Dominance&Submission

鍵の行方

 

 

 

 

 

――月曜日。
 約束の時間となり、僚はアパートを出た。敷地を出て、緩い坂道を辿って、大通りのいつもの場所で男と合流する。
 歩く距離はたったそれだけだが、アパートの鍵をかけたところで、僚は足が竦むのを感じた。
 今にも隣のドアが開いて、住人が出てくるのではないか。もしくはどこかの部屋の住人が帰ってくるのではないか。異様な緊張感に苛まれ、突っ立ったままになる。たった一歩も、足を踏み出す事が出来なかった。
 顔を合わせたところで別にどうという事はない。いつものように、軽く挨拶を交わせばいいだけだ。素っ裸で外に出ている訳でなし…しかし今の僚には、丸裸で外に出てしまったかのような、ひどい羞恥心が胸に渦巻いていた。
 三月もそろそろ終わりに差し掛かり、昼間は暖かいが、夜はもう一枚羽織った方がいいひやりとした気候で、自分もそれらしく薄手のコートを着込んでいる。下にもきちんと服を身に着け、まったく丸裸などではない。
 だのに、外に出てはいけない格好をしている気持ちが異様に強く、どうにか足を踏み出したが、いつ誰に見られるかとびくびくしていた。絶対に見つかってはいけないと、緊張感が高まる。
 頭の後ろがぼうっと熱く、全身も、のぼせたようになっていた。
 アパートの前の小路に出た。
 出る時、背後になる方をじっくり見やった。歩いてくる人間はいなようだ。進む方のずっと先に人影が見える。僚はほっとして、少し早足に小路を進んだ。誰も来ない内に男の車に乗り込んでしまおうと急ぐ。
 出来るなら走りたかったが、そうすると響いて嫌でも存在を意識してしまうだろう。だからなるべく静かに歩く。
 昨夜からずっと、自分を苛んでいるもの。
 アパートから出るのをためらわせたもの。
 知らず俯き加減になって、その箇所を見ていた。僚は慌てて顔を上げ、意識を遠ざけようとした。しかしどう頑張っても無理だった。痛みを感じるほどきつく締め付けている訳でも、歩くのに支障が出るほど重さがある訳でもないのだが、股間にがっちりはまっているのだ、忘れようもない。
 昨夜取り付けられた時から、一秒だって意識が逸れた時はない。
 だって、アパートの中をそっと歩く振動すら伝わってくるのだから、こんな風に地面を踏みしめて早足に進んでは、嫌でも意識してしまう。
 大通りに出た。小路よりずっと人通りがあり、街灯も多くて明るく、店も点在している。小路以上に気を付けねばならない。
 男の車はもう到着していた。
 すぐにでも駆け寄りたかったが、信号に阻まれる。
 街灯の反射で車内の様子はよくわからないが、男の目がまっすぐこちらを見ているのはわかった。僚もそちらに釘付けになり、信号が変わるのを今か今かと待ちわびる。同じように数人、信号待ちで並ぶ。向かいにも人がいる。彼ら全員が自分を見ているような気がして、見抜かれている気がして、僚は身の置き所が無かった。馬鹿げた妄想だと切り離そうとするが、そうすればするほど、背筋が凍り付いた。
 頭の芯がぼうっと霞む。
 いつか、男にコート一枚だけで連れ回された時の事が脳裏を過ぎった。尻に玩具を咥え、女性用の貞操帯をつけて、昼の街中を歩かされた。あの時の自分が今に重なり、そこで感じた興奮が、鮮明に蘇る。
 駄目だと必死に抑え込み、僚は啜るように息を吸った。
 信号が変わり、一斉に人が歩き出す。僚はそこに混じって進み車へと急いだ。
 いつの間にか滲んだ涙で視界がぼやけ、信号の青色や店の看板の黄色がより綺麗に見えた。
 僚はよろよろと信号を渡り切り、車に近寄った。そこまで近付くと車内の様子ははっきりわかり、男が助手席のドアに向けて手を差し伸べているのが分かった。いつものようにドアを開けようとした時、街灯やらの明かりで自分の顔が窓ガラスにぼんやり映った。目にするそれは、何とも言えないいやらしい顔付きをしていて、ともすれば笑っているようだった。僚はひどく驚き、光の具合と今の心境がそう見せているだけだと振り切ってドアを開けた。

