昼下がりに

春:眠気覚ましと詫びの品

 

 

 

 

 

 春だ。
 透き通る寒さに苦しめられる冬を乗り越え、穏やかなあたたかさに包まれる春が来た。
 縮こまっていた手足を思いきり伸ばし、かぐわしい空気を胸いっぱい吸い込み、芽吹きの季節に感謝しよう。
 女の子たちの装いが、重く暗く分厚い重装備から、軽やかで華やかなものに変わった事にも感謝しよう。
 ふわふわひらひら、花のように可愛らしくなって…っかー、春最高!
 何はなくとも心がウキウキする。
 だがしかし――。

 昼の後の授業はきつい!
 何がきついって、睡魔との戦いがきつい。
 ここ数日、辛うじて勝っているが、そろそろ負けそうである。
 ポカポカ陽気、腹一杯、重なったらどうしたって眠くなる。
 もう無駄な抵抗は止めようかな。
 とろんとくっつきたがる目蓋に、オレは小さく息を吐く。
 ああもう駄目だ、もういいにしよう。
 オレは誘惑に抗わず机に身を任せた。
 冬の間はひんやり冷たくオレを突き放した机だが、春の今は、大らかにオレを受け止めてくれた。
 ありがとうと心の中で感謝し、目を瞑る。

 そしてオレは、恐ろしい悪夢の世界に引きずり込まれるのだった。


 気が付くと夜の校舎を徘徊していた。
 まっすぐ伸びる廊下を、オレは最大限に警戒して一歩ずつ歩みを進めていた。何故そうするかと言えば、校内に潜む殺人鬼に見つからない為にだ。
 曲がり角では特に警戒し、じわじわと覗き込んで安全を確認してから進んだ。
 真夜中、誰もいない校舎内を、一人ひたひたと歩き続ける。

 そうやって出口目指して進んでいると、ついにというべきか殺人鬼と遭遇した。
 進む先の曲がり角から、ぬらりと姿を現したのだ。
 目にした途端、全身からどっと汗が噴き出した。
 必死に逃げるが、どういうわけか足が動かず思ったように走れない。
 追い付かれる事はないが、引き離すには遅すぎる。
 すぐ後ろにぴったりくっつかれる恐怖のすさまじいことといったら!
 教室に逃げ込んで、隠れ場所である教卓やロッカーを利用しやり過ごし、どうにか出口のある一階の玄関にたどり着いた…と思ったら、すぐそこのロッカーから殺人鬼が現れオレは心臓が止まりそうなほどショックを受けた。
 汚い叫びを上げて逃げ出すも、行動に移すのが一歩遅れたせいで捕まってしまい・・・。

「!…」
 全身がびくっと痙攣し、オレは目を覚ました。
「はあぁ……」
 腹の底から息を吐き出す。
 あー…最悪だ。
 なんだ今の夢は。
 あれだな、昨日遅くまで、ホラゲやったのが原因だな。
 何はともあれ、夢でよかった。
 オレは机から身を起こした。
 ところが。

「……あれ?」
 教室内に誰もいないのだ。
 オレだけ置いて移動教室?
 いや、時間割が違う。
 体育でもない。
 てか、いつの間にか夜になってる!
 そんなに寝てたとか・・・いや違う――
「まだ夢の中だ!」
 理解した途端、教室のドアがガラッと開き、殺人鬼が現れた。

 また逃げ惑うオレ。
 またしても出口直前で捕まってしまい・・・

 目を覚ます。
 だがやはりまだ夢の中だった。
 これで何度目だ?
「くそー、どうやったら起きるんだよオレ!」
 声は空しく響くだけだった。
 じわじわと絶望が忍び寄ってくる。
 と、どこからかカラーンカラーンと鐘の音が聞こえてきた。
 今までこんなの聞こえなかった、一体何を告げる鐘の音なんだ?
 オレは辺りを見回し身を竦めた。
 カラーンカラーン…カーンコーン
 はっ、これ学校のチャイムだ――


