Dominance&Submission

出会い編

 

 

 

 

 

 川沿いの緑道と並行して、車が直進する。少し詰まっている為に速度は遅く、通常ならいささかもどかしさを感じてしまうところだが、緑道一杯に植えられているのは桜の木、丁度季節という事もあり、後部座席に並んで座る二人はさして退屈せずにいた。
 とっくに日は暮れ、深夜に向かう時間、昼と比べれば見え方も違うが、美しくライトアップされた桜もまた一興。見ごたえは十分だ。幻想的に浮かび上がり、目を楽しませる。

「いい季節だよね、本当に」

 後部座席の片方にいた人間が、心底嬉しげに隣に座るもう一人へ語りかけた。

「やっぱり桜はいいね。それも日本で見る桜が最高、一番好きだわ。向こうでもあるけどさ、この、すぐ手が届く感じがさ、いいんだよ。わかる?」

 聞かれて、隣の男はよくわかると頷いた。
 本人は純粋に応答したつもりだが、傍目には、いささか疲れた返事に見えた。
 無理もなかった。
 時間が遅い事もあるが、つい先刻まで、とある夜会に出席していたのだ。主役は他でもない男自身。
 そういったちょっとばかり上等な宴会の類は、もう数えきれないほど経験しており、外側を装いつつ力を抜く術は身に付けているが、やはり疲れは免れない。
 顔にもいくらか出ているだろう。男は両手で覆うようにして頬をこすった。
 だが、気分は良かった。
 自分の手にまた一つ、得たのだ。

「大丈夫か鷹久、なんなら、明日出直そうか」

 隣の気遣いに、いや、と首を振る。会場ではろくに飲み食い出来なかった分、マンションで思う存分祝杯を上げようではないか。

「だな、ちょうどいい土産もあるし。お前の好きそうなワインだ、乾杯にももってこいだぞ」支社長就任祝いにも負けないぜ「俺のお酌で良ければ、精一杯お注ぎしますよ」
「まったく、相変わらずだな、お前は」

 それらしくシナを作って笑う隣の男に手を振り、苦笑いを零す。

「それで、どうしよう」
「なにをだ」
「呼び方とか、変えないとまずいよね。神取支社長ってさ」
「……いらん。とりわけお前に呼ばれるのはむず痒い。やめてくれ」

 それに、だったらこちらもお前を、須賀社長とお呼びしなければならん、とまで言ったところで、須賀と呼ばれた男は大げさなほど身震いを放った。
 わかったわかった、ごめんごめんと謝りながら、肩をそびやかす。

「確かにむず痒いねこれは、わかったよ。悪かったごめん」
「……いや。だから今まで通り、お互い名前でいいだろう」

 須賀は大きく頷いた。

「マンション着いたら、電話で言ってた音楽室見せてくれよ」
「ああもちろん」
「そんで今度時間が空いたら、久々にまたやろうぜ。バイオリンの腕磨いとくからさ。お前のチェロと合わせるのが、一番気持ちいいわ」
「長い事やっているからな、確かに一番息が合う」

 車がスムーズに動き出す。がすぐに、信号で止まる。
 二人は談笑しながら正面に顔を向けた。
 横断歩道を、まばらな歩行者が行き交う。
 しばらくして歩道の信号が点滅を始めた。そこに滑り込みで、早足で渡りきろうとする人影が過ぎった。
 何気なく、目の端で追う。
 と、その人物は渡り切る寸前で、不意にがっくりと膝から崩れ落ちた。
 連れの無い若い男。青年…いや、少年。

「……あ」

 そこで須賀が声を上げた。

「あの子」
「知り合いか」

 訊きながら須賀の行動を読みとり、神取はすぐさま車を降りた。

「すまん、柏葉君、適当なところに停めてくれ」

 間際、運転席にそう声をかける。柏葉は承知しましたと応え、少し進んだ先の丁度良い場所に停車した。
 二人は先ほどの少年の元へ向かった。足を痛めたのか、歩道まであと少しの所にうずくまったままだ。

