GUESS 青 14

全ての人の魂の詩

 

 

 

 

 

 目の前に立ちはだかる無数の鍵穴を持つ扉を、真物はじっと見つめた。鍵穴はほとんど埋まり、残す鍵はもう数えるほどしかない。それを目に焼き付けるように視線を注ぐ。
 しばしそうした後、背後に立つ真生を振り返る。

「真生は、今でも…僕の事殺したいと思ってるか?」

 束の間考え、真生は笑いながら小首を傾げた。

「前の俺が見たら、殺してただろうな。お前をずっと憎んでたし。お前……本物の見神真物を」

 恨まれて当然だと、真物は強い目で殺意を受け止めた。
 悪意の声に堪え切れず、皆に押し付けて逃げて、一人だけあたたかな記憶の中ぬくぬくと眠っていた自分。

「そういうお前こそ、覚えてないのをいい事にでたらめ言いまくって混乱させた俺の事、腹立ててるだろ?」

 即座に首を振り、真物はわずかに目を伏せた。

「自業自得の部分ばかりだし、腹を立てる道理なんて……ないよ」

 唇を引き結び、視線の先で過去を見る。
 世界に絶望した瞬間。
 甘言を吐いたのは真生だが、選択し決定したのは自分だ。

 嫌になったんならこっちこいよ。俺の中で、いくらでも眠っていいぜ

 世界を遮断出来るなら、どこでもよかった。もう、まともに考えるだけの力は残っていなかった。
 そして真物は、誘われるまま真生に融合した。

「お前の力取り込んだら、すぐ殺してやるつもりだった。まずは気に食わない他の人格から、全部バラバラにして、その後にお前も…そう思ってたら、すぐこのクソ女が邪魔しにきた」

 真生は、傍に立つ「彼女」を親指で指すと、笑みとも自嘲ともつかぬ顔でゆるく首を振った。

「何度も何度も、俺の中のお前に呼びかけて」

 そしてお前は、現実に戻った…真生は言葉を続けた。

「俺と融合したから、だろうな。俺から出てった時、お前は、自分が誰なのか忘れてた。自分を、見神真物を守る為の副人格の一人だと思い込んだ。だから、俺の言った残りカスってでたらめも簡単に信じた」

 真物は静かに頷いた。

「けど、忘れてようが、思い出す事を拒否しようが、お前はどこまでいっても見神真物だった」

 自分の命をぎりぎりに晒してまでも、人を助ける。
 助けられなかった母を、自分を助けたくて。
 もうあんな思いは沢山だ。
 自分も、そして他の誰にも、あんな思いは味わってほしくない。

「ほんと笑っちまうくらい、自分二の次にして助けようとしたよな。自分を助けたいのに、その自分がまず死にそうになったりしてさ」
 でもそれが…お前なんだよな

 真生は穏やかに笑って真物を見つめた。
 奈落の奥底に追いやられた檻の中から、ずっと見ていた。何度も嘲っていた。他人なんて放っておけばいい、お前なんかにどうせ助けられっこない、と。必死になって誰かを、自分を助けようとする本体を嗤って見ていた。真生は遠く思い出す。

「お前のその心が、奴らを呼び集めたんだろうな」

 奴ら…かつて自分がバラバラに引き裂いて殺した人格たち。それでも彼らは死なず、それぞれが自分の意志で真物の中に戻り力を与えたのは分かっていたが、どうにも腹立たしく、認め難く、「彼女」のせいにした。
 真生は小さく笑って首を振った。何かを振り払うように。

「忘れてる内に俺の中にもう一度取り込んで、テレパスの力だけ奪って、今度こそ殺してやろうと思ってた。けど……」

 おどけたように肩を竦める。

「お前の『ごめん』は、結構きいた」

 全部思い出せてなくても、俺を変える鍵になった。本体を脅かす迫害者から、一番の協力者へ。
 だから自分はここにいると、真生はまっすぐに真物を見た。

「全部思い出したんなら、そこはもうとっくに開いてんだろ」

 真物を見たまま無数の鍵穴を持つ扉を顎で示し、真生は言った。
 真物は頷いた。邪神によって母の最期の声を聞かされた時、完全に記憶を取り戻した。
 記憶の旅でも思い出せなかった、思い出したくなかった…しかし思い出さなければいけなかったものを全て、取り戻した。
 ヤツに唯一感謝する事。

「もう、鍵は要らないだろ」

 もう一度真物は頷いた。
 かつて、自分と世界とを分断する為に作り出した扉は、少し前にその役割を終えていた。鍵穴は全て埋まってはいないが、もう、鍵は要らない。
 もう充分、見て、聞いた。
 あとは、自分へのけじめとして開くだけ。

「じゃあ、行こうぜ」
 園村麻希を引き上げに

 その言葉に真物は小さく目を見開いた。

「一緒に……行ってくれるのか?」

 この扉を開ける時、何となく、彼とは別れなければならない予感がしていた。

「力になってやるって、約束したからな、最後まで付き合うさ。それにお前、俺やこのクソ女がいなかったら、どんな無茶するか分かったもんじゃねえし。目が離せねえよ」
 なあ

 真生は振り返り、合意を求めて「彼女」に笑いかけた。
 少し驚きながらも、「彼女」は調子を合わせて頷いた。
 真生が怒りや嫌悪以外の視線を寄こすのは、これが初めてではないだろうか。相変わらずの『クソ女』呼ばわりだが、真物の影響によって生まれ変わったかつての怒れる人格―今はもう面影もない―にとめどなく喜びが湧き上がる。
 それに、と真生は言った。

「……お前が自分を本当に許した時じゃないと、戻れないからな」
「ごめん……」
「ごめんはもういらないんだって。もう受け取った。一度で充分だよ」

 強い顔で俯く真物に首を振り、真生は笑った。

「俺が言えた義理じゃねえけど……」

 そして自分の顎を指先でつつき、真物のそこに残る傷跡を指して言う。

「お前のせいじゃない。誰も、五歳の子供を責めたりしない」

 真物は何か云いかけ、口を噤んだ。それから曖昧に首を振る。
 妹の為に、花を取ろうとした…自分が勝手な事をしたせいで、二人はおかしくなってしまった。どうしてもその考えが拭えずにいた。
 母は一度としてそれを責めた事はなかった。
 分かっている。彼らは、自分の件がなくとも、いずれは破綻していた。何故ならそれ以前から、彼らは互いに不満を抱いていた。母の意識と重なった事で、分かった。親になるには未熟な大人たち――それは分かるのだ。
 それでもと、思ってしまう。
 自分が彼らをおかしくしたと。
 自分の世界を終わらせたのは、他でもない自分だった……恨み、憎むべきは母ではなく、自分なのだ。
 だからまだ、こんなところにいる。
 苦悩する真物を見つめ、「彼女」は静かに口を開いた。

「あなたは…かつて逃げた。真生の中に逃げ込んで、終わらせようとした。けれど自分の意志で戻る事を決意した。私の呼びかける声に応え、表の世界で生きてゆく事を決意した。再び歩き出すまで何年もかかったけれど、歩みはゆっくりだったけれど、ついにここまでたどり着いた。忌まわしい過去に触れる人の死に何度苦しんでも、決して諦めず、助けたい思いを手に、あなたの心は様々な事を成し遂げてきた。あなたの心は、とても強い」

 真物はゆっくり首を振った。首を振って、自分は強くなどないと、否定した。でも、たまらなく嬉しかった。他の誰も知らない事を知っている「彼女」の言葉が、その人からの称賛が、本当に嬉しかった。
 どんなに疎んじても、決して傍を離れず見守り、常に行く先を示してくれた「彼女」の言葉は、どうしようもなく胸に沁みた。

「分かっているあなたなら、きっと、園村麻希を助けられる。そして――自分の事も」

 同じ考えだと頷き、真生は言った。

「した事は取り消せない、無かった事には出来ない。けどお前は、生きてる」
「……いくらでも、やり直せる」

 マキに言いながらその実、己に向けた言葉を呟き、真物は唇を引き結んだ。
 真生は、指先にはめた白金のリングを外すと、真物に向かって差し出した。

「許せたんなら、きっと、自分も許せる」

 真生の言わんとするところを見つめ、じっと考え込む真物の妨げにならぬよう、
「彼女」は静かに言った。

「あなたの心意に従いなさい」

 真物は軽く目を閉じ頷いた。未だ自分は不完全で、探し物もろくに見つけられずにいる。けれど誰かを助けたい気持ちは、途切れずに自分の中に湧き出している。
 ずっと大切に持っているもの。
 そうする事でお母さんを、自分を助けられるのではないか…許せるのではないかと、行く先に漠然と見えるものに目を凝らす。
 だから自分はここにいる。
 真物はゆっくり目を見開き、真生を見た。
 ためらいがちに口を開く。

