いいから座れ
冬:眼科行け
待ち合わせていた駅前のカフェにいつもの通り五分前に現れた鳥束は、今日の為に張り切ったのがありありとうかがえる格好をしており、本人自身も相当自信があるのかいつもの三倍ほどニヤニヤと面をたるませて呼びかけてきた。 「斉木さぁん」 溶けて台無しになったアイスクリーム、テーブルに零れた蜂蜜、…とにかく、一瞬うわっと思ってしまう程にとろけた声に、僕は内心顔を引き攣らせた。 入り口でまず僕を探し、見つけるや相好を崩し、元気に手を振りながらまっすぐ席へと向かってきた。 「お待たせっス」 ニコニコ、ニッコニコ。 極上の笑顔がそこにある。 褒めてと言わんばかりの眩しい顔に、目と頭が痛くなった。 まあなんだ、いいから座れ。 「えーっと、カフェオレで」 「かしこまりました」 テーブルにあるポップを指差し、鳥束は愛想よく注文した。キッチンに向かう女性店員をにやけ面で見送ったあと僕に向き直り、何を糧にそんなにニコニコ出来るのかと感心するくらい、突き抜けた笑顔で見つめてきた。 まあ、心の声を聞けばわかるのだが。 今日のお出かけ嬉しいな!――デート嬉しい!――斉木さんに会えて嬉しい!――今日も可愛い!――斉木さん可愛い!――斉木さんに会えて幸せ!――ねえねえこの格好どうスか!――似合いますか!――斉木さんは似合ってますよ!――タートルネック可愛いな!――柔らかそうなセーターだな! 次々に弾け飛ぶ軽やかな声の数々に、少し圧倒される。 コイツはいつもこんなだが、今日は一段と激しいな。 脳内の歓喜そのままの表情といい、本当に騒がしい。 何故今日に限ってとりわけ騒々しいかといえば、理由は目的地にあった。 僕たちが今日向かうのは都内某所にある美術館…のカフェで、始まりは、コイツが偶然発見したとある情報からだった。 ――今年冬の際立つスイーツ情報を探していたら、斉木さん、こんなの見つけたっス! そう言って興奮気味にスマホの画面をかざしてきたのが、今週半ばの昼休み。 僕はその時奇しくも似た特集の乗った雑誌をめくっていて、奴が見せたものと全く同じ場所のカフェに目が釘付けになっていた。 ――はは、斉木さん、オレら気が合いますね! 特集というのは「美術館併設のおすすめカフェ」で、その中でも僕の心にがっしり食い込む好みのスイーツがあったのがその都内某所の美術館というわけだ。 変態クズと気が合うなんて一生の汚点だが、短くない付き合いとなれば僕の嗜好もわかるというもので、どこのカフェも喜ぶだろうが特にここが一番だと当たりをつけた鳥束に、頷かざるを得なかった。 さて、美術館のカフェ、独立している訳ではなく美術館併設の施設なので、場所によっては個別に利用出来ないところもある。 僕たちが見つけたカフェはまさにその単独での利用が不可の店舗で、美術館に入館してからでないと訪れる事が出来ない。 美術館か。 以前は、嫌いって程ではない場所だったが、どこかのドМ野郎のせいで今はやや嫌いに傾いている。 しかしこの、冬限定スイーツは捨て難い。 斬り捨てるなんて僕にはとても出来ない。 くっ…何だって僕はこんな情報を見つけてしまったのか。知らなければこんなに苦しまなくて済んだのにと葛藤していると、鳥束が助け舟を出した。 ――このサイトから購入すれば入館料の割引が出来るし、カフェの利用も安くなるんですって。だから行きましょうよ斉木さん たまには役に立つのだなと奴を少し見直した。 ――オレ、いつもお役に立ってるでしょー! 泣き笑いで抗議した後、奴はにわかにはしゃぎ出した。 デートの予約を取り付けたのもそうだが、美術館なんて学校の行事以外で行くなんて初めて、何を着ていこうと真剣に悩み始めた。 そんな奴を尻目に、僕は、約束された『冬限定スイーツ・フルーツグラタン』にうっとりと見入った。 それから当日の今日にいたるまで奴はウキウキそわそわ落ち着きなく過ごし、先の通り自信満々の装いで姿を現した。 毎日、奴の口頭でも心の声でも逐一情報が入ってきている僕には何の驚きも感動もないのだが、奴があんまり嬉しそうにするものだから、引きずられて多少は似た心地になった。 この格好で笑われないだろうか、隣に並ぶ僕が恥をかかないだろうか、気に入ってくれるだろうか…そういった緊張や、二人で出かける喜びが、あたかも自分のもののように心に湧き起こる。 こんな風に引きずられるのはコイツに限った事で、まったく、鳥束の分際で妙な技をかけるものだ。 『はいはい、よく似合ってるー』 引っ張られるなんて癪だから、ろくに見もせずそう返してやった。 椅子にゆったり腰かけ、軽く組んだ手をテーブルに置いた姿勢で鳥束は、やっぱりねという顔で微笑んだ。 こんなにぞんざいに扱っても笑って流すのかよ。