「大丈夫、きみ。ほら」

 須賀は抱きかかえるようにして腕を回し、安全な場所まで引っ張り上げた。
 横断歩道脇の桜の街路樹から、はらりと零れた花びらが、少年の少し癖のある黒髪に乗った。
 神取はそれを払ってやりながら、さりげなく様子を伺った。見たところ、顔色や目付きは正常だ。酒や薬の類でおかしくなっている訳ではないようだ。随分と綺麗な、整った顔の男の子だ。左耳に一つだけしたピアスも、強烈に目を引く。さりげない装飾はより彼を引き立てた。女子が放っておかないだろうな…つい、余計な事まで考える。

「あの、足がもつれて、ちょっとびっくりしただけです。済みません、何でもないです」

 少年は恥ずかしそうにしながら、淀みなく答えた。即座に嘘だと悟る。しかし愛想笑いはいやらしい感じがなく、とても自然で優しげだ。特有の、抜け目ない卑しい光も見当たらない。根は良い子なのだろう。そこまで考えたところで、こうしていちいち人を観察してしまう己の癖にいささか倦んで、神取は須賀を見やった。

「何でもなくはないでしょ」

 足元が覚束ないのにと、須賀は肘の辺りを支えた。
 たちまち少年は顔を歪め、口から苦しげな呻きをもらした。

「ここも痛いんだ、ごめんな」

 慌てて支える位置を変える。
 神取はわずかに顔をしかめた。

「ここ、も?」
「うん。多分あちこち」
「怪我をしてるのか」
「怪我というか……」

 小さく唸り、須賀は言葉を濁らせた。どういう事だ、何を知っているのだ。神取は追求する。須賀は一旦ストップをかけ、ここでは通行人の目を引き、お互いまずい事になるから、車に乗せようと提案した。
 間に挟まれた少年は拒絶した。当然である。少年からすれば、ただの怪しい誘拐犯と変わりない。

「医者に連れてくだけだから、そう警戒しないで」

 安心させる為の須賀のひと言に、少年はますます首を振った。神取としても、それはそうだろうと少年の心境を慮る。知らない人にはついていかない、基本中の基本だ。
 しかし、さて困った。

「俺はわかってるから、ひとまず車に乗って」

 須賀の口ぶりに何か感じるものがあったのか、それとも覚悟を決めたのか、ややおいて少年は頷いた。
 一人車内に残っていた柏葉は、二人が少年を抱えて戻ってきたのに驚いたが、神取の目配せで事情を察し、口を閉ざしたまま速やかに車外に出た。

「有能なあんたの秘書だけあって、彼も有能だね」

 近くで待機の姿勢を取る柏葉を見やり、感心した様子で須賀は言った。
 それで、と神取が促す。

「うん、本当なら医者に連れていくべきなんだけど……」

 少年の表情を伺いながら須賀は言った。医者の単語を耳にした途端、少年は大げさなほど首を振った。

「少し休めば、帰れます。本当に大丈夫……」
「本当のところは、ヤバめのバイトしてるのバレたら困るから、医者に行きたくない、でしょ。医者から親に連絡行ったら困るから」

 少年の言葉を遮る形で、須賀は言った。

「名前は知らないけど、君の事知ってるよ」

 それだけのイケメン君だもの、目印のピアスもあるし、俺が忘れる訳ないじゃない。
 愛想笑いを浮かべていた少年の顔が、見る間に引き攣る。

「っ……」

 誰かと勘違いしてるんじゃ、と、辛うじて言葉を綴る。

「いや、間違いないよ。で、どしたの、バイト先の『客』に、無茶でもされた?」

 須賀は心配げに眉を顰めた。先ほど、ほんの少し触った程度であんなに痛がるところを見ると、服の下は恐らく。齧った程度の素人の見立てだが、骨折はしていないようなので、そこは安心する。

「……どういう事だ」
「うーん……鷹久も同類だからいっか。彼、アルバイトしてるんだ……『あっち』のね。で、彼の勤め先がよくうちのホテル使うから、それで彼の事も知ってるって訳」

