Dominance&Submission

出会い編

 

 

 

 

 

 案内されたレストランの個室は充分明るく、それでいて目を刺さない柔らかな光で満ちていた。
 どんないかがわしいところに連れて行かれるのか、本当に食事だけなのか、今日まで憂鬱であった。
 学校に知らされたかもしれないという恐れは、早々に晴れた。だが得体のしれない今日の約束は思った以上に心の重石となって、僚を苦しめた。
 考える事に疲れ、どうせ同類なのだから、何が起こってもいいじゃないか、今まで通りだ、どこに連れて行かれようと、何をされようと、自分は約束を飲んだ、どうにでもなれ――乱暴に扱った。
 だが通されたのは、ごく普通の、とても上質な部屋だった。
 男にすすめられて席に着き、僚はようやく肩の力を抜いた。ほっとして、安心を得る。自覚のないところで、男に対する信用を築く。ほらやっぱり、と。
 ほっとして余裕が出て、たちまち僚は己の非礼に思い至った。
 即座に頭を下げる。

「この前は、失礼な態度を取って済みませんでした」
「ええと、どの時だい?」
「全部です。手当てしてもらったのに、ろくにお礼も言わないし、ピアスを届けてもらった時も、きちんとお詫びもできなくて――」
「気にする事はないさ。君にしてみれば、得体のしれない男二人に挟まれて、さぞ居心地悪かっただろう」

 しかも学校にまで押しかけてきたようなものだ、警戒するのは当たり前だよ。大丈夫、君は正しいよ。
 愛想で首を振る。

「でもこれで、それほど怪しい人間でもないと、わかってもらえたかな」
「それは、はい」

 よかった、今日はいつもの倍食べられそうだ、神取は楽しげに笑ってワイングラスに手を伸ばした。

「須賀は遠い親戚でね。悪友とでも言うべきか……悪い人間ではないよ。ただあの通り、少々いい加減、才能はあるんだがね。しばらく海外にいたんだが、先日、私の引っ越し祝いをするのでこちらに戻ってきたんだ。で、君と会ったという訳だ」

 運ばれてきた料理を勧め、ちらりと顔を伺う。

「同類の方を、聞きたいって顔だね」

 見透かされ、僚はごまかしに料理を口に運ぶ。

「身体の方はどうだい。痛めたところや傷の具合は」
「もうすっかりいいです。本当に、ありがとうございました」
「それは良かった。見たところ歩き方も元に戻ったようだし、安心した」

 お互い笑うが、お互い目が笑っていない。

「痛みが好きなのはいいが、苦しい思いは背負うべきではないからね」

 神取は静かにグラスを傾けた。赤い液体が男の喉を通り過ぎていくのを、僚はぼんやり見つめた。
 音もなくグラスが置かれる。

「でも必要だった……」

 口の中で呟く。眉根をきつく寄せ、視線の先にあるテーブルを睨み付ける。
 声に出していた事に本人は気付いていないようだった。
 神取は注意深く様子を見守った。

「君がされていたのは、ただの虐待、拷問に過ぎないよ。自分の抱える鬱憤を、君に叩き付ける事で晴らしていただけだ」
「そういうのが好きなんです」
「わかっている。君の好みを否定するつもりはない。ただ、言ったまでだ。君は君の心が示すままに従うといい」

 男の目が、前と同じようにまっすぐしっかりと僚に向かう。
 僚も負けじと睨み返す。
 どうしてこの男は蔑まないのか。
 どうしてそんなに強い目をするのか。
 何もかもわかっていると言わんばかりの眼差しに反発し、僚は視線をぶつけた。

「同類だろ、変態の」

 そしていつも思っている事を吐き出す。今までは心の中で蔑むだけで、口に出した事はない。なるべく態度にも出さぬよう気を付けてきた。
 だがこの時だけはどうしても我慢が出来ず、遠慮なく叩き付ける。

