お味はいかが
冬:お前の好きな味
土曜日の昼下がり、僕はダイニングテーブルでクリームたっぷりのコーヒーゼリーを楽しんでいた。 両親は昼前からデートに出かけ、家には僕一人、目の前にはコーヒーゼリー、最高の休日…のはずだが、何故かキッチンがうるさかった。 それもそのはず、家にいるのは僕一人ではないからだ。 「チワワ君もうちょい、もう気持ち一杯砂糖足して」 「うん、おう…はい、どう?」 「もうちょいサラサラー……よし、ぴったりオッケー。じゃ次薄力粉ね。こっちのボウルに入れよう」 「わかった」 「はいオッケー、そこにベーキングパウダーと……、塩少々」 「少々……って、これでいいんだよな?」 「そうそう、親指と人差し指分、わかってるじゃんさすが」 「ふっ、まあな」 「塩パラパラっとやったらこのボウルはよし、次こっちに、ココアパウダー入れて」 「わかった」 「もうちょい大胆に傾けていいよ…って傾けすぎストップストップ!」 「うわすまん!」 「だいじょぶだいじょぶ、戻せばいいんだから。はいココアパウダーよし。そんで――」 キッチンでは、かっぽう着姿の鳥束と、髑髏柄エプロンの海藤が、賑やかにお菓子作りに励んでいた。 僕はそのすぐ傍でコーヒーゼリーを食べていた。 ちなみにこのコーヒーゼリーは、今日迷惑かけるからと海藤が洋菓子店で買ってきたものだ。 そいつぁご丁寧にどうもと、ありがたく頂く。 さて、それで、ええと…なんでこうなったんだっけ。 遡る事、二日前の昼休み。 二月某日に向けて女子たちが色めき立つ中、一緒にお昼食べようとやってきた鳥束も、見てわかるほどに浮かれていた。 やれやれどいつもこいつも。 その日は鳥束だけでなく、海藤も僕のところに寄ってきた。というのも、窪谷須が家庭の事情で…単なる寝坊でめんどくさくなっただけ…休んだので、こちらに来たのだ。 鳥束一人でも鬱陶しいのに。燃堂のとこ行けよと思ったが、燃堂は才虎に引っ張り出され学食に向かった後だった。このところ才虎は学食のラーメンにはまっているようで、しかしそれを素直に認めるのが嫌で、燃堂をダシに通う毎日を送っていた。 さてそんなわけで微妙に一人になってしまった海藤を、なんと鳥束が手招きして引き寄せた。 「ふん、オレは別に孤独でも構わんのだが――」 「はいはい、一人なんてつまんないからさっさとこっち来る」 「!…お、お前がどうしてもというなら、同席してやろう」 漆黒の翼は誰とも相容れぬ存在で云々と続けながらその実内心では、嬉し泣きしそうなほど喜んでいた。まったくめんどくさい、どいつもこいつも、素直になれ。 「はい、じゃ頂きまーっす」 三人で手を合わせ、昼にする。 鳥束は、寺生まれ(笑)だけあって行儀作法にはちとうるさい。海藤も、あの母親にして、といった感じでいわゆるお坊ちゃんの類に入る。本人の設定はどうあれ育ちの良さはにじみ出ていて、何が言いたいかというと「口に物を入れて喋らない」という事が言いたくて、しかし鳥束はうるさいくらいお喋り好きで、海藤もチワワと言うな何だかんだ噛み付きながらも鳥束に付き合うお人よしで、お喋りは途切れない。結果、二人はまだひと口も弁当を食べておらず、箸と弁当箱を構えたまま延々とポンポンと言葉のやり取りを続けていた。 その横で僕は黙々と弁当を口に運んだ。 喋ってないで食べろよ、お前ら。 どちらさんも、よく相手に付き合うものだ。ある意味関心しつつ、僕は持ってきた雑誌を机に開いた。 二人のお喋りを遠い騒音と聞き流しながら、僕は紙面一杯に広がるチョコレートにうっとり目を細めた。 