GUESS 青 13
あなたのシンイに従いなさい
ほとんど何もない、白い四角い部屋に、園村麻希はいた。 一人はベッドに横たわっている。 一人はそんな自分を驚愕の眼差しで見つめ…… 一人は怒りを露に泣き叫んでいる。 三人の麻希を前に、誰も何も言えずただ呆然と、非現実的な現実を見ていた。 真物は瞬きも忘れて立ち尽くし、目の前にいる園村麻希のその悲惨な有り様を見ていた。 神取の死に嘆いて上げた、意識を押し潰すほどの叫びはもう、聞こえない。 彼女は今、間違った方法に没頭した果てに、どこでもない場所に向かおうとしていた。 かつて自分…見神真物が逃げた先。 どこでもない、何もない、誰の声も届かない無意識の奥底へ、麻希がとぼとぼと向かう。 そっちへ行ってはいけないとどんなに思っても、引き止める事は出来ない。 自分にそんな力はない。 自分はただ、他人の内面の声が聞けるだけ、思考の断片を聞き取る事が出来るだけ。 聞いて、見る事が出来るだけだ。 あきの内面は、もはや聞き取れないほどに凄まじい怒りで荒れ狂っていた。 マキの混乱もまた同じだった。迂闊に飛び込めば、渦に飲み込まれて消されてしまうだろう。真物は辛うじて聞き取れるだけに留め、マキを見守った。 ふらふらと【自分】に歩み寄るマキに合わせ、真物も手を掴んだまま近付く。 「そんな……そんな――」 マキは喉の奥から辛うじて声を絞り出した。 『どうしてパパを殺したんだ!』『どうして!』『なんて事をするのよ!』『本当の私が拠り所にしていた人を……』『どうして!』 「パパ……パパ……!」 混沌の鏡の前にしゃがみ込み、あきはわんわんと泣き続けた。心の中はマキに対する怒りで溢れ返り、真っ赤に燃えていた。その一方で喪失感に嘆き悲しみ、心まで凍て付く吹雪を舞い散らせてもいた。 聞こえぬぎりぎりまで力を加減しているのに、その激しさはじりじりと魂を炙った。痛みをこらえて、真物は隣に立つマキの様子を見守った。 「みんなを苦しめたの…私だったんだ……」 そして殺そうとしたのも…… ついに辿り付いた真実が未だ受け入れ難いのか、マキはぼんやりと呟いた。 真物は握る手に力を込めた。確かにそうだ、でもそれは違う、違うんだ。 絶望に張り叫び、あきは泣きじゃくった。 「もう誰も…誰も私たちを救ってくれない……もうおしまいよ!」 ベッドに横たわる園村麻希の代弁者である、あきがあげる声を、真物は心の中で何度も否定した。精一杯否定して、仲間たちを見やる。 マキに集中するあまり、その中の一人が冥く淀んだ目をしているのに気付かなかった。 「マキちゃんが三人……」 『まじかよ』『うそみてえ』『でもマキちゃんだ……』 呆けたような上杉の呟きが聞こえてくる。 直後マークが声を上げた。 「園村!」 「!…いや……私を見ないで!」 今にも近付いてくるマークにびくりと肩を震わせ、マキは必死で顔を背けた。 「真物君……離して」 それでも手を離さぬ真物に、マキは弱々しく言った。 真物は無言で首を振った。マキの内面の声は、今すぐにも遠くに離れたがっていた。それは切り裂く刃となって真物を傷付けたが、その一方で離れ難い思いも抱いていた。それは癒すあたたかさとなって、真物を勇気づけた。 「落ち付けよ園村、こりゃあれだ…そう、何かの間違いだって!」 拒絶に少し心を痛めながらも、マークは宥めようと必死に言葉を重ねた。 マキは俯き、何度も首を振った。 「私なの…これは私…分かる……分かった」 街をおかしくしたのも、みんなを苦しめたのも、全て【自分】がやった事だったのだ。 ついに真実を受け入れ、途端にマキの心がすっと冷えていく。 あれほど明るく、いつの時も弾んでいた内面の風景がたちまち暗くなっていく事に不安を抱きながらも、真物はしっかりと手を掴んでいた。 「そんなもん、あいつに利用されてただけだろうが!」 だから悔やむ必要などないと、玲司は声を上げた。 「そうだよ、マキちゃんはぜんぜん悪くなんかないよ。だから早くこっち来なよ、な?」 上杉は努めて明るく言うと、手招きした。 マキはゆっくりとそちらに顔を向けると、悔しそうに顔を歪めた。 「違うの…分かったの…お願い――私に…優しくしないで!」 叫んだはずみに涙がぼろぼろと零れた。 片手で顔を隠して、マキは続けた。 「全部分かった。私…わたし……皆を妬んでた……」 かつて迷いの森で、まいから読み取った園村麻希の光景が、再び真物の中に広がる。 四角く仕切られた白く狭い部屋の中で一人、横たわってじっと天井を見つめる毎日。絶えず苦しくて、絶えず怒りが渦巻いて、どうして私ばかりと妬み、どうして私だけと恨む。 学校も街も、無くなればいい。 こんなひどい現実なんて、みんな消えちゃえばいい。 そうだ、楽園の扉に縋ろう。 扉を開けて、向こうの世界に行こう―― 「私がどんな人間か、分かったでしょ……」 虚ろな声でマキは笑う。 マキの内面はますます暗く、寒く陥っていく。不安が一層深まる。 「私なんて、生きてる資格ないのよ!」 「そう……もう何もかもお終いよ! みんな、みんな消えちゃえ!」 終わりの呪文を唱え、あきは姿を消した。 かき消えたあきと入れ替わりに、真物の思考を誰かの激しい苦痛と怒りが襲った。それは言葉にすれば身を切るような『寒さ』で、たまらずに身を竦ませる。 