チクロ
絵本
書斎に移った後、男は二度ほど様子を見に寝室に寄った。 どちらの時も、特に寝苦しさといったものは感じられず、ぐっすりと寝入っていた。 微かな、落ち着いた寝息が耳に届く。 途端に湧いてくる撫でたい衝動を何とか飲み込む。せっかくの安眠を邪魔するのは忍びない。神取鷹久は部屋の空調を確かめた後、静かに寝室を出た。気を付けて扉を閉めたところで、笑いが込み上げてきた。彼の寝顔が愛しく感じたからだ。少し口を開けた寝顔を思い出すと、可愛らしさに頬が緩んでしようがない。 堪えようとしたが、誰も見ていない、自分が恥ずかしくなるだけだと割り切り、感情の赴くまま口端を持ち上げる。己の滑稽さも相まって、中々笑いは引っ込まなかった。 書斎に戻ってすぐ、隣で物音がした。 彼が用足しを済ませたのだ。 しばしの間、開け放っている書斎の入口へと注意を向ける。何かあったら言うようにと告げてあったので、また静かになったという事は、彼は再び眠りに就いたという事だ。 安心してデスクに目を戻す。そこで時刻に気付く。 そろそろ食事の下準備に取り掛かろう。温め直すだけにしておけば、彼がいつ起きてきてもいい。 リビングに踏み込んだところで、寝室から彼が出てきた。 病人と構える神取に反して、桜井僚は、贅沢な昼寝を充分楽しんだとばかりにあくびと一緒に大きく伸びをした。 ああやっぱり、彼は若い。 神取はひと息笑い、近付いて額に手を当てた。 嬉しそうに彼は言った。 「頭痛いの、もうなくなった」 「そのようだね。顔色も良いよ」 頬を撫でる。 寝る前の大騒ぎが恥ずかしいと、僚は苦笑いで肩を竦めた。 「だが油断は禁物だ、今日一日は安静にしているように」 「うん、そうする。もし……大丈夫だったら、夜も、チェロの練習お願いしていいよな?」 神取は微笑んだ。控えめにしながら、すでに彼の中では決定事項となっている。自分ごときではこの勢いは止められない。 「その為にどうすればいいか、わかっているならね」 僚は神妙な顔で頷く。せっかくの休日、一緒にいられるのに、寝てばかりなんて御免だ。出来るかどうかは全て自分の行動にかかっている。言われるまでもなく安静にして、早く治すのだ。早くチェロに触れたい。 僚は一つため息を零した。 「どうした?」 「なんでも。鷹久は、何するところ?」 「ああ、丁度、君の夕食を作ろうと思い立ったところだ。君がいつ起きてもいいように、早めに作っておこうと思ってね」 「やっぱり俺甘えてるよな」 済まなそうに目を落とす僚に神取はにやりと笑った。 「私が本気を出したら、こんなものではないよ」 僚は一瞬驚き、すぐに男の冗談に調子を合わせて大げさに肩を竦める。 そして、一緒に声を揃えて笑う。 それから、男に言われる前に厚手の上着を着込み、ソファーに落ち着く。 キッチンに向かった男が戻ってくるまで、僚は目を瞑りぼんやりと過ごした。 物音が聞こえてくる。 作っているのは、先日体調を崩した際振る舞ってくれた豆腐粥。 僚は頭に材料を思い浮かべ、この音は何をしているものかとそれぞれ想像した。 やがて音は止み、戻ってくる微かな足音が聞こえた。 目を閉じたまま、男の気配を追う。少しして、傍でふわりと空気が揺れた。隣に腰を下ろしたのだ。心なしか、体温を感じる。 その方へ向けて僚は身体を傾けた。すぐに頭が肩に乗る。思った通りの距離が嬉しくて、小さく笑みを零す。 寒くはないかと、控えめな低音が聞いてきた。平気だと応えると、男の手がそっと頬に触れる。 僚はゆっくり目を開けた。 「ありがとう」 気遣いにも。食事の用意にも。もっと沢山の事にも。声を出して告げると、どういう訳か涙が滲んだ。 今の、わずかな睡眠の間に見た夢が、まだ残って心に引っかかっていたようだ。 途端に衝動が込み上げる。 口を閉じておけず、僚は言葉を弾けさせた。 「どんな夢を見たんだい」 神取は聞き返した。始まりを感じ取り、内心緊張が走る。悟られぬよう、出来るだけ平静を務める。 僚は、言葉をまとめるわずかな間を置いて言った。 「父親に――捨てられた時の事」 本当のところは違う。切り捨てた訳でも見捨てた訳でもない。どうしても家族を続けていく事が出来なくなって、身を切る思いで別れたのだ。 「でも俺は、長い事、捨てられたんだって思いがあった。物が分かるようになってからは段々心の深いところに沈んでいったけど、本当に長い間俺は、捨てられた……父親は俺を捨てたって思ってた」 神取は静かに頷いた。