Dominance&Submission

雪見風呂

 

 

 

 

 

 旅行当日、土曜日。
 流れもスムーズな高速道路を、車は、制限速度を少々越えて走っていた。
 トランクには二人分の荷物、後部座席には二人分のコートとマフラー、運転席には男が、そして助手席には、今日までに用意した予定表とガイドブックを膝に乗せた僚が、上機嫌で座っていた。
 落ち着きなく左右に目をやり、次第に移り変わる車窓からの景色を嬉しそうに眺めている。
 都心では前夜の雪はすぐにやんでしまったようだが、離れるにつれて、窓から広がる家並みの屋根にちらほらと雪が被っているのが見られた。
 遠くそびえる山々にも、白い冠が青空に美しく映えていた。

「今日は、全国的に晴れだって」

 出発してすぐ口にした事を僚はもう一度繰り返し、眩しいほど降り注ぐ陽光を仰ぎ見た。見渡す限り雲一つない浅い青色に目を細める。
 澄み渡る青い空をしばらく眺めた後、手元のガイドブックに目を落とし、ぱらぱらとページをめくる。

「昼、何食べよっか」

 目印に端角を折りつけたページをくりながら、僚はうーんと唸った。
 今日までに、飽きるほど目を通しそれでもまだ、昼食をどこでとるか決めかねていた。
 載っている写真はどれもみな食欲をくすぐるものばかりで、出来る事なら全部めぐってみたい。さすがにそれは無理だから、ならば当日の腹具合で決めよう、そういう話になったのだが、いまだに一つに絞る事が出来ないでいた。

「鷹久は何食べたい?」

 こう聞くと、決まって「君の食べたいものでいいよ」と返ってくるのをあえて訪ねる。
 答えはやはりそのままだったが、男は少し付け加えた。

「もしまだ決まっていないなら、いいかな。ちょっと気になるところがあるんだ」
「え、どこ?」

 少しほっとした表情で、僚は代わりにガイドブックを覗き込んだ。

「後ろの方に、『ぼろでぃん』という店があったと思うんだが」

 言われたページをめくり、見付けると同時にああと声を上げる。
 そこはハンバーグやオムライスといったメニューが並ぶ洋食専門の店で、特にビーフシチューを目玉にあげていた。
 白いシチュー皿に盛られた、見るからに美味そうなビーフシチューに釘付けのまま、僚はここに行こうと声を弾ませた。

「到着まではもう少しかかるが、我慢できるかい」
「もう少しだけならね」

 そう言って笑う僚に、男も笑みを浮かべる。
 やがて車は高速道路から市街地へ入り、しばらく進んで唐突に海の見える通りに出た。
 深く沈んだ冬の海に、僚は思わず身を乗り出した。
 夏は海水浴場となる砂浜から遥かに見渡せば、曖昧に横たわる水平線に吸い込まれそうになる。

「窓開けるね」

 言うより先に窓を開け、突き刺すように冷たい潮風を頬に受ける。
 聞こえてくる波の音に耳を澄まし、微動だにせず海を眺めている僚の横顔は、無邪気な子供そのものだった。
 付き合うほどに見えてくる様々な貌は、感情の起伏が乏しい人間という第一印象をことごとく覆す。
 男にとって、それは嬉しい衝撃であった。
 驚かされるたびに、他の人間にはそういう貌を見せないで欲しいと嫉妬めいた感情さえ抱かせる。
 それほど無防備で、愛らしく、大切なひと。
 好きになった後も、恋は出来るのだと教えてくれた。

