晴れる日もある

 

 

 

 

 

 年の終わりを最後まで一緒に過ごし、年の初めを最初から一緒に過ごす…半分はベッドの中で、すっかり熟睡して。
 相変わらず寝相が良い朔也を起こさぬよう、男は静かに、そうっとベッドから抜け出した。
 設定しておいたエアコンのお陰で、部屋は徐々に暖まりつつある。
 なるべく音を立てずに着替えて、部屋を出る際もう一度朔也を振り返る。
 小さく開いた口が、なんとも愛らしい。思わず微笑する。
 時計を一瞥。
 間もなく彼も目を覚ます頃だろう。
 男は一階のキッチンに下りると、雑煮作りに取り掛かった。
 といっても下ごしらえは昨夜の内に済ませておいたので、温めるだけだ。餅は、彼が起きてから個数を聞いて入れることにしよう。
 初めて彼と正月を過ごした時、お節料理は、銘店のものを取り寄せた。
 あの頃はまだ聖夜の贈り物の失敗が尾を引いており、また彼との距離を掴むのに苦労していたので、様子を伺いながらごくありふれたものを揃えた。
 彼と過ごす三度目の今年は、作れそうなものは一緒に作った。
 昆布巻の長い長いかんぴょうに悪戦苦闘しつつ、黒豆の煮え具合を確かめる。その横で、ごまめを色よく炒る。
 出来上がりを味見して確かめれば、標準的な味だったが、自分たちの手で作った物は事の他美味く感じた。
 朔也も同じように感じたらしく、隣で嬉しそうに笑っていた。
 もう一つ、食べてもいいか。
 味見の手が止まりそうもない、それだけ美味いと絶賛してくれた顔を思い出し、男は込み上げる笑みに頬を緩めた。
 初めの頃から思えば、驚くほどの違いだ。
 彼と過ごす時は常に、数えきれないほどの幸せで満ちている。
 そしてまた。
 まさか自分が、新たな年の訪れを心待ちにするなど。
 考えてもなかったことだ。
 なんて笑えるのだろう。
 それに今年は、これまでしてこなかったことをする。
 受け入れてもらえるだろうか、嗚呼、緊張に喉が締め付けられる。
 ふつふつと小さく煮え立つ雑煮の鍋に目を落したまま、男はそっと息を吐いた。
 その時頭上の吹き抜けから、おはようと声が降ってきた。
 男は顔を上げて応えた。

「おはよう。もう顔は洗ったかい」

 朔也は頷き、手伝うと階段を下りた。

「ありがとう。ではそこに用意したものを、テーブルへ頼む」

 食器棚正面のカウンターに並べた重箱や箸の類を任せる。
 二段重ねの重箱は、中に間仕切りが組めるようになっており、以前二人で選び買ったものだ。
 これからも、二人で恙無く正月を迎えられるように。
 二人分に丁度良い小さめのものを、買い求めた。
 華やかな柄の入ったものもあったが、互いの好みは、何の飾りもない質素な無地のものだった。
 外側は黒できりりと引き締まり、開ければ、鮮やかな朱色が目に入る。
 屠蘇器も同様黒と朱のものを揃えた。
 器の中には、昨夜の内につけた屠蘇散が注がれている。
 邪気払いの縁起物、実は男も、自分で作るのは初めてだった。
 家にいた短い期間の一年に一度、全て大人任せで、ろくに覚えていない。
 由来などは頭にあるが、全く身についていなかった。
 これからは、朔也と共に築き上げていくのだ。

「さて、君は餅はいくつ食べる?」

 二つと答えがあり、男は承知したと角餅を四つ鍋に入れた。
 程なく、いい具合に煮えて食べごろになった雑煮を、それぞれの器に盛り付ける。仕上げに鰹節をこれでもかとのせると、いい匂いだなと朔也が顔を綻ばせた。
 男も笑顔で応えた。
 テーブルにつき、改めて新年のあいさつを交わす。
 それから、ややもったいぶってお重の蓋を開ける。何がどこにどのように詰まっているか、二人で試行錯誤しながら詰めたから、驚きなんてないと思っていたが、大きな間違いだった。
 堂々と溢れる圧倒的な空気は心地良く、美しさにお互い小さくため息を漏らす。
 気になるのか、朔也の目がちらちらと屠蘇器の方へ向けられる。