「……もしかしたら一生、許せないかもしれない」

 リングを受け取り、指先に掲げてじっと視線を注ぐ。

「今日は許せても、別の今日は、許せないかもしれない……」

 自分の中にある気持ちを正直に吐露する。
 真生は言葉を飲み込むように何度も頷き、リングごと真物の手を上から掴む。

「多分そうやって、一生ぐずぐず考えていくと思う。それでも助けたい僕の――力になってほしい」

 願いを込めて真生に視線を注ぎ、真物はもう一方の手を彼の手に重ねた。

「ぐずぐず言って迷っても、やっぱり誰かを助けようとする。自分二の次にしてまで、誰かを。それが、お前だからな」

 真生も同じく重ねる。

「力になってやるよ」

 そしてにやりと笑い、誇らしげに名を呼んだ。

 見神真物――と。

「………」

 もう名前を呼ばれても、真物の中に違和感はわずかも生じなかった。かたく目を閉じ、腹の底から湧く歓喜に小さく震える。

「真生……ありがとう」

 真物は、指先にある白金のリングと激励する真生の手の熱を感じながら、思いの丈を込めて告げた。

「お前なら出来るよ、見神真物。さあ――行けよ」
 マキによろしくな

 声は耳から入り、最後の言葉は自分の内から響いた。その瞬間胸の内で白く弾けるものがあった。目を閉じているのに強烈な眩しさを感じ、意識が一瞬途切れる。
 虚空から降り注ぐスポットライトがその役目を終え、音もなく消える。
 はっと目を開くとそこには、無数の鍵穴を持つ扉に向かって立つ自分と、傍で静かにたたずむ「彼女」がいた。
 いつの間にか握っていた手の中には、損なわれていない白金のリングがあった。何か云いかけて小さく口を開く。
 真物はリングを大事にしまい、「彼女」を見やった。
 視線をまっすぐ受け止め、「彼女」は頷く。
 真物は扉へ目を向け、手を伸ばした。思わず震えそうになる自分を律し、ついに触れる。

「……行くぜ」

 十二年前に閉ざした扉が、音もなく開く。

 

 

 

 何もかもが薄墨にぼんやりと霞む空間の中、真物は横たわるように立ち、奇妙な仮面の人物―フィレモン―と向かい合っていた。

「よく、ここまでたどり着いたな」
 それでこそ

 フィレモンの言葉がそこで止まる。その先に何を言おうとしたのか。真物は少し気にかかった。
 フィレモンは片手を上げてどこかを曖昧に指差すと、再び口を開いた。

「園村麻希の魂は今、人々の心の海へ帰ろうとしている。彼女を見付け引き上げるには、君の力も必要だ。マキの先導者となり、彼女の元へ向かうのだ」

 自分の能力の事を知っているフィレモンに驚く――驚かない。そして『引き上げる』という言い回しに確信する。

「さあ、行きたまえ」

 曖昧だった指先が、真物の背後へ向けられる。
 振り返ると、そこは見渡す限りずっと果てまで砂で覆われた、広大な砂漠だった。見上げれば空は奇妙に白く、やけに明るい。

「……真物君」

 すぐ傍でマキの声がした。見れば、少し困惑気味の顔で立っている。内面の声も、どこか心細そうだ。
 当然だろう、突然、砂漠のど真ん中に放り出されたのだ。余り起伏のない、なだらかな稜線の途中。そこに、たった二人で立っている。

『確かお菓子の家でまいちゃんと……』『金色の蝶が』『そうよ、フィレモンに会った』『ここに、本物の私がいるって』『真物君と二人で行けって』

 聞こえてくる思考の断片からは、行き先については言われていない事が分かった。またマキは、来た事もないこの場所を、この光景を、前に見た事があると、引っかかりを感じていた。
 面食らった顔でしばし辺りを見回した後、マキは口を開いた。

「こうしててもしょうがないから、とりあえず、探してみよっか」

 分からないけど、とにかく行ってみよう。
 マキは弾む声で言った。そして言うが早いか、真物の手を取って歩き出した。
 思いがけず力強く握られ、真物は一瞬息を詰めるが、接触した事で彼女の意識の奥の風景がより明確になり、行き先が分かる。
 園村麻希のいる場所。
 それは、彼女が進もうとしている道と反対の方角だった。

「いや…こっちだ」

 真物は引き止め、歩き出した。

「あ、うん」

 マキは少し不思議そうにしたが、真物の言う事なら安心だと絶対の信頼を寄せ、言う通りにした。
 靴の下できしきしとかすかに音を立てる砂を踏みながら、真物は無言のまま進み続けた。
 マキもまた無言だったが、心の中は楽しげに弾んでいた。ひそかに『好意』を寄せる相手と二人でいる事に、浮かれては落ち着き、また高揚して、ひと時もじっとしていなかった。
 それらの内面の景色は、繋いだ手から全て真物に伝わっていた。離すきっかけがつかめず、握ったままの手から、次々と流れ込んでくる。
 それらは真物をそわそわと安定を欠いた気分にさせたが、同時に心地良くもさせた。
 誰かとこうして手を繋ぐことが単純に気持ち良くて、また、彼女の寄せる信頼も、心地良い…嬉しい。
 誰かを助けたいのは、突き詰めれば結局は自分を助けたいという身勝手なもの。それでもこうした信頼や『好意』の気持ちが生まれるのは、自分にそれが向けられるのは、純粋に嬉しい事だった。
 頼られる事が。
 真物はしばし考えた。以前の自分は、ほとんどの事が無駄で無意味で、どうでもいい事だった。
 周りの誰ともろくに口を利かず、それもどうでもいい事で、唯一、心友の陽介と言葉を交わす以外は大した変化のない日々。
 長い間そうして過ごしてきた。
 突如起こった非現実的な現実に否応なしに巻き込まれ、同じように巻き込まれた彼らと仕方なしに道程を共にする内に、自分は様々なものを見付け、気付き、そして取り戻し、何度も変わって自分は――ここまできた。
 頼られる事が、しようもなく嬉しいと。
 けれど、しかし。
 真物は進みながら、目だけをマキに向けた。
 では自分はどうなのだろうか。
 マキに向けるこれは一体何なのだろうか。
 何と呼べばいいのだろう。
 真物は、無性に陽介と話がしたいと思った。自分が思っている事を伝え、それをどう思うか、聞いてみたくなった。そんな風に思うのはほぼ初めてで自分自身に面食らうが、無性に話したくてたまらないのだ。
 悪い癖の一つである思考の堂々巡りに陥りかけた時、マキがおずおずと口を開いた。

「ねえ真物君、さ…場所、分かるの?」

 途端に背中がひやりと冷たくなる。
 こんなにはっきりとした足取りで進めば、疑問が口から出るのは当然だろう。
 まさか、マキの意識の中に見えた思念を追っているとは、言えない。
 彼女の思考の断片を読めば、納得させられるそれらしい嘘を言えるが、咄嗟に口を突いて出たのは、もう一つの正直な方だった。

「自分も、前に……ここまで逃げた事があるから」

 驚いた顔になるマキの顔をしばし見た後、真物はよそへ目を逸らした。はるかかなたまで続く砂の大地を、ぼんやりと眺める。
 かつて自分も、この、魂の帰る場所、集合無意識の海へと逃げ込んだ。互いの心を殺し合う親たちの、醜い思考の断片から自分を守る為に。そして真生の甘言に縋り、全てを忘れた。
 海と言うにはここは全くの正反対だが、きっと人の心のありようによって様々に姿を変化させるのだろう。
 自分には、うすぼんやりと明るい狭い部屋に感じられた。

「……そうだったんだ」

 だからフィレモンは、二人で行けって言ったんだ
 耳にした瞬間から、マキの心に様々な思考が浮かび、渦巻き、それらは全て繋ぐ手を伝って真物の意識に流れ込んだ。
 どんな時もまっすぐ前を向き突き進むマキにそんな事を言えば多少なりと軽蔑する声も挙がるだろうがしかし自分はそれでもどこかで、彼女に聞いてほしい気持ちがあった。

「でも真物君は、戻って来たんでしょ」

 果たしてマキの中からは、軽蔑の声は一切生まれなかった。そして当然起こる何故逃げたのかという疑問も、聞いて傷に触れ困らせるのは嫌だと、気遣って飲み込んだ。
 驚き感謝し、そして勇気付けられ、真物は言葉を続けた。

「でもそれは自分だけでじゃない…呼び戻してくれた人がいたから……」
「でも、決めたのは真物君だよね」

 言い淀む真物に、マキはまっすぐ目を向けて言った。その眼差しは戻る事を決意した真物を称え、どこか誇らしげに輝いていた。
 真物は小さく頷いた。

「園村さんこそ、自分が『本当』じゃない事に逃げなかった」
「え、うん…まあ、ショックじゃないって言えばウソになるけど……一回逃げちゃったし」

 マキは苦笑いして肩を竦めた。
 彼女の味わった衝撃を、自分も少なからず知っていると、真物は遠く辿った。まだ記憶が不完全だった頃。真生が迫害者だった頃。マナの城で、息も止まる程の恐ろしさを味わった。自分にはあの喪失感は紛い物だったが、マキにとってはどうしようもない現実。

「でも、戻って来た」
「うん。だって、みんながいるし。それに……真物君が呼び戻してくれたから」

 繋いだ手をぎゅっと握りしめ、マキはとても嬉しかったと大事そうに囁いた。
 それだけでも、真物には大いに慄く強烈な感情の突撃だった。続くマキの内面の声はもはや脅威だった。
 彼にとってその呼び戻してくれた人は、特別な存在なのだろうか…と、マキは少し怖がりながら思考を渦巻かせていた。
 自分にとって真物は特別な存在、だから、一歩踏み出す勇気を出せた。もう一度目を上げて進む力を奮い立たせる事が出来た。

 そんな自分と同じように、真物にとって、その呼び戻してくれた人というのは特別な人なのだろうか!