 特に彼は見ての通りイイ男でしょ、俺好みの。ひと目見たら忘れないって。だから余計記憶に残ってるんだ。
 須賀はこめかみの辺りを指でつつき、少々得意げに笑った。
 ちなみに、と言葉を付け足す。彼の勤め先だけど、ちょっとね…お客にはいいだろうけど、と曖昧に濁した。少年への目配せと、少年が負っているらしき怪我とを合わせて考えれば、須賀が何を言わんとしているか、大体は掴む事が出来た。
 つまり彼の勤め先は、過激な事も許容している、違法ぎりぎりの店という事だ。それを知っているから須賀は、まだ確かめない内から少年の具合を察する事が出来たのだ。

「……なるほど」

 得心したと神取は頷き、じっくりと少年の姿を眺めた。

「……人違いです」

 俯き、がたがたと震える少年に須賀は大きく手を振った。

「ああ別に、これをネタにどうにかしようって訳じゃないよ。だから安心して――って言われても、安心出来ないよね」

 神取を見やり、須賀は苦笑した。

「俺たちは本当に、ただの通りすがりのおせっかい」イイ男は特にほっとけないからさ「俺は須賀。君、ホテルアンブロシア、知ってるよね」

 彼の目が左右に大きく揺れた。知っている反応だ。そこは、ただのホテルではない。一般人にはなじみが薄いが、ある愛好者にはよく名の通ったホテルだ。

「あそこ、俺の。ほらこれ証拠」

 名刺を一枚差し出す。ためらいつつ少年は両手で受け取った。須賀雅巳…表面の文字を読みとり、顔を上げる。いくらか警戒心は薄れたようだ。

「こっちばっか知ってちゃ不公平だもんね。これでお互い分かったからいいかな」

 受け取ったはいいが、名刺をどうすればいいのか困惑する少年の手から笑顔でさりげなく抜き取り、元のようにしまう。

「こっちのおじさんも似たような感じ。神取鷹久。結構なお偉いさんだよ」

 おじさん呼ばわりに口を引き結ぶ。しかし、見たところ十代の彼からすれば自分は立派なおじさんだ。そうだな。そうだ。力を抜く。

「ああ、見た目ちょっと年いってるようだけど、実はまだ27歳、食べごろぴちぴちだよ」
「……馬鹿者」
「俺は……」

 名乗ろうとして、少年は声を詰まらせた。
 須賀は止めた。

「いいよ、訳ありはみんな一緒だし、お互い様って事で口は閉じとく。こっちも言わないから、そっちも、俺たちの事誰にも言わないでね」

 人差し指を立て、しーっと笑う。

「ただ、怪我とかしてるなら、同類としてほっとく訳にはいかないから、手当くらいはさせて。大人しく受けてくれるなら、誰にも言わないと約束するよ」

 少年が頷く。
 神取は須賀へ目配せした。誰が、どこで手当てをするのか。須賀も同じく目で語る。自分たちが、あんたのマンションで…すっかりそうと話が決まっている事に一瞬面食らうが、確かに放ってはおけない。これも何かの縁だろう。
 神取は柏葉を呼び戻した。

 

 

 

 彼なりに覚悟を決めたのか、手当をするから服を脱げという指示に少年は躊躇せず従った。
 薄手の上着のファスナーを開き、次いで中のシャツを思い切りよく脱ぐ。
 現れた惨状に、二人はしばし言葉を失った。
 鞭で執拗に打たれたせいで背中一面真っ赤に腫れ、ところどころ皮膚が裂けて血が滲んでいた。
 腕には、手首、上腕部それぞれに縄で縛られた跡がくっきり残り、擦れて痛々しく腫れていた。
 そして先ほど彼が痛みを訴えた肘の辺りは、治りかけだが、決して小さくはないかさぶたがへばりついていた。

「こりゃ……痛いはずだわ。結構我慢強いんだね、君は」

 顔をしかめ、須賀は労わるように言った。
 こういうのが好きなんですと、少年はけろりとした顔で言った。微笑んでさえいた。
 大半の人間は、彼の優しい微笑にばかり目を奪われ、その向こうにあるものは気付かないだろう。
 しかし神取には、強がり、嘯いている様がありありと見て取れた。
 うっすら笑って遮断しているが、少年は明らかに、侮蔑の目を怖がっていた。