すぐさま「彼女」がはねのけ、真生が護りの盾となる。 二つの感情は名前を持っていた。 以前迷いの森で、まいから読み取った園村麻希の一人、本物の麻希の抱える苦痛の全てを吸い取って、彼女のずっと下の方に沈んでいったそれ…パンドラ。 園村麻希にとっての迫害者。 『苦痛のパンドラを、あきが、自身の激怒を開封の鍵に目覚めさせたんだわ』 二つの感情から読み取った驚愕に「彼女」は眉をひそめた。 強烈な思考の断片は、デヴァシステムの力によって増幅され、真物から他の四人へと放たれた。 南条がマークが上杉が玲司が、パンドラの禍々しいイメージを目にする。 しばし口を噤んだ後、マキは言った。 「真物君……離して」 思考のうねりはどす黒い奔流となりマキを飲み込んでいた。ねじ切れそうな痛みが容赦なく襲う。立っているのがやっとの真物は、それでも手を離さなかった。 自分はこんなものを聞いて、見る事が出来るだけ。人より少し真実に近いだけ。 ――だけどお前は だから自分は…助けたい。 奥底からの真生にそう応え、真物は隣に立つマキに意識を集中させた。 「離して……私は――もういい」 ごめんね 何もかもを遮断し、自分の心を死なせる言葉をマキが吐く。それが母を思い出させ、恐怖から真物は全身から力が抜けるのを感じた。 はっと気付いて握るも、それより早くマキは手を振りほどき、混沌の鏡を通って虚構の町へと逃げていった。 「園村!」 マキを飲み込み、鏡はまた元の誰も映さない混沌に戻った。 「くそ、くそ……ばかやろう!」 『どうして…園村……』『どうしてなんだよ!』 マークは鏡を叩き、悔しさ渦巻く胸から何度も「どうして」と吐き出した。 苦しげに絞り出されるマークの言葉を、自分を責める言葉として聞き、真物は、棒立ちのまま横たわる園村麻希を見つめていた。 たった今まで彼女を掴んでいた手が、ぶるぶると震える。 神取の手は掴み損なったけど、だから、マキは絶対に手放すまいと思ったのに。 お母さんを助けられなかった。 お父さん…神取も駄目だった。 そしてマキも……駄目なのか。 自分は結局駄目なのか。 何が助けたいだ。 自分は誰も助けられない。 自分には何も出来ない。 結局誰も助けられない。 ――そんな事あるかよ。よく見ろ真物、探すんだ! 目を開けて見ろと、真生の手が肩を揺する。 悔やむ眼差しは落ちたまま、まだ上がらない。 どんな時もまっすぐ前を向くマキがいないからだ。 暗い場所に落ちかけた時、いつも彼女は自分を引き上げてくれた。 そこが自分は―― ――だったら、今度はお前が引き上げてやれよ! 真生の言葉に小さく息を飲む。 ――あいつの祈りに、探すって応えただろ 真物は目を上げる。そうだと拳を握る。まだかすかに残っている彼女のぬくもりを、そこに握りしめる。 マークはうなだれていた顔を上げると、振り向きざま言った。 「追いかけようぜ!」 園村の心の中に戻るんだ! 「……待て、稲葉」 今にも駆け出そうとするマークの邪魔を引き止め、南城が冥い目で進み出る。 彼が何を言わんとしているか、振り返らずとも読み取った真物は、横たわる麻希の足元に浮かび上がるデヴァシステムのホログラムを見やった。 今の彼女の命を握る物。 目はそちらを見たまま、意識を南条に向ける。 彼は…南条は、園村麻希を殺してしまおうと思っていた。 全ての元凶であるデヴァシステムを破壊する為と大義名分を振りかざし、体よく麻希を殺してしまおうと。町を、世界を元に戻す為なのだから仕方ない、その為に多少の犠牲は仕方ない…そんな上手い言い訳で包んで、奪われた自分の半身、その復讐を果たそうとしていた。 「とにかく、システムの破壊が先決だ」 当然園村麻希は死ぬだろうが…それも仕方のないこと。 事も無げに言い放つ。 「な…何言ってんだてめぇ! それでもダチか!」 淡々と語る南条に目を見張り、マークは激しく吠えた。 まるで意に介さず、南条は言う。 「個人的感情を優先するな。小を殺して大を生かす」 当然の選択だ 誰より個人的感情を優先している自分から目を逸らし、南条は冥い眼差しで言った。 「!…歯ぁ食いしばれ!」 マークは拳を握りしめた。 冷たい刃で心を切り裂かれたマークが思い浮かべたのは、南条への怒りではなく、麻希への深い思慕だった。彼はいつの時も、園村麻紀への溢れんばかりの想いを大切に行動してきた。信頼し、崇拝し、無償の愛を注いできた。 揺るぎない強い思いが南条を打つ。 「オマエの言う事は正しいかもしれねぇ……大人の理屈だ――けどよ!」 マークは叫んだ。 町を壊そうとしたのが園村麻希なら、町を元に戻そうとしたのも園村麻希だ。彼女は今迷っているんだ。同じ痛みを分かち合ってきた自分たち以外に、誰が彼女の心を救ってやれるのか。 「オレは園村の心を信じる! 必ず、あの機械と手を切るってな!」 うっすら浮かび上がるデヴァシステムのホログラムを指し、マークはただ心から叫んだ。 「良いコト言うねえ、さすがマー君。及ばずながらオレ様も力になるぜ」 『麻希が自分を超えたいと思ってるなら……』『力になりたい』『誰かの助けになりたい』 上杉は強い思いを胸に進み出て、マークの横に並んだ。 「俺も行くぜ。借りはきっちり返さねえと、気が済まねぇ性分なんだ」 玲司も同じく並ぶ。 