かった。同じように取り込まれた神取を助ける為、深淵に向かって手を伸ばす。
 すぐに真生も後を追う。「彼女」の言葉を思い出すのは癪に障るが、自分は見神真物を救う為に在る。自分も見神真物の一部なのだ。どこまでいっても。力になってやる。
 奈落の底に目を凝らし、真物は自分に舌打ちした。
 お母さんに似ていると何度も思ったのに、何故思い付かなかったのだろう。
 母は自分を殺し、相手を死なせた。
 この男も、自分を殺そうとしている。
 自分の心を死なせようとしている。
 何故気付かなかったんだ!
 駄目だ、助けたい。
 その為に来たのだ。
 助けられる人はみんな助けたい。
 しかし神取の魂は深淵に沈んでいく。
 助けたい!
 自分の心のままに。
 手を伸ばし追いかける。
 もう少しで届く!
 近付き過ぎた真物の手に、汚泥の黒が絡み付く。

「これ以上は危険だ!」

 腕を肩を掴み、真生は引き止めた。
 でも助けたいんだ!
 もう少しで届くんだ!
 汚泥に触れた事で、様々な悪感情が真物の中に流れ込んでくる。凄まじい勢いで意識を汚染するそれらに苛まれながらも、真物は必死にある事を思い出す。マナの城で、そんな筈がないと神取に言った自分の言葉を思い出す。何故そう言ったのかを思い出す。
 何故…見えたからだ。
 全てを憎み、人の消滅を願いながらも、その奥底で神取がただ助けを求めていたのが聞こえたからだ。
 恐ろしい事を望みながらも、打ち消す本心が分かったからだ。
 そんな生き方しか出来なかった自分を嘆いて――だから自分は。

「助けたいんだ!」
「これ以上はもう……無理だ」

 真生は苦しく言った。
 それでも真物は諦めない。最後まで、命がけで助けようとする。
 助けられなかったお母さんを、何も出来なかった自分を、救いたくて。
 その時汚泥の黒から、ぐにゃぐにゃとした、形を持たない何かが現れた。それもまた邪神の一つ。邪神は真生を見て喜悦の表情を浮かべた。

「やはり来たか」

 汚泥の中から次々と触手を伸ばし、真生の手を足を絡め取る。

「……ニャルラトホテプ」

 険しい顔で呻き、真生は首にまとわりつく触手を忌々しげに掴んだ。

「真生!」
「いいからお前はそっちやってろ!」

 自分は大丈夫だと叫ぶ。

「どちらも無駄だ」

 目のような光をぐんにゃりと歪ませて嗤い、邪神はその触手でもって二人を翻弄した。
 真物が助けたい魂をがんじがらめにして目の前にぶら下げ、届かない必死の様を見て喜ぶ。
 その一方で、真生に絡めた触手を自身に引き寄せ、その中で無様にもがくのを見て喜ぶ。

「私に戻りたいだろう、真生」

 以前は限りなくそれに近付いていた真生。
 でも今は。

「今は違うね、今の俺は、見神真物を守る為にいるんだ」

 光が不満げに歪む。

「ならば要らぬ消えろ」

 つまらなそうに吐き捨て、邪神は虚空から掴み取った血まみれの凶器を真生の脇腹に突き立てた。

「ぐっ……!」
「真生!」

 脇腹に深々と食い込んだ凶器を見下ろし、真生はきつく目を瞑った。
 それからにやりと不敵に笑い、目を開く。

「半分お前で出来てんだぜ、効かねーよバーカ」

 真生は凶器を引き抜くと、絡み付く触手を切り裂いて抜け出し、首に絡まった残りをぞんざいに投げ捨てた。

「ならばあちらをもらうまでだ」

 邪神は鼻を鳴らし、切られた触手を再生させながら真物へと差し向けた。
 それより一歩早く真物にたどり着いた真生は、しっかり肩を抱くと、迫りくる触手をなぎ払って深淵から抜け出す。
 邪神はそれ以上追っては来なかった。
 ただ、これ見よがしに、去ってゆく真物に向かって捕らえた魂をちらつかせ、後悔を煽る。
 振り払うように前を向き、真物は俯いた。

「無茶をさせてごめん……」

 隣に立つ真生を見やる。

「いや、別に。俺はこの通り、何ともねえし」

 言葉通り傷一つないのに安堵し、真物は良かったと呟いた。
 その力ない笑顔がどうにもしようがなくて、真生は虚空へと目を向けた。自分へと降り注ぐ白光をきつく睨む。
 真物は大きく首を振りながらうなだれ、呟いた。

