最後までやらせてやる
(なんでオレ、こんな苦行やらされてんだろ……) ごちゃごちゃした数式の並ぶ問題文に目が霞む。 オレは遠のく意識を何とか奮い立たせ、斉木さんに目を向けた。 日当たりの良い窓に向けて置かれた机の前、回転椅子に腰かけ、至福の表情でコーヒーゼリーを楽しんでいた。 対してオレは、そこから離れたテーブルでクッソつまらない問題集に向かっている。 (なんでだっけ……) 『鳥束』 「はい?」 『今から五秒以内に再開しない場合、お前の命の保証はない』 「何が起こるんスか!」 オレは目をひん剥いた。更に問い詰めたかったが、五秒という言葉に縛られ仕方なく問題集に向かう。 |
数日前に斉木さんと寄り道デートを楽しんでから今日に至るまで、オレは悶々と過ごしていた。 翌日すぐ、お駄賃にもらったわらび餅のお礼を言って、いつもより更に素っ気ない斉木さんの態度から照れ隠しを読み取って、中々良い気分を味わった。 ぽっと胸に小さな花が咲いたような、そんなささやかな幸せを感じていた。 その日の内に昨夜の続きがしたいと申し出た、が、その日は燃堂たちとラーメン食べに行くから無理だとか、明日も無理だとか、すげなく断られた。 まったくあの人は、照れ隠しバリア強すぎだ。 いつまでもこもってないで、早く開門してくださいよ。 そんなこんなで数日が過ぎ、ようやく昨日許可を得た。 はあ、長かった…オレは舞い上がってコーヒーゼリーを手土産に、喜び勇んで斉木さんちにやってきた。 部屋に通され、では早速と顔を輝かせたオレを待っていたのは、先日と同じような、また別の問題集。 そのまま現実逃避したかったが、有無を言わさず斉木さんに問題に向かわされ、今に至る――。 |
『回想はいいから手を動かせ』 「はいはい、わかってますよお!」 オレは泣き笑いで声を張り上げた。 やれば出来る、やれば出来る、やれば……えへへ。 鼻水だか鼻血だかよくわからないものを啜って、オレは霞む目を瞬いた。 先日萎びるほど向かい合ったのがまだ頭に残っているようで、ちょっと前の自分ならわからなかった問題も、どうにか解く事が出来た。 くらくらする頭を押さえて次の問題に取り掛かる。 そこで躓いた。 (やべえこれ全然わからない) (これ斉木さんに聞いていいかな、まずいかな) (下手に口きいたら首とんされて飛んでくとかないよな、やべえどうしよ) 聞くに聞けずだらだらと冷や汗をにじませていると、見かねて斉木さんは助け船を出してくれた。 一度目の説明では理解出来ず呆れられたが、次の噛み砕いた説明でようやくオレは理解を手にして、はしゃぎたい気持ちになった。 「斉木さん、あざっス」 その勢いのまま抱き着いて、お礼のチューをする。 コーヒーのいい香り。 ……あれ? 避けないし素直だな。 (え、じゃあもう少しいっちゃってもいい?) (これいいよね?) 「斉木さん……」 二度目のキスに向けて顔を近付ける。 斉木さんの右手がオレの首筋に添えられ、そして左手はなんと股間に伸ばされた。 うわ大胆だな…キスから一足飛びにそっちいっちゃいますかと、ドキドキで頭まで割れそうにときめいていると、斉木さんの声がした。 『鳥束』 「な、なんスか」 やべ、声が上擦ってる。 斉木さんの顔に綺麗な微笑な浮かぶ。何を考えてそんな綺麗に笑うんだろうと、ぽーっと見惚れた。 『鳥束』 「……はい」 『声が出せなくなるのと、男でなくなるのと、どっちがいいか選べ』 |
