晴れる日もある

 

 

 

 

 

 翌朝、準備を整えて出発する。
 車に乗り込んだところで、男は数日前に購入した手袋の入った包みを朔也に手渡した。
 自分の小物を買いに行った際偶然目にしたもので、その時にアイススケートが閃いたのだ。
 我ながら妙な連想だと、笑った。
 小さな包みを両手で丁寧に受け取って膝に置き、朔也はそこで動きを止めた。
 ひどく戸惑っている様子がうかがえた。
 可愛いと思い、同時に少し胸が痛くなる。
 朔也は、自分への好意に不慣れなところがあった。
 これも彼の、育ちきれなかった未熟な部分の一つ。
 素直に喜び、浮かれることができないようだった。過度に遠慮して、萎縮して、自分はそんなことに相応しくない人間だ…と卑下する。
 許容しきれなくなると、少しばかり恐ろしいことに繋がる。
 男は包みを開けるよう促した。

「一番肌触りが良いものを選んだのだが、どうかな」

 包みの中から出てきたシンプルな明るい橙色の手袋を、朔也は長いことじっと見つめていた。
 男は車を発進させながら言った。

「スケート場では、安全の為に手袋をした方がいいからね」

 マンションの駐車場から通りへ出ても、まだ朔也は手袋を見つめていた。
 男はその横顔をちらりと見たが、どんな気持ちが胸に渦巻いているのか、掴み取る事はできなかった。
 嫌悪ではないようで、そこはほっとする。
 信号待ちで減速した時、かすかに息を啜る音が聞こえた。
 続いてか細い声がありがとうと綴った。
 いつもより幾分感情のこもった響き。また安堵する。
 顔を見ると、昨夜見た時と同じあの不思議な輝きをした目が煌めいていた。
 運転中でなくてよかったと、男はしばし見惚れる。

「気に入ってもらえたようで、なによりだよ」

 声に朔也は顔を上げ、少しして正面を向いた。
 ありがとうという言葉通り感謝だとするならば、昨晩見たものも感謝、だったのだろうか。
 自分が知らないものを人に教わる、教えてもらえることに感謝する…不自然はない。
 しかし心のどこかで、違うのではないかと疑問が湧く。
 違うもの、感謝だけではない何かもっと深い意味のあるものだと、思いたがっているだけかもしれないが。
 スケート場について、男は靴の履き方やリンク内でのルールを一つひとつ丁寧に説明した。
 その度に朔也は神妙な顔で頷いた。
 靴紐をしっかり結び終えたのを確認し、男は立ってみるよう促した。
 しばしためらった後、朔也はその場に立ち上がった。

「靴の中は、丁度いいかい?」

 朔也は頷いた。

「足首はぐらついていないか?」

 もう一度頷いた。
 その顔はいくらか強張っていた。
 緊張しているのだと気付き、男は微笑んだ。
 心配そうな目が向けられる。
 はっきりそうと分かる感情が表れているのを内心喜びながら、男は大丈夫だというように笑いかけた。
 リンクへと誘う。
 数歩は普通に歩いた朔也だが、あと数歩というところでぴたりと足を止めた。
 リンクの中央辺りに顔を向け、微動だにしない。
 初めてのことに対する躊躇かと、男は無理に促したりせず彼の気が落ち着くまで待つことにした。
 すぐに、間違いに気付く。
 朔也が躊躇したのは、初心者だからではない。
 視線の先にあるもの、朔也が見ているものが何であるかを知って、男は自分の過ちに気付いた。
 休日の今日、リンク内には、何組もの家族連れが手を取り合い楽しげに滑っていた。
 朔也の目は、彼らを追っていた。
 感情を消し去った顔で、目には自己抑制の幕を下ろし、ただじっと滑るさまをぼんやり見ていた。
 その胸に何が去来したのか、男には推測さえできない。
 だから、何かを言うこともできない。

「朔也」

 呼びかけるが、ぴくりとも目が動く事はなかった。
 もう一度名を呼ぶ。
 やはり反応はなかった。
 だが、やや遅れて男は目にする。
 二度目に呼びかけた後、朔也は手袋をした手を身体の前でおずおずと合わせた。
 ゆっくりした動きだったので、すぐには気付かなかった。
 自分の世界に入り込んでしまったと思っていたが、朔也にはちゃんと自分の声が届いていた。
 男は少し勇気付けられる。

