Dominance&Submission

黒の支配

 

 

 

 

 

 男に渡されてから初めて、桜井僚は鍵を使った。静かに回して解錠する。鍵はまた元のようにしっかりしまい、ドアを開けて中に入る。
 鍵を使うのも、中に一人きりで入るのも、これが初めてだ。しんと静まり返った室内に、礼儀であいさつし、上がり込む。
 当然ながら男の姿はない。
 本当ならば今日は、朝に待ち合わせて、ちょっとした日帰り旅行に出かけるはずであった。海を見に行こうと誘われたのだ。冬に海へ行くという発想に驚くが、夏だけしか行ってはいけないなんて事はない。僚は喜んで予定に組み込んだ。
 しかし週の中ごろ、予定変更の連絡を受けた。
 急に一件、どうしても外せない仕事が入ってしまったのだそうだ。
 そうか…僚は出来るだけ、沈んだ声にならぬよう気を付けた。わがままな奴だと思われたくないからだ。その一方で、あまり素っ気ない声を出すのもどうなのだと揺れ動く。
 声の調子から聞き取ったのか、男は心底済まなそうに謝ってきた。そして、予定を一日ずらしてもらえないだろうか、と聞いてきた。
 つまり、土曜日の予定を日曜日に変える事は可能かと言っているのだ。
 いいよ、と、僚は感情の赴くまま張り切って応えた。
 ありがとうとほっとした声で男が笑う。
 電話の二日後、終業式を迎え冬休みに突入した。
 金曜日だったので、いつものように男が車で迎えに来た。
 男は食事会の席で、先日電話で話した内容を繰り返した後丁寧に詫びて、希望を口にした。
 午後、遅くとも五時の鐘が鳴る頃までには終わる、一緒に夕食をとる事は出来るが、どうすると問われた。
 僚は、ならばマンションで待機していると応えた。

「本当に済まない」
「そんな事。日曜日は行けるんだし。楽しみ」
「ありがとう。部屋はどこも、好きに使ってくれて構わないよ。一階の音楽室も、空いていたらチェロの練習に使うといい」
「……うん、そうする」
 そこで僚は、密かにある事を決意した。少し前から、野望に向けて燃えていたのだ。間もなく訪れる水曜日、二十五日の為に、音楽室のピアノを使おう。丁度いいと僚は心の中でにやりとした。
「今回はこんな事になってしまったが、来週の水曜日は何としてもあけておくよ」

 見透かされたようで、僚はどきりとしながら頷いた。
 そして今日、僚は一人男のマンションを訪れた。荷物はリビングに置き、持ってきた楽譜と財布を手に、早速音楽室へ向かう。

 

 

 

 昼近く、僚は腹の虫が鳴くのを耳にした。時計を見て、相変わらず自分の腹は規則正しいとため息を吐く。
 ひとまず昼にしようと音楽室を後にし、最上階に向かう。エレベーターに乗ったところで、もしかしたら早めに仕事が終わり、もう帰っているかもしれない、と淡い希望が湧いたが、携帯電話にそれらしい着信はない。そして当然ながら、使用二回目になる鍵の後に待っていたのは、朝と同じくしんと静まり返った室内だった。
 わかってはいたが…小さく息を吐く。明日は間違いなく出かけられるのだからと気を取り直し、念入りに手入れをしたチェロを、元通り奥の部屋にしまう。
 それから、持ってきた昼を広げる。
 丁度良く馴染んでしっとりとした海苔のにおいに、また腹が鳴る。一人で良かったとほっとして、僚はアルミホイルから取り出したおにぎりにかぶりついた。
 今日もよく晴れている。窓辺に座って背中に日射しを受けると、暑いくらいだった。明日も同じように天気になりますようにと願いながら、二つ目を口に頬張る。
 学校の昼の弁当も、たまにおにぎりで済ます時がある。三個ばかりつくって、冷凍保存しておいたおかずを詰めれば昼には丁度良く解凍して、充分腹が膨れた。何より、洗い物が出ないのがいいのだ。ゴミも少なくて済む。作るのは嫌いではないが、たまに手を抜きたい時はそれで済ませていた。そうすると翌日にはまた、あれこれと作りたいと欲求が湧いてくるのだ。適度な休みは、自分のリズムに合っていた。
 一人暮らしを始める時は、果たして自分に務まるかと不安で一杯だった。気持ちは、今すぐ家族から離れたいと切羽詰まっていても、実際のところそれだけでは三日ももたない。冷静に考える頭もあった。それでも何とか自分を追い込んで、考える暇もないほど動きまわって、何度か失敗して、どうにかリズムを手に入れた。
 少し…かなり、おかしくなっていた。
 離れた場所から自分を見ているような、奇妙な感覚が常につきまとっていた。自分なのに自分ではないような、何かが浮いて剥がれかけているような、不安定な状態になっていた。
 学校での自分、アパートにいる自分、アルバイトをしている時の自分。
 それぞれみな繋がりなくバラバラになって、それでも自分なのだ。
 相当おかしくなっていた自分を、あの男は気にせずまっすぐ見てくれた。
 だのに自分は、気に食わないと、睨み返した。
 今でもはっきり覚えている。
 どんな風に感情がかき乱されたか、忘れられない。
 僚は細く長く息を吐いた。

