チクロ

一緒に食べよう

 

 

 

 

 

「鷹久の方が発音いいよ」

 手にしたデザートフォークを振り上げ、桜井僚は首を振った。お待ちかねの食後のデザートだと、互いの前に皿を揃えた時、男がケーキの名称を口にしたからだ。ふうとため息をそっと吹き、ひと口分に切り分けた『Sachertorte』をフォークですくう。

「君の真似をしたからさ」

 それだけ綺麗な発音だったと、神取鷹久は微笑した。それから、口の中でとろけたケーキに美味いと唸る。
 発音に対しては渋い顔をし、すぐにぱっと切り替えて、僚はにっこり微笑んだ。本日の豪華ディナーの為に選んだケーキは、大成功のようだ。
 一飲みにしてしまいたいが、なくなってしまうのがつらいところだ、と男は苦悩しながら、ひと口ずつじっくり味わっている。可愛い。僚は緩む頬を何とか抑えながら、フォークを口に運んだ。
 名残惜しさを丁寧なあいさつに代えて、男は手を合わせた。僚も揃って頭を下げる。
 ゆっくり食休みを取る為に手早く後片付けを済ませ、二人はテーブルについた。
 冷めたコーヒーを啜り、来週の予定だが、と男は口を開いた。
 僚はテーブルに軽く身を乗り出し、今日の土砂降りで来週に延びた遠出の予定に耳を傾けた。

「ちょっと予定を変えてもいいかい」
「いいよ。何かあるか」

 目を瞬きながら頷く。

「ああ。実は、前々から君としたい事があった」
「なに」

 僚は期待に満ちた眼差しを向けた。
 神取は椅子から立ち上がり、壁のカレンダーに歩み寄ると、来週の金曜日を指差した。僚はより注目した。

「この日は、いつものようにチェロの練習だ」

 そうだと頷く。男も頷き、指を横にずらした。今日の代わりの来週土曜日、男は一体どんな事を計画しているのだろうか。僚は耳を澄ませた。

「海の見える芝生の庭で、ピクニックはいかが」

 

 

 

 土曜日、早朝、僚はぱっちりと目を覚ました。
 枕元にはもしもに備えて目覚まし時計を携えているが、これまで一度もお世話になった事はない。いつも、それより早くに目が覚めているのだ。今日は殊更早い目覚めであった。
 ベッドから抜け出してまずすべきは、今日の天気の確認だ。テレビのリモコンを掴み、つけながらカーテンを開く。昨夜の予報では、雨は夜の内に上がる…そう、金曜日の夕刻からパラパラと雨が降り出してきていたのだ。それも日付が変わる頃には止み、明日は一日良いお天気でしょうと予報士は言っていた。
 その通りの、いくつか雲がぷかぷか浮かぶ青空が広がっていた。僚は満足げに空を見上げた。男は、雨天でも決行だと言っていたので、チェロの練習をする前と後とで空模様が変わっていても、先週のように腐った気持ちにはならなかった。
 カーテンをまとめ、窓を開けて、空気を入れ替える。顔を洗っている時、朝食の用意をしている時、何かにつけ顔がにやにやと緩んできた。
 今日は男とピクニックに出かけるのだ。これまで高原や緩やかな山道を散策して、ハイキングに近い事は何度か経験したが、ピクニックは始めてだ。見晴らしのいい場所にシートを広げて座り、景色を眺めながら、持ってきたランチを味わう。
 どんなものだろう。学校の遠足…とはまるで違うのだろうな。想像が及ばない。楽しい事だけは間違いないが。
 着替えの途中、男からメールが届いた。おはようの挨拶に始まり、二人の祈りが天に通じたようだと続く文面を、僚は時々歯を見せながら読み進めた。昨夜言った通りの時間に迎えに行くので、アパートにて待機よろしくとの言葉に、僚は待っていると応じた。
 それからすぐに朝食の支度に取り掛かる。冷蔵庫を開け、任されたフルーツと食後のおやつを確認する。
 男は、食事は全てこちらで準備するので、君はいつもの遠出の荷物を用意するだけでいいと言ったが、何もかも任せきりは気が引けた。身一つでお気楽に赴くのは居心地が悪い。何か手伝える事はないかと申し出ると男は、それならば君の得意とするもの、フルーツと食後のおやつを担当してくれと言ってきた。
 ちゃんと用意出来た二つを再度確認し、僚はドアを閉めた。ランチの内容はサンドイッチだそうだ。作ったものを持ってゆくのではなく、その場でパンを切り、持ってきた材料を好きなように挟んで頂くのだという。作りながら食べるというのも、実に楽しそうだった。そこからヒントを得て、自分の担当のデザートも未完成で持っていく事に決めた。腹に入れば同じだが、出来上がりの綺麗なさまも味わってもらいたい。それを思い付くまで、途中で崩れてしまったらどうしよう、どうすれば綺麗なまま持っていけるだろうかとあれこれ悩んだので、思い至った時は本当に気持ちが楽になった。冗談でなく、身体が軽くなった。
 あまり浮かれるとまた熱が出ると情けなく笑ったが、楽しみな気持ちは膨らんでゆくばかりだった。
 朝食の片付けを済ませてから約束の時間が来るまで、僚はそわそわと落ち着かない気分でいた。荷物を二度確認し、三度目で、いい加減にもういいだろうと自分に苦笑いを零す。
 やがて時間になり、チャイムが鳴った。