ああ、どのチョコもよだれが出そうだ、心が潤う。今年は、どこのチョコを鳥束に買わせようか。 「……って顔してますね、斉木さん」 突然顔を向けられ、僕ははっと顔を引き締めた。 ふん、どいつもこいつも浮かれやがって。 一番浮かれているのは僕だったりするのだが。 『うるさいぞ鳥束、至福の時間を邪魔するな』 「へいへい、はは、さーせん」 幼児を宥めるような声を出すんじゃない。もういい、変態クズはほっといて、チョコレートの海に飛び込むか。 そう心に決め、外部の音を遮断しようとしたまさにその時、鳥束は余計な事を言い出した。 「チワワ君は? ヤス君に贈るの、どうすんの?」 手作り派? それとも有名チョコ店派? おい鳥束、お前は知らないからそう気軽に聞けるが、海藤の料理の腕は・・・だぞ。 「えー、へー、まあ…そうね、あんまし得意そうじゃないかな」 「貴様! 斉木も、オレが本気を出したらなあ!」 いきり立つ海藤だが、自覚はあるゆえにすぐしょんぼり肩を落とし、鳥束はすごいな、とポツリ。 ん、どうした海藤。まさかとは思うが。 「その弁当も、自分で作ってきてるんだろ」 海藤は、自分のと鳥束のとを見比べて、やや顔を俯けた。 「ああ、まあね、寺生まれっスから」 おい鳥束調子に乗んな、煩悩小僧の分際でポーズつけんな。 「それに、斉木によく、色々作って持ってきてるよな」 待て待て、海藤。 「なになに、チワワ君もオレの作ったの食べたいって? でもごめんねえ、オレのは斉木さん専用なんで」 『キモ!』 「違う!」 「両方から言われたっス……ちょっと泣ける」 鬱陶しいから隅っこで泣け、鳥束。 「なんだ、じゃなにチワワ君」 海藤はもごもごと言葉を濁し、やがて途切れ途切れに紡ぎ出した。 要約すると、自分も窪谷須に手作りの何かを贈りたいということだ。 初めは、僕の見ていた雑誌を参考に有名チョコレート店に行こうと思ったのだが、窪谷須に真心を伝えるにはやはり手作りがいいだろうと、心を固めたのだ。 二月某日に、手作りのチョコレートを窪谷須に渡したい、とこういうわけだ。 「心を込めた手作りが一番嬉しいだろ」 「うん」 「亜連の喜ぶ顔、見たい」 「そだね、好きな人の喜ぶ顔を見たいってのは、誰でも思う事だよね」 「だろ! だから鳥束、オレにお菓子作り教えてくれ!」 「ん、んんー?」 おい海藤、いつもの中二病はどうした、いつものキャラぶん投げるくらい、それくらい真剣なのか。 だが、しかしなあ…あの調理実習の悲劇、僕は忘れてないぞ。 それにあれが原因で一時的におかしくなり、鳥束を巻き込んだ記憶も新しい。忘れたい黒歴史だ。だがコイツに奢らせたクレープはどれも絶品だった。やっぱり忘れるのはやめよう。 さて、だ。 『じゃ鳥束、頼んだぞ』 「わかりましたチワワ君、オレが責任もって教えるっス。そんで、ヤス君と斉木さんを見返してやりましょう」 「よし!」 なんで僕を数に入れる。お前らだけで適当にやれ、僕は知らんぞ。 「て事で斉木さん、今度の土曜か日曜、お邪魔していいっスか?」 『だからなんでうちに来るんだ――』 知らないって言ってるだろ。そう突き放そうとした瞬間、ずきんと頭に痛みが走った。 予知か…何度も爆発炎上する、木造の立派な建物が見えた。どこだここはと思った時、梵嚢寺の文字がちらっと視界に映った…ってコイツの下宿先じゃねえか。 海藤のせいか。 僕は一気に気が重くなった。この未来を回避するには、つまり何が起こっても大事に至らないようにするには、僕が傍につくしかない。 じゃあやっぱり、僕んちでやるしかないということか。 