――鷹久…好き……

 背中から包み込む穏やかな日差しの中、そっと呟く。
 この日差しが夕暮れに変わる頃、男は部屋に帰ってくる。
 帰る前に電話を寄越すかな。それともそのまま帰ってきて、自分が中にいるからとチャイムを押すかな。そうしたら自分は急いで玄関に向かって、ドアを開けるのだ。
 そしてひと言、お帰りなさいと迎える。
 男はただいまと言って入ってきて…僚は奇妙な唸り声を上げた。
 行き過ぎた妄想にたまらなく恥ずかしくなったのだ。
 苦笑いで追い払う。
 少しすると、冷静さが戻ってきた。
 膝を抱え直し、僚は柔らかなまどろみに目を閉じた。
 すぐにはっと目を見開き、姿勢はそのままに眉を顰める。
 ぼんやりと過ぎる男の顔をより鮮明に追った瞬間、身体が反応したのだ。
 ずきずきと脈打ちながら存在を主張するそれに小さく息を吐く。治まる気配はない。
 今度は大きく、仕方がないと気持ちを乗せて吐き出し、僚はしばしトイレに籠った。
 少々の情けなさと共に、二度、欲望を晴らす。
 さっき腹の虫が鳴って、だから腹一杯にして、したと思ったら今度はこれか…そんな自嘲めいたものが過ぎるが、男の匂いをうっすらと感じるこの部屋で鈍感のままではいられない。寝室だけにとどまらず、あっちでもこっちでも、自分は痴態を晒した。
 僚はダイニングテーブルからルーフバルコニーへ、それからソファーへ、視線を走らせた。
 部屋のあちこちに、男の匂いと共に、自分の声が染み付いているように思えた。それも、とても恥ずかしい、甘ったるい声が。
 羞恥に熱くなる頬を何とか鎮めていると、またも下腹が疼き出した。
 何を考えても、そこに男が登場するだけで反応する自分の身体に、いっそ異常だろうと頭を抱える。
 たった今二度出したばかりだというのに、もうすっかり硬くなっている。必死に頭から追いやろうとするも、一度意識してしまったものは容易に消せない。
 僚は呆れ気味にため息を吐いた。
 男に、素質があると笑われるのも、当然か。
 自分自身の貪欲さに首を振り、僚は疼きを無視した。音楽室に戻って、練習の続きに取りかかろう。
 僚は顔を上げた。

 

 

 

