お月見
おとしあな。
一人は、自分だけじゃ抜け出せない。
もう一人は、自分だけじゃ抜け出す気も起きない。
穽
こたつを買ったんスよ! だからいつでも遊びに来て下さいと、鳥束が言ってきたのが先週。 こたつなら自分のうちにもある。 コーヒーゼリーもより取り見取りで揃っている。 テレビもゲームも漫画も自分ちで事足りる。 寒い中、わざわざお前んちに出向くなんてめんどくさい。 「何スか、斉木さんなら超能力で一瞬でしょ」 シュッて来てくださいよ、シュッて。 今週に入って三日過ぎても、鳥束は同じ調子で誘ってきた。 今日がダメなら明日、明後日と、まるでめげない。いつ来てくれるか、いつやれるか、ワクワクして待っている。こっちに心の声が駄々洩れなのをわかって尚、誘うのを止めない。 こっちの断る理由がただ何となくめんどくさいというだけでは、もう断り切れない。 だからただ何となく、明日行くと約束を取り付ける。 「ほんとっスか!」 たちまち鳥束は眩しい笑顔になって、自分の部屋の片付けが済んでいるか、コーヒーゼリーの準備は出来てるか等を頭の中にぐるぐる巡らせ、待ってますと白い歯を見せた。 奴のルンルン気分がこちらにも伝播して、少々鬱陶しい気分になる。奴に引きずられ、同じくらい浮かれてしまう自分がたまらなく鬱陶しい。 |
憂鬱だと思う癖に、用意されたコーヒーゼリーを前にすると途端に何もかもどうでもよくなってしまうなんて、コイツを笑えない。 しかしコーヒーゼリーに罪はない。こたつでぬくぬく温まりながら食べるコーヒーゼリーは格別だ。 嬉しそう、楽しそう、可愛い…奴からの声が土砂降りの雨のごとく心になだれ込んできて、非常にうるさい。テレビの音も聞こえなくなるくらいの洪水の中、じっと耐えてひと匙またひと匙と味わう。 うるさい、喧しい、少しは黙れ。いや、実際口はそれほど動いていないのだ。ただ心の中がとんでもなく騒々しい。 そして心の声もそうだが、コイツは視線もお喋りだ。口を噤んでいても何を言っているかわかるなんて、どれだけ自分はコイツを見ているのだろう。 ああまったく…こんな事いくらでも予想がついたのに、僕は何をやっているんだか。 ご馳走様とスプーンを置く。 もうすぐ七時になるのか。見たいテレビもないし、持ってきた雑誌でも読むか。 ごそごそと腰までこたつに潜り込んで腹這いになり、スイーツ特集の雑誌を開く。ここも行きたい、ここも行ってみたい、ページの隅から隅まで全部行きたいところだらけで迷ってしまう。 隣から鳥束のドロドロした煩悩が流れ込んできて鬱陶しいが、聞き流すのは得意なんだ。伊達に十六年間超能力者をやってないからな。それにまあ、残念ではあるがお前のその邪念、それほど嫌でたまらないという事もない。つらいと感じる事もない。癇に障る時もある…癇に障る時ばかりだが、奇妙な安らぎを感じるのもまた事実で、それが残念でならない。 もしも実際に手を出してきたなら、その時はすぐに帰ればいいだけの事。 生暖かい何かが身体に降り積もってくるのを聞き流して、僕は雑誌に集中した。 思いの外居心地がよく、その内に瞼が重くなっていった。 |
完全に眠ってしまった訳ではないようで、鳥束の心の声が途切れ途切れに聞こえてくる。 寝息が可愛い 寝顔が可愛い 愛おし、好き さっきまでは、例えるならスライムみたいにベトベトした温い物体で、ちょっとばかりぞっとする感触だったのが、今はふわふわと柔らかく暖かな、極上の羽毛のようなものに変わっている。 そんな声も出せるのかと、夢うつつの中鼻を鳴らす。 全然、嫌いじゃない。 心地良くまどろんでいると、急にああくそ、と尖った声が聞こえてきた。続けて雨戸がどうこう言っている。 少し目が覚める。つい聞き耳を立てると、からからと窓を開ける音がして、遅れて冷気がひゅうと肩にまとわりついてきた。 おい、さっさと雨戸を閉めて戸締りしろ。 もう少し寝ていたいのにと、心の中で文句を言う。面倒なのでテレパシーは送らない。 しかし鳥束は窓を開け放ったまま、馬鹿みたいに突っ立っていた。 しきりに月が月がとうるさく言うものだから、仕方なく仰向けになり、奴の言う満月を拝む。 (斉木さんにも見せてあげたいなー) 『見てる』 「えっ!」 テレパシーを送ると、ひどく驚いた様子で鳥束は振り返った。びっくりして間抜け面になった奴の顔を横目に、僕はもう一度『見てるから』と告げる。 たちまち奴はにやついた顔になり、空を仰いで嘆息した。 「そっスか……綺麗っスね」 『寒い、早く閉めろ』 文句を言うと、奴はむっとするどころかふっと笑って眉を下げ、はいはいと素直に戸締りした。