「そうだね」

 神取は顔色一つ変えず、ゆっくりと頷いた。

「でも、違うよ」

 いつかわかる日が来るといいね。
 またワイングラスに手を伸ばし、ひと口飲み込む。
 向かい合う少年の顔には、明らかに怒りが浮かんでいた。
 美しく整った顔がいくらか朱に染まり、目付きも鋭い。怒りにわなないて、左耳のピアスがちかちかと光る。
 綺麗な顔をしているだけに、かなり迫力があった。
 だが、痛くされるのが好きだと嘯き、わざと平気な顔をしてみせた時より、ずっと好感が持てた。
 厄介な子だと思うのに、自分と好みが合わないのに、どうしてか心が強く引き付けられた。
 時々、こういう不思議な感覚に見舞われる。
 大体当たりの勘だ。
 ならば今回も、耳を傾けるべきだろうか。

 

 

 

 車に乗り込んだところで、神取は言った。

「今日は付き合ってくれてありがとう」

 僚は無言で首を振った。未だ怒りが心の中で渦巻いている。いや、違う類のものだ。それが何なのか自分でもよくわからない。

「でもこれで、須賀も安心する」

 そこの柏葉君もね、と神取は運転席を指した。

「紹介が遅れて申し訳ない。私の秘書の、柏葉君だ。運転手は他にいるが、どうしてもと立っての願いでね。他意はないよ。彼も、君を心配している一人なんだ」

 僚は曖昧に見やった。自分の事情を知る人間が他にもいる事に少なからず心配が過ぎる。
 するとミラー越しに会釈を寄こされ、僚は反射的に返した。
 神取はそっと観察した。
 直前まで不服そうな顔をしていた…彼にしてみれば心配ごとが増えて、正直厄介だ、心情はよくわかる。それでも、笑顔を無視せず返した礼儀正しさに感心する。好ましく思えた。
 そしてまた元のように居心地悪そうにしている、可愛らしさに小さく笑う。
 最寄り駅に着き、僚が車を降りる。
 神取はその背中に声をかけた。

「今日は楽しかったよ、ありがとう。ではお休み」

 険しい顔付きでお休みなさいと返す僚に、笑いを噛み殺す。怒ってもふてくされても、彼は最低限の礼儀を欠かさないのだ。

 

 

 

 翌週の金曜日。
 校舎から出てくる人間がすっかりまばらになった頃、目当ての生徒が、姿を現した。
 見慣れた車を目にしてもうろたえる事はなく、まっすぐ向かってくる。
 彼の方も、いくらか予想していたようだ。
 前回と同じように柏葉が迎えに出て、車のドアを開ける。
 僚は仏頂面を隠そうともしないが、やはり礼には礼を返した。腹立たしくても、無視する事は出来ない頑固な気質が伺えた。
 車内で男がこっそりと笑う。
 僚は車に乗り込み、約束してません、と放り投げるように言った。
 正面に顔を向けたまま、神取はゆったりと言った。

「そうだね。だが車に乗ったという事は、了解したという事だ。いいかね」

 僚も同じく前を見据えたまま沈黙を貫いた。脅されている訳ではないのだ、嫌なら、今すぐ車を降りればいいだけの事。
 しかし僚は動かない。
 神取は運転席に目線を送った。
 車が静かに走り出す。
 前回よりは少しましな食事会を終え、帰路の車中、僚は窓の外に目を向け、自身の行動に理由をつけようと躍起になった。
 もやもやと渦巻くものがあるのに、嫌な気持ち、悪い気がしないのは、何故なのだろうか。
 次の週も同じく、校門の傍に車は停まっていた。
 三度目になると仏頂面もいくらか薄れた。柏葉の、やや大げさな満面の笑みも、少し余裕で返せるようになった。
 とはいえ一緒に食事といったって、お互いろくに会話もない。年齢も立場も違うので会話が弾む訳がない。
 男が、厚かましくならない程度に学校での事を聞き、僚が、それにぽつぽつ応える、といったものだ。
 それでも僚にとって、金曜日の奇妙な食事会は密かな楽しみになっていた。

 

 

 