 

 

 

 冷やしておきたいものを詰めたクーラーボックスを後部座席に積む際、大きめのピクニックバスケットが鎮座しているのが見えた。しっかりとした作りの籐製のトランクに、気分が一気に盛り上がる。絵本か精々テレビでしかお目にかかった事がない。あの中には、白い皿や、ナイフフォークが収まっているのだ。横の部分に、二本のベルトでしっかりとブランケットを抱えている。明るいチェック柄に思わず頬が緩む。
 ほんとにピクニックに行くんだ。
 呟いた言葉は、男の耳にも届いていた。

「そうだよ」神取はにっこりと笑いかけた「きっと気に入るよ」

 もう今から興奮してると、僚は笑い返した。シートベルトを締めると同時に身体がぶるりと震えて、自分でもおかしくなる。ピクニックに出かけるのはもちろんの事、男が五月に購入したこの新車、美しく深みのある紅色のボディを持つこのスポーツカーで遠出する事や、今日の晴天、いくつも嬉しい事があり混乱気味だ。今からでも熱を出しそうだ。

「忘れ物は」
「二度確認した」
「では安心だ」

 神取はにっこり笑って正面に顔を戻した。静かに車を走らせる。目的地までは、順調に行けば一時間ほどだと口にすると、当然ながら、どこへ行くのだと僚が聞いてきた。
 ううむと唇を引き結び、神取はいいところだと答えた。
 僚は何かを云いかけ、口を噤んだ。内緒にするという事はよっぽどおすすめの場所なのだ。おすすめの、とっておきの場所。今すぐ暴きたい気持ちがむくむく込み上げてくるが、目的地で目隠しを外して驚きを味わいたい気持ちもあった。
 自身に満ちた男の横顔をしばし眺め、道の先に目を向ける。綺麗な芝生の公園で、海が見えるところらしい。高台の展望公園をぼんやり思い浮かべ、僚はわくわくを募らせた。
 ラジオによると、高速道路に渋滞はないようだった。実際乗り込むと車の流れはスムーズで、これなら予定より早く到着出来そうだと男は言った。

「では、行こうか」

 心持ち弾んだ男の声を聞き取り、僚は反射的に足を踏ん張った。始めてこの車に乗った時、あまりに強烈な加速に思わず声を出してしまったのだ。足が浮き、腹の底がむずむずするようなそれはとてつもない快感で、気ままに車を走らせるのが好きだという男の言葉がよくわかった。
 こうして、制限速度ぎりぎりまで速度を上げても、男の運転はすっきりと上品だった。動きの一つひとつ、目線に至るまで、性格がよく表れている。時に色気を感じ、胸が高鳴る瞬間もあった。
 空いた高速道路を飛ぶように滑るように進み、やがて左手に海が広がる通りに差し掛かった。
 天空と波の上とに真っ白い輝きが弾け、夏を待ちわびる海は空を映したように青く広がっていた。

「鷹久の好きそうな、海だ」

 僚のわくわくした声に神取は微笑んで頷いた。まったくもってその通りだ。どの季節、天候でも、海は好きだ。いつまでも眺めていたくなる、
 海沿いの道には、レストランや海産物を扱う土産物の店が何軒か並んでいた。黄色や赤ののぼりが風に揺らいでいるのを横目に、僚はじっくりと海を眺めた。
 しばらくすると道は海から逸れ、住宅やマンションが見えるようになった。

「もうあと五分ほどだ」

 少し残念に思っていると、そう声がかけられた。僚は反射的に腕時計に目を向けた。あと五分で到着と言うなら、一時間よりもずっと早く目的地に着く。

「今日は特に道が空いていた。お陰で早く君を案内出来る」

 表情から読み取り、神取はちらりと目配せした。いよいよかと、僚は居住まいをただした。そういえば、久々に車が止まっている。信号待ちで停車したのだ。こんなごく普通の町中から、一体どんな展望公園へ行くのだろうか。まるで想像もつかず、期待は増すばかりだった。
 長い坂を上り、小路に折れて今度は緩やかな下りとなった。道幅は狭く、道路の状態もあまり良いとは言えない。しかし、山に入ってゆくような道が「らしく」て、より慎重になった男の運転に身を任せ僚は待った。
 神取はとある場所に車を止めると、エンジンを切った。落ち着かない様子で左右を見回している僚に笑いかけ、到着だと告げる。

「でも、ここ……」

 僚はおっかなびっくり周辺をうかがった。ここは、どこか他所の家の駐車スペースではないのか。とある邸宅の横手に止まった車、男の顔をまじまじと見つめ、僚は問いかけた。

「私の別邸にようこそ」
「……へ?」

 

目次