真物は、ポケットにしまったままだったべっ甲縁の眼鏡を取り出すと、南条に歩み寄った。跪いて目線を合わせ、彼に差し出す。 「ずっと返しそびれててごめん」 思い出すきっかけになってほしいと、願いを込めて差し出す。 その途端、南条の目に浮かんでいた冥い色が大きく揺らいだ。 手にした眼鏡からは、絶えず穏やかで暖かな風景が色鮮やかに流れ込んでくる。これをどうか受け取ってほしいと、取り戻してほしいと、真物は願いを込める。 「………」 ややおいて南条は眼鏡を受け取った。 手から離れると、優しい風景は徐々に薄れ消えていった。代わりに南条の中から、同じ美しい景色が『思い出』が、とめどなく溢れてきた。 鮮やかに咲き乱れ煌めく様々な時に安堵し、真物は立ち上がった。そして上杉や玲司と共にマークと並ぶ。 南条はじっと眼鏡に視線を注いだ。 『ああ……そうだ』『いつも山岡は言っていた』『俺の心を信じると』『山岡……俺は』『ボクは――』 間違っていた自分を恥じて、南条は心の中で詫びる。そんな彼を、常に見守り導いてきた彼は優しく許した。そして称えた。 それでこそ、南条圭です、と。 「……俺も行こう」 南条は立ち上がった。 「あんだよ……利口な大人は残るんじゃねぇのか?」 ぶっきらぼうに突き離す口調で、しかしどこか嬉しげにマークは言った。 「生憎、俺は十七歳だ。法律上、まだ大人とは認めてもらえなくてな」 「へっ、口の減らねーヤツ!」 南条らしい屁理屈にとても嬉しげにマークは言った。 「では急ごうか。デヴァシステムで園村の心の中へ戻るぞ」 「よっしゃ!」 上杉が明るい声で拳を振り上げ応える。 ――無駄よ 直後、息も止まる苦痛と激怒『パンドラ』が再び真物を襲った。 「おい、鏡が……!」 異変に気付いてマークが叫ぶ。 真物一人、違う光景を見る。 異形の化け物…パンドラを見る。 デヴァシステムのコアを飲み込み、何もかも無駄と低く嗤って、消えていくパンドラを見る。 同時に、背後で混沌の鏡が砕け散った。 「……マジかよ」 粉々になって散らばった鏡の破片を呆然と見つめ、マークは落胆の声を上げた。 混沌の鏡のなれの果てに眼を眇める南条。 「……園村が拒んでいるのか?」 『そんなはずは……!』『しかし……そうとしか思えん』 そんなはずがない。 落ちかける目線を引き止め、真物は探した。彼女を、マキを引き上げる為の鍵を探して目を凝らす。 「!…」 すると、何故それまで気付かなかったのか、混沌の鏡の傍にマキのコンパクトが落ちているのを見付ける。 淡い虹色の光沢を放つ、鏡のないコンパクト。それでも充分だ。仲間を、自分自身を完全に切り捨てた訳ではないのなら、心残りがこうしてあるのなら、充分だ。 『そう。探して、見付けてあげて』 祈るような「彼女」の言葉に小さくしかし力強く頷く。 「シン、何か見付けたのか?」 弾むマークの声に、コンパクトを差し出す。 それを見てマークはぱっと顔を輝かすが、すぐに思い出して暗く沈む。彼女が持っているコンパクトには鏡がなく、まいやあきが持っていたもののように力はないのだ。 「こんなもんだけ…残ったって……」 囁くようにマークは言った。 「おい、見てみろ」 「本物のマキちゃんもコンパクト持ってるぜ!」 ベッドサイドで、玲司と上杉が手招きする。横たわる麻希の胸元に淡い緑の光沢を放つコンパクトがあった。 南条は二つを手に持ち、見比べた。 「ふむ…理想の園村のコンパクトと、現実の園村のコンパクト。本物には、鏡がはまっているが――」 「なに、貸せ!」 鏡と聞くや、稲葉はひったくるようにコンパクトを手に取った。 「無駄だ」 マークの考えを先読みして、南条は制した。 「現実のコンパクトには……そんな力はない」 「けどよ……」 マークにも、それは分かっていた。悔しそうにコンパクトを見つめる。 マークは二つを真物に手渡すと、力なくうなだれた。それから麻希のベッドのそばに歩み寄り、じっと彼女を見つめた。 「なあ――麻希……」 神聖なものを口にする厳かな表情で、マークはひっそりと名を呼んだ。 呼んでくれよ、麻希。オレ達は必要じゃないのか? 呼んでくれればどこへだって飛んでいく。頼む、呼んでくれ。 マークは心の中で何度も何度も祈りを繰り返した。 その横に上杉はしずしずと歩み寄ると、白く固い殻でおおわれた麻希の顔を見下ろし場違いなほど明るい声で「ねえ麻希ちゃん!」と呼びかけた。 「起きてよぉ麻希ちゃん! 起きてくれたら、ブラウン様とっときの笑い話、聞かしちゃうよぉ? もうね、腹がよじれる事間違いなし!」 そして、一変して抑えた声で淡々と話し始めた。 自分のあだ名の由来、中学時代の忌まわしい出来事。ブラウンはそれらを包み隠さず打ち明けた。 「な? 笑っちゃうだろぉ? だからさあ……」 『起きてくれよ』『あの時もあの時も……』『いつも俺にいっぱい力くれてありがとって、言いたいんだよ』 麻希に感謝の思いが伝わるよう、ブラウンは心の中で必死に呼びかけた。 悔しそうに麻希を見つめるマークとブラウン同様、玲司もまたきつく眉根を寄せ横たわる麻希を見ていた。 「逃げるんじゃねぇよ園村……逃げるのは簡単なんだよ。でもな……」 玲司は、自分の母親を思い浮かべた。