 煌めく夜景がより楽しめるよう、室内の照明はかなり控えめだった。
 テーブルの上は浮かび上がるように明るく、中央に置かれたガラスの花器で生き生きと咲く花や、食器類が、より鮮やかに見えた。

「ここは、禁煙席なんですか」
「おや、君、煙草吸うのかい」
「いやあの、そちらの」

 僚は慌てて首を振り、神取に手を伸べた。
 スーツにうっすらと煙草の匂いが移っているので、そう言っただけと付け足す。
 ああ、と神取はいくらか顔をしかめた。

「余計な気を使わせて、済まないね。どうしてもないと困る、というわけではないから、気にしなくていい。料理の邪魔になるし、何より君は未成年だからね」

 にこりと笑ってワイングラスを掲げ、こちらは大目に見てくれ、と傾けた。

「煙草の匂いは平気なようで、良かった。普段はそれほどでもないのだが、仕事中はどうしても我慢出来なくてね」
「別に、嫌いじゃないです」

 ほのかな明かりの向こうに見える男の目をまっすぐ見据えて、僚は言った。

 

 

 

 四度目ともなると大分気持ちもほぐれて、様子を探る為の愛想笑いや警戒心といったものはすっかり薄れた。
 料理の内容、見た目や盛り付けの美しさに素直に感心したり、味を称賛したりと、他愛ないお喋りも出来るようになった。また、どうしても知りたいという訳ではないが、会話を盛り上げる為のちょっとした質問…男がよく口にするワインに関する事なども、気楽に触れる事が出来るようになった。
 何より男が聞き上手であるのが大きな理由だった。なるほど、それで、とするりと入り込んでくるのに、これ以上は無理だというところまでは立ち入らない。境目がよくわかっているのだ。深くは詮索せず、かといって興味がないと素っ気ない態度を取る事もない。空気を読み取る能力に長けていた。
 まやかしの安心感ではなく、本当に安心出来る空気があった。
 話しても、黙っていても、男は空気を変えずそこに居続けた。
 一度目以降『アルバイト』についてお互い話さなかった。お互い避けた。
 しかし五度目の今日、僚の方から切り出した。
 デザート…今日はイタリアンなのでドルチェ、ココア粉を振りかけた小さなケーキを、おべっかではなく本心から称賛して食べ終えたところで、しばし手を止め、それから言った。
 アルバイトを止めようと思う――実は男に会ってから、ずっと休んでいた。

「……本当は、好きでもなんでもない」
「そうか」

 男はさして驚きもせず頷いた。
 見透かされていた事に少し腹が立ったが、反面そうだろうなと納得もする。そして、本当の事を言えた事にほっとしてもいた。

「君が必要とするものは、別の方法で手に入れたらいい」

 食後のコーヒーをゆっくり啜り、神取は言った。
 僚は黙って、自分のカップに好みの分量の砂糖とミルクを入れた。
 くるくるとかき回して、しかし口も付けず考え込む少年を、神取はそっと観察する。
 と、彼の目がこちらにちらりと向けられた。
 これまで何度も、数えきれないほど、彼はその仕草をしてみせた。
 視線の先にある自分の手、テーブルの上で軽く組んだ左手をさりげなく見やり、神取はふと頬を緩めた。

 

 

 

 店を出たところで、もうあと一時間、付き合ってほしいと神取は誘った。
 何もしない、マンションでコーヒーの一杯付き合ってくれればいい。
 君に見せたいものがあるのだと続けられ、僚はためらいもせず頷いた。男に対する信用は、もう数えきれないほど築かれていた。
 男のマンションを訪れるのは約ひと月ぶりだ。
 あの時は、どうやって抜け出そうかそればかり考えていて、見渡す余裕もなかった。どんな部屋だったかも、まるで覚えがない。
 こんなに広い、その癖あまり家具のない部屋だったのか。
 ちょっと待っていてくれと、奥の部屋に入っていった男を待つ間、僚はぐるりと部屋を見渡した。広く、家具は少ないが、その一つひとつがどれほど高価で質が良いか、ひと目でわかった。
 ややあって男は戻ってきた。
 僚は一杯に目を見開いた。