「……助けたかった」

 言ってしまうと、もう立っているのもつらくなり、真物はその場に崩れるように跪いた。

「全部は助けられないんだ……」

 真生は、悔しさに歪む唇でそっと呟いた。
 分かっていると、真物が小さく頷く。
 それでも。
 それでも自分の……見神真物の為だけじゃなくて、助けたかったんだ。
 もっとちゃんと声を聞いていたら……助けられたかもしれない。
 そうかもしれない。それは分からない。言い出したらきりがない。
 真生は何も言えなかった。
 うずくまり、悔しそうにむせび泣く真物へ、静かに手を差し伸べる。以前彼がしたように。静かに手を乗せ、慰める。
 そんな二人を、「彼女」は黙したままじっと見守った。
 やや置いて、真生は言った。

「……園村麻希を、助けよう」

 真物は無言で頷き、顔を上げて現実へと踏み出した。
 邪神に魂を食い荒らされ、無惨に斃れる神取の姿が、そこにあった。

 ちくしょう

 きつく拳を握る。
 そちらを見たくなくてよそへ向けた視線の先に、すぐ足元に、懐中時計が転がっていた。
 ちぎれた鎖、文字盤のガラスには大きなヒビが走り、既に時は止まっていた。
 誰のものか理解した途端、真物はほぼ反射的にそれを拾い上げた。案の定、手にした瞬間から筆舌に尽くし難い汚泥の黒が意識を蝕んだ。
 それでも真物は懐中時計を手放さず、大切にポケットに収めた。胸の中でもう一度、ちくしょうと繰り返す。
 しんと静まり返った大広間。
 誰も、ひと言も口を開かなかった。
 真物は一歩また一歩とマキに近付くと、少しためらい、その手を掴んだ。
 突然の接触に驚くマキの驚く声を押しのけて、絶望に嘆く麻希の声が、自分の中に流れ込む。
 真物はあえて遮断せず、苦痛に耐えながら園村麻希が上げる声を受け止めた。この後にくるだろう更なる痛みに歯を食いしばる。
 その時、誰かが、小さく笑った。
 神取だった。

「まさか……このわたしが敗れるとは」

 まっすぐ天を向く目はしかし、いっそ清々したと語っていた。

「……君の言う通りだ。わたしは――」

 取り囲む六人の一人、南条へゆっくり目を向け、神取は呟くように言った。

「――こんな生き方しか出来なかった」

 疲れた笑いでなく、自分を嘲るでもなく、少し困った顔で笑う。

「そう言ってほしかったから、君たちを招いたのかもしれんな……」

 そして、やっと居心地の良い場所にたどり着く事が出来た…ため息をつき、目を閉じる。
 南条は、倒れた神取を痛ましげに見つめるマキの横顔をしばし見やった後、神取に目を戻した。

「本物の園村は、どこにいる?」

 言葉に、神取は南条を見やった。それからマキに目を移した。驚く五人を見回した。いや、四人。見れば一人は、さして驚きもせずただマキの手をしっかりと掴んでいた。
 何かに堪えるように唇を引き締め、何かにひどく怒っているような目で虚空を睨んでいる少年の顔を、どこかで見た。そうだあの時、邪神に飲まれた深淵で見た気がする…気のせいだと頭から追いやり、神取は口を開いた。

「二つの世界の謎も、お見通しという訳か……さすがだな」
「なに……どういうこと?」

 マキは振り返って南条を見た。
 二つの世界の謎、本物の園村麻希…耳にした途端、身体の芯がすっと冷えていくようで、マキは小さく身震いした。

「ねえ、南条君……」
 自分の声がやけにかすれている事にマキは怯えを色濃くした。
「君も、君のいた世界も、ある人物の想像の産物でしかないという事だよ。園村…麻希君」
「なに?……何言ってるの? ねえどういう事よ!」

 神取を見やり、南条に目を向け、何の冗談だとマキは詰め寄った。

「……君は恐らく、俺たちが知っている園村麻希の…理想とする姿なのだろう。君の住むあの街は、園村麻希の心の中の世界」

 南条の語る言葉によって、マキは徐々に真実に近付いていった。
 思い出す、見えてくる。
 自分がいつどのようにして生まれたのか、何の為に作られたのか、はっきりと思い知る。
 自分だけではない。
 白い服を着た少女まいも、黒い服を着た少女あきも、自分と同じように園村麻希が作り出した分身。

 ああ、そんな……そうだ

 宙に視線をさまよわせ、そこに真実を見ているであろうマキに、神取は言葉を続けた。

「デヴァシステムの起動実験に成功したのは今からひと月前だ。しかし……それ以前から彼女はシステムとリンクしていた」

 マキが何事か呟く。
 デヴァシステム…だからあの時自分は、知らないはずなのにどこかで見た覚えがあると、混乱したのか。
 知らないマキと知っている麻希との記憶が、凄まじい勢いでめくられてゆくのを、真物は目眩を堪えて見据えた。