 それから一時間後、僚は書斎にいた。一旦は練習の続きに気持ちが傾いたが、どうしても足が向かわなかったのだ。すぐに切り替え、違うやり方で続きに取り組む事にした。演奏する自分を脳内に思い浮かべ、しっかり完璧に弾いている姿を作り上げる。いつもここでつまずいて、手が止まってしまう、そんな自分を修正し、自信を高める為にひたすら集中する。
 が、それも十五分が精々だった。
 そこから先は思考が千々に乱れてまとまらず、といって自制や叱責も浮かばず、ただひたすらに無駄に時間を消費した。
 大きく波打つ欲求に翻弄され、悩まされていた。収まる素振りを見せてはまた高まる。これほどまでに男に囚われていたのだと思い知って、僚は驚きを隠せなかった。
 一体、自分はどうしてしまったというのか。
 こんなに自制の利かない身体だったとは。
 これでは、男に嘲笑われて当然だ。

 抑えの利かない、厭らしい身体だね

 いつだったか…そう、初めて鞭を貰った日の事だ。組み敷かれ耳元に囁かれた言葉が頭の中によみがえる。
 途端に背筋がぞくりとざわめく。
 知らず息が上がり、僚は小さく喘いだ。
 頭から追いやろうとするより、更に声を思い出す方に手を伸ばす。
 蔑みの言葉を否定する自分。
 それを鼻で笑い、男は更に貶める。

 ……嗚呼、屈辱と快感は紙一重だ

 男が、本心から言っているのではないから尚更。
 どう言えば、こちらが羞恥し悶えるか知り尽くしている男の言葉は、肉で得る快楽と隣り合わせの悦びとなる。
 欲しい。
 息も詰まるほどに。
 最後の砦が脆く崩れる。
 立ち上がるや、僚は寝室に向かった。

 

 

 

 クローゼットにしまわれた、男の愛用している乗馬鞭に、大きく息を吸い込む。
 妖しい艶を見せる、黒の乗馬鞭。
 僚はそれを両手に握り、ぐっと胸に抱きしめた。
 打たれている時の自分を思い出すと、それだけで息が乱れる。
 そこに、男の声がかぶさってくる。
 打たれて、苦痛とともに快感に悶える自分をからかう男の声。

「っ……」

 細めの握りから先端までを、僚は指先でなぞった。
 鞭に欲情する自分を、もう止められなかった。
 跪き、鞭を片手に預けて右手で自分の下部を弄る。
 下着の合間から滑り込んでくるのは、男の手だ。どこまでも甘く優しい、とろけるような男の手。時に痛みを与えてくるが、決して乱暴には扱わない。ひどい言葉を浴びせて侮辱したり、無視したりせず、一人の人間として尊重し、特殊な愛で丁寧に包み込んでくれる。
 どこをどうすればこちらが感じるか熟知していて、始めはそれをあえて避ける。
 欲しくてたまらなくなり、口に出してねだるまで緩慢に追い詰め、浅ましい痴態を強要する。
 耐え切れず素直に口に出してからは、一転してどこまでも高めてくる。愛撫に溺れる。そうなるともう、声を抑えられない。
 身体中がとろとろにとろけ、言葉にならない声を垂れ流して身悶える。
 男が囁く。

 もっと乱れてごらん……ほら、もっと

「うっ……あぁ――」

 かすれた声に喉を逸らせ、僚は射精した。乱れた息に大きく胸を喘がせ、ぺたりと床に尻をつく。
 惰性で動かす右手から、粘ついた水音が聞こえてくる。まだ、欲しがっている。止まらない。
 はあはあと息をつきながら、僚は自分の前に鞭を横たえた。
 腹の底がぞくぞくする。
 次の瞬間、僚は、自分が想像したある事に雷に打たれるほどの衝撃を受けた。即座にそれを打ち消すが、一度頭をもたげた昏い誘惑は強くなるばかりだ。
 わずかに潤んだ瞳で鞭を見つめ、荒く息をつく。