苦い思いが胸に去来する。自分の母親は、神取の妾であった。捨てられるのが分かっていながら、母は自分を産んだ。 『何故か分かるか?』『親にとって、子供は宝なんだ』『子供を憎く思う親なんていやしねぇ…お前は充分愛されてるよ』『お前だって分かってるはずだ、ちょっとした勘違いだったんだよ』 次々と意識の中に響いてくる彼らの懸命の呼びかけを聞きながら、真物もまた麻希に心を注いだ。 麻希の内面に手を伸ばすように、白く固い殻で覆われた頬を両手で包み込む。しかしデヴァシステムの力で遮断…拒絶しているのか、それでも何一つ読み取る事は出来なかった。 奥歯を噛み締める。 この扉の向こうには誰も来るなと、ただそれだけが感じられ、真物は胸のつまる思いだった。 かつての自分と同じ。 けれど自分たちの手には、二つのコンパクトが残された。鍵を開ける為の最後の一つも、見付けた。 (すぐに行くから) 心の中で呼びかけ、真物は踵を返した。 視線の先には、真物にだけ見える思考の断片が揺らめいていた。部屋の隅にひっそりと立ち、悲痛な眼差しでこちらを見ている。理想の園村麻希が揺らいだせいか、パンドラが浮上したせいか、今にも消えそうだ。 声も聞き取りにくい。 真物は傍に歩み寄り、思考の断片…まいと目線を合わせた。 ごめんなさ…でももう…お兄ちゃんたちしか頼れ…… 「大丈夫。すぐに行くから」 頼りにされる喜びに心からの笑みで応え、真物は、まいが指差す混沌の鏡のかけらを拾った。 「なんか見付けたのか、見神」 玲司が気付いて声をかける。 「これで、向こうへ行ける」 真物は頷いて立ち上がると、まるではかったように丸い破片をコンパクトにはめた。 「ホントかシン!」 マークは慌てて駆け寄ると、真物の手にあるコンパクトに大きく目を見開いて歓喜した。 「でかした見神」 「やったあ、待ってろよマキちゃん!」 ――さあとっとと行って、みんなでマキを引き上げてやろうぜ 真生の励ましを背に、真物は全力を傾けた。 一時的に別れてしまった六人がもう一度力を合わせる為に、コンパクトに願いを込める。 まいは、遠く離れたお菓子の家で、組み合わせた両手を胸に押し当て呪文を唱えた。 真物も同じ姿勢になると、完全に重なるよう意識を集中させ、祈った。ぼんやりと白い靄が晴れ、その向こうに徐々に見えてくる。お菓子の家のその中、部屋の中央に立ち、一心に呪文を唱える小さな麻希が見えてくる。 マキが見つけた沢山のものを、必ず届けてみせる。 死んだように眠る園村麻希にそう告げ、真物は掴んだまいの声を頼りにジャンプした。 一歩踏み出した時にはもう、五人はお菓子の家の前に辿り付いていた。 「!…」 ジャンプの影響によって一気に跳ね上がった鼓動を鎮めながら、真物は周りを取り囲む森の木々を見回した。それが、ある一点で止まる。 節子が、驚いた顔でこちらを見ていた。 「みんな、大丈夫?」 「いてて…あ、マキちゃんのお母さん!」 ジャンプに驚き尻もちを付いたブラウンが、腰をさすりさすり立ち上がる。南条も立ち上がり、裾を払う。 「ここは……!」 「そっかオレら、あのコンパクトで……」 きょろきょろと見回し、マークは状況を把握した。 「あなたたち、どうして……神取はどうなったの?」 「園村のオバサンこそ、どうしてここに?」 「それが……」 何と説明すれば…節子は自分の身に起きた非現実的な現実をどう説明すればよいやら、口ごもった。 と、真物は振り返って、間もなく現れる七人目を見やった。同時にお菓子の家の扉が開き、中からおずおずと小さな人影が出てきた。 「……ままのたからもの」 子供らしからぬ苦悩に満ちた眼差しを見た瞬間、そんな言葉が頭に浮かんだ。何を、どこをかきむしられたのか分からないが、しようもなく涙が込み上げた。 その時、悪魔の襲来を告げるあの重圧が五人を襲った。直後数体の邪龍が姿を現す。 「な、なに?」 その邪悪な姿を目にして、節子は短い悲鳴を上げた。 「またかよ!」 いつもここで話の邪魔をされる…マークは唸った。素早くショットガンを構え、節子をかばう形で躍り出ると、威嚇射撃を繰り返した。そこには当然玲司も並び、しかし以前ブラウンの言った言葉が残っているのか、攻撃ではなく目くらましを食らわせ惑わせた。 家の戸を大きく開け、まいは悲鳴を上げた。 「ママ、早くお家の中へ!」 「!……麻希ちゃん!」 まさかそんなと、節子は棒立ちになってまいを見つめた。動けなくなった節子を連れて南条はお菓子の家に駆け込んだ。マークは玲司を先に行かせると、後退しながらブラウン、真物を中へ促し、最後に一発ぶっぱなして即座に家に飛び込んだ。急いで扉を閉める。 しばらく続いた耳障りな鳴き声は、やがて森の向こうへと遠ざかっていった。 「はあ……まったく」 ようやくマークは肩の力を抜いた。ふと正面を見ると、ちいさな麻希と節子が向かい合って立っていた。 「あなた…麻希ちゃんね――麻希ちゃんなのね!」 非現実的な現実に驚きはしたものの、節子はまいが麻希である事を疑う事無く受け入れた。 自分の宝物を、どうして間違えようか。 まいはこくりと頷き、大きくしゃくり上げた。 「ママァ……」 ぼろぼろと大粒の涙を流し泣きじゃくる小さな麻希を、節子はしっかりとその胸に抱き寄せた。 