 マキの中で、聞きたい気持ちと怖がる気持ちがせめぎ合う。
 不意に真物は息苦しさを感じ、慌てて吸い込んだ。余りの衝撃に呼吸すら忘れてしまっていたのだ。
 気付かれぬよう、細く息を吐く。
 確かに「彼女」の存在は、特別といえば特別だろう。
 けれどマキが心配するような、危惧するような意味のものではない。
 何故なら「彼女」は。
 何も言わないマキに、真物も黙したままでいた。
 しばし進んで、マキは口を開いた。

「真物君も、そうだったんだ……そういえば私、真物君の事あんまり知らないな」

 こちらの世界の見神真物と、どんな言葉を交わしただろうか。思い返すマキの中の真物は、当たり障りのない話を、よく陽介や千里としていた。
 記憶をたどってよそへ向けていた目を真物に戻し、マキは言った。

「全部終わったら、ゆっくりお話したいね」

 全部終わったら…自分は消える。マキは寂しさを隠して笑った。
 内面の声を聞かずとも、表情で察した真物は首を振った。

「消える訳じゃない。君もいて、園村麻希になるんだから」

 落ちかけた彼女の視線を引き上げる。
 マキははっと真物を見上げた。

「あの時…逃げた僕の代わりに、沢山の人格が僕を助けてくれた。今は、僕の中に融合してる。でも消えた訳じゃない。全部、いるよ」

 マキの瞳がこの上なく大きく見開かれる。

「……真物君にも、前は、色んな自分がいたんだ」
「中には、僕を殺そうとしたのもいた」
「!…」
「迫害者の人格。園村麻希でいうところの、パンドラ」
「……それは、どうなったの?」
「僕の一番の味方になってくれた」
「味方に……」

 マキは少し驚いた顔をした。それから強い笑顔で唇を引き締め、頷いた。

「なんか、希望が湧いてきた」

 本物の園村麻希に害なすパンドラ、それを退けなければならない事までは分かっていたが、どうすべきか、考えあぐねていたのだ。ただ倒せばいいと漠然と思っていた。それが味方になると聞いて、考えが変わる。
 全部が合わさって、園村麻希だ。
 消すだけが、道ではない。

「全部が合わさって、本当のわたしになるんだよね」

 良い自分も、悪い自分も…マキは、園村麻希を思い浮かべる。
 真物は頷いた。

「そしてそれは、消える訳じゃない」
「……うん。ありがと。真物君て、いつも、欲しい言葉くれるね。まるで……心が読めるみたい」
 不思議なひと

 真物は少し考え、口を開いた。

「読めないよ。でも、分かる」
「じゃあ、今、わたしが……」

 真物は立ち止まると、強張った顔で言い淀むマキの正面に立った。
 そっと繋いだ手を解き、戸惑う彼女の頬を両手で包む。

「!…」

 マキは動揺に瞳を揺らした。頬にわずかな赤味をのぼらせ、瞬きも忘れて正面の人物を見る。
 真物は俯き加減にそっと顔を寄せると、自分の想いが届くよう励ます。

「大丈夫」

 彼女が今一番望んでいるものを、心を込めて贈る。
 園村麻希を助けたい…一心に思いを注ぐと、不思議と気まずさや気恥ずかしさは薄れていった。
 やるじゃん、と、どこからか真生の声が聞こえた気がした。

「……ありがとう」

 マキは目を閉じ、穏やかに微笑んだ。抑えても抑えても湧いてくる、消えてしまう事への不安が、心細さが、そのたったひと言であっさり溶けて消えた。頭で分かっても、やっぱり泣きそうになってしまう弱い自分を、どうしてこんなに綺麗に包み込んで溶かしてくれるのだろう。
 自分と似通った存在だからだろうか。
 もちろん立場は正反対だけれど、こうして話が出来る事は、大いに心を軽くさせた。

「……この先にいる」

 囁くように言って真物は顔を上げた。園村麻希の思考の断片が、途切れがちに聞こえてくる。
 真物が見やる方に目をやったマキは、少し離れた向こうに何か黒いものが埋もれかけているのを見付けた。

「……あれは!」

 マキは駆け出した。真物も後を追う。
 辿りついた先には、胸元まで砂に埋まり力なく倒れ伏す園村麻希の姿があった。遠目に見えた黒いものは、彼女の長い髪だった。

「聞こえる……?」
 わたし

 両目を閉じ、まるで死んだように動かない【自分】にマキはおっかなびっくり声をかけた。
 すると砂に埋もれた麻希は、ひどく億劫そうにうっすらと目を開けた。

「ああ……来たのね。わたし……楽園のわたし」
「しっかり目を開けて、今出してあげるから! 真物君、手伝って」
「もういいの!」

 真物の名を耳にした途端、それまでの力ない声が嘘のように麻希は張り叫んだ。

「もう…無駄なの。私の身体は半分砂になってしまった…だからもういいの……」
「よくないわよ!」

 跪き、マキは砂に埋もれた【自分】を叱責した。
 疲れたようなため息を吐き、麻希は言った。

「……私は、生まれちゃいけない意識だったのよ……初めからあなたが生まれていれば、もっと違う人生だった――」

 なに馬鹿な事を!
 叫ぼうとして、マキははたと口を噤んだ。

「ねえ、聞いて…私も、一回逃げちゃったの。でも、友達に励まされて、真物君に力もらって、また歩き出したの。真物君も――」

 マキは縋るように真物を見上げた。
 彼女が何を言わんとしているか察した真物は、頷いて促した。

「真物君も、前に逃げた事あって、でも励まされて、また歩き出したの。上杉君も、稲葉君も、南条君も、城戸君も…みんなそう。だからあなたも出来るわ! 絶対に変えられる! 私はもう逃げない。私があなたの力になるから、一緒に頑張ろう!」
 ねえ!

 マキの必死の説得を、砂の中の麻希は時折瞬きを繰り返しながらじっと聞いていた。そしてゆっくり目を上げて真物を見やった。
 真物は跪き、目を合わせた。パンドラが開封されたせいだろうか、そうしても彼女の内面の声はほとんど聞き取れなかった。
 ただ一心に真物を見ていた麻希は、ゆっくり手を動かし、首にかけていた鮮やかなブルーのコンパクトを外して差し出した。

「……ありがとう」

 真物の声に、麻希は辛うじて分かるほどささやかに微笑みを浮かべた。それはどこか、悲しげだった。
 コンパクトを受け取った時、その意味が分かった。

『……あなたにだけは…こんな姿見られたくなかったな』

 悔しさに歪む声を受け取る。弾かれたように真物は目を覗き込んだ。
 想いに心持ち潤んでいたが、彼女の瞳は、初めて出会った時と変わらず静かな力強さを秘めていた。
 途端に身体の芯が熱くなった。
 園村麻希はまだ、完全に諦めた訳ではない。
 その身に受ける理不尽な苦痛に激怒し、恨み、そして憎んで、みんな消えてしまえばいいと呪った、それでもまだ、完全に自分を見捨てた訳ではない。
 間違った方法に没頭し、逃げ続けた末にここまで来てしまったが、現実世界に絶望しきった訳ではないのだ。
 真物は、受け取ったコンパクトに目を落した。園村麻希の、戻りたい気持ちが、ここにつまっている。
 彼女はそれを自分に託した。