「朔也。私は君だけを見ているから、朔也も、私だけを見ていなさい」

 ほんの少しだけ、頷くような動作で朔也は顎を引いた。それからゆっくり顔を向けた。

「行こうか」

 まだどこかはっきりしない目付きをしていたが、今度は分かる程度に頷いた。

 

 

 

 こう見えて…といっては失礼かもしれないが、朔也は思いの他飲み込みが早かった。
 バランス感覚も申し分ないようで、何度か転びはしたが、広いリンクを半周もすると次第に氷の上での足の運び方がわかってきたようだった。
 元の地点に戻る頃には、ほんの短い距離とはいえ片足でも滑ることができるまでになった。
 多少ふらつきながらも、初めて片足に長く乗ることができた時、分かったと言わんばかりに小さく開いたその口が笑ったように見え、男は自分のことのように嬉しくなった。
 支えの為に繋いだ手を強く握り、大げさに褒める。
 案の定、かすかに頷く程度の反応しかしなかったが、リンクに出る前と今とでは明らかに目の輝きが違っていた。
 それも男には嬉しかった。彼が一つ喜びを得る度自分も救われたように思え、自分を助けられるように思え、嬉しくなる。

 強大で理不尽な大人の力に惨めにねじ伏せられ、伸びやかに育つことができなかったけれども、物事を楽しむ心はあるのだ。

 ネックは、持久力があまりないということだった。
 初心者は、力の使い方やコツが掴めるまで、余計な力をあちこちに入れてしまい結果疲れやすくなるが、朔也はそれが顕著だった。
 すぐに息が上がってしまうのだ。
 今は大分標準に近付いたが、少し前まで、平均以下の痩せっぽちだったのだ、仕方ないといえば仕方ないだろう。
 そういう時、朔也は顔を上げて男を見た。
 手すりに掴まって息を整えながら、ただじっと男の顔を見た。
 最初に言われた言葉を忠実に守っていた。
 すぐ傍を、たくさんの子供たちや朔也と同年代と思しき少年、そして家族連れが賑やかに通り過ぎていったが、最初に言われた通り、朔也は他の何にも目もくれず男だけを見た。
 何を思っているのか、どんな想いが込められているのか、男は懸命に読み取ろうとした。
 それから休み休み、数周滑って、リンクを出る。
 そろそろ昼に差し掛かる時間だった。
 予約しているレストランに移動する前に身体を一旦休める為、男は場内のカフェに寄った。
 自分のブラックコーヒーを一つ、朔也にミルク多めを一つ。
 二人掛けの丸テーブルに向かいあって座り、リンクで冷えた身体を内と外からあたためる。
 朔也はいつものようにゆっくりとカップを傾け、静かに息を吐いた。
 男は、何度も転んでどこか痛まないか尋ねた。

「今は、そんなに」

 朔也はちらりと自分の足を見下ろした。

「でも、手袋が」

 それから、テーブルの縁に丁寧に並べて置いた手袋を見やった。
 転ぶ際はとにかく頭を守るよう手で受け身を取れと注意した通り、朔也は何度も手をついた。
 そのせいで、すっかり手袋が濡れてしまったのだ。

「洗えばまた使えるさ」

 見るからにしょげた様子がたまらず、男は言った。
 少しして、朔也は曖昧に頷いた。

「滑れるようになって、良かった。少しは楽しめたかい?」

 朔也は、見ていた手袋から目を上げ、まっすぐ男に視線を注いだ。

「とても、楽しかった。ありがとう」

 また、来たい。
 大事そうに綴って、朔也は再びあの不思議な光を両の目に宿した。
 そこに深い感謝と慈愛の輝きを見てとり、男は震える思いがした。
 この時ばかりは年齢が逆転したようで、少しむず痒くなる。
 そして、彼でもこんな目をする事が出来るのだと、嬉しくなる。
 しみじみと楽しさを噛み締めている、あたたかみのある眼差し。
 また一つ彼が分かり、男の胸に限りない愛しさが募る。

 

目次