「やっぱり、その指……!」

 思わず言葉が飛び出す。
 神取は軽く左手を上げた。
 僚が何度も気にしていたのは、弦楽器奏者特有の指のたこだった。

「君も、チェロか、他の楽器をやるのかい」

 人の背丈ほどもある楽器ケースをリビングの中央まで運び、神取は嬉しそうに言った。思いがけない演奏仲間に、自然心が弾む。

「いえ、父が……」

 僚は言葉を濁した。幼い頃離婚して出ていった父親がチェロ奏者だったのだが、何とも説明しようがない。また、中学までピアノを弾いていたが、人には言い難い事情でやめた。
 しかし男は気にせず頷いた。

「そう、お父上か」
「この部屋、防音なんですか」
「まあそこそこ優れてはいるが、弾く時はもっぱら一階で。そこに音楽室があってね。無料でいつでも借りられるから、そこで、よく」

 マンションに音楽室があると聞いて、僚は素直に驚いた。ピアノも置いてあると言われ、ますます目を丸くする。
 もっと勤め先に近い物件もあったが、ここにした決め手はそれだと説明して、神取はケースを開いた。
 間近でもれたため息に、無性に嬉しくなる。見ると、ケースに収まるチェロを、キラキラとした目で眺めていた。

「今日はもう遅いから無理だが、今度、弾いてみようか」
「え……」
「少しくらいなら私も教えられる。身体全体で音を受け止めるあの感触、中々気持ちが良いものだよ。よければ是非」

 チェロの弦をそっと撫で、僚は頷いた。
 うっとりと微笑む顔が何ともいえず可愛らしかった。
 ずっと憧れていて、しかし何らかの事情でどうしても手が出せず、今日まできたのだろう。神取はそう推測した。
 まさかこんな風に幸運が転がってくるなんてと感激する少年を、しばらく眺め続ける。出来ればいつまでも味わっていたかったが、彼を遅くまで引きとめる訳にはいかない。
 どうにか今日は断ちきって、いつものように車で送る。
 ではまた来週にと言う男に頷き、僚はいつもの駅で別れた。

 

 

 

 しかし翌週、男は現れなかった。
 僚はさして驚きもせず、小さく息を吐いた。考えてみれば当然だ、あんな事をしていた底辺の人間と、誰が付き合いたいと思うだろう。年齢だって随分違う。話も合わない。
 今まではお偉いさんのただの気紛れ、暇つぶし。
 まんまとひっかかったのだ。
 やられたなあと吐き出し、切り捨てて家路に着く。
 ああでも、チェロを弾いてみたかった。憎いと思っていたが、実際目にした時心に浮かんだのは全く別のものだった。弦に触れ、たまらなく興奮した。無理に好きにはなれないように、無理に嫌いにはなれないのだ。
 次の金曜日、夏服への衣替えを前に、クリーニングに出していた制服を取りに行った。
 保護のビニールを取り外し、無造作に丸めてゴミ箱に放った瞬間、唐突に目の奥が痛くなり涙がどっと溢れてきた。頬を伝いぼたぼたと零れ落ちる涙にひどくうろたえる。
 顔を洗っても、テレビをつけて賑やかにしても、涙は中々止まらなかった。
 訳がわからない。胸に何かが詰まって重苦しく、涙は出続けた。
 チェロもそうだが、もっと心に引っかかっているものがあるのだ。それが何か、わからない。いやわかっているが、認めたくない。
 しゃくり上げて泣く自分に苛立ちながら、僚は泣き続けた。そのまま気を失うようにして眠りに落ち、ぼんやりと土曜日を過ごす。
 日曜日も似たような一日だった。
 月曜日には、なんとか持ち直した。
 そして校門の傍にあの車。
 今までよりずっと深く、柏葉は頭を下げた。
 車内で、神取も同じように頭を下げた。
 別の人間が行くはずだった海外出張に急遽駆り出され、先日帰ってきたのだと説明し、男は深く頭を垂れた。
 柏葉は日本に残っていたので説明する事は出来るが、代理人を向かわせるのは失礼だと思い、直接謝りに来た。
 心底申し訳なさそうに頭を下げる男に何と言ってよいやら言葉が無い。
 自分よりもずっと年が上で、名の知れたグループ会社の支社長を務める人間が、自分のようなただの学生、それも底辺の人間に頭を下げている。
 激しい混乱に見舞われる。
 僚は畏れながら肩に触れ、頭を上げろとあたふたする。