「これで、三つ揃ったね…これで、パンドラの所に行ける」

 マキは自分が持っている二つに三つ目を重ね、幾分低い声で言った。
 三つのコンパクトが放つ色を見ていてふと真物は、光の三原色を思い出した。

『人の心は、様々な色に染まる。どの色になるも…自分次第よ』

 意識の底から聞こえる「彼女」の声を、真物は黙って聞いていた。
 もう一度麻希を見ると、彼女は最初と同じように目を閉じ、疲れきって倒れ伏していた。
 そしてその姿は、徐々に薄れていった。麻希を透かして、砂が見えてくる。
 けれどマキの手にあるコンパクトは、変わらず鮮やかなブルーを放っていた。

「急ごう」

 麻希から離れ難い目を正面に向け、真物は言った。

「あ、真物君!」

 と、何かを見付けた声でマキが空を指す。
 そこに金翅の蝶を見止めると同時に、猛烈な砂嵐が吹き荒れた。

「きゃ!」

 風に押されマキの身体が揺らぐ。
 真物は咄嗟に踏ん張って支えた。直後足の裏に伝わる感触が砂のそれから固い石畳に変わる。
 唐突に砂嵐は止み、二人は困惑の表情で辺りを見回した。

 

「ここ……学校の中庭?」

 自分の目が信じられないと、マキは声を上げた。
 しかし真物の目にも、見慣れた物は映っていた。四角く囲われた整った空間の奥に鎮座する、深い光沢を放つ奇岩がそうだ。
 自分のすぐ傍に凛としてそびえる奇岩をしばし見上げた後、真物は、由来が書かれた石碑に目を落した。だから、これを描きたい気持ちがいつもあったのかもしれない。漠然とながらも掴んだ理由に何故かおかしさが込み上げ、ほんの少し口端を緩める。

「何だか静かだね……みんなは、どうしちゃったんだろう」

 以前、あきの襲来によって無惨に崩れてしまった校舎の壁を見回しながら、マキが不安そうに言う。
 真物は、ぐるりと校舎を見回した。フィレモンがここに送ってくれたのなら、仲間たちも近くにいるはず。恐らくは、自分たちを探して校舎を回っているのではないだろうか。

『あ、いたいた』

 その時、誰かの思考の断片が真物の肩を叩いた。
 やや遅れて中庭の扉が開かれ、見知った四人の姿が現れた。

『やっぱりここだったか』
「だからオレ様言ったっしょ、ここで待ってればいいってさあ」
「あぁそうだな…園村!」
「上杉君、稲葉君」

 やってきたブラウンらにほっとした顔でマキは迎えた。
 彼らの記憶を少しずつ聞き取った真物は、自分の推測が当たっていたのを知った。
 彼らも同じく、しかし自分たちより少し前にこの中庭に到着していた。自分たちの姿が見当たらない事から、手分けして探そうという事になり一階の教室へ散らばっていたのだ。

「二階へ行く前で良かったな」
「みんな、三つ目のコンパクト、もらってきたわ」
「ほ、ホントか園村!」
「よし、では展覧室へ急ごう」

 展覧室という聞きなれぬ言葉に戸惑った真物は、済まないと思いつつ南条の思考の断片に触れた。それは生徒会室の隣にあり、マキが以前絵画コンクールで金賞を受賞した絵が飾られている。
 そしてその絵こそが、パンドラの巣に通じる扉。
 疑問が晴れ、疑問が生じる。
 それは続く思考の断片で明らかになる。
 何故こちらの世界の住人ではない南条が知っているのか、それは、説明した人物がいるからだ。
 南条の記憶に浮かんだ内藤陽介の顔を見止め、真物は小さく目を見開いた。

「そうだ見神、展覧室の扉というのはだな……」

 向かいながら南条は説明を始めるが、ほとんど真物の耳には届いていなかった。
 ダークサイドで別れたしばし後、内藤陽介と香西千里は、金色の蝶に導かれ学校にたどり着いた。そこで蝶から扉の話を聞き、やがて訪れるという自分たちを待った。
 展覧室へ向かう自分の歩みももどかしく、真物は廊下を進んだ。
 扉を開けると、近付く足音で気付いていた陽介と千里が少し期待した顔で待ち構えていた。

「お待たせ、やっぱ中庭にいたわ」
「千里! 内藤君!」
「麻希!」

 久々に再会した心友にマキはぱっと顔をほころばせるが、すぐにはっと飲み込んで俯いた。彼らに謝罪しなければいけない事があるのだ。彼らをこんな非現実的な現実に巻き込み、苦しめてしまった事を詫びなければいけない。それは何度謝ろうと決して許されない事で、しかし、自分には謝る他に方法が思い付かない。

「ごめんね二人とも…私のせいで……私が……」

 向ける顔がないと俯くマキに千里は足早に近付くと、両手を肩に乗せ言った。

「もう、なんて顔してんのよバカ麻希!」

 それから力強くマキを抱きしめた。

「……ちさと」
「あんたはほんと、昔っから不器用で目が離せなくて……私の一番の親友で!」
「千里……」

 涙交じりの声で千里は続けた。

「謝るのは私の方よ、麻希。私の事を親友だと思ってくれたから呼んでくれたのに…私はそんな麻希を裏切って……」
「ううん、今でも千里は、私の一番の親友だよ」
「私もよ……麻希。ありがとね。だから、これでもうおしまい。あんたに暗い顔は似合わないよ」

 身体を離し、千里は笑った。

「ありがとう、千里」

 マキも同じく笑った。
 何度もありがとうと繰り返す二人の内面の声を聞きながら、真物はゆっくり陽介を見やった。聞こえてくる彼の思考の断片は、無事だった事を安堵し、こちらの印象が変わった事に驚き、そしてそれを喜んでいた。

「本当に、随分変わったな…真物」

 歩み寄り、しみじみと言う陽介がおかしくて、真物は思わず吹き出した。
 そんな反応にまた陽介が驚く。
 確かに、以前はこんな風にはっきり感情を出す事は滅多にしなかった。出来なかった。

「……色んな事が、分かったんだ。良い事も、悪い事も」
「……そうか」

 分かった事、目を向けたもの、取り戻した記憶。全てを脳裏に巡らせ、真物は言った。

「分かって、良かった。向こうに戻ったら、ゆっくり話そうと思う」
「ああ、是非聞かせてくれ」

 自分の得たものを純粋に喜んでくれる心友に、感謝の気持ちで一杯になる。

「ありがとう」

 真物は心を込めて礼を言った。

「それで真物…あれが、扉なんだが……」

 陽介は室内の前方にかけられた一幅の絵を指差しながら、気遣わしげに真物を見やった。

「多分、今はそれも平気だと思う」

 心配する陽介の内面の声に応え、真物は目を向けた。
 初めて目にした時の記憶をたどる。思いがけず園村麻希の世界に引きずり込まれてしまい、まだ何も思い出していなかった自分は、訳も分からずただただ不快感と焦燥感に駆られ不安に苛まれた。
 陽介は、それを気遣っていた。
 見て、また気分を悪くしたらと。
 些細な変化も見守ってくれていた陽介にもう一度感謝し、真物は『楽園の扉』を目に映した。
 全てを思い出した今は、不快感やそれらの理由が、分かる。
 そして、それでいて麻希の絵を選んだ…惹かれた意味も。
 初めて見た時は無意識だった行動を、今は意識してする。意識して、ピアスを掴む。
 そうするとどこからかもやもやとあの殺意の衝動が込み上げてきたが、誰かが食い止めてくれたように不意に消えてなくなった。

「それも、分かったんだ。もう平気だよ」

 真物は陽介の目を見て頷いた。

「そうか」

 良かったと、陽介は笑った。

「ねえ麻希、全てが丸く収まったらさ、みんなで遊園地にでも行こうよ」

 千里のそんな明るい声が聞こえた。
 真物は咄嗟にマキを見た。励ますように。
 マキも同じく真物を見た。力をもらおうと。

「……うん!」

 見合わせた目から何かをしっかり受け取ったマキは、晴れやかな顔で頷いた。

「へへ……遊園地か。ガキに戻るのも悪かねぇな」
「まー君まー君、どっちがコーヒーカップ早く回せるか、競争しようぜ」
「……アホか」

 呆れ笑いで切り捨てられてもめげず、ブラウンは実演を交えつつ『妙技』を披露した。それでも乗り気でないマークを盛り上げようと、玲司も巻き込み、それならゴーカートで勝負だとたきつけた。

『ああ、そっか麻希』『ふうん』『見神君も、隅に置けないな』『でもちょっと分かるかも』

 遊園地の話で賑やかに盛り上がる彼らの声に混じって、誰かの思考の断片が聞こえてきた。顔は見ずに千里を見やる、からかうような、見守るような千里の楽しげな声に、真物はいささかの居心地の悪さを味わう。
 すると今度は別の方から、玲司の内面の声が静かに聞こえてきた。
 真物はそこに、黒い夜が終わり、穏やかに朝焼けが広がるのを見た。
 神取の名のつくものの抹殺を願い、黒く拉がれていた彼はもうない。
 内面の声を聞いてももう、同調して額の傷が痛む事はなかった。

