約束

冬:そんな事くらいじゃ

 

 

 

 

 

 あれはたしか、秋口だったか。
 今日のようにコイツんちに泊まりに来た時、コイツが、布団と風呂とこたつがいかに日本の冬に欠かせないかを熱弁したのは。
 冷たい風の吹く季節は、あつーい風呂に入って、こたつでぬくまり、眠くなったら布団に包まって寝る――そう言っていたな。
 今まさに痛感している。
 現在はこたつでぬくまり中で、一つ前に風呂を頂いているので、段々と目蓋が重たくなってきている最中だ。
 だがまだ寝るわけにはいかない、まだコーヒーゼリーを食べ終えていないからだ。
 というか、今食べ始めたばかりだからだ。
 ああ…風呂上り、こたつでぬくぬくしながら食べるコーヒーゼリーは至福の味だな。
 さぞ、顔がだらしなく緩んでいる事だろう。
 そこでふと鳥束と目が合った。
 にっこり嬉しそうにこちらを見つめている。
 その顔で、何が言いたいか心の声を聴くまでもなくわかった。
「はは、可愛いっスね斉木さん」
(風呂上がりで頬っぺたツヤツヤ)
(嬉しそうにコーヒーゼリー食べて、ニコニコして)
(眠たいけど、食べたいけど、眠いよーって、まるで赤んぼみたいだ)
 おいこらなんだと。それは聞き捨てならないな。
 衝動のままに、こたつの中にある奴の足にかかとをぶつける。
「いだっ!」
 半分寝惚けているのでちょっと力加減が足りなかったようだ、ゴツっと結構な音がしたな。
 現に鳥束も、慌ててこたつから足を引っ張り出し、蹴られたところをさすっている。

「いっ……たぁっスよ、斉木さん!」
『折れたか?』
 折れたなら治すぞ。特別に無料で治してやる。
「何言ってんスかもぅ……んー、多分大丈夫っス」
 折れてはないみたいですけど。
 恨めしそうに見やってくる鳥束。
 いやだってなあ、お前が「赤ちゃんみたい」なんて思うからいけないんだぞ。
「えー、もういいから、ほら斉木さん」
 鳥束は足の痛みもものともせずさっと立ち上がると、壁掛けの鏡を手に戻り、こちらに向けてきた。
 知るか、僕は見ないぞ。お前の脳内にくっきり浮かんでるから、それでもう充分だ。見るまでもないよ、わかったよ、してるしてる、僕の降参だ。
 今度は僕が恨めしそうに鳥束を見やる番だ。
 鳥束は鏡をかけ直し、元の位置に座った。
「そんな顔しないで斉木さん、せっかく美味しいコーヒーゼリー食べてるんですから」
 それを、お前が邪魔したんだろうが。
「邪魔だなんてひどいっス。いやほんとに、そのくらい可愛かったって事っスよ」
 ふん、相変わらず目と脳が腐ってるな。
 可愛い可愛いって、どこがだよ。
 くさくさした気分でいると、素早く顎を救われ口付けられた。
「斉木さんの、全部です」
 すぐ正面には、幸せでたまらないと語る穏やかな微笑みがあった。
「………」
 いつも、変態クズ野郎に相応しく見るも無残にたるんでばかりなのに、たまにこうして、慈愛に満ちた表情を浮かべたりもするものだから、つい、見惚れてしまった。
 凝視すればするほど表皮から血肉へそして骨へと透けていくが、目にはくっきりと優しい微笑が焼き付いているから、ちっとも構わなかった。
 ふん、超能力者の隙を突くなんて生意気だな。
 腹立たしくて、その癖むずむず嬉しくて、ああ落ち着かない。
『もう一回蹴ってやるから、足入れろ』
「うぇっ! やですよもう、二度と御免ですぅ!」
『っち』
「舌打ちめっすよ。ほら斉木さん、気分を変えて、テレビ見ましょ」
 言われて、反射的に時計を見たのは、いつも見ているバラエティー番組が始まる時間か、と確認する為だ。
 時間だった。
『そうだな』
 ごまかしに言ってるんじゃないとわかったが、さっきの腹立たしいのがまだ収まってないから、人差し指で鳥束の足を引き寄せる。
「ちょちょちょ、斉木さん、念力で引っ張らないで!」
『ほら、いつまでも足を出してると風邪引くぞ』
「そっスね! オレもこたつで、あったまりたいんですけどね!」
『なら入れ、遠慮するなお前のこたつだろ』
「ええ、斉木さんに快適に過ごしてもらおうと、買ったものなんスよ」
『お前となら更に快適だろうな』
「もーこういう時だけ!」
『いい加減無駄な抵抗はよせ』
「いやー、蹴るからいやー!」
『蹴らない蹴らない』
「ほんとー?……その顔ウソじゃん!」
 しばし鳥束と綱引きを楽しむ。
 そうこうする内にコマーシャルから切り替わり、お目当ての番組が始まった。
「はい、始まったからもうおしまい!」
 っち。
 渋々切り上げる。