「いいよ、それよりチェロを……あ、いや」

 慌てて口を押さえる。頭が真っ白になったせいで本音が出てしまった。言葉すら繕えない。抑えても抑えても、顔が笑ってしまってしようがない。

「もちろん先日の埋め合わせはする。させてほしい。いやらしく見せびらかして、目前で取り上げるような真似をして、本当に済まなかった」
「そんなの、そんなじゃないから」

 僚は何とか顔を引き締めようとした。だが、男の顔を見るにつけ心が浮かれて、どうしても収まらない。
 実はまだ残した仕事があり、今日は送るだけしか出来ないと済まなそうに告げられる。
 ちっとも構わなかった。
 いつもの最寄り駅に着く。僚はそこから道案内をし、アパートまで誘導した。

「ここで一人暮らししてます」
「高校生なのに、大変だね。ご実家は遠いのかい」
「いえ。ただ、ちょっと」

 訳ありを察し、むやみに詮索しない男に甘え、濁す。
 思った通り、男はそうかと頷いてそれ以上追及しなかった。ほっとする。呼吸が合って嬉しくなる。

「まだ若いのに、自分で自分の面倒を見て、君は偉いね」

 クラスメイトがよく言うセリフ。別にと答えたり、まあねと自慢げにしてみたり色々だが、誰に言われるよりねぎらいの言葉が心に沁みた。
 背後でクラクションが鳴る。アパートの前の通りは狭く、詰まってしまうのだ。

「済みません、そこを折れた大通りなら、停めても大丈夫だと思います」

 僚は慌てて正面の道を指差した。

「一人暮らしなんで、少しくらい遅くなっても、平気なんです」

 何を言いたいのか自分でもわからないままそう説明する。

「未成年の君を、遅くまで連れ回したりしないよ」

 そうですねと赤面する。自分は何が言いたかったのだろう。
 お互いの連絡先を交換した。互いの手の中で間違いなく鳴る携帯電話に、お互いにっこり笑う。

「夏服、よく似合うよ」

 別れ際のひと言に、僚はありがとうとはにかんだ。
 また、頬がだらしなく緩んだ。

 

 

 

 翌週、僚はまさにルンルン気分という言葉がぴったりの軽やかな足取りで、校舎から出てきた。車を見つけるやぱっと顔を輝かせ、今までで一番極上の、最上の笑顔で柏葉に挨拶し、車に乗り込んできた。
 男は笑いをこらえるのに苦労した。窓へと顔を向け、ごまかす。
 どうしても弾きたい曲があるのだという僚に、神取は協力を惜しまなかった。時間が許す限り招き、一歩一歩を支えた。
 半月して訪れた期末考査やその他学校のスケジュールで時々中断を挿むが、概して理想的な間隔で練習に励んだ。

 

 

 

 七月某日、終業式。

「南条、明日からイギリスでヒショだろ。日本の最後の思い出に、オレ様たちと出かけようぜ」
「断る。図書館なら付き合ってやるがな」

 それと、行ったきりのような物言いはやめろ、来月には戻る、と付け足し南条は教室を出て行った。
 図書館という言葉に、稲葉は大げさに顔をしかめてみせた。

「桜さん、どしたの。手痛いの?」

 怪我でもしたのかと心配そうに覗き込んでくる上杉に、僚は軽く手を振って、なんでもないよと広げて見せた。

「ああ、びっくりした。じゃそろそろジョイ通行きますか」

 僚は荷物を手に立ち上がった。今度は目を引かぬようそっと、親指で指先を確かめる。
 男の手にはまだまだ遠いが、少し硬くなった気がする。つまりそれだけ、チェロの練習を重ねている証拠だ。ここに積み重ねられる証がたまらなく嬉しい。僚はこっそり笑んだ。