「頼む斉木、決行日まであまり時間がないんだ。協力してくれ」 (ごめんね斉木くん、ごめんね、お詫びにコーヒーゼリーたくさん持ってくから!) よしわかった海藤、交渉成立だ。 僕は力強く親指サインを送った。 ああそうだった、なんでもなにも、僕がコーヒーゼリーにつられて安請け合いしたからだった。 そんなわけで週末の今日、二人は買い物袋をたくさん提げて僕の家にやってきた。 『本当に来るとはな』 「いいって言ったの、斉木さんでしょ。お邪魔するっスよ」 「悪いな斉木、本当に」 仕方ないだろ、お前らだけにするとどうなるかわかったもんじゃないし、何か起こるにしても目の届く範囲での災難なら対処のしようがあるしな。 気兼ねなく、爆発でも炎上でもしろってんだ。 『鳥束、お前がついてるならそこまで心配ないとは思うが。くれぐれも頼んだぞ』 「お任せ下さいって。さあチワワ君、汚名返上名誉挽回、いくっスよ」 「おう! あ、そうだ斉木、これ、今日お邪魔する分のお詫びというか…例のブツだ、受け取ってくれ」 差し出された箱の中身は、都内でも有名な某洋菓子店のコーヒーゼリー。 お前、なんてものを…ああまずい、今にも口の端から垂れそうだ。 「おー、いかにも斉木さんの好きそうな、クリームたっぷりの逸品っスね。良かったっスねえ」 うむ、一度食べた事があるが、クリームもゼリーも中々味わい深いんだ、全然嫌いじゃない。 よしお前ら、キッチン好きに使っていいぞ。爆発でも炎上でも気にするな、僕がなんとかしてやる。 (ほっ、良かった。斉木くん喜んでくれてる) (くふふ、斉木さんてば顔デレデレ) お前らうるさい、あっち向いてろ。 「よっしゃ、ではやりますか」 「おう、待ってろよ亜連!」 こうしてにわかお菓子教室が始まった。 それから大体三十分が経過した。 オーブンの中では順調にブラウニーが焼き上がり中、まもなく時間になるところ。 キッチンの方も、海藤がベタなやらかしでめちゃめちゃにした部分の掃除が終わるところ。 もっと、それこそ復元が必要になるくらいダメにされるかと思ったが、予想していたよりはだいぶ控えめであった。 床の端の方まで生地が飛び散って、むしろどうやったらそこまで飛ぶんだと疑問だが、拭き取れば済むのだから軽いものだ。 そう、電子レンジが火柱を上げたり、キッチンが吹き飛んだり、寺が爆発炎上したり、地獄のおやつが出来上がるのに比べれば、軽いものだ。 海藤本人の努力もそうだが、意外にも鳥束の指導によるところが大きかった。 作業中、鳥束は一度もぼやく事がなかった。 男嫌い、女好きのクズ、煩悩の塊、いい加減な変態クズ野郎の癖にして、思いの外面倒見がよい。 僕でさえうんざりするような場面でも、辛抱強く海藤に付き合い、表面上だけでなく内面でも同じように励ましていた。 失敗しちゃうのは仕方ない、最初から上手くやれる人間はいない、練習あるのみ、気にしない気にしない。 もちろん毒づく時もあったが、鳥束はそれをすぐに切り捨てて気持ちを切り替え、海藤をフォローした。 それは計算とか、僕への密かなアピールなどではなく、奴の心に自然に湧き起こるもので、そんな思念に触れる度コイツ本当に鳥束かと僕を驚かせた。 いつものどぎつい欲まみれのお前はどこいったと、段々心配になってくるくらいだった。 もしかしたら口寄せかとも疑ったが、いるのは正真正銘鳥束だった。 何だコイツ、変なやつ。 寺生まれなのは伊達じゃないな。 「では試食タイムと行きましょうか」 焼き上がったブラウニーを切り分け、紅茶を用意し、鳥束はせっせと動いた。 