 自分の精液をかけて、黒い鞭を白く汚したい――

 それは、男に対する冒涜に他ならない。
 そんな事をしては駄目だと首を振るがそれでも興奮はおさまらず、僚をきりきりと締め上げた。

 汚したい

 黒い鞭が、白い精液で汚れている場面を想像するだけで、いきそうになる。
 実際汚したら、一体どうなってしまうだろう。
 理性が跡形もなく吹き飛ぶ。
 止まらない欲求に衝き動かされ、僚は自身を擦り始めた。
 湿った声をもらしいやらしく腰を振りながら、僚は自慰に耽った。そうして、何度も男の名を呼ぶ。
 そうする事で、すぐ傍に男がいるような錯覚に見舞われる。
 目の前で一人でするよう強要され、従っているような気持ちになる。
 嫌だ、見るな。
 本当はちっとも嫌がっていない。本当はもっと見てほしい。そんな恥知らずな自分に酔って、本心とは違う言葉を口にする。
 男は何もかも見透かしていて、ただ薄く笑って見るばかり。そして時々、こちらの変化を指摘して遊ぶ。動揺するこちらを愉しむ。
 短く喘ぎながら、僚は無心で扱き続けた。
 まさに絶頂を迎えようとした時、寝室の扉が音もなく開き、黒衣を纏った一人の男が姿を現した。
 しかし、自慰に没頭している僚にそれを気付く余裕はなかった。

 

 

 

 思いの他スムーズに仕事が運び、また上手く連携も取れたお陰で、予想していたよりずっと早く帰路につけた。出る際に知らせるメールを送った。音楽室で練習に集中しているだろう彼の邪魔をしたくなかったからだ。あるいは、この時間、ちょうど眠気が襲ってくる頃で、もしかしたら退屈し眠ってしまっているかもしれない。いずれにせよ、電話で中断させない為に、メールを選んだ。
 もし確認出来なくても、それはそれでいい。
 十五分もすれば会える。
 さて彼は何をしているだろうか。あれこれ想像をめぐらせながら寝室に彼を見つけ、目に飛び込んだ光景に、黒衣の男はわずかばかり苦笑を浮かべた。
 彼が肉欲に陥りやすいのはわかっていたから、道具でも何でも使って自慰に耽る事自体、責めるつもりは全くない。
 むしろそれを逆手に取り、ぎりぎりまで追及する楽しみすら、そこには潜んでいる。
 とはいえ、まさかこうまで乱れているとは、正直思っていなかった。
 人に容易に言えない行為を楽しんでいるというのに、何故か彼を想像する時、そこには一切の特殊性はなく、ともすれば肉欲から遠く離れた場所に彼を置いてしまう。
 そう、たとえばそれは厳格な聖職者のイメージ。
 実際は、今までパートナーとなった者の中で一番、底を知らぬ純粋で貪欲な生き物なのに。
 そう錯覚してしまうのは、普段、余りにも無邪気でひたむきだからだろか。
 そして、錯覚を抱かせる当の本人…僚は全裸のまま膝を開いて蹲り、身体の前に横たえた黒い乗馬鞭に精液をぶちまけ恍惚としている。

「何をしているか……説明してもらえるかな、僚」

 射精の余韻に浸り、目を閉じてはあはあと胸を喘がす少年に向かって、黒衣の男…神取鷹久は静かに問い掛けた。
 声をかけられた途端、僚はひっと喉を鳴らし、弾かれたように目を上げた。
 そこにいる男を、信じられないといった目付きで凝視する。頭の中が激しく混乱し、思考すら覚束ない。無論、質問に答える事も。

「答えなさい、僚」

 そんな僚に構わず、男は再度質問を繰り返した。
 一度目よりややはっきりとした声で、ごく静かに。
 僚の瞳が、怯えを浮かべ左右に揺れる。
 一方神取は、自分が勘違いして思い込んでいた僚の姿に、少々の驚きを味わったが、彼が恐怖する感情はわずかも抱いていなかった。
 だが目の前で小動物のように震え怯える僚に、この状況を更に展開させたいと、意地の悪い思考が浮かんでくる。
 彼の怯えを逆手に取ってしまおう。
 神取は薄く笑った。そしてもう一度、何をしていたか答えるよう問い詰める。