「君は未成年だから、口をつける真似でいいよ」

 盃を持たせ、男は三度に分けて注いだ。
 匂いを確かめつつ、神妙な顔で口に運ぶ朔也を、笑顔で見守る。
 表情が神妙から奇妙へと移り変わる。奇怪だ、と言わんばかりの目付きで上唇を舐める朔也を見て、男は小さく肩を震わせた。

「まあ、縁起物だからね」

 まだいくらか時雨れた顔付きの朔也から盃を受け、男も口をつけた。
 それから何度も頷く。
 彼の表情も納得だと。
 味醂の割合を多くした清酒に屠蘇散を漬け込んだ。口当たりはまろやかで、そしてとても甘い。
 彼の、少々苦手な味。
 険しい顔付きになったのもよくわかる。
 もう一度、縁起ものだからと笑い、男は箸を取った。完璧なたたずまいを見せるおせちを崩すのは、少し気が引けた。一方で、早く味わいたいと喉が鳴る。
 もうもうと湯気を立ち上らせる雑煮をひと口すすり、朔也は美味いとため息をついた。

「叔母さんのところは、丸餅で、焼いてあった」

 おじさんの田舎では、角餅を焼いたと聞いた。
 とろりといい具合に煮えた角餅を一口頬張った後、朔也は言った。
 男はふむふむと頷き、雑煮は、その地方地方で料理の仕方ががらりと変わるものなのだと、しばし盛り上がる。
 ひとしきり花を咲かせた後、男は目を伏せた。

「これはね」

 言おうか言うまいかしばし迷っての末だ。

「私の母親の出身地にちなむものだ」

 生まれ育った地は港が近く、新鮮な魚が豊富にとれた。
 そこで作られる雑煮は削り節をたっぷりのせるのが特徴の一つで、母親は殊更に沢山入れるのを好んだ。

「今回は、それを真似してみたんだ」
「すごく、美味いよ」
「それはよかった。君の口に合って、良かった」

 男は頬を緩めた。
 するとそれからしばらく、朔也の目が顔に注がれた。

「どうかしたかい」

 みっともなく口を汚してしまったかと、男は拭って、尋ねた。
 朔也は箸を置き、またじっと男の顔を見つめ、やや置いて静かに言った。

「前に小さい頃のことを訊いた時、鷹久はないって言ったけど、今、あの……とても幸せそうな顔になったから、鷹久にもあったと思って嬉しくなったんだ。でも、嫌な気持ちにさせたら、ごめんなさい」

 少なからずショックを与える単語を一度に二つも三つも浴び、男は小さく息を飲んだ。
 一番衝撃が大きかったのは、嬉しいという言葉だった。
 あの時、車の中で、悲しんでくれた朔也。
 そして今は、嬉しいと言ってくれた。
 気持ちに寄り添おうとする彼の優しさに、心が震えてたまらなくなる。
 母親が作った雑煮を食べたことがあるのか、記憶はあやふやだ。本当に味わったのか、頭の中で勝手に作り上げた幻想か。はっきりさせることができない。
 ただ、妙に懐かしい気持ちになった。
 だからきっと、口にしたことがあるのだろう。
 そう思って、安心めいたものが心に過ぎった。
 彼はそれを敏感に見てとり、喜んだ。
 男は我に返りすぐに、首を振った。

「とんでもない。嫌な気持ちには、ならないよ」

 嬉しく思うよ、本当に。

「朔也は優しいね」
「鷹久が、優しいから」

 朔也はほっとした顔になり、小さく首を振った。

「鷹久は、いつも俺を良い子だと褒めてくれる。色んなことを教えてくれる」

 よくない事から、守ってくれる。

「それに」

 大きな声で俺を怒らない。
 失敗しても大声で怒鳴ったりせず、分かるように一つずつ丁寧に教えてくれる。
 本当に安心できるのだと朔也は続けた。
 少々の面映ゆさに男は曖昧に笑った。
 自分の紡ぐ言葉一つひとつが彼に力を与えているのは嬉しいが、それらは何ら特別なものではない。
 極当り前のものだが、朔也には…自分には中々手に入りづらいものだった。
 だからこそ男は、与えられる物は惜しまず朔也に与えた。
 お互いの為に。
 自分たちは、ここにいていいのだと、確認する為に。
 彼の喜びは、自分の喜びだ。
 穏やかに過ごす時間を、とても大切にする朔也。