「貴様ら、いい加減にせんか」

 遊園地談義に花を咲かせる、緊張感のかけらもない馬鹿者どもに一喝くれた南条は、マキに向き直った。

「よし。では園村、扉を開けてくれ」

 マキは三つのコンパクトを取り出すと、楽園の扉の前に立った。額の左右と下部に、丁度当てはまる丸い窪みがある。そこに一つずつ収め、マキは心の中で『ノモラカ・タノママ』と唱えた。
 直後、透明に塗り消したように絵が消え、代わりにぽっかりと黒い穴が現れた。
 飲まれぬよう、真物は身構える。
 やや置いて穴の奥から、凄まじいまでの苦痛と激怒が溢れ出してきた。
 目に見えないそれらに絡み付かれた途端、実際にはあり得ない痛みが走り全身が軋んだが、そこに懐かしい匂いを感じた気がして、真物は笑うように唇を歪めた。

『この奥にパンドラがいる』『一番悪い私…負けられない』『きっと、味方にしてみせる』『みんなで、もう一度わたしに……』『行こう!』

 自分の夜を思い出し、拭いきれない卑屈さに落ちかけていた真物の心を、マキの力強い声が引っ張り上げる。
 知らず内に詰めていた息を吐き出し、真物は唇を引き結んだ。ぐずぐず言いながらも色んな物を掴んで、ここまで来たのだ。

「みんな、行こう!」

 マキの声に合わせて真物も目を上げ、踏み出した。

 

 

 

 パンドラの巣に通じる穴は暗く狭く、じっとりとよどんだ空気に満ちていた。
 ゆるやかな下り坂のずっと奥の方から、ゆっくりとした不気味な鼓動が聞こえてくる。呻き声にも似たそれは一歩ごとに重苦しさを増し、坂道を進む六人を脅かした。
 真物の耳に鼓動が一つ響く度、パンドラの抱える苦痛が激怒が、強烈なイメージとなって意識をかき乱す。どんなに心を強く保って跳ねのけても、しつこく食い込んでくるそれらに何度も足が止まりそうになる。
 喉の奥にかすかな吐き気を覚えた時、不意に真生を思い出した。
 その途端、不思議と痛みが薄らいだ。
 凄まじいまでの怒りと殺意に満ちた迫害者、真生。それゆえ大きなエネルギーを持ち、何もかもを脅かした。
 彼は今、一番の協力者として自分と共にある。
 真生だけではない。かつて、逃げた自分の代わりを務めてくれた沢山の人格がここにはある。
 自分は彼らに責任がある。
 「彼女」の呼びかけに応え戻って来た自分のやるべき事。
 真物は、やや後ろを行くマキに意識を向けた。
 園村麻希を助けたい。
 みんなを助けたい。
 母のように、逝ってほしくない。

『大丈夫。あなたなら出来るわ』

 沁みる声で名を呼ぶ「彼女」に束の間目を閉じ、真物は口端を緩めた。
 伝わってくるパンドラの内面の声は、どこもかしこも、何度も塗り重ねたような真っ黒ばかりだった。
 けれどそこに今、どんな時もまっすぐ正面を向くマキが向かっている。
 彼女の白を届ける事が出来れば、あるいは…真物はごくりと喉を鳴らし、奥に鎮座するパンドラを見据えた。
 永遠に続くかと思われた緩やかな下り坂の、ついに行き止まりにたどり着く。
 パンドラの巣にたどり着く。

「………!」

 デヴァユガで受け取ったイメージよりもはるかに強烈なその姿、我が目を疑うほどの凄まじい衝撃に、誰もが息を飲み慄いた。

「……これも――私……これが?」

 からからに乾いた喉から必死に声を絞り出し、マキはまじまじとパンドラを見た。
 その声に呼応するように、パンドラはもぞもぞとその身体を蠢かせた。
 どんなに目を凝らしても、全体を把握する事が出来ない。
 どってりとした生々しい肉色の胴体を、その縁にずらりと並んだ無数の足が支えている。胴体の先端には園村麻希の顔が唐突にあり、尾っぽを模したものだろうか、末端部分には沢山の腕を生やした人間の上半身があった。顔の部分には口だけがあり、丸くぱっかりと開いた口の内側には、びっしりと鋭い牙が生えていた。
 やけに白い手と足は、病に冒された人を連想させた。
 四角く仕切られた、白く狭い部屋に閉じ込められた園村麻希。彼女の受ける苦しみをその身に全て吸い取り、ただひたすら苦痛に責め苛まれ独り悶えてきた姿の、なれの果て。
 あきの抱える全ての激怒を取り込み、目覚めたパンドラは、園村麻希の顔を高くもたげると、身の内に渦巻く苦痛と激怒とは正反対の冷え切った目で六人を見下ろした。

「……あれは――デヴァシステムのコアか!」

 パンドラがその背に守る物に気付き、南条が声を上げる。
 パンドラは深くため息を吐いた。

「これはやっと手に入れた『楽園の扉』……私だけの楽園…誰にも……誰にも渡さない」

 園村麻希の顔が、無表情のまま言う。

『楽園を創る』『私だけの楽園』『何もない』『何もいらない』『何も存在しない』『全てを消し去った楽園』『みんな消えてしまえ』

 ひたすら消滅を望む冥い声が真物の意識の中に流れ込み、轟いた。容赦なく壊しにかかる汚泥の黒に気が狂いそうになるが、きつく眉根を寄せて抗う。こんなものは承知の上だと、途切れそうになる正気を奮い立たせる。
 飲まれそうになる度、真物は『誰かを助けたい』思いに縋った。こんな、自分の事しか考えていないものでも、誰かの力になる、そして自分はそれを、嬉しいと思った。
 たとえ自分勝手な物でも、何かを生み出す力になる。だから自分は誰かを、みんなを、園村麻希を助けたい。
 何故なら自分は。
 パンドラの虚ろな望みに、マキは大きく首を振った。

「違う、それは『楽園の扉』なんかじゃない!」

 そこで初めて、園村麻希の表情に変化が表れた。

「全ては無駄……何かも無駄。あなたたちも――私も」

 抱え切れない激怒に目をらんらんと光らせ、口を嗤いの形に裂き、パンドラは囁くように言った。

「無駄なものはいらない…みんな消えてしまえ――」

 直後、パンドラの身体がどろりと崩れ、溶け始めた。

「……!」

 手が、足が、黒ずんだ汚泥となって流れ溶けていく異様な光景に、誰もが言葉を失う。
 山と積もった汚泥がもぞもぞと蠢いたかと思うと、中から、二対の美しくも毒々しい翅を持った蝶が現れた。

「こいつぁ……」
「すげぇ……」
「……きれい」

 マキは思わず呟いた。
 しかしその体躯は異様だった。やけに長い手足を持ち、頭部から二本の長い触角を垂らした…園村麻希。

「あなたたちに、私が受けた苦痛を味わわせてあげるわ」

 パンドラは閉じていた両目を開くと、慄く六人を憎悪に満ちた目で見下ろした。

「私の激怒を思い知るがいい!」

 言うや否や翅を激しく羽ばたかせ、鱗紛を舞い散らせる。
 それは風刃となり、また氷塊となり、また灼熱の炎となって、嵐のごとき勢いで六人を襲った。

「ペルソナァ!」
「私を、助けて!」
「GO!」

 迫りくる死の予感にペルソナを呼び出し、対抗する。
 しかしパンドラの苦痛と激怒を完全に防ぐ事は出来なかった。

「きゃあ!」
「園村!」
「また来るぞ!」

 続けざまに二度、三度と羽ばたきを食らい、六人は次第にその身に負う傷を増やしていった。
 パンドラはすすり泣きのような声で嗤うと、異様に長い手を振り上げた。

 マハブフダイン

 たちまち虚空から、矢尻のように鋭く尖った無数の氷塊が降り注ぐ。
 凶器を連想させる光…恐怖への条件反射から、真物は咄嗟に両腕で頭をかばった。指先まで侵す恐怖の奥底から、生温かいうねりが逆流してくる。
 記憶にこびりついた、決して拭い去る事の出来ない夜に怯える真物の中から、だからこそ太陽神アメン・ラーが覚醒する。

 アギダイン

 立ち上る灼熱が一瞬にして氷塊を消し去り、余波でもってパンドラを脅かした。

「すげえ……」

 思わずマークが漏らす。
 しかしパンドラは翅の一振りで灼熱を退けると、お返しとばかりに鱗紛の嵐を巻き起こした。
 縦横無尽に吹き荒れる魔法のつぶてに翻弄され、玲司が南条がブラウンが、ついに膝をつく。