 

 

 

 夏休みに入り、自由になる時間も増え、通う頻度も上がる。
 若さもそうだが思いがけず才能があり、また執念ともいうべき熱心さのお陰で、僚は一回ごとに上達していった。
 弾く毎に音が響き広がり、張り切っていった。
 上手くいかずしょげ返って気まずい空気になる事もあるが、神取は辛抱強く丁寧に、一つひとつ教えていった。
 練習を通して、僚の人となりがよりわかる。
 実はそれまで知らなかった。彼の名前を、知らなかった。
 練習を始めるに当たり、彼は名前を名乗った。
 それまで知らなかったのだが、あまり気にしておらず、またそれほど困っていなかった自分に気付き、男は思わず笑った。呼び方は『君』で済むし、彼がどんな人間か、もうすでに見てわかっていたからだ。
 桜井僚です、よろしくお願いします。
 しっかりと背筋を伸ばし、彼はきびきびと頭を下げた。
 本当に大事なものに対してはいい加減な事はしたくないという、彼なりのこだわりが感じられた。
 これだけで十分わかった。今まで見てきたとおりだった。彼は基本真面目で礼儀正しく、頑固で融通がきかない部分もあるが、反面楽天さを持っていた。つまり良い子だ。
 それがどうしてあんなに荒んでしまったのか、まだ理由は聞けないでいた。言わないので追求しない。本人が言いたくなるまで不問とした。
 練習中、僚は常に尊敬の眼差しで神取を見続けた。
 先生もどきだが、初心者である僚からすれば雲の上の存在か、一つ教わる度目を輝かせ、敬意を表した。
 いささかむず痒いが、頼られて悪い気はしない。
 神取はより熱心に僚を導いた。
 また僚の方も、丁寧に的確に教えてくれる神取にますます信用を重ねていった。
 嬉しい、楽しい。
 その一方で僚は、心の底にこびりついているものに悩まされていた。
 男にとって自分は好みの合わない人間である。あまり印象もよくない。出会い方も最悪だし、食事会の時だって、上っ面は丁寧だがろくな言葉を吐いていなかった。気に入っていないのは薄々感じていたので、それに関する気まずさが心の片隅にいつもへばりついていた。
 もっと言えば、そもそもまるで立場の違う人間、あんな事をしていた最低の、底辺の自分を、どうしてほいほいマンションに招くのだろうか。
 楽しいと思ってくれているなら、嬉しいけど…ないな。 本当に、どうしてだろう。
 始めの頃に比べれば格段に音が出るようになったのを、神取はまるで自分の事のように喜んだ。
 今では食事会は、金曜日の夜だけに限らなくなった。
 そして食事の後は、男のマンションでチェロの練習をし、その後反省会を兼ねた短いティータイムを設けて、解散という流れが出来上がっていた。
 八月になって、暑さはますます苛烈になる。しかし僚はものともせず練習に励んだ。
 八月半ば、近場のコンサートホールで、チェロ単独の演奏会が行われる事になった。曲目は、僚が目標とするあの曲。
 情報を得て神取は早速僚に知らせた。すると僚の方もそちら方面に目を光らせていたのか、非常に弾む声で告げてきた。
 一緒に行く約束を取り付けると、途端にはつらつとした声が次々と耳に飛び込んできた。
 どんな顔で喋っているか、どれだけ目を輝かせているか、手に取るようにわかった。
 彼の笑った顔は格別。
 普段は遠慮ばかりで控えめで、ぎこちない部分がとても多い。年齢から何からまるで違う。しかも先生と生徒という間柄、畏まり、一歩控えるのは当然といえば当然だ。そんな中、上手く弾けた時や、ちょっとした喜びの時に、彼は素直に自分を表現した。澄ました綺麗な顔が子供のように輝く様は、たまらなく愛らしかった。
 少し苦しくなるほどに。
 コンサートの後、僚の音はまた格段に飛躍した。
 やはりプロの演奏に触れるのは大事だ。いい刺激になる。もっと機会を設けようと神取はあらためて思った。
 それからすぐ、世界的に有名なチェロ奏者による演奏の映像が手に入った。
 古い時代のものなので画像も音質もあまり良くないが、弓の動きや弦の押さえ方、姿勢など、参考になればと思い一緒に視聴した。
 僚は瞬きも忘れた様子で見入った。
 うっとりと、陶酔する横顔。
 その日の別れは、アパートの前まで送っても心配になるほど、彼はふわふわと浮付いていた。酔っ払いよろしくすっかりのぼせた顔でお休みなさいと告げてくる僚に、神取は真剣に、部屋まで送り届けた方がいいのではないかと、笑いたくなったほどだ。
 夏休み終わりを前に、一度目標曲に挑んだ。
 今後の為にビデオに撮ると提案した時、僚は渋ったが、すぐに了承した。
 出来は、お互い予想した通り。それよりやや良い程度だった。
 画面に映る自分を見終わって、僚はこう言った。
 ずたずたのぼろぼろだ。
 怒りを含んだ声に一瞬心配したが、顔を見て神取は安心した。
 ミスの度しょげかえり、必要以上に自分を責める僚の性分からして不安があったが、記録を残したのは正解だった。 心配する事などなかったのだ。彼には余計なお世話だった。
 僚はますます練習に励もうと決意した。