やっと食べられるか、待ち遠しかったぞ。 僕は警戒しつつ、上から横からブラウニーを観察した。 ココアパウダーのせいで焦げてるのか順当な焼き色なのか判別がつきにくいが、見た限りではまともに焼き上がっているようだ。生焼けの部分も見当たらない。 匂いも充分良い。甘く包み込む焼き菓子の匂いに、自然顔が緩む。 控えめとはいえ、キッチンをめちゃめちゃにした割には、まともで普通の見てくれ。 僕はフォークを構えた。表面をそっとツンツンしてみる。中々理想的な弾力ではないだろうか。 そこでふと目を上げると、伺うように見やってくる海藤と鳥束の視線に気付いた。 二人とも瞬きすらせず凝視している。 何だそれ、早く食べろってか。あれか、毒見係か、この僕が。 鳥束も不安そうだが、海藤の顔が土気色で、今にもぶっ倒れそうなのが怖いな。そんなに緊張するな、こっちまで動悸息切れしちゃうだろ。 わかったわかった、今食べるから待ってろ。 ええい…ままよ。 僕はフォークを口に運んだ。 目の前で、海藤がボロ泣きしている。 両手で顔を覆い、ひっくひっくと肩を震わせ泣いている。 そしてそれを鳥束が慰めている。背中をよしよしさすりながら、僕を指差している。 別に、僕の反応が悪いから責めているのではない。 悪いどころかむしろ良い、最上級には足りないが、あの惨状からすれば中々の出来栄えだと思う。 このブラウニー、上出来だ。 「ほらチワワ君、見てみなよ、斉木さんあんな嬉しそうに食べて、ね、良かったっスねえ」 「んん……ひっく…ありがとな鳥束」 ありがとな斉木。 いやいや、礼を言うのはこちらだ海藤。ついでに鳥束。 今日ここでお菓子教室をやるとなった時、僕は正直、こんな素晴らしいおやつタイムが過ごせるなんて思っていなかった。 いくら鳥束監修のもととはいえ、まともなものは口に出来ないだろうと覚悟していたんだ。 特殊な訓練を受けた目良さんに協力を仰ぐかと、そこまで思ったほどだ。 それがどうだ、ごく普通ではあるが、まっとうに美味い。甘くて美味い。 なかなか当たりのおやつタイムだ。 だから泣き止め、自信を持て海藤。 まあ、こんなハラハラドキドキのおやつタイムは、もう二度と御免だがな。 「さ、斉木、良かったらもう一つ食べるか?」 ようやく涙を拭った海藤が、キラキラと目を輝かせながらすすめてきた。 『うむ、頂こう』 「なあ鳥束、お菓子作りって楽しいな」 「でしょー、作るのも楽しいけど、誰かに喜んでもらえると、何倍も楽しいでしょ」 「ああ。これで自信をもって亜連に贈れる」 「今日の要領を忘れず、後はひたすら練習あるのみよ。しっかり計量する、事前に道具を揃える、オーブンを予熱する、これ。頑張れチワワ君」 「チワワはもうよせ…なあ斉木、また作りに来てもいいか?」 「え?」 『は?』 「亜連に食べさせたいのもそうだが、斉木の喜ぶ顔も見たいんだ。斉木には色々世話になってるし、お返しの為に、また作りに来ようと思う」 いや、いいです、気持ちだけで充分です。 「今日のでだいぶ自信がついたからな。遠慮するな斉木、オレとお前は盟友だろ」 うん、いやほんと鳥束ので間に合ってるから。 「すぐに鳥束の腕を越えてみせる」 「おっとチワワ君、それは聞き捨てならないなあ。チワワ君はヤス君だけ見てりゃいいの」 「亜連はもちろん大事だが、斉木だって大事な仲間だ」 「いいから、斉木さんにはオレがお作りするんで、チワワ君はヤス君に一杯愛情注ぎなよ」 「なんだ鳥束、お前よりオレのが美味いって斉木に言われるのが怖いんだろ」 「っは、それはないっスね」 うん、それはさすがにないな。 