「みんな!」

 慌ててマキは回復に向かおうとするが、それより早く、パンドラは触角をしならせ彼女の足を切り裂いた。

「!…」

 ダメージはそれほどでもないが、マキは足をもつれさせその場に倒れ込んだ。

「園村!」

 マークが叫ぶ。真物も彼女の救出に向かおうとするが、パンドラは不気味な笑い声を響かせ、再び魔法を繰り出した。

「稲葉く……ああ!」

 烈風に阻まれ近付けないマキの向こうで、マークが懸命にペルソナで対抗する。
 真物も同じくペルソナを繰り出す。
 その前にパンドラは立ちはだかった。

「そう…あなたも苦痛を知っているのね」

 パンドラの身体から滲み出る苦痛と激怒の向こうから、不吉な予感が真物の意識に流れ込む。
 パンドラが何をしようとしているのか内面の声で悟るが、それ故、真物は動けなくなった

「いいわ……あなたの一番怖いものをあげる」

 そう言ってパンドラは、真物が抱える恐怖の象徴を具現化させた。

「!…」
「だから……諦めて」

 目の前に現れた凶器に竦む真物を嗤いながら、パンドラは躊躇せず脇腹に突き刺した。

「ぐぁっ……!」

 どんという衝撃のやや後にやってきた言いようのない熱さ、刃物が自分の身体に食い込む恐怖に、真物は呻いた。

「真物君!」
「見神っ!」

 彼らの驚愕が、内面の叫びが、更に真物を苛む。
 外側の痛み、内側に噛み付く痛み、夜が蘇る痛み。
 真物はぎくしゃくと頭を動かし、自分の脇腹に刺さる凶器を見た。信じられない思いに顔が歪む。
 その瞬間パンドラはより深く苦痛と激怒を押し込み、抉るようにひねった。

「ああぁ――!」

 そして一気に引き抜き、真物の眼前に血まみれのそれを突き付けた。一拍置いて傷口からどっと鮮血が吹き出す。
 刃の先からぽたぽたと滴る自分の命が、その匂いが、真物の正気を奪い取る。

「無駄なのよ……」

 パンドラの呟きも聞こえない。
 とめどなく血が溢れる傷口を半ば無意識に押さえ、真物はぶるぶると震えながらうずくまった。もう片方の手で必死にピアスを求める。

「しっかりして真物君!」

 駆け寄ろうとするマキをその長い触角に絡め取り、パンドラは己が目の高さに持ち上げた。
 真物は引き攣る喉の奥から声を絞り出した。

「目を見るな……!」

 マキは咄嗟にぎゅっと目を瞑った。
 今にも力の萎えそうな手足を叱責し、真物は必死に立ち上がろうともがいた。気を抜けばすぐにでも倒れ、そうなればチャンスを逃す事になる。
 パンドラがマキと接触している今が、一番のチャンス。
 マキの元にたどり着き、彼女に触れる。そうすれば、デヴァシステムの力でパンドラの意識に誘導出来るはず。
 そうすれば…真っ黒なパンドラの中にマキの白を送り込む事が出来れば、園村麻希を助けられる。
 しかしその前にパンドラに取り込まれてしまったら――今にも途切れそうになる意識を奮い立たせ、真物は喘いだ。

「ああそう、あなた……」

 真物の言う事に従い、かたく目を閉じたままでいるマキに何かを察したパンドラは、少し離れた場所で無様にもがく真物をちらと見やり嗤った。

「目を開けないと、もう一度彼を刺すわよ」
「やめて!」

 恐怖に慄き、マキは泣き叫んだ。

「なら、私を見るのよ」
「……だめだ」

 真物は震える唇で言った。
 しかしマキは目を開け、苦痛と激怒渦巻くパンドラの翳を覗き込んだ。

「さようなら、お人形さん。あなたは私になるのよ。みんな、私になるのよ!」

 パンドラは耳障りな声を響かせ嗤った。
 そんな…一瞬呆けるが、真物は奥歯を噛み締め、マキの元ににじり寄った。
 その目の前で、マキの身体が解放される。

「……園村ぁ!」

 力なくその場に崩れるマキを見て、マークは信じられないと叫んだ。すぐにでも駆け寄り、助け起こしてやりたいが、立て続けに受けたダメージのせいで身体が思うように動かない。
 南条もブラウンも玲司も、みなそうだった。
 真物は震えの止まらない手を伸ばし、すぐ傍にあるマキに触れてみた。しかしその身体は既に抜けがらだった。

「……くそ」

 遅れた自分に悪態をつく。それでも諦めずに目を上げ、今度はパンドラに這いずっていく。
 駄目だと諦め落ちそうになる度、いつも引き上げてくれたマキを助ける為に、力を振り絞る。
 血の跡を残しながら近付いてくる真物を冷たく見下ろし、パンドラは憐れむように嗤った。

「無駄よ……何もかも無駄――諦めて」

 青白い足を片方持ち上げ、容赦なく真物の傷口を踏み付ける。

「――!」

 びくんと全身を硬直させ、真物は声もなく叫んだ。度を超えた激痛に目の前が白く霞む。意思と関係なく身体はしゃくり上げるように震え、もはや何一つまともに考える事が出来ない。
 血だまりの中でうずくまる自分は、何をしようとしていたのだろうか。
 前にこれを見た時は、世界に絶望した。
 ならばまた、そうするべきだろう。
 じわじわと顔の方に迫ってくる流血のその匂いに、真物は安心しきって目を閉じようとした。しかしどうしても違和感が拭えない。不機嫌そうに唸り、身悶える。
 そこでふと、青ざめた白い足を見止める。
 これだ、これで助けられる…分からないが分かって、真物は反射的にそれを掴んだ。

――やっぱり無茶してるし

 意識が途切れる寸前、誰かが呆れて言った。

 

 

 

「……ここは、どこなの?」

 おどおどと身を竦ませ、マキは辺りを見回した。
 四方八方、どこに目を凝らしても真っ黒で何も見えず、物音一つ聞こえてこない。それでいて、足元のそこここに何かが潜んでいる気配がする。
 そこではたと、パンドラの目を覗き込んだ瞬間を思い出す。たちまち身体が震え、同時に、自分がパンドラの中に飲み込まれてしまった事を理解する。
 どっと絶望が押し寄せてくる。
 するとそれを待っていたかのように、背後から何かがざわざわと伸び出し、腕に足に絡み付いた。ぶよぶよと、柔らかい感触におぞ気が走る。

「いやっ……!」

 悲鳴を上げ、マキは振り払おうと必死に身じろいだ。しかし絡み付いた触手らしきそれらは凄まじい力でマキを手繰り寄せると、自分らの中に取り込もうとした。
 背中に不気味な蠢きを感じ、そのおぞましさにマキは我を忘れて暴れた。その間も身体は徐々に埋まっていく。

「やめて、いや――いやよ!」

 肘を突っ張り、足を踏ん張る。誰かを思って、虚しく手を伸ばす。
 その手を掴む者があった。

「!…」

 掴んだ誰かは、力強くマキを引っ張り出すと、絡み付く触手を残らず手にした凶器で切り裂いた。
 いくら今は遠くたって、自分はここから生まれたようなもの…誰かが自嘲気味に笑う。
 マキは、正面にある救い主の顔に泣きそうに笑った。こんなところまで助けに来てくれたのかと、涙が零れそうになる。

「真物君、ありが――」

 言いかけてはっとなる。彼の左耳にあるはずのピアスが、その人物にはないのだ。
 途端に背筋が冷たくなる。

「……あなた、真物君じゃない」

 パンドラの幻惑かと、マキは手を振り払い鋭く睨み付けた。
 敵意をむき出しにするマキに軽く肩を竦める。

「うん、まあ……真物じゃないけど、俺も真物だぜ」
「!…もしかして、前に真物君が言ってた…一番の、味方……?」
「ああ。パンドラのところへ案内する為に来た」

 おっかなびっくり問いかけるマキに頷き、真生は凶器を握り直した。

「と言っても途中までだけどな。ゆっくり喋ってる間に、またあいつらに取り込まれる。行くぞ!」

 ざわざわと寄ってくる触手をなぎ払い、戸惑うマキの手を掴んで走り出す。

「ねえ……真物君は大丈夫なの?」

 走りながらマキは問いかけた。あれだけの血を流して無事なのだろうかと、無事であってほしいと、不安を抑えて祈る。

「大丈夫だから俺がここに来たんだ」

 マキの恐怖や絶望に反応して、触手が調子づく。
 伸びてくるそれらがマキの身体に達する前に切り落とし、真生は大丈夫だと重ねた。それは『嘘』だが、今はマキの気持ちを落ち着かせるのが先決だ。