「降りてみるかい」

 道路端に車を寄せそう尋ねると、僚はさらに目を輝かせ完全に停まるのも待たずに外へ飛び出した。
 ところが、外は思った以上に冷たい風が吹いていた。軽く見回せば、そこここにまだ雪が残っているのだから当然だ。車内の暖房に慣れた身体は一気に凍え、何も考えず薄着のまま飛び出した自分の浅はかさに苦笑いを浮かべて僚は肩を縮ませた。
 寒い寒いと慌てる僚に、男は笑いながらコートを着せてやる。マフラーを渡し、ようやくほっと息を付いた僚と二人、海岸へとおりる。
 うねる砂浜をたどって波打ち際まで近付き、寄せては返す波と遥かな水平線を静かに眺める。
 ある時不意に僚は、視界の端にある男の顔が気になってしまい、そこから先は海よりも隣に立つこの男にだけ意識が向いて集中していくのを止められなかった。
 ひどく落ち着かない気持ちになる。
 ただ並んで立っているそれだけなのに、何故自分はこんなにも動揺しているのだろう。
 息ができなくなる
 どうしてしまったというのだろう。
 気持ちを静めようと視線を下ろせば、すぐ横に男の手があるのが目に入った。
 それは衝動だった。
 思うより先に手を握り、小さく驚いて顔を向けた男に唇を寄せる。
 冷たい唇が触れ合った瞬間、胸が痛いほど高鳴った。
 波の音も、景色も、切り離されて二人だけになる。
 好きになった後も恋をするのだと教えられるのは、これで何度目だろう。
 人目を気にしてすぐに離れるが、繋いだ手はそのままに小さく俯く。
 波の音だけが、しばらく続いた。
 やがて僚は口を開いた。

「寒いから……車に戻ろうか」

 いつもなら何気なく言えるその言葉もつかえながら綴り、恥ずかしさに下を向いたまま歩き出す。

「そうだね」

 男はそう言って、握った手に力を込めた。

 

 

 

 よほど恥ずかしかったとみえて、到着するまでの間僚はずっと押し黙ったままでいた。
 ようやくいつもらしさが戻ったのは、注文したビーフシチューが運ばれ、一口含んでその美味さに感激してからだった。
 無口だったのは、空腹のせいもあったかもしれない、そう思わせるほど僚の食欲は旺盛だった。
 一さじごとに涙を零さんばかりに顔を輝かせ、褒めちぎり、あっという間に大盛りを平らげた。
 海辺で見せたそれとはまるで違う顔も、彼の持つ魅力の一つだ。
 そんな事をぼんやりと考えながら、神取は食後のコーヒーに口をつけた。
 正面に座る僚は、白いミルクポットの中身を一度に使い砂糖もたっぷりのコーヒーを愉しみながら、窓から広がる雪景色に見入っていた。
 頬杖をつき、遠くに視線を向けるその横顔は、年齢を忘れさえ、性別さえもぼかして、人とは違う生き物の雰囲気を漂わせていた。
 知らず内に見とれていた。
 心地好い空気に満ちた時間に、日常がゆっくりと溶けていく。
 半ば眠るような穏やかな流れ。
 濃い木目調の内装、カウンターとテーブル席が少々。
 店主の趣味だろうか、あたたかな色調で描かれた風景画があちこちに飾られている。
 窓からの光に包まれた店内は、不思議と懐かしい気持ちを抱かせる。
 このまま、本当に眠ってしまいそうだ。
 二人が目を覚ましたのは、柱にかかった古い鳩時計が三度鳴いた時だった。

「ごめん、寝てないけど寝てた」

 笑って言い繕う僚に自分もだと頬を緩め、そろそろ行こうかと切り出す。
 男の言葉に飲みかけのコーヒーを空にし、僚はコートを手に立ち上がった。
 目的の宿は、そこから車で十分ほどのところにあった。
 歴史を感じさせる重厚な門構えに少しの威圧感を受けながら、僚は男の後について中へと入っていった。
 明治の初期に建てられた相当古い歴史を持つ老舗旅館で、元は宮内庁御用達だったというテレビの紹介を思い出し、心持ち背筋を正し館内へと踏み込む。
 館内に漂う雰囲気に飲まれそうになるが、脳裡に鮮明に甦る記憶…画面で見るのとはまた違った印象の内装に自然と気持ちはほぐれ、男が手続きをしている間中僚は視線を左右にめぐらせ飽きもせず眺めていた。
 先週テレビで見たところに、来ているんだ。
 男と二人で。
 そう思うと、気を付けても頬が緩んでしまうのを抑え切れなかった。
 それがいつもの自分の表情だと誰にでもなく言い訳をし待っていると、やがて男が落ち着いた柿渋色の着物を着た二人の女性従業員の後について戻ってきた。
 一人がお荷物をお持ちしますと手を差し出し、もう一人がご案内しますと手を差し伸べた。
 ついつられてしまうほど柔和な笑みに僚も笑顔になり、荷物を渡すと、むず痒いような気分を味わいながら歩き出した。
 こういった対応には慣れていないせいで、どうしても緊張が先に立ってしまう。そしてそれとは別に、夢見心地な気分も味わう。