「お疲れ様」

 仕事を終えてきたばかりの男に、そう声を張る。努めて明るい声を出すが頭の中はぐちゃぐちゃで、今目にした自分の表情が一体何を含んでいたのか気になって仕方なかった。自分の事なのに自分がわからない。
 またすぐ男に逢えたのが嬉しかったのだ。
 男の顔を見て、自然に笑顔になったのだ。
 そう決着したかったが、今もじくじくと湧き上がる妖しい感覚が、嘘だとほくそ笑む。
 男に逢えて嬉しかったのなら、あんなにいやらしい顔はしない。
 何を自分は喜んだか、本当はわかっている。
 身体の底から、凍えるような感覚が湧いてくる。
 しかし僚はそれを懸命に押し殺し、男に笑みを向けた。いつも逢う間隔よりずっと早く顔を見られた事に喜ぶ仮面を選び、無邪気にはしゃぐ子供になりきる。
 服の下にとんでもないものを隠しているなんてみじんも感じさせず、僚は男を労った。
 その時微かに煙草の匂いがした。
 鼻先にそれを嗅ぎ取り、いくらか頭が冷静になる。

「ああ、君の笑顔は一番の薬だね」
 いっぺんに吹き飛ぶよ

 男がため息交じりに言う。
 知り合って間もない頃、スーツに染み付いた煙草の匂いで、男が喫煙者である事を知った。普段は必要ないが、仕事中はどうにも我慢出来なくて…そんな事を言っていたなと思い出す。
 今日はいつもより、少し濃いように感じられた。この時間に仕事を終える為に、いつもより本数を増やすなりしてこなしたのだろうか。
 そしてどうにかやりくりして、待ち合わせの場所に来た男は、仕事の疲れを自分の笑顔で癒した。
 恋人にそんな事を言われたら嬉しくてはしゃいでしまうが、別の意味も含んでいるように思え、僚はぎくりと顔を強張らせた。
 後ろめたい事があるからそう勘繰ってしまうだけだと僚は己に言い聞かせるが、その思い越しに男を見るにつけ、いつもの微笑とは違う気がしてならなかった。

「君は今日一日、どうしてた?」
「あ、の……」
「冬休みの課題かな」
「ああ、うん……」
「それともアパートの片付けとか」
「うん……」

 僚はぼんやりとした視線を男に向けたまま、強張った顔で頷いた。自分でもおかしいくらい、舌が引き攣って上手く喋れなかった。喉に張り付いたようになって、咳払いのような相槌を打つのが精一杯だった。
 神取は運転席からその様子をじっくり眺めながら、今にも彼を抱きしめたい衝動と戦っていた。どうして彼がこんなにしどろもどろになるのか、今ここで何もかも暴いて、うろたえる彼を組み敷いて、思う存分涙を絞りたい。
 しかしそれは、後のお楽しみだ。どうにか抑え込み、視線で心行くまで愛でる。

「話はあとで聞こうか」

 そう言うと僚は今にも泣きそうになって、縋る目をしてきた。熱心に見つめてくる潤んだ瞳に、束の間息が止まる。
 苛めて泣かせてやりたくなる眼差し。
 その一方で、優しく抱きしめ、思い切り甘やかしたくもなる。
 年齢にそぐわない色気を感じるのは、自分が都合よく見ているからだろうか。
 すっかり彼の虜になった自分を自覚し、神取は正面を向いた。
 どこか傷付いたような顔で、僚も正面を向く。無性に悲しくてたまらなかったが、どうして悲しいのか説明がつかず、そんな気分になっている自分が気持ちよくさえあった。背筋や腹の底がぞくぞく疼いてたまらない。
 打ち消そうとして、僚は何度もつばを飲み込んだ。

 

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