 番組が始まってすぐは、また蹴ってくるのではと警戒していた鳥束だが、しばらくするとコントに見入ってあっさりと忘れ去った。
 僕の方も、楽しむことに熱中してすっかり忘れた。
 こたつは温かく心地良く、テレビは面白く、隣には気の置けないコイツがいて、同じところで笑って…一緒に笑うなんてまったくもって不愉快で実に愉快だ。

 前半が終わり、残り三十分。
 コマーシャルに差し掛かったところで、笑いつかれた身体を休める。
 毎週毎週、よくもアイデアが浮かぶものだ。まだ顔が少しにやついている。僕はため息をついて仰向けに横になった。
 横で鳥束も同じように、温泉に浸かる爺さんのような声を出しながらばったり倒れ込んだ。
 おそらく、コマーシャル前に見ていたショートコントの影響だろう。
 毎週、今くらいの時間に繰り出される続き物のコントで、僕が密かに応援している芸人ラッキーモンキーの二人が爺さん婆さんに扮し、いかにも昭和といった造りの室内でショートコントを繰り広げるのだ。
 自分が贔屓にしている芸人が他の誰かに受けるのは、たとえそれが鳥束であっても嬉しいものだ。
 当の鳥束も、腹を抱えて笑った余韻に心地良く浸って小休止していた。
 面白い、愉快、楽しい。そんな他愛もない思考の中、まるで違うものが織り込まれていた。

 ――あーあ、斉木さんと一緒に長生きして、一緒に死にたいな

 今さっき見たコントからそんなものを思い付くとは、お前はやっぱり変わっているな。
 老夫婦の穏やかな日常の会話から、コントは始まる。時節にあった事柄を互いに喋りながら、段々と言い争いに発展していく。言い争いというと険悪さを連想するが、間合いや声の調子がひょうきんなものだからおかしみの方が勝り、それで絶妙な笑いを取りつつ、毎度同じようなオチでシメを迎えるといった内容だ。
 やれやれ、面白い奴だまったく。頭を空っぽにして楽しむおバカなコントに腹を抱えてワハハと笑うものであって、そこからどうして二人の行く末について真剣に悩むようになるんだ。
 軽妙なコマーシャルをひたすら聞き流し、鳥束は自分たちの遠い未来について思いを馳せていた。

 一緒に長生きして、一緒に死にたい、か。
 少し前までは自分もそう思っていた。そのようになれたらいい、コイツと二人年を取って、同じようにあちらにいきたい、そう思っていた。
 けれど少し前から、違う願いが頭を占めるようになった。

『お前と一緒に死ぬのは御免だ』
「……えっ」
 弾かれたように向けられた鳥束の顔に、自分こそびっくりする。どうやら無意識にテレパシーを送ってしまったらしい。
 この上ないショックに瞳を震わせ、鳥束はそのまま固まっていた。
 違う違う、そういうんじゃない。お前が考えるような最悪な未来はないよ、誤解を招く言い方をして悪かった。
『最近の願いというか望みというか。聞いてくれるか』
「……なんすか」
 絞り出すような声で鳥束はこたえた。顔は強張り、血の気も失せている。耳を澄ませたら、今にも破裂しそうな鼓動が聞こえるかもしれない。それほどまでにひどい顔をしていた。
 だから、そんなに悪い未来じゃないって、聞け。
 お前と一緒に長生きしたいってのは、僕も同じだ。
 でもな――。
『死ぬなら、お前より先に死にたい』
「え…やだ……怖い事言って…なに」
 鳥束の顔はいよいよ青ざめ、唇が小刻みに震え出した。
 まあ聞け。
『お前は、幽霊が見えるだろ』
「ええ……はい」
『よし、いいかよく胸に刻んでおけ。僕が死んだら、幽霊になった僕をなんとしても探し出せ。そして、僕の事お前の事、一つ残らず僕に伝えろ。いいか、全部だからな』
 お前は馬鹿だが救いがたい馬鹿じゃない、僕たちの事なら、どんな下らない小さな事でも覚えてるはずだ。それを、死んで忘れた僕に全部伝えろ。
 僕はそれを全部覚えておくから。そうすればお前が死んでお前が全部忘れても、何も怖いことないだろ。僕が覚えてるんだから。
『それが僕の、今のところ一番の希望だ』
 一番強い願い。
 お前から僕へ、そしてお前へ。そうすれば、死んだ後も二人で賑やかに過ごしていける。
『お前が死んだくらいじゃ、お前の事放してやらないからな。幽霊になった後もずっと顎でこき使ってやるよ』
「は…はは……斉木さん」
 そうだその前に、僕が死んだあと、時々お前の身体貸せ。
 コーヒーゼリー食べにつれてけ。
 あとスイバも行きたいな。
 約束だからな。
「……わかりました」
 少し涙ぐんだ顔に微笑みを浮かべ、鳥束は安心したように大きく息を吐いた。
 鳥束は心情をぽつぽつと吐露した。