お前、気持ち悪いほど大甘だな。 「起きたならちょうどいい、斉木さん、ベッドで寝ましょう」 呼びかけにわかったと答える。しかし応じる気はない。こたつから出るつもりはない。 何笑ってるんだ、声を殺しても僕には筒抜けだぞ、目を閉じてるからといって油断するなよ鳥束。 (しょうがない人だな、もう) 「斉木さん、ほら、抱っこしてあげますから」 軽く肩を揺すられ、渋々目を開ける。くそ、何だってそんなに優しく見てくるんだ、調子狂うからやめろ。僕はここでいい、こたつで寝るからいい、超能力者舐めるな、ひと晩こたつで寝たくらいで風邪なんて引くものか。 だというのに、素直に奴の首にしがみ付いてしまう。何故だかそうしたくてたまらないのだ。 『っち、冷たいな』 だが現実は冷たい、奴の服が冷たいのだ。冷気に当たったせいで服がひんやりとして、こっちまで凍えそうだ。 「すみません、外、本当に寒いっス」 馬鹿かコイツは、だったらすぐに窓を閉めればよかっただろ。凍えそうなのを我慢して満月に見とれるなんて、馬鹿な奴だ。 『しょうがない、温めてやるか』 「ありがと斉木さん」 大人しく奴の腕に収まり、ベッドに移動する。僕は何を言ってるんだろうな。何をやっているんだろうな。服も顔も髪も冷たいのだからとっとと突き飛ばしてしまえばいいのに、こうするほうが落ち着くなんておかしい。 (どんなストーブよりあったかいです、斉木さん) 目を閉じていても、奴のにこにこした顔が思い浮かぶ。実際に見るまでもないから僕は見ない。もう何十回となく見ているんだ、鳥束がそういう声を出す時の顔は。 |
「さっき見た満月、すごかったですね」 (なんというか、穴の底にいるみたいだった) (遠い月光が、おとしあなの出口みたいだった) そんな不思議な感覚に見舞われたと、鳥束は心の中で繰り返していた。 思わず眼を眇める。 『なんだそれは、何かの受け売りか?』 「じゃなくて、……まあ、どっかで聞いたかもっスけど、なんとなく思ったもので」 『ふうん』 鼻を鳴らす。 鳥束の癖に生意気な感性じゃないか。 「でもね斉木さん、たとえもしそうだとしても、斉木さんと一緒だから全然怖くないっス」 能天気な声を出す裏側で、鳥束は寂しさに囚われていた。 (オレは斉木さんがいないと何も出来なくてダメだけど、斉木さんはオレがいなくても、一人でも何とでもなるんだよな) (たとえ深い穴の底に落とされたって、難なく乗り越えられる) 『そうだな』 「ですよねー」 あっけらかんと言いながら、鳥束は胸を締め付けられる苦しさに見舞われていた。 まるで自分の事のように胸が苦しくなる。 いい加減にしろ、いちいち僕を引きずり込むんじゃない。 鳥束の癖に。 おとしあなだと? そんなもの、僕には脅威でもなんでもない。 |
『でもお前がいないとつまらないな。何をする気にもならない。お前がいないと意味がない』 だからずっと、無気力に穴の底に居続けるだろうな。 |
文句の一つも言ってやろうと思っていたのに。 隣で鳥束がびっくりしているのが目に入る。 「……斉木さん、アンタってほんとにオレの事好きっスねー」 冗談めかして笑う顔に拳の一つもお見舞いしてやりたかったが、身体はぴくりとも動かない。 鳥束の綺麗な眼球に目が釘付けになって、息をするのがやっとだ。 長い長い沈黙の後、噛みしめるように伝える。 『そうだな』 たちまち鳥束の頭の中がえらい事になった。 「オレも、斉木さんの事好きです!」 『知ってる』 「もっと知って下さい。オレも、斉木さんの事もっと知りたい」 『知ってるだろ、欲張りめ』 「そうっス、オレは欲張りなんです。斉木さんの事となると、もっともっとって際限なくなるんです!」 つんのめるような勢いで叫び、鳥束は力任せに抱きしめてきた。 おい、苦しいだろ、骨が折れたらどうする。 まあそう簡単には折れないが。 「斉木さん……優しいですね」 違う、まだ我慢出来る範囲だから見逃してやってるだけだ。それ以上やったら命の保証はない。子供じみた脅しに自分自身恥ずかしくなる。 そういう風に優しい人の斉木さんを、オレはもっと知りたい。 だから斉木さんも、オレの事を。 どうかもっと。 知って下さい。 知りたいと思って下さい。 鳥束が頭の中で繰り返す。 『気が向いたらな』 本当は気が向かなくても、お前の事色々知ってしまってて、本当に癪に障る。 無邪気に笑って見つめてくるものだから、それ以上は耐えきれず自分の部屋に戻る。 鳥束の腕に包まれて暖かかった身体が、次第に落ち着いていく。 けれど速まった鼓動だけは、しつこく残って僕を悩ませた。 |