「まだうまく、できないけど、でも、鷹久が優しいから」

 どこか嬉しげで、誇らしい顔付きになり、朔也は言った。
 ありがとう、男は絞り出すように言った。
 他にも何かを云いたかったが、胸が詰まって、ひと言告げるのが精一杯だった。
 身体じゅうが熱く満たされる。
 おせちを摘まんで程良く腹もふくれ、食後の緑茶を半ばほど啜ったところで、男は傍の棚からあるものを取り出し、朔也に差し出した。
 朔也はおずおずといった様子で両手を出した。
 透かしの入った和紙が巻かれた、薄い桐の箱だ。
 綺麗な蝶結びの水引がまず目に入り、ほぼ同時に『お年玉』の文字が飛び込む。
 読みとった文字を呟きながら、朔也は戸惑いの目を男に向けた。
 男は、緊張を悟られぬよう小さく唸った。
 もはや彼がこのような時に取り乱す事態は起きないだろうが、それでも緊張してしまうのは、何故だろう。
 ひと呼吸おいて、口を開く。

「私がよく行くテーラーの、オーダーチケットだ。それを持って行けば、好きなスーツが一着注文できる」

 制限無しのプランにしたから、どんな注文も受けてもらえるよ。
 小さく開けていた口を噤み、長らく沈黙した後、朔也は目を上げた。

「これ、俺が……もらっていいのか」
「もちろんだとも」

 男は大きく頷いた。
 朔也の口元には、抑えきれない笑みが今にも零れそうに浮かんでいた。
 あるいは、喜んでいいものか戸惑っているような顔。
 何ともいえぬ愛らしい表情に、男も自然と頬が緩む。

「どうして?」

 まっすぐ向かってくる眼差しに思わず息を止める。
 理由は沢山あって、男は何から言えばよいやら口ごもった。

「俺は、他人なのに」

 誕生日の贈り物は、まだわかる。けれどこういうものは、親子や親戚間ではないのか。
「ああ。確かにそうだが、縁がある。今現在、君は私の元で育ってもらっている。色々と引き継いでもらっているものが多い。つまり私は師匠のようなもので、君は弟子のようなものだ。それらの間で渡すのは、不自然ではないのだよ」
 朔也は納得した顔で頷いた。
 口を開くともっと言いたくなり、男は付け足す。