「ご、ごめんなさい……もうしない……」
「そんな事は聞いていない。何をしていたか答えなさいと言っている」

 あくまでも穏やかな口調を崩さない男の態度に、腹の底がすうっと冷えていくのが感じられた。
 答えられず、ぐっと唇を噛んだまま無言を貫く僚からついと目を逸らし、神取はクローゼットに向かった。
 戸を開き、中から赤い革枷を一組取り出すと、跪いたままの僚を拘束していく。
 手首を掴まれ、僚はびくっと肩を弾ませた。
 気に留めず行為を続ける。
 その間、僚は動かずにいた。
 動けなかった。

 枷が一つ一つはめられていく。
 自分が、支配される者になっていくのを、自覚する、時間

 両手は背後に回され、それぞれの手首に巻かれた枷同士が金具で繋がれる。
 両足も同様に赤い革を巻かれ、ベルトをはめられ、二つが金具で繋がれる。
 両の二の腕には、飾りとしての赤い革枷が巻かれ、最後に一切飾りのない深紅の首輪をはめられる。
 細く短いベルトと棒状の口枷は使われず、脇に転がされる。
 手足の自由が奪われていく間、僚は黙ったままじっとしていた。
 これでもう、抵抗は出来ない。
 抵抗する気など、ありはしないが。
 僚の目の前で、男が鞭を拾い上げる。
 白濁液にまみれた乗馬鞭の握りを僚の鼻先に突きつけ、神取は静かに言った。

「舐めて綺麗にしなさい」

 言葉と同時に、握りから濁った液体が滴り落ちる。

「……はい」

 かすれた声で応え、僚は口を開いた。自らが放った雄の匂いに、頭の芯がかっと熱くなる。
 僚はおずおずと舌を差し出し、汚してしまった乗馬鞭を舐め始めた。
 朱色の舌が、淫らに動いて黒い乗馬鞭を舐める。
 鮮やかで毒々しいコントラストに、男の嗜虐心が激しくかきむしられる。

「口を開けて咥えるんだ。私にするように、唇で扱いてごらん」

 言われた事を、僚は一瞬遅れて理解した。
 痴態を強制する男に胸がずきりと痛む。だが、そこまでの事を自分はしたのだ。
 男の怒りをこれ以上募らせないよう、僚は言われた通りに鞭を咥え込んだ。
 男の目に、自分はどんな風に映っているだろう。
 言われれば、どんな恥ずかしい事だろうと従う自分を、どんな風に思っているだろう。
 考えれば考えるほど羞恥が募る。
 それまで、ただ鞭を差し伸べていただけの男の手が、僚の口内を嬲るように動き始める。

「んぅ……ん」

 くぐもった呻きを上げ、僚は微かに身を引いた。
 それを追って、神取は容赦なく手を伸ばした。

「はっ…うぐ……」

 舌の根基を押され、わずかに吐き気が込み上げる。
 喉を上下させえづく様を見ても、男は手を引く事はなかった。
 思わず涙が滲む。

「う、く……」

 しばらくの間僚を弄び、ようやく男は手を引いた。引き出された口から唾液が糸を引いて床に滴る。
 肩で息をつき、僚は深くうなだれた。

「苦しい方が、感じるようだね」

 下部の変化を視線で指摘され、僚ははっと身を竦めた。恐る恐る目を上げると、冷たく光る男の視線とぶつかった。
 薄笑いを浮かべているが、目だけが笑っていない。
 そこにあるのは、紛れもなく支配者の貌だ。
 射竦められ、僚は息も出来ずただ震えた。
 許しを乞う言葉すら浮かんでこない。
 だというのに、下半身だけは熱く滾っていた。
 心を離れ、ひどい扱いを望んでいた。

「そんなに、この鞭が気に入っているのか」
「そういう――」
 そういうわけじゃない

 そう言い終える前に男は僚から離れ、ベッドサイドの引き出しから鉛色のピルケースを取り出した。
 言葉を半ばで飲み込み、男の動作を見守っていた僚は、それを目にした途端はっと息を飲んだ。
 震えながら大きく目を見開く少年に軽く笑い、神取はケースを開いた。

