とろけるくらい愛してる
朝飯前と後の二人。
ママさんの買った布はここに使われてたらいいなあっていう願望。

答える手のひら

 

 

 

 

 

 目を開けると、すぐそこに寝ている斉木さんの顔があった。
 なんでだっけとオレは一瞬混乱して、そうだ斉木さんちに泊まったのだとすぐに思い出す。
 思い出してほっと力が抜けて、ふにゃふにゃと顔が緩んだ。
 起きてすぐ斉木さんの顔が見られるなんて、まさに天にも昇る気分だった。
 可愛いなあ、澄ました寝顔だなあなんて、我ながら気持ち悪い程にやけながら眺める。
 直後、寝る間際の大失態が脳裏を過り、即座に地の底へと叩き落された。
 オレは頭を抱え、やらかした己に深く落ち込んだ。
 たちまち顔中が火を噴きそうに真っ赤になる。異様に熱い、三倍に腫れてるんじゃないかと思うほどだ。
 斉木さんは気にしなくていいって言ってくれたけど、でもなあ……。
 両手で押さえてなんとか気持ちを静め、オレはベッドから出た。

 一階の洗面所で浴びるように顔を洗い、何とか落ち着きを取り戻したオレは、昨夜もお借りした箒で一階と二階の廊下をざっと掃き清めた。
 掃除機もあったが、音で斉木さんを起こすのは控えたかったので箒にした。
 しかし、習慣てのはおそろしいねえ。
 自分の事ながら笑ってしまう。
 そりゃ斉木さんも笑うわ。
 掃除を済ませて片付け部屋に戻ると、ちょうど起きた斉木さんがベッドに座って小さなあくびをしているのが目に入った。
 斉木さんが起きたら昨夜の事を謝ろう、部屋に入る直前までそう思っていたオレだが、実際に斉木さんの寝起きの顔を見たらそんなもの綺麗に吹き飛んでしまった。
 こんな風に寝起きの斉木さん見られるって、オレって幸せ者だなと、胸がジーンと痺れた。
 そんな感激から始まって、少し髪がくしゃくしゃになってるとことか、まだ眠たそうな目とか、パジャマ姿とか、あちこちに目を奪われ心をとらわれ、全身くまなく可愛い愛しい斉木さんに、よろしくない妄想がふつふつと込み上げてきた。
「おはようございます斉木さん」
 声をかけながら近付くと、斉木さんは挨拶代わりか左手を揚げてきた。そう、ちょうどオレの顔の高さ。
 そこではっと察し、オレは即座に手の届かないところまで飛びのいた。
 わかればいいのだと、斉木さんは手を下ろした。
『だいぶ学習したな』
「ええ、まあ……」
『起き抜けに気持ち悪い妄想を聞かせるんじゃない』
「すんません……へへ」
 そうはいっても止まらない。
 やれやれと肩を竦める斉木さんに、オレは愛想笑いをしてみせた。

 

 朝食作りに、オレたちは昨夜のようにキッチンに並んで立った。
 その時オレの頭を過ったそれは、ちょっとした思い付きだった。
「斉木さん、サラダに使う玉ねぎのスライス、お願いしてもいいっスか」
(玉ねぎで斉木さんが涙流すとこ見てみてーさすがの斉木さんも、玉ねぎには勝てないだろーし)
(涙ぐんで、こう、目尻がちょっと赤く染まった色っぽい斉木さんもっかい見たい…見たいー)
『お前って、なんでそんななんだろうな……』
 生ゴミに集るコバエを見る目に、オレは慌てて頭を押さえた。そんな事をしたって遮断出来るわけもないのに。
 えへへと愛想笑いを浮かべるオレに斉木さんは軽く首を振ってため息を零すと、ダイニングテーブルに飾られている木製のリンゴを手元に引き寄せた。
 何をする気だろうと見守るオレの前で、片手でいとも簡単に粉々に砕いてみせた。
 流しの中に、ぱらぱらと木片が降り注ぐ。
「あ……あふぁっ」
『で、玉ねぎがなんだって?』
「なんでもないです……」
 片手を差し出してくる斉木さんにオレは軋む首を振った。
 大人しく自分でスライスに取り掛かる。
 斉木さんは砕いたリンゴだったものを復元して、テーブルに戻し、自分の作業に取り掛かった。
 く、この玉ねぎ手強い。
「うえぇ、斉木さん」
『気持ち悪い声を出すな、びっくりして手元が狂って、お前の首をすぱっとやったらどうする』
「ひい物騒!」
 オレはどうにか切り終え、鼻をぐすぐすさせながら水にさらし、レタスの上に盛り付けた。
 そしてぐすぐすさせながら包丁と洗いまな板を洗い、作業台を綺麗にする。
 目が開かない、開けているのがつらい。
 片付いたところで、頬まで垂れてきた涙を手の甲で拭い、続いて服の袖でごしごしやろうとした時、斉木さんの手が止めにかかった。
『腫れるからやめろ。今ティッシュを取ってきてやる』
「あざっス」
 えへへ、なんだかんだ優しいね、斉木さんは。
 オレは目を瞑ったまま、ティッシュの到着を待った。
 けれど肌に触れてきたのは、熱くて柔らかい何かだった。