「……良かった」

 マキの安堵が伝わったのか、触手の動きが鈍る。
 そこから少し走ったところで足を止め、真生は後続のマキを振り返った。

「この先だ。何があっても、気にせずまっすぐ進め。そうすりゃパンドラのいるところにつく」
「……まっすぐ?」

 そう言われても、真っ暗で何も見えない。真生の指差す先に首を傾げ、マキは目を戻した。

「お前がまっすぐだと思えば、そうなる。強く思い浮かべるんだ。全部それにかかってる」

 ここはそういう場所だと、真生は言った。

「分かった」

 自分の意志にかかっていると言われ、マキは心に刻むように力強く頷いた。

「パンドラに会ったら、お前が今まで見てきた物、聞いてきた物、感じた事全てを、全力で叩き付けてやれ。それが、園村麻希を助ける唯一の方法だ…てのが、真物からの伝言」
「真物君の? 分かった」
「あとは、今までゴメンて言や、丸く収まるよ」
「……うん、絶対言うつもり。パンドラだけにこんな物を押し付けてきたなんて…ひどすぎるもんね」

 わずかに目を伏せ、マキは強い顔で唇を引き結んだ。

「本当のわたしに戻ったら、もう絶対、こんな風にしない。誰か一人に苦痛を押し付けて、忘れたりなんかしない。苦しい事も楽しい事も、わたしは……」

 そこで唐突にマキは顔を上げた。

「そう言えば私、さっき助けてもらったお礼ちゃんと言ってなかった、ごめんね、ありがとう!」

 目まぐるしく表情を変えるマキに少し呆れた顔で肩を竦め、真生はもう一度進む先を指差した。

「よし、じゃいいな、ここをまっすぐだぞ」
「分かった、ありがとう。でも、あの……えーと、まことくん、は?」

 何と呼べばいいのかと、戸惑いがちにマキは名を呼んだ。

「俺は戻んないと」
「あそっか」

 当然の事かと、マキは苦笑いを浮かべた。

「本当にありがとう。真物君によろしくね。気を付けてね!」

 マキは心から感謝して真生の手を取ると、思いの丈を込めてぎゅっと握りしめた。そしてすぐに踵を返し、走り出す。

「お前の方が気を付けろ…危なっかしい」

 何もない道をまっすぐ走ってゆくマキの背にそう呟く真生の顔は、満更でもないと語っていた。

 こりゃ真物がたぶらかされるのも無理ねぇか

 マキが握った手を見下ろし、真生は込み上げるおかしさにふと笑った。
 直後、凄まじい重圧に襲われる。
 しまったと思った時には既に遅かった。異物と判断された真生は、パンドラの意識から弾き出されていた。
 何もない真っ白な空間をどこまでも落下してゆく。

「……くそ!」

 生じる焦りを何とか飲み込み、真物の中に戻る方法を模索する。
 自分にはテレパスの力はない。当然デヴァシステムの力を借りる事も出来ない。
 真物が命がけでパンドラに接触してくれたお陰で、入り込む事が出来ただけのこと。
 馴染みのある奈落の底なら、真物よりも自分の方が適任だと思ったのだ。

 カッコつけといて、このザマかよ

 自分に悪態をつく。
 真物が望むとおりマキを無事に送る事は出来たが、自分が帰れないのでは意味がない。焦りが募る。
 やがて辺りの様子が一変する。
 気付けば、どこでもない場所に迷い込んでいた。
 そこは、薄墨を流したようなほのかな明るさに包まれていた。
 このまま、永劫に漂うのだろうか。
 ぞっとする考えが過ぎる。
 それも仕方ないのかと、他の人格を殺した罰が当たったのだと、いくらかやけ気味に笑う。

「そんな事ないわ。みんなも待っている」

 唐突に声が聞こえた。

「手を伸ばして。こっちよ」

 声のする方へ真生は素直に手を伸ばした。掴んでくれたのは、「彼女」だった。
 真生は大きく目を見開いた。

「……まさかお前が、助けに来るなんて」

 心底驚いた顔の真生に微笑みかける。

「私はずっと、見神真物を見守ってきた。もちろん、あなたの事も。あなたも大事な見神真物の一人。無事で良かった」
「へえ……お前にしちゃ、珍しい事言うのな」

 小馬鹿にした物言いをしながらも、真生はどこか強張った顔をしていた。

「さあ、戻りましょう。もうすぐマキも、その時を迎える」

 真生は安堵し二度三度頷いた。

「そんで」

 先導する「彼女」に口を開く。

「俺は少しは、役に立ったのかね」
「ええ、とても。ありがとう」

 にこりと笑いかける「彼女」に目を閉じ、真生はやれやれとため息をついた。その唇には、かすかに笑みが浮かんでいた。

「けれどもし、この先また見神真物が迷い、悩み、苦しむ時…どうか名前を呼んであげてほしい」
「ああ……力になってやるよ」

 自分はその為に在るのだ。
 少しして、真生は静かに言った。

「ありがとう」

 それが自分に向けられたものだと気付き、「彼女」は目を丸くした。

「こちらこそ」

 穏やかに微笑む。

 

 

 

「何もかも無駄なのよ……」

 パンドラは、血を流し倒れ伏す六人を見回し低く呟いた。
 しかしまだ、彼らは死んではいなかった。
 意志を失ってはいなかった。
 回復を与え、力を分け合い、立ち上がろうとする。

「お願い…諦めて……」

 パンドラは慄いたように顔を引き攣らせた。
 しかし誰も聞き入れない。
 マークは玲司の肩を借りて二人の元にたどり着くと、パンドラから護るように盾になった。

「大将、大将! まだ死んでないよ、まだ大丈夫、今回復出すから!」

 真物の元にたどりついたブラウンは、必死にその身を揺すり呼びかけた。

 ブフダイン

 パンドラは両手を突き出し、死に損ないどもを追い払おうとした。その顔にはくっきりと怯えが浮かんでいた。

「くそ! ジーザス!」
「……チッ!」

 マークと玲司は残り少ない気力を振り絞ってペルソナに呼びかけるが、半分を撒き散らすのが精一杯だった。

「うわわっ……!」

 降り注ぐ氷塊から真物をかばって、ブラウンは覆い被さった。
 しかし衝撃は微塵もやってこなかった。
 何故なら、そこに南条の姿があるからだ。南条のペルソナが、守りの防壁を築いてくれたからだ。
 南条の背後に覚醒した、彼の絶対の守護者に、ブラウンはほっと肩を落とした。
 べっ甲縁の眼鏡越しに、いつも年若い主人を見守り導いてきたその人は、命を失って尚主人を守る為に力となる。

「諦めて――!」

 陰鬱な巣の中一杯に、パンドラの悲鳴が響き渡る。

「いや……諦めない……」

 半ば生気を失った目で、真物は呟いた。

「いやよ、諦めないわ!」

 パンドラの身の内で、マキが思いを叩き付ける。

「ぜってー諦めるもんかよ!」

 パンドラを見上げて、マークは腹の底から叫んだ。

「なぜ……」

 呟きと同時にパンドラはぴたりと動きを止めた。
 今が倒す絶好のチャンスかと、注意深く見守る彼らの前で、ほんの小さな異変が起こる。
 パンドラのまつ毛に涙が盛り上がる。しかし初めは誰もそれに気付かなかった。
 ついに溢れて頬を伝い、足元に滴り落ちてようやく、四人は異変に気付いた。
 滴り落ちた一滴の涙から、強烈な光が放たれる。光はまっすぐ天に昇り、そして降り注いだ。
 何もかもを真っ白に染める眩さに、誰もが目を閉じた。
 白光は傷付いた者たち全てを癒すと、静かに消えていった。
 半ば覚醒した真物の意識の底で、「彼女」は静かに言った。

『もう大丈夫』

 その声に促され、真物はゆっくり目を開けた。苦痛も激怒も嘘のように身体から消え去り、思うように動かす事が出来た。凶器を突き立てられた部分に恐る恐る触れ、何の痕跡も残ってない事に心底安堵する。
 目覚める少し前、帰り道が分からなくなり迷っているマキを、連れて帰る夢を見た。
 すぐにそれが夢でない事に気付く。
 ほぼ同時に目覚めたマキの内面の声が、それは事実だと言っていた。

「大丈夫か、園村」
「……あ…稲葉君」
「気分はどうだ、見神」
「もうなんともないよ」
「うわー、マキちゃん、大将、良かったあ!」

 身体を起こすや、おいおい泣きながら抱き付いてきたブラウンに面食らう。接触した事で彼の内面の声がどっと意識に流れ込み、さすがに痛みが伴うが、鈍痛を堪えてありがとうと告げる。
 生きてて良かった、と、心から安堵する声が純粋に嬉しい。

(そうだ、パンドラ……)