「大丈夫よ麻希ちゃん、ママはここにいるわ。泣かなくていいのよ」 「ママ……ママァ!」 まいは小さな手で必死に節子の首にしがみついた。 「もう大丈夫よ、麻希ちゃん。もう大丈夫」 節子は限りなく優しい母の手で、小さな麻希の頭を何度も撫でてやった。 真物はさりげなくよそへ目を逸らした。お母さんを助けたい、その為に出来る事をしているのに、嬉しい気持ちは間違いなくあるのに、見ていたくないのだ。 マキが消える事に近付いたからというのではなく、何かが気に障るのだ。 言葉で言えない何か。 そんな自分が腹立たしく情けなく、真物は嫌になって足元に目を落とした。 視界の端に、母と娘を見守るマークの顔が映る。穏やかな眼差しで二人を見ていた。ブラウンもそう、何かと事を急く南条も、玲司も、まいが泣きやむのを静かに待っていた。 彼らが今何を思っているのか…真物はきつく思考を遮断し、窓の外へと目をやった。 半ば無意識にピアスを求める。 ――それにどんな意味があるんだ 意識の底から聞こえてきた静かな声に、真物は小さく息を飲んだ。真生の言わんとするところを悟り、力なく俯く。 「ゆっくり向き合ってきゃいいんだよ」 分かったからって、そんなすぐには変われねえもんな 真生は言って腕を組んだ。 「……ごめん」 なにが…ごめんと謝られる理由なんてないと、真生が笑う。 力になってやると宣言した通り力をくれる彼のさりげない慰めに、真物は礼を言った。 ようやくまいは泣きやむと、自分…園村麻希の身に何が起こったかを節子に説明した。 それを引き継ぎ、マークが言う。 「そんでオレら、園村を助ける為に、ここに戻って来たって訳なんスよ」 「そう……ありがとうみなさん、本当にありがとう」 『私はなんて駄目な親だろう』『いつもこう』『自分の娘が苦しんでいるのに』『ごめんね麻希』『駄目なお母さんでごめんね』 節子の心を一杯に埋め尽くす、娘への後悔の念。母を思い出させる苦しい声に、真物は唇を引き結んだ。目を逸らしたがる自分を抑え、分からない何かと戦う。 マークは小さな麻希の傍に歩み寄ると、しゃがみ込んだ。 「そんなわけで麻希ちゃんよ、園村助けるにはどうしたらいいんだ…って、何かヘンな話だけどよ」 自分の言葉に困惑し、マークは笑いながらぐるりと目玉を回した。 救いの主である六人を見回し、まいは苦しそうに眉根を寄せた。 「元気な私の力が、必要なんです……」 か細い声で続ける。 あきが、この世界を破壊する為、一番悪い園村麻希…パンドラを目覚めさせ融合してしまったと。 この世界が死んだら、本当の自分も死んでしまう。でも自分の力は及ばない。理想の園村麻希でないと、止める事は出来ない。 マキが三つのコンパクトを手に入れるのを、どうか手伝ってほしい。 どうかマキを助けてほしい。 どうか、力を貸してほしい。 「どうか…お兄ちゃんたち…元気な私を助けてです……」 五人の脳裏に、パンドラの凶悪な姿が去来する。そのおぞましさに、誰もが身震いした。 「三つのコンパクトとは、なんだ?」 イメージを頭から振り払い、南条が尋ねる。 パンドラの巣へ通じるアヴィデア界の扉を開ける為の鍵。扉は、マキにしか開ける事が出来ない。 そこで思い出し、ブラウンは振り返った。 「そういや大将、二つは持ってたっけ」 真物は頷いて二つのコンパクトを取り出した。差し出して、小さく驚く。 「あれえ、こっちのマキちゃんの持ってた方、こんな色だったっけ」 ブラウンは不思議そうに目を瞬かせた。 そう、混沌の鏡の破片を取り込んだマキのコンパクトが、気付けば虹色からほんのり赤い光沢を放つ物に変化していたのだ。もう一つは、園村麻希が身につけていた淡い緑のコンパクト。 真物は二つのコンパクトを、まいに手渡した。 「よし、まずは園村を迎えに行こうぜ!」 マークが意気揚々と声を上げる。 「私も連れて行って下さい!」 すかさず節子は一歩踏み出し、まるで怒鳴る剣幕で言った。 勢いに気圧され、咄嗟にマークは真物を見やった。 選択を委ねる視線を寄こされ、少し困って真物は南条を見やった。自分の答えはもう、決まっている。 小さく頷いた真物にしばし考え、南条は口を開いた。 「先程のでお分かりでしょうが、この森は非常に危険です。命の保証は――」 「俺が命に代えても守ってやるから、心配すんな」 南条の言葉を遮り、玲司はまるで脅す口調で言った。 「オレも力になるぜ」 「もちろんオレ様も頼りにしていいですよ! そう、どろ船に乗ったつもりでどーんと!」 「大船だ!」 得意げに胸を張るブラウンをどうしても見逃す事が出来ず、南条は即座に訂正した。 「ああそうそう、それそれ! とにかく、俺たちにお任せ下さいな!」 「南条…コイツこれが素なんだわ。なーにが自分作ってただか……」 マークは心底呆れた顔で首を振った。 「うむ、このバカさ加減、まさに天性のもの」 『とても脱糞ごときで参る男には見えん!』 南条が心の中でばっさり切り捨てる。どこか、感心する響きを含む内面の声に、少しおかしくなる。 「ありがとうみなさん……」 節子は笑顔で礼を言い、少し涙ぐんだ。 『お袋ってのはああいうもんなんだ』『園村、てめぇも早く気付け』『ちゃんと、あるんだからよ』 『良いオフクロさんじゃん』『それに引き換えうちの……』『うるせえだけ』『だけ……だけど』『大丈夫だよな!』