「フン…この漆黒の翼にかかれば、菓子作りなど赤子の手をひねるより簡単…ふっ、斉木、次は何が食べたい?」 「チワワ君、でしゃばんのもそのくらいにね。斉木さんは、オレの作る味が好きなんだから」 「何言ってんだ、さっきの斉木の顔見ただろ、オレの作ったの食べてあんなに喜んでたじゃないか」 「このブラウニーが無事に出来上がったのは、ほぼオレのお陰でしょーが!」 「ぐ…それはそうだが、しかし!」 「チワワ君、ハウス!」 「この…寺生まれが!」 ……なにこれ。 テーブルの向こうで繰り広げられる馬鹿げた茶番に、僕は天井を仰ぎ見た。 海藤も、鳥束も、せっかく見直しかけたというのに。 やれやれ、結局こうなるのか。 「を! 相棒、美味そうなの食ってんな、オレにもくれよ、を!」 三つ目を皿に取った時、燃堂父が寄ってきてぱかーっと大口を開けた。 僕はそれを無視して、ブラウニーにかぶりついた。 騒々しいおやつタイムは、しばらく収まりそうもない。 ちなみに余談だが…いや本題だが、海藤いうところの「決行日」である今日、窪谷須の手に渡ったブラウニーは、意外にもまともで普通の姿形をしていた。 僕の家であれだけ醜い言い争いを繰り広げた割には、海藤は鳥束のアドバイスをきちんと守り、要所要所で崩したり零したりまき散らしたりベタな失敗をしつつもどうにか完成させたらしい。 海藤の思考を読むに、当分はキッチン使用禁止令が出たようだが、そこまで被害は甚大ではなさそうだ。 昼休みに包みを開いた窪谷須は、海藤の腕前を知っているだけに戦々恐々としていたが、食べた途端目を輝かせた。 特殊な訓練を受けた目良さんでなければ手に負えないような、空間も歪むおぞましき物体が出てこないなら出てこないでつまらんな。 しかも、なんだろうこの深みのある香りは。 鼻腔を甘くくすぐるこの匂いの正体、なるほど洋酒か。 だが先日のには、そんなもの入ってなかったぞ。 どういう事だ鳥束。 「ああ、ヤス君向けにアレンジしたレシピ渡したんスよ。いやー苦労しましたよ、チワワ君向けに手順書くの! もう、ほんとすっげぇクタクタ。テスト勉強より力入れました」 そりゃご苦労だったな。実を結んでよかったな。 「ほんと、良かったっス」 ちらっと海藤を見る鳥束、海藤もまた目を向け、互いに力強く頷き合う。何だかんだ上手くやってるんだな。 それで、鳥束。 「はいはい、斉木さんのはこちらですよ」 鳥束は鞄を探り、小さな手提げ袋を取り出した。 「チワワ君向けのレシピ作りつつ斉木さん用の練習しつつ、ほんっとうに苦労しました」 その集大成である、スイートチョコとホワイトチョコを使って作った二種類のブラウニーが、僕の前に並べられる。 チョコレート特有の濃厚な香りが、まず僕を満たす。それから、見た目でも楽しませてきた。 スイートチョコの方は表面に大きなナッツがのっていて、早くそれをボリボリ噛みしめたいと心が逸る。 ホワイトチョコの方はフルーツがちりばめられていて、早くその甘酸っぱさを舌に感じたいと心が逸る。 釘付けになる僕を、鳥束はにこにこと見つめてきた。 「でも、斉木さんのその顔で報われました」 『まだ食べてないんだ、安心するのは早いだろ』 「や、結構自信あります。斉木さんの好きな味、舌で覚えましたからね」 自分の口に人差し指を向け、鳥束は続ける。 「どうぞ、召し上がれ」 澄んだ目を更に煌めかせて鳥束はすすめてきた。 大した自信だなおい。そこまで言われたら、なんとしてでも素直に応えたくなるぞ。 