また後で

冬:乗ってやろう

 

 

 

 

 

 地下鉄の車内は混雑度強、前後左右に多少の隙間はあるものの大っぴらに身動き取れるほどじゃないという混み具合だった。
 人と密着し人に揉まれ押し合いへし合いになるほどじゃないので、不快さはそれほどでもない。
 ごくわずかながら自分のスペースが取れるので、混んでいるがそれほどつらいと感じるものではないのだが、僕は非常に不愉快だった。
 というのも、僕の前はあと五駅は開かない方のドアで、右は座席、手すり、左は静かに音楽聞いてる二十歳くらいのお姉さんとまあまあの環境だが、いかんせん背後が非常にまずいのだ。
 そいつはさっきから、ドアに向かい合う僕の顔をニタニタ見つめちゃグフグフ気持ち悪い鼻息をもらし、気色悪い思考を聞かせてくる。

 寺生まれの鳥ナントカ言う奴で、こいつがまた煩悩の塊で救えないのだ。
 そんなどうにもしようがない奴と僕は残念な事に恋仲で、今日も一人で限定スイーツを求めて出かけるつもりだったが、何を間違ったか奴を誘ってしまった。
 一人で行ったって充分よかったのだが、あと十日で食べられなくなるというそのスイーツの情報をとある雑誌から得た時運悪く一緒にいたし、お供しますよという申し出を断れば済むのに承諾してしまったし、じゃあお前財布係なとノリで言ってしまってまずったと思っても後の祭りだし、その癖じゃあコイツなしで行くかと言われれば…ごにょごにょだ。
 まあなんだ、僕はあと一歩素直さが足りないようだ。
 本当は悪からず思ってる癖に、先に向こうに嬉しそうにされるとたちまち天の邪鬼になって、反対の事を言ってしまう。
 ある意味正直ではあるかな。

 今も、奴の心の声に苛々してしまっている。
 やれ、地下鉄のドアに反射する僕の顔がそわそわしてて可愛いだの、可笑しくて微笑ましいだの言って来られちゃ、誰だって苛々すると思うけどな。
 見えても、心情が透けても、黙ってるのが人情ってものだろ。
 実のところ鳥束は心の中で思ってるだけで、僕に聞かせようとしてる訳じゃないが、僕が思考を読めるの知ってて思うのだから有罪だ。
 悪いのは鳥束だ。
 変態クズごときに微笑ましく見つめられるとか、屈辱以外のなんでもない。
 僕は不機嫌丸出しで、背後にいる奴のつま先をかかとで踏んづけてやった。
「!…」
 たちまち奴は目をむき、矢継ぎ早に怒ってきた。
(痛い、もう…めっ!)
(いきなりなんスか斉木さん!
『ニタニタしててキモかったから』
(そ、そんな事で?)
(まったくもー乱暴な、そんな子にはキスしますよ!)
『馬鹿かお前は。こんなにひと目のあるところで何言ってる』
 僕は大きなため息を吐き出した。
(それもそっスね。んじゃキスはひとまず後回しで、痴漢ごっことかどっスか)
 伝えながら鳥束は、鼻息を荒くし、思い切り下卑た手付きで尻を撫でてきた。
(あー斉木さんのお尻やわらけー)
(手触り最高〜)

 はぁ…なんで僕は、こんな奴を。
 選んでしまったのかと、気が遠のく。

 現実逃避してる場合じゃない。
『おいお前、以前、痴漢滅せよとか言ってただろうが』
 そのお前がこんな事するとかどーなんだ。
(ええ言いましたよ、てか今でも思ってます、そりゃもぅ強く!)
(女性を脅かす奴は敵だ、クズ野郎だ、っスよ!)
 お前が言うんじゃない。
 はぁ…もう一度ため息。
 気を取り直して、僕は奴のつま先を更に踏みにじった。
「ぎ……!」
(ぎゃー!)
(いたいたいたい!)
(マジ痛いから勘弁ー!)

『さっさと手を離せ』
 こんだけ痛い目に遭ってもまだ尻を掴み続ける根性、ある意味感心するよ。
 それも、ようやく離れてくれたが。
『ああ気持ち悪かった』
(気持ち悪いってひどい!)
(斉木さんひどすぎ!)
 うるさいな、その気がない時に触られても、本当に、気持ち悪くておぞ気が走るだけなんだよ。
 のべつ幕なし盛るんじゃない。

