晴れる日もある

 

 

 

 

 

 正月くらいは寝坊するのも悪くないと思うのだが、やはりいつも通りの時間に目が覚める。染みついた習慣に苦笑いして、男は軽く顔を押さえた。
 今日は朔也の部屋に泊まりにきているので、勝手に動くのは控える。
 彼は一切気にはしないが、自分が居心地が悪いのだ。
 だから、隣に眠る彼が目を覚ますまでは、大人しく横になっている。
 しかし五分と待たないだろう。
 彼もまた規則正しい生活が身についている。
 起床時間にそう違いはない。
 思った通り、それから間もなく彼も活動を始め、ベッドの中、まだ寝起きの声でお互いおはようと言い合う。
 起きがけに窓を見やる。分厚いカーテンを引いていてもわかるほど、外は晴天が伺えた。
 男の頬が自然と緩む。

 

 

 

 二日目の朝は、朔也の叔母の雑煮に倣い、軽く焦げ目の付いた角餅を椀に入れた。
 だしがよく染み込んで、香ばしさにふと笑みが浮かぶ。とても美味いよ、と、男は絶賛した。
 青菜を口に運んで、朔也は笑みで応えた。
 半分ほどに減った重箱のおせちを摘まみ、出来具合をお互い改めて称賛し合いながら、朝の時間を過ごす。
 ゆったりと、のんびりと味わう。
 片付けを済ませ、食後の緑茶を啜っていると、朔也の携帯電話が鳴った。
 事前連絡であるその電話から半時間ほど後、訪問者はやってきた。
 それまでに朔也は外出の準備を整え、迎え入れた。
 家主の一歩後ろに控え、男が言う。
 いらっしゃい、南条くん、と。

「待ち合わせの時間まで、まだ少しある。よかったら、中へ」

 朔也はリビングを示した。
 南条は遠慮しつつ、助かると断りを入れあがった。
 風はないものの空気は冷たく、少しあたたまりたいところだった。

「外は寒かったろう」
「今日も天気はいいが、昨日に増して空気が冷たい」

 尋ねる男に顔を上げ、ここはあたたかいなとほっとして漏らす。
 南条は手に提げてきた紙袋から風呂敷包み…恐らくは茶菓子の類…を取り出し、中身を二人に差し出した。

「去年と似たようなもので済まないが、良かったら二人で食べてくれ」

 コーヒーにも緑茶にも合う和菓子だと南条は付け加えた。
 朔也は男へ目配せした。
 男も同じく目線で応え、軽く頷いた。
 朔也は申し訳なさそうに手を伸ばした。

「ありがとう、南条」

 いただきます。
 彼から年始の手土産を貰うのはこれで二度目だった。
 初めては去年のことだ。
 冬休みに入る前日、二日にみんなで初詣に行こうと約束が交わされた。
 いっつも付き合い悪いけど、南条、お前も含まれてるからな。
 来てくれるまで、オレ様ずっと待ってるわん。
 うわ、上杉気持ちワル。
 綾瀬ちゃんひどい! 南条サンも何か言ってやって!
 わかったわかった、ちゃんと行くからその気色悪いフリをやめろ。
 そんなやり取りも交わされ、当日、準備をしていると、待ち合わせの時間の少し前に電話が鳴った。
 出てみると南条からで、今からそちらへ行ってもいいかという内容だった。
 了承して待っていると、思いもよらない手土産を持って、彼はやってきた。
 自分と、山岡が世話になった礼だ、と、彼は言った。
 とんでもないことだった。世話になったのは自分たちの方で、自分たちこそ、あの時の礼を言うべきなのに。
 男も同じく辞退を申し出たが、自分がこうして謝意を表すことができるのはすべて二人のお陰だと、南条は譲らなかった。
 受け取ってもらえるまで、帰れん。
 彼ならば実際そうするだろう。
 どれほど頑固でまっすぐか知っている二人は、何度も礼を言って受け取り、後日お返しをした。
 こちらもまた、受け取ってもらうのに苦労したが。