『死ぬような玉じゃないしな』 『彼女こそを母親というのだな』『母親の誕生日すら知らん』『山岡以外は他人だった』『与えられたのは…金と物だけ』『命に代えても彼女を守るぞ』 家の中が、それぞれが思い浮かべる『母親』への想いで一杯になる。それはお菓子の甘い匂いによく似合い、それはとても不愉快で、そしてそれはとてもあたたかかった。 何とも言えぬもやもやとしたものが心に湧き起こり、妙に落ち着かない気持ちにさせたが、真物は無理に追い払おうとせず、ただじっとそれを眺め続けた。 真物が思い浮かべるものを、「彼女」は意識の底で穏やかに見守っていた。 出発に備え武器の点検をしていると、小さな麻希がおずおずと近付いてくるのが見えた。 「力を貸してくれてありがと…です」 まいの言う『力を貸す』が、マキ救出の事だけを指しているのではない気がして真物は少し気まずそうに見やった。 恐る恐る内面の声に手を伸ばせば、まいはやはり能力の事に気付いていた。ここは彼女の管理する世界、分からぬ事はないだろう。当然といえば当然なのだ。 デヴァユガからここに飛ぶ時も、マナの城から来た時も、まいの声に応えてきたのだ。それにまいは、マキの疑問をさりげなくごまかしてくれたではないか…今更ながら思い出し、真物は動揺に瞳を揺らした。 他人の心をこっそり盗み聞きしている、気味の悪い卑怯な人間。非難を恐れる。 「わたしだけじゃ、ここにみんなを呼ぶ事もママを呼ぶ事も、出来なかったです」 何も言えずにいる真物に、まいは言葉を重ねた。 「誰にも言いません。わたしの中だけで溶かして、他の麻希には絶対伝えないです。お礼が言いたかっただけですから……」 言葉通り、まいの内面の声も感謝を湛えていた。 「………」 知れてしまった動揺からは遠ざかる事が出来たが、さりとて何と言ってよいやら、分からない。 『本当にありがとう』『わたしの助けになってくれて、ありがとう』 心の中で何度もありがとうを繰り返すまいに、真物は救われる思いだった。 自然に言葉が出てくる。 「僕の方こそ、ありがとう。大丈夫、園村麻希はきっと助かる。一番元気なきみが救う鍵になる」 自分自身を思い浮かべ、頷いて励ます。 まいは小さく笑みを浮かべた。 「よし、では行くぞ」 南条は号令をかけた。 マキの声が、遠くに聞こえる。否遠くではない。小さいのだ。今にも途絶えそうに小さな声で、何かを思い浮かべている。内容までは分からないが、自分を否定する言葉なのは容易に想像出来た。 今にもかき消えそうな思考の断片に焦り、真物は駆けるように森の中を進んだ。 後続の五人が、当然ながらその行動を訝る。首をひねる内面の声が聞こえる。まいから居場所を聞いたのだろうと自分を納得させようとする声や、勘が鋭いから任せておけば安心という声もあったが、疑問は彼らの中で徐々に膨らんでいった。 それが誰かの口から出るより先に、一行は突然からりとひらけた場所にたどり着いた。 そこで目にしたものに疑問は一気に吹き飛び、みな、 呆気に取られる。 そこには、一本の巨木があった。 何本もの樹木をくっつけ重ねたように、幹は信じがたい程太く、根元からすぐに四方八方に伸びる枝の太さも、それだけで一本の木と言えるほど大きかった。 そして根元には、人の背丈ほどの粗末な木の扉がついていた。 「……ここに、麻希ちゃんがいるのね?」 節子は我に返ると、駆け寄って木の扉を叩いた。 「麻希ちゃん、お母さんよ! 聞こえる?」 しかしどんなに叩いても、返事はなかった。 扉には当然鍵がかかっており、がちゃがちゃと虚しく音を立てるだけでビクともしない。 「麻希ちゃん、出てきてちょうだい! 皆さんも心配して、来てくれたわ!」 一瞬、ここにはいないのではないかと思った時、中から、悲鳴交じりの叫びが聞こえてきた。 「私の事は放っておいて!」 「麻希ちゃん……」 「みんな、なんで来たの? 私がどんな人間か、知ってるでしょ?」 扉越しの涙交じりの声にやもたてもたまらず、マークは歩み寄って訴えかけた。 「園村、あのさ……気にするなって方がムリかもしんねぇけどさ…人が羨ましいとかって気持ち、誰でも持ってるもんだよ。オレだってそうさ。まして園村は利用されてたんだ。悪いのは――」 「やめて! 何度もみんなを殺そうとした女に、なんでそんなに優しく出来るのよ! 同情ならやめて…される方がみじめだわ……私なんて死ねばいいのよ!」 「そんな事ねーよ!」 マークは即座に打ち消した。 「マキちゃん……」 声のかけようもないと、ブラウンが立ち尽くす。 甘ったれが…彼らの後方で、南条はひそかにもらした。 光も射さぬ暗い中一人膝を抱え、マキはぐるぐると後悔を繰り返していた。 みんなの元から去り、ここに飛び込んだ時は、もう何もかもどうなってもいいと、仲間の顔すら思い出せなくなるほど深く気持ちが沈んだ。 本当の自分がしでかした事も、自分が為した事も、全部忘れて眠ってしまおう。 眠って、そのまま消えてしまおうと思った。 そしてその通り、存在が希薄になった。 そんな時、みんなの声が聞こえてきた。 どうなってもいいと思いながら本当は、頭の片隅でほんの少し、期待していた。 それが叶ったのだ。 