僚の表情の変化によく目を凝らす。顔をしかめ、時々唇を歪ませて、彼は言葉を綴った。 目線で返事をし、続く言葉を待つ。 「父は、チェロを弾いていた。だからチェロが大嫌いになった」 大嫌い、というところで殊更に僚は顔付きを険しくした。 神取は記憶を手繰った。この部屋に再び訪れあの辺りでチェロを目にした彼は、極上の物を見るようにチェロを眺めため息を吐いた。文字通り顔を輝かせていた。 「父親も、チェロも……」 家族も、全部。 一点を鋭く見据え、僚は息を詰めた。 後に続く言葉を、彼は口にしなかった。恐らく、大嫌い、憎い、そういった言葉が当てはまるのだろう。本当は全く逆だが、心の揺れが、憎しみに向いてしまったのだ。 頭の中にますます、あの時の彼が鮮明に蘇る。うっとりとした表情で微笑む彼が目に浮かぶ。 長らく沈黙を守った後、僚は小さく首を振った。 「人を憎むのって、けっこう疲れるね」 静かに綴られた言葉を聞き、神取はそっと肩を抱き寄せた。 僚は誘われるまま男に身体をもたせた。 これまで誰にも、この話をした事はない。この事は誰にも言っていない。 あの頃感じたものを、こうして口に出した事は、こんな風に自分を露わにした事はない。 好悪、憎悪、もっと気楽な、あいつ嫌い、という当り前の感情も、自分は出しにくかった。 けれど今は何故か、するりと口から出す事が出来た。 その上、無条件で甘えさせてくれる男の手に自分を預け、寄りかかって安心しきっている。 僚は唐突に身体を起こし、立ち上がった。一歩二歩、遠のく。 「なんで鷹久って、俺がしてほしい事わかるんだ?」 驚きを乗せたつもりだが、思いの他責める口調になってしまった。 僚は慌てて、もっと柔らかい口調を心がけて聞き直す。しかし上手くいかず、どころか言えば言うほど絡まりもつれる。 神取は最後まで黙って聞き、やがて苦い顔で口を噤んでしまった僚にゆったりと笑いかけた。 「君を、見ているからだよ」 まだまだ至らないところだらけだがね…笑って肩を竦め、男は自戒する。 「そんな事ない、でもなんで、だってさ、だって……」 僚は小さく唸り、口を噤んだ。男の答えに納得がいったのだ。 男は、立ち上がった僚に合わせて顔を上げ、穏やかに見つめていた。 僚はしばしあちこち視線を巡らせた後、男に戻した。 「……隣に座ってもいい?」 神取は大きく頷き、手で示した。 「おいで」 腰掛け、正面を向いたまま男の肩もたれた。 男の大きな手がまた肩にかかる。 僚は嬉しげに笑い、男の手を掴んだ。 「午前中、鷹久に褒められた時、俺、言ったよね」 何をと聞き返す代わりに目線を向ける。 次の曲に取り組んでみようと男が言ったのを受け、ならば組曲を完成させたいと希望を口にした。 これまでは、父親の真似ごとだった。父の音を真似てたどって、一喜一憂していた。 これからはそうではなく、自分なりの音を追求したい欲求が湧いてきた。 「そう思った時、凄く寂しくなったんだけど……寂しく感じたんだけど、それとは別にすごく……」 表現に悩み、僚はおかしいかもしれないけれどと前置きして続けた。 「何と言うか、目の前が明るくなった感じがした」 伺うように男を見やる。 「許す事が出来たのかもしれないね」 自分の中で作り上げた間違った像を取り壊し、あるがままを受け入れ、そしてそれを許した。彼はそこにたどり着いたのだ。 僚は一瞬顔をしかめた。まだいくらかわだかまりはあるようだ。しかし暗い表情はすぐに消え、言葉を飲み込むひと呼吸空けて、素直に頷いた。 軽く肩を竦める。 「でもまだ、うまく決着つかないとこもある」 「まあそれはそうだろうね。わかったから、はいじゃあ今日からそうします、というのは難しい。無理だ。ゆっくり飲み込んで、ゆっくり消化していけばいい。君の思う通りにしていいんだ」 僚は静かに息を吐いた。ため息に交えて、やっぱり俺、甘えてる…小さく零す。 「遠慮はいらない、もっとおいで。もっともっと甘やかしてあげる」 「……ダメじゃん」 鼻先で笑いながらも、僚は男に抱き付いた。 駄目な事はないと、神取は背中を優しくさすった。 「大丈夫だよ」 「……ほんと?」 「ああ、保障するよ」 「鷹久が言うなら大丈夫だな」 冗談めかして言うが、心から信じ切っていた。だからこそ言える。 僚はちらりと顔を見やり、頬に手を伸べた。