はじまる場所で |
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こんな匂いだったな
何日ぶりかの帰宅に緩む頬で、コナンは居間に足を踏み入れた。 後から続いた蘭が、うきうきと声を弾ませ小五郎の寝室へと向かう。
「お布団敷いてあるから、コナン君、着替えたら横になって」 あ…手伝おうか
少し低くなった声音。
「い、いや…それは一人で出来るよ」
心配そうな蘭を右手で軽く制し、コナンは大丈夫と頷いた。そしてまだ眠くはないと付け加えようとしたが、それより早く、蘭がにこにこしながら言った。
「コナン君のお布団、晴れた日には必ず干してたから、すごくふっかふかよ」
晴れた日には必ず。 そんな事を聞いてしまっては、簡単に断るなんてとても出来ない。
「ありがとう……蘭姉ちゃん」
少し喉に詰まる声でコナンは見上げた。 そこへ、小五郎がのっそりとやってきた。
「オメー、携帯電話持ってるよな」 「うん、あるよ」
念の為取り出して示す。見るも無残に傷付き、飾りの取れたストラップがついたそれ。
「んじゃあそれ、枕元にでも置いとけ。俺は事務所にいるから、何かあったら電話しろ」
それだけ言うと、コナンが頷くのも見ずに背を向け玄関へと向かった。
「うん、わかった」
構わずコナンは、ありがとうの代わりに声をかけた。 程なくして玄関が閉まるのを聞きながら、コナンは着替えに取りかかった。 脱ぐのはたやすかった。片手でも問題なく出来る。パジャマも、ズボンをはくまでは特に苦労もなくこなせるのだが、ボタンをはめるのにいつも、悪戦苦闘する。 とはいえ全く出来ないわけではなく、えらく時間はかかるが一人でどうにかこなせる。
「ゴメンね……だいじょうぶだよ」
学校の支度でたまたま部屋から出てきた蘭が、何か言いたげに見つめてくるのに、コナンは苦笑いしながら申し訳なさそうに言った。
「うん……」
しかし…見守っている方からするとやはりそわそわしてしまうもので、厄介ながらも一人でこなせるものだと頭では分かっていても、ついつい手が出てしまう。 しばし行きつ戻りつためらった末、蘭は一つ頷くとコナンの前に膝をついた。
「じゃあ今回だけやってあげる……やらせて!」
明るくそう言って、まだ一つ目もきちんと留まっていないボタンに手を伸ばす。
「……ご、ゴメンね」
また、コナンが申し訳なさそうに言う。
「いいの……甘えたかったし!」 「うん…いや、これ…ボクが甘えてるし……」
間近の顔からさりげなく目を逸らし、少し赤い顔で呟く。
「いいからいいから!」
とろける顔で笑い、蘭はてきぱきとボタンを留めた。
「はい、これでよし」 「……ありがと」
嬉しそうな女をちらちらとかすめ見ながら、コナンは呟くように言った。
「じゃあ、ゆっくり休んで。久しぶりの自分のお布団、きっと気持ちいいよ」
そう言って蘭は寝室へと促した。
「毎日干してくれてたんだもんね」
絶対気持ちいいに決まってると、コナンは笑顔で振り返った。 そしていざ布団に触れたところで、想像以上に軽く柔らかいそれに絶句する。 もったいないと、ためらいが生じた。 まだほのかに陽のあたたかさが残っているようだった。 感激のあまり言葉が出ない。 どうにかこうにか布団に入り、横になる。 じんわりとしたあたたかさに包まれ、これだけでもう夢見心地だ。
「冷蔵庫に、おにぎりと卵焼き沢山用意したから、お腹がすいたらそれ食べてね」 「うん、ありがとう蘭姉ちゃん」
「じゃあ、私そろそろ行く時間だから……」
語尾を濁し、蘭は立ち上がった。 彼女が次に言うだろう『行ってきます』にコナンは備えるが、聞こえてきたのは違う言葉だった。
「……おかえり、コナン君」
まっすぐ見つめ、やけに深刻な顔で言う蘭にコナンは思わず笑った。
「さっきも言ったよ」
すると蘭は少しむっとした顔になり、刺々しい声で繰り返した。
「おかえり、コナンくん!」
正しく返すまで何度でも言うぞとむきになる女を愛しく見上げ、コナンは口を開いた。
「ただいま、蘭姉ちゃん」
すると蘭はまたおかえりと言い、コナンもただいまと返した。 ようやくほっとして、蘭はふふと笑った。 少し目を潤ませながら笑う顔が、強く胸に迫ってくる。
「あんまりやってると遅刻しちゃうよ」
くすくす笑いながらコナンは言った。
「もう……今日はサボっちゃおうかな……」
袖口を掴み俯いて、ぐずぐずと蘭は呟いた。
「ダメだよ、蘭姉ちゃん。帰ってきたら、今度はボクがおかえりって言ってあげるから!」
少し厳しく、コナンは言った。第三者からすればそれは、ひどく甘ったるい声でしかないが。 すると途端に蘭は顔中輝かせ、そうだと頷いた。
「うん、そうだね。じゃあ行ってきます!」 「いってらっしゃい、蘭姉ちゃん」
意気揚々と、蘭は寝室を出て行った。 がすぐにある事を思い出し、戸口で立ち止まり振り返る。
「そうだコナン君……」
呼びかけると、驚いた事にコナンはもう眠りについていた。 小さく目を見開き、蘭は慌てて口を押さえた。 まさかと、忍び足で近付きそっと顔を覗き込む。 狸寝入りなどではなく、完全に眠っていた。耳を澄ませばくうくうと、実に心地よさそうな寝息も微かに聞こえ、蘭は目を細めた。 静かに静かに膝をつくと、耳元に口を寄せ夢の中にいるコナンに囁く。
「……今日の晩ご飯は、ハンバーグだからね」
すると、小さく緩んだコナンの口元にほのかに笑みが浮かんだ。 あまりの可愛らしさに、蘭はくくくと肩を震わせた。 無邪気な寝顔をしばし見つめ、それからゆっくり立ち上がると、蘭は一歩ずつ慎重に部屋を出た。 もう一度心の中でいってきますと声をかけ、ドアを閉める。 笑いの余韻抜けきらぬ顔で正面を見つめ、蘭は日常へと踏み出した。 |
終