「南条くん。よかったら、おせち少しつまんでいかないかい」
「いや、俺は……」
「君のところには叶わないだろうが、中々うまく出来たんだよ。よかったら是非」
「待ち合わせまでまだ時間はあるし、いいだろう、南条」

 朔也はテーブルへと招いた。
 キッチンでは、男が早速用意を始めていた。
 どこかわくわくとした顔の二人にそれ以上断れず、南条は招かれるまま席についた。
 朔也はキッチンの奥から丸椅子を持ってくると、テーブルと対になった椅子に男を促し、自分は丸椅子に座ろうとした。
 男はそれをやんわり断り、自分の方に丸椅子を引いた。
 そこからちょっとした押し付け合い、譲り合いになり、ようやく互いに納得して男は丸椅子に腰を落ち着けた。
 南条は気付かれぬよう笑いを漏らし、箸を取った。
 するとどちらからともなく、相手の作った何々が絶品だ、いや向こうの方が上手い、いやいや自分はまだまだだ、と、聞く方には少々たまらない『小競り合い』が始まった。
 またも南条は微苦笑して、そうかとだけ答えた。そんな引き攣りも、振る舞われたおせちを実際口にした途端たちまちほどけた。
 二人の料理は、去年、花見の席で一度味わっている。
 その時も思ったが、以前男が冗談半分で口にした言葉も、あながち冗談ではないと納得できる出来栄えだった。
 美味いと、自然と口から言葉が飛び出る。
 すると二人はまたしても相手を褒め、ほっとした顔で目尻を下げた。
 嬉しげにしている顔を見ると、同じだけ心が和んだ。南条は、温かみを感じさせる小さな黒豆を一粒ずつつまみ、歯ごたえもあわせて味わい頬を緩めた。
 湯呑を傾けながら自然と目に入る正面を、あらためて見つめる。
 そこには並んで座る二人がいた。
 特に男を見る。
 すっかりくつろいで、纏う空気は柔らかく、落ち着きを感じさせた。

「そこが、お前の席なのだな」

 思うと同時に口から言葉が零れ出た。
 唐突なひと言に男は軽く目を瞬いた。すぐに理解し、そうだとゆっくり頷く。

「私にとってここが、世界で一番安全な場所だからね」

 一番安心できる。
 隣に座った朔也を見やり、南条へと目を向けて、男は微笑んだ。

「世界にとってもね」

 ごくわずかに空気を震わせた囁きに、朔也の眼差しがいくらか強張る。
 南条も同じく眼を眇めた。
 しばし沈黙が部屋を支配する。
 天井近くでエアコンは稼働し、暖かな空気が絶えず供給されているが、その時ばかりは凍り付いたように固まった。
 淡いため息の後、男は口を開いた。

「どこまで奴に抵抗して生きられるか、試してやろうと思う」

 そう言って口端で笑う。
 あれを自分から完全に切り離すのは無理だ。誰だって、人に話せない暗い望みを抱えている。
 それと上手く折り合いを付けるのが大事なんだ。
 うまくたしなめて、飼いならして、自分をコントロールする。
 テーブルの上で両手を組み、軽く肩を竦める。
 私は、多分、無理だろうが。
 安易に溺れる快感を知ってしまったからね。
 そこで横を向き、じっくりと朔也を見つめる。
 朔也もまた顔を向けた。
 南条は、彼が怒り出すのではないかと気を揉んだ。
 あれほど、文字通り命をかけて泥沼から助け上げた人間が、またそこに戻りたがることを仄めかしたのだ。
 苦労を無駄にするつもりかと怒りを露わにするのではないか…息を潜める。
 しかし朔也は特にこれといった感情は見せず、ただ力強く男を見つめていた。
 男がにやりと笑う。
 けれどそれで朔也に見捨てられるのは、嫌だなあ。
 朔也も同じく頬を緩め、わずかに目を伏せた。
 だから、精一杯抵抗するよ。
 一日でも長く、彼と生きられるように。
 男は天井を仰ぎ見た。
 人生は楽しい。生きるに値する。
 彼がその喜びを手にすることができたように、私もできるところまでやってみるさ。
 言葉はとても軽いものだったが、彼の前での宣言だ、心の中まで軽いはずはなかった。
 南条は聞き届け、小さく一度だけ頷いた。