手はすぐに届いた。包み込む眼差しで微笑む男の顔がすぐ傍にある。 近い。遠い。すぐ傍にある。 それがどれほど贅沢か今一度噛み締め、深く吸い込む。 そこで僚はある事を思い出し、勢いよく身体を起こした。 「どうした?」 少しびっくりした様子で見つめてくる顔に神取は尋ねる。 仕事、と僚は言った。すぐに理解する。 「ごめん、邪魔した」 済まなそうに顔を歪める僚に首を振り、急ぎのものは一つもないから心配する事はないと告げる。 でも、と彼は言い募る。 「夜、また練習付き合ってもらうし、時間取るし、だからもういいから鷹久、戻って。俺も寝室戻るから」 あたふたと、立ち上がりかける僚の身体を抱き寄せる。 「休むならここで休むといい」 「いや、でも」 遠慮から、僚は抵抗した。 神取も負けじと力尽く抱きしめる。 「君は休憩もくれないのかい」 「いや、そういう訳じゃなくてさ」 「ここも充分暖かいだろう?」 「うん、寒くはないよ、大丈夫」 「ではこのままで。君の腹の虫が鳴くまで、お互いここで休憩しよう」 彼の腹はとても規則正しい。時計要らずだ。 僚は恥ずかしさに喉の奥で呻き、照れ隠しに男の足を一度叩いた。 男は動じず、声に出して笑った。 憎たらしい奴だともう一度叩く。それでも肩を包み込む手は変わらずに優しく、やがて僚は強張っていた身体から力を抜いた。 落ち着いた頃合いに、神取は言った。 「君があのアルバイトを始めたのは、その辺りがきっかけだったのかい」 「うん、そう」 思ったよりすんなりと答える事が出来た。そんな自分に驚く。 真実にたどり着いた男の洞察力に驚き、自分に驚く。 「それだけなんだ」 たったそれだけの理由であんなにも大騒ぎしたのだ。しようもなく恥ずかしく、出来るなら一生隠しておきたい事実。 僚は奥歯を噛み締めた。男の服を強く握りしめる。 力のこもった手を包み込み、男はゆるゆると首を振った。そうは思わないよ。たったそれだけなどと、自分はそうは思わない。静かに綴られた言葉に、僚は、心から救われる。 恐々と力を抜く。手を離しても男は離れていかない。こんな自分を軽蔑しない。人にはそれぞれ事情があるのだと理解を示してくれる。 「……ありがと。ほんとに」 男の手がゆっくり動き、静かに背中をさすった。 僚はしばらくして小さく息を吐き出した。身体の中に留まっていた悪い物を追い出すように。 「誰だって、腹が立ったら怒るものだ。それが正常な反応だ」 ただその時にしでかしてしまった事は、自分で責任を負わねばならない。 「君の場合は、身体に残ったその傷だ。君はそれらと折り合いをつけて生きて行くしかない」 その傷を目にする度、君はどうしてこんな事、と落ち込む。私はその度君を励ます。君は更に落ち込む。私はもっと慰める。やがて君が、こちらを信じてもいいかなと思うまで、思ってからも、私は君を励ましてゆくよ。 「どうして……そんなに」 「好きな人が苦しんでいるのに、放っておけないだろう」 神取は続ける。一緒にいると落ち着くのだ。それにとても楽しい。チェロの事、好きなものの話。それらを一緒にあれこれ語るのが楽しいのだ。 「そんな他愛もない事が、大切なんだよ。そういったものを君と一緒に積み重ねていける。とても嬉しいよ」 こんなに嬉しい、楽しい事、手放す気はないよ。私は欲張りだからね。 僚は泣き笑いで言った。 「ほんと……ヘンな奴」 「まったくだ。だがそんなヘンな奴も、中々のものだろう」 首を振る。中々どころではない。ああ、今にも泣いてしまいそうになる。堪えて堪えて、飲み込んで、僚は出来るだけいつもの口ぶりで言った。 「まあ、鷹久だしな」 それでも語尾がわずかに震えてしまった。小さな混乱に見舞われる。背中をさする手は変わりなかった。それが本当に嬉しかった。 「冬だね。外がもう大分暗い」 つられて窓へと目をやる。部屋の中は充分暖かいが、外で渦巻く風の音を聞き取った気がして、僚は小さく肩を竦めた。 「ここではやはり寒かったね。ベッドに戻ろうか」 「ううん。鷹久の隣、中々いいよ」 先ほどの男の言葉にかけて、僚は首を振る。 神取はふと笑った。 僚は続けて、絵本、と切り出した。 「すごく楽しみ」 「もう用意してあるよ。気に入ってくれると嬉しいのだがね」 「鷹久の演技力次第だな」 「では、頑張ろう」 神妙な声の男に笑う。 男も笑う。 安心出来る男の隣で、僚は一緒に笑った。 |