靴紐

蛇足

 

 

 

 

 

 その日の夜、奴は手土産持参でやってきた。
『また来ますって、今日の今日はないだろ』
 そういえばコイツ、初訪問もそんな感じだったな。思い立ったが、てやつか。
 テーブルに手土産を置き、床に額を擦り付けたままじっと動かない鳥束を椅子に座って見下ろし、痛む頭を押さえる。
 帰宅した両親と揃って夕飯を済ませてしばらくして、外から奴のものらしいテレパシーを拾った時は驚いた。
 次に顔を合わせるのは明日学校でと思っていたので、さすがの自分もうろたえた。奴の声じゃない、聞き間違いであってほしいと願ったくらいだ。
 しかしまぎれもなく鳥束本人で、汚い事に幽霊を使ってこっちの様子を探る事までしていた。
 今うろたえた事も、今まで考え込んでいた事も、全部筒抜けか。
 本当に汚い奴だ、幽霊たちも素直に奴に伝えるんじゃない。
 待て、それ以前に、さっきの事も全部見られていたのだな――もういい、そこは考えないようにしよう。
 家全体に響き渡るチャイムの後一階から母の声がして、何とも言えない気持ちになった。
 玄関に入れる前に、友人を騙る詐欺の類だとか適当な事を言って追い返せばよかったと、今更ながら後悔する。
 部屋に招き入れた後では、手遅れだが。
『で、何の用だ?』
 聞くまでもなくわかっている。手土産の中身も自分にはすでに丸見えだ。奴があの後すぐに貯金を下ろしに行った事も、その金で駅前のデパートで高級コーヒーゼリーの詰め合わせを買った事も、全部わかっている。
 もちろん、用件が何かさえも。
 すべてわかっているが、どんな風に切り出すのか…いや、単純にコイツの声が聞きたくて、僕は目を逸らしたまま尋ねた。
 斉木さんと、真面目ぶった声で呼ばれ、首の辺りがむずむずした。
 夜遅くに済みませんか、そう思うなら明日にすればよかっただろ。
 でも出来るだけ早く話がしたかったんです、そうだな、それはこっちも同意見だ。
 鳥束は一旦口を噤み、呼吸を整えた。
 付き合う事になった訳ですから、お互い取り決めがありますよね、それで――。
「何が嫌で何が良いのかわからないんで、斉木さんライン引いて下さい。オレはそれに全部従うっス」
 そこでようやく、鳥束は顔を上げた。
 澄んだ目をしたクズが、まっすぐこちらを見上げてくる。
 その瞳が透けてしまうぎりぎりまで見つめて目を逸らし、言ってやる。
『迷ったらやめろ』
「……え、どういう意味スか?」
『これをやったらマズイだろうかと、迷う事は一切するな。それだけだ』
 僕がお前に望むのはそれだけだ。
 あれをするなとか、これをするなとか、いちいち細かく取り決めなんて面倒くさいんだよ。そういう事を考える時間がもったいない。そんな暇があったら他の事をしたい。
 実のところ、お前が帰った後ずっとそのことを考えていたがな。
 こちらの言った事がうまく飲み込めないようで、鳥束は困惑気味に愛想笑いを浮かべていた。それをよそに、手土産の包装を破いて箱を開け、コーヒーゼリーに手を伸ばす。
 ふむ、デパートで売っているだけあってとても良い品だな、スプーンまで凝ってる。
 一つ手に取りじっくり眺めた後、元通り椅子に座って食べ始める。
 うん……見た目を裏切らない味だ、全然嫌いじゃない。
 そう、どうせ使うならこういう事に時間を使いたい。
 出来れば部屋に一人がいいが、今は何故だか鳥束がいた方がより落ち着いた。
 当の鳥束は落ち着かない気分のようだが。
『で、お前の方は? 僕に何を望むんだ?』
「……いえ、ないです。斉木さんはそのままでいてください」
 鳥束は妙にすっきりした顔で、それだけを言った。
 嘘吐きめ。頭の中でぐるぐる渦巻いてるあれやこれや、全部聞こえているんだぞ。なんで言わないんだ。
 まあ、自分も人の事は言えないが。それは本心を隠すとかじゃなく、いざ言おうと思った時、どうでもいい事になったからだ。
 どうでもいい事はさっさと頭の隅に追いやるに限る。
 これから、そんなもの比じゃない面倒事が待っているんだからな。
 どうなるかなんてやってみないとわからない、もう始まってしまった、無かった事には出来ない。
 だというのに、なんでお前はそんなに浮かれているんだろうな。
 これからの事に期待ばかり膨らませて、楽しみな事ばかり思い浮かべて、ちっとも不安を感じてない。
 自分はこんな風に無軌道に転がったりせず、何の起伏もない普通で平凡な毎日がいいのに、どうかしてる。
 受け入れてもらえて良かったと、ほっとして喜ぶ鳥束の声が聞こえてきた。
 そんな心の声を聞いて自分もほっとするなんて、本当にどうかしてるよ。

 この先どうなるか僕でさえわからないが、とりあえずよろしくな、鳥束。

 

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