「次元に干渉する力と融合し、彼女の心の中の楽園は、想像を超えたものとなったのだろう」
「そして神取…貴様は、楽園の管理人であるまいと接触した」

 神取はしばし口を噤み、遭遇の瞬間を脳裏に過ぎらせる。

「……あの麻希は、孤独だった。彼女の役目は、理想のマキ…つまり君に都合の良い世界を提供し、現実の麻希の慰めとする事だった」

 名を呼ばれ、マキはびくりと神取を見た。

「うそよ……でたらめだわ」

 真実を渡され、後は飲み込むだけになったのを必死に拒み、マキは奇妙な笑顔を浮かべた。

「……本当の自分に、会ってみる事だ」
「いい加減にして!」

 激昂するマキをしばし見つめ、ふと神取は隣の少年へと目を移した。
 彼女を落ち着かせようというよりは、どこかへいってしまわないよう繋ぎとめているかのような…そこで不意に思い出す。
 深遠で会ったのは、やはり彼に間違いないと。
 顔形は記憶も曖昧だが、あんな風に強い眼差しをしていたのはよく覚えている。
 マナの城でも、あの目で私の戯言を見抜き、そんなはずがないと引き止めた。
 結局間に合わず、この有り様だが。
 手遅れの馬鹿者を助ける為に、命がけで深淵に飛び込む大馬鹿者の彼ならあるいは、園村麻希を――。

「私は私だよ! そんなの…そんな馬鹿な事って……」
「そ、園村……」

 消え入りそうな声で呟くマキがいたたまれず、マークは宥めるように名を呼んだ。
 存在があやふやになりつつある少女を必死に繋ぎとめんと、真物はしっかり握り続けた。
 そんな真物を、神取は食い入るように見つめた。
 ただの幻と告げられ、みながマキを様々な思いで見る中、一人よそへ目をやり、それでいて誰よりマキの傍に立ち、しっかり手を掴んだままでいる
 相変わらず、何かに怒り何かを堪えるような強張った目で虚空を見つめていた。
 何をそんなに怒っているのだろうかと、少し気になった。
 と、頭に突拍子もない考えが浮かぶ。

 心の中で、彼に祈りを……

 馬鹿馬鹿しさに笑いが込み上げるが、もう残り僅かの命、馬鹿げた事の一つや二つ、してみるのも悪くはない。
 思い浮かべるのは、願うのは、ただひたすら彼女の事。
 共に終わりの詩を囀った彼女の事

 自分は一人で、誰にも出会えなかった。
 彼女も一人で、けれど彼らに出会えた。

 彼に出会えた。

 ならば自分とは違う道を行けるはず。 
 どうか、頼むどうか…彼女の本当の心を、ともに見付けてやってほしい。

――彼女にわたしと同じ道は……君なら出来るだろう?

 愚かな男の馬鹿げた考えは、最後に一つ叶う。
 ためらいがちに自分に向けられた眼差しに、神取は小さく目を見開いた。
 真物は、驚きと喜びの混じった男の眼差しをしっかり見つめ返し、万感の思いを込めて頷くと、ひっそり呟いた。

 それを探しているところだ

 答えを聞き取り、神取は目を閉じた。
 今のは幻だったかもしれない。死にゆく自分の身勝手な自己満足かもしれない。
 けれど嗚呼。
 祈りが通じて、良かった。

「……――」

 良かったと繰り返す声が、不意に途切れる。もはや何の声も、色も、風景も、神取からは掴めない。
 何も無くなった。
 真物は、眼前に横たわる安らかな死に顔をただじっと見つめた。またもやってきた人の死のその最期の瞬間に、言葉にならない何かが胸の内に膨れ上がる。たまらずに奥歯を噛み締める。

「!…」

 直後、魂を切り裂かんばかりの鋭い叫びが思考を襲った。
 神取の命の火が消えると同時に目を覚ましたあきが、現実を受け止めきれず悲鳴を上げたのだ。
 あきの慟哭はそのまま園村麻希の嘆きとなり、真物の思考を揺るがした。
 悲鳴は、入れなかったあの部屋から発せられていた。

『今なら入れるわ』

 デヴァシステムとリンクしている麻希の声が聞こえる今ならジャンプ出来ると、「彼女」が言う。
 頭が割れんばかりの痛みを堪え、真物はひたすら声に意識を集中させた。
 本当は聞きたくない。
 大事な人を失った悲しみから発せられる声なんて聞きたくない。
 自分の夜が蘇るようで、聞きたくない!

――助けを呼んでるのにか?
「!…」

 はっと目を見開く。痛みが一瞬晴れる。
 まっすぐ向かってくる真生の眼差しに頷き、真物は懸命に声を辿った。いくつもの壁をすり抜け、歪められた空間をすり抜け、声を追って園村麻希の病室に意識の手を伸ばす。変わり果てた姿でベッドに横たわる彼女に驚きながらも、全力を傾ける。
 またも自分たちを襲う異変に驚く五人を連れて、真物は園村麻希の元へと向かった。

――絶対、手を離すなよ

 意識の底で、真生は一心に祈った。

 

GUESS 緑 11

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