Dominance&Submission

君としか出来ない事

 

 

 

 

 

 今日の彼は、随分と苛々をため込んでいるなと、神取鷹久は思った。
 表面上はそれほど変わりはない、八つ当たりめいた刺々しい言動もなく、静かにひっそりと怒りを纏っていた。
 苛々しているのは自分自身に対してで、今、練習中であるチェロを思ったように操れない自分に怒りを向けていた。
 ついさっきに続いてまた、音が濁った。
 そこで舌打ちをしたり弓を振り回したりといった事はしないが、見てわかるほど、自分に苛立ちを抱えていた。
 上手くいかない日、というのは誰にでもある。プロの演奏者とてそうだ。体調はもちろん気分の変動に影響され、いつでも具合よく波に乗れるわけではないのだから、これからの彼は尚更だ。
 だからそんなに自分を責めずともよいのだが、彼はどうしても許せない性質のようだ。
 さて、彼が上手く出来ない自分に苛々を抱えているのは分かったが、そもそもの原因は何か。
 薄々理解していた男は、練習後の反省会での雑談で、より確信する事になる。
 ひとしきり反省部分を話し合って、二人で次回の目標を立てた。
 次こそはちゃんとやるぞと、強気の眼差しで語る彼に、男は頼もしいと目を細めた。
 挙がった問題点を楽譜の各所に書き込みながら、彼…桜井僚は、出された紅茶をぐびりと煽った。
 四月も目前、今日も春めいた陽気で昼間は少し汗ばむほどだった。そして練習での疲れもあるだろうから、余計に喉が渇くのだろう。
 神取はさりげなく二杯目を注ぎ、礼を言う彼に目配せで微笑んだ。
 しばし互いに茶菓子を摘み紅茶を飲んで、沈黙が続いた。
 先に口を開いたのは僚だった。
 暖かく過ごしやすかった今日のこと、最近買った新商品の日用品が中々便利なこと、気を付けているのについうっかり忘れてしまう行動などなど、あっちへ飛んではこっちに戻りつしつつお喋りに花が咲く。

 

 こういう時間は本当にいい、他愛ないお喋りのなんと楽しい事か。
 シャボン玉のようにぷくぷく生まれぱちぱち弾ける小気味よさに、神取はじっくりと浸った。
 正面では僚が、もっと一杯喋りたいと、いくらか早口で笑ったりしかめっ面をしてみせたりと忙しなく表情を変えている。
 男は同じように笑い、渋い面になり、また笑い、僚が本当に話したい事に移る時を焦らず待った。
 彼には、話しづらい事を口にせねばならない時、少し急いた口調になる癖があった。
 早口の時がいつでもそうという訳ではないので杞憂に終わる事もあったが、今回はその通りであった。
 妙なひと息の間を挟んで、僚はリビングのゲーム機へと目をやり、新しいソフトがあるなと言った。続けて…相手に口を挟む隙を与えぬ素早さで、今度やってもいいかとの問いに、神取はぴんとくる瞬間と共に頷いた。
 なるほど、彼が触れたいのはその話題であったか。

「水曜日の夜、連絡と同時に押しかけてきた須賀が置いていったものだよ」
「ああ、やっぱり」

 笑う僚の眼が、複雑な色を揺らめかせていた。
 見た事のある色だと、男は思った。物心ついた頃から今に至るまで、常に向けられてきたものだ。羨ましい、妬ましいと思った時に眼差しに煌くあの色。家柄や境遇、持って生まれた才能に対して、幾度となくぶつけられてきた。遠くからさりげなく、もしくは堂々と真っ向から。
 僚が向けているそれは、自分に対してもあるが、腐れ縁のあの男に対してのものが大きいようだ。

「もし遊んでみたいならしばらく持っていくといい。あれもそのつもりでここに置いていくのでね、遠慮はいらんよ」
「ああ、うん、ありがと」

 でも大丈夫と、僚は笑顔で頷いた。その表情をよく観察しながら、神取は密かな思考を続けた。

「不規則ではあるが、結構な頻度で遊びに来るんだ」

 半分ねぐらにされているようなものだと、神取は苦笑いで肩を竦めた。
 僚は笑顔であったが、曖昧な、濁した返事をした。まあこれは仕方ないだろう。気の置けないクラスメイトとのお喋りならば遠慮なく自分の意見を述べられるが、年齢の差がある以上、言葉選びは慎重になる。
 神取は、反応をうかがいつつ言葉を続けた。

 

 昼夜問わずやってきて、小一時間ほどゲームをしたり愚痴を言い合ったりごろごろと過ごして帰っていく。
 困った奴で、夜の場合は酒を飲んで泊まっては優雅に朝寝坊、須賀の秘書が済まなそうに迎えに来る事もある始末だ。

 

 ここで思い切り笑ってくれと、神取は少し大げさに身体を揺すった。
 僚の反応は今一つで、神妙な顔で頷いてばかりだった。同じ調子で言えない分を埋める為にか、しきりに紅茶のカップに手を伸ばしていた。
 ならばと神取は、ポットに残った分を全て注ぎ、助けにした。

 

 彼とは――。
 一緒に酒を飲めない。
 子供の頃の話が出来ない。
 経営者同士の語りも出来ない。

 

 だが、それ以外で数えきれないほど語り合う事がある。
 年齢の差で躓く事もあるが、程よい敬意と気さくさが絶妙に混じった彼の振る舞いはとても好ましく、それは他の誰にも真似の出来ない、他の誰とも違う、彼と自分だけの特別なものだ。
 長い付き合いの、腐れ縁の奴めとしか出来ない事があるように、 彼としか出来ない事はたくさんある。
 だからどうか、そんな目で私を見てくれるな。
 願いを込めて男は、最後のひと口を飲み干す僚に眼差しを向けた。
 いたずら心が湧いたのは、受け皿にカップが静かに置かれた時だった。
 ポットには五杯分の紅茶を用意した。普段は大体自分と彼とで半分ずつ空けるが、今日はそのほとんどを彼は飲み干した。半分ずつの普段、大抵彼はこの後用足しに行っていた。あれだけ水分を取るのだから当然だ。
 神取はほんの微かに口端を緩め、椅子から立ち上がった。なんだろうと目を向ける僚に微笑みかけ、カップの取っ手から膝に戻ろうとする手を取って、甲に口付ける。

「!…」

 長い身体を恭しく曲げて接吻する男に、僚は目を見張った、どんな時でも綺麗に動く人だと、しばし見惚れる。
「では、僚、君としか出来ない事をしようか」

 

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