 

「え……え!」
『動くなやりづらい』
 びっくりして足踏みするオレに、斉木さんがそう伝える。
 斉木さんはオレの頭を両手で掴むと、目尻から零れた涙を唇で丁寧に吸い取っていった。
 少しむず痒いキスの数々に、オレはすっかり硬直していた。
 自分でやれと顔にティッシュの箱をぶつけられるか、乱暴に拭われるかのどちらかだと思っていたのだ。
 それがまさかこんな風にされるなんて、あの斉木さんが…想像もつかない。
 息が荒くなって身体が熱くなって、今にも火を噴きそうだ。
「っ……さいきさ……」
 やたら速まった呼吸を継ぐ口で、詰まった声を絞り出す。
 ああキスしたいキスしたい
 じりじりともどかしい時間。
 目を瞑っていても、斉木さんの唇がすぐそこにあるのがわかった。
 息をひそめて、するかしまいか迷う沈黙。
 驚くほどあっさりと、斉木さんは手を離した。
「えと……斉木さん、今の」
『箒掛けの礼だ』
「え、あ……あざっス」
 オレのいつもの習慣の延長だから、全然苦でもない。
 今この状況の方がずっと苦しい。
 オレは恐る恐る伺うように斉木さんを見た。
「あの、斉木さん……なんか、立っちゃったん…スけど」
『知らん』
「それはないっス! てか絶対わざと!」
『そんな馬鹿な』
「今のは完全にする流れでしょー! じゃあじゃあ斉木さん、風呂掃除しますから、どうか一発!」
 オレは両手を合わせ拝み倒した。
 がっかりだと、斉木さんは伏せた顔を左右に振ってため息をついた。
『はぁ…やっぱりお前はお前か』
 それでもオレはめげない。
 更に玄関も綺麗にしますと言い募った。
 無視されたってめげないぞ。
 斉木さんだって絶対立ってるはずー!
 証拠を掴んでやると、オレは後ろから手を回した。直前で斉木さんに掴まれ、しかし収まりの利かないオレは諦め悪く詰め寄った。
「ねえ、そんなに嫌スか?」
 うんと頷かれ、さすがのオレも膝から崩れそうになる、が、斉木さんのほんのり朱色に染まった頬に持ち直す。
 怒りで赤くなっているのではなく、表情からして羞恥のそれだと、オレは即座に覚った。
『お前とやるのは嫌じゃない』
 ほっとして気持ちが少し浮上する。
『一回じゃ済まないから嫌なんだ』
 そこから一気に天井を突き破って遥か彼方へ吹き飛んだ。
「あの、それ……うわ!」
 掴まれていた手を乱暴に離され、オレは思わずよろけた。
「えと……すんません斉木さん、片手間にやるみたいに言ってほんとすんません」
『うるさい!』
「いだだだだ! 顔面はやめてマジ取れちゃうー!」
 少しだけ手の力が緩んだが、相変わらず斉木さんは掴み続けた。
 今度こそはぎ取られてしまうのかと覚悟を決めた時、ようやく手が離れた。
 ガンガン、じんじん、ずきずき、どこがどのように痛いのかもはやわからない。痛む顔を両手で押さえて前屈みになり、しくしくと己の浅慮を嘆く。
 今の攻撃でひとまず欲の熱は収まったようだ。
 良いのか悪いのか、複雑な気持ちではあとため息をつく。
 オレの悶絶など素知らぬ顔で、斉木さんは朝食の準備を進めていた。
「じゃあ斉木さん、あらためてお願いするっス」
『懲りない奴だな』
「そりゃだって、斉木さん相手ですし」
 一時的には我慢出来ても、ずっとなんて無理な話だ。
「ごはん食べ終わったら、ゆっくりやりませんか」
 目の前にある斉木さんの背中にそう語り掛ける。
 返事がない、返事がない!
 どういう事スか斉木さん、オレなんか間違っちゃいました?
 もやもやしていると、ようやく反応があった。
『どうせ、昨夜みたいに途中で襲うつもりだろ』
「おそっ……いやいやもう、しませんから! 昨日みたいのは繰り返しませんから!」
『僕が断り切れないのをいいことに、無理やりするつもりだろ』
「しません、もう絶対に昨日みたいなのはしません!」
 弁解を繰り返すが、斉木さんは背中を向けたままこっちを見ようともしない。
 出来上がったスープをよそい、サラダをトレイにのせて、淡々と作業を進めている。
 取り付く島もないとおろおろしていると、トースターがパンの焼き上がりを知らせてきた。
 オレの顔が、そっちと斉木さんとを行き来する。斉木さんは無言で指差しして、そっちをやれと指示してきた。
「は、はいっス……」
 出来立てのピザトーストはチーズがとろけて見るからに美味そうで、空っぽの胃袋を積極的に刺激してきた。
 用意していた皿にのせ、オレはその皿を持って斉木さんを振り返った。
『何突っ立ってるんだ。食べないと始まらないだろ』
 何が始まらないのか、オレは一拍遅れて理解する。
「……はいっス!」
 オレはたちまち笑顔になってテーブルへ飛んでいった。
 オレってやつはもう、この人はほんとにもう!

 

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