晴れる日もある

 

 

 

 

 

 目の前に器が一つある。
 穴だらけでひびだらけで、注いでも注いでも満たされる事のない器。
 決して満たされる事のない穴あきの心。
 日下部朔也の心。
 底の方にほんの少しだけ溜まった愛情の残り滓、朔也にはそれだけ。
 男は世界を呪う。
 朔也があんまり憐れで、彼をこんなに苦しめる世界など無くなってしまえばいいと、心から呪う。
 自分も朔也も世界ごと、みんな消えて無くなってしまえばいい。
 呪いを聞き届ける者があった。
 男は邪神に願う。
 邪神は男に力を与える。
 人を越えた力を与える。
 神をもしのぐ力を得て、男は呪いを世界にばらまく。

 愚かなる人類に裁きの鉄槌を

 そうして世界は色を失い、心を失い、後は死に絶えるだけとなる。
 けれど男は迷う。
 自分の呪いが段々と目の前に迫るにつれて迷いは濃くなっていく。
 でも純粋に、朔也を思った。

 何の為に生きている?

 

 

 

 お前なんか鷹久じゃない

 そう投げかける自分を疑問に思いながら、吐き捨てる。
 何が違う?
 何もかもが違う。
 だからどうした?
 一番大事な人だから、特別な存在なのだから、違うのは嫌だ。
 変わるのは怖い。
 いなくなってしまうのが怖い。
 もう二度と、生きていけない。
 だから取り戻したい。
 だからもう一度吐き捨てる。
 異世界まで追いかけていって、面と向かって吐き捨てる。

 お前なんか鷹久じゃない

 それで何かが変わる訳もない。
 今まで見た事もないような…はっきり「悲しい」と感じる薄気味の悪い笑みを浮かべるきり。
 そして恐ろしい悪魔を残して、男は消える。
 自分の名前を呼んでくれたあの人は、どこへ行ってしまったのだろうか。
 指先に触れる白金のリングがやけに冷たい。

 

 

 

 お前なんか鷹久じゃない

 邪神に与えられた力で異形のものとなり果てた男は、確かにその通りだと言葉を受け入れた。
 今まで一度として見た事のない朔也の泣く様を目にして、ついに理解する。
 自分は間違った望みを抱いていた。
 ただ純粋に、朔也を思った。
 けれど間違いだった。
 ようやく気付いた時には、朔也の握る白刃が腹に深々と突き刺さっていた。
 まるで子供のように、朔也は泣きじゃくっていた。
 左の耳に光るピアスが、星のように煌めいた。
 何度も何度も名前を呼ばれ、男はついに自分に戻る。
 自分に戻った男は邪神に願う。
 朔也は連れて行かない。
 世界はお前に渡さない。
 代わりに自分の魂を捧げる、けれど世界はお前にやらない。
 朔也の為の世界は、お前にはやらない。
 男は命がけで邪神に対抗した。
 邪神は渋々と、どこか嬉々として魂を貪り、消えていった。

「鷹久……」

 確信を持って、名を呼ばれる。
 朔也、と、男は呼び返した。
 残りわずかとなった命を奮い立たせ、笑いかける。
 朔也は顔をぐしゃぐしゃにして、また子供のように泣きじゃくった。
 私は死ぬが、朔也は生きてほしい。
 死に際の男は祈る。
 朔也は私とは違う。
 きっと希望が見付かる。
 見付けられるはず。
 こんな世界でも、きっと、ほんの少しくらい希望はあるはず。
 私が君に会えたように。
 嗚呼…そうだ。
 どうしてこの世界を呪ったりしたのだろう。
 穴だらけでひびだらけで、注いでも注いでも満たされる事のない器でも、捨てずにいたから、君に会えた。
 こんな世界でも、捨てずに生きたから、君に会えたのだ。
 どうしてこの世界を呪ったりしたのだろう。
 彼が生きる世界なのに。
 私は、ただ彼を心から……。

「……愛してるよ」

 朔也は少しびっくりしたような顔になった。
 いや、笑っていた。
 喜んでいた。
 男も驚く。
 彼が心から笑う顔を見るのは、これが初めてなのだ。
 自己抑制の幕もない。
 人形のような作り笑いでもない。
 彼本来の、心のままに笑った顔。

「愛してる……朔也」

 何度も頷く朔也を見て、男は安心して目を閉じる。

「……鷹久、俺も――」

 最期に聞く声までそう、朔也、君は全部私のものだ。
 そして私の全ては、君のものだ。



 朔也……愛してるよ

 

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