「!…」 喉元と股間がひゅっと冷たくなる。 オレはすぐに退こうとしてはっと思いとどまった。 下手に動こうものならこの人は本当に実行するだろう。そして、痕跡も残さずオレを葬り去るだろう、もしかしたらオレが存在していた事ひっくるめて、丸ごとオレを消すに違いない。 それくらいのこと、この人にはたやすい。 オレはそっと、本当にそろそろと動き、刺激しないよう身体を離した。 斉木さんは立ち上がると、やれやれと小さなため息をついて椅子に座った。 それまで、オレは微塵も動けなかった。遠ざかるまで動けなかったのだ。 充分距離が開いたところで小さく呟く。 「スミマセン……」 『早く解け』 「はい……すんません」 『あと少しじゃないか。さっさとやれ』 「やりますよ……やりますから、そう急かさないで下さいよ」 オレは情けなくもぐすぐすと鼻をすすりながら問題集に向かった。 親に怒られながら、たまりにたまった夏休みの宿題にとりかかる小学生の気分だ。 マジもんの親もおっかないが、斉木さんのおっかなさは格別だ。 親なら、家族ならある程度のなあなあで済まされるところがあるが、斉木さんにはそういうのまず通用しない。 いつだって永久凍土、氷の女王、情け容赦ない。 ああ…斉木さんのエロい顔と、無理やり叩き込まれた数式やら英文法やらが複雑に絡み合って、もう頭ごちゃごちゃでパンクしそうっス。 一切のお情けが通用しないとわかっているのに、オレはつい斉木さんに縋ってしまう。 半ば無意識に顔を上げて見やる。 どうせ、このノロマめって顔して見てるんだろうな。 思った通りの目がそこにあった。 足組んで腕組みして、どんな鬼教師よりもおっかない顔をしてオレを見下ろしていた。 思った通りいやそれ以上、実物はやはり迫力が違う。 発する空気もけた違いだ。 怖い怖いと身のすくむ思い。というのに、やめろオレの脳みそ、余計な事を考えるんじゃない。ここで斉木さんとした事とか思い浮かべるな、やめろマジやめろ、オレの存在が危うくなるだろ今すぐやめろやめてください。 『本当に気持ち悪いなお前』 ひぃ、許してください。 「んな事言ったって、斉木さあん」 『喋り方も気持ち悪い』 傷付くわあ。 |
泣きたいのをぐっと飲み込んで、一つひとつ問題を解いていく。 また難問にぶつかり、斉木先生を呼ぶ。 「ここ、これで解き方合ってる……スかねえ」 半分しか自信がない。 斉木さんはざっと目を通し、上出来じゃないかと珍しい声をかけてくれた。 えへへ、そりゃ優秀でおっかない先生がついてるっスからね。 笑いかける。 つい、間近の唇が嬉しくて触ってしまう。 斉木さんがその手をそっと掴むから、思わずオレはどきりとした。 人差し指が掴まれ、じわじわ徐々に手の甲へと押しやられる。 『懲りない奴だなお前は』 「斉木さん……斉木さん! 指の骨が折れる!」 『人間には215本の骨があるんだ、1本くらいなんだ』 「いでで! いやそれどこの反乱軍リーダーのママさん――いだだだだ!」 『1本なんてケチケチせずに、いっそ右手丸ごといっとくか』 「勘弁してー!」 言葉は恐ろしく物騒で性質悪い、だのに斉木さんの手つきはすんげえ優しくてちょっとエロくて、とてもこれから全折りにかかるとは思えなかった。 だからオレも、凶悪ないたずらはここまででここからはいい流れになるのかと思いきや、斉木さんは躊躇なく手を握り締めてきた。 つまり、圧迫で粉砕しようってわけだ。このままでは本当に手首から上全部が粉々になる。 ようやく解放された右手を左手で包み、オレはぐすぐすとべそをかいた。 『泣き虫なやつだな』 「そりゃ、こんな目にあわされたら泣きもします!」 まったく、なんだってこの人こんな暴君なんだ。 それでも好きで好きでたまらないって、オレもどうかしてるよ。 「もう、ほんとに折れたらどうするんスか」 『どうなるんだ』 どうなるもこうなるも、日常生活のあれこれから、一人遊びに至るまで、何もかも不自由になる。 『片手は残ってるだろ』 「ああもうなんてひどい人だろ!」 涙が飛び散ったよ。 