 

 

 

 九月某日、始業式。

「お前らがいると余計暑さが増す。とっとと帰れ」

 懲りずに誘う上杉に、南条は追い払う仕草をしてみせた。
 ひどーい、と上杉は泣き真似をし、すぐに立ち直って、日直の仕事に取りかかった僚の背中に声をかける。

「じゃ桜さん、カジノにいるから、後でね」

 廊下に出てゆく彼らに軽く手を振り、僚は黒板の清掃に取りかかった。
 そして南条は、当然とばかりに窓の戸締りを見て回った。

「これでチャラかあ」
「そういう訳ではない。借りを返しただけだ」

 その話はまた別だ、と南条は自分の席に座り、僚が日誌を書き終えるまで。何やら小さな冊子を読みふけった。

「義理堅いよね、南条って」
「お前の頑固さといい勝負だろ」

 にやりと笑う南条に、ちょっとおどけた顔をしてみせる。
 ひと通り仕事が終わり、僚は日誌と荷物を手に南条を伴って職員室へ向かった。

「で、南条としちゃどうなの、上杉のあの好き好き攻撃」
「……非常に迷惑している。そもそもタイプが違うだろう、こちらはもちろん向こうも、到底合わん」
「うーん、でも実は相性ばっちりだったりして」

 たちまち南条は、非常にエグ味のある食べ物を口にした時のように大きく顔を歪ませた。
 そこまでなのかと僚は腹を抱えた。

「いや、俺が個人的に合わないというだけの事だ、上杉本人を否定するというわけではないぞ」
「わかってるけど、そこまでか。でもさ、話してみたら、意外な共通点が見つかるかもよ」
「まあな。何事も試してみなければわからんが……」

 思うところがあるのか、ふうむ、と南条は軽く唸った。
 職員室にたどり着き、僚は軽く手を上げた。

「じゃな、ありがと南条」
「また明日な」

 軽く肩を叩き、南条は玄関へと向かった。
 僚はしばし見送った。

 

 

 

