晴れる日もある

 

 

 

 

 

 朔也が三年に進級してしばらく経った頃、母親と妹が、母親の実家近くの山中から白骨遺体となって発見された。
 遺体の状況から、事件ではなく、無理心中によるものと警察は判断した。
 死後、十五年近く経過しているという。
 恐らく、朔也を置いて出ていったすぐ後に、二人は山中で命を絶ったのだろう。
 何故自分も連れて行ってくれなかったのだろう。
 ことごとに朔也は思った。
 そして今日、偶然放課後の教室に居合わせた南条の存在も忘れて、独り呟く。

「俺も連れて行ってくれたらよかったのに」

 詩の一篇を読み上げるような抑揚のない声が、南条を振り向かせる。
 朔也は、席に座ったままぼんやりと、窓から見える空を眺めていた。雲一つない空は高い。
 妹と一緒に、自分も連れて行けばよかったのに。
 そうすれば父親に殴られることも罵られることも、犯されることもなかった。
 そうすればあの男を失うこともなかった。
 ああ、でも駄目だろうな。
 こんな、頭のいかれた汚い子供、誰も連れて行ってはくれない。

「……日下部」

 一年前の異変を共に乗り越えた同士の、浅からぬ仲からそれとなく事情を知っている南条は、険しい顔付きで唇を引き結んだ。

「ではお前は、あの男との記憶は全部いらないというつもりか?」

 聞こえていないはずはないが、朔也は何の反応も示さなかった。
 聞こえていないどころか、南条がすぐ近くに存在する事すら、気付いていないようだった。
 しかしそうではない事は、ちゃんと聞き届けている事は、南条には分かった。
 朔也の左手がピアスに触れたのだ。
 ほとんど表情は変わらないが、彼には言葉が届いていた。
 自分には推測しか出来ないがと前置いて、南条は言った。

「きっとお前には、生きていてほしかったんだ」

 朔也の母親は、朔也を残し妹と一緒に命を絶った。
 朔也の父親は、朔也を残し投身自殺を図った。
 そして、あの男。
 いずれも、一度は朔也を一緒に連れて行こうとして、思いとどまった。
 きっとそれは。
 南条は思う。

「母親も父親も……そしてあの男も、お前には生きていてほしかったんだ」

 そんなこと、と、不意に朔也は顔を歪ませた。

「そんなことわからない」

 心細さに満ちた声で漏らし、朔也ははばかることなく涙を零した。
 子供のまんまで泣く姿に南条は少なからず動揺し、同時に胸を痛める。
 南条にとって、彼が感情の赴くまま泣くのを見るのはこれで二度目。
 異変以前、ただのクラスメイトという認識だった頃とは大違いの姿。彼は自分から口を開く事はしないが、話しかけられれば誰にでも愛想よく応えた。
 誰にでも笑顔で、愛想よく。
 黙した時はよそよそしく冷たいが、笑えば人懐こそうな顔になる彼に、女子は少なからず惹かれた。
 しかし南条は、朔也の笑顔が本当は笑っていない気がして、好きではなかった。
 上辺だけの薄っぺらさ。
 どこか小馬鹿にされているようで、目に入る度上手く説明のできない苛々が込み上げた。
 異変を共に乗り越える事で理由が分かった。
 笑っていない笑顔は、仮面の一つに過ぎなかった事が分かった。
 彼の拉がれた人生そのものだったのだ。
 南条はようやくの事分かった。
 散々に踏みにじられて、それでも生き伸びてきた、日下部朔也という人間が分かった。
 少し自分に似ているかもしれないと、南条は思った。
 命をかけても守りたいものがあり、それ以外はどうでもいいもの。
 守りたいものの為なら、どんな戦いにも飛び込んでいける。
 しかし日下部朔也にとってその戦いは、守りたいものそのものを失う終わりとなった。
 そして今、失われたものに途方に暮れ、子供をむき出しにして泣いている。
 南条はポケットからハンカチを取り出し、手に握らせた。

「お前が……お前がそう思えば、そうだ」

 しかし朔也は泣くばかりで一向に動こうとしない。
 仕方なく南条は零れた涙を拭ってやった。
 されるがまま、朔也は大人しく身を委ねた。

「そう思って、生きる事で……弔ってやれ」

 南条は、自分に言い聞かせるようにひっそりと言った。
 泣きやむまで、南条はただじっと隣に座ったままでいた。
 日が大分傾いてようやく、朔也は最後の一粒を零した。
 そして何事か呟いた。
 聞き取れなかったが、南条にはそれが男の名前だという事が分かった。
 大切なものを見る目で空を見つめて、そしてそれがとても綺麗だったからだ。
 夕暮れに染まった空は高い。
 朔也は空をまっすぐ見上げ、心の中でもう一度、男の最期の言葉に応えた。
 その時廊下の窓から少し強い風が吹き込んで、教室の中で小さく渦巻いた。
 南条は、朔也のものとは違うペルソナの共鳴を、聞いた気がした。
 髪を揺らし頬を撫で、最後に唇に触れた風に朔也は少しびっくりしたような顔で目を瞬いた。

 

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