 

 

 

 石畳を歩いた先にある離れに案内され、一通り施設の説明を受けて従業員を見送り、二人になった途端僚はほっと肩を落とした。
 そして早速、本間の中央にある炬燵に嬉々として足を潜り込ませると、丸い器に置かれた菓子に手を伸ばした。
 淡い色使いで草花の描かれた綺麗な和紙に包まれ、口を紐で結んであるそれはどうやら饅頭のようで、期待しながら紐をほどいた僚はしばし眺めてから口に放り込んだ。

「どんな味だい?」
「あんこがすごいうまい」

 もごもごと答える僚に手渡され一旦は包みを開けるが、あんまりおいしそうに食べているのを見て、自分の分もどうぞと男は差し出した。

「え、いいよ。鷹久食べなよ。ホントにうまいから」
「おいしい時に食べるのが一番だよ」

 いいと言いながら、一瞬目を輝かせたのを男は見逃さなかった。おかしそうに笑いながら、口元に饅頭を持っていってやる。
 何か言いかけたが、結局僚はありがとうと素直に口を開き、二個目もぺろりと平らげた。
 落ち着いたところで僚は本間をぐるりと見回し、障子に近付いて手をかけると、片方を開き、途端に広がる趣のある雪景色に満面の笑みを浮かべた。
 都心では滅多に見られない風景に、声もなく見入る。
 じわじわと込み上げてくる喜びに身体が弾け飛んでしまいそうだ。

「浴衣に着替えるかい」

 声に振り返ると、薄い紺地に白をさした浴衣一揃えを差し出され、僚は頷きながら受け取った。
 そして見よう見まねで着てみるのだが、今一つしっくりこない。仕方なく、照れ笑いでごまかしながら教えてくれと男の袖を引っ張る。

「ああ、いいよ」

 神取は笑うと、一旦帯をほどき、横に並んで手順を追いながら着なおし始めた。
 少しもたつきながらもようやく帯を結び終えた僚は、自らの浴衣姿を複雑な顔で見つめ、うーんと唸った。

「よく似合っているよ」

 見慣れないせいか首を捻る僚にそう笑いかけ、神取は抱き寄せた。

「鷹久のがずっと似合ってる」

 屈託なく笑う僚に、思わずどきりとさせられる。
 笑みを浮かべたまま言葉に詰まった男の腕を何気なくすり抜け、僚は再び窓の方へ近付いていった。
 柱を挟んだ二枚の障子をいっぱいまで開き、大窓から広がる雪の庭に感嘆の声をもらす。

「あ、あった。あれ、寒牡丹だよな」

 僚が嬉しげに声を張り上げ指差す先には、テレビで丁寧に紹介されていた、紅色の花がたたずんでいた。雪に埋もれないようにと、藁囲いをされた中であでやかに咲く花を神取も見やり、声に応える。

「良い風情だね」

 本当にと続けた直後、いきなり背後から腕を回され、きつく抱きしめられて、僚は小さく驚いた。

「え…あ、ちょっ……」

 さらに、浴衣の裾を割って差し込まれた手に、抗議の声を上げる。しかし男は離れず、どころか胸元にまで手を滑り込ませ、欲しいと無言で訴えてきた。

「な、に……」
「少し……欲しくなった」
「……うん」

 自分にもその気はある。だが、せっかくの雪景色をろくに見ずにいきなり始めるのには少し腹が立った。
 はしゃぎすぎは自覚しているが、同じものを見て感心するくらいはしてくれたっていいじゃないか。

「もう…なんだよ、変態」

 怒りに任せ、僚はやや声を尖らせて言い放った。
 その言葉に、男は目を細め薄く笑った。

「そうだね……でも、違うよ」

 僚は目を見開いた。

 

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