「二人とも、似たような事するんだろ?」

 車内で須賀が同類と言ったのを指し、少年は振り返った。
 用意した氷嚢をタオルに包み背中に当て、神取は首を振った。

「私の場合は、コミュニケーションなんだ」
「……は?」

 少年はわずかに眉を寄せた。
 須賀が口を開く。

「まあ、いわゆるご主人様ってやつだけど、どちらかといえば言葉で楽しむ方で、あんまり強い力を振るうのは趣味じゃないんだ、彼は」

 合意の上で、コミュニケーションの手段として行っていると神取は付け足した。
 須賀が続く。

「俺も似たようなもの。軽めの事をあれこれやって、相手と楽しむのが好きだな」

 少年はますます顔付きを険しくした。
 その表情は、神取にはこう見えた。
――楽しむ為にやっている訳ではない。そもそもあんなもので、どうやって楽しむというのか。ああ、する方は楽しいのだろうな。相手を痛め付けて、泣き叫ぶ声を楽しむ。さぞ気持ち良い事だろう――そう、吐き捨てているように見えた。
 より深く観察する。

「細かく別れた奥の深い世界だからね。人の、カップルの数だけ形があるのよ……って、うーん、若い子にどこまで言っていいやら。君もやってるのは知ってるけど、何だかちょっと困っちゃうね」

 あけすけに話すのはどぎついよね、と須賀は苦笑いを零した。
 神取は黙したまま少年を見続けた。

「……なんですか」

 たまりかねて少年が訊く。

「いや、済まない。人の数だけ好みがあるのは充分理解しているつもりだが、ただ……少し、悲しくなってね」

 そう言いながら目付きに特に変化はない。
 同情もなければ、蔑みもない。
 しっかりまっすぐ向かう強い目。
 少年はしばし見つめ返した後、きっぱりと逸らした。

「でもまあ、そこまでひどい傷じゃなくてよかった。若いから、ひと月もすれば綺麗に治るよ。好きなのは分かるけど、自分の身体も大事にね。人間の身体って結構頑丈に出来てるけど、心はそうでもないからさ」

 須賀は服を渡した。

「じゃ鷹久、近くまで送ってあげて」
「いえ、俺……」

 少年は一歩後ずさり辞退を口にした。

「遠慮せず、甘えちゃって」
「お前はどうするんだ」
「ここで待ってる。ごゆっくり、どうぞ」
「……そうか」

 何か云い含んだ須賀の目をしばし睨み、それでも緩まない微笑に神取は目を逸らして頷いた。

「では行こうか」
「いいです、歩いて帰れます」
「そうはいかない。そうは見えない」

 神取は肩を支え、踏み出した。
 ごく自然な振る舞いに今度は逆らわず、歩き出した。
 男の大きな手が触れた時、少年は鼓動が跳ね上がるのを感じた。嫌悪は全く無かった。恐怖とも違う。さっぱり意味の分からない動悸。見知らぬ人間に無遠慮に接近されたのに、警戒心さえ起こらなかった。
 地下の駐車場に着く頃には鎮まった。
 神取は助手席のドアを開け、乗るよう促した。すぐに思い出し、身体を支えて補助する。
 あれだけの傷だ、上半身だけで済んでいるはずがない。虐待者が、上半身だけで許すはずがない。恐らくは下半身、尻や足にも及んでいるだろう。性器は大丈夫だろうか。同じものを持つ身として、震えが走る。それらに響かぬよう、遠慮する少年の身体を支え、座らせる。
 思った通り、座るまではどこか強張った顔、我慢している表情を見せたが、丁度いい位置に収まり背もたれに身体を預けた途端、少年は小さな、ほっとしたため息を吐いた。
 どこまで行けばいいか、神取は尋ねた。少年は、マンションからほど近くの駅名を口にした。そこが最寄り駅なのだという。
 家まで送らなくていいかと喉まで出かかるが、得体の知れない人間に自宅を教える馬鹿はいない。つまり自分は馬鹿者か。おかしさが込み上げた。
 承知したと答え、車を発進させる。
 地下から出て一つ目の信号を過ぎた辺りで、少年は口を開いた。
 実のところ、足の関節が痛んで歩くのに少し苦労していたので、座って帰れるのは非常に有り難いです。そう言った。
 初めて耳にする本音。