 後ろから微かにべそをかく声が聞こえてくる。
(もー斉木さん、後でいやってほど一杯キスしてやりますからね!)
『ふん、思う存分スイーツ堪能したら、お前置いて瞬間移動で帰る』
(え、ちょ、置いてかないで下さいよ)
(ったくもう、素直でないんだから)
(オレとする気持ち良い事好きなくせに、このひねくれ者!)
 頬を膨らませ、鳥束はわかりやすくプリプリ怒りだした。
 車内の照明の具合か、見るからに怒ってるのはわかるのだがどこかひょうきんで、おっかないよりも可笑しいのが勝りついつい笑ってしまいそうになる。
 くそ、鳥束ごときに楽しい気分にさせられるなんて、ムカつくな。
 ごまかしに僕は低音を送った。
『ほう、言うじゃないか鳥束。誰が、なにを、なんだって?』
 ドア越しに凄むと、たちまち奴は震え上がった。
(ひっ!……あ、あ、お鎮め下さい!)
 まったくうるさいな
 静かにさせようと、さりげなく奴の手を掴む。
 ギョッと、あるいは浮かれて、頬が強張る。
(ほ、ほら、やっぱりオレとするの、好きっしょ!)
 僕はいっそ優しく微笑み、人差し指をじわじわと逆に曲げていった。
(ええーこうなるのー!)
(足踏まれた上、指まで折られるとかありえないっス!)
(てか待って待って待って!)
(ギブ、ギブ!)
 ドア越しに必死の目線を寄越してくる鳥束。
 よしよし、いい顔になったな。
 そこで僕は手を離してやった。
 あからさまにホッとするものだから、面白くなって僕は再び手を握った。
 今度は折る為でなく、宥める為だ。
 前を向いたまま、さりげなく手を握る。
 ひゅっと縮み上がる鳥束。
 そら、これで機嫌直せ。
 過剰に強張る手を優しく握ってやれば、鳥束はたちまち上機嫌になった。
『チョロい奴め』
(チョロくていいですー)
(ふへへ斉木さん大好き)
 うるさい奴だ、まったく。

『そらついたぞ、さっさと歩けお財布』
「!…」
 最後にもう一度かかとで踏みしめ、僕は開いたドアを潜り抜けた。
 すぐ後ろから、鳥束のボヤキが追ってくる。
「痛くて歩けないっスよ」
(こりゃもう、後で、キスだけじゃなくフルコース確定っスね!)
『知らん』
 僕は取り合わず、さっさと歩を進めた。
「待って下さいよ」
 鳥束は慌てて追いかけてきた。踏まれたつま先がジンジン痛いとかで、かかとでひょこひょこ歩いている。
 ちょっと、うん、力加減を誤ったか。どれ、少しゆっくり歩いてやるか。
(あ、待ってくれた)
(えへ、やっぱ斉木さん優しい)
『支払いまでは大事にしないとな。へそ曲げられて帰られても、困るからな』
「帰りませんってかその後も普段もいつでも大事にして!」
 オレ、これでもアンタの大事な恋人よ!?
『はて、そうだったかな』
 すっとぼけちゃってからに。
「そーですよ。さ、幸せになりに行きましょ」
『そうだな。事と次第によっちゃ、続きを考えてやらん事もない』
「えっ……痴漢ごっこ乗ってくれるんスか!」
 何言ってんのコイツ。
 てか顔パァっとさせるな変態クズ。

 エスカレーターに乗る列で立ち止まった機会に、僕は再び鳥束の足にかかとを乗せた。
「いっ……!」
(もおー!)
(マジ痛いっスぅ!)
 またもひょこひょこになる鳥束。
 頭の中は痛い痛いとぼやいているのに、ニヤニヤ締まりのない顔をしている。
『なんだ、気持ち悪い』
「えーだって、続き予約出来たんですもん、そりゃ緩みますって」
『そうかよ。せいぜいドタキャンされないよう、気をつけるんだな』
「っスね。じゃ、まずは斉木さんの幸せ時間に行くとしますか」
『へえ。やりたいから早く帰りましょうじゃないんだな』
「ないっスよ、ひでえっス!」
 好きなもん食べてるアンタ見るの、オレ、大好きなんですから
 ……言うじゃないか、鳥束の癖に。
「美味しいスイーツ、いーっぱい食べましょうね!」
 突き抜けた笑顔を寄越してきた。
 自分は甘いもの苦手、一つがせいぜい、なのに、自分の事のように盛り上がって、馬鹿みたいだコイツ。
(斉木さんの幸せがオレの幸せ!)
 あまりに強力な声に、少し頭がくらっとした。
 心の声だから嘘もへったくれもない。本当に本心からそう思うのだから、まったくコイツは始末に負えない。
 まあ、喜ぶその脇に下衆な願望が常に付きまとっているが、斉木さんをおだてれば後のエッチが盛り上がる、とかいったものは一切ない。
 そっちはそっち、こっちはこっちと、くっきり分かれている。
 たまにこうなるんだよなコイツ。下心だけで出来てる訳じゃないのがムカつく。

 やれやれしょうがない…痴漢ごっこなんて吐き気しかしないが、少しなら乗ってやってもいい。
 お前の言う通り、お前とするのは嫌いじゃないからな。

 まったく、僕も大概チョロいよな。

 

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