 学校が始まり、基本はまた週に一度の練習に戻ってしまったが、それゆえ僚はより魂を傾けてチェロに挑んだ。
 そんな、大変だが楽しく充実した日々を送っていてある時僚は唐突に、授業料に思い至った。途端に顔が青ざめる。
 教室に通えばそれなりの金がかかる。それを全くの無料、しかも頻繁に。男の好意に甘えている自分に恥ずかしさが込み上げ、我慢がならなくなる。
 今までは、チェロに触れる、チェロが弾ける事に舞い上がって興奮状態にあり、そういった事に全く頭がいっていなかった。
 決して乱暴に扱っている訳ではないが、気軽に触れているこの弓だけでも、相当高価なはずだ。では、この本体は?
 自分の腕はまだまだなのでひどい音しか出せないが、男が弾く時、チェロは、それはそれは美しい、夢見心地にさせてくれる綺麗な音を響き渡らせた。深く濁りのない優しい音色。
 耳には少しばかり自信がある。その楽器がどれほど上等か、人より聞きわける力がある。
 とすると、このチェロは…僚は血の気が引く思いを味わった。

「今日は気もそぞろだったね。何か心配ごとかい?」

 それとも夏バテかな、最近不意に涼しい日が来るからね。
 練習後のティータイムの準備をしながら、神取は尋ねた。
 僚は暗く沈んだ顔で、振る舞われる紅茶のカップを見つめた。ややおいて、重い口を開く。

「なんだ、そんな事か」

 真剣に思い悩んでいるのだ、そんな事と言われ口を引き結ぶ。
 神取はすぐに手を振った。

「ああ済まない。君を笑ったのではないよ。多少心得があるだけで、正式に教室を持てるほどの腕前でもないからね。そういう意味では私の方こそ、君に感謝すべきところだよ。こんな私のところに足しげく通ってくれるなんて、本当にありがたい事だよ。君が上達していくのを見るのは、本当に楽しい事だ」

 それでは納得がいかない。気が済まない。といって自分はそこまでの大金を持ち合わせていない。僚は心を決め、真っ向から神取を見据えて言った。

「身体で払います」

 思いもよらない提案に一瞬唖然とし、男は咳込む。危うく紅茶が違う場所に入るところだった。彼の目が真剣なのがまたおかしかった。深呼吸を繰り返し、何とか落ち着きを取り戻す。

「いや失礼、……いや、私はそんなつもりはないよ」
「好みは合わせます。どんな事でもします。何をしてもいい」

 アルバイトはとっくに止めた。自分がしている事がどんなに馬鹿げていたか、やっと向き合った。男が教えてくれたのだ。
 彼は命の恩人だ。
 傍に置いてほしい。
 わかってほしい。
 必死に食い下がる。

「奴隷でも、いいから」

 男の顔から笑顔が消える。

「私は、そういった下に置くものは望んでいない。隣に立ってくれるパートナーを求めている」
「……済みません」
「いや。私のこだわりだ、君が謝る必要はない。まあつまり、こうして合わない訳だ、無理に合わせる事もないだろう。今まで通り、チェロ仲間でいこう。お金の事は心配しなくていい。君が目標とする無伴奏が弾けるようになるまで、責任を持って教えるよ」

 僚は込み上げる衝動のまま立ち上がり、神取に口付けた。
 神取は一瞬驚いて目を見開き、すぐに僚を押しやった。呆然とする顔を見て、しまったと悔いる。

「……汚いから、いや?」

 震える声が言う。
 歯噛みし、神取はきっぱりと首を振った。

「そんな事は言っていない。思ってもいない。君を汚いなんて、一度も思った事はないよ」
「でも傷もあるし、あんな事もしてた――」
「確かに傷は綺麗とは言い難いが、言葉遊びはいい。あんな事というものも、君には君の事情があったに過ぎない。とにかく私は君を、君が思う意味で汚いと感じたことは一度としてない」

 いつの時も余裕を持ってゆったりと微笑んでいる男の顔が、厳しく引き締まる。
 途端に自分が恥ずかしくなり、僚は謝りながら身を引いた。
 弾みで紅茶のカップが倒れ、お互いの服を汚す。

「すみませ……」

 大分冷めていたので火傷の心配はない。大丈夫だと神取は宥めた。

「本当に、ごめんなさい……」

 呆然とする僚から服を剥ぐ。すぐに洗えば綺麗になるはずだ。
 そのままシャワーを勧める。
 バスルームに入ったのを見届け、神取は深く息を吐いた。
 両手で顔を覆う。

 

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