「それは良かった」

 男も素直に応えた。
 十分ほどで目的地に到着する。
 全く会話のない、重苦しい道中がようやく終了した。
 降りる間際、少年はもう一度礼を言った。
 ようやく解放される喜びにほっとして、送ってもらえて助かったとほっとして、笑顔を見せた。
 ごく自然に顔に浮かんだ綺麗な表情に、神取は思わず見とれた。すぐに気を取り直す。

「……約束通り、君の事は誰にも言わないよ。私も彼も、誰もね」

 そう告げると少年はいくらか硬い顔付きで頷いた。自分も言いませんとの言葉に助かると神取は笑った。

「ではお休み。さようなら」

 神取は手を上げ、礼儀として別れを告げた。

「……さようなら」

 走り去る車を見送りながら、少年も同じく口にした。途端に胸の奥に何か重いものが過ぎった。正体はわからなかった。

 

 

 

 四月某日、月曜日。
 その日、聖エルミン学園で始業式が行われた。
 学園一賑やかなクラスと評判の、元一年、現二年のとあるクラスは、久方ぶりに顔を合わせるクラスメイトとの賑やかな会話も他のクラスよりずっと騒々しい。まとめる担任もそれなりに骨のある人間であるが、手を焼いていた。
 学期初日という事で、簡単なあいさつと連絡事項で終わり、すぐに下校となった。
 ひと時も静寂の訪れぬクラス、騒々しさは継続し、早速クラブ活動に出る者と、誘いあって帰宅の途につく者とが、教室を行き交う。
 帰り支度をする桜井僚の背中に向かって、一人の生徒が声をかけた。

「ピアス、今日ないんだね」

 僚はぎくりとして耳を押さえた。しかし振り返る時にはそんな素振りも見せず、ドジをしたと笑いながら言った。

「うん、失くしちゃって」
「あれー。結構似合ってたのに」

 それは残念と、彼は顔をしかめた。

「じゃさ、今度オレ様が、いいの見繕ったげるよ」
「オマエのセンスじゃ、桜井に似合わないだろ」
「なんだよマーク、オレ様のセンス、中々のものじゃない?」
「まあ悪かねえけど。帰り、ジョイ通行くだろ」
「もちろんですとも。桜さんも行くでしょ」

 誘いの声に、僚は済まなそうに首を振った。

「そっか、じゃまた今度ね……南条は行くでしょ」
「見ての通り忙しい」

 黒板の清掃中だと、背中を向けたまま、南条は素っ気なく答えた。
 確かに、見ての通り日直の仕事に勤しんでいるが、何時間もかかる訳ではない。
 終わってからでいいからおいでよと食い下がるが、南条は一度も振り返る事なくばっさり切り捨てた。

「他の奴を誘え。以上」

 相変わらずの付き合いの悪さに、ブツブツ零すが、すぐに立ち直り、今度は女子の面々に声をかける。
 そしてメンバーが揃い、彼らは固まって教室を出て行った。
 僚は手を振って見送った後、窓の戸締りをして回った。
 途中で気付いた南条が声をかける。

「うん、たまにはこうやって、恩を売っておくのもいいかなと思って」
「お前は…あいつ、上杉ほどではないが、おかしな奴だなお前も」

 こんなのに付き合うなら、上杉の誘いに乗ればよかったじゃないかと南条は言った。
 日誌の作成に取りかかった南条の隣に腰掛け、僚は返した。

「実はついこないだ風邪引いちゃってさ。まだちょっとあれで。だから、遊びに行くのはちょっとだるいんだ」
「なんだ、だったらさっさと帰って休め。無理するな」
「ありがと。たださ、帰っても一人だからさ」

 一人は気楽だが、一人はそれほど。
 しばし黙し、南条はそうだなと相槌を打った。彼は、エルミンからほど近くのアパートで一人暮らしをしている。
 時々話題に上る事がある。年頃の子を持つ親として当然の干渉を、年頃の子供達は鬱陶しがり、一人になりたがり、実際一人で暮らしている僚を羨ましがる。
 そんな時僚は冗談交じりに、一人だとこんな苦労があってね、と面白おかしく話して聞かせた。
 オカルト好きな女子生徒が、それは何とか現象ですわと話をややこしくし、みんなが真剣に震え上がる事もあった。
 彼らといる時はそうやって笑い話にするが、一人はそんなにいいものではないと知っている南条には、僚は素直に心情を吐露した。
 南条は日誌を書きながら言った。