 オレ、今まで死に対して、その…憧れとか救いみたいなものを持ってました。
 幽霊はみんな優しくて穏やかだから、自分もそうなりたいな、そうなるのもいいなって、漠然とですけど思ってました。
 死んだら全部忘れる、なかった事になる…以前はそれがすごく救いだった。
 でもアンタに出会って、好きになって、こうして一緒に過ごすようになってからは、死ぬのが凄く怖くなったんです。
 夜、ふと過っては何だか喉が詰まるような、怖さがありました。
 こんなに毎日思い出が増えるのに、死んだら消える、忘れてしまう…なんなんだろうな、って漠然とした恐怖がありました。
 でも今アンタが言ってくれたのを聞いたら、怖くなくなりました。

『生前の事調べる幽霊もいるんだし、僕もそうするつもりだ』
「オレも、全部を伝えます」
『そうしろ。一つ残らず伝えるまでは死ぬなよ、そこは頑張れ。長生きしろ』
 僕がさっき言ったのは、そういう意味だ。
「はい…はい」
 鳥束は何度も頷きながら、しくしくと泣き出した。
『なんだ、もう怖くなくなったんだろ、なら泣く事ないだろ』
「すんません…はずかし」
『別に恥ずかしくない。気が済むまで泣け』
 不本意だが、自分が泣かせたようなものだしな。
 責任を取らねばなるまい。
 といってどうすれば…僕は半ばやけになり、鳥束を抱き寄せて宥めた。

 鳥束の脳内から飛んでくる、好きや愛しいといった気持ちが、触れ合う事で肌から直接しみ込んでくるように感じられた。
 実際染みてるのはコイツの涙で、それは僕の肩口で、けれど気持ちが確かに体内に流れ込んでくるのを感じている。
 大丈夫だ、鳥束、大丈夫。
 ごく自然に慰めの言葉が浮かび、身体が動いたのは、ずっと昔母にそうされた記憶があるからだろう。

 幼い頃、頭でわかっていても思うように使いこなせず振り回されてばかりの強大な力に怯え、ただ泣くばかりの僕を、母はこうして抱きしめ何度でも慰め励ましてくれた。
 父も同じように、そしてとても楽観的に未来を語って聞かせた。
 無責任に大丈夫を繰り返し、とても薄っぺらだと密かに反発していたが、なってみれば確かに大丈夫であった。
 大丈夫でないところもまだまだあるが、父の言う通り大抵の事は何とかなった。

 僕はもともと、一人でいるのが好きだった。
 そこには少なからず、一人でいなきゃいけないという思いもあったが。
 でも特に不便はないし不満もない、そういうものだと受け入れて、今までうまくやってきた。
 けれどお前らが、お前がそれを崩した。
 そのせいで心がもう、一人ではいられなくなってしまった。
 全部お前らの…お前のせいだ。
 必要ないというのに始終付きまとい、一人でない心地良さを押し付けてきた。
 面倒で厄介で災難だらけで、けれど手放しがたいもの。
 こうなるともう駄目だ。
 責任取って、ずっとそばにいるべきだ。
 死ぬまでずっと、死んだ後もずっとずっと。
 たかが肉体の死くらいじゃ離してやらん。
 まあ、どこかの僕とお前のように女性の下着の色は教えないが、どんな世界だろうとお前と一緒にいるのは間違いない。
 よく肝に銘じておけよ。

 幸せだ、幸せだと繰り返していた鳥束の脳内が、段々とりとめのないものに変わっていく。
 どうやら、泣き疲れて眠りに誘われたようだ。
 ふん、お前の方がよっぽど赤ん坊じゃないか。
 やれやれ、図体デカいから重たいな。このままだと風邪引くから布団に寝かさないとな。
 まったく面倒だと渋っていると、外をほっつき歩いていたらしい燃堂父がすうーっと室内に入ってきた。
「どーした相棒、なんかいいことあったんか? を?」
 僕を見るなり嬉しそうな顔で話しかけてくるので、僕は二重の意味で人差し指を立てた。
 燃堂父は口を噤んだものの、ニヤニヤしながら僕らの周りをぐるぐる回った。
 っち、本当に厄介だな。
 ずっと先の話だが、僕はコイツより先に死にたいんだ、頼むから、それ以上小学生男子みたいにはやし立てるのはやめてくれ。
 でないとコイツの命はないぞ…じゃなかった。はぁ、もう。
 本当に災難だと、僕は天井を仰ぎ見た。

 

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