「今、順調に仕事を続けていけるのも、君がいてくれるからだ。本当に優秀な相棒だよ、君は」

 するといささか困った顔になって朔也は目を瞬いた。
 男は微笑みかける。
 それから、以前…あれはいつだったか、そろそろ装いを冬物に切り替える頃のことだったと記憶している。
 来年には卒業ということで、意識が高まったのだろう、彼がスーツに興味を示したのだ。
 自分にも似合うだろうかと、おっかなびっくり試着を申し出た。
 男は少々渋った。
 というのも、これは自分用に仕立てたもの、彼とは体格差があり、結果は歴然。
 袖を通して、やはり自分には似合わないのだとがっかりさせてしまうのが嫌だった。
 渋る男を見て、朔也の顔がわずかに曇る、
 いつまでもぐずぐずしていると、似合わないと思っているから寄こさないのだ、などという誤解を招いてしまう。
 男はありのまま説明する。
 そしてもう一言。
 君の体型に合わせて仕立てた服を着れば、きちんとして見えるよと。
 そうだなと納得してもらえた瞬間から、男は、初めての一着を贈りたい欲求に取りつかれた。
 何もない日に、決して安くはない贈り物をするのは、かえって失礼にあたる。
 だからまず、誕生日と聖夜の贈り物から様子見をして、今日という日を迎えた。
 古くからある歌の通り、待ち遠しかった。
 待ち遠しくなった理由は、他にもあった。
 去年の聖夜、初めて彼から贈り物をもらったのだ。
 その始終は一生胸に残るだろう。
 一年最後の月を迎えて間もない頃、朔也はちょっとした騒動を起こした。
 彼は時々、衝動的になる。
 これもその一つだった。
 何かがきっかけとなり、身の内に湧いた衝動に突かれるまま彼は一人列車を乗り継いで、ある場所へと向かった。
 解決できないでいることに決着をつけたかったのだ。
 しかしまだその時期ではなかったせいか、望みは叶わなかった。
 自身に落胆した朔也はあてもなくうろつき、遅くになって連絡を寄こしてきた。
 このことを男は責めなかった。
 彼がしたことは間違いではない。彼が時々起こす衝動的な行動は、自然で、正しいと思っているからだ。込み上げた時が、行動するべき時だ。そう思っていた。
 ただ一つ、今度からは、連絡をしていくことと約束を交わした。
 彼は深く悔いた。もう二度としないと、たどり着けなかった自分の嘆きも含めて何度も詫びた。
 男はそれを止めた。無理に抑えることはない、必ず機会はやってくる…説得を試みた。
 一晩考え、彼は、待つことを選んだ。
 それでことは一旦収まった。
 が、元の彼に戻って一週間ほど過ぎた頃、一日毎に朔也の表情が硬く、暗く、沈んでいった。何を思い悩んでいるのだろうかと尋ねれば、自分がほとほと嫌になったと言ってきた。
 まだあのことを悔い、引きずっているのだろうか。
 それとも他の理由からだろうか。
 彼に手伝ってもらっている仕事は順調で、彼自身目立った失敗もなく、学校生活も聞く限りでは賑やかに楽しく過ごしているようだったのに。
 朔也は続けた…自分はどうしようもなく薄情だ。
 薄情だなんてとんでもないと、男は即座に首を振った。
 朔也の悲嘆に引きずられ、男も同様に気分が落ち込んでゆく。
 一体何をそんなに思い詰めているのか。
 朔也は重い口を開いた。
 こんなに良くしてくれる人に、もっと何かをしたいのに、自分に出来ることが少ししかないのが悔しい。
 鷹久にもっと喜んでもらいたい、役に立つ贈り物をしたい、だのに何も思い浮かばない。
 自分は薄情者だ、ごめんなさい…恥じるように顔を片手で隠した。
 男は肩を落とした。
 安堵と、笑いたい気持ちと、感謝と、疲れが、どっと押し寄せる。
 そんなもの、いらなかった。
 もらいたくないというのではない。
 自分でまかなえるから何も必要ない、というのでもない。
 隣にいてもらえるだけで、それだけでもう充分なのだ。
 それ以上は贅沢だ。何も望むものはない。
 朔也が隣にいてくれるだけで、自分は充分満たされる。
 事実、新たな世界が開けた。
 けれど朔也は納得しない。
 男もそれは痛いほどよく理解していた。
 人に何かをすることで、自分は必要とされているのだと確認したい、安心できる部分もあるからだ。
 自分が彼にしたいように、彼も自分に何かをしたい。
 お互い、とんでもなく欲張りだから。
 けれど何も浮かばず、悲しみを抱いた。
 謝る必要などこれっぽっちもないのに。
 これ以上の喜びがあるものか。
 際限なく浮かれる気持ちをなんとか宥める。
 男はしばし考え、手帳をねだった。学生の彼が手を出せないほど高価ではなく、小さな子供をあやすようなちゃちな代物でもない。贈り物をしたと満足感を得るには、格好の品だ。
 一緒に行って選びたいと言うと朔也の気持ちが少し上向き潤ったので、機会を逃さずゆっくりと丁寧に称賛し、感謝し、ようやく回復したところで、心から想いを告げた。
 その日は一日、胸が熱かった。
 夜が明けてもまだ浮かれ気味で、やってきた聖夜に贈り物の交換をした時など、恥ずかしいが、天にも昇る気分だった。
 ますます年の明けるのが待ち遠しくなった。
 こんな気持ちにさせてくれる彼という人が、たまらなく愛しい。

「それで、もしよければ、来週にでも一緒に行かないかい」
「ほんとうに?」

 ありがとう。
 今度こそ朔也は手放しで喜んだ。
 目を丸く見張り、ともすれば怒っているようにも見えた。
 大きな驚きがそうさせているとだと思うと、胸に嬉しさが溢れた。
 男は頷いて約束した。日付と時間もきっちり決める。
 約束の書き込まれたカレンダーを見つめる彼の目がきらりと光り、男はそれを見てまた、幸せを噛み締めるのだ。
 抱え切れないほどの幸いに身体は無限に軽くなり、初詣へと向かう足取りは、まるで雲の上を歩むようだった。
 自分は今、こういったものを探し当てる為に、生きている。
 始まりの日、空気は冷たく冴え渡り、鼻の奥までずしんと響いた。
 それさえも男には喜びだった。
 朔也と二人、並んで歩き出す。

 

 嗚呼、人生は楽しい。
 生きるに値する。

 

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