「少しでもお気に召さなかったら、オレの事そこの窓から放り投げてくれていいっスよ」 僕がやらないとでも思ってるのか。 お前を窓から投げ捨てた後、目撃者全員の記憶を書き換えるなど、僕には朝飯前なんだが。 「でももし気に入ったなら、その時は――」 なんだ。どんな無理難題を吹っ掛ける? 鳥束の脳内では、いくつもの願い事が渦巻いていた。 安易なキスしてほしいから始まって、一発やりたいだの好きと言ってほしいだのにっこりしてほしいだの、どれにしようか迷って駆け巡っている。 お礼の関節技なら、いくらでも極めてやるぞ。 さあどうするんだ鳥束。 「いいや! 斉木さん、気に入ったなら全部食べて下さい」 『迷った挙句、それか』 「ええ、これと引き換えって何か違う気がするんで。それによく考えたら――」 (キスもセックスも) 「――これ無しでもいつでもしてる事ですし」 にたにたと顔をたるませ、鳥束は舐めるように見てきた。あまりの気色悪さに顔面に拳をめり込ませたくなってきた。 吐き気をこらえ、僕はブラウニーに手を伸ばす。 気に入ったなら全部食べろ、か。 それこそ、いつもやってる事じゃないか。 僕の顔を見て狂喜乱舞する鳥束のやかましい心の声を聞きながら、僕は至福の時間に浸った。 さて今度こそ本当に余談だが、実は僕も持ってきている。それも、買った物ではなく、作ったものをだ。 食べる専門みたいに思われているが、僕だってそれなりの腕前、超能力者にとって料理も製菓も朝飯前だ。 単に面倒だから普段は鳥束頼みになっているだけのこと。 まあ、鳥束の味は嫌いではないし、それに奴に任せておけば、ひと眠りの間に好みのものが出来上がる、頼らない手はない。 だからといって僕が何も出来ない訳じゃないという事を、今日にかこつけて証明したく、持ってきた。 鞄に用意してある。 十二個作った内の一つなのは、十一個僕が食べてしまったからだが、それは決して甘い誘惑に負けたからという訳ではない。 コイツは、甘いものは好きだが量はそう食べられない、本人もそう言っている。だから僕が残りの十一個を食べただけで、決して…まあいいとにかく、一個は間違いなく持ってきている。 問題は、いつ渡すか――ではなく、思いの外上出来だったので、最後の一個も僕が食べてしまいたい誘惑に駆られている事だ。 コイツは今のところ、僕が持ってきているなんて夢にも思っていない。だから残り一つも知らぬ間に食べてしまってもなんの問題もない。 ないのだが、それでは僕の気持ちが済まない。 コイツに負けないくらい、僕だって気持ちを込めた。あの両親のもとで育った超能力者の愛情、なめんなよ。 だから自分でもびっくりするほど極上の味に仕上がったのだが、もったいないなあ、全部自分で食べたいなあ。 そうだ、コイツは僕からもらえりゃコンビニレジ横のひと口チョコでも、駄菓子屋さんのチョコ菓子でも、なんだって喜ぶ。 僕からということに心から感激して、乙女モードで嬉し涙を零す。 何度もそういった場面を目にしてわかっているから、余計、今日ばかりはそうは出来ないと思ってしまう。 だが、ああ…もういい、自分の鞄に入っているからグズグズ考えてしまうのだ。自分の手元にあるから、未練がましく引きずってしまうのだ。 という事でとっとと鳥束の鞄に送ってしまおう。 さらば、上出来のチョコレートよ。 あんまり惜しいと思わないのは、コイツの作ったブラウニーがその分心を満たしてくれるからだろうか。 お前が得意になって言うように、僕だってお前の好きな味くらい知ってるんだからな。 よく肝に銘じて食べろよ、鳥束。 |