それに、斉木さんのいいとこに触るのだって出来なくなるんスからね。 こんな風に、と頬っぺたに触る。 斉木さんの両目が、微動だにせずオレを捉えている。 迫力にびびりそうになるのを懸命に堪える。 「斉木さんの体温が感じ取れないのも、いやっス」 『片方で充分だろうが』 「両手で確かめるのがいいんですー」 こうやって。 「斉木さんだって、触ってもらえなくなるの、いやでしょ」 『さあな』 何がさあなだ、ちくしょう、そんな澄ました顔したって無駄ですからね、オレもう知ってるんスから。 ちょっとむっとして、両手で斉木さんの頬を挟む。 まだ、目はじっとオレを見ている。 オレは躊躇しつつ、おっかなびっくり顔を近付けた。 いいのか、いいのか? 大丈夫か? また阻まれるんじゃないかとびくびくしながら、一ミリずつ唇に向かう。 直前で挫けそうになるが、負けるものかと破れかぶれになって押し付ける。 驚くほど素直にキスさせてくれた。 熱を帯びた、ぷるんと瑞々しい唇の感触が気持ち良くて、思わず涙ぐみそうになる。 |
と、斉木さんの片手が後頭部にかかった。 なんだ…調子に乗ったから、今度は指なんて言わず頭ごと潰されるのか。 そんな推測に背筋がぞっとしたが、一旦火が付いた身体がそんな事で退く訳ない。 どうせ潰されるならと、オレは開き直って斉木さんを押し倒しそのままキスを続行した。 そうですよ、オレは懲りない人間なんスよ。 斉木さんの手に力がこもる。オレの頭の握り潰す為じゃなく、オレを逃すまいとする為に。 え、なに、斉木さんも乗り気なの? そういうことなの? 夢中になって舌を吸っていると、斉木さんの目とかち合った。 少し細められて、どこか余裕がなくて、潤みがちな瞳に見据えられ、当たりなんだと覚る。 驚きのあまり顔を離す。 『それで終わりか?』 挑発的な物言いにぞくぞくして、勝手に顔が笑ってしまう。 斉木さんの赤い舌が、互いの唾液で濡れた唇を舐める。 背筋がびりびりと痺れた、今のは相当きた。 ああもう、限界だ。 問題集はあと二ページ残ってるけど、我慢の限界だ。 最後までしたい。 したいです斉木さん。 『ああ、最後までやらせてやる』 だから早く来いと、斉木さんの目が誘う。 こんな挑発にオレが我慢出来る訳もなく、斉木さんの物言いに腰が抜けそうなほど震えながら首筋にむしゃぶりついたところで、はっと思い直す。 「斉木さん起きて、オレに掴まって」 硬い床の上でなんて駄目だ、オレは抱き起こした斉木さんを抱え上げ、ベッドに運んだ。 首に回された腕をどきどきしながら外し、間近に顔を覗き込む。 「ほら、両手だからこうやって運べるんスよ」 く、と斉木さんの目が笑う。自分なら超能力でどうにでも出来ると言ってるのだろう。 違う、オレが、この手で運ぶからいいんだ。 「まったく、斉木さんは」 鼻から息を抜くと同時に唇が塞がれる。一瞬、獣に食い付かれたような錯覚に陥ったのは、斉木さんの勢いが強過ぎたせいだ。 もうすっかり力の制御は出来ているけれど、時々こうしてはっとなる事がある。時には痛い思いをする事もあるが、それすらもオレは幸せに感じる。 それだけ斉木さんが求めてるって証拠だからだ。力加減を誤る、加減が下手になる、つまりそれはそうなるくらいオレが欲しいって事で、これが幸せでなくてなんだろう。 だから、噛み付かれようが引っかかれようが、抱きしめられて骨が軋もうが、なんて事はない、余裕をなくしてる斉木さんを前にしてオレはすぐに溶けてしまう。 口の中に入り込んできた舌に吸い付いて、ぎゅっと抱き合う。 (ねえほら斉木さん、両手で抱きしめられるのって、気持ちいいでしょ) 自分が感じているのと同じくらい、この人も幸せに感じてくれたらいいなと、思いを込めて抱きしめる。 |