「これが欲しい?」
「………」

 僚は喘ぐように息をついた。
 覚えている、思い出す。初めて使われたのは、男に鞭をねだった時だ。その日初めて鞭を受けた。自分から痛みを欲したのだ。
 それまで鞭など、ただこちらを傷付け苦しめるだけの忌むべき対象だった。鞭を振るう人間は、自分を痛め付ける恐ろしい存在だった。それでもあの頃の自分にはそれがどうしても必要で、バラバラになった自分の苦しみを晴らしてくれる唯一のものだった。
 肌が裂けて血が滲むほど打たれて、泣き叫ぶ間だけ、救われる。
 そんな錯覚に陥っていた。
 それほどバラバラに、滅茶苦茶になった自分を、男は連れ戻してくれた。そして本当は何をする為に行為があるのか、一つひとつ教えてくれた。一歩ずつ、男への信頼が積み重なってゆく。
 だから、男の鞭を欲した。
 それまで怖い対象だったものを男が覆してくれたから、きっとこれも…そんな望みを持って、ねだった。
 その時鞭と一緒に、玩具と薬も使われた。
 印象を塗り替える為に。
 怖いだけのものではないと教え込む為に。
 けれど、玩具はともかく薬は散々であった。もう二度と、あんな醜態を晒したくはない。思い出すのも苦しい、底なしの甘い時間を味わった。
 その後は薬を拒絶した。
 男も了承した…許可を得てから使うようにする、と。

「僚、これが欲しい?」

 だから男は聞くのだ。
 そして僚にとって、今だけは、断れない瞬間だった。だが心のどこかでは、欲していた。また、あの、みっともない自分を見てほしいと、密かに望んでいた。
 どこまでも肉欲に溺れ、浅ましく欲しがり続ける自分を見てもらいたい。どれだけ乱れるか知ってもらいたい。
 僚は喉を鳴らした。
 神取は薄く笑ってケースに目を落とした。

「口を開けなさい」

 そして、ひどく優しく僚の顎をとらえる。
 無理にこじ開ける事はせず、彼が自ら開くまで顔を見つめたままじっと待つ。

「……はい」

 ごく小さな声で応え、僚は言われた事に従った。
 神取は親指と人差し指で舌の上に薬を乗せると、手を引きながら舌先を軽くなぞった。
 じれったい感触に、僚は小さく声をもらした。

「出してはいけないよ」

 優しく微笑み、僚の頬をそっと撫でる。
 そして脇に転がしておいた棒状の口枷を拾い上げると、向かい合ったまま枷を噛ませ金具を止める。
 革の匂いと歯にあたる感触に、僚はわずかに顔を歪めた。
 出したら許さない、とは決して口にしないところに、男の真の恐ろしさが見え隠れする。
 いけないと言われた事をしたら、どうなるかわかっているね
 そう含んだ言葉だけを、いつも投げかけてくるのだ。

「薬は、ゆっくりと効いてくる。ゆっくりと味わいなさい」

 頬を撫でていた手を下へ下へ滑らせ、勃ち上がりかけた僚のそれを軽く弾く。
 弾かれて、一際大きくそれがわななく。
 僚の呻きは口枷に遮られわずかばかりがもれた。
 男の手が、僚の傍に置かれた最後の革枷を拾い上げる。
 短い革帯に紐がついたそれは、性器を拘束する為のものだ。
 それを根元に巻き付け、紐で結び固定する。

「これでいい」

 全身の装飾を終え、男は満足げに口端を上げた。
 惨めな状態を晒す自らの下部を、僚は切なく見下ろし、小さく肩を震わせた。

「シャワーを浴びて戻ってくるまで、大人しく待っておいで」

 訴える僚の眼差しを微笑みで無視し、神取は隣接する洗面所へ向かう。
 扉の向こうに消える男の背中を、僚は呼び止める事も出来ずただ見送った。
 静かに扉が閉められる。
 後には、やがて来るだろう快感に苦しめられるだけの、憐れな少年が残った。

 

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