どんだけ僕が知れてるんだ。 しかめっ面を深めて、僕は自分のカップに手を伸ばした。 苛々を混ぜて飲み込んでいると、暖炉の熱のようにじんわりと奴の心の声が沁み込んできた。 (一番最初にオレを見たあの目付き、あれで全部許せるっス) 嬉しくてたまらない気持ちが、じわじわと伝わってくる。 待て待て、お前が来た時、僕は一体どんな目をしたよ。 お前の都合のいい変換だろ、それ。 これだから鳥束は…まあなんだ、僕も多少は嬉しいがな。 仕方なく認めると、奴の顔に気色悪い微笑が広がった。 まっすぐ放たれる光に、僕は少し目を細めた。 特急列車とバスを乗り継ぎ、出発から一時間ほどで美術館に到着した。 やれやれめんどくさい、僕ならどんな遠距離だろうが一瞬なのに、時間がもったいない――という気持ちがそれほどないのは、道中、鳥束が次から次へお喋りのタネを見つけちゃ僕にペチャクチャ話しかけたからだろうか。 そのほとんどに生返事で答えたので正直内容もろくに覚えていないが、よくまあ話が尽きないものだと何度も感心したのは覚えている。 無駄といえば無駄だが、お陰で退屈はしなかったのでよしとするか。 古今東西、有名な画家たちの絵画や美術品がずらりと並ぶ空間、か。 やはり美術館は苦手だな。 入ってすぐ、僕は後悔した。ほんの少し。 一見静かなようでうるさい空間というのは、ある程度覚悟していた。 覚悟した通り、表面上は静かだが心の声が聞こえる僕にはやっぱりうるさく鬱陶しい空間だ。 まあだが仕方ない、わかっていて来たのだからそこは我慢して飲み込もう。 そうだな、はいはい、わかんないわかんない。 わかったから、人一倍デカい思考を垂れ流すな変態クズ。 恐らく世界で一番うるさい思考の持ち主だろうそいつが、わかる、わからない、綺麗なお姉さんの三種類を、見る絵見る絵に発するのだ、うるさい事この上ない。 げっそり、うんざりしつつも観賞を続ける。 と、常に視界の端にちらちらあった藤色が、いつの間にか見えなくなっていた。 あいつどこに行きやがったと探すと、少し前の、とある絵画の前で立ち尽くし食い入るように見つめているのが目に入った。 なんだ、海藤の真似か? っち、ベタな中二病をまた聞かされる羽目になるのか。 と思ったが、本当に鳥束は絵に釘付けになっていた。 それは、恋人同士のとある一場面を切り取ったものだ。 画風で言えば、決して鳥束の好みではない。奴はもっと写実的な、即物的な美女美少女を求めていて、尚且つおっぱいがあればそれでいいという救いがたいゲス野郎だ。 そいつが、どうしてこの絵に足を止めたか。 ゲス野郎のことだから、キスシーンからエロ妄想でも炸裂させているのだろうと頭を抱える。 が、心の声はまるで違っていた。 (これ、女の方喪服かな) (男の方は死んでるのかな) (青白い顔してるし、そういう事なのかな) (腕がないのはつまり、死んじゃってもう彼女を抱きしめられないって意味なのかな) (花束持ってるのは、男の命日だからなのかな) (でもタイトルは「誕生日」か…ああ、つまり男の誕生日で、それで花を飾ろうとしてて、そこに男が現れたんだ) (彼女が驚いた顔してるのは、見えないけど男の存在を感じ取ったからなんだろうな) (死んだ後も、彼女の事愛してて、会いに来て、たまらずにキスしたんだな) (それがわかったから、彼女は驚いて目を見開いてるんだな) 軽やかな泡のような思考が、鳥束の中でいくつも弾ける。 僕はいささか信じられない思いで鳥束を見つめた。 死者との触れあいに驚く女性――か。霊能力者らしい解釈だな。 実際の所、制作時の作者の心情はまるで違うが、鳥束の感じたものに僕は思わず引き込まれた。 (もしがオレが死んじゃって、こうやって斉木さんに会いに行ったとして、斉木さん、気付いてくれるかな) さぁな。僕は霊能力者じゃないから、感じ取る事も出来ないだろうな。 その前に、そもそもお前を死なせないがな。 何があっても回避してやる。絶対にだ。 それは単に、スイーツの為にな。お前がいなくなったら誰が僕のスイーツ代を持つっていうんだ、せいぜい長生きしろ。 (もし……やだけど、絶対やだけどもしも斉木さんが死んじゃったとして、こうやってオレに会いにきてくれるかな) おいこら、勝手に殺すんじゃない。 (花束じゃなくてコーヒーゼリーの山用意するから、絶対会いにきてほしいな) 眉根に力が入ったところで、斉木さんチョロいし、と思考が続き、あの野郎とますます顔面に力がこもる。 (やだな…やだな…斉木さん死んじゃったらやだな) だから、勝手な妄想で勝手に悲しくなってるんじゃない。 まったく、気が滅入る。 そこで鳥束は、想像の旅から戻ってきた。 