「早く、風邪が治るといいな」

 そうしたら、あいつらと過ごす時間が増えて、気も紛れるだろう。

「だね。そん時は南条も一緒にね」
「俺はいい。馬鹿騒ぎは性に合わん」
「馬鹿騒ぎもたまにはいいよ。帰った後、余計寂しくなるから」

 南条は何とも言えぬ顔で僚を見やった。

「あれ、なんだろうね。翌日もがっこで会えるのにさ、どーっと来るんだ」

 僚も顔を向け、笑いながら軽く首をひねった。それから南条の肩を軽く叩く。

「ま、これで一回貸したから、今度付き合えよ」
「……じゃあ次に貴様が日直の時に返して、チャラにする」

 仕上がった日誌と、荷物を手に、南条は立ち上がった。

「なんだよ、そんなに嫌がらなくたっていいだろ」

 僚は笑って教室の灯りを消した。
 日誌を届ける南条に付き合い、職員室まで共に歩く。
 南条が職員室に入ると同時に、校長室から男が出てきた。
 視線がぶつかったのは、ほんの一瞬だった。
 男は見送る校長に丁寧に頭を下げ、玄関を出ていった。
 そして南条が職員室から出てくる。

「ではな、桜井。助かった」

 律儀に礼を言い、早く帰って休めよと言い渡す南条に軽く手を振り、僚は数分、その場に立ち尽くした。
 一瞬を思い出す。
 男は一瞬、ほんの僅かに目を見開いた。ただそれだけだった。もしかしたら自分を認識していなかったかもしれない。気付かなかった。わからなかった。制服姿でそうとわからなかったのだ。ピアスもしてないし…左耳を押さえる。
 自分はどんな顔をしただろうか。どう映っただろうか。
 何故ここに、あの男がいたのだろうか。
 僚は歩き出した。
 あの男と会った夜、客に無理やり大股開きにされて、限界に軋んだ股関節は、もうすっかり元に戻った。
 肘のかさぶたはまだしつこくへばりついている。背中の腫れもまだ長引いているものもあり、汚い色の痣があちこち残っている。だがおおむね、身体は元に戻りつつある。
 校舎を出ると外は見事な桜吹雪。少し強めの風にさあっと花びらが舞い上がり、ちらちらと煌めいて視界を彩った。しかし風情に浸る余裕はなかった。
 門を出たすぐのところに、車が一台停まっていた。車の傍には青年が一人。僚を目にして彼はにっこり笑い、一礼した。
 誰かと勘違いしているのだろうかと訝るが、すぐに思い出す。あの夜、男の乗った車を運転していた人間だ。
 傍まで近付くと、青年は当然といった顔で後部座席のドアを開け中へと促した。
 ちらりと覗くと、中にはあの男。

「送るよ」

 隣に手を差し伸べ、神取は静かに言った。
 僚はしばし逡巡し、車に乗り込んだ。

 

 

 

「こちらの用であいさつに寄っただけだよ、君の事は一切口にしていない。そもそも、君がここの生徒だったとは、あの瞬間まで知らなかった」

 彼特有の話し方に過ぎないのだろうが、飄々とした口ぶりは嘘をついているようにも聞こえ、判別し難かった。
 自分でもそう思ったのか僚の表情から察したのか、神取は困ったように笑った。

「明日からも、君は変わりなく日常を送れる。保障するよ」

 約束したからね、と続ける。

「だが、偶然とはいえ君に会えて良かった。どうやって返そうかと悩んでいたところなんだ」

 透明な小袋に入ったピアスが差し出される。

「どこで失くしたかと、困っただろう。車の中に落ちていたんだ。これで肩の荷が下りたよ」

 申し訳なさそうにする神取から受け取り、僚はしばし呆然とする。
 いつだったか覚えてもいない。どこかの馬鹿な男に、プレイと称して開けられたもの。何の思い入れもない…が、済まなそうにして、返せた事にほっとしている彼にそんな事言う気にもならなかった。
 出来るだけ気持ちに沿うよう、礼を言う。
 だが、やはりどこかにぎこちなさが出ていたのだろう、そして神取にはそれが、自分が学校の人間に彼の事を告げ口したと疑っているように見えた。

