Dominance&Submission

悪くない

 

 

 

 

 

 アパートの玄関を開けると、たちまち熱気が肌にまとわりついてきた。
 夕刻に差し掛かってもまだ空は明るく、昼間の日差しよりも多少は和らいだとはいえ蒸し暑さは変わらない。
 これが買い物の為の外出ならばため息の一つも出るところだが、これから男に会う、一緒に練習する時間が待っていると思うと、手も足も心までもが軽やかになった。
 鍵をかけ、しっかり確認した桜井僚は、斜め掛けを背負い直し待ち合わせ場所に向かって意気揚々と歩き出した。
 アパートの前の緩い坂道を辿って、まっすぐな道の向こうに目を凝らすと、見慣れた車が止まっているのが見えた。
 嬉しさが込み上げ、自然歩みが早くなる。
 僚は小走りに踏みしめ、信号が変わるのを今か今かと待った。視界の端で信号機を確認し、目玉のど真ん中で、車の中にいる男をじっと見つめる。そしてそのまま、青になった歩道を横断し、路肩に停車している車の助手席に滑り込む。

 

 窓の向こうに広がる夕暮れの街並みを眺めながら、食事を進める。
 店内はほどよく空調が効き快適だ。
 同じようにディナーを楽しむ客たちのお喋りがさざなみのように響く中、二人もまた今週あった事を口々に交わしながら分厚いステーキ肉を頬張った。
 僚は切り分けた肉をもりもりと食べ、セットでつくパンをこれまたもくもくと口に運び、食事を楽しんだ。その食べっぷりの良さに、神取鷹久は嬉しさを口元に表した。
 毎度思う事だが、あの身体のどこにそんなに入るのかと感心してしまう。
 すると、視線に気付いた僚が口に運ぶ手をぴたりと止め、気恥ずかしいのか参ったと苦笑した。
 遠慮する事はないとすすめる男の声にしばし葛藤し、僚は開き直って口を開けた。
 ここぞとばかりに食べているように見えるだろうが、美味くて手が止まらないのだから仕方ない。朝も昼もしっかり食べたつもりだが、腹具合はまだまだ入りそうなのだ。前菜もメインも付け合わせも、どれもこれも美味くて舌が躍る。
 男と食べる食事は殊の外美味くて止まらない。
 またこの、パンの大きさが絶妙なのだ。程よくしっとりとしてほんのり甘みがあり、料理に合って、つい何度でも手が伸びてしまう。バターで、ジャムで、何もつけずに、何個でも入ってしまう。
 男と他愛ないお喋りをしながらかぶりつき、気付けばバスケットの山盛りがすっかり削れていた。
 さすがに食べ過ぎかと、僚は自分の事ながら驚くやら呆れるやら、目を瞬いた。

「デザートは入りそうかな?」
「ああ……」
「もう一杯?」
「いや……充分入る」

 僚はもごもごと答えた。食い意地が張っていると笑われても仕方ないやと、やけっぱちの笑顔になる。しかし男はにっこり嬉しげに笑い、それでこそと頷いた。

「うん……あの、あれだよ、練習前の腹ごしらえだよ」
「ああそうだね、では、今日もいい音を聞けるのを楽しみにしているよ」

 

 レストランでは自信なさそうに苦笑した僚だが、なんのその、期待通りの響きが音楽室一杯に広がるのを、神取は満足そうに見守った。
 素晴らしい集中力に感心する。
 満腹で眠気に見舞われるかと心配したが、杞憂に終わった。
 練習後五階に戻っての反省会の時、僚自身も、腹がきついくらいが自分はちょうどいいのかも、なんて、笑った。

「今日は特に良かった。あんなに良いものを私が独り占めしていいものか…本当に、とても贅沢な時間だった」

 手放しの絶賛に僚は口をへの字に曲げた。男の教え方がいいから、俺の才能がどうとか、もごもごと早口に述べる。
 すると男の手が、テーブルに無造作に置いていた左手を掴んできた。どきりとして僚は目を見張った。

「中々いい演奏家の手になったね。これがすべてを物語っているよ」
「鷹久には、かなわないけど、でもまあ……」
「ああ、充分だとも。君が楽しんでくれるのが、何より私は嬉しい」