「……ご馳走様でした」

 飲みほした湯呑を置く。
 お粗末さまでしたと、二人そろって頭を下げたのを見て、南条は微笑った。

「そろそろ待ち合わせの時間だね」

 片付けはしておくからと、用意を促す男に礼を言い、朔也はコートとマフラーを手に取った。

「二人とも、気を付けて。南条くん、朔也を頼む」

 軽く肩を抱き保護者気取りの男と、いつもと変わらぬ表情ながらもどこか不満げな朔也とを交互に見やり、南条は笑いながら任せろと応えた。
 マンションを出てすぐのところで朔也が、南条が言ったとおり、寒いな、と零した。ああまったくと南条は答え、その後は会話もなく歩き続けた。 
 道中の半分まで来た時、南条の方へわずかに顔を向けて朔也は呟きをもらした。

「いつ奪われるかわからない」

 そう言って唇を引き結ぶ。
 今日か、明日か……一年先? 十年先?
 わからないから、毎日が怖い。
 まっすぐ正面を見据え、まるでそこに恐怖の素があるかのように睨み付ける。
 あまりの鋭さにさすがの南条も気圧され、思わず歩みが止まる。
 皇帝の資質を備えた彼は、どこか頼りなさを感じさせる見た目に反していつだって誰より先に飛び出し、悪魔を蹴散らした。必要ならば、命さえ厭わない。
 異変のさなかで散々目にした姿を思い出し、南条はまじまじと親友を見つめた。
 朔也もまた歩みを止め、南条を振り返る。
 ついさっきまでの激しさは消え去り、今は優しい光がたたずんでいた。
 でも、だからこそ一日一日に感謝して、大事に生きていくことができる。
 己に言い聞かせるように紡ぎ、ふっと口端を緩める。
 再び歩き出した朔也に続いて、南条も踏み出す。
 一日とて疎かにできないからこそ、相手への愛慕がより深まる。
 奴のしたことは、かえって俺たちの絆を深めた。
 そんなこと、奴は思いもよらないだろうな。
 ただ怯えて暮らすだけだと思ったら大間違いだ。
 いつか失われるのがはっきりしているからこそ、俺たちは相手をより強く見る。思う。愛する。
 その日が来た時、後悔しない為に、一秒だって無駄にしない。
 朔也は親友に笑いかけた。眩しさを感じさせる眼差しに南条はわずかに眼を眇めた。
 俺たちはそんな風に生きている。
 それが、俺が人間としてできる精一杯の、奴への抵抗だ。
 命がけの宣言を聞き届け、南条は小さく一度だけ頷いた。

「聞いてくれてありがとう、南条」
「礼など。水臭い」

 鼻の頭にしわを寄せて、南条はいたずらっぽく笑った。
 大通りを折れて、路地に入ると、道の先に見える鳥居の前に、集まり始めた仲間の姿が見えた。
 気付いた彼らが手を振ってよこす。
 二人も手を上げて応え、少し歩みを早める。

「常に前を見ているお前がいるなら、何も心配することはない。あの男も安泰だ」
「ありがとう」

 だから、あらたまるなと、南条は大げさに肩をそびやかした。
 むず痒いと言わんばかりの仕草に朔也が小さく笑う。

「それでも、どうしても駄目な時もあるだろう。その時は遠慮なく頼れ」

 異変の旅路で、いつもそうしたように。
 強い眼差しで南条を見据え、朔也は頷いた。

「その時は、頼む」
「任せろ」

 南条は勝気な笑みで応えた。
 たとえいっとき空が雲で覆われても、望むことを諦めない限り、またここに太陽は降り注ぐのだ。
 二人は仲間たちと合流し、冷たく冴えた空気の中ひとしきり挨拶を交わして、お参りへと臨んだ。
 空は雲一つなく青く澄みきって、どこまでも高く、太陽が眩しく輝いていた。

 

目次