 真物ははっとなりマキを見やった。彼女も同時に思ったらしく、一緒に振り返る。
 そこに、ぽろぽろと涙を零し心細そうに立ち尽くすパンドラの姿があった。
 マキは立ち上がるやすぐさま駆け寄り、パンドラの両手を取った。

「あ、園村……」

 思いがけない行動にマークは肝を冷やすが、パンドラは攻撃を仕掛ける素振りを見せなかった。

「……ありがとう」

 マキがそう告げると、パンドラは頷き、同じくありがとうと言った。そして片方ずつ膝をついて座り、小さい子供がするようにマキの首にしがみついた。

「一緒に、頑張ろう」

 マキもしっかりと抱き返した。
 真物は立ち上がり、二人の姿に自分と真生を重ね見つめた。そして、自分に代わってマキを助けてくれた一番の味方に、何度も感謝の言葉を贈る。

『誰かがあなたを助けてくれるから、あなたも誰かを助ける事が出来る』

 静かに響く「彼女」の声。真物はしっかり胸に受け止め、頷いた。
 パンドラの中からはもう、陰鬱な黒は感じられなかった。代わりに、眩しささえ感じる、強いエネルギーが渦巻いていた。
 そのパンドラの身体が、マキの腕の中で次第に薄れ消えていく。
 そして完全に、マキと融合を果たす。
 見届けた後、南条は口を開いた。

「終わったな」
「……ああ」

 マークが感慨をもって応えた時、巣に異変が生じた。床や壁のそこここが、ぼろぼろと崩れ始めたのだ。

「な、なになに? なに?」

 ブラウンはおろおろと辺りを見回した。

「恐らく、主がいなくなった事でここが……」
「崩れるのか!」
 察して、マークは叫んだ。
「走れてめぇら! 死ぬぜ?」

 玲司は言って、ブラウンの南条の肩を押して促した。
 真物は咄嗟にマキの手を掴み、走り出した。
 六人は緩やかな上り坂を、出口目指してひたすら走り続けた。
 しばらくして、巣のあった場所が完全に崩れる。続けて坂道にも崩落は広がっていった。追い付かれぬよう、六人は全力で走る。
 やがて行く先に白い点のような出口が見えた。

「頑張れみんな! もう少しだ!」

 上がる息を飲み込んで、マークは鼓舞した。
 真物の手を通して、マキの苦しがる声が聞こえてきた。もう走れそうにないと。そして、置いていって構わないと言ってしまおうか…そんな弱気な考えまで聞こえてきた。
 真物は励ましを込めて強く握りしめた。
 するとマキも応えて強く握ってきた、
 体力に自信がある方ではないが、自分を頼りにする誰かの気持ちを糧に真物は最後まで手を引き走り続けた。
 展覧室に駆け込み、勢い余って床に倒れ込んだ少し後、穴の向こうでがらがらと全てが崩れ去る音がした。

「ふぅー、ギリギリセーフ……」

 ブラウンは床にへたり込み、安堵のため息を吐いた。

「麻希!」
「みんな!」
「千里、内藤君……」

 マキは立ち上がって息を整えると、二人をしみじみと見つめた。

「良かったあ、無事だった……」

 泣き笑いでしがみついてくる千里に笑いかける。

「ありがと…千里」
「本当に無事で良かったよ。ただ、街が、消えてしまって……」

 何も無くなった窓の外を指し、陽介は戸惑いの声を上げた。

「……うん。もう、この世界は必要ないから。本当の私が必要とするものは、ここじゃないから」
 それが分かったから

 マキは友人たちを見回し、そう告げた。

「ここももうすぐ消える。その前に、皆を現実の世界に帰すわ」

 帰れる事に一旦は安堵するが、皆と帰るではなく、皆を帰すという言い回しに不安を覚え、みな顔を強張らせた。
 真物を除いて。

「みんな、本当にありがとう!」

 底抜けに明るい声を上げるマキを、真物はじっと見守った。

「これでお別れだけど――わたし、絶対にみんなの事、忘れない」

 心に刻むように、マキが言う。

「おい園村、お別れって――」

 どういう事だと一歩踏み出すマークの姿が、ふっとかき消える。

「マキちゃ……」

 戸惑うブラウンの姿が、何か言いたげな玲司が南条が、そして心友の千里と、マキがかつて密かに憧れていた人の姿が、その場から消え去る。
 寂しくて、泣きたい…それらをぐっとこらえるマキの背中を真物は静かに見つめていた。
 マキは気持ちが落ち着くまで、背中を向けていた。
 寂しくはないのだ。だから泣く必要もない。
 何故なら。

「ねえ真物君」

 振り返った時、マキの顔にはいつもの明るさがあった。

「前に真物君、読めないけど分かるって、言ったよね」

 真物は小さく頷いた。

「じゃあ、今、わたしが……」

 途端に強張った瞳になり、マキは恐る恐る尋ねた。

「……うん。会えるよ、いつでも」

 真物は答えた。マキの内面で繰り返される声にしっかりと頷いた。
 手を引かれ坂道を走っていた時、マキは、パンドラの意識の中で真生に手を引かれ走ったのを思い出していた。今、自分の手を握っているのは真物だが、あの時の彼も、この真物も、同じ手をしていると、嬉しく思い出していた。
 ならば自分も、一つになっても、そんな風に会えるはず。
 だから寂しくはないのだ。泣く必要もない。

『いつでも、会えるよね』

 心の中で祈り願うマキの声に、真物は頷いて答えた。
 マキは安心しきった顔で穏やかに微笑むと、真物に身を寄せた。
 頬に触れた柔らかな唇から、たくさんの感謝が流れ込んでくる。
 真物は軽く目を閉じてマキの内面の声を受け取った。
 次に目を開けた時そこは、薄墨を流したようなほのかな明かりに包まれていた。

 

 

 

 白い仮面の片側に、聖とも邪ともつかぬ奇妙な模様が描かれている。
 その仮面を身につけ、静かにたたずむフィレモンと向かい合い、真物はじっと視線を注いだ。

「君は、自分が誰であるか、名乗りを上げる事が出来るかね?」

 やや置いてフィレモンの口から、一度目の邂逅と同じ質問が繰り返される。
 ほんのわずかも違和感を抱く事無く、真物は答えた。
 頷くフィレモン。

「それがあなたの、これからを照らす光となるわ」

 聞き覚えのある声がした。
 やっぱり…真物は思った。
 フィレモンは顔を俯けると、己が仮面を外し胸に携えた。
 そこには、「彼女」がいた。
 自分よりやや年下の、髪の長い少女。
 父が、初めて母に会った時の、ひと目惚れした時の姿。
 憎み、恨んだ母の若い頃の姿。
 受け止めきれない現実から逃避して尚、自分はその姿の自分を心のよりどころにした。
 「彼女」に殺意の衝動を抱いたのは、保護者役の人格にその姿を投影した自分が認められなかったからだ。認められないから、理由をすぐに自分の無意識の奥底に押しやった。押しやって、無理やりに忘れた。
 だからずっと、「彼女」に対してもやもやとした気持ちを抱いていたのだ。
 真物はしばしその姿を見つめた後、静かに、心を込めて言った。

 ありがとう、と。

「こちらこそ、ありがとう」

 穏やかに微笑む「彼女」に、真物は少し戸惑う。
 そんな真物に「彼女」はますます笑みを深めた。

「あなたは、望まぬ能力のせいで、長く苦しめられてきた。それはこれからも続くでしょう…けれどあなたは、その力と共に歩く事を決意した。人の心が悪意だけではない事を知り、自分の心を知り――ついにここにたどり着いた」

 真物は首を振った。ここまで来られたのは心友がいたからだ。仲間が、マキがいたからだ。
 一番の味方の真生や、力をくれた人格の一人ひとりを思い出す。
 そして何よりも。

「ここまでこられたのは、全部……」

 その先は胸が詰まって言葉にならなかった。
 「彼女」は左手を差し伸べ、真物に頷きかけた。
 真物はおずおずと踏み出し、ためらいがちにその手を取った。
 「彼女」はぐっと力強く握りしめると、引き寄せて言った。

「よく、ここまで頑張ったわね……真物」

 おぼろげながらも記憶にあるままの母の声で名を呼ばれ、こらえきれず真物は一粒涙を零した。心に湧いたのは殺意の衝動ではなく、深い愛慕だった。

「あなたを見守る事が出来て、本当に良かった。ありがとう、見神真物」

 笑いかける「彼女」に何とか笑顔を返し、真物は頷いた。

「さあ、もう行きなさい。私はいつでも、あなたを見守っているわ」

 仮面を持つ手で行く先を示し、「彼女」は微笑んだ。
 真物は指差す方に顔を上げ、眩く輝く向こうへ飛び込んだ。

 

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