なのに自分は、応えなかった。 声が聞こえた途端急に怖くなり、お母さんの声を跳ねのけ、差し伸べてくれるみんなの手を振り払い、どうなってもいい方を選んでしまった。 きっとこれでお終い。本当にお終い。 本当に、もう何もかもどうなってもいい。 ……みんなきっと、なんて嫌な女だと思っているに違いない。それだけの事をしたものね。私は最低の人間だ。恥ずかしい。情けない。私は…私…いっそ―― 真物の目に、光をどんどん塗り潰し心の中を真っ黒にしようとするマキが映る。 「違う!」 真物は張り叫んだ。それは間違いだと、マキを引き止める。 扉に両手を押し当て、深くうなだれる。 「した事は取り消せない…無かった事には出来ない」 顔を上げ、その向こうにいるマキの顔を見ようと目を凝らす。 「でもまだ間に合う。だってまだ、生きてる……生きてるなら、いくらでもやり直せる!」 生きている間に間に合わなかった、助けられなかった人を苦しく思い出し、真物はわずかに声を震わせた。 その時、かすかに頭の芯が痛むのを感じた。慣れぬ大声を出したせいだろう。 南条は隣に並ぶと、口を開いた。 「見神の言う通りだ、園村。自分でまいた種は、自分で刈り取れ!」 返事がないのも構わず続ける。 「単なる同情心で来たと思われるとは、見くびられたものだ。理由は様々だが、俺たちは、園村麻希を助けたいからここまで来た。お前に共感出来るからこそ、みんなここまで来たんだ」 南条の言葉にある者は頷き、ある者はその通りだと目で語り、扉の向こうにいるマキを見つめた。 「見神も言っただろう。貴様はまだ生きている、いくらでも取り返しがつく」 南条は心の中で、ポケットにしまった大切な眼鏡をそっと両手に包み込んだ。 「……それでも死にたければ、好きにしろ。何もしなかった自分も、死ねば全て忘れられるからな。だが俺は――」 南条は、並ぶ仲間たちの顔をちらと見やり、言葉を続けた。 「俺たちは、忘れん。これから先ずっと、覚えて生きていく。仲間だったお前の事を」 そこでまた真物は、頭に軽い痛みが走るのを感じた。それは、マキの心が受けた衝撃に他ならなかった。 固い木の扉をすり抜けて、真物の意識がマキの意識と重なり合う。 私はマキであり、マキは私であった。 私はじっと扉を見ていた。扉の向こうにいる彼らを見ていた。 二人の言葉は、私の胸の内に出来た固い殻を打った。 けれど私は動けなかった。 私も行くと、扉を開けて、出ていく事が出来なかった……本当は今すぐ出ていきたいのに! 「……戻るぞ!」 南条の声に、真物ははっと意識を取り戻す。 偶然掴んだ南条の内面の声は、マキの心を動かせなかった己の不甲斐なさをなじっていた。 「俺たちだけで、園村を助けるんだ。途中で諦めるのは性に合わん」 それを断ち切るように、南条は踵を返した。 「行くぞ見神」 未だ扉から離れない真物にそう声をかける。 真物は首を振り、扉の向こうで一歩を踏み出したいマキに呼びかけた。 「さっきは、手を離してごめん。今度は絶対に離さない。約束する」 かつて母親に置いていかれた子供。置いていかれるのは何より怖い事。だから誰も置いていかない。 自分は絶対に、誰も見捨てない。 置いてかないでと叫んでいる子供を、誰が置いていくものか。 真物はふと、ずっと昔、こんな風に「彼女」が一生懸命呼びかけてくれたのを思い出す。 あの時自分はこちらではなくマキの方にいた。そして「彼女」はこちらにいて、自分が出てくるのをずっと待っていてくれた。 だから自分も、待つのだ。 どんな時もまっすぐ正面を向き、暗い場所に落ちそうになる度自分を引き上げてくれた、大事な仲間が戻ってくるのを。 一度は行きかけた南条は再び戻ると、真物と並んだ。マークが加わり、ブラウンも並び、玲司も待つ。 節子は瞬きも忘れ、じっと扉を見つめた。 そして鍵の開く音がした。 扉は静かに開かれ、中からマキが姿を現す。 「ゴメン…みんな……わたしも――私も行くわ!」 マキは、ずっと喉元でつかえていた言葉をようやく口に出すと、強い決意の顔で六人を見つめた。目の前には、手を差し出す真物。 マキは思いを込めてその手を掴んだ。 「ありがとう、真物君……」 『自分から振りほどいて逃げたのに……』『本当にごめんなさい!』『良かった』『ありがとう』『すごく嬉しい』『だから私は――』 それ以上は聞くまいと慌てて遮断を試みるが、触れた手のひらから流れ込んでくる思考の断片を断ち切るのはさすがに無理だった。それに彼女を引き上げるのに無我夢中だったとはいえ『約束』した、ここで離す訳にもいかない。 ――やったな、そんで、やったな 真物は、手のひらから伝わってくる体温と、流れ込んでくるマキの内面を彩る華やかな色彩そして真生のからかいに、何とも言えぬ顔のまま突っ立っていた。 「よっしゃ、おかえりマキちゃん!」 ブラウンのはしゃぐ声が、助け舟となった。 「おかえり、園村」 マークがその隣に並ぶ。後ろでは玲司が口元を緩め、何か云うように肩を竦めた。 「みんな、ゴメン…ゴメンね。ただいま!」 マキは笑顔でそちらに身体を向けると、自分を迎えてくれる仲間たちに心から礼を言った。 当然手はほどかれほっとするが、聞いてしまった事実は消せない。無かった事には出来ない。