「まあ、私も君と同類といえば同類、だから、君の事を人に話したりはしないが、素性もろくに知らない人間の言う事など、そうすぐには信じられるものでもないからね」

 疑うのも無理はない。
 僚は返答に困り黙した。
 その時神取が、ちょっと失礼、と頭に手を伸ばしてきた。
 視界の端に手が過ぎる。僚は動きを止めた。特に緊張といったものはなかった。何をしているのだろうかと待っていると、手がおりてきた。
 指先に桜の花びらを摘まんでいた。
 男はそれを、まだ僚が手にしているピアスの入った小袋に一緒に入れた。

「あ、ごめん……あの、どうもありがとう」

 たちまち僚は恐縮した。頭にみっともなく花びらを乗せていたままでいたのかと思うと、遅れて恥ずかしさがやってくる。
 男は合わせるように軽く笑った。馬鹿にするのではない微笑。
 僚は小袋をポケットにしまった。

「そこで、この先一週間、何も起こらなかったら、食事に付き合ってくれないか」
「……は?」
「君は何かアレルギーはあるかい? もしくは、どうしても食べられない物とか」

 僚の困惑をよそに、男は自分のペースで喋り続けた。
 綺麗に整った顔がぽかんと呆けているのは中々面白かった。つい笑ってしまいそうになるのを飲み込み、神取は答えを待った。

「あの……いや別に、何も」

 裏を読む暇も考える余裕もない。僚は素直に首を振った。

「何でも食べられる? そう、良かった」

 男はぱっと顔を明るくさせた。
 目的地に到着する。

「ではまた金曜日に」

 約束を交わし、僚は車を降りた。
 運転席からにっこりとお辞儀する青年に反射的に頭を下げ、走り去る車を見送る。
 先日と同じ行為だが、前回のような苦しさは一切感じなかった。

 

 

 

「あ、桜さん、ピアス見つかったんだ、良かったね」

 朝、顔を合わせるなり上杉は嬉しそうに目を輝かせた。
 やっぱ桜さんのトレードマークだからね、なくっちゃね…続けながら席に着く。
 僚は軽く笑いながらピアスを弾いた。以前までは何の感情もなかったのに、今はどうしてだろう、このピアスをしているのが我慢ならなかった。

「うん、でも……そろそろ新しいのにしようかなーって」
「うし、今度こそオレ様の出番?」
「だーからオマエはお呼びじゃないっての」
「なんだよマーク、シットですか?」

 ばーか、なにおう…いつものように他愛ない小競り合いを始めた二人からさりげなく目を逸らす。
 わざわざ見つけ、保管し、返してくれたのは純粋に有り難いと思った。こんなゴミをわざわざ、という気持ちも一瞬過ぎったが、向こうは事情を知らない。知らない向こうからすれば、困っている自分を手助けしただけ。
 そんな有り難い親切心を持っている人間が、同類なのだろうか。
 という事はやはり、同じ事をするのか。
 あの男も、あいつらのように異常に目を光らせて、あんな――。
 それならそれでいいじゃないか。自分はそれが欲しいんだ。滅茶苦茶な痛みに晒されて自分すらも分からなくなった時のあの解放感は、あの真っ白になる瞬間は、他では決して得られない。だから『アルバイト』をしているのだ。同類だったなら願ったりかなったり、丁度いいではないか。

「……ほんとかよ」

 知らず口に出して呟く。 
 もらった桜の花びらは、翌朝小袋の中で少し茶色くなっていた。そのままゴミ箱に捨てるにはどうにも忍びなく、アパートの横手にある花壇の土の上に置いた。アパートの斜め前の家にも、庭に小振りではあるが桜が植わっている。そこから風で飛んできた花びらが、花壇の土に何枚も折り重なっていた。その上に、袋からそっと散らした。
 始業のチャイムが鳴り響いた。

 

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