 自分も嬉しいと、僚は手を握り開いた。そしてさりげなく離し、先にシャワー浴びてくると席を立った。
 見送りながら神取は、もう少し彼に甘えたかったのにと後姿を名残惜しく見つめた。

 

 だから風呂上がりの彼を捕まえて、一緒にソファーに座る。
 隣に腰かけようとするのを強引に膝に乗せ、神取は後ろから抱きしめた。
 洗い立ての髪の匂い、石鹸の奥からうっすら立ち上ってくる首筋の匂いを吸い込み、これだと満足して笑う。

「……なんだよ」

 リビングに戻るなり捕まえ、がっちり抱え込んで離さない男に、僚はいくらか低い声を出した。耳元を嗅がれ、くすぐったくてたまらない。身をよじって抵抗する。

「君の匂いは安心するんだ」
「………」

 背後からの力の抜けた囁きに、僚は風呂上りとは違う熱が体内を巡るのを感じた。

「そっちだっていい匂いだよ。俺好き」

 前に逃げようとしていたのをやめ、僚は肩にもたれかかった。少し伸び上がって男の頭を片腕に抱き、耳の後ろに鼻を押し付ける。

「煙草の臭いはあまり好ましいものではないだろう」
「ううん、悪くない」

 ちょっと煙草の臭いが混じって、大人の男って感じで、うっとりする。どきどきする。
 そんな言葉を耳元で呟かれては、とても平静ではいられない。
 膝の上で、犬のようにじゃれついてくる身体はまだほんのり熱い。腹の底がざわめいて仕方ない。床から浮いた足をぶらぶらさせ、両手で大きく伸びをしながら寄り掛かってくる僚に目を細め、神取は唇を寄せた。寸前目が合い、またもどきりと胸が高鳴る。
 このまま押し倒してのしかかって、激しく抱いてしまいたい…が、まずは風呂で汗を流そう。
 先ほど男が感じた名残惜しさを、今度は僚が味わう事になる。
 丁寧に膝から下ろされ、すうすうと寒く感じる背中をソファーの背もたれに押し付けて、僚は歩き去る後姿を見送った。
 出てくるまでの間、テレビでも見ていようか、音楽でも聴こうか。
 しんと耳を塞ぐ静寂に一つため息を零し、僚はどちらもせずじっと待つ事にした。
 途中、ふと思い付き自分の腕を嗅ぐ。しっかり洗った石鹸の匂いが、まだほのかに残っている。
 今に、同じ匂いをさせた男があの扉から出てくるのだ。
 まだかな。
 もうすぐかな。
 遅れてやってきた満腹からの眠気にとろんと目を伏せ、僚は聞こえてくる物音に耳を澄ませた。
 今に、もうじき、男が戻ってくる。
 夢うつつを漂いながら、僚は静かに待った。

 

 待ちわびてソファーで眠ってしまった僚を前に、神取は軽く首を傾けた。
 目の前には、とても気持ち良さそうに、無防備に眠る彼がいる。
 このまま静かに寝室に運んで、起きるまで寝かせてやりたいと思う傍ら、余すところなく貪り尽くして味わいたいとも思っていた。
 せめぎ合いに葛藤していると、何やらいい夢でも見ているのか、彼の口がむにゃむにゃと動いて可愛らしい声を零した。
 神取は傍らに跪き、微かに開いた唇にそっと接吻した。
 またむずむずと口が動き、嬉しそうな形を取った。
 どんなものよりも愛おしいと強く思った。
 何よりも大事にしたい。
 愛したい。
 自分なりのやり方で。
 瞼にかかる前髪をそっと退けてやり、神取は額に、眦に、頬に、順繰りに口付けた。

「困った子だ。こんなところで寝て、風邪を引いたらどうするのかね」
「……引かない」

 思いがけず返事があった。それはどこか寝ぼけた声で、実際寝ぼけているのだろう、無意識の寝言のようなものだった。
 ひと言の後、僚はぼんやりと目を開いて、ここはどこだと問うように男を見つめた。それから明確に覚醒し、ごめんと言いながら小さくあくびをした。

「おかえり」

 嬉しさにとろけた声で抱き付いてくる僚に、神取は待たせたねと抱き返した。
 やけに鼓動が早いのは、風呂上がりのせいだろうか。それとも、これから彼とする事に胸が高鳴っているからだろうか。
 男は支配者の貌でゆっくりと笑った。

 

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