はっと我に返ると、キョロキョロ僕を探し、見つけた途端ほっとしたように表情を緩めた。 やれやれ、世話の焼ける奴だ。 死んだ後に貰えるコーヒーゼリーなんて、今はどうでもいい。今必要なのは、ここのカフェの特製スイーツだ。今日の目的を早く思い出せ。 鳥束は出来るだけ静かな早足で僕に近寄ると、目線で行きましょうかと寄越した。 うん、いや、まだ展示は続いているから、気になるのがあったら観賞してからでいい。 (あはは、早く食べたくてしょうがないって顔してる) (禁断症状が出る前に、行きますか) おいなんだ禁断症状って、人を中毒患者みたいに言うんじゃない。失礼な奴だな。また顔面が強張る。 静かに殺気を送ると、たちまち鳥束は青ざめ数歩退いた。 今にも泣き出しそうにプルプルしている。 美術館ではお静かに。 何かを警戒して僕から距離を取り歩き出した鳥束は、他の美術品を眺めながら、先程の続きを頭に巡らせていた。 (そういや彼女の驚いた顔、待ち合わせで見た斉木さんにちょっと似てたな) 身体がぴくりと反応する。 またそこに戻るのか、お前。 僕は、先程鳥束の肩越しに見た絵を脳内に映し出した。 あんな顔を、僕がしていた? やっぱりコイツの都合のいい変換だな。 心なしか顔が熱いが、気のせいだと思う事にする。 コイツを相手にすると、いちいち感情が波立つのが本当にムカつく。 以前は喜怒哀楽なんて乏しくて、振り返ると怒りばかりが際立っていたな。 何度も繰り返した転校の元凶は僕が感情を制御出来なかったせいで、だから出来るだけ抑えて生きるようにしてきた。 コイツみたいに感情任せに生きたら、地球がいくつあっても足りない事態に見舞われるからな。 だから極力、静かに平坦に生きてきた。 今もそうしているつもりだ。 そもそも、楽しみだの喜びだの本当に数えるほどのもので、気の赴くまま生きたら大変な事になる…何とか押し殺しても教室をめちゃめちゃにして、それが怖くて必死に押さえつけてきた。 そんな生き様だったのに、コイツはいともたやすく引っかき回す。 明確に死をちらつかせて脅したのもコイツが初めてだし、本気で死んでほしいと思うのもコイツがお初。 厄介なのは、針が振り切れそうになるのは怒りばかりじゃないということ。 胸がぎゅうっと痛くなるほど嬉しくなったり、身体が軽くなるほど喜びを味わったり。小さな器の濃褐色では体験出来ないそれらに、振り回されっぱなし。 コイツに振り回されっぱなし。 それを悪くないとか思うのだから、ああ本当にムカつく。 自分に。 コイツに。 この空気に。 (ちょ、待って待って斉木さん!) (スイーツは逃げませんから) (まっすぐカフェに行きますから、もうちょっとゆっくり頼んます) 焦る鳥束の心の声が、僕を必死に追いかけてくる。 どうやら考えに没頭するあまり早足になってしまったようだ。 一瞬、待つかどうか迷ったが、僕はそのままカフェに直行した。 順路の看板を頼りに一階へ降り、売店とカフェの分かれ道で迷わずカフェを選び、入り口で二名を示し、案内された窓際の席に速やかに着席する。 そのまま待っていると、やや遅れて鳥束がやってきた。 (もぉー、斉木さん早すぎ) (うわもう座ってら) (あ……はは、やっぱりさっきと同じ顔してる) だからしてないと言ってるだろ。 万が一していたとしても、それはお前にじゃなく、ここで頂くスイーツに喜んでの事だ。 お前も一緒に見たよな、フルーツグラタンだぞ? 旬のフルーツをふんだんに使った、グラタン! 焼き立ての熱々は絶品だ、カスタードのソースがトロっとフルーツに絡んで…果物はあたためる事で糖度が増してな、ただでさえ甘くとろけるフルーツが極上になるんだ、な、よだれが出るだろう? そうだ、決してお前に向けたんじゃない。 お前みたいなヘラヘラ軽薄な変態クズに、誰が。 大体、美術館なんて僕にとってもお前にとっても退屈な場所で、ついでのおまけでしかない。 ここで食すスイーツがメインだ、そう、退屈で仕方ない時間を耐え忍びようやくメインにたどりついて、僕は浮かれてるんだ。 ただそれだけだ。 まあ今回は、ついでのおまけである美術館でちょっと得られるものがあって、更に浮かれている。 本当にほんのちょっとのごくわずかだから、わざわざお前に言ったりしないがな。 そんな事をつらつら思って奥歯を噛みしめていると、その顔好きだと感情を滲ませた鳥束が席にやってきた。 ああもう、コイツは本当に……なんでもいいから座れ。 お前と来ているのに、お前が傍にないんじゃつまらんからな。ヘラヘラ締まりのない顔でも、ないと物足りない。 さあ、いよいよメインだ、鳥束。 全部のスイーツを食べ尽くして、お前が更に喜ぶ顔を見せてやるから、覚悟しとけよ。 |