「っ……!」
 気付いた途端足が盛大にビクっと痙攣した。
 今までと違う、本当っぽい感覚があるが、怖くてオレは目を空けられなかった。
 周りはザワザワと賑やかで、昼間のように明るく眩しく、まるで授業が終わったばかりの教室…教室だわ。
「あぁ……」
 あ…オレ、やっと戻ってこれたというかやっと起きたんだ。
 夢の中で感じたドキドキは尾を引き残っており、本当に起きたのかオレはしばらく信じられなかった。
 しばし警戒しつつ辺りを見回し、ようやく、オレは身体から力を抜いた。


「――てな事があったんスよ」
『ふうん』
 放課後、斉木さんと寄った純喫茶魔美で、オレは見た夢を話して聞かせた。
 ほぼ興味なしの顔だが、オレは怖い気持ちを内に残したくないので、全部一気に吐き出した。
 そして衝動的に、コーヒーゼリーの器に添えられた斉木さんの手を掴もうとする。
 まあ当然ながら事前で察知され避けられたが。
『何考えてる』
「いや、すません、あの、ほんと怖かったんで、これ現実だって証拠が欲しくて」
 心底嫌そうな顔に即座に謝り、オレは口をへの字にした。
「斉木さんのあったかい手で、心を宥めたかったんスよ」
 斉木さんの嫌う、人前でのイチャイチャじゃないっスよ。
 今は、そう説明した事で「あわよくば」が浮かんじゃってますけど、触ろうとした時は純粋にその気持ちだったっス!
『怪しいものだな』
「くぅ……」
 オレはどーせ煩悩の塊ですよ。
 どーせ怒られるなら思いきりだ、斉木さんとチョメチョメする妄想に没頭してやる!

『あんまり馬鹿な事を考えるようなら、もう一度悪夢に叩き落すぞ』
「!…アンタ!」
 あれ、斉木さんの仕業だったんスか!
『はて、何の事やら』
「とっ……!」
 とぼけやがって!
「今、白状したくせに!」

「もー!」
 ほんとーに怖かったんですからね。
『授業中に居眠りするお前が悪い』
「だっ……からって、趣味の悪い」
 オレはぐすんと泣きべそかいた。ほんの少し残った冷めかけのカフェオレを一気にあおる。
「それに、春の昼下がりはホントのマジで眠くなるんですって」
『まあわからんでもない。だから僕も、眠気覚ましに、お前をからかってみたんだ』
「もー!」
 そんな眠気覚ましがありますか!
 これだから超能力者は。ほんとにもう。イタズラばっかして。ブツブツ。
「オレがどんだけ怖い思いをしたかと」
『そう怒るな。帰りにコーヒーゼリー買ってやるから』
「それは、アンタが食べたいんでしょ」
『ああ、食べたい。買ってくれるのか?』
 んな事言ってない!
「けど、食べたいなら奢りますよ」
『そいつはありがたい。じゃあお前にはわらび餅を買ってやる』
「え、……うそ!」
 オレの好物だよ、ほんとに買ってくれるの?
『駅向こうの甘味処、たしか持ち帰りでわらび餅あったよな』
「ああーありますあります! え、ねえ、ほんとに?」
 オレはまだ信じられなくて、大きく目をむいた。
 斉木さんは素直に頷いて、さあ行くぞとてきぱきと帰り支度を始めた。

 ――ありがとうございました
『そら。なくすなよ』
「いやー、うわー、夢みたいだ」
 ありがとう、ありがとう、斉木さんありがとう!
 小さな紙袋に入ったわらび餅を受け取っても、オレはまだ半信半疑だった。
『もしかしたら、まだ夢の中だったりな』
 意味ありげに笑う斉木さん。
 もーやめてよ、鬼ごっこはもう懲り懲りっス。
 そんな……まさかね。
『安心しろ、鬼ごっこはもうない』
「……はぁ」
 もうナイにしてくださいよ。あんなの、二度と御免ですから。
『ただし、現実かどうかの保証は危うい』
「もー!」入り組んだツンデレはいいから!「コーヒーゼリー、買いに行きますよ」
 こくりと素直に頷いた斉木さんは、まるで夢のように可愛かった。


 ちょっとドキドキしながら食べたわらび餅は、今までで一番、美味しかった。

 

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