真物は、自分の心をどう整理すればいいのかと、大いに戸惑った。 マキは、皆の一歩後ろで言葉もなく涙ぐんでいる節子の傍に歩み寄ると、おずおずと顔を見上げた。 「ママ……」 何か云いかける我が子を、節子はただぎゅっと抱きしめた。 その、少し苦しいくらいの抱擁に、マキは安心しきった顔で身体を委ねた。 そこでブラウンはこっそり後ずさると、貰い泣きに零れた涙を慌てて拭った。 「ごめんなさい……ママ!」 「麻希ちゃん…わたしの宝物! もういいの…もういいのよ……ごめんなさい麻希ちゃん」 不快感が蘇らぬよう、真物は二人の内面の声を遮断した。本当は触れてみたい気持ちもあった。けれどまだ、上手く整理が付けられない。ただ、お母さんを助けられて良かったと、それは間違いなく思う。けれど、しかし……せめぎ合う。 真物の手がピアスを掴む。それはほぼ無意識の行動だった。 ――まあ、色々と、ゆっくり向き合ってけよ 焦る必要はないのだと、真生は静かに言った。 そうしよう…真物は小さく頷いた。 マキは深く息を吸い込むと、身体を離した。そして南条に向き直り、ごめんなさい、ありがとうと告げた。 まっすぐ向かってくる思いのこもったマキの真剣な眼差しに、急に南条は身体ごとそっぽを向くと、早口で言った。 「……悪かったな。少々きつい言い方をした」 その態度にぴんとくるものがあるのか、すかさずマークが切り込む。 「あれぇ、南条……オマエもしかして、照れてんのか?」 そして殊更に大声でからかった。 「ああそっか! オマエ、人に『アリガトウ』って言われた事ねーもんなぁ、ひねてっから!」 図星だろ! そう言って肩を組んでくるマークの手を慌てて振り払い、南条は心持ち赤い顔で否定した。 「う、うるさいぞ稲葉!」 『まったく』『稲葉め!』『このサルが!』『人から感謝されるなぞ、日常茶飯事だ!』 心の中で言い訳めいたものを繰り返し、南条はマークを睨み付けた。 「そんなおっかない顔すんなって!」 マークは気にせず、もう一度肩を組んだ。そこにブラウンが加わり、珍しく玲司までも加わって、賑やかを通り越し騒々しい空間を作り上げた。 相変わらずの彼らのやり取りに、マキは思わずふふと声に出して笑った。そして、この場所に戻ってこられて良かったと、心から安堵した。 たとえ自分が幻だとしても、自分はここにいる。皆と、真物君と一緒にいる。それがわたしなんだ…… 『行こうよ、私!』 気合いを入れるマキの声ははっきりと大きく、どんな時もまっすぐ前を向く彼女にとてもよく似合っていた。 マキが明るく弾む心の風景を取り戻した事は、まいにも伝わっていた。 まいはほんのり赤い光沢を放つコンパクトを開くと、みんなをお菓子の家に招いた。 そして、転移に驚き、すぐに理解して、自分の方を向いたマキに、おずおずと近付いた。 「ごめんなさいです…わたし」 「ううん、謝るのは私の方。ごめんね、わたし」 マキはしゃがみ込んで笑いかけ、首を振った。 「私は理想の園村麻希なんだもんね、くよくよしてちゃ、駄目だよね」 『ホントはくよくよするの、性に合わない』『めんどくさいもの』『考える間にどんどん進むのが好き』 あははと屈託なく笑うマキの内面の声に、真物は釣られて少し笑った。 「さあ、パンドラをどうにかしなくちゃ。三つ目のコンパクトの場所、教えてくれる?」 まいはこくりと頷くと、ポケットから二つのコンパクトを取り出した。 ほんのり赤い光沢を放つ一つ、現実世界で園村麻希が身につけていた淡い緑の一つ。 「三つ目は、本物のわたしが持ってるです……」 「本物の園村の?」 「マキちゃんのって、その緑のだよね?」 疑問の声を上げるマークとブラウンに顔を向け、まいは続けた。 「本物のわたしの意識……が、最後の一つを持ってるです」 「い、意識、ねえ……んん?」 分かるようで分からないと、ブラウンは唸りながら首をひねった。 まいは、じっと自分を見つめる真物に目を移した。自分が見ているものが伝わるよう、瞬きを堪えて救いの主に視線を注ぐ。 「………」 まいの見るものを読み取り、真物は声にならない声をもらした。かつての自分と重なる姿はかすかな痛みをもたらし、声がもれる。 けれどもう下を向く事はなかった。 マキは節子を振り返った。 「ママ…私、必ず自分を取り戻してみせるね」 娘の言わんとするところを察した節子は、何か云いかけた口を噤み、励ますように頷いた。 マキは微笑み、まいに向き直る。 「ママをお願いね。私と、皆とで……」 取り囲む仲間たちを見回し、マキは言う。 「本物のわたしを助けるから!」 そしてすっくと立ち上がり、行こう、と声を張り上げた。 「ああ、うん……マキちゃん」 「園村……」 「……どこへだよ」 いつもの気合いが戻って嬉しい限りだが…ブラウンと南条、玲司は少々あきれた顔で言った。 「あ…そっか」 行き先をまるで聞いていなかった事にようやく気付き、マキはせっかちな自分に苦笑いした。 その時。 「……あっ!」 突如現れた金翅の蝶に、マークは驚きの声を上げた。 全員がそちらに目を向ける。 真物は、常に行く先に現れ、行く先を示す金翅の蝶…フィレモンを、微動だにせず見つめていた。 突如強い光が弾け、たまらずに目を閉じる。 次に目を開けた時、そこには、無数の鍵穴を持つ扉があった。 |